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■2009/10/05 (Mon)
ca4fa40f.jpgチャンの父親が死去し、イタリア中華料理店「上海」を相続して一ヶ月が過ぎた。
中華料理店「上海」は、巨大企業グループに目をつけられ、毎日のように土地を売却せよと迫られていた。
6b465963.jpgチャンはもちろん拒絶したが、企業は中華料理店にチンピラを送り込み、嫌がらせをして客が寄り付かないようにしてしまった。
窮地のチャンは、香港の伯父の元に手紙を送り、弁護士を派遣するように嘆願した。
そうしてやってきたのは、英語すら充分に喋れないタン・ロンだった。
5f16fab3.jpg従業員たちは日本の空手を習っているが、非常に弱い。なのに、カンフーを習い始めた途端、極端なくらい強くなる。あからさまに、日本の武術を揶揄した設定だ。このような日本蔑視の場面がいくつもあるので注意が必要だ。ついでに言うと、胴着を着ているが構えも動きも空手とは違う。
4457cba2.jpgあまりにも頼りなげなタン・ロンに、チャンはあきれ果ててしまうが、とりあえず自分の店へと案内した。
中華料理店「上海」には客の姿は一人もなく、従業員はチンピラを追い返すために空手の練習を始めていた。
c0fc97bf.jpgそんなとき、チンピラの一団が中華料理店に乗り込んできた。
空手を習っていた従業員たちは、勇み立ってチンピラたちに立ち向かっていく。だが空手ではまったく歯が立たず、一瞬でチンピラに倒されてしまう。
2207512d.jpgそこに、タン・ロンがチンピラの前に立ちはだかった。
タン・ロンは数人のチンピラを、たった一人で倒し、カンフーの力を見せ付ける。これを切っ掛けに、企業側はより嫌がらせは寄り過激になっていった。
タン・ロンは様々な嫌がらせを退けていくが、企業側は、日本とアメリカからそれぞれ最強の刺客を呼び出し、タン・ロンと対決させようとする。
578b74d7.jpg096ea93e.jpg『最後のブルース・リー』からは美意識など感じられない。前半部分は何を伝えたいのか不明。物語の軸がないまま、映画が進行していく感じだ。

映画『最後のブルース・リー』は劇場作品としてはあまりにも凡庸で、撮影技術の低い映画だ。
平面的な構図ばかり続き、時々極端なクローズアップがあるだけで、それ以上の技術的な撮影は見当たらない。
物語も直線的どころか、意味のない言葉のやり取りが続き、あちこちで脱線を繰り返す。ブルース・リーが華麗なるアクションを見せるまで、40分が浪費される。
俳優の演技も劇場映画とは思えない陳腐さで、テレビのコントでも見ているような気分になってくる。
e3e4024c.jpg日本人に対する嫌悪感は強烈だ。日本人はザコ扱いとして容赦なく叩きのめされる。日本語の台詞があるが、何を言っているのか不明。映画にはイタリアの名所を巡るシーンがあるが、ことあるごとに「中国のほうが素晴らしい」と比較する。国粋主義的な部分が強い映画だ。
b19159d4.jpgブルース・リーの原動力となっているのは、日本人や西洋人に対する、明快なルサンチマンだ。
『最後のブルース・リー』の物語を要約すると、ブルース・リーの下に日本人とアメリカ人が刺客として送られ、それをカンフーで撃退するとe8f5a3a1.jpgいう内容だ。
日本や西洋といった他文化へのコンプレクスを、隠そうともごまかそうともせず、直裁的に描かれている。日本人は態度ばかりでかいだけでアメリカ人に簡単に屈服するし、そのアメリカ人もブルース・リーのカンフーで撃退されてしまう。
中国文化とカンフーの優越性を強調するための映画だ。まるで、どこかの国のプロパカンダ映画のような作品だ。
b074ca60.jpgクライマックスのコロッセオの戦いだけが素晴らしい。スローモーションのブルース・リーの動きは実に美しい。前半の無駄部分のため格闘シーンは少ないし、戦いは常に一方的に進行するので、戦いとはとてもいえない。コロッセオの戦いはその中でも唯一、戦いらしい戦いを見せてくれる場面だ。
それでも『最後のブルース・リー』はある一点において、魅力的な輝きを放つ映画だ。
ブルース・リーが上着を脱ぎ、格闘演技を見せる瞬間、突然に映画は魅力的に輝き始める。ブルース・リーの動きは力強く、それでいて美しい。ステップを踏みながらのアクションは、踊っているようですらあった。
それまでのあまりにも退屈で平凡な印象は、ブルース・リーの肉体が動き始めた途端、別種類の映画へと変化する。
ブルース・リーただ一人が映画を背負い、華麗なるショーを見せる映画である。
ブルース・リーの肉体演技は、今もフィルムの中で輝き、永遠に残り続けるだろう。

映画記事一覧

作品データ
監督・脚本・音楽:ブルース・リー 音楽:ジョセフ・クー
出演:ブルース・リー ノラ・ミヤオ
〇〇〇チャック・ノリス ロバート・ウォール
〇〇〇ジョン・T・ベン ウォン・インシク



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■2009/10/04 (Sun)
e0cac645.jpgbf8694e5.jpg物語の前夜、大きな台風が町を通り過ぎる。主人公のデヴィッドの家では古い木が倒れこむ大惨事だった。仕事場は全壊し、電気も通らなくなった。どうやら緊急のため、食糧を買い込む必要がありそ07da27dd.jpgうだ。
デヴィッドは息子のビリー、隣人のノートンと一緒に街のスーパーに向かった。
スーパーでは同じ目的で緊急の食糧を買い込む人でごった返していた。街の人たちはにわかにそわそわし始めていたが、まだ平和な風420f2ca9.jpg景だった。
しかし突然に血まみれの男がスーパーに飛び込んだ。
「霧の中に“何か”がいる!」

――霧?
霧とは何のことだ?
困惑している間に、霧が瞬く間に漂ってスーパーを覆ってしまう。霧は異様に濃く、視界のすべてを覆ってしまう。確かに普通の霧ではない、何かの事件を予感させていた。
霧の中に何かがいる。
しかしそれがなんなのかわからない。とにかく、危険な何かがいる。
6238af46.jpgbf93c295.jpg霧が街全体を覆い、人々はそのままスーパーに篭城する。霧や怪物などはCGなどで描かれる。デジタルの精度にはさほどのこだわりを感じないが、映画のテーマはそこが中心ではないから問題ではないだろう。
69c8761d.jpgこの映画には、派手な音楽もエフェクトもない。あまりにも静かに、人間が閉鎖空間の中で変質し、狂信的に狂っていく様が描かれる。
怪物映画だが、怪物の登場は控えめだ。要所要所に登場し、少し見る者を脅かす程度だ。怪物の造形は今時の映画ではよくありがちなもので驚きはない。物語やシチュエーションも、過去映画において何43e533c3.jpg度も繰り返された形式だから、取り立てて新しいと思えるビジョンはない。
よくある状況によくある人間模様。怪物映画の定番シーンは全て網羅している、と言っていい。
しかしあえて取り上げるならば、人間の描写である。映画『ミスト』は38223cb4.jpg怪物の恐ろしさを取り上げた映画ではない。人間の心理こそを映画のテーマにしている。
スーパーという閉鎖空間。スーパーの外は霧でほとんど視界が遮られ、恐ろしい“何か”がいる。その“何か”が何なのか具体的にわからない。だからスーパーに集った人々は、そこから一歩も出ることがでb59e4b1b.jpgきない。
スーパーという日常空間は、恐怖に捉われることによって次第に異常空間に変貌する。人間の理性が次第に剥がれ落ち、蛮性をむき出しにさせ、原始宗教に傾倒しはじめる。文明化されたはずの人間の精神が、いかに脆いかを描き出す。映画のカメラは、人間の文明的05a90f79.jpgな精神がいかに崩壊していくかを、淡々と静かに捉え、描いていく。
e42830bd.jpgフランク・ダラボンは脚本家時代には、意外にも『エルムガイの悪夢3』や『ザ・フライ2』などを手がけていた。だから恐怖映画はフランク・ダラボンにとってホームなのだ。他に、脚本作品に『プライベート・ライアン』fdba1526.jpgなどがある。
監督であるフランク・ダラボンは『ショーシャンクの空に』と『グリーンマイル』のたった2作で巨匠と呼ばれるようになった人物だ。そのフランク・ダラボンが通俗的な怪物映画と制作する。
大丈夫か、と思ったのは最初の5分だけだ。人間の心理描写は、どbdf46b57.jpgの映画よりも繊細で深い。怪物の登場という異常状況が、むしろフランク・ダラボンの個性を強烈にしている。
このジャンルの多くは、主人公のみが冷静な理性として描かれる。しかし映画『ミスト』の視点はもって冷徹だ。主人公は超人ではないし、予見者でもない。主人公ですら、大きな状況の一つに過ぎず、ただdc81d177.jpg大きな状況に飲まれるだけだ。
人間の理性は危うく、信用が置けない。主人公はスーパーの人々とは違って特別な理性を保っているように思えたが、実際にはある程度の個人的自立性を維持していただけに過ぎない。
ここでは多くを語れない。
映画がどんな経過をたどり、どんな結末を迎えるか。それは自身の目で確かめるべきだろう。

映画記事一覧

作品データ
監督:フランク・ダラボン
音楽:マーク・アイシャム 原作:スティーヴン・キング
出演:トーマス・ジェーン マーシャ・ゲイ・ハーデン
〇〇〇ローリー・ホールデン アンドレ・ブラウアー
〇〇〇トビー・ジョーンズ ウィリアム・サドラー
〇〇〇ジェフリー・デマン アレクサ・ダヴァロス



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■2009/10/03 (Sat)
335d194d.jpgaa8cfbf8.jpgそこは、“神の街”と呼ばれる場所だった。
貧しい街で、子供たちは銃を手に強盗の日々を過ごしていた。そんなある日、少年の一人、リトル・ダイスがモーテル強盗を思いつく。
8b71be52.jpgf47fb0ca.jpg少年たちはモーテル強盗を成功させるが、これを切っ掛けに警察の手が回ってしまう。少年強盗団は、この一件で壊滅したかに思えた。
ただ一つ、リトル・ダイスが行方不明のまま……。

10年後。街に、リトル・ダイスが戻ってきた。
リトル・ダイスは容赦のない暴力で、またたく間に街の支配者になる。リトル・ダイスの統率によって、街は、図らずも平穏を取り戻すことになった。
しかし、それは次なる抗争の切っ掛けであった。
b213c741.jpg018cbaec.jpg無味乾燥な新興公営住宅外。いったい誰がそこを“神の街”と名付けたのだろう。理想なき住宅計画は、いつしか荒廃したスラムへ。更正不能の悪ガキどもの巣窟となる。こんな街では、警察は拳銃携行、ヘルメット装着は当り前だ。


映画は、少年達が暴力に飲み込まれていく様子を、独特のカットセンスで描いてく。
全体を通してリズム感があり、暴力にすらユーモアがあり、引きこまれるものがある。凄惨な暴力描写が多く、いつの間にかあらゆる暴力が“ただの行為”として受け入れている我々がいる。
93500f50.jpgd64350c9.jpg左は18歳にしてギャングのボスの座に就いたリトル・ダイス。18歳とは思えないコワモテ。ギャングたちはほとんどが未成年。中には右のような年端のいかない子供もいる。リトル・ダイスは、子供に銃を持たせて「人を殺してみろ」と勧める。この街では、こんな背徳行為も普通の光景なのだ。

d674dcc2.jpg“神の街”は荒廃した街だ。
少年たちは、未来に希望がなく、日々過ぎていく日常にも意義を見出せない。そんな少年たちを活気付かせるものはただ一つ。殺人と強盗だった。
手段を選ばず、ただ金を得ること。あるいは金や品が手に入らなくても、暴れまわれる場所さえあればいい。その結果として、金がおまけ7560eb33.jpgのように手に入ればなおいい、といった具合だった。
“神の街”ではあらゆる労働に有意義は見出せない。どんな努力も報われず、一瞬の隙で何もかもが崩壊してしまう。だから少年たちにとって、暴力だけが唯一意義のあると思える行為だった。
a4ed939e.jpg退屈な日常は少年たちを無気力にさせ、刺激を求め不法行為に導こうとする。映画の語り手であるブスカ84afa235.jpgペ(左)は「正直者はバカを見るだけ」と悪事に手を出そうとするが失敗する。本当に悪党になるには、資質がいるのだ。

子供にとって、完成された社会など、退屈以外の何物でもない。子供はどこまでも奔放で、秩序だった意識などはない。その上に残酷で、89aaf66b.jpg異常なほどに欲望とプライドが強い。
そんな子供の中でヒーローになれる奴は、いつの時代も決まっている。
一番力強くて、暴力的な奴だ。そんな奴が“気に入らない大人”を叩き壊してくれる、と期待が集る。
f93c171c.jpg最悪の悪ガキはいつか街の統率者になる。
baa5e32a.jpg次に始まるのは、悪ガキ同士の殺し合いだ。大人たちがやったように、子供たちは同じやり方で同じ状況で殺し合いを始め、最後には自分達より若い子供に殺される。

“神の街”は子供たちに更正など望んでいない。腐敗した街は、住民に堕落と放蕩を望んでいる。
犯罪が日常的な街にとって、麻薬取引はやはり日常だ。
犯罪者が統率する街においては、犯罪は一種の事業となって、一般社会との結びつきを持ち始める。
そうして悪ガキどもが中心となる、一つの社会を形成するのだ。それは近代の都市が生んだ、もう一つの“蠅の王”だ。

映画記事一覧

作品データ
監督:フェルナンド・メイレレス
原作:パウロ・リンス 脚本:ブラウリオ・マントヴァーニ
音楽:アントニオ・ピント エド・コルテス
出演:アレクサンドル・ロドリゲス アリシー・ブラガ
〇〇〇レアンドロ・フィルミノ・ダ・オラ セウ・ジョルジ
〇〇〇ドグラス・シルヴァ ダルラン・クーニャ



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■2009/10/01 (Thu)
絵画は自由だ。そして、力を持っている。
画家は具象を自在に変形させ、キャンバスに自らの意識を刻印させる。
レンブラントは、成功した画家だった。
だから成功した者が誰もが抱く、うぬぼれと万能感を同時に持っていた。
それが、レンブラントを失墜へと導いていく。
ac84b7b5.jpg32b3780d.jpgレンブラントと妻のサスキア。二人は多くの肖像画、絵画の中に“出演”しているが、映画の俳優はよく似ている。
132ddea2.jpg
レンブラントはすでに成功した画家だった。
工房を構え、多くの弟子を抱え、いくつもの発注をこなしていた。
そんなレンブラントのもとに、大きな絵の依頼が舞い込んでくる。
da00268c.jpg市民隊隊長バニング・コックを中心とする、18人に及ぶ集団肖像画だった。
渋るレンブラントだったが、サスキアの勧めによって仕事を引き受ける決断をした。
49eda0af.jpgaae6f3ee.jpg仕事を引き受けるレンブラントだったが、なかなか構図が決められない。モデルに様々な格好、ポーズをとらせて試行錯誤する。

9c23dacb.jpgだがすぐには構図が決まらず、レンブラントは悩む。
18人の人物をどのように配し、描けば美しい絵画にまとまるのか。
そんなときに、事件は起きた。
市民隊の一人、ハッセンブルグが殺された。
bda07328.jpg訓練中の事故で、銃弾がハッセンブルグの右目を撃ちぬいたのだ。
同時に、レンブラントは市民隊に関わる、よからぬ噂を聞く。
団員が孤児院で、未成年を強姦をしているというのだ。
レンブラントは、集団肖像画をつかって、市民隊への告発を思いつく。
8a05280f.jpg805b48a8.jpg通常の映画と違い、グリーナーウェイ映画は、セットが一つしかないという事を隠そうとしない。むしろ、そうであることを特色としている。

d79fad0d.jpgピーター・グリーナーウェイらしい映画だ。
グリーナーウェイ監督の作品は、映画から写実的な構造を破壊し、舞台演出的な構成を持ち込むことで自信の個性を刻印する。
カットで分割された時間的連続はなく、グリーナーウェイ映画では、舞台演劇のように、一つの舞台で時間と場所の凝縮が行われる。
92a36980.jpg4bb114f3.jpgレンブラント的な絵画の特徴を再現するカット。ただ、登場人物が多すぎて、頭に入りにくい。あくまでもレンブラントが何をしたか、何を絵画に込めたかを見るべき。
同時に、作品はレンブラントを題材にされている。
だから、構図の一つ一つはレンブラントの絵画を強く意識している。
どの場面も色彩はセピアにまとめられ、レンブラント・ライトと呼ばれるほのかな光線の中に浮かび上がり、ろうそくの明かりが役者の顔を染めている。
光と闇。群がる群衆の顔。
どれもレンブラント絵画に見られる特徴だ。
3b5336ff.jpg下のウェキペディアからのリンクを見てわかるが、実際の『夜景』は昼の光景を描いた明るい絵画だった。他にも、実際と会わない部分は多い。映画中では「すぐに捨ててしまおう」とあるが、実際には70年近く火縄銃手組合集会所に飾られていた。

映画は、レンブラントが大作『夜警』を完成させ、その後の失脚した理由を描く。
『夜警』はレンブラントの代表作であり、美術の教科書には必ず掲載される作品だ。
だが、レンブラントは『夜警』を切っ掛けに、なぜか仕事の発注がなくなり、築き上げた財産をなくしてしまった。
それは何故なのか?
55aa419a.jpg映画の出来に不満の火縄中手組合。レンブラントを失脚させようと企む。しかしどう見ても、メイドの色仕掛けに引っ掛かって勝手に転落していっただけ。映画中の転落は監督の想像。実際は死後急速に批評家達に伝説化された作家で、生前から忘却が始まったわけではない。レンブラントが突然、画業を辞めてしまった理由は謎のままだ。
『夜警』は実に謎めいた絵画である。
精密な光を描いた作品だが、どの人物も光のあたり方、影の向きが違う。
最も大きな謎が、絵画の中央、やや左にいる女性だ。
周囲の男達に較べて極端に小さく、まるでスポットライトのような光が当てられている。
『夜警』は団員たちが帯びている品や、光や構図、その圧倒的印象にも関わらず、細部において不可解な部分が多い。
もし、この『夜警』に我々が知らない秘密が込められているとしたら?
映画は、『夜警』に込められた秘密に肉迫していく。

ウィキペディアの『夜警』へ

映画記事一覧

作品データ
監督・脚本:ピーター・グリーナウェイ
出演:マーティン・フリーマン エミリー・ホームズ
〇〇〇マイケル・テイゲン エヴァ・バーシッスル
〇〇〇ジョディ・メイ トビー・ジョーンズ
〇〇〇ナタリー・プレス ジョナサン・ホームズ



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■2009/10/01 (Thu)
「子供が子供だった頃、腕をブラブラさせ、小川は川になれ、川は河になれ、水たまりは海になれ、と思った」

e8af7e91.jpge83ff0d4.jpgベルリンの遥か天空――。街を見下ろす黒い影の男。
有翼の天使。彼らは、いつもベルリンの街を見下ろし、触れた者に希望を与えている。
52227bef.jpg6b9f5894.jpgベルリンの住人は、時々視線を感じたように空を見上げる。
――そこに何かいる?
決して視覚の中に現れない存在。天上の住人。肉体を持たぬ者。天使。

115a2585.jpg「語れ、詩の女神よ! 世界の果てに流れ着いた、幼児にして老人。万人の鏡である語り部、ホメロスを。わが聞き手は、時とともに読み手となり、もはや車座にならず、孤独に机に向かい、他人は意に介さない」

8b36bb25.jpgやがて天使は肉体を渇望し始める。
彼らにとって、世界は概念でしかない。世界のすべてを知っているが、肉体に触れるものは何もない。全てがその身体を透き通っていく。
だからこそ、肉体を渇望し始めた。
体の重さを、風の冷たさを、苦しみと痛みを。刺激と苦痛。地上の者を捉えている全ての試練。あるいは、快楽。
切っ掛けは恋だった。
サーカスのブランコ乗りであるマリオン。
天使はマリオンに恋した。天使はマリオンに会うために翼を捨て、人間世界に降りた。
92e8abe6.jpg45c28dea.jpg地球儀は世界のモデルであり、写真は現代の記憶様式だ。かつてのように、言葉で語り継ぐものは少なくなった。言葉で記憶していても、やがて読む者も言葉を知る者もいなくなってしまうだろう。

9764bb28.jpg「世界は黄昏ていくようだが、私は語り続ける。昔と変わらぬ、歌の調子で。物語は、世の混乱に足を取られず、未来に向かう。幾世紀をも往来する、かつての、大いなる物語はもう終わった。今は一日一日を思うのみ。勇壮な戦士や王が主人公の物語ではなく、平和な者のみが主人公の物語」
7bf17b7d.jpg4dfdd3f8.jpgマリオンは主人公である肉体の象徴である。だから肉体を強調する仕事に就いているし、肉体はエロティックに描かれる。


07af34ec.jpg映画『ベルリン・天使の詩』は言葉とイメージの断片で綴られていく。映画中に、大きな事件やドラマは起きない。
空中を散策する天使と、その天使が見て聞いている全て。天使は人々が心の中に封じた言葉を聞くことができる。多くが絶望と哀しみ、人生の黄昏。天使がそっと触れると、ネガティブな感情にほんの少し0ebd5deb.jpgの希望が与えられる。
8d485473.jpgわれていくものが歴史だ。言葉は歴史である。歴史の断片が言葉だ。生と死は、いずれも歴史を残す行為である。歴史を語るのは生きる者の義務だ。

2c7b889b.jpg
言葉だけがかつてを記憶している。我々は時間をいつも前方向に追いかけ続け、前方向に引き摺られていく。それに矛盾するように、我々は過去を求め探り、とどまろうとする。
だが過去は失われ行くものだ。
88386daf.jpg世を去った英雄も、失われた場所も――言葉の狭間にすべてが残されている。
語り継ぐ間だけ、その人間と場所を記憶される。言葉が語り継ぐ世界は、神話的な夢想世界を彷徨い、いつか虚構となる。言葉の狭間に落ちていった記憶は、いつの間にか現実の世界から消え去ってしま25e8686a.jpgう。
天使は実体世界の存在ではない。遥かな上空を彷徨う、概念の存在だ。あるいは、言葉が作り出した存在。人間の思念が言語で構築されるように、天使は言語概念の雲の上を歩き、人々に希望という名の言葉を与えている。
天使は概念でしかないからこそ、普遍でいられる。しかし概念の存在だからこそ、何も感じることはできず、色彩を感じることもできない。
cfe5d4cd.jpgちなみに、この映画はドイツの東西分裂を題材にした映画とされている。モノクロとカラーで描き分けられるのも、壁の向こう側とあちら側を意味している(カラーで描かれるのが東側、だろうか?西側がモノクロで憂鬱に描かれるのは?)。戦争の映像が挿入されるのもは、東西分裂の切っ掛けとなる事件を描くため。だからタイトルも『ベルリン』なのだそう。

7b4d2bee.jpgef274705.jpg印象的な言葉と画像の羅列である。
フィルムも映画も俳優も、言葉という概念に過ぎない。その概念を刻印するように映像が綴られている。
映画『ベルリン・天使の詩』には多くの人5d4e6637.jpg間の想念の集まりのように描かれている。ある種の群像劇であるかもしれない。
大きな事件は起きないが、いくつもの言葉の積み重ねによって描かれていく。様々な人間の、まとまりのない言葉の集り。ただの愚痴でしかないものもある。
それが不思議と詩の情緒を持ち始める。そんな映像と言葉の集積が、映画そのものを語り始めるのだ。

映画記事一覧

作品データ
監督:ヴィム・ヴェンダース 音楽:ユルゲン・クニーパー
脚本:ヴィム・ヴェンダース ペーター・ハントケ
出演:ブルーノ・ガンツ ソルヴェーグ・ドマルタン
〇〇〇オットー・ザンダー クルト・ボウワ
〇〇〇ピーター・フォーク



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