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■2013/04/06 (Sat)
b1ae9459.jpeg2006年の冬。映画監督のアリ・フォルマンは古い友人であるボアズ・レイン=バスキーラに呼び出されて、夜のバーで会っていた。ボアズとは同郷の友人で、1982年のレバノンの内戦にイスラエル国防軍として共に参加していた。
「……26匹の犬がホテルの下に集まっていて吠えているんだ。凄い剣幕で殺してやるってね」
「26匹? なんで26匹だってわかる?」
ボアズはちびちびと酒を飲みながら、とりとめのない奇妙な話をし始めた。聞くと、それは夢の話だという。ボアズは2年前から同じ夢を繰り返し見ているという。
アリ・フォルマンは意図が読めず苛立つ。なぜ26匹なのか、なぜ夢の話なんて始めたのか――。もちろんボアズの話には理由があった。
「レバノンでの話だよ。パレスチナゲリラの捜索で、ある村に入った。その時、犬が臭いを嗅ぎつけて吠えだした。これじゃ村人が飛び起きて、かくまっているゲリラを逃がしてしまう。犬を始末しないと、こっちの身が危ない。それで指揮官に言われたんだ。「よしボアズ、お前が行って犬を撃ち殺して来い」と。全部で26匹。1匹1匹ぜんぶ憶えている。顔立ちも傷跡も。目つきだって26匹ぶん、鮮明に覚えているよ……」

b439e979.jpeg戦争のトラウマ。ボアズは20年経った今でも、あの戦争から逃れられずにいた。ボアズがアリにこの話をしたのは、おそらくは同じ戦闘に参加して、同じ立場を知り、理解してくれる友人だと思ったからだ。そのボアズの考え方は正しく、アリはボアズを心配し、慰めて別れた。
しかし一方のアリは――?
戦争での出来事など何一つ思い出せず、あろうことか戦争に参加したことすら忘れていた。
なぜ戦争での出来事を忘れてしまったのか? あれだけ凄まじい体験をしたのに? なぜ20年間もずっと思い出せずにいたのか?
アリは自身の記憶を追求していく。なぜ忘れてしまったのか。なぜ思い出そうとも思わなかったのか。それは、あの事件……サブラ・シャティーラで起きた虐殺と関係していた。

違和感。
808dd0be.jpeg映像と接して、最初に感じたのは違和感だった。映画の冒頭、犬が町の中を疾走する場面から始まる。カメラがもの凄い速度で犬を追跡し、犬も激しいアクションで四肢を動かし目の前に塞がる椅子や箱や人間を蹴散らして疾駆する。しかしその動きに、躍動はまったくない。走る犬に表情の動きはなく、4本の足だけが、身体から分離して動いているように見える。体を纏う毛並みは、接着剤で固めたかのように動きはない。
この映画は一見すると『スキャナー・ダークリー』のようなロトスコープで制作されたように見えるが、実はフラッシュアニメの応用で作られている。犬の走る動きが、体と足、分離して見えたのは錯覚ではなく、実際に足と体は分離されて、フラッシュアニメの技術で動きが与えられていたからだ。
映像は実写撮影されたものを元にアニメーション化されているために、非常にリアルスティックな印象を与えるが、イメージや動きやあまりにも超現実的で、違和感ばかりが浮き上がってくる。が、実はこの違和感こそ、監督が狙い、作為的に演出されたものだった。

映画監督のアリ・フォルマンは20年前のレバノン内戦で何が起きたのか、自分が何をしたのか、同じく戦争に参加した戦友達と会って掘り下げていく。
そこで遭遇したのは、シュールな体験話ばかりだった。
3a32a723.jpegカルミ・クナアンはこう語る。
レバノンに向かうクルーザーに乗っていると、時々奇妙な幻覚に出くわした。巨大な裸の女だった。裸の女が海から這い上がってくると、自分をさらって海の中へと潜っていく。カルミは女の体にすがりついて、海に浮かぶ船を見ていた。すると突然、爆撃機が通り過ぎて船が真っ赤に炎上する。仲間達が燃え上がって船から飛び降りるのをカルミは他人事のように見ていた。
その後、ようやくレバノンに上陸する。興奮していたカルミとその仲間達は上陸と同時に目に見えるものをとにかく撃ちまくった。ようやく落ち着いてみて確かめて見ると、自分が撃ったのは家族を乗せた車だった……。

d53cd30e.jpeg現実と非現実の崩壊。戦争に参加した記憶が曖昧で歪んでいるのはアリばかりではなかった。誰に戦争体験を聞いても、どこか違和感のある現実味のない話ばかりだった。彼らの話は間違っていないが、何かがおかしい、どこか歪んでいる、そういう話ばかりだったのだ。
戦争とは、タブーのそのものである。
一般的な社会では、人は決して殺してはならない。怪我をさせてもならない。その逆で、普通に過ごしていれば自分が誰かに殺される心配はない。もしも死体が出現しても社会が徹底的に目眩ましをかけて隠してくれる。死体を公共の場に見えるようにしておくことは、現代では決して許されない行為であり、もっといえば、死を想起させる一切の言葉や現象すらタブーとして扱われる。
しかし戦争になると、これらのタブーは一挙に反転する。
戦争状態に入ると、兵士は人を殺すプロフェッショナルとしての訓練を受け、戦場では人を殺さねばならない。殺すことが第一の目的で、人を殺さねば規律違反として罰や叱責を受けてしまう。
また戦場においては、自分が殺されるかも知れない恐怖と戦わねばならなくなる。現代人の思想にとって、最も恐るべき現象は自身の死だろう。次の瞬間には殺されるかも知れない、一方、殺さねばならない。殺す対象は自分たちのような訓練された兵士だけではなく、武器を持たされた子供も混じっているのだ。この両者を極端な状態で煮詰めた状況が戦争なのだ。そのストレスに、戦場の兵士達は精神を崩壊させていく……。

a407febd.jpeg実際に戦争に参加した元軍人に話を聞くと、戦場での体験はどこかぼんやりと霞んでいると言う。あれは、そう、戦争映画でも見ているような、そんな感じ。あるいは、最近のリアルスティックに作られたゲームをやっているような感じ。現実感が、その時にもその後にも思い返してみてもないのだという。
『戦場でワルツを』ではこんな話が紹介されている。
とある若いアマチュア・カメラマンは何度も戦争に立ち入って写真を撮っていたが、恐怖は感じていなかったという。日帰りの旅行みたいだと思っていて、兵士や兵器がずらりと並ぶ様子に子供みたいに興奮してカメラを撮っていた。
が、ある時、カメラが壊れてしまった。するとカメラマンは、途端に戦争の現実が目の前にあるという事実に気付き、耐えがたい恐怖に囚われたのだという。自分が戦争の只中にいる、という現実を処理できず、パニックになったのだ。カメラマンはその時になって初めて、ファインダーの向こう側にある何かではなく、戦争の当事者になったのだ。

b831f0d5.jpeg耐えがたい状況を直面すると、人間は自分を守ろうとして感覚や記憶の一部を封印したり、あるいはファンタジーを作ったりする。
アリ・フォルマンの場合、あるイメージだった。水の中に浮かんでいる自分。夜で、空には照明弾がきらきら輝いていて、アリはぼんやりした意識でそれを見ている……という光景だった。あの時の戦争を思い出そうとすると、真っ先に出てきたのはそのイメージだった。
創作というものは、作家の中ですら勘違いしている人があまりにも多いが、ゼロか作られるわけではなく、なにかしらの原型が常に存在する(もしもゼロから新しいイメージを作れるという人がいたら、それは人間ではなく神だ)。その原型というのは、大抵は作家自身が体験し、その体験を解体した上で自身の生理感覚で組み替えられ、美意識に従って磨き上げられたものである。真の意味での“オリジナル”と呼ばれるものは、実は存在しないのである。
アリ・フォルマンが抱いた光景はまさにそれだった。実際に起きた出来事を、直接的な場面については自分の精神を守るために封印し、レバノンで体験した様々な出来事を解体して“美”というオブラート(と慰め)が与えたうえで再構築されたものだった。アリ・フォルマンが最初に思い出したというイメージは美しく、静謐で、幻想的な空気すら漂っている。しかしだからこそ、その背景には恐るべき真実が隠されていた。

ddd383d0.jpeg戦争はいつだって非現実的なもの――。それは戦争を体験している者にとっても、戦争の後方にいるあらゆる人にとっても同じだ。
アリ・フォルマンがレバノンの市街地に入った時、奇妙な光景を目の当たりにする。
突然、手前のホテルから敵の銃撃を受ける。しかし敵の姿が見えない。アリたちの部隊は近くの溝に飛び込み、銃弾をやり過ごそうとするが、銃撃は激しく兵士達はそこに釘付けになってしまった。
激しい銃撃戦である。銃弾が飛び交い、ちょっとでも顔を出すと撃ち殺されてしまう。そんな戦闘の最中を、テレビ特派員のロン・ベン=イシャイが悠然と、まるで近所を散歩でもするみたいに、あるいは観光客が珍しい恐竜の剥製でも見るかのように歩いていたのだ。
映画はもちろん、イシャイへのインタビューも敢行している。イシャイはその時に見た光景を、こう語っている。
「確かにあれは大きな十字路になっていて、道路は片側車線で、ハムラ通りへと繋がっている。西ベイルートのハムラ地区へ、直接行けるんだ。やたらしゅーしゅーと音がしていたのを憶えているよ。ロケット砲が放たれる時にそういう音がするんだ。ドカンという爆発音は聞こえてこなかったが、しゅーしゅーという音と、壁が砕け散る音はやたら憶えている。顔を上げると、そんな修羅場を、住民達がベランダから見ているんだ。中には女性もいたし、子供も老人もいた。映画か何かをみているみたいに、他人事なんだ」
イシャイが見た光景が映像の中に再現されている。激しい銃撃戦からそう遠くない、というか目と鼻の先のアパートのベランダに、人が一杯出てきていて、戦闘を見ている。まるで火事場に集まってくる野次馬のように、みんなで銃撃戦を見物しているのだ。

5ba13f29.jpeg違和感。
誰にとっても同じだった。みんな戦争を体験したのに、戦場にいたのに、あるいはその戦場となった場所に住んでいるのに、誰も戦争という状況に現実を感じていない。戦争という現実は確かにそこにあるのに、誰もが遠くに感じていて、物見遊山する観光客の感覚で、身に降りかかっているはずの状況にリアリティを感じていない。あるのは違和感。『戦場にワルツを』はその違和感そのものを描いている。
しかし状況を虚構に置き換えるための道具……カメラマンで言うところのカメラはいつか壊れてしまうのだ。その時、初めて人々は、個人は戦争という状況が目の前にあることに気付き、衝撃を受ける。
アリ・フォルマンはかつての仲間達の証言を組み合わせて、かつて何が起きたのか、レバノンで自分が何をしたのか、頭から離れないあのイメージを解体して、それぞれに意味を与えて、現実的な像を見つけ出していく。映画の後半に入り、“真実”がじわじわと浮かび上がってくる。違和感しかなかった戦争体験は、やがて実感のある実像に変換されていく。これが戦争だ、と。これがあそこで起きた本当の出来事だったんだ、と。

d84ff23b.jpeg驚くほど深いテーマが物語と映像の両面に与えられた作品である。映像の作りも、編集の構造も、素晴らしく完成度が高い。隅々まで監督の意図と理性が行き届いている。またテーマに対して個別に表現方法が模索されている。アニメーションとして制作されたのは、アニメーション映画を作ろうという前提でスタートされたものではなく、表現方法(あるいはテーマ)を追求して結果としたアニメーションになったのだ。
こういった深みのあるテーマを持った作品は、日本の商業アニメの中から見出すことはできない。日本の全てのアニメはこの作品の前に完全敗北である。日本のアニメは間違いなく最高級の技術を持っており、技術面だけで言えば『戦場のワルツ』でもつけいる隙はあちこちにある。冒頭の犬の動きにしても、途中で差し挟まれる空手の演武にしても、躍動がないし、コマの扱い方が下手だ。だが、テーマの大きさという一点において、この映画に優る作品は日本のコンテンツの中にはないだろう。(日本のアニメは、『機動戦士ガンダム』をはじめとして戦争をテーマにした作品も多くあるが、実際的な戦争や兵士の心理を追った作品は皆無だ。『機動戦士ガンダム』にしても、戦争を描いていながら実際には少年の成長物語だし、少年の命はガンダニウム合金という固い殻に覆われて危険に及ぶことは決してない。『戦場でワルツを』にも「戦車の中にさえいれば安全だと思った」と語る場面はあるが、その安心感は実際の戦闘が始まった瞬間打ち砕かれる。一発の爆撃で戦車は吹っ飛び、兵士は狙い撃ち去れ、ボロボロになりながら逃げ去っていく……。日本のロボットアニメで、こういった場面に相当する描写は多分一度もない。ロボットアニメが描くロボットはどんな時も絶対無敵で、アメージングな存在で、どんな危険を前にしても、どんな兵器を前にしても平気で切り抜けてしまい、それが当然だと誰もが思っている。この一点だけでも、日本のロボットアニメは『戦場でワルツを』というたった一作の前に全面敗北する)
アニメ作家は、あるいはアニメを目指す人にはぜひ見て欲しい作品だ。

戦争は、親が少年を寝かしつける時に聞かせるものだった。激しい戦場、その中で繰り広げられるヒロイズムの乱舞。少年は英雄物語に夢中になり、その主人公である父親を尊敬する。いつか自分も戦争に参加して、父親のような武勲を得たい……。若者が戦争に参加する時に抱くある高揚感は、少年時代に父親から聞かされたものだった。
そして、現実に直面して打ち砕かれる。
戦争はいつだって非現実的なもの。戦争は体験していない者に語っても、フィクションにしかならない。格好いい英雄譚と解釈される。
それは兵士達にとっても同じだった。目の前で繰り広げられる状況の凄まじさに精神は閉じ、やがて何も感じられなくなるか、あるいは戦争の現実を何か象徴的なイメージの断片に置き換えられ戦争そのものは思い出せなくなる。
戦争の後方にいる人にも、戦争を体験した者にも、戦争という現実はどこか実体のない空虚なフィクションでしかない。戦争はいつだって非現実的なもの。それは全ての人にとって同じ価値観なのかも知れない。しかしそんな虚構も心の防壁も打ち破られて、いつか彼らが、私自身が戦争の当事者になる日がやってくるかも知れない。

監督・脚本・製作・出演:アリ・フォルマン
美術監督・イラストレーター:デイヴィッド・ポロンスキー アニメーション監督:ヨニ・グッドマン
音楽:マックス・リヒター 編集:ニリ・フェレー
出演:アリ・フォルマン ミキ・レオン オーリ・シヴァン
    イェヘズケル・ラザロフ ロニー・ダヤグ シュムエル・フレンケル
    ザハヴァ・ソロモン ロン・ベン=イシャイ ドロール・ハラジ
※ボアズ・レイン=バスキーラを除いて全て本人が出演している。





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■2013/04/03 (Wed)
――グリッド。
7fa492a2.jpegそこはコンピュータの中に構築された世界。グリッドの中では、プログラムがあたかも自立した人間のように行動し、日々の生活を送っていた。プログラムたちの世界は小さないざこざを抱えながらも全体としてみれば平穏そのものだった。
しかし、テスラー将軍率いるクルーたちがやってきた。クルーは軍隊を率いて、プログラム達の社会を征服し、恐怖政治を敷こうとしていた。
そんなクルーに反抗するたった1人の男がいた。トロン……。グリッドの世界では英雄と呼ばれる男だった。
トロンはクルーの軍勢と果敢に戦い、圧倒するものの最後には破れ、殺されてしまう……。

グリッドの中に、アルゴンと呼ばれる街があった。ここではクルーとトロンの死闘の舞台から遠く、まだ平和を保っていた。しかし、間もなくテスラー率いるクルーたちの侵略が始まってしまう。
ベックはアルゴンの街でメカニックを営む平凡な男だった。だがクルー達がやってきて、理由もなく仲間達が拘束されてしまう。最初は横暴なクルー達に関わろうとしないでいたベックだったが、仲間が殺された瞬間、戦う決意を改める。ベックは単身クルーの基地に乗り込み、戦い、クルーのシンボルである像を破壊する。

そんなベックの行動は予期しない人物の目にとまった。トロン。死んだはずの英雄だった。
トロンはかつての戦いで辛うじて生き延びたものの、これ以上の戦いは困難なくらい負傷していた。だからトロンは自身のディスクを託し、こう言う。
「俺の名を継いでくれる者が必要なんだ。後継者になってくれ」

こうして、ベックがトロンとなるための戦いが始まった。


■登場人物■

3e23a720.jpegベック(イライジャ・ウッド/伊藤健人)
本編主人公。アルゴンの街に住む、平凡なメカニックだったが、友人がクルーに殺されたことを切っ掛けに“反逆者”として生きる道を選ぶ。


e0646926.jpegトロン(ブルース・ボックスライトナー/高瀬右光)
グリッド世界の英雄。世界の平和を守る戦士。しかしクルーたちとの戦いに敗れ、負傷した。現在はベックを後継者とするべく、指導に当たっている。

4d305711.jpegゼッド(ネイド・コードリー/高坂宙)
ベックと同じ職場で働くメカニック。ベックの良き友人。腕はいいが、判断力に欠け、失敗も多い。


ad53de2e.jpegマーラ(マンディ・ムーア/山口理恵)
ベックやゼッドと同じ職場で働くメカニック。しっかり者で、失敗の多いゼッドをいつも助けている。


b0db902b.jpegテスラー(ランス・ヘンリクセン/西凛太郎)
悪の軍団クルーを率いる将軍。グリッド全土を支配し、恐怖政治を敷こうと企んでいる。トロンを恐れ、執拗に追跡している。



04ef866b.jpegペイジ(エマニュエル・シュリーキー/棟方真梨子)
テスラーに忠誠を誓う女。テスラーの右腕として働く。身体能力が高く、自ら戦闘に参加してベックと戦うことも多い。

2a981a67.jpegパヴェル(ボール・ルーベンス/白熊寛嗣)
ペイジと同じく、テスラーの右腕として活動する。知恵に長け、参謀役として陰謀を画策する。野心家であり、常にテスラーの賞賛を得ようと考えている。ペイジとは対立関係にある。


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18e8bc1d.jpeg1982年に制作された『トロン』は、初めてデジタル技術が映画に使用されたことで知られる。それから28年後の2010年、28年越しの続編が制作された。『トロン:レガシー』である。『トロン:ライジング』は、『トロン』と『トロン:レガシー』という2つの物語の間に横たわる20年を埋めるために制作された作品である。
第40回アニー賞でキャラクターデザイン賞と美術賞を受賞。劇場版の監督であるジョセフ・コシンスキー、脚本には同じく劇場版を担当したアダム・ホロウィッツとエドワード・キッツィスの二人が参加している。主演にイライジャ・ウッド、トロン役には劇場版と同じくブルース・ボックスライトナー。ディズニー・アニメーションが全精力を傾けて制作するのがこの『トロン:ライジング』であり、スピンオフでありながら『トロン』という一大サーガの重要な核となる役割を持つ作品となっている。

『トロン:ライジング』が描く世界には生身の人間は登場してこない。すべてがプログラムだ。完全に自立した人格を持ったプログラムであり、グリッドの中に構築された都市や社会はプログラム達が運営している。
『トロン』が描く世界は、ある種の擬人化の世界であり、擬社会化された世界での物語である。グリッドの住人達はプログラムであり、自身もプログラムであるという認識の下で日々を送っているが、思想や行動は人間そのもので、人間社会と似たような社会状況を――友人がいたり、恋仲になったり、また対立したりといった普遍的な人間社会に見られるような光景をプログラム世界で構築している。
85bf01bc.jpeg映像が独創的だ。何もかもが鋭角的に切り取られたシャープなデザインに、光線が与えられている。街の風景などは、光のレイヤーのみでディティールや奥行きが表現されている。プログラムの世界だから現実世界のような“汚れ”がないために、光の当て方で映像的な奥行きを表現しようとする。ロングサイズでは光の層だけで街が浮かび上がるが、この描き方がなかなか美しい。
物語はテスラーが悪の軍団の約束事みたいに毎回なにかしらの陰謀を企み、それをベックが潜入して阻止するというのが定番の構造となっている。そのためにアクションが中心となり、日常を思わせるものが何一つ登場してこない。が、アクションそのものは疾走感ある展開で実に痛快だ。肉弾戦、爆破、それからバイクによるチェイスシーン。プログラム達は皆《バトン》と呼ばれるアイテムを持っており、これを2つに折って投げるとバイク《ライトサイクル》が出現するという仕組みである。
この物語中いつでも出したり引っ込めたりできるライトサイクルが、映像をなかなか印象的にしている。肉弾戦、脱出シーン、それからライトサイクルでの疾走という一連のアクションの動きが、映像の移動速度を高めるだけではなく、物語に滑走するような勢いを追加している。いつでもどこでもライトサイクルを出せる状況が、人間のアクションだけでは表現しきれないスピード感を加味し、映像を刺激的な活劇に仕立て上げている。
登場人物は、極めてシンプルな色彩で切り分けられている。正義は青。悪は赤。救世主であるトロンは白。白のトロンに対して、プログラム世界の住人の基本色は黒だ。主人公側のコミュニティはもちろん青い光をまとっているのだが、その中でも黄色に輝くリングをはめていたり、登場人物を見誤ることはなく、また色彩の効果だけで人物の背景までわかる仕組みになっている。
adeecfa5.jpegキャラクターデザインは、全体を見ても無味無臭な黒のスーツに発光のみという個性を出しにくいスタイルだが、その中でも様々な工夫が見られる。最重要となると思われる顔面部分――基本的には個体差はもはや顔面以外なにもないのだが、シンプルに造型されているが、骨格が誇張され、顔に貼り付けられたパーツではなく、骨格の形でキャラクターが識別できるようになっている。こういった発想は、日本の漫画・アニメ界にないもので、なかなか新鮮だし学ぶべきところでもある。
色彩や骨格……。極限にまで切り詰められたシンプルさと誰が見ても明らかな個性の作り方によって、世界観そのものを容易に識別できるように作られている。この作りの見事さには学ぶべきものは多い。

29857344.jpegしかし映像作品として見ると、技術の低さや粗さが目に付いてしまう。
例えば人物の骨格は、股間部分が極端に切り上げられていて、手や足がひょろっと長く見えてしまい、力のない棒っきれのような印象だ。胸や腹にも筋肉を感じさせる隆起はなく、ぺらっとポリゴンの板を貼り合わせたような貧相さしか感じない。肉体でキャラクター間の個体差を表現しようという努力は完全に放棄されていて、個体差といえばせいぜい男女の性差、バストの有無だけしか描き分けられていない。
画面は静止画だけを見るとなかなか美しく見えるが、動き始めると途端に平面的な人形劇になる。基本的にアニメーションの出来が悪い。一つ一つの動きが、動きの全体から浮き上がってしまい、動作に一連の流れが感じられない。さらに抑揚がなく、例えば大きなアクションをする手前に、構えたり腰を沈めたりといった予備運動は一切しない。何もかもがいきなりで、ひゅん、ひゅんと力感なく飛び交ってしまっている感じだ。動きに何ら抑揚も尾を引くものもない。
アクションが中心だというのに、格闘アクションには肉体がぶつかり合う重量感はまったくない。重量感がないから、動きの軌跡が美しく見えず、動きがくちゃくちゃに混乱しているように見え、また力学的な感覚がなくぶつかり合うからひょろひょろと組み合って倒れている、というようにしか見えず、アクションで燃え上がるものがなにひとつない。
1f2ea58d.jpegそもそもコマ数が少ない。これは3コマ撮りだろうか。日本のアニメもリミテッドアニメーションだが、それを感じさせることは少ない。だが、『トロン:ライジング』のアニメーションはどのシーンを切り抜いてもがたついて見えてしまう。走りの動きは日本のアニメとほぼ同じ枚数で動くのだが、足の動きに連動が感じられず、ぱたぱたと足を振り回しているだけに見えてしまう。アニメの現場に入ってきたばかりの新人アニメーターが描くような動きだ。
それから、おそらく走りの動きはあらかじめテンプレートが用意されているのだろう。どの走りも同じポーズ、同じ感覚だ。また、例えば走りからジャンプ、といったアクションの間にもやはり連続性が感じられず(間を埋める動きが殆どないか、全くない)、あらかじめ用意された動きのテンプレートを組み合わせたように見えてしまう。
a8170ac1.gif左はクラブのシーンで、激しいリズムの音楽を背景に、若者達が酒を飲んだり踊ったりしている……という場面である。しかし実際の動画を見ると、男女が異様な密度で集まって、せいぜい立ち話をしている、というくらいにしか見えない。何人か頭の上に手を置いて踊っているような仕草をしているのだが、せいぜいリズムを取るくらいである。どうにもこうにも、アニメーターにダンスシーンを描く技量がなかったようだ。
光の効果だけで街のディティールが描かれているが、これが美しく見えるのはおそらくロングサイズだけだ。接近してみると光の印象は平面的で、何より光が光と感じられない。ぼんやりとした印象で、光といわず、せいぜい色の識別ができる程度の処理でしかない。単独の光に厚みが感じられないことが、デザインの安っぽさも加わって映像をいかにも一昔前のぺらぺらのデジタル映像にしてしまっている。
bce15238.jpegアクションの核は間違いなくライトサイクルによる疾走感にあるのだが、このライトサイクルの尻に付いてくる光の効果がまったく美しくない。妙にプラスチック感覚の、固い印象のエフェクトをそこに置いただけだ、という感じだ。光に美しさを感じられないことが、映像の魅力を大幅に減退させている。
a11c65fb.jpegまた、基本的にポリゴン数は少ない。ポリゴン数が少なくとも、くっきりとしたフォルムが浮き上がるようにデザインされているのだが、それにしても人間の手足があまりにも棒っきれだ。(滅多にないが)時々クローズアップになるが、ポリゴンの粗と固さがあまりにもはっきり見えてしまう。クローズアップを想定したデザインを作っていないのだ。正直なところ、最近のゲーム機がリアルタイム演算処理した動画の方が完成度は上だ(PS4クラスとなると、あまりにも下過ぎて比較のしようがない)
アニメーションとしての完成度は、日本のアニメで例えると『gdgd妖精s』をもう少し手間暇かけてブラッシュアップした、という感じだろうか。もちろん、映像の中にはいいと感じられる瞬間はいくつもあるのだが、大抵はその一瞬だけだ。その一瞬をシーン全体の活力として引っ張り上げようという努力は見られず、また映像をよりよくしようという方法を知らないのではないか、とすら思った。

be62f3c5.jpeg映像面には問題ありだが、ストーリーはなかなか惹き付けさせるものがある。根本的にこの物語の登場人物には日常部分がまったくなく、人間的な顔をしているものの生活の感覚がまったくない非現実的なものにしているが、そのぶんストーリーの展開とアクションの流れには力が入っている。
基本的には悪の将軍テスラーが何かを企み、ベックがそれを阻止する、という繰り返しなのだが、その背景に大きなプロットの流れが意識されており、人間の情動が少しずつ変化する過程が描かれている。登場人物があまりにも少ないのが弱点だが、毎回趣向を凝らしたアクションの舞台構築と、そこに添えられる人間のドラマの連動で、作品を見る価値のあるものに押し上げている。見終わって「面白かった」と思わせる秘密がここである。
それはかつて、日本の漫画・アニメが描いていて、現在の日本が描かなくなったもの、あるいは描けなくなったものだった。毎回活劇があり、その背景に人間がいて、といった普遍的な構図。それから人間の配置を少しずつ変化させながら、大きなプロットを操作し作家が構想したクライマックスへと接近させる。『トロン:ライジング』の貧相な映像の向こう側に、日本が描けなくなったものを見つけて愕然とした思いになった。
それから、救世主トロンに扮装して戦うベックの姿は、実は普遍的なアメコミ・ヒーローの姿にだぶってくることに気付かされる。ヒーロー特有のタイツスーツを身にまとい(『トロン』の場合、全員が基本タイツ姿だが)、覆面で正体を隠して戦う。ベックと親しい友人と何度も接触するが、友人達は不自然なくらいトロンがベックであると気付かない。トロンはピンチの時にどこからともなく現れ、みんなを助けてくれる正義のヒーローなのだ。
『トロン:ライジング』はプログラム内の世界、という独創的なイメージで作られているが、底流にあるのは失われつつあるアメコミ・ヒーローの理想像だった。


作品データ
監督:ジョセフ・コシンスキー チャーリー・ビーン ショーン・ベイリー
原作:スティーブン・リズバーガー ボニー・マクバード
脚本:アダム・ホロウィッツ エドワード・キッツィス
アニメーション制作:ポリゴン・ピクチャアズ 製作:ウォルト・ディズニー・テレビジョン・アニメーション
出演:イライジャ・ウッド ブルース・ボックスライトナー エマニュエル・シュリーキー
    ボール・ルーベンス マンディ・ムーア ネイト・コードリー
    ランス・ヘンリクセン レジナルド・ヴェルジョンソン フレッド・タタサイアー
吹き替え:伊藤健人 高瀬右光 棟方真梨子 白熊寛嗣
      山口理恵 高坂宙 西凛太郎 仲野裕





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■2009/03/15 (Sun)
e6a0b50a.jpgパンダのポーは、カンフーに憧れていた。
カンフーのことなら、何でも知っていた。あんなふうになりたい、と思っていた。
でも、現実のポーはラーメン屋。
ポーにとって憧れのカンフーは、ずっと遠い、泰山の上の城のようなものだった。
そんなある日、ポーは翡翠城で“龍の戦士”を選抜する式典が催されると知る。
“龍の戦士”とは、無限の力が与えられる“龍の巻物”を手にする許可を与えられた戦士のことだ。
e1e12906.jpg中国武術では、よく動物を見立てにするが、それをその通りに描けるのはアニメの自在さゆえ。描写としては、ある意味正しいといえる。



ポーはもちろん翡翠城に行き、“龍の戦士”を指名する式典を見たいと思った。
だが、翡翠城の前には、長い長い階段。
ポーは時間をかけて、ふうふう言いながらやっと階段を登り切るが、ちょうど翡翠城の門が閉じられてしまうところだった。
門の向うで、華やかな式典が始まるが、門の外のポーには何も見えない。
ポーはどうしても“龍の戦士”が指名される瞬間が見たかった。
ポーは、花火を使って自分の体をふっ飛ばし、門の向うに飛ぼうと考える。
1adfa60a.jpgカンフー・アクションは実にマニアック。作り手による中国映画愛を感じる作品。アクションの多さは、西洋アニメとしては最も多いかもしれない。



ポーの計画はうまくいった。花火はポーの体をふっ飛ばし、高い門を飛び越えた。
だが、ポーが目を開けると、目の前にウーグェイ導師の指。
“龍の戦士”に選ばれたのは、まさかのポーだった。
この決定に、シーフー導師もその弟子であるマスター・ファイブも納得がいかない。
シーフー導師たちは、ポーを追い出すための計画を練りはじめる。
a643714c.jpg凄い!美しい!と思えるのは、せいぜい3ヶ月くらいまで。それが技術の映画の宿命。作り手は常に、観客より一歩前に進んでいなければならない。


863b5e59.jpgドリームワークス制作10本目のアニメーションは、パンダを主人公にしたカンフーアクションだ。
『カンフー・パンダ』の物語は簡潔に整理され、展開が速く、一瞬でも退屈を感じさせない。
808f3774.jpgどの場面もどのキャラクターにも、こだわりと工夫が込められ、優れた娯楽活劇として結実している。
キャラクターには、西洋アニメーションに見られる典型的な作法が踏襲されるが、題材が新しく、激しいアクションが類型的であるという退屈さを完全に覆い隠してしまっている。
安心して楽しめる娯楽映画だ。
ffa75a75.jpgぐるぐる回るカメラ。日本のアニメーションの空間表現は、所詮は背景の引っ張りだし、“付けパン”の動画は未だに勘に頼っている。これだけのアクションを描き出せる才能は少ない。


6e4a2b2e.jpgデジタル・アニメーションは、難しい宿命を抱えたジャンルだ。
どんなに優れた技術も、3ヶ月で古びてしまう。これ以上はないと思える美しい映像も、せいぜい数ヶ月の寿命だ。デジタル・アニメーションは常に技術の最先端を更新せねばならず、観客に一寸の隙も見せてはいけないのだ。
だが、デジタル・アニメーションの制作には、数年の時間がかかってしまう。
だから、デジタル・アニメーションの制作者は、数年後の時代を予想して作品を作り、技術を開発せねばならない。
せっかくの技術も、数年後の社会に大量に氾濫していたら、制作者の苦労はすべて無駄になる。
そのために題材選びは慎重に審査せねばならない。
『カンフー・パンダ』が題材にしたのは、カンフー・アクションだ。
近年、ハリウッドで急速に勢力を伸ばしつつある“カンフーもの”。
だが、まだ誰もアニメーションで本格的に制作した者はいなかった。
それに、カンフー・アクションをアニメーションで表現するには、相応の技術の開発が必要になる。
題材選び、技術開発。その両面において、『カンフー・パンダ』は正しい選択を行ったといえる。
2064a3ab.jpg中国の情勢不安や、北京オリンピックといろいろ重なってしまった映画だが、現実の政治など気にしないで観るのが正しい。作り手も、そう願うだろうから。


『カンフー・パンダ』の主人公はだらしないパンダだ。
デブで鈍くて、とてもカンフーの達人に成長しそうに思えない。
それが、潜在的な力を見出され、覚醒していく。
弟子と師匠の物語。成長のドラマ。アクション。どの要素もしっかりと組み上げられている。
実写ではありえないカメラワークに、二次元アニメではなかなか見られない三次元的な空間移動にアクション。
それに、主人公がパンダだから殺伐としない。要所要所で、笑いを添えてくれる。
物語やキャラクターにはどこか既視感があるし、それは気のせいではない。
それでも、魅力ある作品だ。娯楽映画をきちんと作ろうとしているし、間違いなく制作者の努力は成功している。
誰にお勧めしてもいい作品だ。

作品データ
監督:マーク・オズボーン ジョン・スティーヴンソン
音楽:ハンス・ジマー ジョン・パウエル
脚本:ジョナサン・エイベル グレン・バーガー
出演(英語):ジャック・ブラック ダスティン・ホフマン
    アンジェリーナ・ジョリー イアン・マクシェーン
    ジャッキー・チェン セス・ローゲン
    ルーシー・リュー デヴィッド・クロス
    ジェームズ・ホン マイケル・クラーク・ダンカン
出演(日本語):山口達也 笹野高史 木村佳乃
    中尾彬 石丸博也 桐元琢也 MEGUMI
    真殿光昭 富田耕生 龍田直樹 高木渉

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■2009/03/02 (Mon)

サンチャゴ老人は、すでに84日間、魚が釣れていなかった。
少年が一緒に行きたいと申し出るが、
サンチャゴ老人は「お前さんの船は、今ついている」と断る。
その夜も、サンチャゴ老人は一人きりで舟に乗る。
85日目の船出だった。
1c2b07f1.jpg15c5f507.jpg魚がつれなかった日数を、壁に書き付けているサンチャゴ老人。
冒頭のアフリカ旅行の場面は原作にはない部分だ。物語の背景にある広大さを予感させるためのプロローグだ。


夜が明けて、海と空が果てなく広がる。
もう、人の気配はどこにもない。老人の孤独な戦いが、すでに始まっていた。
そんな時、ふと釣り糸の一つが反応を示した。
来たか。
大きい。とてつもなく大きい。それに、凄まじい力だった。
一匹の魚は、老人を引き倒し、小さな舟を引きずろうとする。
それは、老人が今までに見た経験のない巨大な魚だった。
一人の老人と、一匹の魚の戦いが、始まろうとしていた。
095796c4.jpg2cdc7f26.jpg『老人と海』はオイルアニメーションと呼ばれる技法で制作されている。日本のセルアニメーションと違って、曖昧な中間色を塗り重ねることによって像を浮かび上がらせる。暗闇のシーンほど光と陰が際立ち、オイルアニメーションの効果をはっきりとさせている。

『老人と海』それは、一人の老人と一匹の魚の終わりなき戦いを描いた物語だ。
老人と魚を取り囲むのは、茫漠とした海だけだ。
一人と一匹がただひたすら対峙する。
それだけの物語だが、その両者に漲る緊張感は、かつてなく重く、力強い。
0fa015b5.jpgcf567170.jpgアニメ版『老人と海』は、原作よりさらに過酷で、精神の戦いとして描かれている。腕相撲のシーンは原作にない部分だが、物語の精神性をよく物語っている。カジキマグロとの戦いは体力、精神の限界を飛び越えて、やがて戦士として、互いの力を認め合うようになる。
老人は、あの魚を殺すことに、幸福を感じていた。
「星を殺さなくていいだけ、幸せだ。海で暮らして、本当の兄弟を殺すことができるんだ」
老人が対峙しているのは、名のない一匹の獣だ。
文明も知恵もない。
だが、彼らはどこまでも凶暴で、それでいて気高い。
老人はそんな獣をすぐ側に迫り、その槍で獣の魂を殺せるのだ。
この茫漠たる海で対峙しているのは、もはや老人と魚ではない。
戦士と戦士による、精神の戦いだ。
c11735ba.jpg8411e3a5.jpg老人とカジキマグロ。言葉なき相手だが、いつの間にか絆のようなもので結ばれる。ともに泳ぎ、ともに命を削って殺しあう。戦士としての絆だ。
もちろん、原作にこの場面はない。ただ、大自然とたった一人で対峙するというテーマがより強調された場面だ。

アーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』を知らぬ者などいない。
だが、アレクサンドル・ペドロフが描く『老人と海』は、今までに我々が目にした経験のないアニメーションだ。
アレクサンドル・ペドロフが描くアニメーションには、どの瞬間にも美しく、まるで古典芸術でも見ているかのような感動をもたらす。
技法としては、ガラスの板をセルに見立てて、アクリル絵具で画像を作りだす。
このアクリル絵具を指で少しずつずらしながら撮影することで、アニメーションを作るわけだ。
日本のアニメーションのように、キーとなる原画制作や、タイムシートはない。
それでもアレクサンドル・ペドロフが制作するアニメーションは、絵画としても動画としても完璧だ。
圧倒的な絵画を前にして、我々はもはや溜息をつくだけしかできない。
8488055a.jpg7f8c197c.jpgこの作品を鑑賞していると、様々な絵画や、画家の名前が浮かぶ。光と陰の描き方は暗いバロック絵画を思わせるし、海のシーンは印象派のようだし、激しいアクションはロマン主義絵画のようだ。おそらく、アレクサンドル・ペトロフが背負う芸術文化そのものが画像に現れたのだろう。
『老人と海』は、ただ老人が巨大な魚と出会い、戦うだけの物語だ。
ふとすると、単調な映像になりかねない題材だ。
だが、アレクサンドル・ペドロフが描くアニメーションはあまりにも美しい。
老人の終わりなき戦いの顛末を、老人と同じだけの情熱で描き出している。
どの瞬間もあまりにも美しく、どの瞬間も途方もなくドラマチックだ。
これを越える美しい映像を、果たして今後見る機会はあるだろうか。

作品データ
監督・脚本・作画:アレクサンドル・ペトロフ
原作:アーネスト・ヘミングウェイ 音楽:ノーマンド・ロジャー
出演:三國連太郎 松田洋治
 第72回 アカデミー賞短編アニメ賞受賞
 

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