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■2015/07/17 (Fri)
第1章 最果ての国

 ゆるく雨が降っていた。
 空は厚い雲が覆い、いまだ夜明けの光を明かさず、夜の闇をそこかしこにとどめていた。風が強く、獣が低く唸るときのような音を立てている。暗い灰色に浮かぶ森の向こうで、魔性の獣たちがいよいよ迫ろうという気配を感じた。
 村人たちは緊張していた。麦畑の向こうに、即席で作り上げた高い柵が立ち塞がっている。柵の向こうは深い森になっていて、影にじわりと不穏な気配を混じらせている。
 いよいよ来るぞ……。
 村の男たちは、手に刃物を持ち、弓矢を持ち、ただならぬ緊張を漲らせていた。しかし誰もが闘気を充実させていたわけではなく、邪悪な気配を前に、不安や怯えを浮かべる者も多くいた。

村人
「もう来ないんじゃないか」
村人
「莫迦云え」

 村はゆるい円錐状になっていて、中央に村人らが住居にしている家が置かれている。階段状に作られた村を降りていくと、麦畑が周囲に広がり、それが途切れようとする場所に石垣が作られ、さらに高い柵が作られていた。柵が内なる世界と外の世界を分断している。村の南北の外縁には、櫓塔が建てられていて、村というより要塞といういかめしさを持っていた。
 村人たちが集まっているのは、その柵をあえて低く作った部分。侵略者が踏み込みやすい場所に、武器を持って集合していた。
 しかしついに夜が明ける時間が来てしまった。村人たちは夜通し待ち続けて、かすかに疲労を浮かべ始めている。
 風景はじわりと明るくなっているが、太陽はちらりとも姿を見せない。村を囲む邪悪な気配は、むしろ色を濃くして、村人らを圧倒していた。
 ゆるい雨は、強い風に渦を巻きながら、横殴りに村の男たちに降り注ぐ。誰もが闘気を漲らせて、汗を蒸気に変えて吹き上げさせていた。村人たちは無言で、手に武器を持った格好で、柵の外の世界を睨み付けていた。
 そんな緊張漲らせる厳戒体制下にも関わらず、むしろ泰然とした様子で村を見守っている男がいた。その姿は一見優男のようでありながら、生まれながらの闘将であるかのように厳かな闘気を身にまとい、その所作や気配に一部の隙のない威厳を溢れさせていた。
 この男こそ、族長のミルディである。

見張り
「戻ってきたぞ!」

 櫓塔の見張りが声を上げた。門の向こう側を指さす。

ミルディ
「門を開けろ!」

 村人らが門を開ける。門の向こうに、細い小道が現れた。小道は森を寸断して、ゆるやかに続いている。
 その小道に、少年が2人走っていた。少年は足を泥だらけにしながら、門の中に飛び込んでくる。
 門が閉じられる。少年たちは疲れた様子など少しも見せずに、すぐに族長の許へと走り進んだ。

少年
「来た! 一杯いる。でかいのも!」
ミルディ
「数は?」
少年
「北から40。西から15」
ミルディ
「よし、よくやった。奥に行って女たちを守れ!」
少年
「うん!」

 少年たちは頷いて返すと、村の奥へと駆けていった。
 入れ違うように、風が不穏な気配を混じらせるようになった。森が禍々しい気配をよりくっきりさせる。真っ黒に焦がしたような雲が、落雷の音を響かせた。
 カラカラカラ……。
 警報器が鳴った。森の入口に仕掛けておいたものだ。侵入者がロープを引っ掛けると、木を打ち鳴らす仕掛けになっている。
 その音に、村人らがはっとした。
 カラカラカラカラカラ……。
 カラカラカラカラカラ……。
 警報器の音がいくつも重なり、村全体を取り囲んだ。風の音も落雷の音も背後に消えて、警報器のあまりにもけたたましい音が村を包み込んだ。
 取り囲まれているのだ。
 村に警戒を呼びかけるその音は、魔の手の存在を明確に物語り、さらにより大きな物にして村人らを圧倒した。闘気に漲らせていた村人らの顔から、急速に士気が失われ、困惑が代わりに浮かび始めた。

ミルディ
「男たちよ奮い立て! 戦いの時が来たぞ! 恐れなどは奴らに食わせてやれ! 今こそ我らの誇りが試されるときが来た! 我らこそ戦うために生まれてきた一族だ。ハンニバルにもエサルにも打ち破られなかった、我らの鋼の勇気を示せ! その鋼の腕でやつらを打ち砕け! 鋼の鎧でやつらの刃を打ち砕け! 邪悪な者どもに永久に忘れることのできない恐怖を刻みつけてやるのだ! 男たちよ声を上げよ! 武器を掲げよ! 戦いの時だ!」

 風を打ち破るような族長の叱咤が村に轟く。村人らが「おおお!」と声を合わせた。その声は瞬く間に村人らに勇気を取り戻させた。
 森の木々がざわざわと揺れ始めた。闇がより強く気配を浮き上がる。群衆が迫ったように、柵がぐいぐいと軋みを上げて揺れ始めた。
 しかし村人らにもはや怯えなどなかった。迫ろうとする脅威に、むしろ殺気を漲らせて武器を身構えていた。
 その時――。
 柵の上に黒い影が立っていた。人のような姿をしているが、全体が黒く、毛むくじゃら。口には鋭い牙、手には尖った爪を持ち、略奪品であるボロボロになった古い鎧や刀で武装していた。全体が黒い姿なのに、その兜の庇の下で、目だけが禍々しい赤い輝きを放っていた。
 ネフィリムだ。
 ネフィリムは柵の上に立ち、唸り声を上げた。獣というより悪魔の声だ。地獄の使者のような不快な声は、風の音を打ち破り、勇気で満たされる村人らの心を再び暗転させるようだった。
 ネフィリムが村の中に飛び降りた。
 それが合図だったみたいに、ネフィリムたちが次々と柵を跳び越えてきた。
 戦いが始まった。ネフィリムと村人らが激突した。暗闇の中に、刃物が煌めき、赤い血が生々しく映えた。村は戦の混沌に支配され、殺戮と狂気が覆った。麦畑は人間の血で赤く染まり、ネフィリムの不浄の血で黒く染まる。そこでは誰もが傷つき、誰もが命を落とした。
 雨はとめどなく降り続いた。まるで永久に夜明けなど来ないというように、暗雲が空を覆っている。ネフィリムの軍団は、森の闇から澎湃と押し寄せてきた。
 村人らの戦いは順当に展開された。森を目前とした麦畑に第1陣を置き、階段畑を一段上るごとに第2陣、第3陣が配置された。
 柵を登ろうとするネフィリムたちを、第1陣が弓矢と石つぶてで応戦する。仕損じたら追わず、第2陣に委ねる。同じように仕損じたら第3陣が応じる。
 しかしどれだけ計画的に作戦を展開していても、形成は徐々に変化していく。村人らは消耗していくし、ネフィリムはますます活気づいてくる。ついに村の後方からもネフィリムが侵略し始め、戦は本格的な混沌の体をなしていく。戦の渦に誰も逃れられず、村の中央の家を守っていた女や子供たちにも魔の手は迫ってきた。
 ただ、彼らは女や子供であれ勇敢であった。生来的な嫌悪と不快をもたらす地獄の使者を前にしても、怯えなど見せず、勇気を奮い立たせて、女たちは槍で突き、子供たちは石つぶてを投げつけた。
 そんな混沌の最中でありながら、族長のミルディの闘気はますます盛んになり、頭脳はより明晰になって、腕力は一刀のもとにネフィリムを両断にし、指示は一度として誤ることはなかった。その強さ、威風堂々とした佇まい。彼こそが紛れもない闘将の生まれ変わりであった。
 いくらか危機を迎え、村人らも消耗したが、やがてネフィリムの勢いも先細りになっていった。そんな頃、不意に雨が止んだ。雨が途切れるとともに雲が散り始め、光が村に落ちる。戦いが終わる時だ。
 夜の使者たちが悲鳴を漏らした。ネフィリムたちは村人の殺気よりも太陽の光に恐れ、一目散に森の闇へと退散していった。
 見上げると、雲の隙間から黄金の輝きが降り注いでくる。村人らは長い緊張から解放されて、茫然と膝を着いたり、空から降り注ぐ光に祈りを捧げたりする。
 戦いは終わったのだ。ミルディは、最後まで闘士を失わなかったネフィリムが、村人の矢に討たれて倒れるのを見届けた。あのネフィリムが最後の1匹だった。村から間違いなくネフィリムの影が消えたのを確かめて、それからようやく緊張を解いた。

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目次

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■2013/02/27 (Wed)
1 テレビはそろそろ捨ててもいいだろう

88daa26a.jpegニコニコ動画でテレビアニメシリーズが配信されるようになって、そろそろ3年が過ぎようとしている。ニコニコ動画でアニメを見ることは一般的になったし、製作サイドもニコニコ動画をビジネスの場としてそれなりの重要度を与えるようになってきた。「アニメーションはテレビで」この考え方は急速に過去のものになりつつある。
3年前、『ストライクウィッチーズ2』及び『学園黙示録HIGHSCHOOL OF THE DEAD』が配信された時にも一度ブログに取り上げた(ストライクウィッチーズ 第1話)が、その当時から思っていて書ききれなかったことや、また状況の激しい変化の時期であり、今の時点での考えを残しておきたいと考えている。

まず最初の主張は、シリーズ・アニメはテレビを捨ててもよいのではないか、という話だ。
3年前のブログ記事で書いた内容の繰り返しになるが、アニメーションをテレビというスケールで制作し続けるには限界がある。
まず12話から13話という“クール”の概念。テレビでシリーズ作品を放送してしまうと、その時点で放送回数が確定され、これが制作上あるいは視聴の上での問題の第1歩となっている。
例えば連載中の原作作品を映像化する場合。週刊雑誌での連載だとだいぶストーリーの進行が早いが、それでも週刊連載18ページと24分放送とでは大きな開きがある。アニメの展開をゆっくりペースで制作してもいずれ原作ストックを消費して、アニメはその時点で終わりにするか、原作にない結末を蛇足のように付け足すか、あるいは原作とはまったく違うストーリーを展開するか、いずれかの選択を選ばなければならない。そもそも原作のペースに合わせてストーリー進行を遅らせた緩慢な展開が喜ばれるとは思えない(いつまで経っても悟空がやってこない、いつまで経っても星矢が矢を放たない、30分付き合って今週も話進まなかったね、という徒労を何度も経験してきた世代として、これは由々しき問題である)。『銀魂』のように、原作ストックの問題そのものをテーマにしてしまう作品もあるが、あれは例外中の例外で、殆どの場合でユーザーが望まない付け足しと改編でがっかりさせられる。
連載中漫画をアニメ化する場合、1週間に1回放送には無理がある。もしも原作に忠実に映像化するならば、映像化の作家が原作以上の創意を込める気がないのならば、アニメに放送は2週に1回か、週に1回の場合でも15分ほどが最適ではないかと思われる。
それに、12話~13話という構成が、ストーリーの展開に制限を与えてしまう。その物語が出発点からどこまで進行し、変化を与えられるか。それは物理的時間に比例する。映画の場合、およそ30分区切りの起承転結で構成した場合、そこに描かれるのは大きな課題を一つ、大抵の場合、主人公の葛藤を乗り越える物語で完結してしまう。シリーズ作品の魅力は主人公の成長、冒険の旅の過程であり、映画とは違うスケールを持った進行距離を描くことができる。映画よりもっと深い所まで人物を掘り下げ、主人公の成長と変化をより大きなものにできる。物語を描くならば映画よりシリーズの方がいい。物語により大きなダイナミズムを与えるのがシリーズの特権であるし、見る側は主人公達の成長を友人のごとく付きある楽しみが生まれる。
しかしあらかじめ12話という制限が与えられてしまうと、見る側としては途中から結末が見えてしまう。6話前後で物語に変化が起きて、10話に入る頃には結末に向けて伏線の回収が始まる。12話という前提で構成してしまうと、どのアニメも同じセオリーを踏襲するから、だいたい同じような展開と結末になってしまう。主人公が物語の中で進める移動距離に限界が与えられてしまうのだ。
eb85617f.jpeg12話構成が絶対的になってしまうと、これが枷となって物語の背景を充分に語る準備が作れず、その逆にそもそも12話も必要ない物語も存在する。
前者においては『DARKER THAN BLACK -流星の双子-』がその例だ。『DARKER THAN BLACK -流星の双子-』は明らかに12話では収まらないスケールを持った物語だった。この物語をきちんと展開させ、結末へと持って行こうと思ったら、12話では足りない。では何話が適切だったのか、と問われると制作者にインタビューしないとわからないが、とにかく12話は明らかに不充分だった。それまでの物語はそれなりに順当に物事のあらましを描き、それぞれの人物の感情を描いてきたのだが、12話に入って突然、切り貼りのダイジェストになってしまった。あまりにも説明がなさ過ぎて、奇妙な印象になってしまったクライマックス、登場人物が突然まったく別の場所に移動しているなど、書きこぼしたシーンが多い。おそらくダイジェストになってしまったクライマックスを4~5話くらいの尺度で展開していけば、その過程で十分に説明ができるし、人物の行く末も描けて、誰もが納得できる結末になっていただろう。しかし12話構成という前提である限り、それは望めない。
3bee6a32.jpeg後者の事例は、最近では『さんかれあ』だろう。『さんかれあ』は12話(未放送を含めると14話)で映像化するべきではなかった。『さんかれあ』は第6話「あなたに…出会えたから」までは登場人物の背景と心理をスローペースながら丹念に描いてきたのに、それ以降、突然物語は散華例弥や降谷千紘から遠ざかっていく。話の本筋はおあずけ状態になり、サブキャラクターのエピソードで話数を消費していき、ようやく本筋に戻っても展開は緩慢で、ほんの少々の波を乗り越えたところで完結してしまった。おそらく『さんかれあ』に必要だった話数は8話くらい。12話は必要ではなかった。余計なところはざっくり刈り込んで、物語の中心を大きくクローズアップし、ドラマとしてのクライマックスを目指すべきだった。だが『さんかれあ』のアニメ版は、キャラクターの感情を物語の結末へと導く動線が描けていなかった。それにもしも12話という構成で充実した内容を描きたいのであれば、まず原作者を会議室に入れて、原作に描かれていない背景や、その後の展開も聞き出しておくべきだった。
次に、地域の放送格差の問題だ。『花咲くいろは』『ちはやふる』『LUPIN the Third -峰不二子という女-』といった、いずれも話題になった作品だが、私の住んでいる地域では放送されていない。『花咲くいろは』はニコニコ動画で見るチャンスを得たが、もしここで出会わないと、永久にそのままだっただろう。『ちはやふる』も『LUPIN the Third -峰不二子という女-』も気になっている作品だが、未だに見る機会がない。
放送されていない、という問題の他に、放送時期のずれが問題になっている。かつてなら特に気にしない格差だったが、ネットの時代になるとここに少々の問題が孕む。話題に入れない、乗り遅れる、といった問題だ。最近では制作者側が公式としてツイッターで情報を発信しているが、地方出身者はここで自分たちがまだ得るべきではないタイミングの情報を与えられてしまう。本家にネタバレされてしまう危険があるのだ。
またセールス面についても、関東地方に偏りがでやすくなってしまう。関東地方の住人は製作者側が望むタイミングで広告が打てるが、地方の住人に対してはどうしてもここにズレが生じてしまう。関東地方の住人のみを“いいお客さん”と見なしている、というわけではないはずだが、地方に住んでいると何もかもに参加できず、この広告のタイミングのズレが収益にも少なからずの影響を与えてしまう。
アニメが深夜枠で放送されるようになったのは、単純に安く枠を買えるようになった、という背景によるものだが、やはりそれなりにお金がかかってしまう。内容によっては放送局側が拒否する場合もある。確かにテレビ放送は、レンタルショップにDVDを置くよりはるかに注目を集め、宣伝にもなるが、ネットでの視聴が主流になりかけている今、深夜放送にどれだけの意義があるのかあやしいところだ。
それから、テレビだとユーザー側に視聴のチャンスが1度しかない。この1度を逃してしまうと、ユーザーはもう見るチャンスを失ってしまう。もしもストーリーものだと、1回見逃した状態で視聴を続けなければならず、シリーズ作品を見続けようというモチベーションの維持にも関わってくる。もしも録画に失敗したら? 野球延長で放送時間の変更を察知できなかったら? 考えてみれば、テレビはユーザー側にかなり理不尽な制限を与えてきたといえる。



2 アニメの形式はどう変わるのか

テレビ放送には以上のような様々な問題がつきまとってきたわけだが、ネット配信に切り替えるとこの全てが一度に解決させられる。
まず放送回数と放送時間の問題。その作品に、あるいは物語に見合った放送回数と放送時間を独力で決めることができる。これがもっと早く可能なら『DARKER THAN BLACK -流星の双子-』は12話完結ではなく、もっと違う形で結末を描けたはずだった。『さんかれあ』は無駄を省いて、8話前後で完結できるようにしておけば、作品の評価はずっと変わっただろう。
fdaba2f3.jpegすでにテレビ放送からネット配信へと転換を決めている作品もある。『化物語』はテレビ放送後もYouTubeでその続きが制作され配信されたし、未完に終わった『咲-Saki-阿智賀篇』は原作が溜まってきたタイミングでその都度映像化している。しかも放送時間は29分8f276334.jpegと、テレビ放送できない尺で制作している。話の引き延ばしも余計なオリジナル要素もなく、ユーザーにとって理想的な形で『咲-Saki-阿智賀篇』のアニメ版は制作され続けている。
もしもこれからニコニコ動画のみで作品を発表していくのなら、その都度その作品に必要な物語の長さを考え制作ができる自由度が生まれる。“放送回数”や“放送時間”といった囚われは失われ、物語の本質や描きたいテーマと結末、それを見定めて純粋な意味での“物語至上主義”を作品に込めることができる。逆に言えば放送回数やそれぞれの放送時間を自身で決めなければならないというわけだが――その程度の決定もできない作家に用はない。この革命を最初に起こしてくれるのが誰になるのか……今後に注目である。
(多分、広告を打つ側としては、ある程度の固まりになっていないと難しいのだと思う。発表の時期があまりにもバラバラだと広告のタイミングがわからないし、作品の公開が散発的だとユーザーの記憶にも残りづらくなる。だからまず最初に10話前後の固まりで制作する。この段階でうまくユーザーに浸透し、支持が生まれ、利益に繋がるとわかれば、それから続きを原作のペースに合わせて発表していけばいい。第2期という括りを待つ必要はない。第2期を待つより早くユーザーは作品の映像化を見ることができる)
地域格差の問題も解消される。配信された瞬間、日本中のユーザーが同時に視聴できるし、生放送などのイベントは同時に参加できる。ニコニコ動画だけではなく、YouTubeも連動させて配信すれば、世界規模で同時に作品発表もできる。
3724656c.jpegちょっと余談になるが、世界に向けた配信は、今後考えていかねばならないテーマである。というのも、いま日本のアニメは世界中から注目を浴びている。そのほとんどが違法サイトでの視聴だが、日本で放送された、あるいは配信されたアニメが、日本のユーザーとほぼ同じタイミングで視聴されている。しかし世界に向けたセールスはほとんど進んでいない。北米向けのDVDは日本よりも2年以上遅れて発売するのは普通だし、海外のユーザーの声を拾っていくと、翻訳が不充分であるという。はっきりいえば「公式の翻訳は糞。海賊版の翻訳の方ができがいい」という意見が多く見られる。(参考:翻訳冒険活劇/海外のオタク「アニメ業界は海外市場にもっと目を向けるべきだと思う?」(掲載した図は海外における日本のコンテンツの収益をまとめたもの。数字を見てわかるように、海外のアニメ市場はゲーム事業に相当するポテンシャルを持っているが、その収益のほとんどを手にしていない。業界がいまだ海外事業について手を付けていないのがわかる。出自は日経エンタテインメント)
ネットの時代になり、制作の方法もビジネスの方法も変わっている。今は世界に向けて広告を打つことが簡単にできる時代になった。それに、国内だけでの商売では限界が見えるし、すでに限界に頭をぶつけそうになるのを危うくかわしながら続けているといった状態が続いている。いずれにおいても世界に向けた配信、広告、販売は必須になるのは間違いないし、すでに可能な環境は整っている。ここまで良条件が整ってやらない理由がわからない。
任天堂は『NintendoDirect』という番組を不定期にニコニコ動画で配信し、これはYouTubeと連動し世界同時公開を実現している。こうすることで情報を世界中の人と共有させ、同時発表することで情報格差を取り払い、さらに世界中で同時にムーブメントの波を起こすことに成功している。考えてみればスケールの大きな話だが、任天堂はニコニコ動画を情報発信の場として重要度を自覚し、1年前からこれを実践してきている(任天堂がWiiUアプリにまずニコニコ動画を作ったのはそういう繋がりもあるのだろう)。アニメがこれに倣って続こうと思ったら、いつでもできるはずなのに。
話を元に戻そう。ネット配信にすれば、ユーザーが見逃す事態をかなり防ぐことができる。視聴のチャンスが1週間。チャンネルをお気に入り登録しておけば、自動的にマイページに配信されて、放送日を忘れていても、定期的にマイページを覗いていれば見逃す心配はない。1週間以内であればいつ視聴しても構わない。ユーザーの都合に合わせることができる。テレビは一方的に時間が指定し、ユーザーを振り回し続けてきたが、その時代と比べるとずいぶん進歩してきたものである。



3 ニコニコ生放送の問題と可能性

しかし生放送の扱いはやや難しい。生放送は通常の配信よりもイベント的なもの、と見なすべきだろう。
私は前から“同時間性”という造語を勝手に使って人に説明している(別に“ソーシャル”といって説明すれば充分なのだが……造語を作りたい年頃なんだ、ほっといてくれ。造語のセンスがないとか言うな)。インターネットの特徴は初期の頃からロングテールと呼ばれ、その性質や意義は確かにその通りだが、今はそれよりも、“最先端の時間”“何を共有しているのか”がより重要になっているように思える。
例えば2ちゃんねるなどの実況やツイッター、フェイスブック。これらのツールはより最先端の時間で何を共有したか、誰がいつ何を発信したかが重要な要素になっている。というより、今は検索ツールを使っても最新のデータしか出てこない。古い情報になるといくら検索しても出てこない。古い事件について調べるのなら、ネットで調べるより図書館へ行った方が早いかも知れない。インターネットは過去を振り返るツールではなくなり、より加速しながら最先端の時間や感覚を共有するツールに変わりつつある。ニコニコ生放送は普通の配信よりも、同時間性といった特徴を持っているといえるし、コメントを打って画面内で盛り上がっていく様子は、仮想空間上のお祭りのようにも見える。盛り上がっている時には特にそうだ。ニコニコ生放送は本質は、この“お祭り状態”というハレの感情を同時に共有していくことではないかと思う。
それでニコニコ生放送がなぜ難しいといえば――いつ放送されているかわからないからだ。注目されている生放送ならニコニコ動画のトップページに表示されるが、それ以外の生放送はなかなか察知できない。お気に入りチャンネルした作品はマイページに表示されるが、ほぼ全ての事例で配信直後に通知が出る、といった状態だ。これだと放送が始まってからはじめて情報を知る、という状況になるし、常にマイページを覗いてチェックしているわけではないから大抵の場合放送が終わってからやっと情報を知るという結果になる。一挙放送など長時間にわたって放送されるものはこちらも時間の調整しなくてはならなくなる。その当日、その時間になって一挙放送の情報を知っても、見る都合を付けることができなくなる。イベントを開催しても、参加して欲しいユーザーが参加できない。これは制作する側にとっても、配信する側にとってもマイナス要因になっている、とはっきり言いたい。なぜ前日にマイページやメールでお知らせを配信するという簡単なことができないのか、と問いたい。
それに、いま多くのアニメが深夜に生放送し、その後に通常の配信というやりかたである。いったい何を考えているんだ、と配信する側に問いたい。深夜に生放送するのは、深夜放送するテレビの慣習にならったやり方だと思われるが、テレビの場合録画するからこれが許される。しかし録画できるわけではない生放送が同じように深夜に開催するのは果たしてどうかと思われる。これだけでユーザーが参加しづらい環境を作り、やはり制作する側が最終的に損をしている。
アニメは娯楽であり、娯楽とは本来生活に必要のない、無駄なものである。その無駄なもののためにユーザーに不便や不健康を強いてはならないのである。これは作り手の心得として、絶対に胸に置いておくべき信条である。しかし深夜に生放送を配信し、これに参加しようとすれば、そのぶん睡眠時間が削られ、仕事や勉学にはっきりとした悪影響を与える。視聴するのは大人だけではない、学生も多くいるのだと考えて欲しい。本来学業に専念すべき児童を寝不足にさせる環境を作ってしまうことは、作り手の良心に反する行為だと強く主張したい。
ニコニコ生放送でしか視聴のできないアニメもある。生放送のみという形式は、それなりにビジネス的な戦略があれば問題はないのだが、深夜の時間帯で、生放送でしか見られないという作品にたまに出くわす。ここまで来ると、ユーザーに作品を見せるつもりないだろ、と突っ込みを入れたくなる。先に言ったように、学生も見るということを忘れてはならない。生放送のみ、というやり方を問題にするつもりはないが、見せる気がないような放送は控えるべきである。
私ならアニメの生放送を、ゴールデンタイムで放送する。いまテレビが底なしに衰退している。コンテンツ制作の能力がなくなり、どのチャンネルを回しても似たり寄ったりの内容に、雛壇芸人の馬鹿騒ぎ、無理にでも話題を韓国に繋げて韓国芸能人を称揚する。「テレビつまんないね」と誰もが思っている。だったら、「その視聴率、こちらでいただきます」くらいの図太さを持って欲しい。テレビのユーザーを一気にニコニコ動画に引き込む。テレビつまんないね、と思っているユーザーをニコニコ動画に注目させる。そういったチャンスがあるのにやらない理由がわからない。
512adde9.jpegそれに、深夜アニメといえどそこまで刺激的な作品ばかりが制作されているわけではない。『侵略!イカ娘!』や『けいおん!』といった、本来もっと広くユーザーにアピールするべき作品が多くあるのに、深夜であるためにユーザーが偏り、大衆化する機会を失っている。作り手が利益を獲得する機会も失っている。(『花咲くいろは』や『TARITARI』もゴールデンタイムで放送すれば全世帯から共感を得られる内容だったはずだ。『たまこまーけっと』は日曜6時~7時に放送するべき内容。なぜ深夜なのかわからない。『日常』も最初から夕方に放送するべきだった)
アニメの作り手は、貪欲になるべきである。(詳しく知らないが)ゴールデンタイムにテレビ放送するには、権利料だけで数億円というお金が必要らしい。しかしニコニコ生放送ならそんな制約はない。だったらやってしまえばいい。夕食後の落ち着いた時間にイベント開始だ。テレビが衰退しているのなら、ゴールデンタイムでアニメをぶつけてその視聴率を奪い取ればいい。一番手になった者が勝利者だ。ゴールデンタイムで生放送を打てば、アニメに対するある種の偏見を払拭できるかも知れない(偏見とは無知から生まれる。実物に触れれば、偏見の実体が虚構であった事実を知る)。そういた様々なチャンスが目の前に転がっているのだから、挑戦しない手はないだろう。



4 ニコニコ動画への苦言

現状の話で言うと、ニコニコ動画を無条件に称揚するつもりはない。
まずニコニコ動画のわかりにくさ。トップメニューを開いてみても、雑多なお勧め動画がぽつぽつと貼り付けられ、あまり整理されているとはいえず、ここにユーザーが望んでいる情報や動画があると言えない。私はトップページはほとんど見ずに、右上のマイページの横に小さく書いてあるランキングへと進むのだが、最近はここをざっと見ても興味を持てる動画を見つけることができない。それは、ここに私が求めているものはない、という意味だ。
動画配信はただやればいい、という話ではない。情報を得たいと思っているユーザーに届くように作らねばならない。宣伝する側は、相手に検索してもらうまで待ちましょう、というような受け身的な考えで仕事してはならない。将来的によいお客さんになってくれる可能性を持った人に情報が届かないのは、それだけで損失だ。まずニコニコ動画のトップメニューから手を加えて、ユーザーが得たい情報により密着したレイアウトに変えるべきだろう。(ニコニコ動画の運営がやらないなら、非公式のサイトを作ってしまう手はあるが)
またニコニコ動画特有の性格が作品によってはかえってマイナスになる可能性がある。ニコニコ動画の特徴は、ユーザーのコメントが画面上に現れることだ。これがコンテンツをより魅力的にさせ、コメントを読むことでユーザーの心理を知り、あるいはどこで一番大きく盛り上がったのか容易に確かめることができる。視聴率よりはるかに信頼できるシステムである。
しかしこれは、コメディ作品でしか充分な効果を発揮しない。コメディ作品なら、キャラクターがフォローしない突っ込みをコメントが補完し、より一体感を強めてくれる。が、シリアス系の作品となると途端にコメントの存在が邪魔に思えてくる。静かに鑑賞すべき場面に空気を読まないコメントが流れてくると、あっという間に興ざめになる。感動すべき場面に、余計なコメントが感情の流れを分断し、没入間を妨げてしまう。コメント同士での喧嘩などは目も当てられない。和気藹々としているうちは楽しいものだが、煽りあい罵りあいが始まるとせっかくの気分を台無しにされる。「あのコメントが気に入らない」というようなほんの些細な切っ掛けで感情をぶつけ合う人があまりにも多い。私はそういう感情の抑制のできないユーザーは即座にNG登録に放り込むようにしている。話は変わってしまったが、シリアス系の作品はニコニコ動画にはあまり向いていない。コメントが場合によってシーンの性質を変えてしまうからだ。コメントが大抵のシリアスな場面を笑いに変えてしまう。
それから問題視すべきはネタバレコメントだ。ストーリーものは次にどんな展開が起きるのか、どんな意外な転換があるのか、その驚きを求めて見る、という面もある。しかしニコニコ動画でストーリーものを配信すると、コメントでネタバレする者が後を絶たない。ニコニコ動画でミステリを配信するべきではないだろう。
原作のある作品となると、さらに状況は酷くなる。「ここで主人公はこの台詞を言うはず」とコメント上で原作比較をはじめ、それが結果的にネタバレになっているし、さらに進んで「原作と違うから駄目だ」といった議論が動画上で始める。面倒なので、そういうユーザーも見つけ次第NG登録に放り込んでいる(この場合の彼らには、悪意がないのだが)。あらかじめコメントを消しておけばいい、と言われればそうだが、どんなコメントが来るかなどあらかじめ察知することはできない。
78d16a3e.jpegニコニコ動画にはニコニコ動画特有の空気が流れている。コメディ作品の中でも、ニコニコ動画の大雑把なユーザーの心理傾向に沿った作品は特に盛り上がる。『這いよれニャル子さん』などはまさにそれで、作品は決して上質ではなかったが、ネットスラングを多用した台詞やその言葉を具体化したシーンの構成は、ニコニコ動画のユーザーから大きな支持を得た。『這いよれニャル子さん』はニコニコ動画だからより成功を大きくした作品だといえるだろうし、そういう祭りに参加するための作品は常に必要だと思う。
色んな人の大雑把な意見が常に流れていることの危険性は、視聴者がコメントの意見に流されてしまう可能性だ。例えば「この作品面白くない」というコメントが比較的多いと、コメントの意見に釣られて、自分も「面白くない」思い込み始めてしまう(逆に、大した内容でなくても「面白い!最高だ!」というコメントが大量に打たれていたら、三流四流の作品でも「神動画」と賞賛され、その実例は多い)作品が視聴者自身に意見を持たせるのではなく、コメントが視聴者全体の漠然とした意識を作ってしまうのだ。ごく普通の暮らしを営んでいる人は、自分の意識や考えを常に川に流れる杭のごとく一つの所に打ち付けているわけではない。特に初めて知る情報については、その情報についてどういう感想を抱くべきか、好むべきか嫌悪すべきか自身の判断を保留にし、周囲の意見を聞いてそれから、あたかも自分も最初からそう思っていた、というように意識を確定する(私にもそういう所はかなりある)。コメントが自分だけの感想を持てなくして、場合によっては本来の批評を変えてしまう、コメントに埋没して作品の本質を見誤る、結果としてもっと評価されるべき作品がコメントによってボロボロにされる危険性すらあるのだ。(ネットスラングばかりに接していると、ネットスラングが持つ論理構造でしか思考できなくなり、さらに短い1フレーズでしか意見を言えなくなる。2ちゃんねるのユーザーはすでにその状態に陥っている)
もちろん、作品が視聴者の考えを圧倒しなければならないが、ニコニコ動画は長期的なストーリー構造を読む努力を難しくさせ、その場その場の散発的な場面の面白さやノリに振り回され、物語が描くあらゆる経緯の向かうところにあるクライマックスがあまり効果的に発揮できない弱点を抱えている。ショートストーリーとコメディはニコニコ動画で絶大な効果を発揮するが、長期的なプランを持ったドラマはニコニコ動画のユーザーの忍耐では耐えられない可能性がある。コメントに考えが釣られやすい環境にあるニコニコ動画では、ショートストーリーとコメディ以外で名作が生まれる可能性は低いと考えられる。
そういった危険性は、発信者側も同時に抱えている。ニコニコ動画のみで発信し続けていると、“勘違い”する危険性があるのだ。上にも書いたように、ニコニコ動画で“受ける動画”というのは独特な方向性を持っている。この独特の方向性をニコニコ動画内で意識を醸成していくうちに、世間全体における普遍的なものと勘違いし、作品の作り方自体を変容させてしまう可能性がある。長編を作る能力は真っ先に喪うだろう。映像作りの基本的な教養や方法論、といったものも次第に次第に後退し、ニコニコ動画的に面白いネタをただ羅列する能力だけが身についてしまう。またニコニコ動画は、ある種そこがニコニコ動画という空気があるからこそその瞬間だけニコニコ動画特有のユーザーになる、という現象が起きている。あまりにニコニコ動画的な“受け”を狙って作っても、それは必ずしもユーザーが望んでいるものではない。コメントがある前提で映像を作った作品をDVDやブルーレイで見た時の寂莫とした寒々しさは、少し痛々しいものがある。こういった諸々の危険性について、作り手自身が常に自覚的であるべきである。
023335b1.jpegニコニコ動画ではまずまずの評判を得たのに、ビジネス的には惨敗した作品もある。『日常』がそれだ。ニコニコ動画始まって以来の悪例を作った作品である。『日常』は第1話の配信から最終話まで動画再生数は極めて高く、毎回必ずランキング1位を奪取し、ユーザーによる多くの広告料が振り込まれ、人気は間違いなく高いと言える作品だった。が、その後のDVD/ブルーレイ売り上げは千枚程度にしか売れなかった。日常の商業的な失敗は、アマゾンに書かれたコメントを見るとヒントが見えてくるが(コメントの多くが作品を賞賛するが、DVDが高くて買えない、DVD1枚に2話しか入っていない、オマケに入っている動画が返って作品の評価を下げている、等で作品自体には異議があるわけではなかったのだ。単に“売り方”が著しく間違えただけだった)、ニコニコ動画での成功は必ずしもビジネス的に成功するわけではない、という教訓を作った。(『日常』の場製作サイドのオウンゴールだが)



5 不穏な動き

ニコニコ動画について、最近はこういう意見が非常に多くなった。
「面白くなくなった」
かつてはもっと自由だった。法律スレスレの動画が一杯あったし、優れた二次創作が一杯あったし、今よりもっと濃い動画がたくさんあった。
なのに今では、ランキングをざっと見ても自分が見たいと思う動画は見つからない。ごくごく一部で人気らしい、馬鹿が馬鹿をやっている動画ばかり上がってくる。それ以外の動画でも、何が面白いのだかさっぱりわからないのに、コメントは「神! 神! 神!」の連呼『DEATHNOTE』かよ。おまけにトップページのレイアウトがいまいちで、面白い動画を発掘できない。恐らく、見るべき動画はどこかに埋没しているのだろうけど、それを発見することができない。そもそも何か薄くて軽い。
そういう気持ち、よくわかる。アニメの公式配信や『NintendoDirect』などについてここで大いに賞賛しているが、それ以外については正直の所、劣化と衰退が始まっているのではないかとすら思う。正直、面白くないし、熱気の方向性も何やら違う方向へ進んでいる気がしてついて行けない。(といっても、プレミアム会員は増え続けているが)
ニコニコ動画は短期間のうちにずいぶん多くの人が見るようになり、また支持されるようになった。安倍総理がニコニコ動画について言及しているのを聞いて、時代は変わったという印象があった。そういった一般化する過程で、失ったものは多い。著作権に関してはJASRACなどを始め、権利団体が直接監視するようになり、(違法スレスレ動画は仕方ないとして)二次創作の多くはここで全滅した。一般化する過程で、環境をクリーンに、無害なほどに安全なものにする必要があると考えると、これは仕方がない。
人が多くなっていくと、もともとの性質や魅力が薄く引き延ばされていくことはある程度仕方のないこと。それでもやはり気になるのは、その後に入ってきた新しいユーザー達だ。もともとニコニコ動画にいたユーザー達とまったく性質を異にする人達で、彼らは横繋がりの連携をもの凄い勢いで強めていくタイプで、非常に自己主張の大きな人達だ。こういった彼らが配信する、ナルシズム的な動画とその隆盛……これが古参ユーザーとの意識の間に拒絶と乖離を同時に起こしている。
どれもこれも仕方のないこと。そう念じるしかないが、しかしやはり気になる。
今年2013年4月、幕張メッセで2回目となるニコニコ超会議が開催される。普段ニコニコ動画に発信している人達が、リアルな舞台で技や演技を発揮する場所である。参加数は非常に多く、賑わっているようだ。しかしこのイベントについても批判は多い。利益を出していない、このイベントを開催するための莫大な資金をサーバーに投資してほしい、などなど。まとめて見ると、多くの人が特に意義を感じていない、というところに問題の焦点があるように思える。現在ニコニコ動画で熱心に視聴し投稿している人達と、古くからユーザーで静かに見てコメントを打っている人達との間で、熱気の性質に差があり、盛り上がっている人達がいる一方、その熱気についていけないという人達が多数いるという現状だろうか。
一方が燃え上がれば燃え上がるほどに、一方は冷たく遠ざかっていく。このニコニコ動画内で発生している分離や意識の乖離について、まだちょうどいい落としどころは見つかっていない。そういった両者を包括して、ニコニコ動画内で住み分けることができればいいな、とはいつも思っているのだが……(例えば、ランキングの方向性を自分で細かくカスタマイズできる、など)。一般化する一方で、一般化したからこそ醒めきって離れていく人達は多い。

ニコニコ動画は今も勢いを強めているし、もっと栄えよ、と正直に思っている。不定期に配信される『NintendoDirect』はそれなりの成果を収めて任天堂に利益をもたらした。アニメ配信の多くは順当に浸透し、それなりの支持を得ていると思う。
やはり2012年11月29日に安部晋三が提案して開催された党首討論は忘れられてはならない。140万人を越える視聴者を集めたこの討論は、もちろんノーカットでバイアスはなく、ネット配信ならではの威力を発揮、ニコニコ動画の可能性を一般層に強烈に印象づけた。「報道の自由のない国53位」である我が国のマスコミは、もうとっくに「信頼に値せず」という評価が確定してしまっている。これから政治的なメッセージはニコニコ動画を中心に発信していくべきだろうし、政治家は「記者倶楽部」ではなくニコニコ動画を積極的に選択していくだろう。
しかし不穏な動きも水面下で起きている。私は詳しく知らないが、ニコニコ動画のトップに宗教団体や利権団体といった人達が椅子取り合戦を始めているという。そうした人達がどういった影響を持つか、まだわからないが最悪の予想を立てると、宗教団体や利権団体といった人達による検閲で優良な動画が次々と削除され、彼らが望む種類の動画しか残らなくなる可能性がある(特に政治面は、彼らが望む種類の思想のものしか残らなくなる)。もちろん想像だが。
そうした最中、ニコニコ動画の最初期の立役者であった西村博之がニコニコ動画を運営するニワンゴを退社した。西村博之が退社した理由、本当の動機、さらにこれが今後ニコニコ動画自体にどんな影響を与えるのか。わからないことは多い。
ニコニコ動画の一般化による動画とユーザーの軽薄短小化、宗教団体や利権団体の介入、西村博之の退社……。不安要素はかなり多い。大きくなったからチーズに群がるネズミのような人達が集まってくるのはわかるが、ニコニコ動画というある種の聖域は守られるのだろうか、と不安は感じる。

3年前ニコニコ動画を取り上げた時は、アニメの公式配信が始まったばかりで、まだ混沌としていたと同時に可能性を強く感じた。わずか3年で状況は大きく変わった。良くなったところと悪くなったところ、この2つを天秤に掛けて、果たしてニコニコ動画はより良くなったのかと問われれば、正直なところ、気持ちの上では不穏なものを感じずにはいられない。
だが、もっともっと栄えよ、とは思っている。そうすれば、アニメやゲームに関しては、より多くの人達へ向けて配信できるし、そういった人達が得られる利益は大きくなる。アニメに限って言えば、深夜アニメというニッチなポジションから脱却できるチャンスをニコニコ動画が持っている限り、私は支持したいと思っている。
今回、ニコニコ動画について独立した記事を書いたのは、たまたまの気まぐれだ。3年の時間が経過して、ニコニコ動画も様変わりして、現段階での状況や私個人的な感想を残しておこう、と思っただけだ。もしかしたら3年後も再びニコニコ動画について取り上げるかも知れない。その時には、天秤が良いほうへ傾いていることを期待する。




 

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■  付録
■ ■


■2012/10/30 (Tue)
携帯電話、スマートフォンを中心に広がる新しいメディア、ソーシャルゲームが勢いを付け、任天堂やソニーが力を入れていた旧来型のコンシューマーゲームが押されつつある。
……というニュースをメディアで見かけるようになったのは最近の話ではない。テレビでE3や東京ゲームショウの特集が組まれると、任天堂やソニー、マイクロソフトのゲームは申し訳程度、あとはがっつりとグリーなどのソーシャルゲームを紹介し、あたかもゲームメディアの全てがソーシャルゲームに注目しているかのような報道をする。ネットメディアを見ても、ソーシャルゲールが若者を中心に大流行! 旧来型ゲームはもう終わり! という記事はあちこちで見られる。

確かにソーシャルゲームの市場は異様な規模で膨れあがり、ユーザー数は上昇気流に乗ったかのように数字を増やし続けている。
しかし、旧来型のゲームがそこまで苦境であるという話はあまり聞かない。2012年は確かに任天堂が赤字を出し、新聞やテレビに大きく取り上げられた。任天堂は過去20年のゲーム事業の中で、一度も赤字を出した経験がなかったからだ。新聞はこの一面だけを捉え、ゲーム市場の後退、新ハードのニンテンドー3DSがぜんぜん売れていない、旧来型ゲームはもう終わりだ、という記事を次から次へと書き立てた。
が、実際にはニンテンドー3DSは売れに売れまくっている。空前のヒットと呼ばれた旧ニンテンドーDSを上回る速度で売り上げを伸ばし、もちろんソフトもミリオンタイトルが多く、その後も話題作が途切れることなく準備されている。
本当に売れずに苦境に立っているのはPSVitaだけである(←なぜか新聞やテレビでは綺麗にスルーされる)
しかし、それでもメディアは――より大きなメディアほどソーシャルゲームこそが新しい市場と流行の覇者だ、と書き立てる。だから改めて問いたい。
本当にそうだろうか?

1c925abe.jpeg6b2a332d.jpegソーシャルゲームが、コンシューマーの市場を圧迫し、ユーザーを横取りされている……。
任天堂も「それは本当なのか?」と疑問に思い、調査会社に依頼してデータを作った。それが右の図である。いずれも2010年の任天堂カンファレンスで公開された。
ここで任天堂ゲーム機で遊んでいる人と、ソーシャルゲームで遊んでいる人との人数規模が提示された。この段階でも、ソーシャルゲームよりも任天堂のゲームで遊んでいるユーザーの方が圧倒的に多い。
さらに、ニンテンドーDSのユーザーのうち、ソーシャルゲームでも遊んでいるユーザーの数を引き出すと、21%という数字が出てきた。全体の2割である。たったの2割程度で、しかもその2割は、現役のニンテンドーDSユーザーであった。
この結果を示した上で、岩田聡社長は「両方遊ばれる方はゲームがお好きなのだと思います」と発言した。これ以上ないくらい的確な言葉だと思う。
任天堂カンファレンス Q&Aセッション 2010年

ec6f38df.jpegゲーム雑誌を出版しているエンターブレインもやはり同じような調査を実施したようである。
私がたまたま見つけたのは『ファミ通Bootleg』というよくわからない名前の雑誌の、鈴木みその漫画の1コマである。
具体的な数字は公開されていないが(別の雑誌では公開されたかも知れない)、ソーシャルゲームのユーザーは今までのゲームユーザーと全く別、コンシューマーゲームにまったく興味を示さなかった人達だから、お互いの市場を侵食することなく棲み分けている、と台詞の中にある。

しかしソーシャルゲームのユーザーはすでに3000万人(大本営発表)。人数規模だけの話をすると、コンシューマーゲームを追い抜いているばかりか、3000万人という数字が日本だけだとすると日本人口の4分の1がすでにソーシャルゲームのユーザーということになる。まさに誰も彼もソーシャルゲームで遊んでいるはずなのである。
ここで疑問がわき起こる。自分たちの周囲で、自分を含めてソーシャルゲームで遊んでいる、という人をお目にかかったことがない。私もないし、私の知人も、その知り合いの中にもソーシャルゲームをやっているという人は1人もいない。ゲームと言えば任天堂やソニーといったコンシューマーゲームである。
この疑問に、ごく普通に一般人が、調査会社などではなく自分でできる方法で調査をした。下に貼り付けたリンクがその結果である。必見の記事だ。
3000万人の会員数を誇るグリー利用者があまりにも回りにいないので調べた結果、本当に住む世界が違ったという話
2ちゃんねる/ツイッター/Facebookなどでアンケートを実施した結果、グリーをやっている人の割合は5%という数字が出た。
5%!
efa3a258.jpegしかもアンケート実施中の1時間おきに集計を出しているが、すべての時間でブレなしに5%という数字が出ている。これはもう、2ちゃんねる/ツイッター/Facebookのユーザーの中でグリーユーザーは5%と結論づけても誰も文句言わないだろう。
ただ、一度アカウントを作ったことがある、というユーザーは結構いた。アカウントを作ったものの退会できず、そのまま放置、というユーザーだ。ゲームは好きだし、何やら新しいゲームができたみたいだから気軽な気分でアカウントを作ってみよう……と思ったら退会できない。退会できず、面倒だから放置、というユーザーがかなりの数でいるようだ。この退会できなかった“スリープユーザー”を含めると、グリーのユーザーはなかなかの数でいる、ということになる。この数字を含めて発表するのは、果たしてどうなのだろうか。

様々なサイトに出てきた【具体的な数字】を俯瞰して見ると、どうにもこうにも……ソーシャルゲームが大流行! というのはいささか怪しいような気がしてきた。「ユーザー数3000万人!」と聞かされると確かに凄いと思うが、その背景となる様々なデータ見ると、3000万という数字がいかにも怪しい大本営発表にしか見えなくなってくるし、どうやら実際怪しい数字らしい。
むしろ次から次へと溢れ出す“問題”のほうが大きいようである。

子供のゲーム代に1ヶ月1000万円 請求書に親が仰天
「ゲーム中のお金はゲーム中だけのお金である」……記事では「子供は」という枕詞付きで説明しているが、実際は多くの人がこう思っているはずである。「子供」だけでなく「親」も、だ。
ソーシャルゲームは無料で遊べる、安心なゲームである。ゲーム中で支払い請求されるお金は、ゲーム中で作られる仮想のものだ……。まさかそれが現実のお金だとは思わなかったのだろう。
もし任天堂やソニーのゲームで遊んだ経験のある子供なら、ゲーム中のお金が現実のものだとまず思わないだろう。ゲーム中のお金もまた仮想のものである、というのが過去のゲームでは当たり前だった。
親が認識不足なのは、ただただ知らなかったのだろう。テレビCMで「無料! 無料!」と連呼するのを見て、「ああ無料なら安心だわ。任天堂のゲームみたいにお金取られないのね」というふうに思ったのだろう。
実際には、ソーシャルゲームはありとあらゆる場面でお金が請求される。今以上にゲームを進みたければ、今以上にキャラクターを強くしたければ、お金を払い、お金を払い続けて維持しなければゲームを快適に進めない。ユーザー側にそういったメッセージを送り続けているのがソーシャルゲームの特徴であり、ビジネスモデルなのだ。任天堂やソニーのゲームよりも、よほどお金を消費するのがソーシャルゲームだ。
この認識が子供だけではなく、大人や親の中になかったのだろう。こういったトラブルはすでに数年前から続いているのにとどまる気配はない。本来マスコミが啓発すべきなのは、ソーシャルゲームのこういった危険な側面であり、トラブルが起きないようより認識を高めていくべきなのだったのだ。しかしそういった反省の声は今のところまったく聞こえてこない。


それでも、ソーシャルゲームは確かに多くのユーザーを獲得した。3000万人という数字は怪しいにしても、相応の市場を作っているのは確かである。
しかし、ソーシャルゲームの隆盛に怒りの声をあげる一つの業界があった。パチンコ業界である。
痛いニュース パチンコ業界「モバゲーGREEは社会悪、全力でぶっ潰す」
ソーシャルゲームが挑戦しているのは旧来のゲーム業界である。マスコミの主張を信じると、ソーシャルゲームはコンシューマーゲームの市場を圧迫し、ユーザーがどんどんソーシャルゲームの方に流れている、筈である。
なのになぜパチンコ業界が怒り狂うのか?
実際の数字付きデータを示したサイトを見つけることはできなかったが、どうやらソーシャルゲームが市場を圧迫し、ユーザーを横取りしてしまっているのはパチンコ業界だったようだ。ソーシャルゲームのユーザーがどの程度パチンコのユーザーと接点を持っているかは、データがないので不明である。ここまでに取り上げたデータで、ソーシャルゲームのユーザーとコンシューマゲームのユーザーとは、ゲームの好みばかりではなく、生活圏においてもまったく接点がない、と証明されている。すると、ソーシャルゲームのユーザーが潜在的に好むタイプのゲームとはいったい何か?
それは想像することしかできないが、とりあえずパチンコ業界が怒りの声を上げるほどに影響はあるようだ。「それはオレ達が取るべきカネだ!」と。

とこんな記事が出てからわずか一ヶ月後、ソーシャルゲーム最大の稼ぎ頭(?)であった「コンプリートガチャ」が法的に禁止される。
消費者庁がソーシャルゲーム『グリー』や『モバゲー』のコンプガチャ景品表示法で禁止と判断。中止要請へ
「パチンコ業界が怒り」という記事が出てから一ヶ月でこの動き。背景でどんなやりとりがあったかなど、私には知りようがない。もしかすると何もなかったかも知れないし、いや本当は何かあったかもしれないし。とにかく、「コンプリートガチャ」に規制が掛けられた。
と同時に、グリー、モバゲー、その他ソーシャルゲームを供給していたゲーム会社の株価が、ナイアガラかイグアスの滝のごとく奈落へと落ちた。「コンプリートガチャ」規制の影響は非常に大きかったようである。

ここまでの話でソーシャルゲームの性質、傾向がだいぶ見えてきただろう。まとめて箇条書きにすると、下のようになる。
①ソーシャルゲームはコンシューマーゲームの市場にほとんど影響を与えていない。
②ソーシャルゲームとコンシューマーゲームとは、ユーザーの人種がまったく違う。
③ソーシャルゲームは多額のお金を請求されるなどのトラブルが起きている。
④ソーシャルゲームの拡大で、パチンコ業界の市場に影響を与えている。


ちょっと付け足すとしよう。
ソーシャルゲームのもう一つの特徴、テレビCMである。
テレビ以外のメディアでソーシャルゲームの宣伝はあまり見かけないが、テレビではしつこいくらいに、うんざりするほど繰り返し繰り返しコマーシャルが放送される。どこにチャンネルを合わせても、ソーシャルゲームのCMが追いかけてくるといった具合だ。実際に今テレビの広告収入の第3位がグリーとなっているようだ。グリーやモバゲーは非常に大きなお金を掛けて、テレビでCMを連打している。
なぜテレビCMなのか? ゲームの宣伝ならゲーム雑誌など、ゲームユーザーが一番いるところにお金を掛けるべきだろう。しかしグリーとモバゲーが力を入れているのはテレビである。
一つだけ推測しよう。
「ソーシャルゲームのユーザーはテレビが好きなユーザーである」
なぜテレビでCMを打つのか、その理由を考えるとこうなる。
最近はテレビの視聴率は落ちた。私は“テレビのユーザーが減少している”と考えている。テレビを見ているのは、“テレビ特有のコンテンツ”を求める人達であって、それ以外の人達が切り捨てられたのだ。ゲームや映画、アニメ……わざわざテレビという一方的に供給されているメディアを選ばなくてもよくなった(テレビは自分たちを見限ったユーザーを取り戻すつもりはまったくないようである。むしろ彼らをあたかも犯罪者のように仕立てて糾弾する報道番組を次々と作り、自らの手で断絶を深いものにしている。テレビの制作者は、ひょっとして突き抜けたアホではないだろうか)
しかしそれでもテレビのみのコンテンツを求めるユーザーというのはやはりいる。その【テレビのコンテンツを好むユーザーと、ソーシャルゲームのユーザーが一致】している。
だから「ソーシャルゲームのユーザーはテレビが好きなユーザーである」と推測できる。

またソーシャルゲームとコンシューマーゲームはゲーム性においてもまったく違う
今ソーシャルゲームの主流はカード収集型のゲームである。どのゲームを見ても、だいたい同じような内容である。門外漢が見ても、あのゲームとこのゲームどう違うの? というぐらい似通っている。
これはソーシャルゲームが一つのゲームが流行ったらみんな真似をする傾向があるからであり、しかもグリーやモバゲーが類似ソフトを作ることを積極的に奨励しているからである。
そのカードの入手方法だが、全てのケースでユーザーの財力に関わってくる。ひたすら金を注ぎ込んでいれば、いつか目的のカードが出てくるかも知れない。もっとも、その確率は常に作り手側が操作し、プレイヤー側がストレスを感じていると思ったら緩く設定し、お金が出ていると感じたら締め付けを厳しくする。
ソーシャルゲームは言ってしまえば“お金が全て”なのである。
コンシューマゲームはプレイヤー本人の知恵と努力がどこまでも試されるゲームである。作り手が設計したパズルを解き、アクションをこなし、時にレベル上げアイテム収集、貯金などの忍耐力が試される。ただし電気代以外にお金は一切かからない。知恵と努力のせめぎ合い、“苦労”してその先にある“達成”を得るのがコンシューマーの特徴だ。
一方ソーシャルゲームは“苦労”はしない。お金さえあれば、いつでも常に最強でいられるのだ。コンシューマーから“苦労”を取り除いたものがソーシャルゲームと言うべきだろう。(現実世界と違い、自分より強い人間が常に周りにいるので、ソーシャルゲームのユーザーは勝つためによりお金を注ぎ込み続けねばならない)
ついでに、ソーシャルゲームには様々なカードゲームが登場し、様々な絵師が参加しているのだが、一部のゲームでは公式サイトで絵だけなら全て閲覧できるようである。ではあのカードにいったい何の価値があるのだろう? 実力のある絵描きが参加する理由は? ソーシャルゲームのユーザーはあのたまにしかお目にかかることができない美麗なカード……いやそこに描かれている絵を求めているわけである。しかしそれは公式サイトで手に入るのなら、彼らはいったい何を求めてゲームをやっているのだろう?
いっそ、お金を消費する行為自体が楽しい、と言ってくれた方が私にとって明快なのだが。

とりあえず、2つの特徴を書き足そう。
⑤ソーシャルゲームのユーザーはテレビが好きなユーザーである
⑥ソーシャルゲームとコンシューマゲームとではゲームの方向性がまったく違う。



さて。
ソーシャルゲームはコンシューマゲームとまったく違う性質を持っていて、好むユーザーも全く違うし、市場にも全く接点がない。ソーシャルゲームの市場拡大で怒るのはパチンコ業界でだった。ソーシャルゲームはお金を消費し続けないとゲームを進行することもそれ以前に状態を維持することもできない。莫大な支払いを請求されるトラブルが続発している。
以上がソーシャルゲームの特徴である。コンシューマーゲームとはまるで本質が違う。むしろ賭博性が強く依存度の高いパチンコに近いと言えるかもしれない。
ではここまで見えてきた特徴をまとめて、ソーシャルゲームのある本質を大きな文字で書いてみよう。

ソーシャルゲームのライバルはコンシューマーゲームではなく、パチンコであった。



ソーシャルゲームが近いのはパチンコである。しかもそれは年齢問わず誰でも接することができる。そういうものを世の母親達は積極的に子供にソーシャルゲームを与えている。
正直なところ、あまり健全な状態とは思えない。
「コンシューマーゲームだって色んなトラブル抱えてきたじゃないか。ゲームソフト欲しさに恐喝が起きたり、そうそう少年犯罪が増えたのは任天堂のゲームのせいだ!」
1163de0d.jpegこう反論する人はいるだろう。確かに人気ゲームソフトを巡って恐喝事件は起きたが、それは今となっては昔々の話だし、その実例は2件くらいだったかな? しかもそれはゲーム自体で起きた事件ではない。その周辺の社会状況で起きた事件だ。
またゲームによって少年犯罪が増えた、というデータはない。むしろ少年犯罪はファミコン登場以来激減している(これは警察発表のデータから明らかになっている)。「凶悪化した」という話を証明する事件も起きていない。もしも関連があるとしたら、少年犯罪減少に大きな貢献をしているということになる。これを認める人はいないが。
ゲーム自体で何千件といった問題を引き起こしているのは、ソーシャルゲームの方である。冷静な判断ができるならば、親は子供に任天堂やソニーのゲームを買い与えるべきなのである。

それにしても奇妙である。
ソーシャルゲームは薄っぺらいし、普通に新聞を読んでいたらソーシャルゲームにまつわる問題やリスクについても知る機会はあるはずだ。しかしソーシャルゲームのユーザーは積極的に任天堂やソニーを避けて、ソーシャルゲームを求めているのである。新聞知識はなくても、ソーシャルゲームとコンシューマーゲーム、二つのゲームを遊び比べてみれば、性質の違いはたちどころにわかるはずである。
なぜだろう?

理由を考えると、①コンシューマゲームに対する偏見②教養のなさが同時に考えられる。
①のコンシューマゲームに対する偏見。今、親世代と呼ばれる人達はファミコン直撃世代である。ゲームのことは今の子供達よりよほどよく知っている。私は自分の体験記と照らし合わせて、セガマークⅢからゲームの歴史について語ることができる。
しかし私の同世代の人達はみんな同じようにゲームに夢中だったわけではない。ここには私のような“表の世界”(実際の世界)を体験した人と同時に、コインを裏返したかのような“裏の世界”(ヴァーチャルの世界)でしかゲームと接しなかった一群がいる。それは旧世代やマスコミが喧伝した「ゲームを有害なものと信じている人達」の世界である。
私のような人間は、ゲームというのを直に触れて、それがどういうものなのか体験を通じて深く知ることができた。一方で現実のものに触れず、そのすぐ後ろで見ていたはずなのに、それが何なのか知る切っ掛けがなかった人達がかなりいる。そういう人達は旧世代やマスコミが空想の中で作り出した「ゲームに対するあらゆる危険性」あるいは「ゲームと接することで将来に対して有害な結果をもたらす」という歪んだ情報を洪水のように浴びて、ついに“テレビと現実”の区別ができなくなった。そういう屈折した人達は、ファミコンに夢中になる同世代の背中を見て、冷ややかな目線を送ると同時に、「ゲームに飲まれていない自分」という優越に酔いながら子供時代を過ごしてきた。
そういう人達が大人になり、親になり、やがてゲームに興味を持つ子供と接するようになった。その時彼らはこう考えた。
「任天堂のゲームは危険だ。お金ばかりかかるし、成績が落ちて不良になるかもしれない」
昔、ゲームセンターはなぜか不良の溜まり場と言われていた。不思議な話である。(ヤンキーはゲームなんてやらない)
そんな時、若い親世代の前に現れたのがソーシャルゲームである。ソーシャルゲームはまず「無料」でゲームを始められる。リビングの一角を占領することもない(ゲーム機は配線がごちゃごちゃに絡まって見た目にも美しくない)。テレビの視聴を阻害されることもない。テレビでは親しみのある有名な芸能人がしきりに勧めているものだからきっといいものに違いない。……多分そう考えたのではないだろうか。
この偏見は、知識のなさに繋がる。
ソーシャルゲームはもの凄くお金がかかるのである。それこそ、1本のソーシャルゲームでゲームハード1台分+ソフト数本分を軽くこえるくらいお金がかかる
ソーシャルゲームはキャラクターを強くするにも、ゲームを進めるにもありとあらゆる進行にお金が必要になるのである。最近では、およそゲームの進行とは無関係なカード収集に際限なくお金が吸い取られていく。お金がかからないわけがない。月の支払いが数百万とかそういう金額が当たり前になってしまう。
コンシューマゲームは不安。でもソーシャルゲームなら安心。そういう間違った考え方が、そもそも根底にあるから、こういうトラブルが起きる。

②は教養のなさだ。“教養”は“知識”と違う。知識は最近はグーグルで検索すれば簡単に手に入る。教養とは様々な経験を通じて手に入るもので、ものの良し悪しや美や醜を見分ける感性、あるいはそれらを具体的に語るための言語能力のことである。この“教養”のなさが、ソーシャルゲームの罠にかかりやすい原因だろう。
ソーシャルゲームは薄っぺらい。実際のプレイ動画を見たが、しょぼいどころではないグラフィックとサウンド、リズム感のない展開(ファミコン時代のゲームだって大した映像じゃなかったじゃないか、と反論されそうだが違う。ファミコンの時代でも良いゲームというのは快適にゲームを進めるために、あるいはゲーム中の物語に引き込むために、デザイナーによるありとあらゆる調整が加えられていた。ソーシャルゲームにはそれがなく、ただ静止した画像が工夫もなくそこに現れるだけだ。それがソーシャルゲームが初期ファミコンにも及ばない理由だ)。それに、これといって具体的なストーリーがあるわけでもないらしい。そもそも「あまりゲームをやらない人」に向けて作られているから、そこで展開していくドラマというものがないらしく、もちろんレベル上げという過程を経て強くなっていくという体験もない。すべて現実のお金で解決、進行していく、というわけだ。もしも「物語」なるものがあったとしても、ソーシャルゲームのユーザーはそれを理解して感情移入するだけの感受性を持たない。
総合して言うと、ゲームとしての底が浅いのである。しかしソーシャルゲームを手に取ってしまう人達というのはそれを見分けるだけの教養が欠落している。だから課金地獄というソーシャルゲームの罠に飲み込まれていくのだ。
「どんなものだろう?」と興味半分に覗いてみるのもいいだろう。しかしまともに“教養”ある者ならば、すぐにでもソーシャルゲームの底の浅さに気付いて手を引くだろう(実際ここで手を引いた人はかなりいるようだが、退会できず放置、らしい)。手を引くことができなかったのはやはり“教養”のなさである。

もしもソーシャルゲームをコンシューマゲーム並の手間暇を掛けて制作したら? おそらくソーシャルゲームのユーザーは頭が追いつけなくてゲームを進めることができないだろう。躓くたびにお金を払って進行する、その方がソーシャルゲームのユーザーにとってわかりやすい。ソーシャルゲームのユーザは、苦労をかけてゲームを進行させる、というストレスに耐えることはできないだろう。それだけ“教養”が欠落しているからだ。また「物語」を読み解くほどの感受性……いや台詞を読み通すだけの理解力と忍耐力に欠ける。
後付けだが、ソーシャルゲームの特徴を一つ付け足そう。

⑦もしもコンシューマーゲーム並の複雑さを持ったソーシャルゲームが登場しても、ソーシャルゲームのユーザーは理解することができない。

最後にもう1つ。
マスコミがソーシャルゲームを応援する理由は何だろうか。理由は簡単。多額の広告料を得ているからである。さらにマスコミは、自分たちが宣伝するものは世界のあらゆるところで流行していると思い込む習性があるらしい。
ゲーム以外の話をするが、2007年頃から、マスコミは異常なほど自民党を叩き、露骨な民主党支持を始めた。それがピークに達したのが2009年頃。時の総理麻生太郎の「言い間違いがあった」「漢字が読めない」「高級バーで酒を飲んでいる」「母の命日に墓参りに行った」などなど、もはや「子供のいじめ」のような報道を始めた。
何故だったのか。総務省が公開している政治資金収支報告書を見れば一目瞭然だった。民主党は博報堂(テレビと深い関係を持つ広告代理店)に多額のお金を送っていた。お金をもらっていたから支持していただけなのである
民主党の問題点は政権を取る以前から明らかだった。明らかに実現不能なマニフェストの数々。さらにマニフェストに書かれていない、外国人移民を誘致する計画……。しかしこれの問題をテレビや新聞といったマスコミは全く報じず、民主党に対する好意的・肯定的ニュースを流し続けた。今でもその傾向はあまり変わらない。
マスコミは何かしらの偏った思想を持っているわけでも(かなり左寄りだが)、マスコミ自体を操る何かがいるわけではない。ただただどんちゃん囃子を歌い国民を右往左往させ、いつの間にか自分が自分のどんちゃん囃子で踊ってしまっている。自分たちが始めたキャンペーンなのに、すぐにそのことを忘れて、あたかも別の何かを問題の原点として持ってきてそれを叩き始める。そうすることに悪意も悪気も感じていない。シンプルな一言で済ませてしまうと……馬鹿なのである。
ニンテンドー3DSの詳細が発表された2010年のE3の時、一般マスコミは不満げな顔をしてこう吐き捨てた。
「何だ任天堂はソーシャルやらないのか。終わったな」(頑張って探しましたが、この発言のソース見つけられませんでした)
この時の発表は確かニコニコ生放送でも配信されたが、満足度90%越えの大評判だったと記憶している。
マスコミがソーシャルゲームを応援して、東京ゲームショーの話題になると任天堂やソニーを取り上げず、グリーやモバゲーばかり持ち上げるのは、相応のお金をもらっているからである。しかしマスコミはその事実を綺麗に忘れて、「今すべての世代で男女問わずソーシャルゲームに夢中! 素晴らしい!」と考えてしまうのである。
マスコミがそういう性質で動いている、とまず我々はきちんと了解すべきなのである。

最近でもこういう記事を見かけた。
「ゲームショウ大入りでも、内部は崩壊秒読み状態! コンシューマーゲーム信仰と嫌儲思考がゲーム業界を滅ぼす!?」
大雑把に要約すると、「今ゲームの中心はソーシャルゲーム! なのにゲームの作り手はコンシューマを好んでコンシューマのゲームを作りたがる。これじゃゲーム業界が駄目になる!」といった内容である。
ここまでに書いてきたように、ソーシャルゲーム優勢の報道は幻想である。ソーシャルゲームとコンシューマーゲームとではユーザーの性質が全く違う。データで掲げた通りである。しかも底が浅く、ある意味お金を吸い上げるだけのシステムであるソーa0b829a8.jpegシャルゲーム。ある種の理想を持った若者だったら、コンシューマ一択は当然である。

10月26日。スペインで最も権威ある賞であるアストゥリアス皇太子賞で、宮本茂が受賞した。
『スーパーマリオ』開発者らに受賞 スペイン皇太子賞
非常に名誉ある賞である。
しかしこのニュースが最初に報告されたのは、半年近く前の5月24日である。どの新聞も、どのニュース番組も、この輝かしき名誉を報道することはなかった。なぜならそれがマスコミだからだ。



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■ ■


■2010/06/21 (Mon)
6月16日。東京都の都議会定例会(一般会計補正予算案などを審議する会議)において、『非実在青少年規制』が否決となりました。否決となりましたが、石原慎太郎都知事は規制強化の意欲を失っておらず、9月あるいは12月の議会で再提出する考えを明らかにしています。否決になりましたが暫定的なものと考えるべきであって、油断ならない状況がまだまだ続くようです。

3月に非実在青少年規制が提示されてからおよそ3ヶ月。いつもありがちなヒステリックな批判や弾圧はなかったものの、新聞テレビを始めとする大手メディアによる宣伝戦略で一般大衆の意識にじわりじわりと刷り込んでいったように思えます。
私が購読してる読売新聞では――漫画やアニメの世界で信じられないような性暴力が頻繁に描かれている――それが原因となる犯罪が毎年増加傾向にある――などといった記事がしばしば掲載されるようになりました。もちろん、具体的な犯罪例は一件もありません。新聞屋ならいくらでも実例を挙げられそうな気がしますが、それがまったくなく、ただ危険性だけが煽り立てるようにクローズアップされていました(増加傾向にある、という具体的なデータもなく、犯罪が漫画やアニメが原因という根拠も示されません)。非実在青少年規制に反対する著作権団体についてちらと書かれていましたが、その描写はあたかも「良案に反対する怪しげな団体」風の描かれ方でした。あまり詳しくない人が読めば、規制賛成派の意見に賛成してしまうでしょう。

前回記事(→『非実在青少年規制』先送りについて)でも描きましたが、非実在青少年規制の根源的なものは“狂信と妄執”に過ぎません。私のこの意見は今でも変わっていません。規制賛成派の意見の全ては論理的なものではなく、感情的な嫌悪と不安に塗り固められたものです。単に目障りだからこの世界から削除するという、利己的な願望を基づくものです。
歴史的に見て、サブカルチャー批判は数年おきに繰り返してきましたが、今回の事件は過去の事例と様相が違います。東京都知事や警察なども加わり、権力を背景に直裁的な法改正を進めようとしました。ただ民間の団体が周期ごとに大騒ぎするお祭りとは性質が違います。これまでのヒステリックな批判は我慢さえしていればそのうち通り過ぎてしまいましたが、今回は作家が政治の舞台に立ち、反論しなければならないような事態でした。
単純な感情とは論理的な思考よりはるかに強い伝達力を持っています。強い感情にある程度の理屈、あるいは権威が加わればそれは強力な武器となって一般大衆を動かす力となります。その対象にどんな倫理的感情を抱くべきか……これは多くの人が思っている以上に簡単に操作できます。そして新聞やテレビといった大メディアは、いつも情報を大袈裟に煽り立てて、見る側の冷静な理解力を狂わせ、自分たちが意図した感情を広めようとします。
あちこちでかびますしい批判の嵐が吹き荒れると、作家側も何かしらの意思を社会に示すべきであるように思ってしまいます。それが社会人としての立場であるように錯覚しますし、厳しい批判そのものに理解を示し譲歩すべきと思う瞬間もあります。
しかし望まぬ相手への和解は必要ありません。むしろそういうときこそ大地にしっかり両足を着けて立ち、向ってくる荒波に耐える力が必要なのです。相手が戦っているのは妄想であり、妄想の実体は外部世界ではなく心の内です。批評家はカウンセラー代わりに作家とその作品を攻撃しているのです。だからただ意思を強く、あるいは辛抱強く無知と傲慢の嵐を退け、忍耐強く説明して誤解と疑念を解く必要があるのです。

日本のアニメはその黎明期から――手塚治虫が『鉄腕アトム』を制作した頃から商業的な欠陥を抱えていました。手塚治虫はアニメをあくまでも趣味的なものと捉え、商業的な意識を持ちませんでした。だからこそアニメは多様な表現方法を身に付け、発展していきましたが、その一方で商業的な欠陥はその当時から引き継いでしまいました。今でもアニメ会社に稼ぐという意識は弱く、アニメーターやアニメユーザーに商業的なものを嫌う傾向があります(CD1枚出しただけで「儲け主義だ!」と騒ぐ人が多いこと。業界がどんな状況か知っているのか?)
日本のアニメは確かに技術的側面は飛躍的に進歩し、世界でも類を見ない至上の文化と賞賛されるほどになりました。しかし、商業的な側面は衰退しつづけたといっていいでしょう。たまたま宮崎駿のような技術的にも体力的にも常人を遥かに超えた天才がいたから何とか保っていられたようなものです。あるいは趣味的な社長さんが次から次へと現れ、制作費を出してくれたから際どく維持できていたのです(大抵の社長さんはあまりにも割に合わないので一度の出資で手を引いちゃうんだが)
アニメはむしろ保護や援助が必要な時期に来ているのです。しかし東京都が選択したのは表現の規制でした。表現に制限を加え、日本のアニメから力と精神を奪い去ろうとしたのです。規制賛成派は、感性の部分でアニメを殺そうとしたというわけです。

最近では中国や韓国といった国がアニメや漫画に力を入れています。それまで推進してきた表現規制を改め、国が積極的な資金援助をしています。
中国や韓国のアニメが日本に敵うはずがない――そう言う人は非常に多いですが、それは『ウサギとカメ』の態度でしょう。「どうせ追い抜かれることはないさ」。そんな傲慢な態度でふんぞり返っていると、遠からず追い抜かれるでしょう。技術や表現、それから国際的な立場においても。「別に日本が世界で1番である必要はない」と考える人間が政治のトップに就いている、ということも忘れてはいけません(しかも支持されている)。それに、日本国内でも「日本のアニメはどれも一緒だ。中国や韓国産のアニメのほうが新鮮味がある」と考える人も出てきています(多数派の意見とは思いませんが)
中国や韓国だけではなく、アメリカやフランスといった国も日本の影響を受け、日本の作品を手本に新しい作品を作ろうという模索が始まっています。そんな最中、日本は規制を強化しようというのです。勘違いしている人がいますが、この規制は一部の成人向け作品だけが対象になるわけではありません。すべての作品が対象になります。しかも規定は曖昧で、担当した検閲官一人の考えに全てが委ねられる法律です(場合によっては「袖の下」が表現の限界を決める指標となるかもしれません)。作家はどこが法律のライン引きかわからない規制の前に困惑し、キャラクター作りの段階から萎縮してしまうような状況になります。
これはもはや、日本以外の国に「どうぞ、どうぞ」と席を譲るようなものです。石原慎太郎はもともとは小説家であり、表現者であったはずですから、このような規制が文化面にどんな影響を与えるかよく知っているはずです。その上でこのような法案に執着するのですから、いっそ文化的売国奴と呼んでもいいかもしれません。

批評家たちがよく使う常套句があります。
「日本は“諸外国”と比べて遅れている」
あるいは、
「“欧米”ではこのように……」
その帰結として、
「だから“国際的な恥”である」
と。
この“諸外国”あるいは“欧米”という言葉は曲者です。具体的にどの国を示しているのか曖昧にしますし、日本人の西洋コンプレクスを見事なくらい克明に現します。
しかし、はっきり言えば“諸外国”も“欧米”もどうてもいい基準でしょう。何でもかんでもあちらの基準に合わせる必要はありません。そもそも背負ってきた歴史も文化も違う国なのですから、違って当然です。(特に良案というのでもないのに)あちらがああなっているから、という理由で無理に合わせる必要はありません。
それに、ヨーロッパの知的階層には普遍的に皮肉屋が非常に多いものなのです。彼らは挨拶代わりに相手の欠点や弱点や相違点を見出し、素晴らしいとしかいいようのない言い回しで罵倒するのです。皮肉を言うのが礼儀とすら考える文化があるのです。日本のように行儀のいい好人物はヨーロッパの知的階層にはいないと思ったほうがいいでしょう。
批評家は外国から皮肉を言われるのが嫌で、彼らと同じにしたいと言っているのでしょう。しかしもし白人国家と法律を同様にしたところで、彼らの皮肉の応酬がぴたりと止むはずがありません。また別の弱点や欠点を掘り返され罵倒されるだけです。
もし皮肉や揚げ足取りを真に受けて法律を変えても、「本当にやったのかよ」と呆れられるだけです。西洋人と同じ法律に変えれば尊敬が得られるという考え(あるいは同等と見做されるようになるという期待)は根本的に間違っているでしょう。
だから、彼らヨーロッパの人間に法整備の件について皮肉られたら、堂々とこう言って返せばいいのです。
「はい。あなた方より平和な国からやってきました。ただ、最近はあなた方の国の人がやってきて、犯罪を起こすので治安が悪くなりましたけどね」

白人からしてみれば、アジアの国など搾取する対象くらいしか価値はありません。どんなに白人文化を装って、彼らと同じように振る舞っても、民族的に継承した人種に対する差別意識は決してなくなりません。白人はその他の全ての文化を異端と捉え、自分たちと同様にすることを“近代化”と考えています。自分たちと同じ習慣、意識、宗教を獲得すれば文明的になる。特に宗教観は重要視され、自分たちと同じ神を信仰しない国の人間は野蛮とすら考えています。
しかしどんなに白人と同じ習慣や意識を獲得したところで、白人による有色人種への差別、あるいは優越感は決してなくならいでしょう。彼らは外国を、バカンスで自分たちが行きやすい場所にしたいだけです。
そんな皮肉屋の白人たちを黙らせるには、地位ではなく尊敬が必要なのです。日本では“肩書き”さえあれば中身からっぽでもみんな尊敬してくれます。でもヨーロッパでは肩書きでは誰もチヤホヤしてくれません。彼らから無条件の尊敬が欲しいのであれば、まず誰にでも明らかな功績を持ってから行くべきでしょう。

また今回のような問題が取り上げられた背景には、ある社会意識が関連していると考えるべきでしょう。「宮崎勤」というイメージです。
漫画規制、悪書撤廃運動といったムーブメントは、もはや一つの戦後史というべきものでありますが、サブカルチャー、いえ「オタク文化」がここまで反社会的なイメージをもたれるようになった切っ掛けは、間違いなく宮崎勤のイメージが根底にあると考えられます。
オタクは無条件で危険な人物である。根が暗く陰湿で、反社会的な傾向を持ちがちだ。あるいは、そのオタクが接している文化は、間違いなく犯罪に係わり、犯罪を助長する恐れがある。テレビドラマでは暗い部屋でパソコンをいじり、犯罪の計画を立てているオタクの姿はもはや定番です。一般人は直裁的に「オタク=きもい」と思考回路を結び付けています。
それは何故なのか。理由を探ると宮崎勤の事件が根底に現れてきます。今の社会は宮崎勤以後の社会であり、いまだあの事件のイメージを延長し続けているのです。つまり、オタクのイメージとは「オタク=宮崎勤=犯罪者」と繋がるわけです。そのイメージを前提において、オタク文化があるから子供に関わる犯罪がなくならないというわけです。個人的な話ですが、私は宮崎勤直撃世代なので、宮崎勤事件以前、以後で周囲の友人たちの対応があからさまに変わる瞬間を体験しました。宮崎勤事件が日本の社会、文化、意識において大きなターニングポイントであったのは間違いありません。
「宮崎勤=オタク」というイメージそのものが当時のマスコミの捏造だった、という話は重要ですが本題ではないので横に置いておきます。2ちゃんねるをやっている人はよくマスコミの偏向について非難するのに、オタクのイメージだけはマスコミのイメージを素直に受け入れてしまっている、ということに疑問を感じますが。
だから非実在青少年規制に関するこの一件も、問題としてもっとも強く指摘するべきは、宮崎勤というイメージについてでしょう。あるいは、一般の人が無条件に受け入れ、疑う機会すらない社会的刷り込みについてです。受動的な通念だけを抱えて、独力の思考力がないというべきでしょうか。大場ナナコは「オタクは認知障害であるという考えを普遍的に広めるべきだ」と断言しました。この発言の根底にあるものも宮崎勤のイメージでしょう。宮崎勤というイメージを前提において、「認知障害者」であると語ったのです。もしイメージではなく実体、あるいは現実を確かめるだけの(少々の)知性が大場ナナコに備わっていたら、こんな発言や発想はどう頑張っても出てこないでしょう。
宮崎勤事件以後、日本人は文化に対する考え方を決定的に変化させてしまいました。文化に対する意識は確実に後退し、最新の文化を生活の一部として嗜む好事家といった人種を絶滅させました。一般社会のコミュニティから文化的な意識が切り離され、ちょっとした趣向すら病的なものとして「隠すべき」という考えが定着されました。「文系」という言葉が死語になり、残ったのは軽薄短小と呼ばれるただの消費者だけです(メディアは軽薄短小を甘やかしすぎたのではないでしょうか。軽い恋愛、軽い音楽、軽い映画、軽いアニメ、軽いゲーム……娯楽は楽しむためのものですが、時に相手を挑発し動揺させる力も必要です)
私達は当然のように受け入れている社会的な刷り込みに対して、再点検するべきかもしれません。刷り込みに妥協し、思考停止状態に陥ると文化も簡単に切り捨てられるものと考えるようになり、感情的なやり方でしか接することができなくなります。もう少し冷静に物事を見て考える力が必要でしょう。社会が漠然と醸成した感情や気分だけで、貴重な文化を破壊させてしまう前に。

今回の『非実在青少年規制』の背景には、不穏に囁かれる噂があります。なぜ都知事や警察までも熱心に法改正に絡んでくるのか。実は『非実在青少年規制』という法律そのものを隠れ蓑に、新しい利権団体を作ろうというのが本旨というのです。
それは状況証拠と推測に過ぎない――とはいえ、背景に絡んでくる組織や団体などを俯瞰して見ると、「ひょっとして」という思いもしてきます。私にはそこまでの情報分析能力はないので、この件に関してはもっと詳しい人の調査、解説に委ねるべきでしょう。もし疑いようのない証拠が出てきたら、徹底的に糾弾されるべきことですが。

なんにしても東京という場所は騒がしすぎるという気もします。前回記事にも少し書きましたが、外野が騒がしくて創作に集中できなくなったら、思い切って業界ごと移転するべきでしょう。移転先は岡山がお勧めです。
その理由として、まず岡山は物静かな県民性として知られています。犯罪発生率は非常に低く、県別ランキングで下から3位くらいです。東京のような常にどこかで犯罪、という場所と較べると、非常に平和的な土地です。交通の便は悪くなく、大阪、京都のアニメスタジオと連携が取れます。これまでは東京にいる人たちを集めて企業を作っていましたが、岡山が拠点になると西日本を中心にした人材集めが可能になります。土地代が安く、東京の10分の1、20分の1くらいは当り前です。東京では無理だった「土地を買っての会社建設」も岡山なら実現の可能性があります。住宅事情もかなり落ち着いているので、駆け出しのアニメーターが住いに困る心配は多少減ります(瀬戸大橋を越えて香川県とか行くと、月一万の借家があったります)。一年を通しての日照時間、晴れ日が日本で最も長く、ソーラーパネルなどを使用するとある程度の電力が節約できます(いまだ太陽電池の性能がイマイチなので、「ある程度」とします。最近のアニメはデジタル制作の機会が増えているので太陽電池は活用できると思います。「落雷」が少ないのもポイントです。ゲーム会社ならかなりの恩恵を得られるかもしれません)。カルト宗教とヤクザの数も非常に少ないです(ついてきちゃう可能性もありますが)
東京で余計にまとわりついてくる色んなものを振り落とし、地方に出ましょう。東京のような汚い、人間だらけで窮屈なゴミ箱都市は住むべき場所でも仕事するべき場所でもありません。通信技術が発達しているので、東京を仕事場所にする意味ももうありません。じっくり創作に没頭したいなら、静かな土地に移るのが最良の選択です。

関連情報リンク…詳しい情報が得られるように、たくさん用意しました。
一般資料
東京都青少年健全育成条例改正問題のまとめサイト
「反オタク国会議員リスト」メモ
ニコニコ大百科 非実在青少年規制とは
Wikipedia 東京都青少年の健全な育成に関する条例
日本でのマンガ表現規制略史
京都での規制事例 山田啓二によるマニフェスト(PDF)
「第3次男女共同参画基本計画策定に向けて(中間整理)」について
第12分野「メディアにおける男女共同参画の推進」(PDF)
無名-知財政策ウォッチャーの独言→東京都青少年保護条例改正案全文の転載
「青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集」の作成について
東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集(PDF)
規制推進派
新谷珠恵 マネジメントグループの紹介
大場ナナコのブログ:バースコーディネーター日記
第28期東京都青少年問題協議会委員名簿(PDF)
社団法人 東京都小学校PTA協議会 青少年健全育成条例改正案に関する緊急要望書を提出
規制反対派
たけくまメモ
都条例「非実在青少年」規制問題について
精華大学による「東京都青少年健全育成条例改正案」に対する意見書
まんが・条例ができるまで(1992年作品)
“馬のクソ’でも表現(1)
空気を読まない中杜カズサ
東京都青少年育成条例改正案における表現規制の危険性について語る
難民チャンプ
「非実在青少年」規制について
Timesteps
1990年代の有害コミック運動はそれからどうなったのか
コデラノブログ4
非実在青少年規制反対集会速報
「非実在青少年」だけではない、東京都青少年健全育成条例改正の問題
アルファモザイク→東京都「児ポの基準を発表するわ」 「しずかちゃんの入浴」「ワカメちゃんのパンチラ」はおk
京都精華大学→東京都青少年健全育成条例改正案に関する意見書
ニュースサイト
「非実在青少年」問題とは何なのか、そしてどこがどのように問題なのか?まとめ
都・マンガ規制の問題点を読売新聞が身を呈して実証
“非実在青少年”規制条例、「知っている」層の8割が反対~ニコ動調査
「非実在青少年」問題――ネットで広まる“反対”と“賛成”の意見
漫画性表現規制「議論慎重に」 精華大学部長ら 都の民主会派に意見書
「非実在青少年」規制、橋下知事「大阪府も検討」
「しずかちゃんの入浴」「ワカメちゃんパンチラ」はOK 2次元児童ポルノ規制条例で東京都
「暴力的ビデオゲームはほとんどの子供には無害」と研究者



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■ ■


■2010/03/20 (Sat)
東京都の青少年健全育成条例の改正において議論されていた『非実在青少年規制』が先送りされるようです。先送りであって否決ではありません。今後も油断ならない状況が続くだろうと考えられます。
改めて『非実在青少年規制』とは何であるのか振り返りましょう。以下が『非実在青少年規制』の概要です。

□□□□□□□□

一 青少年に対し、性的感情を刺激し、残虐性を助長し、又は自殺若しくは犯罪を誘発し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの

二 年齢又は服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を想起させる事項の表示又は音声による描写から十八歳未満として表現されていると認識されるもの(以下「非実在青少年」という。)を相手方とする又は非実在青少年による性交類似行為に係る非実在青少年の姿態を視覚により認識することができる方法でみだりに性的対象として肯定的に描写することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの

□□□□□□□□

何ともわかりにくい言葉が羅列しますが、要するに「存在しない青少年」を取り締まる法律です。何となく見た目が幼いとか、若作りしているキャラクターでもアウトです。一部の成人向けコミック、それもロリコンを題材にした作品だけ取り締まり対象になると思っている人もいますが、それは勘違いです。ほぼすべての成人向けコミックが対象になります。
規制対象は一般向け漫画にも向けられ、キャラクター作りに対しても制限がかけられます。恋愛をテーマにした漫画は全滅の恐れすらあります。声優の演技や声なども規制の対象になるらしく、声質が幼い声優は失業します。人気の高い女性声優などはほぼ全員が規制対象になると思われます。作家や出版社は、警察の検閲にビクビクしながら創作をしなければならなくなるわけです。

私はこれを知った段階でブログに取り上げようと思ったのですが、知ったときにはもう可決まで何日もない状態でした。情報を収集している間にも時間は過ぎて行き、今に至ってしまったわけです。
今回の『非実在青少年規制』における問題は、その内容以上に誰も知らないうちにこっそり法案を決めようとしたその方法にあります。私の家で購読している読売新聞には、『非実在青少年規制』の文字は一度も掲載しなかったと思います。3月19日になって、なにげなくテレビをつけると、この問題について報道されていたのですが、「『非実在青少年規制』とは何か?」という説明から始めていたので今までまったく報道していなかったのだと思います。インターネットがなければ、そんな法案が提示されていたことすら知ることができなかったと思います。
「サブカルチャー叩き」は戦後以来、周期的に繰り返され、およそ15年から20年周期で発生し、その時代の作家が標的にされ指弾されています。今回の件もその一端であるという見方はありますが、私は少し違うと思います。
まず第一に、世間に対してサブカルチャーの有害性をアピール、扇動活動など一切行っていない。一般の人々を巻き込み、思考や行動に影響を与えようというのを目的としていません。
第二に、その上でこっそり法改正してしまおうと強行したことです。今までのやり方よりよっぽど巧みで、効果的な方法です。
第三に周期がこれまでより短く、より反対派の勢力が強大になっているという点です。漫画、アニメと少し違う分野ですが、2002年7月に出版された森昭雄の『ゲーム脳の恐怖』があります。こちらはゲームですが、同じサブカルチャー叩きと括れば、期間はたったの8年です。2008年日本ユニセフが中心となった『準児童ポルノ』から見ると、期間はさらに短い2年です。
過去のサブカルチャー叩きは感情論に過ぎず、その感情を多数の人々に伝播して啓蒙(洗脳?)を促すという手法でしたが、最近は似非とはいえ科学的な考証を背景にしているし、都知事が先頭に立って法改正まで行おうとしました。『非実在青少年規制』に限っていえば、今後、毎年この時期に取り沙汰されるかもしれません。
今回の件はインターネットを通じてその存在を知ることができました。会議での信じがたい罵詈雑言を文章化した生々しい記事に行き当たることができたし(大葉ナナコ先生によれば私は認知障害者に当たるそうですよ)、都知事本人の映像も動画サイトなどで見ることができました。しかし、これまでの規制派の傾向を見ると、行動や手段が確実に複雑化、巧みになっています。ひょっとしたら、今回の件でインターネットに情報が漏れるということを学習したかもしれません。次はインターネットですら情報を得ることができないかもしれません。

私見ですが、『非実在青少年』という造語はSF的だと思います。SFとは現実をベースにしながら、その概念を飛躍させる何かを導入し、それで社会や人間がどうなっていくのかをシュミレーションしていくエンターティメントです。私はずっと以前、『視聴率保護法制定』というSF小説を構想したのですが、発想は似ていると思います。
ただ作家はそれを空想の世界という前提で描くのですが、中には現実に実行しようする人も出てきます。現実と非現実の境目の曖昧さについて考えさせられます。まあ、宗教という現実と非現実の境目が曖昧なものが人類始まって以来あるのだから、そこを批判するつもりはありませんが。
ポルノと犯罪の因果関係はよくわかっていません。アメリカでは児童ポルノに関する取り締まりは非常に厳しく、FBIは捜査として偽の児童ポルノサイトを作り、そのサイトにやって来た者を逮捕しました。イギリスでは児童ポルノ一斉摘発作戦(オペレーション・オー)が決行され多くの逮捕者を生みましたが、逮捕された者の中から32人が自殺しました。それでアメリカでもイギリスでも性犯罪、児童に対する強姦が減ったのかといえば、そういう話はまったく聞きません。逮捕者だけ増えて、実際の犯罪発生率はまったく変わらなかったようです。
この結果を規制派は知っているはずでしょう。それでも規制を強行しようとしているのだから、規制派の心理的背景に狂信妄執を疑うしかありません。「統計データがなければ禁止できないのはナンセンスだ」という発言もあるようですから、データがあろうがなかろうが、自分の思想・妄想の実現のためなら手段を選ばないようですが(いまだにピューリタズムは梅毒の恐怖に怯えて、価値観を他人に押し付けようというのか……。あっ、独り言です)
少数意見ですが「一度法改正して駄目なら戻せばいい」という意見もあります。これは、私個人的にはどうかと思います。というのも、「戻せない」だろうと思うからです。一度法改正したら過去に引き返せません。人間の意識が変わってしまうのだし、何より政治家にとっては自己否定に繋がります。もし悪化しても、意地でも規制を強めていくのではないか、と私は思うのです。根拠のない意見ですが。
※ 『視聴率保護法制定』。近い未来、「テレビ以外の全ての映像メディアは有害」という見解の下、テレビ以外の情報が規制される。人々の暮らしにとって有益で健全な思想を育むという名目で、一定以上の視聴率を維持するのが日本人の新たな義務となった。政府公式発表の放送は視聴率100%維持が絶対で、視聴しなかった者は特定され罰則を受ける。そんな法律が制定された最中、凶悪事件が発生。容疑者となったのは主人公の親しい友人。主人公は友人が無実である確信を持っていたが、報道はその友人を犯罪者と見做して調査を始める。……という内容の小説。

私は素人なのでよくわかりませんが、日本の漫画とアニメが世界的な支持を得るようになった背景には、日本の娯楽表現に規制があまりなく、その一方で外国には強力な規制があったからだ、という意見があります。アメリカのコミック、フランスのバンド・デシネといった西洋の漫画も法的な規制や時代の抑圧を受けていたようです。その規制が強かった時代に日本の漫画が広まり、人々の深層に「漫画といえば日本」という意識が強く定着していったというのです。この「メディア史観」が正しいのかよくわからないので、詳しい解説はちゃんとした先生に聞いてください。
現在はどの国でも日本の漫画を目標に追いつけ追い越せという活動を始めています。これまでの漫画表現の規制なども見直され、どの国でも自由な表現で描けるようになっています。そんな最中、かつて外国で実施されたような規制を日本で行ったらどうなるか。せっかく輸出産業としての力を得た漫画の勢いを大幅に削ぐ結果になるでしょう。日本を目標とする外国の漫画に立場を奪われるのは確実です。輸出産業として力も失うはずです。
石原慎太郎都知事は、枯れたとはいえかつては作家だった人間です。表現の規制や制限が作家と作品にどんな影響を与えるかよく知っているはずです。知った上で規制をかけようとしたのだから、度し難い人物としか言えません。石原慎太郎は自国の輸出産業のひとつを自分の手で殺そうとしたのだから、政治家としての能力を疑います。

頻繁に見かけた噂ですが、サブカルチャーが標的にされるのは天下り可能な団体がサブカルチャー関連の企業にないからだ、という意見があります。
これは噂に過ぎません。妄想と恐れという歪みが作り出した都市伝説的な思考です。私はサブカルチャー叩きの背景にあるのが“狂信”であると考えているので、“お布施”くらいでサブカルチャー叩きがなくなるとは思えません。
とはいえ、そういった考えに至る“気持ち”は理解できます。パチンコのような、常に実際的な社会問題を作り出している賭博行為を規制しようという人がまったく現れないのも、天下り可能だから、という考えもあります。
アニメ、漫画、ゲームといったサブカルチャーは技術や芸術性はさて置くとして、市場はかつてないほど大きく膨れ上がり、今や世界を巻き込む勢いを持っています。アニメ『けいおん!』が放送されいた三ヶ月は、日本は不況の最中とは思えないくらい活発に経済が動きました。いっそ、このまま『けいおん!』が放送され続けたら日本経済持ち直すのではないかとすら思ったくらいです(まあ、素人の妄想ですが。経済がそこまで簡単じゃないくらいわかってます)
それくらいに大きな利益を作り出すのですから、ヤクザや準ヤクザ(公務員)といった人たちが「ショバ代よこせ!」と言ってくるのも無理はありません。または、事件の背後でそういった要求があったのかもと想像する人もいるでしょう。
もし今回の事件の後、どこかで謎の公的機関がこっそり作られ、アニメの制作費と収入がその企業に流れていたらアタリです。私はそういう企業やお金の流れといった話がわからないので、知り得た人はそれぞれの媒体で大いに盛り上がってください。私も乗っかりたいと思います。実際そんな機関が作られたら、「規制だ!」なんて大騒ぎする人もいなくなるのだろうけど、犠牲は大きすぎます。ただでさえアニメーターが苦しい生活をしているのだし、この状態での搾取は業界の底辺を崩壊させます。

東京にいて規制だの利権団体だのといった話に疲れて創作に集中できないのなら、いっそ引越ししたほうがいいです。出版社印刷所アニメ会社全員で大移動です。その期間、サブカルチャー文化は供給停止するでしょうけど、繰り返しうるさく騒ぐ隣人がいるなら、引越しも考えの一つとしてありかもしれません。
だいたい、東京なんて土地は人の住む場所じゃありません。人が多すぎだし、ヤクザやカルト宗教だらけで犯罪の数も非常に高いです。気候が厳しく、雪で交通機関が麻痺するのはしょちゅうだし、しかも大地震の不安が常に取り巻いています。運動しようと外出しても排ガスだらけで空気は悪いし、人が多いので何某のトラブルに巻き込まれるかもしれません。土地代が高くて一戸建ては無理。ビルを立てて会社を作るのも無理。暮らしは小さなアパートとか、仕事は貸しビルのワンフロアで満足するしかありません。よくもまあ、あんなゴミ箱の中に我慢して住んでいるなとは思います。
もし大移動するなら岡山がいいですよ。あそこは静かで暮らしやすいです。
続き:6月21日『非実在青少年規制』否決へ

関連情報リンク
第28期東京都青少年問題協議会委員名簿(PDF)
東京都青少年健全育成条例改正法問題のまとめサイト
ニコニコ大百科 非実在性少年とは
「反オタク国会議員リスト」メモ
たけくまメモ
都条例「非実在青少年」規制問題について
精華大学による「東京都青少年健全育成条例改正案」に対する意見書
まんが・条例ができるまで(1992年作品)





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