本館と講堂を結ぶ渡り廊下に、午後の陽射しが差し込んでいた。まだまだ冬の寒い空気が残る時期で、陽射しはゆるやかな熱の固まりになって廊下に落ちていた。じわりと白く滲み出すような光の中に、かすかな埃がちらちらと舞っていた。
そんな通りに、澪を先頭に、次に紬、紐で縛った本の束を持った律、それからゴミ袋を持った唯がふらふらとついてきた。
ふと唯が渡り廊下の半ばで足を止めた。開けっ放しになった扉の向うを、唯にしては神妙な顔で覗き込んでいた。
「どうした、唯?」
律が足を止めて振り返った。
「……うん」
唯は考え事をするみたいにうつむく。澪や紬も気付いて唯の側に集まってきた。
「さわちゃんの言ったこと、気にしてるの?」
律が心配するように唯を覗き込んだ。ついさっき、部室でさわ子先生が「留年の可能性がある」なんて話を始めたのだ。からかわれただけだ、とわかっていても、やはり引っかかるものがある。
「そうじゃないんだ。私たちね、先輩としてあずにゃんに何かしてあげるべきだと思うんだ」
思いを告白するように、唯が皆を振り返った。
◇
『けいおん!』が最初にテレビ放送されたのは2009年の春だった。深夜という見る人が限られるニッチな枠だったのに関わらず、『けいおん!』の存在感は同じ時間帯に放送される有象無象のアニメ群の中にあって際立った輝きを放ち、『けいおん!』という作品はあっという間に「深夜アニメを求める特定の人たち」からより広い意味を持った若者層へ拡大していった。翌2010年には第2期『けいおん!!』が放送。TBSアニメは1クールという原則を破って2クールという長丁場でアニメは制作され、唯たちの最後の1年間がより詳細に描かれるようになった。『けいおん!』熱の奔流は勢い留めず日本という国を、あるいは2009年から2010年という時代を駆け抜けていった。
そして2011年12月3日、誰もが待ち望んだ作品がついに封切られた。『映画けいおん!』である。
テレビ版でも重要なファクターとして扱われた渡り廊下。そこを通過すること、留まることで物語や唯たちが置かれている状況が解説されている。劇場版では間違いなく特別な場所に見えるように映像処理が施された。渡り廊下という場所を基点に見ていくと、『けいおん!』という作品への理解が深まる。
『映画けいおん!』はテレビ版を本編とする傍流作品である。テレビ版では描かれたなかった様々な場面を接ぎ穂するようにエピソード描かれている。『番外編 劇場版!』とするのが正しいだろう。
キャラクターの置かれている状況や衣装などで、テレビ版のどことザッピングしているのか容易にわかるように作られている。具体的にどの場面がテレビシリーズのどのエピソードと繋がっているかは、DVD/ブルーレイ発売後に改めてブログに書き足したいと思う。
『映画けいおん!』を一言で表現するならば「脇道の映画」である。大雑把な枠組みとして、唯たちがロンドン旅行するという話があるものの、唯たちの物語やキャラクターの対話はひたすら脇道を突き進んでいく。脇道と小さなネタが調子のいいテンポでいくつも紡がれ、ゆっくりと本筋の物語や舞台に移り進んでいく。いったいシーンの数は全体でいくつになったのだろう、というくらいシーンが矢継ぎ早に飛んでいく。
普通の映画の作法であれば、まず主題を設定し、そこへ向けて物語なり舞台を移していくものだが、『映画けいおん!』は延々脇道と脱線を繰り広げていく。その勢いはロンドンへ移っても相変わらずで、「いかにもそこにドラマが準備され待っています」という組み立てはまったく見えず、脇道と脱線を繰り返しながら、いつのまにか物語は、映画の中心的テーマへ向かっていく。ある意味過剰なくらい「いつも通り」の唯たちの物語が描かれている。「劇場版だから」といっていかにも気負った感じはなく、気合の入った小ネタ集ではあるものの、作品は決して小さくなく、むしろどっしりと構えた大きな枠組みの中に唯たちの“今”が全力で敷き詰められた作品である。
映画の物語作法としてはイレギュラーだが、『けいおん!』らしさが貫かれた『けいおん!』でしかあり得ない劇場映画として仕上がっている。『けいおん!』という作品に深く接し、誰よりも理解している山田尚子監督だから見つけ出せた、より『けいおん!』らしい作法を持った映画だ。
(例えば細田守監督だ。細田守監督作品にはまず明快な枠組みがあり、そこへ向かって迷いなく物語が展開し、その間にロマンスやドラマといった見せ場をバランスよく用意されている。細田守監督は映画の作法をきちんと守っている、わかりやすい例だ。『映画けいおん!』には細田守監督作品のような構造はないが、映像や台詞は魅力的で、惹きつけさせる力を持っている。標準的な映画の作法を持たず、なのに映画としての力強さは圧倒的だ。そこに山田尚子監督の才能の凄さを感じる)
『映画けいおん!』の映像はテレビシリーズ版と比較して、劇的に変わったという印象はない。キャラクターデザインはテレビシリーズ版のものがほぼそのままで採用されたため、線の密度や重量感が「映画だから」といって増強されたわけではない。
しかし『映画けいおん!』の映像に接していると、不思議と映像の世界に包み込まれているような、不思議な充足感に捉われる瞬間がある。確かに線の密度や設定はテレビシリーズからあえて変更が加えられていないが、“そこにあるべき空気”の存在を丹念に、繊細に描かれている。その場所にあるべき暗さや熱の感覚、奥行き。撮影スタッフは、架空の場所である絵画世界を、あたかも実在して呼吸している場所のように仕上げている。例えば教室内の仄暗さ。テレビシリーズでは漠然と描かれてきたが、劇場版ははっきりと光の存在が意識されている。どこから光が差し込んで、どれだけの暗さ、明るさをもっているのか。場面ごとにその差異がはっきりわかるように描かれている。映画という枠組みを持ったことで、生活空間の描写そのものに奥行きが与えられた点も大きいだろう。今まで見えなかった側面が、いくつも見られたのが面白かった。
また音響効果はわずかな足音、布ズレの瞬間を逃さず音を与えている。キャラクターのほんのちょっとした動きにつられて発する音の数々。アニメのキャラクターは当然実在しないわけだが、あたかもそこに実在して、本当に演技した瞬間の音を捉えたかのようにすら感じる。
音響、撮影ともにこの映画において素晴らしい仕事をした。
キャラクターの線の密度はテレビシリーズから変わらなかった一方、動画枚数は非常に多い。ほんの僅かな動き、仕草を油断なく捉える。そもそも作画監督の堀口悠紀子はキャラクターのほんの僅かな動きを逃さず、繊細な動画を得意とし、どんな動きにも暖かい柔らかさを与える作家である。細かい話をすると、手の動き、脚の動きといった原画と原画の間の詰め指示をより丁寧に、ほんのちょっとの動きでもフォロスルーを与えることであの動きが実現できる
(頭では理解できていても、職人的な経験値が必要である)。初の劇場映画の主導的な作画監督に抜擢された堀口悠紀子は、持ち前のセンスを最大限に増幅させて、映画の登場人物に生々しいまでの息吹を与えている。『映画けいおん!』が持っている不思議な温もりや優しいイメージは、現場スタッフの全ての力が合わさった結果だろう。
前半の学校のシーン、家庭のシーンは色彩は特別テレビ版から変わった印象はないものの、どこか仄暗く、閉鎖した印象で描かれている。それが一変するのがロンドン旅行が始まってからだ。舞台がロンドンに移ってから、映像はこれでもかと賑やかに、華やかに、ディティールは線と色彩の洪水という勢いで描写されていく。いかにも「ロンドン旅行」というような観光地を巡っていくだけのものではなく、フェティッシュなレベルでロンドンへ行って目に付いた風景の一つ一つが取り上げられている。ただロンドンへ設定が移っただけではなく、違う空気を持った世界であるということがはっきりと意識されている。「ロンドンへ行く」という映像的な意義や差異が意識されているからこそ描き得たシーンである。
ロンドンから帰って来た後の日常風景の描き方も注目すべきポイントだが――ここからは各々が自らの目で確かめるべきだろう。
劇場版のもう一つの注目どころは、エンディングの澪を主演に据えたPVだ。アイルランドを舞台にした映像集で、本編中ではあえて避けて描かれた唯たちの少女の部分が強調的に描かれている。少女の持つ儚さ、脆さ、屈折が詩的な映像のなかに描かれた美しい作品だ。テレビ版のエンディングより確実に高いクオリティで、尺も長く、それだけで一篇の映像として完成した作品だ。DVD特典にテロップなし版が入っていることを期待したい。
『けいおん!』は女性映画である。実写の世界ではまあまあ珍しくなくなった女性映画であるが、アニメとなると話は違ってくる。私はアニメーションのシリーズ、劇場映画、この両方で女性が監督したという前例を聞いたことがない。監督がたった一人女性、というわけではなく、脚本、キャラクターデザイン、その他、作画スタッフや衣装デザイン、色彩設計
(仕上げはもともと女性比率が高い)、末端に至るまで女性比率が際立って多い作品である。だから『けいおん!』は単に女の子が主人公のアニメという以前に、女性が女の子を描いた作品と読み取るべきだろう。
世界的な通年として、アニメーションの制作現場に女性は少ない。アニメーションの制作はひたすら厳しく、つらく、過酷なものである。しかも、日本ほど安定的な制作体制ができあがっている国は世界を探してもなかなか事例が見つからない。日本以外の場所では、アニメの企画が立てられてそれからスタッフが募集されるが、はじめからアニメーターを専門職をしている人は少ない。そんな業界に女性が立ち入ることは難しく、結果として男性比率が多く、アニメは男性目線になりがちである。
しかし『けいおん!』は世界でも珍しい女性が主導になって制作されたアニメーションである。『けいおん!』の主人公、というかほとんどの登場人物は少女である。“少女”は古くから芸術家のモチーフとして描かれてきた対象である。特にアニメにおいては、執拗
(病的?)といっていいくらい、ある種の性的コンプレクスが少女像に刻印されてきた。
この少女というモチーフを女性が女性の目線で描けばどうなるのか? その回答ともいえるのが『けいおん!』の映画である。
『けいおん!』で描かれた少女たちはとにかくも賑やかで、騒々しいといっていいくらいだ。いかにもかしこまった“かわいい”表情は作らず、いつも捻り、崩され、弾けている。記号的な“かわいい”の羅列はあえて避けられ、時に大げさに顔が崩され、鼻の穴が強調される。ふとすると、可愛いと感じられないのでは? というくらい思い切った描かれかたをしているが、むしろそういう瞬間こそ『けいおん!』のキャラクターたちが魅力的に輝いている。背景にしっかりとした少女像にビジョンが一つのスタイルとして貫かれているからだろう。女性だからこそ描ける女性の“かわいい”と“うつくしい”。女性だからこそ描ける言葉のやりとりや、落書きの継ぎ足し。唯たちは他のどのアニメのキャラクターよりも魅力的で、愛らしく、少女らしさを持っている。
芸術は嘘と真実の間をゆらゆらと行き交うものであるが、アニメはどんな手法よりもより深く嘘と真実の間を潜行していく。山田尚子監督はその実体と方法論を否定せず、真っ向から取り上げ、唯たちを描きこんでいく。よくありがちな、少女を冷たい彫刻のような、偶像としての“ビショウジョ”ではなく、より温もりをもった生命感あふれる“女の子”を描いた。だからこそ『けいおん!』は特別な作品でありえるのだ。
これが『けいおん!』が静かに成しえていた革命の一つだ。
山田尚子監督といえば脚の描写である。フェティッシュなくらい脚を描写するものの、性的ないやらしさはまったくない。山田尚子は脚を描くことについて、次のように語る。「脚は一番素直に人が出るところだから。顔だとわざとらしい。脚には理性が働かないから」(けいおん!!DVD第8巻音声解説より)。脚から人格を描く――いったいどうやって発見したかわからないが、人間の描き方に独自の個性や方法論を持ちえている時点で、すでに立派な自立した監督である。
『映画けいおん!』の公開に向けて、あらゆる場所で『けいおん!』が盛り上がりを見せた。ローソンでは繰り返しタイアップ商品が販売され、デニーズでは『けいおん!』を題材にしたメニューが登場、叡山電鉄にラッピングカーが出現、ルミネエスト、ユニバーサルジャパンで『けいおん!』テーマのイベント。ある日書店へ行くと、多くの雑誌が『けいおん!』を表紙に取り上げ特集をしていて驚かされた。まさに「市場が求めているからこそ」の広がりである。
実は『けいおん!』がいつの間にか達成した“革命”は女性映画という一点だけではない。《宣伝》という部分においても、『けいおん!』は革命的であった。
『けいおん!』は全国130館という規模で公開される。この130館という数字は、通常ジブリアニメやドラえもんでしかありえなかった数字である。しかし深夜発のアニメが、全国130館規模の映画に成長しているのである。しかも、出演キャストがすべてアニメ専門の声優が担当している。
ほとんどの劇場化されるアニメは、プロの声優は広告の後ろに回され、中心に立つのは声優経験のまったくない、知名度のみが優先された素人である。場合によっては、テレビ版のキャストが全て一新され、全員が素人に変更されるといった事例もある。そうでない場合でも、無理矢理でも“ナゾの新キャラクター”なるものが突っ込まれ、そこにやはり知名度優先の芸能人が起用される
(それで最近になって徐々に知れ渡るようになったのは、実写俳優の演技力のなさだ。アニメで描かれた作品が実写化すると、実写俳優の演技力の低さが哀れにすら思えてくる)。『けいおん!』の劇場版はおそらく京都アニメが制作費の一部を出資しているから、ある程度の純度が守られたのだろう。もしテレビ主導で『映画けいおん!』が制作されたら、AK48や韓国アイドルが豊崎愛生に代わって唯たちに声を当てていた可能性だってある。まさか、と思うが、『劇場版シンプソンズ』という実例もある
(「いや、そんな…」と思うかもしれないが、テレビはそういうことを「やらかす」のである)。
私は個人的に、アニメ映画に素人を採用するという《宣伝方法》に疑問を感じていた。映画は大きな予算を掛けて制作される。だからより多くの人に拡散される必要があるから、知名度優先の素人が採用される
(これにはアニメの宿命的“広告下手”が災いしている。ほとんどのアニメ映画は、完成してから映画雑誌の公開スケジュール表の隅っこに載っているのを見かけて、初めてそれが制作されていることを知る、といった状況である。アニメの製作者は、まず《宣伝》について考えるべきである)。確かにそれで映画製作発表などをやると、普段アニメとは接点のない記者が一杯押し寄せてきて、一見注目されているかのような雰囲気が作られる。しかし、果たしてその背後にお客さんはついて来ているのだろうか? 朝や昼のニュースショーを見ると、映画の情報はせいぜいタイトル名が告げられるだけで、あらすじの紹介もなし、映像もなし。話題の中心は「あの熱愛報道について教えてください!」といったものばかりである。果たしてあんな取り上げられ方で本当に《宣伝》になっているのか? とても伝わっているとは思えない。宣伝の効果が怪しいのに、作品のクオリティを犠牲にしてまで素人を起用する理由がわからない。
だが、『けいおん!』はその宣伝の規模の大きさにも関わらず、作品としての“純度”が完璧に守られた実に珍しいケースであり、『けいおん!』の後に道が続いていけばいいと思っている。
とはいえ、懸念要素がないわけではない。かつて「社会現象」と称されたアニメーションは多くあるものの、実際にはそれほど規模の大きなものではなかった。例えば『宇宙戦艦ヤマト』や『風の谷のナウシカ』いずれも封切り最初には長い行列ができたものの、3日目には途切れた。他の多くのアニメ映画でも共通して、3日目には客足が途絶えている。アニメーションはどんなに社会現象と呼ばれようとも、ユーザーの規模は限定されている。純度の高い宣伝方法、制作方法では、予算の回収すら難しいのが現実だ。昨今はアニメ鑑賞者は増えてたと言われているものの、それも漠然とした印象での話でしかない。果たして『けいおん!』は3日目で途絶えてしまうのか? アニメの宣伝方法における道筋を作るためにも、アニメの純度を守るためにも、成功することを願う。
(『けいおん!』人気の影で、大きな歪もあった。『映画けいおん!』の公開直前、豊崎愛生にストーカーが付きまとい、その私生活がとあるブログ上で暴露された。憶測の域を出ない話だが、背後にいるのは韓国とその関係者ではないか、という。豊崎愛生をつきまとったストーカーは、誰もが想像するとおり素人ではないだろう。何かしらの情報に長けたプロと見て間違いない。では、声優を貶めて得すのは誰か? アニメ人気を妬ましいと思っていたのは誰か? その種のプロを雇えるのは誰か? さんざごり押ししたのにも関わらず、思ったほど浸透しない韓流。対して、ろくな広告もしていないのに大人気の深夜アニメ、その代表格である『けいおん!』。条件を当てはめていくと、韓国とその周辺に関係している人たちによる工作活動、という憶測がぴったりくる。もっと条件を絞り込めれば、具体的な誰か、どの集団かまで特定可能だろう)
劇場版『けいおん!』はテレビシリーズは主流とする傍流である。テレビシリーズで説明不足になっていた様々な場面を丁寧に取り上げ、補完するための「もう一つのけいおん!」である。しかしそれでいて、いかにも「番外編映画」ではなく、限りなく純度の高い『けいおん!』である。脇道をひたすら突き進む映画だが、第23話『放課後!』での律の台詞にあるように、「人生の無駄遣い」というのが『けいおん!』の本質である。どこまでも疑いなく脇道に突っ走る、瑞々しい輝きを込めた無駄遣いである。唯たちはいっそ、“風速”と呼ぶべき勢いで、桜高の3年間を、あるいは2009年から2011年という期間の日本を猛烈な勢いで駆け抜けていった。『映画けいおん!』は壮大な脇道の結晶のような映画だが、最高の『けいおん!』だった。
『映画けいおん!』はより純度を高めた『けいおん!』である。そこに描かれるのは特定の時代を描き出した“かつて”ではない。『けいおん!』はノスタルジーではなく“今”だ。全力疾走で生きている唯たちの“今”が描かれているのが『けいおん!』だ。山田尚子監督は、唯たちの“今”という瞬間を、永遠のフィルムの中に閉じ込め、何よりも美しい芸術作品にした。
この作品は、『けいおん!』という作品とキャラクターに対する“愛”に向けられた贈り物である。
作品データ
監督:山田尚子 原作:かきふらい
脚本:吉田玲子 キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子
レイアウト監修:木上益治 楽器設定・楽器作監:高橋博行 絵コンテ:山田尚子・石原立也
色彩設計:竹田明代 美術監督:田村せいき 美術監督補佐:田峰育子
撮影監督:山本倫 撮影監督補佐:植田弘貴 3DCG:梅津哲郎 柴田祐司
音響監督:鶴岡陽太 音楽プロデューサー:小森茂生 礒山敦 岡本真梨子 音楽:白石元
出演:
平沢唯/豊崎愛生
秋山澪/日笠陽子
田井中律/佐藤聡美
琴吹紬/寿美菜子
中野梓/竹達彩奈
真田アサミ 東藤知夏 米沢円 永田依子 中村千絵 浅川悠
中尾衣里 中村知子 MAKO 片岡あづさ 北村妙子 平野妹
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久米田康治作品は、久米田康治自身の個人史である。
ほとんどの創作は、その創作について語られる時、物語やキャラクター、あるいは背景に流れるその当時の社会情勢などが中心に語られる。物語やキャラクター、当時の社会情勢、意識などが充分に解説され解釈を加えられ、それから“憶測”として作者の深層心理が考察される。作者がどうしてその場面を描いたのか、作者はどんな社会に接地して、どんな情報に精通し、どんな判断で題材を選択したのか。そうした諸々の断片をパズルのように組み合わせて、批評家は作家の人物像を作り出すのである。

しかし久米田康治の創作は例外的である。なぜならば、久米田康治作品は、直接久米田康治自身について語っているからである。
久米田康治がどんな意識でその時代の現象に接し、漫画に取り入れようとしたのか。久米田康治が何を好み、何を嫌い、何を尊敬したのか――。そうした心理的なあらゆる傾向が、何もかも包み隠されず漫画の中で描かれ、キャラクターの口から直裁的に語られ、あるいは批評的に描写された。だから久米田康治作品は、久米田康治自身以外の何物でもない。作者自身の心理的な過程そのものが刻印されている。
『かってに改蔵』のDVDシリーズは、久米田康治のおよそ10年にわたる創作の過程を超特急で追いかけようという特殊な企画である。久米田康治のキャラクターの描き方や漫画のスタイルの変化。通常のシリーズ作品であれば、視聴者の混乱を避けてある程度の作家の変化やムラは刈り取られ、平均的な部分のみがピックアップされてアニメーションというメディアに落とし込んでいくのだが、『かってに改蔵』はむしろ変化の自体を克明に、ダイジェストとして描き、『さよなら絶望先生』へと続く久米田康治の作家としての過程を描いている。『かってに改蔵』の原作における作品スタイルがすでに『さよなら絶望先生』に近い形式を持っているために、『かってに改蔵 下巻』ではカット割りや箇条書きの出し方、擬音を女性声優でなぞるやり方まで、何もかもが『さよなら絶望先生』方式で描かれている。
『かってに改蔵』のDVDシリーズは、久米田康治という人物の過程を描き出した、極めて特殊な形態の“伝記”であるという見方もできる。
前回『かってに改蔵 中巻』の記事を読んだ人は僅か数人……10人にも満たない人数だった。繰り返すが、10人を越えなかった。本当にこのDVDシリーズは売れたのだろうか、と心配になる数字である。『かってに改蔵』DVDの売れ行きが『さよなら絶望先生』のアニメ4期が断念された背景と関係しているのではないだろうか。
しかし、『かってに改蔵』の全シリーズをあまりにも端的にかいつまんで映像化されてしまったために、一見様にはあまりにも不親切な内容になってしまっている。原作では変化の過程が1週ごとに丹念に描かれてきたが、アニメではその過程がざっくり切り落として映像化してしまったために、熱心な原作読者でない限り、わかりづらい作品になってしまった
(一度読んだことがある、という読者でも「?」な部分がたくさんあるだろう)。
『かってに改蔵』は確かに1話完結のギャグ漫画であるが、その内容でやらかした多くの事件や現象はデフォルトされずに持ち越され、それがシリーズ全体における変化になっている。キャラクターなどはその一つで、DVDシリーズ上巻と下巻では同じキャラクターでも性格や描き方がまるっきり変わってしまっている。名取羽美の猟奇的な性格に変化したのはあまりにも有名であるが、実際には主人公である勝改蔵も随分違うキャラクターに変わった。坪内地丹などは、もはや人間以外の何かである。
(地丹は変化の大きなキャラクターだったため、アニメ版では前半後半で設定が2パターン作られている)
この変化は中心的なキャラクターだけに留まらず、多くのサブキャラクターたちにも影響を与えている。

そのうちの一つを見てみると、『かってに改蔵 下巻』の第6話Bパートにおいて唐突に登場する色黒の少年である。あの少年は坪内地丹の弟・砂丹である。地丹の弟は第1巻では地丹そっくりの肌の色が違うだけのキャラクターだったが、愛蔵版第10巻第14話226ページに再登場したとき、まるっきり別人のさやわかイケメンとして描きなおされた。

また地丹の妹・牡丹もやはり当初地丹そっくりなキャラクターとして描かれていたが、愛蔵版第11巻第8話125ページにおいて再登場したとき、恥ずかがり屋のメガネっ子キャラとして設定が変更されていた。『かってに改蔵』には女の子キャラはまあまあいるのに、メガネキャラがいないという事態のために急遽書き改められたキャラクターである。
アニメ『かってに改蔵 下巻』の第5話Bパートで、山田さんが学園から立ち去るエピソードが描かれているが、実はこれ、次エピソードのための壮大なフリなのである。原作では「さよなら山田さん」の次に「帰ってきた山田さん」が描かれ、「感動的に去ったと思ったら、すぐに帰ってきた」という笑いになっているのである。

しかしアニメ版では、フリだけでオチが描かれず、ギャグ漫画らしくない不思議な後味で終わってしまった。アニメ版6話Bパートの背景にちらっと登場するのは、「原作では帰ってきたから」である。
ちなみにこの山田さんにちなんだエピソードは
(原作では)この後しばらく続くことになり、山田さんの名前はじわじわと蝕まれてそのうちに山口さんに変わり、実はギャグ漫画の背景で、
山田さん山口さんと砂丹の2人が悪と戦うバトル展開が描かれていたという事実が明らかになる。

アニメ版第6話Aパートでは、地丹がなぜか奇妙なぬいぐるみ姿で登場する。原作を見ると、愛蔵版第12巻第4話64ページで無理矢理着ぐるみを着せられ縫い付けられるシーンが描かれている。それきり脱ぐことができなくなり、次のエピソードでもあの格好のままだった、というわけなのである。

アニメ版第6話Bパート

で、名取羽美に生贄にされている少女が登場する。このキャラクターが最初に登場したのは愛蔵版第12巻第7話116ページである。名取羽美に対する恐怖のあまり、名取羽美の信者になってしまった少女である。その後何度か登場するものの、最後までキャラクター名は与えられなかった。
また、名取羽美は勝改蔵と同棲している。同棲が始まったのは愛蔵版第9巻第3話50ページからである。「勝」の表札の上に、「名取」の名前が貼り付けられてあるのは、そういう理由である。
泊亜留美もアニメでは一度だけしか登場せず、どんなキャラクターなのかわかりにくい。泊亜留美は地丹の後輩で、地丹が片思いをしてストーカーし続けていた相手である。『かってに改蔵』はキャラクターが年を取らない設定の漫画だが、泊亜留美だけは順調に年を取る設定で、初登場時は中学生、次に高校1年生になり、間もなく改蔵たちと同じ高校2年生に、最後には高校3年生になり改蔵たちより上級生になった。アニメ版に登場する泊亜留美は、すでに改蔵たちより一つ上の学年になっている設定である。
最後に、下巻に入り、またしても中巻とは違うキャラクターの描き方が試みられている。ちょっと見て明らかに違うのは瞳の描き方だ。中巻では瞳孔の黒を中心に置き、周辺に向かって何重かのグラデーションを作る方法で描かれている。下巻では、瞳孔の黒を中心に置き、中心地点より上をBLブラック、下部分のみに明るい色が使われるようになった。
原作を改めて確かめると、愛蔵版第11巻第19話でようやくこの描き方で定着したようだ。その以前のエピソードでもこの瞳の描かれ方は何度も試みられているが、移行期間と見られるエピソードがしばらく続いている。最初に瞳の描かれ方が変わったのは、おそらく愛蔵版第11巻第12話182ページ1コマ目の改蔵のクローズアップショットだろう。その後、徐々に瞳の描かれ方は新しいやり方に変わって行き、第19話で完全に以降完了したようだ。
ざっくりとした説明だが、『かってに改蔵 下巻』はこれだけの解説を前に置かないとわかりづらい作品である、と了解したほうが良いだろう。
モブキャラとして出演し続けた新谷良子。『かってに改蔵 下巻』に入り、ついに名前のある役名を獲得したようだ。改蔵のクラスメイトである「しえちゃん」がそれだ。しえちゃんは原作初期から一応登場していたが、いつの間にか名前が与えられ、独立していたキャラクターに成長した。作品と同じように、新谷良子もそれなりの場所に着地したようである。
第5話 バックトゥザTORAUMA
Aパート・イノセントワールド
(愛蔵版第10巻第19話より/冒頭シーン愛蔵版第6巻第8話より)

名取羽美は自転車を押して歩きながら、街の建物を見ていた。ふと商店街の一角が切り崩され、鉄骨むき出しの構造物が組み立てられているのが目に付いた。安全第一のプレートが掲げられ、高い防壁に囲まれ、いま建設の真っ最中といった様子だ。
「再開発か……」
ぼんやりと黄昏れるように言葉を漏らす。
「どうかしたの」
一緒に歩いていた彩園すずが尋ねる。
「昔ここらへん古い商店街があって、私たちの遊び場だったんです」
――それは昭和30年代頃の話。戦後の闇市を辛うじて抜け出せた商店街は、その時代ではそこそこの治安を維持し、人が多く行き交う活気に満ちた場所になっていた。ショウウインドウには新しい時代を象徴するようなテレビや洗濯機といった商品が並び始め、それが大量消費時代の幕開けを予感させていた……。
「まだ生まれてないっつーの! ダメよ、某長期連載ポリス漫画のマネしよーたって」
もとい、せいぜい90年代。この辺りは子供たちの格好の遊び場だった。
「懐かしいなぁ」
「どんな遊びするの?」
過去の思い出に浸り始める羽美に、すずが尋ねる。
「めちゃぶつけとか交差点ベースボールとか、けっこう危ないことして親や先生に禁止されたっけ……」
そんなふうに思い出しながら歩いていると、前方を少し行ったところに改蔵が歩いているのに気付いた。辺りを警戒するようにきょろきょろしながら、こそこそと商店街脇の路地へと忍び込んでいく。
何か怪しい。名取羽美と彩園すずの2人は改蔵の後をついて行くことにした。改蔵はやがて、いかにも怪しい雰囲気を孕んだ、重そうな鉄扉の向う側へと入っていく。その向うは“禁止された遊び”を懐かしむ場所だった……。
Bパート・サヨナラ山田サン
(愛蔵版第11巻第13話より)

「山田さんのためにカンパしてください」
改蔵が安っぽい箱を手に、クラスの一同に呼びかける。箱には「カンパ箱」と書かれた紙がセロテープでいかにも即席という感じに貼り付けられている。
「か、カンパって、まさか……」
しえちゃんが声を震わせながら尋ねる。他のクラスの女の子も、青ざめたり汗を浮かべたりして改蔵を見ていた。
「今まで気付かなかった僕の責任でもあるんです」
突然に、名取羽美が改蔵を殴る。血が点々と散った。改蔵の体が横向きになって吹っ飛び、扉にぶつかった。
紛らわしいが、“例のアレ”ではなかったようだ。
改めて解説すると、山田さんが学費を払えないため、学校を辞めなくてはならなくなったそうだ。
「いいの。私、学校を辞める」
しかし山田さんの言葉に深刻な影はなく、かといって努めて明るさを装うわけでもなく、無感情にそう言った。
実は山田さんには、もっと別の悩みがあった。山田さんには足りない物がある。
とある漫画家には才能がなかった。とある経営者には決断力がなかった。とある政治家には愛国心がなかった。山田さんには……人を好きなる心がなかった。
Cパート・アル意味、貝ニナリタイ。
(愛蔵版第14巻第1話より)

それはとある冬の日のできごとだった。改蔵と羽美は、炬燵に体を潜り込ませながら、のんびりとテレビを見ていた。
「独占中継! おめでとうトニ・タワラちゃん!! 超豪華結婚披露宴!!」
テレビの画面に大きなテロップが画面全面に現れる。それに続いて、披露宴の様子が映される。赤絨毯の上を、真っ白なウェンディングドレスを身にまとった女と、白スーツの男が手を組んでしずしずと歩いていく。
そんな場面を見ながら。
「ぷっ! 自分デザインのウェンディングドレスって……!」
改蔵がさっそく突っ込む。しかし汗を浮かべながら。
「うそお! 8メートルのベールだってさ……!」
羽美も突っ込む。しかし言葉は震えている。
「ウェンディングケーキが地球ってさあ……」
「本人たち出演の再現ドラマって……」
突っ込みはさらに続くが、発言のたびに勢いは弱くなり、ついに何も言えなくなってしまった。
……そこまでやられたら、もう何も言えません。
何事も中途半端にすると叩かれたり悪口言われたりする。だったら徹底的な過剰さをそこに作り出してしまえば、もう誰も何も言わなくなるのではないだろうか。
ハルウララ人気だってそうだ。50~60連敗なら駄馬だ駄馬だとからかわれるが、100連敗もしたら、もう誰も文句言わない。むしろ応援すらしたくなるというもの。
テストの点数だって、中途半端に悪い点数だから叱られる。全科目堂々の0点だったら、親も諦めてくれるのではないか。
というわけで、ここにやりすぎて何も言われなくなった人たちがいる……。
第6話 孤独な女
Aパート・スレスレ★サーカス
(愛蔵版第12巻第5話より)

街にサーカスがやってきた! 広場に大きなテントが設置されて、人々が集まってくる。陽気なピエロが風船を配り、テントの周辺は賑やかな雑踏と笑顔で満たされていた。
テントの中に入っていくと、すでに素晴らしい技の数々が披露されている。定番の玉乗り、ナイフでジャグリング、空中ブランコ……。
「すごーい! すごーい!」
観客席に座る名取羽美が、子供のように興奮して声を上げる。その隣に座る改蔵は、退屈そうにピエロたちの技を冷淡に見つめていた。
次は細い綱の上を、一輪車が渡ろうとする。しかしその途上で、演者がふらふらとバランスを崩し始める。
それに異様な興奮を見せる羽美。
「しーっぱい! しーっぱい! しーっぱい!」
突然立ち上がり、拳を振り上げて叫び始める。
「やめてくださいお客さん! 縁起でもない!」
ピエロが羽美の前に飛び出してくる。しかし羽美は、しばらく一人で「に・く・へ・ん!」コールを続けるのであった。
という羽美は置いておいて、改蔵が鼻の先で嘲笑的な笑いを漏らした。
「綱渡り感に欠けるんじゃないかなぁって」
綱渡りというほど必要に迫られていない。本当の切迫感がそこに演出できていない。本当にギリギリスレスレの綱渡りとはどんなものなのか――改蔵はピエロをもう一つのサーカステントへと連れて行く。
Bパート・近ゴロ、オヘソ出サナイネ。
(愛蔵版第14巻第14話より)

勝改蔵は名取羽美をちらちら見ながら、胸をときめかせていた。ただし顔はこわばり、一杯の汗が浮かんでいる。
「最近、羽美を見ていると、ドキドキしてしまうのです」
改蔵は彩園すずに身の内を告白する。
するとすずは、「あー」と感情のない言葉を長く漏らした。
「それは恋ね」
「恋! そんな! 俺が羽美を好きになるなんて。どうなってしまったんだ俺!」
改蔵は錯乱して部室を飛び出してしまった。
ダットンのアロンの実験によるところの、感情の誤認識である。恐怖心からくる心臓のドキドキと、恋のドキドキと感情が勘違いする現象である。「吊り場理論」という言葉でよく知られているあの現象である。(Wikipedia:
吊り橋理論)
それを知った羽美。
「ついに改蔵が私のことを好きになったの? 私を見るとドキドキして堪らないと言うのね!」
大喜びの羽美。しかし羽美は、より恐怖を与えると、そのぶん改蔵が自分を好きになってくれると解釈。そういうわけで、羽美による恐怖の虐殺と破壊が始まった……。
かってに改蔵 上巻
かってに改蔵 中巻
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作品データ
総監督:新房昭之 監督:龍輪直征 原作:久米田康治
キャラクターデザイン:山村洋貴 メインアニメーター:岩崎安利
美術監督:飯島寿治 伊藤和宏 ビジュアルエフェクト:酒井基 色彩設計:滝沢いづみ
構成:東冨耶子 構成・脚本:高山カツヒコ 編集:関一彦
撮影監督:江藤慎一郎 音響監督:亀山俊樹 音楽:川田瑠夏
プロデューサー:宮本純乃介 アニメーションプロデューサー:久保田光俊
オープニング主題歌:水木一郎と特撮 エンディング主題歌:新☆谷良子
アニメーション制作:シャフト
出演:櫻井孝宏 喜多村英梨 斉藤千和 豊崎愛生 堀江由衣
○ 立木文彦 新谷良子 岩男潤子 永田依子 明坂聡美
○ 小野友樹 千々和竜策 中國卓郎 矢澤りえか MAEDAX
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