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■2016/08/08 (Mon)
創作小説■
第7章 Art Loss Register
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32
ツグミは「説明しなくちゃ」と思ったが、頭の中が興奮状態だった。それに話してしまうと、せっかく浮かんだ発見がするりと逃げてしまう気がした。ツグミとヒナは、木野が運転する車に乗って、病院を脱出した。まだ夜明け前で静かな道路を、法定速度ぎりぎりで滑走する。
ツグミは、黙ってフロントガラスを眺め続けた。ツグミの気持ちは、妻鳥画廊にあった。これからするべき行動を、頭の中でシミュレートしていた。
夜が明けたばかりの神戸の街は、人がいないみたいに静かだった。街は冷たい青一色から、徐々に色を取り戻しつつあった。
木野の車が、妻鳥画廊にやってきた。ツグミとヒナは車を降りて、妻鳥画廊の中に飛び込んだ。
妻鳥画廊の中に、人の気配はなかった。画廊にはまだ暗い影が残っていて、空気が冷たかった。
「ヒナお姉ちゃんは、ここでしばらく待ってて。木野さん、一緒に来てください」
ツグミはヒナを画廊に待機させ、木野と一緒に2階に上がった。
2階の物置の前までやって来る。ツグミはまず、南京錠を確認した。南京錠は破壊されていなかったし、細工もされていなかった。
ツグミは南京錠の鍵を開けて、物置の引き戸を開けた。小さな窓しかない物置には、暗い影が落ちていた。
ツグミは物置の照明を点けた。物置は夏の衣類や、思い出の品などで雑然としていた。
すぐにファスナー・ケースが置かれている場所に目を向けた。ファスナー・ケースは、間違いなくツグミが置いた場所にあった。
ツグミはファスナー・ケースの前に進んだ。ファスナー・ケースのチャックを開けて、ちらっと中を確認した。ちゃんとあった。確認ができて、ほっとした気分になった。
「木野さん、この絵を画廊に持っていって、イーゼルに掛けてください」
ツグミは命令口調になって、ファスナー・ケースごと絵画を木野に手渡した。警察相手に失礼なのはわかっているけど、今は言葉を選んでいるのがもどかしかった。
木野はファスナー・ケースを受け取って、階下に降りていった。
ツグミは壁に掛けられたトートバッグを手にすると、雑然とした物置の奥へと進んだ。
物置の奥の棚に、画材がずらりと並んでいる一角があった。ツグミはその中からいくつかの瓶を選んで、トートバッグの中に入れた。純粋アルコール。テレビン・オイル。酢酸エチル……。
確かこれで合っていたはず。今は文献をひっくり返している暇はない。ツグミは物置の照明を消して、廊下に出た。
ツグミは階段を降りていった。1階の廊下に入ったところで、用事を終えた木野が、画廊から顔を出した。
ツグミは木野に補助してもらって、画廊まで急いだ。
画廊に行くと、川村の絵がイーゼルに掛けられていた。川村の絵は、画廊の柔らかな照明に照らされて、1ヶ月前と変わらない輝きを放っていた。
川村の絵を眺めていたヒナが、ツグミを振り返った。その一瞬見ただけで、絵の魔力に囚われかけていたツグミは、はっと我に返る。
ツグミは円テーブルの前に進み、トートバッグの中に入れた薬品の瓶を、テーブルの上に並べた。
「ヒナお姉ちゃん、お願い」
ツグミは感情のない声を努めて、ヒナを振り返った。
ヒナは無言で頷いた。ヒナは並べられた薬品を見ただけで、全てを理解してくれたみたいだった。
「木野さん、台所からボウルとお椀、それから菜箸を持ってきてください。あとエプロンと、私の部屋からコットンを持って来て。急いでお願いします」
ヒナは木野を指で差して、命令口調で指示を出した。ヒナの命令は、本当に遠慮がなかった。
木野は大急ぎで、台所に飛び込んだ。ヒナは待っている間に、袖を捲り上げて、髪を束ねてポニー・テールにした。
ツグミは椅子を円テーブルから少し遠ざけて、座った。作業に入ると、ツグミに手伝える仕事は何もない。ツグミは黙ってヒナの仕事を見守っていようと決めた。
木野が台所から戻ってきた。テーブルの上に、家庭用のボウルとお椀、菜箸が並べられた。木野は再び画廊を出て、今度はバタバタと2階に上がっていった。
ヒナは薬品の瓶を開けて、ボウルに注いだ。純粋アルコールが5。テレビン・オイルが3。酢酸エチルが1。
ヒナは計量カップも使わず、迷いなくボウルに溶液を注ぎ込んだ。目分量だが、たぶん正確だ。次に、菜箸で溶液を掻き混ぜ始めた。
ちょうどよく木野が画廊に戻ってきた。木野はエプロンと化粧道具を、ケースごと持って来ていた。
ヒナはエプロンを受け取り、体に掛けて腰の後ろで紐を結んだ。化粧道具を受け取り、コットンだけを取り出し、テーブルの上に広げた。
ヒナはボウルで作った溶液を、お椀に移した。菜箸でコットンを摘み、お椀の中に溶液を軽く浸した。
木野は立ったまま、ヒナの作業を見守った。また指示を言いつけられるかも知れないから、座っていられないのだろう。
ヒナは溶液を含ませたコットンを摘み、川村の絵を振り返った。コットンで、絵画の表面を緩くなぞる。
キャンバスの絵具が、じわりと滲み始めた。コットンに絵具が吸い取られたのだ。
ヒナは色の付いたコットンを床に捨て、真新しいコットンを菜箸で摘んだ。コットンに溶液を含ませて、絵画の表面を撫でる。
川村の絵は、少しずつ溶け始めた。くっきりとしたディテールは、雨でも降ったみたいに、滴を垂らし始めた。
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目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
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