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■2014/03/06 (Thu)
映画監督押井守は、プロダクションIG社長・石川光久をこう評する。
「初対面の印象は、ただのバカにしか見えない(笑)。それはいまだに変わんないね。アイジーの社長という肩書きをはずして会えば、ただのトッポいヤツにしか見えないし」
あんまりな言いようである。しかし、こうとも言う。
「ハリウッドにとって、間違いなくあいつは組みたい相手なんだよ。会社ではなく個人として評価される。日本人には珍しいタイプだね」


世界に名を轟かせる、日本を代表するアニメーション制作会社プロダクションIG。この会社を取り仕切っている石川光久はどんな人物なのか。
石川が生まれたのは東京都八王子市。山と田んぼに囲まれた、40世帯前後の小さな村で生まれ育った。貧しい農家で、3人兄弟の末っ子。米農家だったが、家族の食卓はいつも麦ご飯。「米は売るもの」という認識だった。
貧しい暮らしで、家では畑仕事の手伝いばかり。成績は低かったが、親からは勉強しろとは一度も言われなかった。ただし、いつもこう言われていた。
「おふくろからは『上を見ずに、下を見ろ』と言われて育った。人におだてられても舞い上がるな、いつも周囲に気を遣え」
石川少年は、親の教えを素直に守り通した。人を立てるのが好きで、周りが笑ってくれていると幸せを感じる。何人かで歩いていると、必ずみんなの後ろを歩く。そんな少年に育った。
勉強もスポーツも駄目な劣等生だったけど、そのうちにもみんなが石川を頼るようになった。学級委員長に選ばれ、野球部ではキャプテンだった。石川は、みんなが「この人を頼りたい」と思える人物だった。

高校卒業後は明星大学を受験。奇跡的に合格するが、大学にはほとんど通わず、バイトに明け暮れ、お金ができると放浪の旅をした。バイクに乗り、計画も立てず、ふらりと行き当たりばったりに進む。行き着いた場所で住み込みのバイトをして、お金ができたらまたどこかへ行く。これを繰り返して、何ヶ月も家に帰らない。そんな生活だった。
旅はそのうちにも海外へと足を伸ばしていく。インドやタイ。パキスタン、アフリカまで行くこともあった。
アフリカで紛争に巻き込まれたり、盲腸を切った……という武勇伝を持っているそうだが、
「それは押井さんが、勝手に言っているだけ」
だ、そうだ。
ただし、本当に医者かどうか怪しい人の元で、麻酔なしで虫歯を引っこ抜いた……という武勇伝は本当だったようだ。

そんなある日、フーテンの暮らしを一変させる出会いがあった。たまたま福生の市民会館で見た「文楽」の公演である。これに感動を覚えた石川は、地元の車人形一座に転がり込み、その日のうちに弟子入りを決めてしまう。
本当の転機は次の事件だった。1981年、石川が22歳の時だ。車人形の一座が海外公演へ行ってしまい、石川は1人、日本で留守番をすることになった。その間にアルバイトでもしよう、と思って何となく求人広告の中から「タツノコ・プロダクション」を選んだ。
当時の石川はアニメなんて何も知らない。家が貧乏だったから、テレビなんてほとんど見せてくれない。社名に『プロダクション』とあるから、劇団関係の仕事をしているのだろうと思った。石川はアニメの世界に「迷い込んできた」のである。
ところが、石川はあっという間にこの業界に魅せられてしまう。
「世の中って、すぐに浮かれちゃうじゃない。でも、自分はひたむきに生きる人間が好き。ひたむきに一生懸命に働く人の姿は美しいって、子どもの頃から思っていたし……。アニメーションの現場で働いている人もみんなひたむきなんだよ。純粋で無垢でコツコツ仕事をしている。こういう人に囲まれて働く環境が最高にいいなあって思う。すごく楽しいし、救われる。石川の場合、アニメーションが好きというより、アニメーションを作っている人間が好きなんだよ」
※ 石川光久は、自分のことを「石川」と呼ぶ。
石川の最初の仕事は制作進行。制作進行とは、予算やスケジュール管理をする人のことで、アニメーターに仕事の指示を出したり、各会社との関係を取り持ち、カット袋を回収しに行ったりする人のことである。現場になくてはならない運営役である。
石川は、この制作進行の仕事に特別な才能を発揮し始めた。周りを立てるのが好きな性格と、方々を旅して回ったときの交渉能力がこの仕事の役に立った。そのうちにも、「石川がいないと仕事が回らない」というくらいにまで信頼されはじめ、アルバイトから正社員へ、制作デスクへと昇進する。学級委員長で野球部のキャプテンだった石川は、アニメ業界でも「みんなが頼りにしたいやつ」だった。残念ながら車人形一座は破門になってしまったが、石川の想いはすでにアニメ業界の中にあった。

そんな時だった。タツノコが、社員のリストラをしようという話が上がってきたのだ。
石川は奮起した。誰もリストラなんかさせない。会社が黙るくらいの凄い作品を作ってやる!
石川は自らの足でスタッフを口説き、集めて回った。そうして集まったのは西久保瑞穂、後藤隆幸、黄瀬和哉、沖浦啓之といった錚々たるメンバーだった。後に、日本を代表する最強のアニメーターと呼ばれる人達である。この陣容で、石川は『赤い光弾ジリオン』を制作。低予算作品にも関わらず、そのクオリティは業界から注目を集め、批評的も商業的にもまずまずの成功を収めて終わった。
だが石川にとって本当のご褒美は、この時に集めたスタッフが、「石川について行きたい」と言ったことだろう。この声を受けて、石川は独立。後藤隆幸率いる作画スタジオ「鐘夢(チャイム)」と合流し、『有限会社アイジー・タツノコ』を設立する。Iは石川、Gは後藤のイニシャルである。

その後は多難であった。下請けばかりの生活。仕事はつらいのに、収入は僅か。『ジリオン』の勢いで会社を興したものの、前途は暗かった。
が、わずか1年後には転機が訪れる。『機動警察パトレイバー』の劇場版の制作が、アイジー・タツノコに決定したのだ。
設立してわずか1年、フリーのアニメーターが数人いるだけの小さな会社である。ありえないような抜擢だが、実は『ジリオン』で目をつけていた押井守監督の指名であった。
『機動警察パトレイバー』の劇場版第1作目は、リアルな背景描写、インターネット社会を予見したようなストーリー、いま振り返っても驚異ともいえるクオリティの高さで、後々、長くファンの間で語られる作品となった。アイジーは押井が要求するクオリティを完璧な形で応えてみせ、その後も、押井に「ここを拠点にしよう」と決心させるほどだった。

その第2作目『パトレイバー2』の制作には暗雲が付きまとった。
押井は『パトレイバー2』の制作に4億円を要求した。だがバンダイはこれを拒否。「押井の映画は絶対にコケる。そんなお金は出せない」の一点張りだった。
そこで石川は、アイジーから5000万円を出資すると言いだした。それはつまり、アイジーが作品の権利を持つという意味でもある。設立5年目の小さな一介の制作会社が、権利を主張するなど、当時ありえない話だった。
この条件に、バンダイは了承。『パトレイバー2』は制作スタートとなった。
バンダイその他周辺の人達の読み通り、『パトレイバー2』は興行的には失敗だった。だがこの名作は、長く長く売れ続け、アイジーに安定的な利益をもたらし続けている。短期的には失敗だったかも知れないが、長期的には大成功だったのだ。
制作会社が権利を主張する。今においても画期的な話である。この一件で石川の先見性について語られることは多いが、当人にはそんなつもりはまったくなかった。率直な気持ちで「押井さんの映画が見たい」という思いで資金の申し出をして、それが後の大成功を引き連れてきたのである。

いい仕事は、次なるいい仕事を引き連れてくる。仕事に対するひたむきさと誠実さが、よりよい仕事と才能を引き寄せてくる。そうして、数人のアニメーターでスタートしたアイジーは人数を増やしていき、社名を『プロダクションIG』に変更。子会社『ジーベック』を設立し、海外支店も作った。
それでも、アイジーは次なる段階へと挑戦する。大作『イノセンス』の制作である。
この作品の制作で、石川は覚悟を決めた。自分たちだけでやる。だから権利を持っていたバンダイビジュアル、講談社、MANGAENTERTAINMENTの3社から手を引いてもらう。その上で、自分の足でハリウッドを回り、出資を募る。
前作『GHOST IN THE SHELL』が名刺代わりになった。石川と押井の2人組でFOX、ワーナー、ドリームワークスを回ったが、どこへ行ってもトップが会ってくれる。いい仕事がチャンスを引っ張り込んでくれた。その結果、ドリームワークスと契約し、前作の4倍の資金を確保。
日本ではあの人に宣伝の協力を仰いだ。スタジオジブリ・プロデューサー鈴木敏夫である。鈴木敏夫は、元々は『GHOST IN THE SHELL2』でスタートしていた映画のタイトルを『イノセンス』に変更させた。キャッチコピーである『魂の乱交』という印象的なフレーズも鈴木敏夫の発案である。
さらに鈴木敏夫軍団が宣伝に集結。徳間書店、日本テレビ、ディズニー、電通、東方、三菱商事といった面子である。鈴木敏夫の一声でこの人材が集まり、絨毯爆撃というほどの宣伝攻勢が始まった。ドリームワークスが出資しているのに、犬猿の仲であるディズニーが宣伝する、という異例の体勢だったが、鈴木と石川の人望のおかげで不問となった。
『イノセンス』はカンヌ映画祭コンペティション部門に正式招待され、風向きがこちら側に強く吹いていた。
しかし――『イノセンス』は何の賞も与えられなかった。日本国内の興業収入は10億円。観客動員数は70万人。米国では104万ドル(1億2000万円)。制作費すら回収できなかった。
石川はこの結果を、
「興行的に見ても、こんなもんでしょう」
と語っている。
0号試写の時に、
「押井さん、これは回収に10年かかるよ。……もう腹くくったから」
と押井に伝えていた。
『イノセンス』の興業は失敗に終わった。しかし、プロダクションIGの企業としての名声は高まっていく。この揺るぎない傑作が、今も新しい仕事を引き込んでいる。

石川光久は、ある時こう語った。
「その人の良さを引き立てるっていう意味なら、石川は鏡みたいなものかもしれない。相手をきれいに映すのが仕事なんだよ」
『上を見るな、下を見ろ』と親から教えられ、人を立てるのが好きで、ひたむきに仕事に打ち込むアニメーターが好きな石川。そのアニメーター達にいい仕事を与えようと思ったから、プロダクションIGの今がある。
数人でスタートしたアイジーは、劇場作品を軸に仕事を回し、下請けから元請けに昇進、作品の権利も多数獲得し、優秀なアニメーター達と信頼関係を築いた。もちろん、アニメファンもアイジーと聞けば作品に一目を置く。
それでもアイジーは立ち止まってはいられない。今も次なるステージを求めて、歩み続けている。


著者:梶山寿子
編集・出版:日経BP社

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■2014/02/28 (Fri)
本のタイトルが、そのままテーマになっている。
「結局、日本のアニメ、マンガは儲かっているのか?」
著者の板越ジョージは、実際にアメリカで日本のアニメ、マンガを販売する仕事に従事し、その実体験的な立場から本を書いている。それでお題目に掲げられている「儲かっているのか?」という問い。この問いに対しては、残念ながら「NO」である。あまり儲かっていない。
では受け入れられていないのか? と問われるとそういうわけではない。
「アニメやマンガに関するコンベンションでの集客数や、実際アメリカに住んでいての肌感覚では、日本のアニメの人気の衰えはまったく感じません。むしろ、世代から世代へと、時代とともにアニメに慣れ親んだ分母は増えていっていると思います。」(32ページ)
それだけ支持されているのに、しかしビジネスとしては成功していない。それは何故なのか? 板越ジョージは、当事者の目線からその謎を解き明かしていく。

本の視点は「アメリカでは……」というところから始めているけど、日本のアニメに対する支持は、今や世界スケールである。世界のユーザーは、日本のアニメ・マンガがローカライズされた状態を望んでいない。つまり、それぞれの国に合わせたストーリーやキャラクターの改変を望んでいない。可能な限り、オリジナルのまま接したいと思っている。それくらいに、日本の作品に対する信頼や愛情は深い。
それでも、ビジネスとなるとまるでうまく行かないのだ。
理由の第1に、マーケティングにかける予算が少ない。アメリカでは、制作スタッフとマーケティングスタッフの割合は3:5。対する日本は、7:1。アメリカでは、マーケティングスタッフが多い。それくらいに、マーケティングに賭けているものは大きいのだ(しかも、日本はマーケティングスタッフに、英語を話せるというだけのビジネスの素人を立ててしまう場合が多いそうだ)
第2に、アメリカの書店事情。アメリカのコミック専門店は、新刊コミックのスペースが小さい。出版社は単行本売り上げによる利益を重要視していないので、人気作品でもあまり多く刷らない。アメリカのコミック専門店へ行くと新刊コミックはほんの僅かで、あとは古本が中心。ファンは、古本の中から、お目当ての作品を探すわけである。
そういった場所に、翻訳本を大量に送りつけても「どこに置けばいいんだよ!」という話になる。
それに日本のマーケティングスタッフは、「これはいいものなんです! ぜひ置いてください」と情熱的に説明する。同じ日本人なら「そうか、わかった。では様子見でいくつか……」となるけど、アメリカ人だと「何だお前」みたいになる。「これはいいものなんです」なんて説明されても、中身のわからないものは店に置けない。
第3に、知的財産に詳しい弁護士を雇わない。アメリカでは弁護士は100万人いると言われ、エンターテインメント関係を専門にしている弁護士は2万人もいる(アメリカは弁護士多すぎると思うけど)。対して、日本は知的財産を専門にする弁護士はやっと1000人ほど、と言われる。
著作権の絡む契約の時に、弁護士を雇わないケースが多く、結果として不利な約束を押しつけられてしまう場合がかなりあるそうだ。それで、本来得られる利益が得られていないという。
(画像出典:世界のエンタメ業界地図2013年版)
第4に挙げるのが、ナショナリズム。別のデータを見ても、2006年を境にして、日本のアニメビジネスは大きく後退している。2006年に何が起こったのか? 板越ジョージは「カルチュラル・エコノミック・ナショナリズム」であると指摘している。
アメリカが危機感を覚えたのは、2000年頃に起きた『ポケモン』ブームだった。私もその当時、ハリウッド映画のウイークリーランキングをリアルタイムで見ていたのだけど、『ポケモン』の映画が見事興業ランキング1位。しかも数週間ランキングトップに居座り続けていた。
この時、2位だったのはリック・ベッソン監督の『ジャンヌ・ダルク』。本来ならば確実に1位だったはずの『ジャンヌ・ダルク』は『ポケモン』のせいで全米1を獲れなかったのだ。
翌年に公開された『ポケモン』映画の続編もやはり興業ランキング1位を獲得。貫禄の人気を誇示してみせた。アメリカでの『ポケモン』爆進に、私も無邪気に喜んでいた。
だが、これがアメリカ人の危機感を募らせてしまった。ポケモン人気が後退すると同時に、店舗の棚から日本の作品を撤去。「日本外し」が始まったのだ。それがデータとして明確に現れたのが2006年だった……というわけだ。
こうしたナショナリズムはアニメに限った話ではなく、ゲーム業界も影響を受けている。今、批評誌を中心に、「日本のゲームより欧米のゲームのほうが面白い」という見解が普通になってきている。これにも“裏”があるらしく、アメリカのレビューアが、日本の作品を低く書き、アメリカの作品を高く書いているから……というらしい。
「アメリカは自由の国。才能と意欲を持った人が成功する国」と評され、アメリカ人自身もそのように語る。だが実際には人種や民族に対する差別が強烈な国だ。違う国のエンターテインメントが勢力を持ってくると、危機感を憶え排除しようとする。そういう性質を持っていることを忘れてはならない。
その後は2008年にリーマンショック。この影響で2009年にはアメリカでDVD販売を請け負っていたサーキットシティが会社の清算。2010年には日本の作品を多く取り扱っていた大手書店ボーダーズが倒産。アメリカでの「売り場」が減っていく事態に直面している。

マスメディアはデータ上の数字を見て、「日本のアニメはもう海外では受け入れられない」なんて書いたりする。しかし始めに書いた通り、日本をテーマにしたイベントを開催すると、ファンが多く集まり、その数は年々多くなっている。筆者の肌感覚として日本の作品をリスペクトする人は確実に増えている。
単に、ビジネスとして成功していないだけで、その理由は一杯ある。
まず日本側が現地リサーチを全くせず、精神論で押し通そうとすること。知的財産に詳しい弁護士を雇わない。売れ始めてもナショナリズムという障壁に阻まれてしまう。
半分くらい日本側のオウンゴールという気がしないでもないが、ビジネスとして成功しないだけの理由はあるのだ。

板越ジョージは、成功するためにどうするべきか? という提唱をはじめる。
アメリカでは、2000年頃の保有規制撤廃によりメディアのコングロマリット化が進んだ。例えばウォルト・ディズニーは、放送局のABCとスポーツチャンネルのESPN、メジャーリーグのロサンゼルス・エンジェル、アニメ製作会社ピクサー、映画会社のタッチストーン・ピクチャーズとミラマックス・フィルム、コミック出版社のマーベル・コミックを傘化に収めた。2012年、『スターウォーズ』の権利を買収したことは、記憶に新しい。
これだけの複合体としての強みを活かして、世界展開を押し進めている。日本のコンテンツの海外輸出率がわずか5%であるのに対し、米国は17.8パーセント。海外売りに力を入れているのがわかる。
板越ジョージは日本も同様にコングロマリット化すべきだと提唱する。確かに別資料でも、アニメが海外展開しない理由を「そもそもそれだけの資力がないから」と挙げられている。今のままではあまりにも脆弱だ。
(巨大化すればそれだけ動きが鈍くなるのでは……新しい発想が生まれなくなるのでは……という懸念もありそうな気がするけど。しかしアニメ制作だけではなく、出版、音楽、グッズ制作などの事業を1社で縦横に連携を取れる会社を作ることができたら、きっと強力だろうな……と私もよく夢想する)

それからプロデューサーの育成だ。
「ディズニーはすばらしいプロデューサーであり、手塚は優秀なディレクターである」(140~141ページ)
これには多くの意味を含んでいるように思える。アメリカは確かにプロデューサーの国だ。アメリカ人でも優秀なディレクターはいるけど、プロデューサーとしての存在感が際立っている。だから、色んな国から才能をかき集めて、大きなものを作ることに長けている。
例えば、世界興業収入1位2位を独占しているジェームズ・キャメロンはカナダ人だ。映像派の代表者リドリー・スコットはイギリス人。重量感ある映像を作るウォルフガング・ペーターゼン監督とローランド・エメリッヒ監督はドイツ人。ニュージーランド出身のピーター・ジャクソンも忘れてはならない。
対して、日本はディレクターの国だ。日本を代表すべき映画監督は多く、海外からは日本そのものが尊敬の対象になっている。アニメーションの品質は最高だけど、そのほとんどが国内の才能だけで作っている。なぜそんなに作れるのかといえば、日本人だからだ、というしかない。
才能と技術はある。支持もされている。決定的に足りないのはプロデューサーだ。作品はそのままで、プロデュースできる人を発掘、育成していくことが、今後の課題になっていくだろう、と板越ジョージは語る。

現在進行形で、少子化は国内のマンガ・アニメビジネスに深刻なダメージを与えている。漫画のメインターゲットはやはり少年少女。その人口が減っていくという現状は、漫画の文化そのもののを弱くしてしまう。
もう1つ、アニメーターの給料がいつまでたってもよくならないという問題。こちらの理由はシンプルだ。アニメを制作するにはお金がかかるが、儲けは少ないからだ。よくピンハネがどうこうという話は出てくるが、実際にアニメ業界にいる人は、誰も得していない。「アニメ業界に大金持ちはいない」というくらいだから。
今はアニメビジネスは好調といわれるけど、天井は見えているし、少子化の影響で目減りしていくのは確実だ。
だからこそ、海外売りに鉱脈を見出す。その方法を考える時が来たのかも知れない。


著者:板越ジョージ
出版・編集:株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン

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■2012/05/15 (Tue)
コレキヨの恋文 (1)霧島さくら子は元々、政治家になるつもりはなかった。弁護士として法律を学び、その方面で有望な将来があるはずだった。しかし、政治家であった父親が急死し、地元の後援会から懇願されて、仕方なく衆議院選挙に出馬したのだ。
軽い気持ちだった。どうせ落選して、弁護士の仕事に戻れるだろう、と考えていた。それがまさかの当選。その時点で、さくら子は弁護士の道を諦め、政治家として生きていくことを――泣く泣く――決めたのである。
とはいえ、政治とは無縁の仕事を、生活を歩んできたさくら子である。政治家になったといっても、そこで何をするべきなのか、何を目指すべきなのか、そのビジョンは何も見えてこなかった。何年たっても相変わらず政治音痴の半端者のままだった。
だというのに、かつて総理大臣を務めた朝生一郎に、「総選挙に出馬してくれ」と懇願されたのである。
なぜ自分が……? 政治家としての自覚がいまだに中途半端なままで、そもそも政治というものが何なのかもよくわからない。今度も、「どうせ落選するだろう」と願うような気持ちがあった。
しかし霧島さくら子は、自民党第26代総裁に、第97代日本国内閣総理大臣に就任したのである。
「……なんで、私が総理大臣?」


『コレキヨの恋文』、この本は、2009年に出版されベストセラーにもなった『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』、通称『もしドラ』のパクリである。あるいは、『もしドラ』を手本に描かれた小説である。作者である三橋貴明自身それを認めて、堂々と公言している。しかし、そこにある切実さ、作品が抱えている重さはまったくの別物だ。

いま日本は、デフレである。デフレであるから経済不況が続いているのである。デフレであると、市場に物が溢れているのにそれらが売れず、企業は充分な利益が得られず、給与が切り詰められ、存続のために従業員がリストラされる。失業者がじわじわ増え続け、大学を出たばかりの新卒は仕事に就くチャンスを失う。にも関わらず、市場には物で溢れ返り、今の日本が深刻な不況であるという現実がなかなか見えてこない。これがデフレの状態であり、デフレの怖さなのである。
そんなことは今どき子供でも知っている? 常識?
では、なぜ誰もデフレに対して深刻に語ろうとしない? なぜ誰もデフレを解消しようと努力しない? なぜデフレを解消させる術を知っている政治家に票を入れず、経済状況を深刻にさせる総理ばかり支持するのだ?
それはデフレを知っているつもりになっているからだ。デフレという言葉と状況は理解している。しかし、「ではどうすれば良いのか」その対応策について、あるいはデフレという現実感がいまいち掴めずにいるから、デフレが20年も続く事態に陥っているのである。
『コレキヨの恋文』はデフレという問題を改めて見詰め直し、では国家として何をすべきなのか、物語というわかりやすい形に描かれた実用書である。

霧島さくら子は、ある桜の咲く夜に、コレキヨ――高橋是清と邂逅する。
「このところの日本の政治は、本当にひどかったですよね」
さくら子は何でもない世間話をするつもりで、是清に声をかける。しかし、さくら子は是清を1930年代の人間だと知らずに、一方是清は、さくら子を2010年代の人間だと知らない。なのに二人の対話は、ことごとく一致するのである。
まずデフレ。1920年代も現在と同じくデフレ不況が続いていた。切っ掛けは第1次世界大戦特需で膨れあがったバブルが崩壊したためだ。
1990年代も土地バブル崩壊で、その後20年間デフレが続いている。このデフレが続いている期間も一致している。
デフレが始まってから以後、総理大臣が毎年のように代わった。橋本龍太郎、小渕恵三、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、管直人、野田佳彦……。小泉純一郎が例外的に4年間総理大臣を務めたものの、この10年間の総理交代劇はあまりにも目まぐるしいものがあった。
1920年代も同じだった。1913年に山本権兵衛内閣が発足されたのをはじめに、ほぼ毎年のごとく総理の名前が変わっている。大隈重信、寺内正毅、原敬、高橋是清、山本権兵衛(第2次)、清浦奎吾、加藤高明、若槻禮二郎、田中義一、濱口雄幸、若槻禮二郎(第2次)、犬養毅、佐藤実、岡田啓介……。ほとんどの総理が1年だけの就任で変わってしまっている。
「ライオン宰相」と呼ばれた総理もいた。現代は小泉純一郎のことだが、1920年では濱口雄幸のことだ。ともに国民人気を背景に総理大臣に就任し、緊縮財政でデフレを悪化させた。
ペテン師と呼ばれた総理もいる。1920年代では若槻禮二郎のことであり、現代では管直人のことである。若槻禮二郎は1926年弾劾を受けるものの、予算を成立させたら自分で解散するから、と弾劾を引っ込めるように懇願したが、予算成立後も総理の座に居座り続けた。一方管直人も、不信任案を受けたものの、自分から退陣するからと民主党員を説得したが、その後も総理の座に居座り続けた。
(高橋是清に相当する人物も今の時代にいるようだ。これについては、敢えて書かないが)(あとついでに、朝日新聞も相変わらずだったようだ。朝日新聞の権力に寄りかかり、国民を扇動する記事ばかり書く傾向は、当時から変わらないようだ)
アメリカのバブル崩壊もあった。現代では2007年のサブプライムローン、リーマンショックの2つであり、80年前はNYウォール街株式大暴落のことである。ともに日本はすでにデフレ下での事件で、釣られるようにデフレを深刻化させた。
さらに日本では大きな震災が深刻な被害をもたらした。1923年の関東大震災、1933年の昭和三陸地震。1995年の阪神・淡路大震災、2011年東日本大震災。
都市伝説の話ではないものの、1920~30年代と現代は一致する事象があまりにも多い。さくら子と是清は、互いに過去の人間、未来の人間と気づかないまま言葉を交わすものの、ことごとく噛み合ってしまうのである。ここまでくると気味が悪い。神の悪戯の悪魔の仕業か、何者かの手が加わっているようにすら思えてしまう。

違いもある。1920年代の情勢不安は現代とまったく違う種類のものだ。当時は、常に戦争、軍事的衝突が多かった時代だ。日本は軍部が強力な権限を持ち、さらに権限を拡大させようと画策を巡らしていた。世界の戦争に日本がいつ巻き込まれてもおかしくない状況であり、実際巻き込まれ、日本は国家として一時的に深刻なレベルで衰退させてしまった。
現代では自衛隊にそれほどの力はなく、世界戦争というほど大きな戦争が起きそうな気配はとりあえずない。(日本には戦争の気配はないものの、周辺の国々、特に中国・北朝鮮・韓国などの特定アジアに不穏な動きは絶えることはない)
1920年代は毎年のごとく総理大臣が政権ごと交代したが、一度だけ、これが幸いな結果をもたらしたことがあった。1923年の関東大震災である。関東大震災が起きた翌日、山本権兵衛内閣が発足。これは関東大震災から日本を復興させるために作られた内閣である。
しかし現代では悲しいことに、東日本大震災後、政府は何もしていない。ただ作業着を着て現場視察をして、何かやっています的なパフォーマンスを披露しただけだった。それどころか、民主党は東北をTPPの実験場にするつもりである。瓦礫と廃墟の東北地方は、いまだに復興の希望は見えてこない。自民党は東北の復興予算を提示するものの、民主党はこれを頑なに拒否。結局復興予算を受け入れたのは震災から90日後だった。

それにしても現在がデフレであることを知りながら、なぜデフレを解消しようと誰も努力しないのか。私は個人的に3つの理由を考えた。
第1に、生活のポテンシャルが無駄に高いからだ。今はそこそこのお金があれば、それなりの生活ができてしまう。とりあえずパソコン一台あれば仕事の娯楽の両方をこなすことができるし、全国に巡らされた交通網で、どこへ行くにも支障はない。それにトイレに入れば最新鋭のハイテク便器が尻を洗ってくれる。ある程度以上水準の高い生活が保証されるから、経済的な深刻さが掴めないのだろう。
第2に、物が枯渇することがないからだ。今の日本は間違いなく経済不況であるが、スーパーやコンビニから食品が消えることはなく毎日きちんと供給されている。「物で溢れ返るが、それを買うお金がない」という状況がデフレの状態なのだがら当り前なのだが、物が溢れ返るからこそ不況の深刻さが見えてこないのだと思う。これがある日を境に、いきなり物や食品がなくなったら――デフレが続けばいつかは間違いなくそうなるのだが――、そうなるまで人々はデフレであることの実感は得られないのだろうと思う。
第3の理由が少子高齢化である。高齢者の数が圧倒的に多い。なぜこれが問題なのか。
現代は高齢者が意識や思考に対して、絶対的なイニシアチブを持ってしまっている。高齢者が考えた、発言したものが、現代人の思考の一つの基準として社会に広がる現象が見られる。
例えば「最近の若者はなぜ消費しない? なぜ車を買わない?」。老人たちは「テレビで車を使ったデートシーンが出てこないからだ」とか「若者が草食化しているからだ」あるいは、「物で充実して満足しきっているからだ」などの回答を勝手に作り出し、社会全体に強要している。
若者の目線から答えを示せば、消費しない理由はいたってシンプルである。「お金がない」からだ。
しかし老人たちはなかなかこの答えに辿り着かない。なぜならば、日本のお金のほとんどは、老人たちが独占してしまっているからだ。デフレであるからといって、お金が消滅するわけではない。老人たちはお金を持っているのである。だから当然、若者も同じようにお金を持っているだろう、ではなぜ物を買わないのだ? となってしまう。新しい車を発売しても、購入するのは若者ではなく老人たちである。この状況・理由について、おそらく老人たちは真面目に考えたことはないのだろう。もしも「若者はお金がない」という状況を知っても、老人たちは「今の若者は自分たちのように働かないからだ」と奇妙きわまりないロジックを引き出し、若者批判を展開させる。いくら仕事しても給与に反映されない、というのがデフレの今の問題なのだが、それが理解できないのだ(仕事をせず、生活保護を受けた方が割のいいお金が得られる、という有様である)
「今の日本の経済は充分に成熟した。だからこれからは衰退するしかないのだ」というよく聞く悲観論も、高齢化社会が関連している。「もう自分たちは充分成熟した。あとは衰退するだけ」というのは、自分たちの状況を説明しているだけで、経済の話ではない。自分たちの心理状況を、現在の経済の状況に重ね合わせて語ってみせているだけで、それは現実の経済について何か語っているわけではなく、これはある意味のポエムである。
大きな企業のトップに君臨するのは老人たちである。老人たちは自分たちはお金を持っている、今はデフレで物が安くて、チャンスのはずだ。そう考えている。現状認識を完全に取り違えたままであるから、常人にも狂人にも理解不能な商品展開を繰り出し、失敗し続けている。デフレでお金がない、という現状認識、あるいは社会認識がなかなか広がらないから、社会そのものがデフレという状況について考える機会を失っているのだ。

高橋是清の時代。1930年代は間違いなくデフレを脱却したのである。『コレキヨの恋文』はマクロ経済における基本的な考え方の解説に始まり、いかにすればデフレを脱却できるのか、その方法が描かれている。“解説”と“物語”の2つを軸に、小説は進行していく。
コレキヨの恋文 (2)そのために、小説としてみると、やや特殊な書かれ方をしている。小説であるから確かに霧島さくら子の物語が中心となるのだが、その物語はしばしば停滞し、“解説”が始まる。マクロ経済とは何なのか、いかにすればデフレを脱却できるのか。解説がグラフなどのデータ付きで始まり、物語の境界を不器用に隠しながら展開していく(右図。とあるブログの読者なら見覚えるあるグラフだ)
また『コレキヨの恋文』は現在から数年後――おそらく1、2年後――の未来が想定されたシュミレーション小説である。現在の民主党の政権が倒れ、政権が再び自民党に戻された。それ以後のできごとが描かれた作品である。
シミュレーション小説だから、未来を予測するための現在の描写に、かなりの枚数を割いて書かれている。最近の民主党総理の脱税疑惑や外国人献金などの暗い側面など避けることなくしっかり描いている。
世界情勢についての描写も細かい。特に欧州ユーロ圏についての描写が多く、ギリシャが債務不履行(デフォルト)を宣言した後、ヨーロッパ各国が次々に追随。真っ先にドイツがユーロを脱退した。ユーロ圏全体での不良債権は合計で3000兆円に達するという。3000兆円の不良債権、なんてゾッとするが、このシミュレーションはどこまで正確なのだろう。
中国のバブル崩壊についても少しだが描かれている。中国はバブル崩壊した後(これはシミュレーションではなく事実としてすでに崩壊している)、政府は軍事的冒険に乗り出し、尖閣諸島を中心に、日本と軍事的緊張を持つようになる。
世界は暗澹とした経済不況に陥り、1930年代のような戦争の影がちらちらと見え始めてくる。……経済的な問題を、戦争で解決しようというのだ。

しかし『コレキヨの恋文』は悲観的なシミュレーションを描いていない。バブル崩壊、デフレ不況、世界情勢の不安定。ならばどうすればいいのか、どうすれば解決するのか、その具体的な指針を示した小説である。
マクロ経済の常識に照らし合わせ、デフレである今、どうするべきなのか、どう考えるべきなのか。戦争もしなくていいし、日本のデフレ脱却は実は簡単である。世界情勢を再び安定させることだって、不可能ではない。
日本国民は教養豊かな国民性を持っている。正しい知識を与えれば、間違いなく正しい行動をとることができる。そのための理解力も極めて高い。問題は、正しい知識を得る機会を喪っていることにある。
なぜか? 120%新聞とテレビが悪い。新聞とテレビが中心となって誤った情報を国民に広げ、正しい知識と得る機会を奪っている。新聞とテレビは自分たちの感情だけで「土建屋悪玉説」を主張し、自分たちのお気に入りの政治家(民主党)を御輿に担ぎ上げ、さらには一部の官僚が主導し、間違いなく日本経済を悪化させる増税、TPPをあたかも素晴らしい政策ように喧伝している。
マスコミが政治について解説するとき、常に“政局”ばかり取り上げる。政治家と政治家が対立する場面だけを切り取り、いかにも自分たちが審判になったつもりになってジャッジを下す。そこでマスコミは、正義と悪役を作り出してしまう。そうすることによって、さらに政局そのものを煽り立て、政治家から政治を遠ざけてしまう。国民が知りたいのは、知るべきなのは、その政策がどんな効果をもたらすのか、それだけである。だが、前面で出てくるものはいつも政局で、政治そのものを知る機会を国民から奪ってしまっている。

残念ながら『コレキヨの恋文』は物語小説としてはあまり出来のいい作品ではない。
物語は節々でぶつ切れになるし、連続性のない場面がいくつか取り上げられているだけだ。後は“エピソード”として描かれず、大雑把な粗筋としてまとめられてしまっている。
“解説”が『コレキヨの恋文』の本旨ではあるものの、物語との連続性はあまり自然ではない。“解説”の占める重要度が大きい一方、“物語”が背景に押しやられてしまっている。
人物の描き方も良くない。どこかで聞いたような名前の東田剛、間違いなくあの人がモデルである朝生一郎、官房長官の九条といった人物が登場するものの、それらの人物がまったく掘り下げられていない。演芸会のような表面的な台詞がちらちらと並ぶだけで、感情が現れる場面はなく、人物同士の交流も浅く、そこにドラマが起きそうな予兆はない。
文章の構築もあまりいいものではない。『コレキヨの恋文』は執筆協力としてさかき漣の名前を堂々と公開している(ゴーストライターの存在を明らかにするのは珍しい)。三橋貴明は音速タイプタッチと呼ばれる異常な速筆で、次々と著書を出版しているが、文章がうまいというわけではない。これまでの著書を見ても、放り投げたかのような文章、バラバラのリズムの句読点。きちんと自分の本を読み直してから出版したのかと疑いたくなる。「何しろ」の語が3ページおきに出てくるのもよくない。『コレキヨの恋文』は小説作品として、さかき漣が大部分を直し、三橋貴明特有の癖を修正しているものの、まだ“一般的な小説”の水準には及ばない。
もしも将来的に『コレキヨの恋文』を映像化する場合、映像作家はこの小説から新しいエピソードをかなりの量で作り出さねばならなくなるだろう。もちろんそこには、人を引きつけるドラマがなければならない。単に“マクロ経済について説明してくれる映画”では、人の気持ちを引きつけることはできない。原作そのままでは、映画にならない。

「経済の成長はもう成熟しきっていて……」などはマクロ経済の常識からいってあり得ない。経済の成長とは、本書に書いてあるとおり、名目GDPを成長させることである。名目GDPのポイントを上げれば自然とデフレは収束し、うまく政治の舵取りをすれば、ゆるやかなインフレ状態のまま経済成長し続けることはできるのである。お金は回り続けるだけでよく、お金が回る過程で人々は様々なサービス、良質な品を手にすることができる。
1930年代、高橋是清の時代もデフレであり、そのデフレは脱却できたのである。もっとも、その時代は軍部が強力な権限を持っていた時代である。確かにデフレは脱却できたものの、あの忌まわしき事件が起きて、日本は歴史史上最悪の暗黒時代に突入する。
しかし、今は少なくとも国内に戦争の気配はない。まっとうな政党のまともな政治があれば、いつでも直ちにデフレを脱却でき、経済成長させることができる。問題なのは、誰もその方法を実行しようとせず、また実行しようとしても国民が理解できず、正しい政策を信じることができないからである。
日本国民は教養豊かな国民性である、と私は信じている。教育のレベルは極めて高いし、一人一人に知性がある。正しい知識を与えられれば、正しく行動できる。ただ、そのチャンス――正しい知識を得る――がないのである。すでに書いた通り、マスコミが全部悪い
だから『コレキヨの恋文』が書かれたのである。マクロ経済を物語という接しやすい本にすること。『コレキヨの恋文』を通じて、読者がマクロ経済を理解すること、さらにはいかにデフレを脱却できるか、その方法を示すための本である。デフレの時代だからこそ、読むべき価値のある本である。

三橋貴明オフィシャルブログ「新世紀のビッグブラザーへ」

著者:三橋貴明
執筆協力:さかき漣
出版:小学館





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■2010/11/15 (Mon)
三橋貴明4万2246票切っ掛けは3年前――。2007年の参議院選挙だった。
2007年、民主党は「年金問題」を取り上げ自民党と安倍晋三内閣を痛烈に批判。民主党の批判は日本中に膾炙し、無条件の反自民党の意識がにわかに形成されていった。結果として2007年の参議院選挙において安倍晋三は大敗。民主党に議席の過半数を奪われ、「ねじれ国会」の状況を作ってしまった。間もなく安倍晋三は病気療養のため総理の座を退くことになる。
が、この後だれも「年金問題」について口にする者はいなくなってしまった。あれだけ鋭く批判の声を上げていた民主党も、マスコミも、「年金問題」について口を閉ざし、問題の存在そのものが国民の意識から消えてしまった。
安倍晋三が総理の座を退き、次の自民党総裁、すなわち内閣総理大臣を決定する選挙が実施された。このとき争ったのが麻生太郎と福田康夫の2人である。
この頃から、じわじわと、あの異常としか言いようのないマスコミによる麻生太郎批判が始まった。自民党総裁選挙が告示された9月14日から、投票日である23日までの短い期間、マスコミの間で不穏当な一つの噂が流布した。曰く、「麻生クーデター説」である。
「麻生太郎は自ら自民党総裁に就任するために、安倍晋三辞任の情報を隠していたのではないか?」
――もちろんデマである。デマであると、安部晋三自身がはっきりと明言した。
だが多くの有権者にとって、「麻生太郎クーデター説」の影響力は絶大たった。多くの人たちはマスコミの情報に誘導されるように、麻生太郎に不審を抱き、福田康夫を信頼して多くの票を入れた。
そして2007年9月23日、福田康夫内閣総理大臣が誕生した。

それからおよそ1年後となる2008年9月24日、麻生太郎は巡り巡って第92代内閣総理大臣の座に就くことになる。
だが、マスコミによる粘着的な批判の声は決して止むことはなく、ますます勢いを強めてテレビ・ラジオから溢れていった。その内容を改めて振り返ると、あまりにも幼稚で、本当にこれがテレビで流れたパブリックな情報なのか、政治レベルで議論すべき内容なのかと疑いたくなる。
しかし残念な事実として、日本国民の多くがこの驚くべき幼稚な情報に疑問を持たず、流れ出てきた情報をそのまま受け入れ、麻生太郎の評価を決めてしまった。この期間、世論の中から政治的なるものは完全に消失して、女子高生の井戸端会議レベルに地位を落としてしまった(もっと驚くべき指摘は、ほとんどの国民は、かつての自分たちの思考、意見に何一つ疑問を持たず、反省すらしていないことだ)
「漢字の読み違え」「カップラーメンの値段」「『ホッケの煮付け』発言」「ボールペンのキャップを口にくわえた」
これのどこが政治的議論なのかまったく不明であるが、当時の新聞・テレビの情報のほとんどが、以上の内容をただひたすら羅列し、繰り返すだけであった。当時の日本国民のほとんどは、この情報そのものに何一つ疑問を持たなかった。
人々は自民党と麻生太郎に根深い不信と苛立ちを感じるようになり、鬱積した感情の集積が、より新しい政治と、その政治が作り出す時代に希望を抱くようになった。

2009年。鳩山幸夫を筆頭とする民主党による政治が始まった。人々は新しい政治の誕生に歓喜し、鳩山幸夫内閣総理大臣を熱狂的に迎え入れた。選挙票のおよそ6割を獲得し、支持率は70パーセントを越えるものであった。当時――ほんの1年前だが、日本国民の期待感と、政権交代による高揚感の凄まじさがよくわかる。
だが――(いまだに気付いていない人も多いが)これこそ「地獄」の始まりだった。

こうして、三橋貴明は決意した。
見ているだけでは駄目だ。ブログを書いているが、ただ外側から見て書いているだけでは何も変化しない。自ら政治の世界に飛び込むしかない。
三橋貴明は単身、政治の世界に飛び込み、戦い、あるべき姿に変えていこうと決意を固めたのであった。
が、三橋貴明はその手前である選挙に敗北することになる。だから本書は、選挙にいかに戦い、公職選挙法の制約にいかに抗い、その結果として敗北に至ったか――これを追ったドキュメンタリーである。

選挙活動は初めて経験する者にとって、困難の連続であった。
まず選挙活動を始めるにあたり、「後援会事務所」を確保しなければならない。後援会事務所がなければ、選挙管理委員会への書類提出ができないわけである。
選挙に関連するお金の流れは、全て選挙管理委員会に報告しなければならないという決まりごとがある。そのために銀行口座を「入金」と「出金」に分けて作成し、通帳も別々に作成し管理する必要もある。選挙活動で使用したお金は、全て「後援会名義」で報告しなければならないのだ。
だから「後援会事務所」がないと選挙活動はできないわけだし、そもそもお金の流れを「後援会名義」で報告しなければならないのだから、事務所自体借りることができないということになってしまう。だから三橋貴明は、まず自宅を後援会事務所ということにして報告し、それから銀行口座を開設した後に事務所を借り、住所変更電話番号変更などを選挙管理委員会に報告した。この面倒くさい手続きのために、選挙活動の初めの数日間をロスしたのである。
選挙活動は、上に書いたような決まりごとだらけなのである。例えば選挙活動で配られる大量のビラも、実はビラの総枚数と大きさ、それから配られる場所などそれぞれに細かい決まりごとがある。選挙公示日以後にならないと「政治活動」は認められても「選挙活動」は認められない。では「政治活動」と「選挙活動」の違いとはいったい何であろう? 選挙活動する者にとって「わかりません」では済まされない。「政治活動」と「選挙活動」の違いをきちんと認識しつつ活動をしなければならない。
選挙活動は複雑奇怪な制約の連続である。もちろん公職選挙法は絶対的に遵守しなくてはならないが、その一方で効果的に有権者に訴える必要があるのだ。
「実は選挙はノウハウだらけ」――ノウハウを知らないと即座に弾かれてしまうのが選挙というもの。実経験を経て、三橋貴明はその実態を知るのである。

三橋貴明は選挙を始めるにあたり、「ネット選挙」を頼みとしていた。もともと2ちゃんねるにおいて活動をはじめたということもあり、三橋貴明にとって、ネットが最大の力を発揮できる「地盤」であった。
選挙活動を始める以前から三橋はネットの性質というものをよく理解しており、ネットが使えるのならば有名政治家と互角に戦え、ひょっとして勝てるかもしれない――そういう見込みもあったのだ。
が、第22回参議院選挙開始直前、ネット選挙は解禁にならず。ブログ更新すら禁止にされ、支持している有権者にどこでどんな活動をしているのか報告すらできなくなってしまった。三橋は最大の効力を発揮できる武器を失ったまま、選挙活動に挑むことになったのである。

結果として三橋貴明は参議院選挙に敗走――落選する。得票数は4万2246票。最大の武器を奪われるという不利な状況での戦いであった。三橋は自らの体を動かして、全国をつぶさに回り、喉をからし、入浴と睡眠の時間を惜しんで多くの有権者に訴えたのである。結果は選挙に無知な一般人としてはそこそこ健闘した得票数――しかし当選するには遠く及ばない数字(およそ10万票以上必要)であった。そして選挙は、当選しない限りなんら価値のない戦いなのである。三橋は過酷な選挙の旅に挑み、敗北したのだ。
三橋貴明は次の選挙にも出馬するのであろうか。選挙は莫大なお金がかかるし、今回の選挙で三橋貴明の個人資産はものの見事に吹っ飛んだらしい。選挙を経て身も心もボロボロで文無し。それが選挙直後の三橋貴明の状況であった。
今は選挙に敗北したおかげで、むしろレインメーカーと呼ぶほどに仕事の依頼が舞い込んできているし、三橋はそのほとんどの仕事を処理できるほどの速筆である。吹っ飛んだ個人資産も少しずつ取り戻している状況だと思われるが、それでも再び選挙に挑戦するほどの資産が戻ってくるかわからない。なにしろ三橋は、プロの政治家というわけではなく、社会的には普通のサラリーマンなのである。出自不明の故人献金が毎月のように送られてくるどこぞの誰かさんと同じというわけにはいかない。三橋自身、次の選挙について何も明言しておらず、出馬するかどうかすら不明の状態が続いている。

ここで少し、本書とは違う話しをしようと思う。
4万2246票――実はこの中に、私が投じた1票も入っている。もし次の選挙に出馬するというのであれば、もう一度三橋貴明に入れたいと思う。だから、希望を持って三橋貴明の出馬を待ちたいと思う。

三橋貴明オフィシャルブログ「新世紀のビッグブラザーへ」

作品データ
著者:三橋貴明
出版:扶桑社
帯コメント:麻生太郎「魂のノンフィクションだ」

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■2010/07/20 (Tue)
アニメが愛した音楽、音楽が愛したアニメ

CUT『けいおん!』特集『CUT』は度々アニメ特集を企画する。しかし、取り上げられた作品は「すでに世界的名声を得た」作家か、微妙に最先端から遅れた作品ばかりであった。それは『CUT』に限らず、その他の多くのメディアにも同様に言える。メディアで「いま話題の……」と取り上げられる作品や作家というのは、ほとんどがアニメコミュニティ内で沈静化しかけた、ムーブメントが去りかけた、あるいは完全に過ぎ去ってしまった作品ばかりだ。
だが、今回『CUT』が取り上げたのは、まさかの『けいおん!』だ。現在もっとも大きな話題の中心であり、しかもまだ放送中で、今まさにムーブメントが激烈な勢いで動いているこの時期で、である。
インターネットのニュースサイトでは、『けいおん!』が取り上げられることは多い。だがその多くはからかい半分――いや、からかい全部であり、冷やかしである。作品についての解説や、真摯な批評、分析はなく、作品解説から意図的に外した傍流――有り体にいえば、「こんなオタクがいますよ。皆さんどう思いますか?」という見世物小屋的な扱いかたである。もっとも、大きなメディアほど、真面目な批評や解説など期待できないのは仕方のないことだが(大きなメディアにできるのは、せいぜい芸能人の私生活を一般人に暴露することだけである)
作り手がどんな意識で作品と向き合っているのか。『CUT』ではお得意の制作者インタビューで、作り手の思想、精神を直裁的に訊ね、作品の内面的構造をあぶりだそうとする。
ところで、特集テーマは『アニメが愛した音楽、音楽が愛したアニメ』となっている。最近、際立った傾向を見せているアニメ音楽。「アーティスト」ともちはやされた作家達の音楽に翳りが見え、その隙間に飛び込んでくるように大きなムーブメントを起こしつつあるアニメ音楽。かつてはアニメのおまけ的産物であり、オリコンなどのランキングでは相手にすらされなかった。それが今では、上位ランクをほぼ独占。それまで興味も関心も見せなかったメディアも、嫌でも目を向けざるを得ない、気付かない振りをしているわけにはいかない状況が生まれつつある。
『CUT』は『けいおん!』を中心としつつ、最近おおきな話題となったアニメ作品、それから声優を取り上げる。『Angel Beats!』と水樹奈々である。それから音楽業界から見たアニメ音楽の流行、という興味深い記事もある。
正直なところ、大きな特集とするには役者がすべて揃ったとはいいがたいが、アニメ雑誌以外の雑誌だと思うと、なかなかのチョイスであるといえる。
ほとんどの批評(らしきもの)が作品と制作者を無視したところで、作品の表面的な印象を反笑い的に取り上げたものばかりであった。多くの批評もどきは、「あなた、本当は作品見てないでしょ?」と訊ねたくなるものばかりで、最終的に、読者を「けしからん!」と煽り立てたいだけである(日本人は「けしからん!」論調それ自体が大好きで、そのための燃料を提供しているだけ、という見方もあるが)
そんな最中だからこそ、『CUT』は余計な偏見を持たず、制作者に直撃する。ページ枚数に対して、記事のディティールが浅く、散漫な印象もあるが、『CUT』らしい視点そのものが興味深く、読んでみるべき内容になっている。

以下、記事中からの抜粋


■ 小森茂生(音楽プロデューサー)×Tom-H@ck(作曲家)

――振り返っていただくところから始めようと思うんですけど。『けいおん!』の立ち上がりのときは、そもそもどんな音楽をやっていこうというお話のもとスタートしたんでしょうか?
小森「まず、僕自身で言えばアニメの仕事は初めてだったんですよ。そんなこともあって、あまりアニソンっていうことを意識しないでいいんじゃないのっていうところから始めて。とにかくかわいくて、カッコいい歌ものができればいんじゃないかなっていうのが最初のコンセンサス……っていうところはありましたね。だからわりと制約は少なかったですよね。最初から絶対こうしなきゃいけないっていうことはなかたので、のびのび……やったでしょ?」
Tom「あ、そうですね、のびのびやらせていただきました」

――そうやって生まれた“Cagayake!GIRLS”っていう楽曲が、第1期オープニングとしてバーンとながれるわけですけど。ある意味、この曲が『けいおん!』でその後発表されていく楽曲のスタンダードになったと思うんですよね。
小森「そうですね、やっぱりあれが全体の色を決めたところはありますよね。あの曲を基本に、じゃあエンディングはこうだろう、じゃあキャラクターイメージソングはどうだっていう、ガイドラインができたっていう。そういう意味では、ほんとに基準になっているとは思いますね」
――それと、あのオープニングが素晴らしかったのは、それが最高のプレゼンテーションだったっていうことですよね。あの曲がアタマに流れることによって、「今からこのアニメで流れてくる音楽っていうのは、これまでのアニソンとちょっと違うんですよ」という。そういう意識が刷り込まれてしまうという。
Tom「興味深いなあ」
――だからそれ以降、みんな期待してエンディングを聴くし、期待してキャラクターイメージソングを聴くし。そして、その高い期待にことごとく応えてくれる楽曲が連発されてきたという。そういう構造があって、「『けいおん!』、めっちゃくちゃ面白いじゃん!」っていう空気がどんどん強くなっていったという。
小森「ただ、たとえばオープン、エンドで面白いものができた。次、挿入歌と、イメソンも面白いものができた。だけど、結局、どれも面白いと感じられるものを作るってことで精一杯だっただけなんですよ。だから、コンセプトとして、何かをやっていこうっていう意識ではなかったですね。まあでも、今考えると大きなコンセプトはあったんですけどね。ただ、それは個々の作品という括りではなかった。全体を統一するものとしての括りでしたね」
――それは、とにかく面白いものを作っていくという?
小森「そう、かわいいけどカッコいいもの。あと唯一、絶対はずせないのはキャラですよね。このキャラでこういうことはやらないだろう、このキャラでこういう詞は歌わないだろうっていう意識はやはり絶対の制約としてはありました。それ以外の、たとえばサウンド的な部分とか、そういうところはほとんど自由にやらせてもらってる感じですけどね」


■ 山田尚子(監督)

――第1期が始まって、とにかく衝撃を受けたんですね。まず軽音楽部だっていうのに、音楽をほとんどやらない。それと、基本的に何も起こらない。あともうひとつ、ある意味で弛緩した時代の空気を反映した作品なのに、自分探しをしない。これは衝撃的だったんですよ。
「それはきっと原作者(かきふらい)さんが狙ってらっしゃるんだろうなとは思うんですよ。ほんとに演奏してるシーンもないし……ヤマ場の学園祭でも『イエーイ!』で、ひとコマで終わったりするんですよ。なので、音楽を見せる作品じゃないっていうのは原作を読んだ時点でわかっていて。基本的には、あっけらかんとした女子高生たちなんですよ。彼女たちが音楽を始めたきっかけも、とにかく音楽が好きで始めたというわけじゃないし、それをブラしてはいかんとは思ってまして。……だから音楽ファンの方に観てますって言われるたびに固まります。ごめんなさい、大丈夫ですか?っていう(笑)」

――『けいおん!』のすごさのひとつに、いわゆるコアなアニメファンだけじゃない層にこの面白さを届けたということがあって。それこそ、普通の高校生が「お前誰が好き?」みたいなことを話しているという。そういう現象が、今、日本中で起こっているんですが、監督自身はこの現象をどう感じているんですか?
「とりあえずアニメ特有の敷居の高さみたいなのはなくしたかった、というのはあります。キャラクター性がばっちり決まってて、この子は心に傷があってとか、いろいろあってもいいと思ったし、一般人としてアニメを観るときに気になる部分とか、これはちょっと入れないなと思う部分とか、自分がアニメに対して感じる気持を一生懸命積んでいった感じですかね。誰でも観れる、楽しめる作品を――ほんとにちっちゃい子から大人まで観てもらえる作品にしたいなと思って。だから、小難しい考え方とか、言い出したらたくさんあるんですけれども、もっと素直に楽しめるものは何だろうかっていう観点で作ってます。もちろん、計算も必要だし、考えたりもしますけど、それが前面に出ては面白くないし、作品から幸せのオーラというか、ハッピーなものが出てればいいんじゃないかなと。そこに終始、エネルギーを注いでいる感じでしょうか」

――面白いのは、この子たちが極めて“普通”であるということで。普通の子たちなのに、奥行きがあって、キャラクターとしての器がでかくてという。なんなんでしょう、これ(笑)。
「普通の子にすごく興味があるんですね。たとえば『〇〇ちゃんってどんな子?』って訊くと、『いや、普通の子』って答えられたりすることってあるじゃないですか。『あの人ってどんな人?』『普通』とか……いろんな人に普通普通って言われているうちに、『普通って何?』と思って、“普通”を研究するようになって……(笑)。でも、結局、普通の子なんていないんですよね。みんな必ずどっかちょっと変だったり面白かったりして……って思って、よく見ているうちに普通の子ってめちゃくちゃ魅力的だな、と(笑)。普通って思われてる子の奥深さってすごいんですよ、なんでもいけるんですよね。だから、この子たちの許容範囲の広さもそういうことなのかもしれない。普通だからこそ、この子たちは優しいし、友だち思いだし、みんなのことを気にかけられるし。性格が悪い子とかいないですから(笑)。『普通、普通』っていっても私の目には普通には見えないんだよなぁ……と思いながら研究してきた結果が『けいおん!』なんだと思います(笑)」


■ 豊崎愛生(平沢唯役)

――『けいおん!』のすごいところとして、音楽との相乗効果がありますよね。この現象的な盛り上がりをメインキャストのひとりとしてどういうふうにご覧になってるんでしょう?
「わたしとしては、『おめでとう、よかったね』っていう気持ちのほうが強いんです。自分だけど自分じゃないなあみないな感じで。この子たちはアニメのキャラクターであって、つまり2次元なんですけど、聴いてくれてる方たちにとっては、この子たちが実際にいて、軽音部をやっているんだっていうふうに思っていただけたら大成功なわけですよね。聴いてくださる方が、豊崎愛生じゃなくて、唯ちゃんが生きていて、歌ってるって思えるように歌えたら、それが一番だと思いますし。そういうことをずっと考えていると、1位をいただいたときも、『唯、よかったねえ』みたいな気持が強くて(笑)。不思議な感覚ではありますけどね」

――実際、第1期の5人の空気感がなければ、絶対に作れなかった曲だと思いますけどねぇ。
「でも制作スタッフさんたちは、『誰にも歌えないような曲を作りたいんですよねえ』みたいなことを言ってたんですよ。「え? じゃあわたしのことはなんだと思ってるんだ』って話なんですけど(笑)。“誰も”のなかにわたしは入ってないのかしらって(笑)。でもスキル的なことも、キー的なことでも、唯ちゃんになると上が出るんですよね(笑)。豊崎愛生だと“GO! GO! MANIAC”は歌わない――歌わないっていうか歌えないんですが、唯ちゃんをフィーチャリングすることによって楽しく歌えるし、出ないキーも出るようになるし(笑)。それはほんとに不思議ですね。ぶっちゃけちゃうと、わたしも歌えるとは思わなかったですから(笑)。でも、歌えると思ってなかったのになんとかできちゃったっていうことは、やっぱりキャラと作品が助けてくれているのかもしれないなあと思います」


■ 麻枝准(『Angel Beats!』原作・脚本・音楽)

――『Angel Beats!』は第1話の放送時から、非常に大きなリアクションがあったと思うんですが、麻枝さん自身、これまでの反響をどう捉えているんでしょうか?
「まあ、ものすごかったですね。第1話のときは、(Girls Dead Monster=ガルデモの)アルバムを録るために東京でホテル暮らししてたんですけど、もう評価が散々で(笑)。まあ、オリジナルアニメっていうのはとにかく注目を集めなきゃ観てもらえないので、とにかくすげえおもしろいものを作ってますよって、自分が矢面に立って頑張ってきたんですけど、それが仇となって、集中砲火で叩かれまくりまして(笑)。もうすさまじかったですよ。アニメファンのみならず、アニメ業界全体を敵に回してしまった、とんでもないことをしてしまった、と思いましたから」

――これだけのクオリティのアニメーションで、CDセールスもあってって、まあ普通に考えれば大成功ですよね。音楽は音楽で、その上位概念としてシナリオ、ストーリー、アニメの全体像があるっていうことが如実にわかるお話なんですけども。
「だから、アニメを作るっていうことになって、やっぱりアニメをいっぱい勉強したわけですよ。そうすると、最初はおもしろかったけど、尻すぼみになっていく作品がどうも多いらしくて。それは何か残念だなあみないな作品がたくさんあるので、そうはならないように、終盤に畳みかけてどんどんおもしろくなってくるように書いてるつもりなので、だからやっぱりそこは勝負なんですよ。最初の雰囲気はよかったけどねぇ、みたいな作品はやっぱり、何というか、隠れた名作で終わっちゃいますよね。最初から最後まで全部がよかったときに名作になるんであって。で、今回、どんだけの人が携わってくれてて、どれだけ心血注いでやってくれてるのかとか、そういうマンパワー的なところも考えても、やっぱり本当に成功させなくちゃダメだっていう使命感が自分にはあって。だからまあ、最後はああだったけど、まあ途中受けたからいいじゃんかとか、音楽売れたからいいじゃん、じゃなくて、『Angel Beats!』はちゃんとみんなの心に残っていくぐらい、いい作品に、13話が終わった時点でならなけりゃダメだっていう、すごい使命感があって。だからほんとに最終回が終わってから感想を見たりとかして、それで落ち着けるかどうか。そこまではまったく気が抜けないですね」※インタビューは作品放送終了前である。

――そこで振り返っていただきたいんですけども。両方やり始めた経緯っていうのは、「俺はふたつ、おもしろいこと考えてんだよ」じゃなくて、仕方なく足してみたっていう感じだったんですか。
「音楽を作っている、要はコンポーザーっていう職業の人たちは、感動できる曲がほしいんだ、ここで泣かせたいんだっていう曲を発注しても、切ない雰囲気の曲が上がってくるだけなんですよ。確かに切なくはあるけど、それ以上にはグッとこないっていうのがあって。それは何かっていうと、結局のところメロディなんです。確かに雰囲気には切なくなっているけど、もっといい曲が流れたら――つまり、もっといいメロディが流れたら、もっと感動できるんじゃない?っていうことが自分のなかにはずーっとあって。で、『じゃあ』っていうんで、自分で書いてみたら、やっぱりよりよくなった、みたいなところから始まってるんですよね」


■ 石原真(NHK「MUSIC JAPAN」プロデューサー

――『けいおん!』関連シングルが1、2位を獲り、『Angel Beats!』のシングルも4枚全部がトップ10ヒットになり、水樹奈々さんも売れまくっているという。まず、これ新しい現象ですよね?
「現象です。恐らくみんなが知らないところでいろんなことが起きてます。たとえば牧野由衣がフランスとロンドンで公演をして、昨日帰ってきたわけです。この間、栗林みな実もメキシコ行ってました。麻生夏子がパリに行くとかね、もう普通のこと。まったくの新人ですよ、アーティストとしたら。しかも、海外のテレビでオンエアされてもいない曲を、吹き替えでもなく、世界中の若者が歌っているという。“ハレ晴れユカイ”なんて世界中の若者のアンセムですよ。もしかしたらオアシスよりも有名なんじゃないかな」

「ということが複層的に起きていって。それはあくまで個人的な趣味の段階でしたが、私はJ-POPの番組をやっておりまして。チャートアクションを見ていて、さすがにこれは地上波の音楽番組の中でも扱ってもいいんじゃいかなあと思ったわけですよ。ただ、もうおわかりだと思うんですけど、差別というか、上下関係というか、垣根がありましたよね」
――ありましたね。
「『ああアニメですか』『ああアニソンですか』っていう。それは、ファンこそ痛切に感じていたわけですよ。ファンは『俺達は虐げられた人民だけども、ほんとにいいものを応援しているんだ』っていう思いが10年前ぐらいからずっとあったんですよね。その垣根をなんとか取ろうという作業をしてきたんですけども。というのも、この人たち、ライブがあまりにも面白いんですよ」

――チャートアクションが象徴する現象もありますけど、根本はやっぱりクオリティが高い、面白い。今一番面白いものが、アニソン/声優カルチャーだということですよね。
「それがですねぇ。たとえば配信系のR&B女性シンガーが面白いかっていったら、うーん……」
――(笑)そうですよねぇ。
「ただ売れるよね。それはそれでいいんですよ。じゃあ、その感じはどこにあるかっていうと、シンガーソングライターと呼ばれる、あるいはアーティストという言葉が恐らく行き詰ってるんだと思う」
――ああ、なるほどなるほど。
「アーティストじゃないんですよ、シンガーだから、この人たち。18、19の小僧や小娘に、コンビニに行って携帯かけたらきみがいなくて寂しかったって歌われても、俺の心は打たないよっていう。それが今のポップミュージックですって言われても、それは違うでしょっていう。それが行きすぎちゃってるんですよ。ロックはいいんですよ。ロックって、自分が作って自分が演奏することだから。ロックをロックたらしめているのは、一代限りってことですよ。ビートルズの曲はビートルズしかやらない。ストーンズはストーンズしかやらない、フーはフーでしょっていう。ポップミュージックの場合は本来プロが寄り集まって作って、3分間の快楽を与える。ちょっと前までは小室(哲哉)さんがいたりつんく♂がいたり、良質なポップスがあったわけじゃないですか。もっと遡れば、松本隆が、筒美京平が、大瀧詠一がいたっていう。そのへんがね、最近つまらなかったってことなんでしょうね」

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