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■2013/04/11 (Thu)
もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら

447d4dee.jpeg一般的には『もしドラ』の呼称で親しまれているようなので、本ブログもそれに倣おうと思う。
『もしドラ』が岩崎夏海により描かれたのは2009年。経済と野球という特異な組み合わせを題材にしたこの小説は、萌絵を表紙とした装丁という第3の組み合わせによってにわかに注目され始め、翌年には様々な賞を得るという栄冠を得て話題を加速させ、ダイヤモンド社出版書籍としてははじめての100万部突破という記録を打ち立てた。
これがわずか3年前。その当時は誰も彼も『もしドラ』の話題をしていた。メディアは『もしドラ』一色という大騒ぎだった。『もしドラ』という作品あるいは、それに関連するコンテンツに無関係でいることができず、結局日本中で常に誰かが『もしドラ』を話題に挙げて語っているという状況だった。それくらいに『もしドラ』はいつでもどこでも目に付き耳に聞く、といった活況を呈していた。

これが劇場映画として封切られたのは2011年の6月。あの話題の大ヒットベストセラーの映画化。総合プロデューサーに秋元康、当時“国民のアイドル”の代名詞を得ていた前田敦子がヒロインを演じ、失敗はあり得ない、成功が約束された作品――そう信じられていた。
しかし蓋を開けてみると無制限に騒ぎの渦を広げていくマスメディアに対して、映画の興行は思ったほどふるわず、批評は芳しくなく、圧倒的だった『もしドラ』旋風は潮を引く勢いで萎んでいった。全国320スクリーンで公開され、公開初日2日の観客動員数は14万人を越えるという、なかなか悪くないスタートを切ったにもかかわらず、その後成績も話題も伸びず、むしろ長引けば長引くほどに悪評が雪だるまのごとく大きく膨らんで奈落へと転がり落ちていくようであった。
劇場公開から数年が経た今、『もしドラ』という作品を振り返る者はなく、そんな作品があったことすら思い返す者もなく、あのマスメディア上で展開されていた空騒ぎはいったい何だろうか、とそらぞらしい印象ばかりが残る。
では果たして、映画『もしドラ』とは何だったのか、当時の渦のように巻き上がっていた世論から外れた今、静かな思いで振り返ってみようと思う。

02.jpg映画のストーリーはまずまずの内容だった。
ビジネス書としての側面であるドラッカーの『マネジメント』は前半部分にすっきりまとめられ、映画は野球部員達の青春物語を中心としている。『マネジメント』の解説も主要な言葉だけがピックアップされて、映画の物語を阻害していない。わざとらしく登場してくる石塚英彦と青木さやかの小さなやりとりのお陰で、「マネージャーをやりたい」と言う女子高生にビジネス書を買わせるという奇妙な疑問が解消された。直前にビジネス書を買いに来た青木さやかがいたから、店員は勘違いしたのだ。
石塚英彦と青木さやかは『マネジメント』を解説するために再登場するが、このシークエンスがその他の場面から明らかにイメージを変えており、映画に楽しげな色添えをしている。
映画の物語は野球部員たちの葛藤を中心に描かれていく。それぞれの関係や、感情の行き違い、それら一つ一つを明らかにして和解し成長していく物語が瑞々しい感性の中に描かれていた。その物語の進行のさせ方は、それなりに合理的で、順当なプロセスをきちんと踏まえた上で描かれている。脚本を担当した岩崎夏海は、ここで初めて実力を発揮した。

03.jpgならば問題点はどこなのか。
まず映像にキーとなるものが見当たらない。どの場面もぼんやりとした照明が当てられ、観客にどこを見てもらいたいのか、何を感じて欲しいのか、あるいは作家としての主張はどこなのか、ぼんやりとした“ただの映像”があるだけだった(もっとも、最近の観客は真面目にコントラストにメリハリを付けると「画面が暗い!」とクレームを付けるらしいから、そのレベルに合わせている、という見方もできる)。セットの中にはそれなりに作り込んだ小道具がひしめき合っているのだが、それらがあまりにものっぺりとした照明の中で描かれるから、映像に接した印象も弱く、美意識の力も感じない。構図にこだわりがなく、単純に俳優のみにフォーカスが向けられた映像の羅列は、場面毎の個性が弱く、キャプションを作って並べるといったいどこのカットがどのシーンなのかすらわからなくなる。
音楽はただの伴奏曲に過ぎず、物語の詩情を引き上げる役割を果たさず、単に場面に合わせたリズムを作るだけ、映画の小さなスケールの下にさらに小さく隷属しただけであった。

04.jpgさらに問題ありだったのは野球部員達を演じた若手俳優であった。全員がことごとく棒読み。演技といえば、せいぜい怒鳴ったり喚き散らしたりするだけで、およそ演技とは言いがたい代物だった。彼ら若手が“演技のつもり”でできることは、せいぜい叫んで喚くことだけなのである。
バットを構えた姿は腰に力が入っておらず、単にバットを手に立っているだけといった感じである。エキストラのほうがよほどいい構え方をする。
よくよく出演俳優のリストを確かめてみると、俳優はたった一人、大泉洋だけだった。映画の中心から俳優が消え、アイドルばかりが注目されて、俳優はアイドルの影で黒子の役を演じる……そういう今の映画界の状況を象徴するようなキャスティングだった。
また映画には季節感が完全に排除されていた。物語中では、川島みなみがマネージャーとして加わってから少なくとも1年近い時間が過ぎていたはずなのだが、そういった時間の経過がまったく感じられない。一度だけ冬服を着ている場面があったから少なくとも冬を越している筈なのだが、季節が感じられる場面はせいぜいそのワンシーンのみであった。時間の経過が感じられるように作られていないから、川島みなみが『マネジメント』を持ち出してその後は、いきなりご都合主義的に部員達が成長した、というふうに見えてしまう。
ご都合主義といえば、第3のヒロインである宮田夕紀の死だ。何ら予兆もなく、部員達の繋がりも曖昧なまま、突然に死亡して愁嘆場が描かれる。映画を、あるいは物語をクライマックスに結びつけるための足がかりとして作者に殺害された、そういう感じである。宮田夕紀の死に必然的な経緯が描かれておらず、プロットの上にこの死が有機的なものとして設計されていれば問題ないが、無理矢理殺した、という感じでしかない。ただし、ベンチに宮田夕紀の帽子を置いておくアイデアだけは良かった。

05.jpg一番の問題ありだったのは、主演の川島みなみを演じた前田敦子だった。世間的には“国民的アイドル”と絶えず賞賛を浴び続けている時代を代表する人物である。しかしそのルックスは、ヒロインというイメージとはあまりにもかけ離れていた。
顔面が中央に寄りすぎている、というだけではなく、目の周囲が黒く沈んでいて、そこだけが異様に浮き上がって見えてしまい、そんな容貌だから観客を惹き付ける必要のあるシリアスな場面でも何となく笑いがこみ上げてくる。前田敦子の顔面が出てくる度に、映画は青春群像劇ではなくコメディに変質する。
そう、前田敦子の顔面は明らかに、あからさまに、議論の余地がないくらいに「コメディ向け」なのだ。恐らくは笑いの間合いをしっかり身につけ、いつでも引き出せる訓練をすれば、コメディ女優としての道が開けるだろう。
本人としては女優のつもりで演技に励んでいるが、どんな場面もコメディに変えてしまう。例えば宮田夕紀の死の後、自分だけが病状を知らされていなかったことを知り駆け出す場面、あの走り出す姿は一級のコントであった。演技力の有無ではなく、有無でいえば確実に無なのだが、それ以前におそらくコメディ女優としての天性の才能が先立っていると考えられる。
06.jpgバットを構えて立っている姿は論外である。かつて小学生リーグのエースだった、という設定があまりにも嘘くさくなる棒立ちであった。映画はバットを振った瞬間にカットを切り替え、次に飛んでいくボールを捉え、何となく当たったように見せかけ、さらに野球部員達のささやかな賛辞を間に挟み込んでいるが、そのように演出すればするほどに映像が胡散臭く、しらじらしいものになってくる。
もう一人のマネージャ、北条文乃を演じた峰岸みなみも、丸い顔に、目鼻口のパーツが下へ行くほど小さくつづまり、前歯ばかりがやたら目立つ顔面は、やはりアイドル映画のヒロインを演じるには不充分なルックスである。丸顔をごまかすための両脇に垂らされた奇妙な触覚が、終始気になって仕方がなかった。こちらもやはり、コメディ向けの顔をしているのである。
物語の最後は、走り出した川島みなみが転んだ拍子に、謎の空間に迷い込んでドラッカーと遭遇する場面が描かれる。それはもはや形容不能なシュールな瞬間である。川島みなみは『マネジメント』を用いて野球部員達の意識を改革させたが、その後は野球部員達の間にいかなる関係も築かなかった。野球部員達との繋がりや絆が、川島みなみの心情を引き戻すほどには結びつきを作っておらず、また映画はそういったふうには描いていなかった。あの最後の場面においても野球部員達は川島みなみという彼らのプロットの中から浮かび上がった油のような存在を引き留める術はなかった。そこで最初に掲げた命題であるドラッカーに立ち返りドラッカーがネゴシエイター役として出現するが、条理を超越した出現に、あまりのご都合主義に、我々はただ唖然と傍観するしかなく、しかもドラッカーは目の前に立ちふさがった問題をさらに上をいくご都合主義で解決してしまったのである。

映画『もしドラ』は野球部員達の青春群像劇として見るとなかなか悪くなく、『マネジメント』を応用するというアイデアもスパイスが利いているが、しかしどこかで何か掛け違えたものが横たわり、それを解決するためにしばしばご都合主義的に物語が強引に押し進められてしまっていた。それぞれのプロットがひとつのところにまとまっておらず、未解決で放り投げてしまった部分があり、そこが浮いて見えてしまったのだ。いっそのこと……川島みなみというキャラクターを消し去り、宮田夕紀が病室で野球部員達を指揮して勝利に導く、という物語の方がプロットはすっきりまとまったのかも知れない。

07.jpg『もしドラ』は出版されてから以後、異様ともいえるメディア展開で当時の話題を完全に独占した。今に至るも、実用書、ビジネス書、哲学書に萌絵を掛け合わせる商法は現役で、様々な本が絶えず出版され続けている。『もしドラ』がその中でも個性的だったのは、『マネジメント』と一件無関係に思える野球を組み合わせ、さらに物語として自立した魅力を持てたからだ。これが、他作品と一線を画し、かつ現在に至っても独自の個性を放ち続けている部分である。
が、実際には解説書としても文学作品としてもエンターテインメントとしても中途半端で、あからさまに身の丈に合っていないプロモーションの連打の末、結果的にベストセラーの仲間入りができた、という感じである。ダイヤモンド社に100万部という大きな利益をもたらしたことは実に結構。そこは賞賛してもいいところだ。しかし、なぜヒットしたのか、そこまで御輿に担ぐかのごとく話題に持ち上げられたのか。
原作者の岩崎夏海がかつてAKB48のプロモーションに深く関わっていたことや、宣伝に電通が関わっていたこととかは、憶測の域を出ない都市伝説に相当するものに過ぎないので、話題にする気はない。売れたということだけが事実だ。
私の想像に過ぎないのだが――アニメと接点のない多くの一般層の人達は、実は私たちに羨望しているのではないか、そう思うことがしばしばある。
彼ら一般人達は、私たちのようなアニメファンを常に嫌悪し、卑下し、嘲笑し、もちろん関係を避けている。しかし、『もしドラ』を買い求めた人達は、そういった人達なのである。
一般層の多くは、私たちアニメファンが『もしドラ』に夢中になっている、と思い込んでいた。『もしドラ』の表紙にはいわゆる「もえ~」と呼ばれる絵が載っている。この「もえ~」を目当てに、私たちがみんなこぞって買ったのだ……そう信じている。
しかし実際にはそうではなかった。アニメファンが『もしドラ』に下した判定は、あまり良いものではなかった。ストーリー構造も、野球ものとしての考察も、さらにいえば文学としても、無駄に評論意識が高く、また不必要な知識を日々磨き続けているアニメファンを満足させるようなものではなかった。読んだという彼らの中から、作品に対する肯定的な意見を抽出するのは非常に困難な作業になるだろう。
確かにパロディはそれなりに作られたが、それは単に作品が有名だったからというだけで、多くはリスペクトではなく、茶化しただけだった。
「アニメ化されたじゃないか。やはりアニメファンが注目していたんじゃないのか」と誰かが反論するだろう。確かにアニメ版『もしドラ』は話題にされていた。ただし、あまりの出来の悪さに、失笑とからかいの対象にするために取り上げていただけで、誰も真面目に見ている者はいなかった。真面目に見ようという気にさせないくらい、出来が悪かったのである。私はといえば、プロダクションIGというジブリと双肩をなすはずだった国内最高の制作スタジオのブランドが崩壊する様を、絶望的な気分で見ていた。
アニメファンは誰も『もしドラ』を肯定していなかった。しかしおそらく一般層は『もしドラ』はアニメファンの間にこそヒットしているものと信じていた。そして彼らは、私たちが日々夢中になり、楽しげに交わすやりとり、あるいは祭りに加わりたいと思っていた。だから『もしドラ』という世間的な言葉で言うところの「もえ~」のシンボルを求めた。『もしドラ』を買うことで、私たちアニメファンのお祭りに参加できる、そういう期待を抱いて。『もしドラ』は表層的にはビジネス書だし、大ヒットしてみんなが買っているから恥ずかしくない……そんな言い訳も充分できる。
一般人達は、アニメファンを表面的には嫌悪しつつ、実は密かに羨望していて、サークルに加わろうというチャンスを伺っていたのだ。『もしドラ』はそのための絶好のチャンスだった。
――とここまでが私の想像だ。誰が『もしドラ』買ったのか。誰が『もしドラ』を肯定したのか。世間的には私たちアニメファンであると評したが、事実ではない。アニメファン以外が買ったのだ。ではなぜ彼らは『もしドラ』を買ったのか。正しく知識が欲しいなら『マネジメント』を買えば確実だ。それでも『もしドラ』を求めたのなら、その理由は……そう想像を巡らせただけの話だ。実際には、単に乗せられやすい人が流行に乗せられて買った、というのが本当だろうと思う。
それでも、おそらく『もしドラ』は今も「もえ~」のシンボルとして多くの人に記憶されているだろう。『もしドラ』は「もえ~」のシンボルとして繰り返しメディアに取り上げられた。『もしドラ』はマスメディアのいうところの「もえ~」として今後も「もえ~」を説明する度ごとにシンボリックなものとして取り上げるだろう(『もしドラ』の表紙を掲げて「もえ~」と説明してみせるアナウンサーの姿が目に浮かぶ)。世間的に見れば『もしドラ』は、「もえ~」と呼ばれるものとしての地位を充分なくらい確立させることに成功した。しかし『もしドラ』はただの一度も「萌」としてアニメファンから受容されることはなかった。
繰り返そう。
『もしドラ』は「もえ~」であったが「萌」ではなかった。

作品データ
監督:田中誠 原作:岩崎夏海
脚本:田中誠・岩崎夏海 音楽:服部隆之 撮影:中山光一 照明:市川徳充
美術:小泉博康 録音:小原善哉 編集:大永昌弘 VFKスーパーバイザー:道木伸隆
出演:前田敦子 川口春奈 峰岸みなみ
    瀬戸康史 池松壮亮 大泉洋





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