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■2012/05/15 (Tue)
コレキヨの恋文 (1)霧島さくら子は元々、政治家になるつもりはなかった。弁護士として法律を学び、その方面で有望な将来があるはずだった。しかし、政治家であった父親が急死し、地元の後援会から懇願されて、仕方なく衆議院選挙に出馬したのだ。
軽い気持ちだった。どうせ落選して、弁護士の仕事に戻れるだろう、と考えていた。それがまさかの当選。その時点で、さくら子は弁護士の道を諦め、政治家として生きていくことを――泣く泣く――決めたのである。
とはいえ、政治とは無縁の仕事を、生活を歩んできたさくら子である。政治家になったといっても、そこで何をするべきなのか、何を目指すべきなのか、そのビジョンは何も見えてこなかった。何年たっても相変わらず政治音痴の半端者のままだった。
だというのに、かつて総理大臣を務めた朝生一郎に、「総選挙に出馬してくれ」と懇願されたのである。
なぜ自分が……? 政治家としての自覚がいまだに中途半端なままで、そもそも政治というものが何なのかもよくわからない。今度も、「どうせ落選するだろう」と願うような気持ちがあった。
しかし霧島さくら子は、自民党第26代総裁に、第97代日本国内閣総理大臣に就任したのである。
「……なんで、私が総理大臣?」


『コレキヨの恋文』、この本は、2009年に出版されベストセラーにもなった『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』、通称『もしドラ』のパクリである。あるいは、『もしドラ』を手本に描かれた小説である。作者である三橋貴明自身それを認めて、堂々と公言している。しかし、そこにある切実さ、作品が抱えている重さはまったくの別物だ。

いま日本は、デフレである。デフレであるから経済不況が続いているのである。デフレであると、市場に物が溢れているのにそれらが売れず、企業は充分な利益が得られず、給与が切り詰められ、存続のために従業員がリストラされる。失業者がじわじわ増え続け、大学を出たばかりの新卒は仕事に就くチャンスを失う。にも関わらず、市場には物で溢れ返り、今の日本が深刻な不況であるという現実がなかなか見えてこない。これがデフレの状態であり、デフレの怖さなのである。
そんなことは今どき子供でも知っている? 常識?
では、なぜ誰もデフレに対して深刻に語ろうとしない? なぜ誰もデフレを解消しようと努力しない? なぜデフレを解消させる術を知っている政治家に票を入れず、経済状況を深刻にさせる総理ばかり支持するのだ?
それはデフレを知っているつもりになっているからだ。デフレという言葉と状況は理解している。しかし、「ではどうすれば良いのか」その対応策について、あるいはデフレという現実感がいまいち掴めずにいるから、デフレが20年も続く事態に陥っているのである。
『コレキヨの恋文』はデフレという問題を改めて見詰め直し、では国家として何をすべきなのか、物語というわかりやすい形に描かれた実用書である。

霧島さくら子は、ある桜の咲く夜に、コレキヨ――高橋是清と邂逅する。
「このところの日本の政治は、本当にひどかったですよね」
さくら子は何でもない世間話をするつもりで、是清に声をかける。しかし、さくら子は是清を1930年代の人間だと知らずに、一方是清は、さくら子を2010年代の人間だと知らない。なのに二人の対話は、ことごとく一致するのである。
まずデフレ。1920年代も現在と同じくデフレ不況が続いていた。切っ掛けは第1次世界大戦特需で膨れあがったバブルが崩壊したためだ。
1990年代も土地バブル崩壊で、その後20年間デフレが続いている。このデフレが続いている期間も一致している。
デフレが始まってから以後、総理大臣が毎年のように代わった。橋本龍太郎、小渕恵三、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、管直人、野田佳彦……。小泉純一郎が例外的に4年間総理大臣を務めたものの、この10年間の総理交代劇はあまりにも目まぐるしいものがあった。
1920年代も同じだった。1913年に山本権兵衛内閣が発足されたのをはじめに、ほぼ毎年のごとく総理の名前が変わっている。大隈重信、寺内正毅、原敬、高橋是清、山本権兵衛(第2次)、清浦奎吾、加藤高明、若槻禮二郎、田中義一、濱口雄幸、若槻禮二郎(第2次)、犬養毅、佐藤実、岡田啓介……。ほとんどの総理が1年だけの就任で変わってしまっている。
「ライオン宰相」と呼ばれた総理もいた。現代は小泉純一郎のことだが、1920年では濱口雄幸のことだ。ともに国民人気を背景に総理大臣に就任し、緊縮財政でデフレを悪化させた。
ペテン師と呼ばれた総理もいる。1920年代では若槻禮二郎のことであり、現代では管直人のことである。若槻禮二郎は1926年弾劾を受けるものの、予算を成立させたら自分で解散するから、と弾劾を引っ込めるように懇願したが、予算成立後も総理の座に居座り続けた。一方管直人も、不信任案を受けたものの、自分から退陣するからと民主党員を説得したが、その後も総理の座に居座り続けた。
(高橋是清に相当する人物も今の時代にいるようだ。これについては、敢えて書かないが)(あとついでに、朝日新聞も相変わらずだったようだ。朝日新聞の権力に寄りかかり、国民を扇動する記事ばかり書く傾向は、当時から変わらないようだ)
アメリカのバブル崩壊もあった。現代では2007年のサブプライムローン、リーマンショックの2つであり、80年前はNYウォール街株式大暴落のことである。ともに日本はすでにデフレ下での事件で、釣られるようにデフレを深刻化させた。
さらに日本では大きな震災が深刻な被害をもたらした。1923年の関東大震災、1933年の昭和三陸地震。1995年の阪神・淡路大震災、2011年東日本大震災。
都市伝説の話ではないものの、1920~30年代と現代は一致する事象があまりにも多い。さくら子と是清は、互いに過去の人間、未来の人間と気づかないまま言葉を交わすものの、ことごとく噛み合ってしまうのである。ここまでくると気味が悪い。神の悪戯の悪魔の仕業か、何者かの手が加わっているようにすら思えてしまう。

違いもある。1920年代の情勢不安は現代とまったく違う種類のものだ。当時は、常に戦争、軍事的衝突が多かった時代だ。日本は軍部が強力な権限を持ち、さらに権限を拡大させようと画策を巡らしていた。世界の戦争に日本がいつ巻き込まれてもおかしくない状況であり、実際巻き込まれ、日本は国家として一時的に深刻なレベルで衰退させてしまった。
現代では自衛隊にそれほどの力はなく、世界戦争というほど大きな戦争が起きそうな気配はとりあえずない。(日本には戦争の気配はないものの、周辺の国々、特に中国・北朝鮮・韓国などの特定アジアに不穏な動きは絶えることはない)
1920年代は毎年のごとく総理大臣が政権ごと交代したが、一度だけ、これが幸いな結果をもたらしたことがあった。1923年の関東大震災である。関東大震災が起きた翌日、山本権兵衛内閣が発足。これは関東大震災から日本を復興させるために作られた内閣である。
しかし現代では悲しいことに、東日本大震災後、政府は何もしていない。ただ作業着を着て現場視察をして、何かやっています的なパフォーマンスを披露しただけだった。それどころか、民主党は東北をTPPの実験場にするつもりである。瓦礫と廃墟の東北地方は、いまだに復興の希望は見えてこない。自民党は東北の復興予算を提示するものの、民主党はこれを頑なに拒否。結局復興予算を受け入れたのは震災から90日後だった。

それにしても現在がデフレであることを知りながら、なぜデフレを解消しようと誰も努力しないのか。私は個人的に3つの理由を考えた。
第1に、生活のポテンシャルが無駄に高いからだ。今はそこそこのお金があれば、それなりの生活ができてしまう。とりあえずパソコン一台あれば仕事の娯楽の両方をこなすことができるし、全国に巡らされた交通網で、どこへ行くにも支障はない。それにトイレに入れば最新鋭のハイテク便器が尻を洗ってくれる。ある程度以上水準の高い生活が保証されるから、経済的な深刻さが掴めないのだろう。
第2に、物が枯渇することがないからだ。今の日本は間違いなく経済不況であるが、スーパーやコンビニから食品が消えることはなく毎日きちんと供給されている。「物で溢れ返るが、それを買うお金がない」という状況がデフレの状態なのだがら当り前なのだが、物が溢れ返るからこそ不況の深刻さが見えてこないのだと思う。これがある日を境に、いきなり物や食品がなくなったら――デフレが続けばいつかは間違いなくそうなるのだが――、そうなるまで人々はデフレであることの実感は得られないのだろうと思う。
第3の理由が少子高齢化である。高齢者の数が圧倒的に多い。なぜこれが問題なのか。
現代は高齢者が意識や思考に対して、絶対的なイニシアチブを持ってしまっている。高齢者が考えた、発言したものが、現代人の思考の一つの基準として社会に広がる現象が見られる。
例えば「最近の若者はなぜ消費しない? なぜ車を買わない?」。老人たちは「テレビで車を使ったデートシーンが出てこないからだ」とか「若者が草食化しているからだ」あるいは、「物で充実して満足しきっているからだ」などの回答を勝手に作り出し、社会全体に強要している。
若者の目線から答えを示せば、消費しない理由はいたってシンプルである。「お金がない」からだ。
しかし老人たちはなかなかこの答えに辿り着かない。なぜならば、日本のお金のほとんどは、老人たちが独占してしまっているからだ。デフレであるからといって、お金が消滅するわけではない。老人たちはお金を持っているのである。だから当然、若者も同じようにお金を持っているだろう、ではなぜ物を買わないのだ? となってしまう。新しい車を発売しても、購入するのは若者ではなく老人たちである。この状況・理由について、おそらく老人たちは真面目に考えたことはないのだろう。もしも「若者はお金がない」という状況を知っても、老人たちは「今の若者は自分たちのように働かないからだ」と奇妙きわまりないロジックを引き出し、若者批判を展開させる。いくら仕事しても給与に反映されない、というのがデフレの今の問題なのだが、それが理解できないのだ(仕事をせず、生活保護を受けた方が割のいいお金が得られる、という有様である)
「今の日本の経済は充分に成熟した。だからこれからは衰退するしかないのだ」というよく聞く悲観論も、高齢化社会が関連している。「もう自分たちは充分成熟した。あとは衰退するだけ」というのは、自分たちの状況を説明しているだけで、経済の話ではない。自分たちの心理状況を、現在の経済の状況に重ね合わせて語ってみせているだけで、それは現実の経済について何か語っているわけではなく、これはある意味のポエムである。
大きな企業のトップに君臨するのは老人たちである。老人たちは自分たちはお金を持っている、今はデフレで物が安くて、チャンスのはずだ。そう考えている。現状認識を完全に取り違えたままであるから、常人にも狂人にも理解不能な商品展開を繰り出し、失敗し続けている。デフレでお金がない、という現状認識、あるいは社会認識がなかなか広がらないから、社会そのものがデフレという状況について考える機会を失っているのだ。

高橋是清の時代。1930年代は間違いなくデフレを脱却したのである。『コレキヨの恋文』はマクロ経済における基本的な考え方の解説に始まり、いかにすればデフレを脱却できるのか、その方法が描かれている。“解説”と“物語”の2つを軸に、小説は進行していく。
コレキヨの恋文 (2)そのために、小説としてみると、やや特殊な書かれ方をしている。小説であるから確かに霧島さくら子の物語が中心となるのだが、その物語はしばしば停滞し、“解説”が始まる。マクロ経済とは何なのか、いかにすればデフレを脱却できるのか。解説がグラフなどのデータ付きで始まり、物語の境界を不器用に隠しながら展開していく(右図。とあるブログの読者なら見覚えるあるグラフだ)
また『コレキヨの恋文』は現在から数年後――おそらく1、2年後――の未来が想定されたシュミレーション小説である。現在の民主党の政権が倒れ、政権が再び自民党に戻された。それ以後のできごとが描かれた作品である。
シミュレーション小説だから、未来を予測するための現在の描写に、かなりの枚数を割いて書かれている。最近の民主党総理の脱税疑惑や外国人献金などの暗い側面など避けることなくしっかり描いている。
世界情勢についての描写も細かい。特に欧州ユーロ圏についての描写が多く、ギリシャが債務不履行(デフォルト)を宣言した後、ヨーロッパ各国が次々に追随。真っ先にドイツがユーロを脱退した。ユーロ圏全体での不良債権は合計で3000兆円に達するという。3000兆円の不良債権、なんてゾッとするが、このシミュレーションはどこまで正確なのだろう。
中国のバブル崩壊についても少しだが描かれている。中国はバブル崩壊した後(これはシミュレーションではなく事実としてすでに崩壊している)、政府は軍事的冒険に乗り出し、尖閣諸島を中心に、日本と軍事的緊張を持つようになる。
世界は暗澹とした経済不況に陥り、1930年代のような戦争の影がちらちらと見え始めてくる。……経済的な問題を、戦争で解決しようというのだ。

しかし『コレキヨの恋文』は悲観的なシミュレーションを描いていない。バブル崩壊、デフレ不況、世界情勢の不安定。ならばどうすればいいのか、どうすれば解決するのか、その具体的な指針を示した小説である。
マクロ経済の常識に照らし合わせ、デフレである今、どうするべきなのか、どう考えるべきなのか。戦争もしなくていいし、日本のデフレ脱却は実は簡単である。世界情勢を再び安定させることだって、不可能ではない。
日本国民は教養豊かな国民性を持っている。正しい知識を与えれば、間違いなく正しい行動をとることができる。そのための理解力も極めて高い。問題は、正しい知識を得る機会を喪っていることにある。
なぜか? 120%新聞とテレビが悪い。新聞とテレビが中心となって誤った情報を国民に広げ、正しい知識と得る機会を奪っている。新聞とテレビは自分たちの感情だけで「土建屋悪玉説」を主張し、自分たちのお気に入りの政治家(民主党)を御輿に担ぎ上げ、さらには一部の官僚が主導し、間違いなく日本経済を悪化させる増税、TPPをあたかも素晴らしい政策ように喧伝している。
マスコミが政治について解説するとき、常に“政局”ばかり取り上げる。政治家と政治家が対立する場面だけを切り取り、いかにも自分たちが審判になったつもりになってジャッジを下す。そこでマスコミは、正義と悪役を作り出してしまう。そうすることによって、さらに政局そのものを煽り立て、政治家から政治を遠ざけてしまう。国民が知りたいのは、知るべきなのは、その政策がどんな効果をもたらすのか、それだけである。だが、前面で出てくるものはいつも政局で、政治そのものを知る機会を国民から奪ってしまっている。

残念ながら『コレキヨの恋文』は物語小説としてはあまり出来のいい作品ではない。
物語は節々でぶつ切れになるし、連続性のない場面がいくつか取り上げられているだけだ。後は“エピソード”として描かれず、大雑把な粗筋としてまとめられてしまっている。
“解説”が『コレキヨの恋文』の本旨ではあるものの、物語との連続性はあまり自然ではない。“解説”の占める重要度が大きい一方、“物語”が背景に押しやられてしまっている。
人物の描き方も良くない。どこかで聞いたような名前の東田剛、間違いなくあの人がモデルである朝生一郎、官房長官の九条といった人物が登場するものの、それらの人物がまったく掘り下げられていない。演芸会のような表面的な台詞がちらちらと並ぶだけで、感情が現れる場面はなく、人物同士の交流も浅く、そこにドラマが起きそうな予兆はない。
文章の構築もあまりいいものではない。『コレキヨの恋文』は執筆協力としてさかき漣の名前を堂々と公開している(ゴーストライターの存在を明らかにするのは珍しい)。三橋貴明は音速タイプタッチと呼ばれる異常な速筆で、次々と著書を出版しているが、文章がうまいというわけではない。これまでの著書を見ても、放り投げたかのような文章、バラバラのリズムの句読点。きちんと自分の本を読み直してから出版したのかと疑いたくなる。「何しろ」の語が3ページおきに出てくるのもよくない。『コレキヨの恋文』は小説作品として、さかき漣が大部分を直し、三橋貴明特有の癖を修正しているものの、まだ“一般的な小説”の水準には及ばない。
もしも将来的に『コレキヨの恋文』を映像化する場合、映像作家はこの小説から新しいエピソードをかなりの量で作り出さねばならなくなるだろう。もちろんそこには、人を引きつけるドラマがなければならない。単に“マクロ経済について説明してくれる映画”では、人の気持ちを引きつけることはできない。原作そのままでは、映画にならない。

「経済の成長はもう成熟しきっていて……」などはマクロ経済の常識からいってあり得ない。経済の成長とは、本書に書いてあるとおり、名目GDPを成長させることである。名目GDPのポイントを上げれば自然とデフレは収束し、うまく政治の舵取りをすれば、ゆるやかなインフレ状態のまま経済成長し続けることはできるのである。お金は回り続けるだけでよく、お金が回る過程で人々は様々なサービス、良質な品を手にすることができる。
1930年代、高橋是清の時代もデフレであり、そのデフレは脱却できたのである。もっとも、その時代は軍部が強力な権限を持っていた時代である。確かにデフレは脱却できたものの、あの忌まわしき事件が起きて、日本は歴史史上最悪の暗黒時代に突入する。
しかし、今は少なくとも国内に戦争の気配はない。まっとうな政党のまともな政治があれば、いつでも直ちにデフレを脱却でき、経済成長させることができる。問題なのは、誰もその方法を実行しようとせず、また実行しようとしても国民が理解できず、正しい政策を信じることができないからである。
日本国民は教養豊かな国民性である、と私は信じている。教育のレベルは極めて高いし、一人一人に知性がある。正しい知識を与えられれば、正しく行動できる。ただ、そのチャンス――正しい知識を得る――がないのである。すでに書いた通り、マスコミが全部悪い
だから『コレキヨの恋文』が書かれたのである。マクロ経済を物語という接しやすい本にすること。『コレキヨの恋文』を通じて、読者がマクロ経済を理解すること、さらにはいかにデフレを脱却できるか、その方法を示すための本である。デフレの時代だからこそ、読むべき価値のある本である。

三橋貴明オフィシャルブログ「新世紀のビッグブラザーへ」

著者:三橋貴明
執筆協力:さかき漣
出版:小学館





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