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■2013/08/23 (Fri)
面白い作品に理由があるように、面白くない作品にも相応の理由がある。
しかしあえて問おう。なぜ面白くないのか。「そんなのわかりきっているだろう。面白くないからだ」と多くの人が答えると思うが、それは答えているとは言えない。また面白くない理由を理解しているともいえない。
それでは「面白くない作品について考える必要は?」という問いにどう答えるのか。それは自分が同じ失敗を犯さないためだ。「駄作が犯しているような失敗を自分もするわけないだろう」と多くの人が信じている……自分というものの才能を疑っていない。しかし残念ながら、「こんな失敗誰が犯すんだ?」というような失敗を、ほとんどの作家が犯すのだ。
だからこそ、失敗作から学ぶ必要がある。失敗作を見るのは、考える機会になるから見る必要があるのだ。私が時折「失敗作を見よ」と言っているのはそういう理由からである。

しかし傑作と駄作の差異には何が置かれているのか? という問いに対して、視覚的ロジック的に開示してみせることは(考えの足りない)私にはまだできない。
しかし考え方の基準になりそうなものが一つある。

エンターテインメントとは何か?
そう問われた時、私は“ピンチ”だと答える。

主人公の前にどのようなピンチを設置するか。そしてこのピンチをいかにくぐり抜けるか。
だいたいここを上手く書けるかどうかで、傑作駄作の差が生まれているように思える。

よく挙げられる例が、
「主人公はトイレに行きたい。かなりヤバイ。しかしどこのトイレも使用不能だ。さあどうする?」
ここで、“誰も思いつかないような鮮やかな解決法”を示すことができれば、その作品は傑作だと賞賛されるだろう。

いっそ、ピンチという状況だけを提示して、読者にどうやって切り抜けるか考えよ、というコンテストをやってみるのも面白いかも知れない。誰も思いつけない回答をして見せた者が優勝だ。
創作を教えている学校で、生徒にピンチだけ提示して、「解いてみせろ」という課題をやってみるのもいいかも知れない(経験的に意義があるかどうかは不明だけど)
黒澤明監督の映画『隠し砦の三悪人』はまさにこの方法で作り出されていた。
山名家との戦に敗れた秋月家。秋月家の雪姫は山名家の手から逃れ、とある場所に隠れ住んでいた。雪姫は、秋月家復興のため、隠し持っている大量の黄金とともに友好国早川領へ行かねばならない。しかしその途上の関所には山名家ががっちり監視している。
さあ、どうする?
誰も思いつかない方法を、あるいはいかに面白く切り抜けられるか、その方法を巡り、脚本家たちは毎日ひたすら議論したそうだ。

では面白くない作品がなぜ面白くないのか。それは、ピンチの切り抜け方に問題があるから、と考える。

①ピンチの切り抜け方がおかしい。
そのピンチの切り抜け方がおかしい、道理に合わない、ご都合主義的だ、あまりにも飛躍させすぎだ、総じて腑に落ちない……。こう思われると、その作品は駄作扱いされる。

②主人公の選択が正しいと思えない。
読者の目線で「どうして主人公がここで○○○をしないんだ?」と思われてはいけない。主人公の行動が間抜けに見えてはならない。やはり主人公の行動や選択が腑に落ちるようにしなければならない。
主人公の行動は常に利口で、正しく、読者の想定を必ず“少し”上を進んでいる状態が望ましい。間抜けに見える主人公は、ギャグキャラクターでない限り感情移入しづらい(いや、ギャグキャラクターでも行動がありきたりに感じられるとつまらないだろう)

③そもそも、はじめに設定したピンチ自体おかしい場合。
そのピンチはおかしい。切実さが伝わらない。状況がいまいち理解できない……。また読者の目線で「何だその程度か」と思われてはならない。そういう場合は、「そもそもピンチの設定がおかしい」から練り直す必要がある。

以上に挙げた3つの他にも、まだ考えられるポイントがある。ピンチと主人公との関係性についてだ。

①そのピンチを解くのが主人公でなければならない理由。
目の前に提示されたピンチ! ……でも別に主人公じゃなくても、別の誰かが解けばいいんじゃない? となったら主人公がそもそもの間違いだ、とうことになる。主人公が解かねばならない理由を常に提示し、状況が主人公を強制しなければならない。
「そんな間抜けな過ち、誰が犯すんだ」と思われるかも知れないが、この失敗を犯す作家は非常に多い。ほとんどの推理物は「別にアンタが解かなくても警察に任せればいいよ」と言ってしまうことができるのである。
主人公がそのピンチと向き合わねばならない問答無用の理由が必要なのだ。

それからもう一つ挙げるべきポイントは、

②そのピンチを解くことが、主人公の葛藤と関連しているのが望ましい。
これは「絶対にそうではなければならない」というほどの重要度はないが、やはりそうであったほうが望ましい。
例えば、主人公が何かしらの心の傷を負っている。そこに提示されたピンチ。これが主人公の過去に体験した事件と関連を持ち、トラウマと向き合う結果となり、解決が主人公の回復や解放に繋がる……というプロットができたとしたら、それは「ピンチを鮮やかに切り抜けてスッキリする」という以上に、感動のポイントにすらなる。

要するに、提示したピンチと主人公の間に強い関係を持っていること。これは、物語全体に対する主人公の重要度に関わってくる。もしもこの重要度を主人公より脇役などのほうが持っているとしたら、主人公を練り直したほうがいいだろう。

もう一つの創作のヒントとして、ミステリの論法を利用する、というものがある。
ピンチの性質を説明する過程で、同時に切り抜けるためのヒントも提示するべきである。
ミステリには作者と読者の間に公正性を保つ必要があるために、回答篇までに問題を解くヒントを全て整えておかねばならない、というルールがある。
これはミステリ以外のエンターテインメントを描く場合においても同じだ。もしも、はじめに提示されていないやり方で解決法を示したとしても、例え正しい答えであったとしても「それはなんか狡い。スッキリしない」という悪印象を持たれてしまう。
また当然であるが、ピンチを提示する過程で、答えを悟られてはいけない

以上に挙げたポイントを押さえれば、駄作になることはほとんどないと思われるが、それでも傑作と呼ばれる間にはまだ何かありそうな感じがする。それは恐らく、次のようなポイントではあるまいか。

①誰にでも了解できること。感覚が伝わること。
提示するピンチが誰にでも了解できること。ピンチの内容が簡単であればいい、というのとは意味が違う。いったいどのようなピンチなのか、誰にでもわかるようにきちんと伝えること。伝える能力が試される部分だ。これが伝わらないと、主人公がどこに向かっているのかも伝わらなくなるので重要だ。

②でかいほうがいい。
大風呂敷を広げよ。そのピンチがどんな事態を引き起こしてしまうのか。国家が大パニックとか、世界の終焉とか、それくらい馬鹿げた大風呂敷の方が面白い。そういった国家の危機とか世界の終焉とか、そういうピンチをリアルに感じさせるように描くことができれば、面白いはずだ。
しかし一方で、国家の危機や世界の終焉クラスのピンチにリアリティが感じられなければ、その作品は即座にコメディになる。大風呂敷を広げる時には、相応の状況作りに注意を払うべき。
ピンチはでかいほうがいいが、でかくなればそのぶんリアリティを出すのが難しくなる。「国家の危機!」といってもなかなかピンと来ないが、それでも腑に落ちるようなリアリティが描ければそれでいい(特に国家観がぶっ壊れた日本人はこういう話はなかなか書けないと思う)
国家の危機とか世界の終焉とかそういうレベルではなくても、主人公にとってそれと同じくらいの“切実さ”があればいい感じになる。“主人公にとっての切実さ”というのは、家を失うとか、恋人が死ぬとか、あるいは自分が死ぬとか、そういうもののことだ。むしろそういうお話にした方が“切実さ”はダイレクトに伝わる。

③個性的であれ
ピンチの中身は、今まで誰も思いつかなかったような内容であった方が面白い。誰にでも思いつくようなピンチは、つまり手垢のつきまくったものだから、いくら面白い解決法を提示したとしても、題材という時点で誰も見向きもしてくれない。個性的なピンチであれば、解き方にも個性が出てくるかも知れない。題材にこだわれ。

④絶体絶命
「こんなピンチを乗り越えるなんて絶対不可能だ! もうどうしようもない!」と思わせること。「もうダメだ!!」と一瞬思わせ、そこからの離脱を示してみせる。強烈なピンチは、相応の緊張感に繋がる。そこから見事に、鮮やかに脱出をしてみせる。これこそ、エンターテインメントの醍醐味だろう。

作者は、主人公をピンチで追い詰めていくと同時に、読者・観客を追い詰めていかねばならない。まずピンチの内容をわかりやすく伝えること。そのピンチが回避できないと、途方もなくヤバイ結末に繋がることを伝えること。そうすれば次第に物語の主人公と読者・観客は主人公と同じ目線で追いかけていくようになる。読者・観客は主人公と同じように汗を掻き、ハラハラしながら状況を追いかけていくのだ。そこまで読者・観客の気分を物語の中に吸い込ませることができれば、その作品は間違いなく傑作だろう。

とどのつまり、優れたエンターテインメントとは「脱出劇」なのである。一見すると四方八方手詰まりの状況。もうどうにもならない……。そんな状況からマジックのように優れた脱出を披露してみせる。その瞬間、エンターテインメントは驚きと喝采を挙げるのだ。
最近では『魔法少女まどか☆マギカ』が素晴らしい「脱出劇」の例だった。「こんな複雑なロジックを解決させるのは絶対に不可能だ! バットエンドしかあり得ない!」とみんなに思わせ、みんな最終回が来るまでにさんざん予想合戦したのに、それを上回る回答をしてみせた。しかも、その答えが驚くほどシンプルで、納得のできるものだった。これを提示できたからこそ、『魔法少女まどか☆マギカ』は異議無しで傑作と認定されたのだ。


駄作が駄作であるには相応の理由があるからで、これを回避する方法をこうやって挙げたが……正直なところ、不充分という気がする。
「それは違う」と言う人は多いと思うし、プロの作家がここまでに書いたことを読んだら鼻で笑うかも知れない。
少し考えてみても、上の理論が通用するのはごく一部の娯楽作品のみで、恋愛ものギャグものホラーもの純文学などではまったく通用しないことがわかる
(どういうわけか、ホラーのキャラクターはピンチを切り抜けようと努力しない。幽霊や殺人鬼が作り出した状況に無抵抗に振り回され、次々と人が死んでしまい、主人公も特に主人公としての活躍を見せることなく、あっさりと死んでしまう。ホラーもピンチを切り抜けて脱出すれば、エンターテインメントとしてより面白くなると思うのだけど……)
それとは別に、自分で書いていて“何か”が不充分だという気がしてならない。その“何か”の正体は、いまわかる範囲で書くと「人間の描き方について何も提示していない」というのと「個々の状況の描き方について何も提示していない」という2つだけだ。確かにこの2つを押さえないと、いくらうまいピンチを描いてみせても、それはロジックを整えただけで心情的に迫ってくるものになるかといえば、多分ならないだろう。とにかく不充分なのだ。決定的に何が足りないかといえば、「どうやったらキャラクターに感情移入できるか」あるいは「どうやったらキャラクターが魅力的に見えるか」という問題だ。この問題について、私は何も答えていない。
しかし私としても、この2つの問題について、まだきちんと整えて説明することはできない。それはまた別の機会になりそうだ。

元になっているツイートまとめ→傑作と駄作の狭間にあるものは? エンターテインメントとはピンチである。

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■2013/04/07 (Sun)
1・国立メディア芸術総合センター

まずはじめに、国立メディア芸術総合センターについての話から始めたい。といっても、何のことだがわからない人が殆どだろう。むしろ、「国営漫画喫茶」あるいは「アニメの殿堂」といった俗称の方に親しみ感じる人が多いだろう。「アニメの殿堂」と聞けば、「ああ、あったなそういうの。当時の野党の誰かが批判してたよな」と思い出してくれるだろうと思う(その誰かとは、間もなく総理の座につくことになる鳩山由紀夫である)
国立メディア芸術総合センターは2007年(平成19年)に構想され、その内容は日本のメディアアートを芸術品として収集・保存・修復した後に展示公開するための施設である。この施設ではコンテンツの保存と研究調査を始めとして、海外からの集客を狙い入館料による利益を出し、かつ人材育成というテーマも同時に抱えていた。構成委員には漫画やアニメ関係者が多く名前を連ねていることに注目して欲しい。日本アニメーター・演出協会などの団体も関わっていたようだ
詳しい概要についてはリンクを貼り付けておくので、そこから情報を得て欲しい。
Wikipedia:国立メディア芸術総合センター
Wikipediaに基本的な概要が書いている。

国民が知らない反日の実態:国立メディア芸術総合センターの真実
調べている過程で発見したブログ。話の途中から「中国の陰謀」なんかが出てきてやや飛躍した感じだが(ソースが2ちゃんねるの書き込みだし)、要点がまとめられているし、取り上げている動画には注目に値する。

こちらの動画はニコニコ生放送で広告担当者に「国立メディア芸術総合センターとは何か?」をインタビューしたもので、わかりやすく要約されている。少し長い動画だがこちらはぜひ再生してほしい。

内容を聞いてわかるように、テレビや新聞で見聞きした内容とはだいぶ違ったものであるということがわかるだろう。広報担当者ははっきりと、「アニメーターの劣悪な賃金体制の是正」をテーマに掲げている。作品発表や公開も、あるいは世界への発信も国立メディア芸術総合センターが中心地になって行っていくという構想もあり、そこからアニメコンテンツへの宣伝販売へと繋げ、そこで得た利益を業界の収益に還元する構想だったようだ。民間経営だから収益は絶対的に必要だし、背景に業界の命運も背負うから果然収益や集客へのこだわりも生まれただろう。立地の良さもあったので、「私のしごと館」のようにはならないはずだった(「私のしごと館のようになる!」という意見も見つけたので一応)
海外ではすでに様々な動きが始まっている。2分40秒当たりから中国では900億円という巨額を出資しアニメ産業発展基地を作ろうという構想をはじめ、すでに起工式は終わっている、という話も出てくる。中国のアニメと言えば「どうせパクリでしょ?」と軽んじる人は多いが、国がそれだけ支援をして人材育成・技術開発に乗り出すのである。そのうちにもオリジナルを制作できる人材は生まれてくるだろうし、技術面などは日本のアニメから充分に学んだ後だから、それを乗り越えていくくらい難しいことではないだろう。それでも軽んじるというような人は、『ウサギとカメ』の寓話の意味をよく考えて欲しい。

未確認情報だが、フランスではすでに日本の漫画・アニメを専門とするミュージアムが作られ、コレクションの収集を始めていると聞く。
この話を聞いて、真っ先に思い出したのが浮世絵だった。浮世絵の美術的価値について日本が気付いた時にはもう遅かった。重要なコレクションのほとんどは海外に渡った後だった。日本の美術館が浮世絵の企画展示をしようと思ったら、ほとんど海外からレンタルしなくてはならなくなった。
『葛飾北斎展 提供:大英博物館』
本当にこういうのがあるから、笑えない事態だ。
日本発の文化で日本を代表する美術品なのに、日本には“それそのもの”がない。これは日本人として恥ずべき状態である。
漫画やアニメも同じ末路をなぞりそうである。漫画の歴史は確かに浅いが、戦前の資料などになると入手困難だし、ただちに修復が必要な状態なものもある。戦後の漫画業界は混沌としていたし、コンテンツ保護の発想もなかなか生まれなかったから、原稿が存在しない漫画も多くある。漫画家自身も原稿を出版社に提出したまま、それきりで手元に置いて保存しようという人も少なかった(最初に「原稿を返してください」と出版社に言ったのは白土三平だという話がある)。漫画家の生活はしばしば困窮することがあり、自ら原稿をオークションにかけて手放す人もいる。
アニメとなるとさらに難しい。セル画はすぐに劣化するので保存が非常に難しい。それにかさばるので、保存していない制作会社は多い。それから……中古販売店に流して小遣いにしている業界人もいるようだ。
宮崎駿は『風の谷のナウシカ』の制作した後、元素材(フィルム)を捨てよう、と言ったそうだ。これはプロデューサーの鈴木敏夫が全力阻止したが、それくらい業界人もコンテンツ保護について無頓着だった。
手遅れになる前に、保存すべき文化はあるのだ。アーティスト気取りで「国が文化を管理するな」と意見する人は多いが、上に掲げた動画にあるように、作品制作について政府が意見する意図はない。ただ保存と管理、修復だけを担う。
過去に積み上げたものは大切である。これを振り返り、研究し解釈を加えることは、ひいては未来を作る上で重要な下準備になる。もしも朽ちるままに任せておけば、研究の機会を失ってしまう。若い世代が過去の作品を学べない状態のままにしていたら、一世代で絶える文化になってしまうだろう。それを阻止するために、文化の積み上げを保存し、過去の地層を閲覧できる状態を作っておこう、というのが国立メディア芸術総合センターの構想の骨子である。

しかし、確かに国立メディア芸術総合センターは拙速であった。
背景にあったのは2008年のリーマン・ショックだ。日本はすでに長いデフレ状態にあり、この金融恐慌の後、さらに深刻なデフレ不況に突っ込む恐れがほぼ確定していた。
時の総理であった麻生太郎は、ただちに経済対策を打つ必要があった。その一環として国立メディア芸術総合センターが掲げられたのだ。中身をどうするのか、の議論はまだ完了していない状態だった。一瞬だけ計画に関わった竹熊健太郎氏は「中身のないただのハコだった」と一蹴している。実際にまだ充分に構想が練られておらず、事業の計画だけを早めてしまったようだ。
「腐ってやがる。早すぎたんだ」……というやつだ。

国立メディア芸術総合センターは当時、新聞・テレビなどのメディアが中心となって、まさに国を挙げてといった状態で批判と非難が集中した。国立メディア芸術総合センターを通して、麻生太郎を叩くための格好の材料になっていたのだ。
実際には、新聞・テレビが流した情報にはかなりのバイアスがあったようだ。今回、大雑把にでも調べたが、「新しい天下りの設置(民間企業だしすでに渡りは禁止されていた)」とか「血税の無駄遣い(景気対策だし収益に見込みはあった)」とか「アニメ業界には全く利益がない。業界無視(上に掲げた動画を見よ)」とか、設置場所が秋葉原とかそういう初歩的な勘違いとかもあり(設置場所はお台場)、実際の委員会が掲げていた目標や構想が、ほとんど全く、というくらいに伝わっていなかったことがわかる。結局、みんな民主党とテレビに騙され、流されてしまっていたのだ。(国立メディア芸術総合センターについて調べようと検索したら、上に挙げたような勘違いして書いたニュース記事やブログ記事が大量に出てきた。本当にまったく伝わってなかったんだな、とここで理解できた)

2009年、政権が交代し、批判の中心に立っていた鳩山由紀夫自身で国立メディア芸術総合センターは完全廃止。国立メディア芸術総合センターは人々の記憶から姿を消し、国家の記録からも抹消され、完全に姿を消した。

私は今でも必要な施設だと思っている。



2・クールジャパン

2010年(平成22年)経済産業省内に「クール・ジャパン室」なるものが設置された。あの「国立メディア芸術総合センター」の構想は、形を変えながら受け継がれたのか、と感心しながら見ていた。……が、この画像を見てその期待は一蹴された。

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AKB48!
しかも民間議員の代表として立っているのは秋元康茂木健一郎の2人である。(クールジャパン官民有識者会議:メンバーリスト
クールジャパンは何かおかしい。国立メディア芸術総合センターとははっきりと違う。何かがかけ間違えている、この時そんな予感がしたのである。

詳しく概要を確かめてみて、クールジャパンは国立メディア芸術総合センターとはまったく内容の違うものであると理解した。委員会の中に漫画・アニメの関係者の名前が一人もない。議事録のいくつかも見たが、漫画やアニメという言葉はほぼ全くというくらいに出てこない。「コスプレ」という単語が発言者の中からしばしば出てくるが、話の全体から言葉が浮いている感じで、文脈としての必要性を感じない。いかにも知らない人がおずおずと「何か若い人の中で流行っているらしい」という感じのする扱い方である。
クールジャパン官民有識者会議:第13回議事録(PDF) 適当なやつを一つどうぞ。
そもそもクールジャパンは質的に国立メディア芸術総合センターと全く趣旨の異なるものだった。第一に「文化の保存」というテーマが抜け落ちている。国立メディア芸術総合センターには文化を保存し、集客して利益を出す、という一貫した流れがあったが、クールジャパンが目指しているのはあくまでも「紹介のみ」である。技術を持った人や作品を海外に連れて行き、散発的にイベントを催して文化の宣伝をしようというのが目論見である。クールジャパンは現在形における構想であり、国立メディア芸術総合センターは過去形における構想である……これくらいの違いがある。

ついでに言うと、漫画やアニメはクールジャパンのプロジェクトの中には入っていない。いくつかの資料を見たが、漫画やアニメといった記述は“時々”見られたが、ほとんどの資料で記述すらなかった(にも関わらず、初音ミクはほとんどの資料に載っている不思議)。(→クールジャパン官民有識者会議提言概要(PDF)
ネットではクールジャパンで日本の漫画やアニメが紹介されると思っている人は多いが、そういう企画ではない。構成委員に漫画・アニメ業界の人は一人もおらず、議事録にアニメという語すら出てこない。クールジャパンが指向しているのは日本の文化そのもので(建築や食事、技術、伝統芸能等々)、そのリストの中からアニメは完全に抜け落ちている。
それから、これは大きく書かなくてはならない部分だが、クールジャパンは官民一体のプロジェクトである。国立メディア芸術総合センターは設置後は民間運営に移行して収益を出す計画だったが、クールジャパンは政府が常に横に貼り付いている、ということを忘れてはならない。

しかしこのプロジェクトに薄ら寒いものを感じさせるのは、筆頭に秋元康の名前が掲載されていることである(座長は福原義春、座長代理は松岡正剛。秋元康は民間人の代表)。ひょっとしてクールジャパンを利用して、AKB48の海外戦略の足がかりにしようとしているのではないか……そんな恐れすら感じさせ、実際にAKB48のラッピングカーを海外で走らせて疑いの余地なしの現実がすでに起きている。

話は変わるが、このごろ電通がアニメに入れ込んでいる。
マイナビニュース:電通がオタクに熱視線「オタクがラブなもの研究所」を発足
アニメファンがどういうものを好むのか、傾向を調査し、この中で「美オタク」なる謎の用語を作ってカテゴライズを増やしている。
電通は何をするつもりなのか? 何を目的で調査を始めたのか?
当然、何かしらの商売をするつもりだろう。広告会社が商売目的以外で調査をするはずがない。電通は近いうちに、アニメを利用して何か仕掛けるつもりだろう。具体的には電通主導による作品を、もっといえば宣伝過剰なイベント中心のアニメーションが作られるだろう。
少し電通主導のアニメがどんなものになるか想像してみよう。
まず作品本意主義は失われるだろう。売れっ子声優は主人公相当を演じられるが、声優のイメージを崩さないために原作の脚本が書き換えられる。あるいは、人気声優を突っ込みたいがために原作に登場しないキャラクターが追加される。その声優には専業声優ではなく、やはり電通が売り込みたいアイドルがどんどん起用される剛力彩芽とか)。そういった話題性が中心、社会を巻き込んで派手な宣伝戦略を展開するが、中身が画一的でいまいちなものになる。
宣伝会社がアニメファンの動向を調査しているのだから、その調査通りの内容のものが作られるだろう。「アニメファンはこれこれこういうものを好むから、そういうものを一点集中で制作し続けましょう」と。作家的な視点は軽視され、ビジネス的視点だけで企画が運営され作品が制作される。もしもそこに新しいストーリーのタイプや新しいビジネスの可能性があっても、「それは市場調査にはないから」と切り離される。実際いま音楽の業界では切り離され、電通が売り込みたい人だけが(たった一つの成功法を繰り返しつつ)過剰にメディアに押し出される状態になっている。
確かに現段階においても、業界は似たり寄ったりなものを作っているが、時々際立ったものがその中からぽっと出てきてしまうのは、ある種の“緩さ”のようなものがあるからだ。その時々で、監督やプロデューサーの「これがやりたい!」という思いつきと情熱で現場が突き動かされるから、そういう意外性が突然変異のごとく飛び出すのだ。電通が関われば、そうしたパッションは真っ先に失われるだろう。実際、音楽の業界はすでに死んだ。
とここまでは想像に過ぎないが、電通が関わればそうなるし、すでに予兆が見え始めている。そうなれば、おそらくアニメのユーザーは飛躍的に増えるだろうと思う。何せ電通には相応の実績がある。人を動かすのはうまい。しかしその電通が呼び込んだアニメファンの中に、純粋なアニメ好きはいなくなるだろう。電通が呼び込んだアニメファンは、残念ながら広告に踊らされて一時の気分の高揚で集まるだけで、そのあと一気に流され、何も残さないだろう。「ただその時の気分で見ているだけ」といった人達が中心になり、電通はアニメファンの意識を育てようとは思わない。そういう高い意識を持ったアニメファンは、アニメから去っていき、その後、残り滓のような作品らしきものを見て、ただ言葉なくアニメという文化が死んだことを理解するだろう。音楽の業界がすでにそうなったのだし、電通はどうやら今度はアニメを標的にして同じことを繰り返すつもりのようだ。AKB48のユーザーは推定6万人、この固定された6万人からいかに繰り返しお金を搾り取るか、そういうやり方が業界の命題になりそうだ。
その時には、私も日本のアニメを見捨てるかも知れない。いや、見るべきものがなくなり、結果として見捨てるしかなくなるかも知れない。
アニメはこの頃、妙に注目され、それなりに利益を出す商売として際どく確立し始め、なぜか一般層にも緩やかに広がり始めている。電通が目を付けるのは当然の流れだ。電通が加われば業界は急激に収益を上げるだろうが、その後おそらく何も残らない。ユーザーが残らず、文化も残らず、業界は流されてやってきたユーザーの頭に合わせて、中身のないスカスカな作品を作らざるを得なくなる。
アニメの業界がこの流れに反抗することはできない。アニメは宿命的に下請け。自立できるのは東映とジブリだけ。相応のお金を渡されたら拒絶できないし、お金を受け取ったらクライアントの指示通りのものを作らなくてはならなくなる。アニメ業界の力はそれくらい弱いのだ。
そうなったら、どうすればいいのか? 我々は見ているだけか? いや違うだろう。そんな時に“異議あり”を示せるのは我々だ。“みんなの力”が頼りなのだ。すでに電通は動き始めている。もしも電通が今以上に具体的な意味でアニメの現場と制作に手を加えてきたら……その時はこれを読んでいる“みんなの力”頼みなのだ、ということを忘れないで欲しい。

長い脱線になったが、クールジャパンの話に戻ってこよう。クールジャパンの関係者に電通の名前は出てこないが、AKB48が過剰に前面に押し出されているのを見ると、どこかで電通が関わっているのではないか、と穿った見方をしてしまうのだ。
電通といえば、ちょっと前から初音ミクに注目している。イベントの開催にも電通が関わっているようだ。この頃、色んなメディアでやたら初音ミクを見かけるようになったのは、電通が関わるようになったからだ。それで、クールジャパンの資料のいくつかを見たが、漫画やアニメは文言すらない場合があるのに対して、全ての資料に初音ミクが載っているのだ。漫画やアニメが計画から外されているのに、なぜ初音ミクだけ? 何か奇妙な感じすら受けてしまう。
まだ確たる根拠は見出せないが、クールジャパンの背後には電通が関わっているのではないか。クールジャパンという国家プロジェクトを利用して、電通が特定人物を海外に売り込みたい時のための足がかりとして利用されているのではないか……。
もちろん全て私の空想だ。秋元康とAKB48の二つがクールジャパンの先頭に立っているのを見て、ここまでの空想を組み立てた、というだけの話だ。空想の話だから、早とちりな判断はしないようにお願いしたい。

最後に、クールジャパンというプロジェクトそのものは肯定したい。プロジェクトから漫画とアニメ、それからゲーム、映画は完全に外されたが(委員会リストにも業界関係者がいない)、日本の文化そのものを発信し、関心を持ってもらおうという試み自体は批判すべきものではない。
クールジャパンがピックアップする文化とは、料理や衣装、建築、それから文学、武道、茶道といった思想的精神的なものまで含まれている。これらを海外に宣伝し、そこから利益を出そうという考えは正しい。
ただ、その背後に何かしらの不穏当な影があるのではないか、という漠たる違和感だけをここに書いておきたかった。
それから、やはり文化の蓄積し研究するための機関はやはり必要だ、と最後に書いておこう。



※ この記事は私が個人的にツイッターで書いたものをまとめたものです。
■ツイッター 999toratugumi

■フェイスブック ツイッターの内容が部分的にまとめられています。ブログでまとめられたのは以下の投稿記事(アカウントが必要です)
4月4日 電通がアニメ市場の調査を始めている……
4月5日 「黒執事」の主演に剛力彩芽が抜擢された……
4月5日 電通がアニメファンの傾向を調査し始めている……
◇追加 4月23日 わりと最近クールジャパンに関する見解をブログに……

資料
日本アニメーター・演出協会 ……国立メディア芸術総合センターに協力していた団体
Wikipedia:クールジャパン
経済産業省:クールジャパン/クリエイティブ産業政策
まとめサイト:AKB48が税金を使って海外で宣伝をやっていると物議
ライブドアニュース:AKB48が税金を使って海外で宣伝をやっていると物議(ソース)
まとめサイト:秋元康「日本中の優秀なクリエイターに無報酬で協力してもらおう」
ニコニコニュース:クールジャパン「無報酬」の次は「掲載料負担5万円」?イラストレーターに送られてきたメールの内容がTwitterで話題に ……これはクールジャパンを騙った詐欺ではなく、本家がやっている。
インサイド:「クールジャパン」推進に500億円 税金でクールな文化が作れるのか
ここには載せなかったが、国立メディア芸術総合センターは公なメディアが否定的に、あるいは公なメディアが取り上げた有名人ほど批判的・否定的な意見が発せられた(しかも明らかに間違った情報に基づいて)のに対して、クールジャパンは公なメディアほどやや肯定的な意見が発せられている。が、一般的な人のブログやTwitterではクールジャパンに対して否定的な意見が出始めている、という特徴が見られる。






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■  余談
■ ■


■2012/11/26 (Mon)
※ この記事は、私が個人的にツイッターに書いたものをまとめたものです。

まずは作品の概要から解説するべきだろう。
『さくら荘のペットな彼女』はタイトルにもある「さくら荘」を舞台とする作品である。さくら荘は水明芸術大学附属高等学校の学生寮であるのだが、生徒の中でも特別な能力――才能を有したものだけが入居を許される。(間違いの指摘がありましたので訂正します。さくら荘は問題児が住む場所ということです)
主人公である神田空太は一般寮に住んでいたのだが、猫を飼っていたために強制的にさくら荘へ移住させられてしまう。そこで神田空太は、天才達と巡り会い圧倒され、凡人でしかない自身の生き方を見詰め直そうとするのである。
神田空太は、イギリスから戻ってきたばかりの椎名ましろの面倒を見るように指令を受けるが、椎名ましろは一般生活のあらゆることを自分ですることができなかった。そのため半ば介護に近い生活を送ることになる。
そんな最中、神田空太のクラスメイトである青山七海がさくら荘に引っ越ししてくる。一般寮で生活していたが、家賃をバイトをして稼いでいるために、より家賃の安いさくら荘に移ってきたのだ。
そこで青山七海は、神田空太が椎名ましろの日常の世話をするのはおかしい、同性である自分が引き受けるべきだ、と強引に椎名ましろ介護の仕事を引き受ける。その一方で、日々の生活費、家賃代を稼ぐためのバイト、それから声優を目指しているため勉強も欠かさなかった。そんな無理を続けたために、ついに過労で倒れてしまう。

問題なのはここからである。
過労と高熱のために倒れた青山七海のために、さくら荘の住人達は栄養の付くもの、と鍋を作る。原作ではこの鍋は「お粥」であったが、アニメ版では韓国料理の「サムゲタン」に変更されていた。

「なぜサムゲタンなのか?」
ここでネットユーザー達に火が点いた。
一般的には韓国と日本は友好国と見られ、友好国という前提で文化交流が論じられている。しかし潜在的には激しく嫌悪しあって互いの文化を全力拒絶している。特にネットでは「嫌韓」が根強く、日常社会では地下化した意見が露骨な嫌悪感情とともに叫ばれている。
最近ではネットで高度な政治的問題を知る機会が増え、ごく普通のアニメユーザーでも「嫌韓」の潮流と深く結びつきをもつようになった。万年平和主義のアニメユーザーが政治意識を持つ例は、かつてなかったことである。
そうした最中に、アニメの描写の中に不自然に登場してくる韓国料理。なぜ韓国料理なのか。韓国料理である必要があったのか。違和感は怒りと変わり、「嫌韓」感情に結びつき、一気に炎上を起こす。
人気アニメだった『さくら荘のペットな彼女』は転落するように、ユーザーの集中豪雨を浴びて燃え上がってしまった。


以下はニコニコ動画での反応である。
NG共有レベルゼロの設定だ。

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冒頭2秒。
始まった途端、コメントは「サムゲタン」で溢れ返る。「サムゲタン」だけではなく、「キムチ」「チョン」といった言葉も多い。

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2分11秒。
アバン終わってタイトル。
こうした「荒らし」コメントの多くは動画が始まって最初だけの場合が多い。どこかで噂だけ聞きつけ、冒頭の場面にコメントをさっと書き込み、あとは動画を見ずに去ってしまうからだ。
しかし今回の炎上はそういった事例とは違い、反感を持った多くの人達が動画全体を見ている。また「荒らし」はほんの数人だけの書き込みである場合が多いが、今回はNG共有を上げても批判コメントが消えることはなかった。相当な数の人が、この変更に怒りを感じているのだ。
2分後のタイトルには赤字の下コメントで『サムゲ荘のキムチな彼女』という別タイトルが命名された。

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18分20秒。
三鷹仁がサムゲタンを調理する問題のシーンである。ここで一気にコメントが多くなる。あまりにもコメントが多すぎて、画面が見えなくなる状態になる。

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18分25秒。
カットを切り返して、神田空太をなめて上井草美咲がパンケーキを食べている場面。ここでもコメントが途切れることはなく画面を覆い尽くす。
裏方が馬鹿をやらかしたごく最近の前例である『ココロコネクト』を取り上げる人もいたようだ。

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18分30秒。
続いて三鷹仁が鍋を神田空太に渡そうとする場面。
「サムゲタンは鍋じゃないっすよ(常識)」「サムゲタンは鍋じゃないっすよ(世界の常識)」下コメントに、アニメ中の台詞を強調してさらに補足したものが書かれる。

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19分19秒。
サムゲタンが登場する場面。一見コメントが少ないように思えるが、この直後、コメントで溢れ返る。
いくつも連なる下コメントの一番上に、韓国人を示す顔文字が書かれている。

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19分20秒。
サムゲタンが登場した次のカット。さっきのカットの1秒後である。
ここで画面を覆い尽くすコメントが溢れ返る。どれも作品を非難するコメントだ。

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21分4秒。
下コメントに「サムゲタンおいしいね(迫真)」と青山七海の台詞が強調されている。追従するコメントで溢れ返る。もっとも「サムゲタン」が溢れ返った画面かも知れない。

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23分44秒。
作品が終わって提供の画面。コメントがあまりにも多くて読めないと思うが、韓国語が書かれている(どちらにしても読めないが)。こうしたところでユーモアを示すのがニコニコ動画らしい。


さて、どうして原作で「お粥」だった場面が「サムゲタン」に変更されたのか。
とある「サンライズ」スタッフはこう答えている。

「何故原作から改変したかといえば、アニメとしてのわかり易い表現を求めた結果です。かつお出汁香るシンプルなお粥を美味そうに描くのは至難の業です。」

指摘するまでもないが、『さくら荘のペットな彼女』を製作したのはJ.C.STAFFである。サンライズはまったくの無関係だ。このコメントの後、「私は「さくら荘~」制作には全く関わっていません。当事者の発言ではなく、同じ業界人としての見解をツイートしました。」という発言を撤回するツイート残した。
また「お粥を書くのは難しい」という“言い訳”も苦しい。過去のアニメでお粥が描かれた前例はいくらでもある。『さくら荘のペットな彼女』の制作スタッフなら、問題なく描けるだろう。どう考えても「お粥が難しいから」という理由は適切ではない。
いま現在も、J.C.STAFFからのコメントは何一つ出てきていない。


現在の日本には、はっきりと2つの乖離した潮流がある。親韓である「韓流」と、逆に徹底的に韓国を嫌悪する「嫌韓」
ネットユーザーにとっては「韓流」は虚構に過ぎず、むしろ「嫌韓」のほうが一般的になっている。新聞やテレビが熱烈に支持する「韓流」というブームメントは浅く薄い情報の表皮に過ぎず、めくれば「嫌韓」が今にも沸騰して溢れ返らんばかりの状況である。
しかし「嫌韓」の意識は、実際社会においてはある種のタブーのようになっており、「嫌韓」が話題に上がることはなく、「嫌韓」の意識はネットなどで地下化する傾向がある。
だから「嫌韓」はネットユーザーにならない限り、ごく普通の生活を送っている人は「知らない」場合が多い。それどころか「いま世間は韓国が大ブーム」と思っている人は多い(嫌韓デモでフジテレビが包囲された、というニュースを知らない人が多い)
ネットユーザーとしてネットの言論に深くはまりこんでいると忘れそうになる前提だが、現実はまだ「韓流ブーム」という虚構の中にいる、ということを忘れてはならない。

アニメ制作者は基本的に世事に疎い。ずっと現場に引きこもって絵を描いているのだから、これは仕様がない。(この頃勘違いしている人は多いが、日本のアニメはまだ手書きが中心である。デジタル化はほとんど進んでいない。アニメの現場にいけば、お馴染みの動画机がまだある。この光景は実に50年くらいは変わっていない)
それだけに、この地下化した「嫌韓」の実体を「知らなかった」と考えられる。いや、むしろ「知るはずがない」と書くべきだろうか。アニメの現場は、今でも「いま世間では韓流ブームだ」という認識で共有されているはずである。
「韓流ブームだから、韓国料理にすれば若い人に受けるんじゃない?」
会議でそんな意見が出たかも知れない。

『さくら荘のペットな彼女』の制作スタッフが世間に疎いということは、青山七海のバイト風景の描き方でわかる。
例えばコンビニの店員。コンビニはありふれているだけに、描き方で制作スタッフがどれだけ社会経験があるか、あるいは「社会に対してどういう印象を抱いているか」がたちどころにわかってしまう場面である。
どうやらJ.C.STAFFにコンビニで働いた経験のあるスタッフは一人もいなかったようだ。またコンビニバイトに対して、ありがちな偏見も抱いているようである。
まずバイトのユニホームを着たまま、休憩で公園に行くなど絶対にあり得ない。あとで店長にこっぴどく叱られるところである。
またコンビニのバイトはお手軽でも楽なバイトでもない。言うまでもなく、コンビニは24時間営業だ。だから店を閉めることができず、客がいる状態で店内清掃、新しい商品の入れ替えを行わなければならない。また店内に並べられた弁当は時間刻みで「○○時になったら全品下げて入れ替え」、常に新しいものが並ぶようにコントロールされている。客入りの多いコンビニだと、待ったなしの修羅場である。(確かにレジの前でぼんやりしている時はあるが、あれは疲れきっている時だ)
しかしフィクションで描かれるコンビニは、いかにもラクそうで、やる気のない適当な若者が働く場所、というふうに描かれる。作り手がコンビニのバイトにどういった印象を抱いているか、よくわかる。またコンビニの描き方だけで、作り手が業界しか知らず、世間を何も知らないということがわかってしまう。
青山七海は様々なバイトを掛け持ちしている設定だが、その描写だけで制作スタッフや監督が「業界しか知らない世間知らず」であることははっきりとわかる。どのバイトでも言えることだが、バイト中のユニホームを来たまま持ち場を離れて、別の場所へ行ってはならない。これは社会常識である。しかし制作スタッフはこういった基本的な社会常識を知らなかったようだ。

『さくら荘のペットな彼女』のスタッフは業界人にありがちな世間知らずだった。もちろんネット上で激しく交わされている「嫌韓」など知るはずがなく、また知りようがない。作り手は何も知らなかった、と考えるべきだろう。それどころか、サムゲタンを書き入れることが、それなりのユーモアのつもりだった、のかも知れない。ユーザーが反感を持つなんて、想定できなかったのだろう。

監督のいしづかあつこについて調べてみたが、どうやら「天才」と呼ばれるタイプだったようだ。
愛知県芸術大学に在籍していたが、その頃からすでに「作家」として活動し、コンテストで賞を得る。同じく大学在籍中には、すでに「プロとして」仕事を引き受けていたようだ。
大学卒業すると同時にマッドハウスに入社し、さっそく短編アニメで頭角を現すようになる。制作に参加したアニメのリストを見ると、大学卒業の2004年から始まり、いきなり絵コンテや演6425d036.jpeg出を任されている。普通なら動画や制作進行など長い長い下積みを経験して、10年かけてやっと演出の座を射止める、といったところだが、そういったプロセスを飛び級して、いきなりの演出担当である。優秀だったのだろう。
その後はお定まりの出世街道。2009年にはアニメシリーズ(『青い文学』)の監督に抜擢されている。28歳という若さである。
「天才天才」で回りからおだてられて、何一つ苦労なく真っ直ぐな道を歩いてきた女の子。世間の荒波も理不尽も何も知らない天才少女。椎名ましろを地で行く人生を、いしづかあつこはひょいひょいと進んできたのである。それだけに、世間知らずだった。
今回の事件について調べていた過程で出てきた画像がある。いしづかあつこが韓国旅行へ出かけた時の写真だ。写真では、韓国の友人と交流を持ち、韓国の料理を楽しんでいる。
確実にいって、いしづかあつこは「嫌韓」なんて知らなかったはずだ。天才で世間を知らず、新聞テレビで薄っぺらくもてはやされる韓流に乗って(乗せられて)韓国人の友人を一杯作り、無邪気に交流を深めていく。知るべきだった世相の巡りを知らず、自ら見識を狭めていった。薄くて脆い情報の表皮だけが、いしづかあつこの現実だったのだ。
いしづかあつこは、きっと「ここでサムゲタン出したら、受けるよね」と思ったのだろう。「世間がいま韓流ブーム」という事実を、決して疑うことはなかった。

今回の一件はいしづかあつこにとって人生初めての挫折となった。
動揺は大きかったようである。公式サイトから第7話の演出・脚本のクレジットから自分の名前を削除している。逃亡したのだ。自分には責任はありませんよ、と(……スタッフはどう思うだろうか)(間違いの指摘がありましたので、削除しておきます)
これまでは自分のごく狭い周囲だけを見ていれば良かった。そしてその人達は常に自分の才能を褒めてくれた。作品を発表すれば、その向こうに消費して批評する「その他大勢」の“凡人”たちがいる。いしづかあつこがこういった人達を意識するのは初めてだろう。これまでは、作品の中に自分自身を鏡のように見て、自分自身の言葉を耳の中で繰り返していればよかったのだ。
そう、いしづかあつこは“凡人”に逆襲されたのだ。『さくら荘のペットな彼女』は凡人を主人公にして、凡人の目線で奇人と呼ばれる天才達に圧倒される物語だ。だから凡人である多くの受け手から共感を得ることができた。しかしいしづかあつこは常に天才側の目線だった。はじめから凡人の目線など知るはずもなく、同情する気もなかったのだろう。ただ単に、自分の作品を、エゴを映像にしたかっただけだ。
初めての失敗に、初めての挫折。この失敗に対して、どう向き合うかがいしづかあつこの今後のキャリアにも関わってくるだろう。

しかし、問題は小さい。たかがお粥をサムゲタンに書き換えただけだ。問題を書き出すと、たった1行で収まってしまう。よくよく考えるまでもなく、騒ぎを起こすような問題ではない。小さな問題だから、大きくなりすぎることはないだろう、ビジネス方面にまで延焼することもなかろう。
そう思っていたが、たった1行で収まる問題が大きく広がってしまった。鎮火する方法は簡単だった。
「DVD/ブルーレイではお粥に戻します」
やはり1行で収まる発表を行えば、たちどころに騒動は収まったはずである。
しかしJ.C.STAFFはこれをやらなかった。問題がただただ広がり、自然に鎮火するまで何もしないで放置である。それで、まだ鎮火はしておらず、人気アニメだった『さくら荘のペットな彼女』は挽回のチャンスなく転落したままである。これは完全に対策の立て方を間違えた(いや対策ではなく何もしなかったが正解)
アニメ業界が外へ向けての政治的な振る舞い方がいかに下手だったか、それを示す事件だった。これからは業界に閉じこもるだけではなく、外へ向けたメッセージをいかに送るか、世論の流れをいかに掴むか、がアニメの作り手にとって必要な感性でありスキルになり得る。そういう事情をよく理解するべきだろう。

ニコニコ大百科→『さくら荘のペットな彼女原作改変問題

元ツイッター→とらつぐみツイッター

 

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■2012/10/16 (Tue)
この記事は、ツイッターに投稿されたツイートをまとめた記事です。

ネタバレあります。

劇場版『魔法少女まどか☆マギカ《前編》 始まりの物語』

『魔法少女まどか☆マギカ』が初めて我々の前に姿を見せたのは2011年4月の春である。
その作品は一見すると日曜日の朝に放送しているような明るい変身少女を描いたアニメ。しかし何かが違う、何かがおかしい。そんな予兆をどこかに孕みつつも、当初はあまり話題にされることもなく、その時期に始まる多くのアニメとともに埋もれてしまっていた。
この作品の評価が一変したのは、間違いなく第3話。巴マミの死亡。この瞬間、我々はこの魔法少女を主人公にしたアニメは今までに知られてきた、定石として語られてきたアニメと違う、と気付いたのだ。“定石を踏襲しつつ、定石を徹底的に破壊したアニメ”。ある種の革命がこのアニメの中では描かれてきた。
その後の話はここで記すまでもない。『魔法少女まどか☆マギカ』は従来のアニメ層をはるかに飛躍した支持を獲得し、『文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞』『星雲賞』『アニメーション神戸作品賞』『ニュータイプアワード』その他数え切れない栄冠を手にし、その評判は国内にとどまらず世界へと広がっていき大絶賛の嵐は今現在も止む気配はない。
そして2012年10月6日――あれから1年の時を経て、劇場版が完成した。

“劇場版”である『魔法少女まどか☆マギカ』は3つに分割されて劇場公開されることとなった。その《前編》《後編》はテレビシリーズを原作とする総集編である。

《前編》は物語の導入から、少女達が底なしに転落していく様が描かれる。ストーリーはテレビシリーズとほぼ同じ内容が踏襲される。構図や作画に目立った変化はない。劇場向けに線が修正されたかもしれないが、比較しないとわからないレベルだ。新規カットは編集のリズムが変わったので、その必要に応じて追加された、といった感じだ。
線が修正されなければならない理由は、劇場アニメが大きなスクリーンで投射されるからだ。テレビシリーズだと、テレビのサイズだけを意識すればいい。家庭用テレビはさほど大きくもなく画面の精度もさほど高くないから、ある程度の妥協が許される。しかし同じ素材を劇場に持ってくると、途端に“粗”が目に付いてしまう。線のはみ出しや抜け、クリンナップのムラ。劇場アニメを描く場合、これらに気を遣ってより丁寧な作業が求められる。
(もっとも、最近のテレビは大型化し密度も高く、しかもブルーレイのような再現度の高いメディアも登場しているので、テレビでも劇場クラスの配慮をしなければならなくなっている)
劇場版《前編》はテレビシリーズを1話~8話をまとめた内容で、130分である。およそ1本分の尺が減っている。話の進みはテレビシリーズより性急に、濃厚に描かれる。話の進行をスムーズに行うために、台詞のやりとりなどが変更され、新規カットはその接ぎ穂として必要なぶんだけ描き足されている。
第2話はさっと流すように、必要な要素である“魔女のキッス”という設定とバトルシーンが描かれ、第3話の巴マミが死ぬまでの時間はかなり短くなっている。時間の確認はしていないが、30分から40分といったところ。普通の娯楽映画としてみると、物語の転換はかなり早いほうの部類になる。
決定的に変わったのは背景画と音楽だろう。背景画はほぼ全てのカットに対して変更、グレードアップが求められている。作画の変更は、この背景に合わせて行われている、といった感じだろう。
例えば冒頭の登校シーン、はしゃぐ鹿目まどか、美樹さやかを志築仁実が咳払いして諫める……ここでテレビシリーズでは場面がいきなり変わり、学校の前が描かれていたが、劇場版ではカメラが反転して公園の向こう側が描かれるだけになっている。
ファーストフードの店も設定が変更されたために作画はほぼ全て新しく描き直されている。台詞の間は切り詰められ、“敢えて描かれた無駄話”も切り落とされ、ここでも展開が性急になった。
教室の場面も背景が変更され、ガラス張りだった教室は枠となるフレームが描き足されている。
頻繁に登場する屋上の場面は、どこかのゴシック建築のような風景となり、周囲を尖塔が取り囲む重厚な場面に変わっている。ここは心理的な独白を語る重要な場面と見直されたためだろう、(学校という設定や、他の場面とのデザイン的な整合性を無視し)そういった場面に相応しい重厚さがこの場面に与えられた。
音楽、音響演出は注目すべきポイントである。音楽はテレビシリーズをオリジナルとしているが、そのまま使用されている楽曲はおそらく少ない。BGMがかけられるタイミングもかなり変更され、テレビ版と違う趣を持った心理描写、アクションはよりグレードが上がっている。もっとも注目すべき楽曲は巴マミが死亡する寸前にかかるKalafinaの歌唱曲、マミさんのテーマで知られる『Credens justitiam』に歌詞が付け加えたバージョンで、死亡寸前の明るい感情がより強調的になった。
後半に掛けて、美樹さやかの魔法少女コスチュームの設定に変更が加えられたために、そのぶん作画修正も多くなっている。ソウルジェムの秘密が明かされる場面の流れに変更が加えられ、ここにテレビシリーズとの注目すべき違いが現れている。またソウルジェムを投げ捨てる場面、家を飛び出してきた鹿目まどかが私服を着ている設定に変わっている。おそらく初めての私服姿ではないだろうか。
佐倉京子が常に口にしているお菓子だが、多くの場面で変更が加えられている。テレビシリーズと同じものを食べている場面は僅少だ。
《前編》の上映時間は130分。計算すると1本分削られているわけだが、ほぼ全てのエピソードが余すところなく詰め込まれている。ドラマを描くための必要な情報は極めて多く、場面転換の数が多いために、いささか性急気味、余白や余韻の少ない作品になっている。
通常の娯楽映画の場合、大きな場面変換は20分~30分であるが、《前編》の場面転換はおそらくそれよりはるかに早く、エピソードの量も多い。その分、転落していく少女達の姿が“矢継ぎ早”といった勢いで描かれ、観客をどろっとした暗部のあるドラマに飲み込まれていくような作品となっている。

もはやお約束だが新規カットにいくつかのミスが発見される。
まどかのノート、クローズアップでは鉛筆画なのに、ロングサイズになると色付きになる。
巴マミの髪飾りから巻き巻きに繋がる髪の毛が消失する。
病院の屋上で演奏する上条の場面の最後、1コマだけ目蓋が消失する。髪の毛の線など頻繁に消失している部分はあるが、目蓋という目立つ部分で、しかも劇場スクリーンとなるとこのミスはひどく目に付く。
また上条が音楽を聴いている場面、イヤホンの先にあるはずのCDプレイヤーが消失している。
他にもあると思われるが、私が確認できたのはここまでだ。DVD/ブルーレイで修正されるだろう。

10月9日のツイッターより


劇場版『魔法少女まどか☆マギカ 《後編》永遠の物語』

《前編》が濃縮還元、性急気味・詰め込み気味だったのに対して、《後編》の物語はかなりの余裕を持って登場人物の感情が丁寧に描かれ、クライマックスへの導線がしっかり描かれている。
テレビシリーズにはなかった場面や台詞が多い。美樹さやかが魔女に変貌する場面から始まるが、戦闘はより激しくなり、アクションの段取りは細かく、佐倉京子の心象を示す台詞が追加され、より感情移入しやすい展開になっている。
暁美ほむらの過去が明かされるシーン。テレビシリーズでは新しいエピソードを区切りにして描けたが、一貫した流れを持っている劇場映画では接ぎ穂となる部分に多くの追加カットが足された。不吉な夕日をバックにした墓場のシーン、それから時間が遡っていく描写。それから暁美ほむらの過去へと物語は移っていく。
《後編》は全体を通して作画の変更が多く、暁美ほむらの過去の場面にもいくつか変更があるが(ドラム缶を叩く直前の暁美ほむらや、ほむらが鹿目まどかを撃つ場面でまどかが手を伸ばすカット、それからまどかの体内から魔女が発生する場面など)、音声素材だけはテレビ版のものがそのまま使用されている。劇場版は、テレビシリーズと違う時間軸を想定して作られているが、暁美ほむらの過去の場面だけは“動かざる事実”として扱われているために、そのままの演技が使用されている(ただし「ウィヒヒ」はカットされている)
暁美ほむらの過去エピソードの終わりに、テレビ版のオープニングが使用されている。テレビ版では失敗ばかりしている魔法少女まどかが描かれている場面が(テレビ版で“詐欺”と呼ばれたシーン。劇場版ではすでにそんな場面などないとわかっているので相応しくなかったのだろう)、劇場版では暁美ほむらに描き直されている。一つの映画の中に2度もオープニングが入る構成は通常の劇場映画の定石から外れるが、この作品においてはなくてはならない要素の一つであり、テレビ版オープニングの歌詞が暁美ほむらの心象を現しているために、より重要である。(映画を作っているのではなく『魔法少女まどか☆マギカ』を作っているから、こうなったのだろう)
音響演出は全て作り直されているが、目立った違いはやはり鹿目まどかが魔法少女になる決意を固めた場面だろう。テレビシリーズでは、鹿目まどかの微笑みをラストシーンとして次エピソードへ移ったが、劇場版ではやはり一貫したエピソードとして描くために、音楽の流れに切れ目をなしにして1つのシーンとして描かれていた。
もう一つの変更として注目すべきは、鹿目まどかが女神となった後の場面。DVD・ブルーレイでは肌色の裸が描かれていたが、劇場版では劇団犬カレーによるナイスフォローが描かれている。
劇場版の《後編》は鹿目まどかと暁美ほむらの二つの分離されていたエピソードが1本に束ねられた構成になり、鹿目まどかと暁美ほむらの感情はより接近して交差するように描かれている。
上映時間は109分。テレビシリーズをそのまま繋いだ物よりも少し長くなっている。削り取られた場面がなく、さらに登場人物の心理描写が補強されたからだ。それに作画はより美しく刷新され、『魔法少女まどか☆マギカ』の決定版であり完全版として制作され、またそう見るべき作品となっている。鹿目まどかは物語の最後にアニメ史上最も美しい輝きを持つ女神へと変化するが、この作品もまた同等の輝きを持った不滅の名作として語り継がれていくだろう。


さて、《前編》《後編》の物語は終わったが、『魔法少女まどか☆マギカ』というサーガはここで終わりではない。これから本当の結末である第3部へ、新たな物語へと進んでいく。
ここで私個人的に制作側にお願いしたいことがある。可能な限り情報は出して欲しくない。『魔法少女まどか☆マギカ』がセンセーションな作品であったのは、“誰も何が起きるかわからない”からだった。
テレビシリーズが始まった当初、公式サイトには大雑把な粗筋しか書いておらず、どんなストーリーなのか想像する余地すらなかった。この段階で佐倉京子に関する情報はばっさり切り落とされていた。
テレビシリーズの第1話2話には脚本家の虚淵玄の名前すら書かれていなかった(DVD・ブルーレイでは書かれている)。虚淵玄の名前は、その筋の人にはそこそこに有名で、この名前を出すと知っている人にはある程度物語の予測ができてしまうためだ。
“何が起きるかわからない”は制作の現場でも徹底された。アニメーターは絵コンテをもらって初めて続きの話を知る、出演者も台本をもらって初めて続きの話を知る、と現場レベルでも秘密主義が貫かれていた(出演者が台本をもらうのは、いつも収録の前日。それまで誰からも続きを教えてもらえなかったそうだ)
“この話どうなるんだ? この子達はどうなってしまうんだ?”『魔法少女まどか☆マギカ』に関わった全員が先の読めない物語の中に放り込まれ(制作スタッフも同じ立場に放り込まれていた)、意見を言いあったり予想したりと、そういった盛り上がりがあり、その盛り上がりを(主にネットを通じて)共有できたからこそここまでの大きな話題を持った作品になり得たのだ。
早く続きを知りたくて皆がテレビに釘付けになった。もう何年も前にテレビがなくしていた一体感であり、『魔法少女まどか☆マギカ』はそれを取り戻した作品だった。
映画も同じようであって欲しい。可能な限り情報は公開しないで、いきなり観客を劇場の中へ、物語の中へ放り込んで欲しい。『魔法少女まどか☆マギカ』という作品はもう充分に人々に知れ渡っているだろう。だったら余計な情報はもう必要ない。

それからもう一つ。《前編》《後編》は43館という規模で封切られたが、明らかに数が少ない。私が行った(県内唯一の)映画館では人があまりも多すぎで、最初の2日間は予約で全席埋まっており、映画館へ行っても劇場へ入れない状況だった(実際に《後編》は朝10時に全回予約で埋まった)。私は《前編》を3日目に観に行ったのだが、パンフレットはすでに売り切れだった。グッズ類もあらかた売り切れで何も手に入らなかった。
《前編》《後編》はテレビシリーズの総集編である。これは当初から宣伝されていたことであり、だからあえてこの2本をスルーしたという人も多いだろう。しかし第3部を観たい、という人は多いはずだ。《前編》と《後編》とは明らかに違う勢いで人が来ると予想される。《前編》と《後編》と同じ規模で劇場公開などをしたら、暴動が起きるだろう。何時間も劇場前に並んでいるのに映画が観られない、なんて状況があり得る。
これは制作サイドの見込み違いがあったのだろう。『魔法少女まどか☆マギカ』は多くの賞を得て評判になったものの観る人が限定される深夜アニメだ。しかも《前編》《後編》はテレビシリーズの総集編だ。そこまで人が来るなんて、予想しなかったのだろうし、誰も予想しないほどに作品が広がっていたのだ。
だから第3部は劇場館数を増やすべきだ。作り手にとってこれは儲けるチャンスだ。この機会を逃す手はないだろう。

10月15日のツイッターより

つづき
劇場版魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語

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魔法少女まどか☆マギカ批評 後編



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