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■2013/04/11 (Thu)
もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら

447d4dee.jpeg一般的には『もしドラ』の呼称で親しまれているようなので、本ブログもそれに倣おうと思う。
『もしドラ』が岩崎夏海により描かれたのは2009年。経済と野球という特異な組み合わせを題材にしたこの小説は、萌絵を表紙とした装丁という第3の組み合わせによってにわかに注目され始め、翌年には様々な賞を得るという栄冠を得て話題を加速させ、ダイヤモンド社出版書籍としてははじめての100万部突破という記録を打ち立てた。
これがわずか3年前。その当時は誰も彼も『もしドラ』の話題をしていた。メディアは『もしドラ』一色という大騒ぎだった。『もしドラ』という作品あるいは、それに関連するコンテンツに無関係でいることができず、結局日本中で常に誰かが『もしドラ』を話題に挙げて語っているという状況だった。それくらいに『もしドラ』はいつでもどこでも目に付き耳に聞く、といった活況を呈していた。

これが劇場映画として封切られたのは2011年の6月。あの話題の大ヒットベストセラーの映画化。総合プロデューサーに秋元康、当時“国民のアイドル”の代名詞を得ていた前田敦子がヒロインを演じ、失敗はあり得ない、成功が約束された作品――そう信じられていた。
しかし蓋を開けてみると無制限に騒ぎの渦を広げていくマスメディアに対して、映画の興行は思ったほどふるわず、批評は芳しくなく、圧倒的だった『もしドラ』旋風は潮を引く勢いで萎んでいった。全国320スクリーンで公開され、公開初日2日の観客動員数は14万人を越えるという、なかなか悪くないスタートを切ったにもかかわらず、その後成績も話題も伸びず、むしろ長引けば長引くほどに悪評が雪だるまのごとく大きく膨らんで奈落へと転がり落ちていくようであった。
劇場公開から数年が経た今、『もしドラ』という作品を振り返る者はなく、そんな作品があったことすら思い返す者もなく、あのマスメディア上で展開されていた空騒ぎはいったい何だろうか、とそらぞらしい印象ばかりが残る。
では果たして、映画『もしドラ』とは何だったのか、当時の渦のように巻き上がっていた世論から外れた今、静かな思いで振り返ってみようと思う。

02.jpg映画のストーリーはまずまずの内容だった。
ビジネス書としての側面であるドラッカーの『マネジメント』は前半部分にすっきりまとめられ、映画は野球部員達の青春物語を中心としている。『マネジメント』の解説も主要な言葉だけがピックアップされて、映画の物語を阻害していない。わざとらしく登場してくる石塚英彦と青木さやかの小さなやりとりのお陰で、「マネージャーをやりたい」と言う女子高生にビジネス書を買わせるという奇妙な疑問が解消された。直前にビジネス書を買いに来た青木さやかがいたから、店員は勘違いしたのだ。
石塚英彦と青木さやかは『マネジメント』を解説するために再登場するが、このシークエンスがその他の場面から明らかにイメージを変えており、映画に楽しげな色添えをしている。
映画の物語は野球部員たちの葛藤を中心に描かれていく。それぞれの関係や、感情の行き違い、それら一つ一つを明らかにして和解し成長していく物語が瑞々しい感性の中に描かれていた。その物語の進行のさせ方は、それなりに合理的で、順当なプロセスをきちんと踏まえた上で描かれている。脚本を担当した岩崎夏海は、ここで初めて実力を発揮した。

03.jpgならば問題点はどこなのか。
まず映像にキーとなるものが見当たらない。どの場面もぼんやりとした照明が当てられ、観客にどこを見てもらいたいのか、何を感じて欲しいのか、あるいは作家としての主張はどこなのか、ぼんやりとした“ただの映像”があるだけだった(もっとも、最近の観客は真面目にコントラストにメリハリを付けると「画面が暗い!」とクレームを付けるらしいから、そのレベルに合わせている、という見方もできる)。セットの中にはそれなりに作り込んだ小道具がひしめき合っているのだが、それらがあまりにものっぺりとした照明の中で描かれるから、映像に接した印象も弱く、美意識の力も感じない。構図にこだわりがなく、単純に俳優のみにフォーカスが向けられた映像の羅列は、場面毎の個性が弱く、キャプションを作って並べるといったいどこのカットがどのシーンなのかすらわからなくなる。
音楽はただの伴奏曲に過ぎず、物語の詩情を引き上げる役割を果たさず、単に場面に合わせたリズムを作るだけ、映画の小さなスケールの下にさらに小さく隷属しただけであった。

04.jpgさらに問題ありだったのは野球部員達を演じた若手俳優であった。全員がことごとく棒読み。演技といえば、せいぜい怒鳴ったり喚き散らしたりするだけで、およそ演技とは言いがたい代物だった。彼ら若手が“演技のつもり”でできることは、せいぜい叫んで喚くことだけなのである。
バットを構えた姿は腰に力が入っておらず、単にバットを手に立っているだけといった感じである。エキストラのほうがよほどいい構え方をする。
よくよく出演俳優のリストを確かめてみると、俳優はたった一人、大泉洋だけだった。映画の中心から俳優が消え、アイドルばかりが注目されて、俳優はアイドルの影で黒子の役を演じる……そういう今の映画界の状況を象徴するようなキャスティングだった。
また映画には季節感が完全に排除されていた。物語中では、川島みなみがマネージャーとして加わってから少なくとも1年近い時間が過ぎていたはずなのだが、そういった時間の経過がまったく感じられない。一度だけ冬服を着ている場面があったから少なくとも冬を越している筈なのだが、季節が感じられる場面はせいぜいそのワンシーンのみであった。時間の経過が感じられるように作られていないから、川島みなみが『マネジメント』を持ち出してその後は、いきなりご都合主義的に部員達が成長した、というふうに見えてしまう。
ご都合主義といえば、第3のヒロインである宮田夕紀の死だ。何ら予兆もなく、部員達の繋がりも曖昧なまま、突然に死亡して愁嘆場が描かれる。映画を、あるいは物語をクライマックスに結びつけるための足がかりとして作者に殺害された、そういう感じである。宮田夕紀の死に必然的な経緯が描かれておらず、プロットの上にこの死が有機的なものとして設計されていれば問題ないが、無理矢理殺した、という感じでしかない。ただし、ベンチに宮田夕紀の帽子を置いておくアイデアだけは良かった。

05.jpg一番の問題ありだったのは、主演の川島みなみを演じた前田敦子だった。世間的には“国民的アイドル”と絶えず賞賛を浴び続けている時代を代表する人物である。しかしそのルックスは、ヒロインというイメージとはあまりにもかけ離れていた。
顔面が中央に寄りすぎている、というだけではなく、目の周囲が黒く沈んでいて、そこだけが異様に浮き上がって見えてしまい、そんな容貌だから観客を惹き付ける必要のあるシリアスな場面でも何となく笑いがこみ上げてくる。前田敦子の顔面が出てくる度に、映画は青春群像劇ではなくコメディに変質する。
そう、前田敦子の顔面は明らかに、あからさまに、議論の余地がないくらいに「コメディ向け」なのだ。恐らくは笑いの間合いをしっかり身につけ、いつでも引き出せる訓練をすれば、コメディ女優としての道が開けるだろう。
本人としては女優のつもりで演技に励んでいるが、どんな場面もコメディに変えてしまう。例えば宮田夕紀の死の後、自分だけが病状を知らされていなかったことを知り駆け出す場面、あの走り出す姿は一級のコントであった。演技力の有無ではなく、有無でいえば確実に無なのだが、それ以前におそらくコメディ女優としての天性の才能が先立っていると考えられる。
06.jpgバットを構えて立っている姿は論外である。かつて小学生リーグのエースだった、という設定があまりにも嘘くさくなる棒立ちであった。映画はバットを振った瞬間にカットを切り替え、次に飛んでいくボールを捉え、何となく当たったように見せかけ、さらに野球部員達のささやかな賛辞を間に挟み込んでいるが、そのように演出すればするほどに映像が胡散臭く、しらじらしいものになってくる。
もう一人のマネージャ、北条文乃を演じた峰岸みなみも、丸い顔に、目鼻口のパーツが下へ行くほど小さくつづまり、前歯ばかりがやたら目立つ顔面は、やはりアイドル映画のヒロインを演じるには不充分なルックスである。丸顔をごまかすための両脇に垂らされた奇妙な触覚が、終始気になって仕方がなかった。こちらもやはり、コメディ向けの顔をしているのである。
物語の最後は、走り出した川島みなみが転んだ拍子に、謎の空間に迷い込んでドラッカーと遭遇する場面が描かれる。それはもはや形容不能なシュールな瞬間である。川島みなみは『マネジメント』を用いて野球部員達の意識を改革させたが、その後は野球部員達の間にいかなる関係も築かなかった。野球部員達との繋がりや絆が、川島みなみの心情を引き戻すほどには結びつきを作っておらず、また映画はそういったふうには描いていなかった。あの最後の場面においても野球部員達は川島みなみという彼らのプロットの中から浮かび上がった油のような存在を引き留める術はなかった。そこで最初に掲げた命題であるドラッカーに立ち返りドラッカーがネゴシエイター役として出現するが、条理を超越した出現に、あまりのご都合主義に、我々はただ唖然と傍観するしかなく、しかもドラッカーは目の前に立ちふさがった問題をさらに上をいくご都合主義で解決してしまったのである。

映画『もしドラ』は野球部員達の青春群像劇として見るとなかなか悪くなく、『マネジメント』を応用するというアイデアもスパイスが利いているが、しかしどこかで何か掛け違えたものが横たわり、それを解決するためにしばしばご都合主義的に物語が強引に押し進められてしまっていた。それぞれのプロットがひとつのところにまとまっておらず、未解決で放り投げてしまった部分があり、そこが浮いて見えてしまったのだ。いっそのこと……川島みなみというキャラクターを消し去り、宮田夕紀が病室で野球部員達を指揮して勝利に導く、という物語の方がプロットはすっきりまとまったのかも知れない。

07.jpg『もしドラ』は出版されてから以後、異様ともいえるメディア展開で当時の話題を完全に独占した。今に至るも、実用書、ビジネス書、哲学書に萌絵を掛け合わせる商法は現役で、様々な本が絶えず出版され続けている。『もしドラ』がその中でも個性的だったのは、『マネジメント』と一件無関係に思える野球を組み合わせ、さらに物語として自立した魅力を持てたからだ。これが、他作品と一線を画し、かつ現在に至っても独自の個性を放ち続けている部分である。
が、実際には解説書としても文学作品としてもエンターテインメントとしても中途半端で、あからさまに身の丈に合っていないプロモーションの連打の末、結果的にベストセラーの仲間入りができた、という感じである。ダイヤモンド社に100万部という大きな利益をもたらしたことは実に結構。そこは賞賛してもいいところだ。しかし、なぜヒットしたのか、そこまで御輿に担ぐかのごとく話題に持ち上げられたのか。
原作者の岩崎夏海がかつてAKB48のプロモーションに深く関わっていたことや、宣伝に電通が関わっていたこととかは、憶測の域を出ない都市伝説に相当するものに過ぎないので、話題にする気はない。売れたということだけが事実だ。
私の想像に過ぎないのだが――アニメと接点のない多くの一般層の人達は、実は私たちに羨望しているのではないか、そう思うことがしばしばある。
彼ら一般人達は、私たちのようなアニメファンを常に嫌悪し、卑下し、嘲笑し、もちろん関係を避けている。しかし、『もしドラ』を買い求めた人達は、そういった人達なのである。
一般層の多くは、私たちアニメファンが『もしドラ』に夢中になっている、と思い込んでいた。『もしドラ』の表紙にはいわゆる「もえ~」と呼ばれる絵が載っている。この「もえ~」を目当てに、私たちがみんなこぞって買ったのだ……そう信じている。
しかし実際にはそうではなかった。アニメファンが『もしドラ』に下した判定は、あまり良いものではなかった。ストーリー構造も、野球ものとしての考察も、さらにいえば文学としても、無駄に評論意識が高く、また不必要な知識を日々磨き続けているアニメファンを満足させるようなものではなかった。読んだという彼らの中から、作品に対する肯定的な意見を抽出するのは非常に困難な作業になるだろう。
確かにパロディはそれなりに作られたが、それは単に作品が有名だったからというだけで、多くはリスペクトではなく、茶化しただけだった。
「アニメ化されたじゃないか。やはりアニメファンが注目していたんじゃないのか」と誰かが反論するだろう。確かにアニメ版『もしドラ』は話題にされていた。ただし、あまりの出来の悪さに、失笑とからかいの対象にするために取り上げていただけで、誰も真面目に見ている者はいなかった。真面目に見ようという気にさせないくらい、出来が悪かったのである。私はといえば、プロダクションIGというジブリと双肩をなすはずだった国内最高の制作スタジオのブランドが崩壊する様を、絶望的な気分で見ていた。
アニメファンは誰も『もしドラ』を肯定していなかった。しかしおそらく一般層は『もしドラ』はアニメファンの間にこそヒットしているものと信じていた。そして彼らは、私たちが日々夢中になり、楽しげに交わすやりとり、あるいは祭りに加わりたいと思っていた。だから『もしドラ』という世間的な言葉で言うところの「もえ~」のシンボルを求めた。『もしドラ』を買うことで、私たちアニメファンのお祭りに参加できる、そういう期待を抱いて。『もしドラ』は表層的にはビジネス書だし、大ヒットしてみんなが買っているから恥ずかしくない……そんな言い訳も充分できる。
一般人達は、アニメファンを表面的には嫌悪しつつ、実は密かに羨望していて、サークルに加わろうというチャンスを伺っていたのだ。『もしドラ』はそのための絶好のチャンスだった。
――とここまでが私の想像だ。誰が『もしドラ』買ったのか。誰が『もしドラ』を肯定したのか。世間的には私たちアニメファンであると評したが、事実ではない。アニメファン以外が買ったのだ。ではなぜ彼らは『もしドラ』を買ったのか。正しく知識が欲しいなら『マネジメント』を買えば確実だ。それでも『もしドラ』を求めたのなら、その理由は……そう想像を巡らせただけの話だ。実際には、単に乗せられやすい人が流行に乗せられて買った、というのが本当だろうと思う。
それでも、おそらく『もしドラ』は今も「もえ~」のシンボルとして多くの人に記憶されているだろう。『もしドラ』は「もえ~」のシンボルとして繰り返しメディアに取り上げられた。『もしドラ』はマスメディアのいうところの「もえ~」として今後も「もえ~」を説明する度ごとにシンボリックなものとして取り上げるだろう(『もしドラ』の表紙を掲げて「もえ~」と説明してみせるアナウンサーの姿が目に浮かぶ)。世間的に見れば『もしドラ』は、「もえ~」と呼ばれるものとしての地位を充分なくらい確立させることに成功した。しかし『もしドラ』はただの一度も「萌」としてアニメファンから受容されることはなかった。
繰り返そう。
『もしドラ』は「もえ~」であったが「萌」ではなかった。

作品データ
監督:田中誠 原作:岩崎夏海
脚本:田中誠・岩崎夏海 音楽:服部隆之 撮影:中山光一 照明:市川徳充
美術:小泉博康 録音:小原善哉 編集:大永昌弘 VFKスーパーバイザー:道木伸隆
出演:前田敦子 川口春奈 峰岸みなみ
    瀬戸康史 池松壮亮 大泉洋





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■2009/09/12 (Sat)
はるかな天上から、天使がふわりと舞い降りてきた。
少女は、天使の姿をしていて、翼を背負っていた。
天使ははてしなく続く街と、その中でもがく人々を見下ろして、静かに、優しげに微笑む。
74838522.jpg5b5c368c.jpg確かに深田恭子には年齢不詳のイメージがある。深田恭子自身が持っている特性をすくいあげ、天使という通俗的イメージに当てはめて作った作品だ。

コンビニ店員のカトウ。
シングルファザーの吉川。
クラスメイトから仲間はずれにされている瑞穂。
誰もが困難や葛藤を抱えて、言葉にならない苦悩を抱えている。
社会は、すべての人間にカテゴライズされた立場が与えられている。
だが彼らを取り巻く社会は、その人間の参加を承認していない。
ただ「立場」が与えられただけであって、その人間であることは求められず、堅牢なる社会構造の一端であることだけが求められている。
個人としてのアイデンティティすら社会の一部に飲み込まれ、個人としての必要を喪失した現代。
そうした時代の中で展開する葛藤と苦悩の物語。
現代にありがちなテーマの選択だ。
3077b763.jpg42735473.jpg異論はあると思うが、デジタルこそ作家の飛躍したイメージを具現化するツールである。デジタルを使い、どんな作家独自の飛躍したイメージを刻印できるか。だが映画『天使』は通俗的イメージを決して越えない、凡庸な作品に止まった。
映画としては、陳腐極まりない作品だ。
登場人物が非常に多く、様々な状況が同時進行で描かれる。
だが、映画としての厚みはまったく感じられない。
テレビドラマで見るようなコミック的感覚をなにひとつ増強せず、劇場用カメラで撮影しただけの作品だ。
天使の姿にしても、作家独自のイマジナリィはなく、いかにも通俗的なイメージをなぞっただけだ。
宮坂まゆみの作家としての主体性は一片のない、発見を見出せない作品だ。
2a188773.jpg表現者としての基本ルールは、一度なんらかのメディアに使用された表現は『文法』として定着するまで再使用禁止である。作家が気にしなくても、周囲が「パクリだ!」「平凡だ」と糾弾するだろう。だが『天使』は何もかもが通俗的イメージだけで描かれた。それにおそらく監督も原作者も実社会での労働経験がないのだろう。どの瞬間にも厚みはなく、日常の描写すら親しみをもてない。
深田恭子を中心に置いたアイドル映画である。
深田恭子自身の魅力をいかに引き出し、増幅させられるかが、この映画の狙いだ。
天使の扮装をした深田恭子が、自由に飛び交い、言葉なく微笑む。
深田恭子は、はっきりと大人の女性だが、どこか少女的な幼さが漂う。
白い衣を身に纏った姿は、穢れなき存在を的確に具現化している。
深田恭子のために製作された映画であり、深田恭子に魅力を感じさせられるかがすべての作品だ。
もし、そこに陶酔的魅力を発見できれば、映画『天使』は成功したといえるだろう。

映画記事一覧

作品データ
監督:宮坂まゆみ 原作:桜沢エリカ
音楽:吉俣良 脚本:奥寺佐渡子
出演:深田恭子 永作博美 永瀬正敏 内田朝陽
〇〇〇佐藤めぐみ 小出早織 西田尚美 鰐淵晴子
〇〇〇大竹佑季 小林明実 森迫永依 泉谷しげる



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■2009/09/10 (Thu)
f7c4aed3.jpg真夜中にも関わらず、その街は煌びやかな光に満ちている。どんな通りも、影のない場所はない。
ここでは、夜になると人が目を覚ます。
犯罪も夜になると起きる。
不夜城、新宿。
7b252c66.jpg桐生一馬。十年ぶりにムショから新宿に戻った。桐生の帰還を切っ掛けに、様々な事件が起きる。
『竜が如く』は様々な物語が断片的に重なり合う群像劇だ。小さな事件がやがて大きな事件へと繋がっていく。

覆面姿の二人組が、銀行を襲った。
しかし、銀行の金庫には、なぜかわずかな小銭しか残っていなかった。
誰かが、百億円の金を引き出し、現金輸送車が出た後だった。だから、ここにはお金がなかった。
覆面姿の二人は金が手に入らず、しかも警察に取り囲まれて、途方に暮れる。
37211217.jpg3e981cb8.jpg覆面姿の銀行強盗、今西と中西。それを取り囲む刑事。しかし銀行には金はまったくなく、しかもクーラーが切れてしまう。どちらの視点に置いても、絶体絶命の状態。
4c8a5f9f.jpg一方、コンビニ店員の悟は、仕事を終え彼女の唯と合流。
一緒にディスカウント・ショップに入った。そこで、突然のヤクザの乱闘に巻き込まれてしまう。
悟と唯は、とっさにレジカウンターの裏側に隠れる。
そこで、唯は開けたままのレジに気付く。
「お金って、結構簡単に入るじゃん。強盗しよう!」
a32ad2e0.jpgある店で突然、暴動が始まる。巻き添えを食らった唯は、レジ・カウンターの後ろに避難する。そこで、開けたままのレジに気付き……。今時ギャルの唯は、これを切っ掛けに店を襲って金を得る方法を思いつく。

また別の場所。バッティング・センターで真島吾郎がボールを打っていた。
真島は子弟から、桐生一馬が十年ぶりにムショを出たと聞かされる。
桐生は、真島の宿敵だ。
その報告を聞いた真島は、桐生を探しに新宿の町に繰り出す。
04e7d54f.jpg944d1078.jpg強烈なキャラクターで描かれる真島。眼帯・関西弁・バット・無敵。主人公よりはるかに強いインパクト。ある意味、真島が映画の色調を決定したといっていい。ヒット映画なら、スピン・オフがありえたかもしれない。
そして桐生は、謎の少女、澤村遥と一緒だった。
桐生は、遥の母親を探すために、新宿を彷徨っていた。
118f1cbf.jpg72df6d60.jpg澤村遥とその犬。桐生一馬が関わることとなり、物語の核である少女。ところで、犬は野良犬の設定。なのに丸々と太っているのはさすが新宿。


映画は、様々な場面から同時多発的に始まり、進行する。
それぞれがどんな意味と役割を持っているのか、まるでわからない。
ただ状況だけが過剰に迫り、強引に進行し、それぞれの登場人物が事件に巻き込まれていく。
20347ec0.jpgddd6cd09.jpg新宿は日本国内でありながら、物語の中で極めて特殊な表現で描かれることの多い場所だ。日本でありながら、日本ではない、どこかハードボイルド的な世界を想像させる場所らしい。
登場人物たちは、どれも強烈だ。皆、それぞれに特徴を備えている。
そうした登場人物の中では、主人公の桐生一馬はあまりにもステレオタイプに見えて、むしろ埋没していくように見える。
出番も少なく、前半30分のあいだにほんの数回、顔を見せるだけ。台詞は、ごく一言二言だけだ。
いったい、何が起きようとしているのか。
すべての状況は、間もなく桐生と遥を中心に移し、結集していく。
b0f3b74d.jpg写真だけ見ると、往年のヤクザ映画の雰囲気がある。だが、実際はそれとは別物。なにもかもぶっ飛ばすような奇妙な映画だ。ゲーム中の必殺技を再現しているシーンもある。どこかミスマッチな映画だが、はまり込んでみると面白い。

3efac87b.jpg舞台は新宿で、ヤクザものの映画だ。
だが、妙にコミック的で、ユーモアのある映画だ。
暴力シーンでも、一見、往年のヤクザ映画の迫力だが、どちらかといえば役者の鮮やかな動きを捉え、モーションの一つ一つを描き出そうとしている。暴力というより、ダンスのようだ。
それに、奇妙なエフェクトがしばしば登場し、ナンセンスなユーモアが加わる。
『龍が如く 劇場版』は様々な事件が起こるが、合理的な繋がり方をしない。
奇妙な描写に意識を捉われ、我々は何かひとつずつ掛け違えたような、嫌なもどかしさを感じる。
しかし、強引な展開が次々と迫り、強烈なシークエンスが画面を覆い、そのうちにも「もう、どうでもいいや」と思うようになってくる。
「面白い!」と思うようになった頃には、すでに三池監督の演出の手の内だ。

映画記事一覧

作品データ
監督:三池崇史 原作:名越稔洋
音楽:遠藤浩二 脚本:十川誠志
出演:北村一輝 岸谷五朗 塩谷瞬 高岡早紀
〇〇〇サエコ 夏緒 加藤晴彦 哀川翔
〇〇〇田口トモロヲ コン・ユ 荒川良々



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■2009/09/10 (Thu)
1aa6ed12.jpgc745589a.jpgその日、太平洋上の連合艦隊に、新しい司令長官が赴任する。
山本五十六、その人だ。
物語は山本五十六の就任から始まる。

緊迫した時代だった。
戦争の影が去ることはなく、ドイツがヨーc26d8b16.jpg2583a6aa.jpgロッパへの進撃を続け、日本とアメリカの両国はかつてない緊張状態にあった。
日本の軍令部は、アメリカは軍隊を進めてこないと見て、南方資源地帯確保を狙っていた。
だがアメリカは、ハワイに基地を置き、太平洋艦隊を集結させていた。

「もし、アメリカとの戦闘になったら、奇襲攻撃しかない」
日本とアメリカの緊張は、間もなく開戦の可能性を予感させるようになった。
山本五十六は、アメリカの戦力を冷静に把握していた。
日本軍は来たるべき開戦に備えて情報を集め、訓練を繰り返し、着々と準備を進めていった。
8e5895aa.jpga2341e7e.jpg緊張感のない米兵士。高性能レーダーを設置するも「で、何を探すんです」と素人丸出しの軍人たち。右は情報の報告対象から大統領を外している場面。大統領への情報が行き届かなくなった原因だ。ところでご存知のように当初、黒澤明が監督する予定だった。しかし間もなく降板。様々な人が見解や憶測を述べているが、真相は“藪の中”だ。
一方のアメリカには、開戦の予兆はなかった。
軍人たちに緊張感はなく、戦闘訓練もほとんど成果を上げていなかった。
海軍省、海軍情報部だけは日本大使館の情報を傍受し、状況の深刻さを認識していた。
しかし、報告したはずの情報はことごとく大統領の元に届かず、ワシントン隠蔽体質から、必要な情報が現場に報告されなかった。
特にジョージ・マーシャル陸軍参謀長は、“戦争を避けえない場合、アメリカは日本からの第1撃を望む”といった奇妙な伝達を出し、さらに日本からの宣戦布告を1時間も隠蔽して、あたかも日本が一方的な奇襲を仕掛けたように見せかけた。
a814959b.jpg鑑賞前は勝手ながら『パールハーバー』的な映画だろうと思い込んでいた。ハリウッド資本の映画だから、白人優位主義的な作品だろう、と。だが『トラ!トラ!トラ!』はまったく違う映画だった。『トラ!トラ!トラ!』に登場する日本人はどれも聡明で顔立ちがよく、真面目で勤勉な性格に描かれている。特に驚いたのは、会議のシーンが時代劇風だったこと。じっさい当時の軍人は、まだ武士社会の性格を強く残していた。戦闘のプロである以前に、高潔で詩を好む性格だった。『トラ!トラ!トラ!』はその通りに描かれているのが驚いた。
いよいよ真珠湾攻撃が始まろうとしてる。
映画は様々な視点から、開戦に至るまでのやりとりを多層的に描いていく。
真珠湾攻撃に至るまでの数日間、何が起きたのか。
『トラ!トラ!トラ!』では、いわゆるハリウッド的なエンターティメント性は控えめだ。
クライマックスシーンまでに具体的なアクションは一切ない。
開戦が始まるまでの経緯を、歴史映画として過程を追っていく。
67de2098.jpgジョージ・マーシャルの「アメリカは日本からの第1撃を望む」という謎の指示が下され、現場は動揺する。宣戦布告の報告が大統領に届かなかったり、真珠湾の警備を意図的に緩くしたり、不可解な命令が次々と下される。そういうアメリカ側の描写も興味深かった。アメリカ式戦争映画にありがちな、勧善懲悪、戦意高揚、愛国者育成映画とは明らかに異なった、ちゃんと実地調査に基づいて製作された映画だ。個人的な話だが、私は子供時代から「日本軍がいかに悪いか」を教育する映画ばかり見せられていたから、この映画はある意味で衝撃的だった。
歴史考証や、時代考証といった部分に見るべきものがある。
日本は一方的に戦争を求めたわけではないし、現場の軍人は愚かではない。
日本で製作される戦争ドラマのほとんどが、戦争末期の特攻隊とその悲劇だけに限定されて描かれるのを見ると、この映画は新鮮な視点を提供してくれる。
アメリカ側が、秘密主義が徹底されすぎて、情報交流ができず状況を見誤った事実も描かれている
どちらかといえば、日本側に好意的に描かれているようにすら見える。
17e8878d.jpgd211120b.jpg物語の展開は緩慢で、いかにもエンターティメントしているというアクションはほとんどない。全体として静かで淡々とした構成で、ラストの真珠湾攻撃のシーンに入って一転して激しいアクションシーンに突入する。1/1スケールの戦闘機が木っ端微塵に破壊される。この迫力はデジタルでは出せない(ただし、動かないのだが)
4499844f.jpg5491b2e7.jpg驚いたのは、日本側の描き方だ。
日本の軍人は、みんな能力が高く、勤勉で、努力を決して怠らない。
それに軍司令部同士の対話は、まるで戦国時代を題材にした作品のように描かれている。
実際、この当時の軍人は“武士道”の精79cbbf0c.jpg2ae7376e.jpg神を残した、最後の人達だった。
激しい戦闘の最中、今まさに軍艦が沈み行こうというときでも、心静かに詩を読んだと伝えられる。
『トラ!トラ!トラ!』は、ただ「戦争反対」としか言わない最近の戦争ドラマや、痛快なデジタルアクション満載のハリウッド映画などより、はるかに戦争の事実に直面し、真摯に描いて見せた映画である。
今においても貴重な作品と呼ぶべきだろう。

映画記事一覧

作品データ
監督:リチャード・フライシャー 舛田利雄 深作欣二
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
脚本:ラリー・フォレスター 菊島隆三 小国英雄 黒澤明
出演:山村聡 三橋達也 東野英治朗 田村高廣
〇〇〇千田是也 内田朝雄 安部徹 島田正吾
〇〇〇マーティン・バルサム ジェイソン・ロバーズ
〇〇〇ジョセフ・コットン ジェームズ・ホイットモア



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■2009/09/10 (Thu)
a21a840f.jpg時は戦国。争いあう三つの国があった。
野心の強い《山名》の軍勢は、莫大な富を抱える《秋月》を侵略。
激戦の果てに《秋月》を攻略した。
だが、《秋月》の城にあるはずの黄金は、どこにも見つからなかった。
《山名》は何としても黄金を手に入れようと、労働者を動員して、秋月城の地下を掘らせていた。
間もなくして、秋月城の地下から何かが噴出した。
もしや黄金か、と兵士たちが松明をもって集っていく。
だが、それを見た武蔵は「瘴気だ」と気付いて労働現場から脱出。
突如、爆発が起きた。ガスに火がついたのだ。
炎はどこまでも勢いをつけて、原形をとどめていた秋月城は木っ端微塵に吹き飛んだ。
労働者たちに騒動と叛乱が起き、武蔵は騒動のどさくさに紛れて脱出する。
dfb7265c.jpgリメイクされた『隠し砦の三悪人』はオリジナル版と違うイメージで制作されている。主人公二人からして、設定が違う。旧作はスターウォーズのR2-D2とC-3POの元ネタとなった。新しい主人公である武蔵は、はっきりと旧作にない人物だ。主体性を持ち、聡明で美形。旧作の農民キャラとははっきり違う。

50b27ab8.jpg武蔵はそのまま《山名》の軍団から逃げおおせるが、いつの間にか男がついてきていた。樵の新八と名乗る男だった。
武蔵と新八は、人で逃走を続ける。
やがて河原に行き着いて、水分を補給しようと水を飲んでいると、ふと黄金色にe0e015a8.jpg輝く流木に気付く。
なんだろう、と手に取ると、中から出てきたのは黄金であった。
まさか、《秋月》が隠した黄金か。
周囲を見回すと、黄金色に輝く流木はいくつもあった。
だがその直後、山に潜伏する野伏せりの男に、二人は捕まってしまう。
97591c1d.jpg新しい雪姫も旧作とまったく違う人物だ。旧作は美や可憐さとは程遠いキャラクターだった。新しい『隠し砦の三悪人』では、ドラマ部分に深く介入するために、言葉を喋れる設定になっている。



67dccc85.jpg武蔵と新八が連れてこられたのは、谷に隠された秘密の砦であった。
そこは、《秋月》の残党が潜む隠れ家。野伏せりの正体は、《秋月》の侍、真壁六郎太であった。
秘密を知った武蔵と新八は、真壁六郎太に殺されそうになるが、とっ65990fd2.jpgさの機転で「黄金を無事に運び出す方法」を真壁六郎太に教える。
武蔵の機転に感心した真壁六郎太は、役に立つかもしれない、と連れて行くことを決心。
同時に、《秋月》の兵士らも隠し砦の存在に気付き、300人の兵を率いて攻撃を開始。
真壁六郎太は、隠し砦に隠していた雪姫を引き連れ、武蔵と新八とともに脱出を試みる。
2dc13221.jpg左のカットは明らかにダースベイダーだ。樋口真嗣監督は、はっきり『スターウォーズ』世代と公言している。だから『隠し砦の三悪人』のリメイクというよりは、『スターウォーズ』よりの描かれ方となっている。『スターウォーズ』の新邦訳という見方もあるだろう。


345f0577.jpg『隠し砦の三悪人』といえば、名匠黒澤明監督の代表作の一篇である。
困難な状況におかれた三人が、知恵と絞りあって切り抜けていく物語だ。
リメイク作品である『隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS』は、巨匠の傑作に大胆な改変を加え、新たな作品として再生している。
新しい『隠し砦の三悪人』は、実景をさらにデジタルエフェクトによって補強し、より空想的なビジョンを強めている。
リアリズムを持った戦国時代絵巻というより、まったくの空想物語として描くためだ。
映像も俳優も、より洗練されたイメージで描かれ、過去作品の野獣のような印象は薄まった。
俳優はより精悍で、女性は可憐に、男も女も美しく清潔な印象で描かれている。
旧作より明るく、親しみが感じられる映画に変わっている。
2bda3835.jpg樋口真嗣は物語の進行を停滞させてでも、情緒を描き出そうとする。一方、黒澤明はカットの構成を重視しすぎる監督だ。隠し砦に潜む郎党達も、ほとんどがロングサイズで顔の判別がつかず、独白もなかった。一方、樋口監督は俳優にとことんカメラを接近させる。物語に重要でなくても、何かを語らせようとする。この監督の感性の違いが、新旧の違いである。
a01a1f1a.jpg『隠し砦の三悪人』の本質は脱出にある。
あえて困難な状況が設定され、そこからいかに脱出を試みるか。
新しい『隠し砦の三悪人』は、あらすじとシチュエーションだけを旧作と同じに描き、「脱出方法」だけを新しく描きなおしている。
aa971bbc.jpgもしも、あの三人が違う方法で脱出したら。その場合、どのような物語の変化が訪れるのか。(ゲームでいうところの“2週目”的な内容だ)
新しい『隠し砦の三悪人』はそんな“もしも”を描き、大胆なデジタル技術でドラマを補強した映画だ。

3614bbcb.jpg新しい『隠し砦の三悪人』は、旧作が寡黙に思えるくらい、あまりにも雄弁だしずっとスピーディに物語が展開する。
旧作では緩慢に準備されていたあらすじは、わずか20分という剛速球でまとめられている。
どんな場面でも必ず伴奏音楽が演奏され、どのシー68583139.jpgンも印象的にしている。
人間のドラマは、確実に情緒を強める方向で描かれている。
『隠し砦の三悪人』は、アクション巨編としてのダイナミズムはより過激に、ドラマはより濃厚に、エンターティメント映画として楽しめる映画として復活した。

映画記事一覧

作品のデータ
監督:樋口真嗣 音楽:佐藤直紀 脚本:中島かずき
オリジナル脚本:菊島隆三 小国英雄 橋本忍 黒澤明
撮影:江原祥二 編集:上野聡一
出演:松本潤 阿部寛 長澤まさみ 宮川大輔 椎名桔平
〇〇〇甲本雅裕 皆川猿時 小松和重 田鍋謙一郎 古田新太
〇〇〇坂野友香 中村橋弥 生瀬勝久 國村隼 高嶋政宏



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