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■2013/07/04 (Thu)
■ \(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!
(」・ω・)」SAN値!(/・ω・)/ピンチ!!
\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!
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主題歌が始まると同時に、ニコニコ動画の画面は【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】の文字で埋め尽くされる。【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】とは、『這いよれ!ニャル子さんW』のオープニング主題歌に使われたキーフレーズだ。オープニングの冒頭、途中など、d27c6530.jpeg様々な箇所に何度も【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】のフレーズが繰り返され、その度に【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】のコメントが画面を一杯に覆う。
最近の話ではなく、アニメではずっと昔から「馴染みやすいフレーズ」が主題歌に取り入れられてきた。多くの場合が主人公や必殺技の名前、あとはやはり【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】などの本編で使用されるわけではないキーとなるフレーズだ。そうしたキーフレーズの多くはサビに入ったところの、一番盛り上がったところで使用される。歌い手は高らかに必殺技を叫び、主題歌のテンションは最高潮のラインのさらに上を突き抜けて恍惚の瞬間に突入するのだ。
アニメの主題歌はそうした伝統ともいえるキーフレーズの使い方を継承し、現代的な早いリズムやサンプリングを利用して独自の地位とスタイルを作り上げている。『這いよれ!ニャル子さん』のオープニング主題歌はその形式をさらに押し進めて、【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】のフレーズをあたかも一つの音楽のように取り入れ、何度も繰り返しす。
このリズムが実際かなり心地よく、ニコニコ動画は“合いの手”を入れるように【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】のコメントで埋め尽くされた。

『這いよれ!ニャル子さん』は“合いの手”のアニメだ。アニメ本編に入っても、コメントは絶えることは決してない。『這いよれ!ニャル子さん』の本編といえば、ストーリーラインの骨格が見えなくなるくらいに、ありとあらゆるパロディが連打される。数秒おきに台詞、描写にパロディが打ち込まれ、そのパロディの一つ一つに対して、ユーザーがコメントを打ち返していく。パロディの量はとんでもなく多く、見ていてもほとんどが何のパロディがわからず、次第にそれがパロディなのかパロ18254b43.jpegディでないのかの判別すらできなくなる。しかしユーザーは取りこぼさずコメントを打ち込んでいく。あたかも、キャラクターが取り逃がした、あるいは敢えてスルーしたパロディに対して突っ込みを入れるように。それはあたかも、作品に対して“合いの手”を入れているようである。
そういう意味で、『這いよれ!ニャル子さん』は“視聴者参加型アニメ”というスタイルを独自に確立したといってもいい。普通に、アニメに限らず映像メディアは一方通行だ。すでに作ったものを放送しているのだからそれは当然だ。しかし『這いよれ!ニャル子さん』に限っては一方通行という感じがしない。あたかもユーザーの合いの手を待ち構えているかのように、いくつものパロディが捻り込まれる。一方通行メディアにかかわらず、どこか舞台劇のような近い距離感を感じさせるアニメだ。
『這いよれ!ニャル子さん』は、視聴者が参加することで、初めて完成するアニメなのだ。ニコニコ動画という視聴者との双方向性を活かせる場所があったからこそ、『這いよれ!ニャル子さん』はより輝いたのである。



■ パロディとギャグの狭間

しかし作品を視聴し続けていくうちに、やがて疑問に思うようになった。
物語中、大量に散布されているパロディの数々。そのパロディの物量に圧倒されるが、しかしそのパロディは果たして――ギャグなのか?

ギャグとは何なのか、パロディとは何なのか、そういうそもそもの問題を突き詰めていかねばならない。『這いよれ!ニャル子さん』がパロディを主体としている作品であるのは間違いない。しかし、ギャグとはそもそも何なのか?
Wikipedia:ギャグ
Wikipediaに示された概要には、概ねにおいて笑いをもたらすフレーズとなっている。しかし、ギャグのどういった瞬間に、我々は笑うのか。
3c2d2be2.jpeg一面的な例として“落差”という要因が考えられるだろう。まず提示するAというフレーズがあり、次にオチとなるBというフレーズが続く。その落差の大きさが笑いを生む。
多くの場合、提示となるAは常識的、世間的なものが題材となる。一般的にごくごく当たり前に考えられているものを引っ張り出して、次なるBでその逆である“非常識”を突きつける。AとBの連なりの間で「それはあり得ない」と思うもの、聞き手が想定しないものを提示する。その緊張感と脱力との差異に「そんなものはあり得ない!」という笑いが起きる。
もちろん、これは一面的な例に過ぎない。提示するAに一般的に広まっている何かを引っ張り出し、Bで「それはおかしいのではないか」と。おかしいのはオチであるBではなく、そもそものAではないか、という。ある意味での風刺といった使い方もできるし、もちろんこれでも笑いの反応を引き出すことができる。
実際にギャグの形式は多様だ。Wikipediaにあるように、一般的な所作を誇張することで笑いをもたらす場合もある。ギャグの考案者の数だけ、ギャグのヴァリアントがあるといっていい。

ここで『這いよれ!ニャル子さん』に話題は戻ってくる。『這いよれ!ニャル子さん』のパロディはどうしてギャグではないかも知れない、という疑惑が生まれるのか。
確かに『這いよれ!ニャル子さん』には大量のパロディが描かれているが、その羅列にギャグとしての機能が付与されているのか、という疑問である。不用意に連打されるパロディが、ギャグとして笑いを生むほどに落差を作っているだろうか……と。ある意味で、単にパロディがいくつも並んでいるだけであり、それはギャグとは違う性質のものではないのか、と。

パロディとは無条件に笑いを作り出すものではない。パロディには実際様々な形が存在し、パロディであるからこそギャグとは違う性質の社会的な意義が付与される場合がある。
それを事件として報じたのは、1971年(昭和46年)10月1日の読売新聞だ。
e3ee87d4.jpeg記事の内容はこうだ。山岳写真家の白川義員(“よしかず”。“ぎいん”ではない)がオーストラリアの雪山の一場面を撮影した。写真はオーストラリアのスキー学校と交渉して、2ヶ月がかりでやっと完成させたものだった。
ところが、パロディ写真家マッド・アマノはこの写真の上部に、巨大なタイヤを書き足してしまった。マッド・アマノの狙いはシンプルだ。巨大なタイヤは自動車公害問題を示唆しており、スキーヤーたちは、その公害から逃げようとしている人々である。(写真出自:芸術とスキャンダルの間 大島一洋)
この場合のパロディは、“笑い”が狙いではない。この事例のようにパロディとして再構築することで、風景写真が風刺メッセージを得ることだってある。またマッド・アマノのこのパロディは、白川義員が撮影した写真に、ヘリコプターで現地に乗り込み、まっさらな雪原にスキーヤーを走らせる行為に自然破壊的なものを読み取り、その側面をクローズアップさせた。写真家が意図していない側面すらもパロディが突いて見せたのだ。
Wikipedia:パロディ裁判 白川義員はマッド・アマノのパロディに憤慨し、訴訟を起こした)

というように、パロディには様々な“意図”が込められることで、幅広いメッセージ性を持たせることができる。ギャグは徹頭徹尾“笑い”が主題であるが、パロディには“笑い”以外の様々な表現方法が可能なのである。
では、『這いよれ!ニャル子さん』のパロディはいったい何を指向しているのだろうか。笑いだろうか。確かに『這いよれ!ニャル子さん』はパロディを笑いとして扱っている。ニコニコ動画を見ると、多くの人がギャグとして受け入れているのがわかる。この疑問は愚問ですらある。
しかし敢えて提示してようと思う。
『這いよれ!ニャル子さん』のパロディは、実はギャグ以外の何かを指向しているとしたら?



■ 2次創作化するオリジナル

少しひねくれた人は、大ヒットアニメ『エヴァンゲリオン』を見てこう批判するだろう。
「あんなものはオリジナルとはいえない。設定もシーンも、どれも過去の特撮やアニメで描かれたものばかりじゃないか」
まったくもってその通りだ。しかし、これは批評する側の知っている/知らないの話に過ぎない。そもそも、全ての創作は2次創作であるのだ。
04599feb.jpeg以前に、『インディ・ジョーンズ』の映像と、サイレント時代に制作された冒険映画のいくつかを組み合わせた動画と比較する動画がYouTubeにあった(残念ながらブックマークを作らなかったので、現物を提示することができない)。これが、ぴたりと一致するのである。カット割りから台詞のタイミング、カメラの流れ方まで、ぴたりと一致する。もはや、丸パクリといっても差し支えがないくらいにまでそのままなのだ。
しかし『インディ・ジョーンズ』は『エヴァンゲリオン』のように「あれはパクリだ!」という声は聞こえてこない。何故かといえば、答えはシンプルである。そのことを知らないからだ。だから『エヴァンゲリオン』が過去作のパクリに過ぎない、という意見を口にする人は、単にその程度の知識しか持ち合わせていない、と告白しているようなものである。
最近では『パシフィック・リム』が日本のロボットアニメをリスペクトして作られた作品であると監督自身が公言している。『パシフィック・リム』に限らず、例えば『スターウォーズ』は黒澤明監督の『隠し砦の三悪人』とそっくりだ。パクリでなければ何だと言うくらい、類似が多い。寛容だった当時だから許されたものの、いま制作したらジョージ・ルーカスは袋叩きだっただろう。『マトリックス』は押井守監督の『GHOST IN THE SHELL』を元ネタに作っているという話はあまりにも有名だ。こちらにも類似は非常に多い。
では、上に挙げたあからさまな例以外の作品は、純粋たるオリジナルと呼べるのだろうか。そう呼ぶにはやはり疑問だ。というのも、現在形の作品は、過去の作品と無関係でいることは決してできないからだ。

47fc0150.jpegある仮説として、創作は20年前後を周期にして回帰すると考えられる。その作家が少年時代に見て感銘を受け、その後大人になって自分が好きだったものを再現するようになるまで、およそ20年くらいだろう、という考え方だ。
例えば庵野秀明が少年時代、テレビの特撮に夢中になる。その後大人になり、プロの映像作家となって、自分が好きだった特撮を再現しようと『エヴァンゲリオン』という作品を思いつく。それまでの期間を、かなり大雑把に20年前後であろう、と。創作は、20年周期で“帰ってくる”のである。
庵野秀明に限らず、作家を目指す人というのは、作家になろうという感銘を受けた、影響を受けた作品というものがあり、大人になった後も、意識せずともそれを現代的な感性と技術でグレードを上げつつこれを再現しようとしてしまう。少年時代に見て、影響を受けたり、感銘を受けたりといった作品は、作家側がどんなに否定しようとも、絶対に無関係でいられるはずがないのだ。
また、技術面や表現方法においても、過去の作品という礎があるから、今の作品がある。怪獣の見せ方一つ取っても、どう見せればかっこよく見えるか、恐ろしく見えるか、そういう模索を過去の人が充分に検討してくれたから、それを踏み台にしてよりよい表現を目指すことができる。技術面においても、培ってきたものがあるからこそ、より密度の高い描写が可能になる。
過去の作品を礎にし、古びたと思ったテーマを復活させつつ、創作は少しずつグレードを上げてより高度な次元へと発達していくのだ。

現代がかつての時代とどう違うのか、という話をすると、作家になろうとする人達が過剰に創作漬けで育ってきた、ということがいえる。すべてが映像で見てきたものの2次創作なのだ。映像で見てきたもの、即ちフレームで区切られ、特撮が導入され、演出家が指示した演技を見て、これに加算する形で、自分たちの映像を作ろうとしている。
ある種のエリートともいえるが、2次創作という側面はかつてより大きく、克明に現れてくると思う。漫画を目指す人は、かつてより漫画のエリートで漫画の表現や技法を知り尽くした上で漫画家を目指そうとするし、映画監督を目指す人はやはり映画のエリートだろう。しかしそれくらいのエリートでなければ、現代の先鋭化した表現のさらに上を目指すのは、困難であるといえる。
では、そうした2次創作は――『エヴァンゲリオン』や『スターウォーズ』といった作品はオリジナルではないのか、といえば間違いなくオリジナルだ。なぜなら、『エヴァンゲリオン』には庵野秀明という個人の精神性が色濃く現れているし、確かに過去作品の映像が断片的に見えてくるものの、『エヴァンゲリオン』は『エヴァンゲリオン』として一貫したテーマと映像の連なりを持っており、ストーリーも過去作品の類似は発見できるものの、やはり『エヴァンゲリオン』は『エヴァンゲリオン』という揺るぎない存在感を放っている。要するに、過去作品を連想させないだけの力強さを持っている。それに、誰が見てもオリジナルだと言うだろう。2次創作化といえば2次創作だけど、それ以上に、過去作品から切り離された新しい時代に向けた作品だからオリジナルなのだ。


■ 先鋭化するユーザー

そうした作品漬けの日々を過ごしたエリートは、もはや作り手だけの特権ではない。見ている側、読んでいる側といった受け手も、創作のエリートなのだ。ただし彼らは、あくまでも読者エリートであり、作家の立場にいこうとは考えなかった人達だ。

acb21dde.jpeg彼らエリートユーザーは創作の方法論など知らないし、作品の体系化もしているわけではないが、それまでに培ってきた視聴経験、読書経験から漠然とながら、しかしかなり的確なストーリーパターンを了解している。
作家がさりげなく描いたつもりのカットから「これは伏線で、次の場面のどこかでこういう展開が来るだろう」と予測を立てて、そのおおよそは的中させてしまう(作家側から見ると「的中させられてしまう」)。現代の読者は、「フラグ」というゲーム由来の言葉を多用しつつ、かなり正確に物語の典型的なパターンを読解し、次なる展開、あるいは物語中に散布した要素から結末を読み当ててしまう(作家側からするとやはり「的中させられてしまう」)
彼らエリートユーザーは、もちろん作家になるための教育を受けたわけでも訓練を実践したわけでもない。方法論を含めた物語の成り立ちを了解しているわけでもない。だから読者エリートたちの意見は、どこかで必ずおかしい……身の丈に合っていない意見を口にする。
過剰なまでに作品漬けの現代。読者エリート達は作品漬けになる過程で、物語を組み立てる必要なロジックを了解し、そのロジックを普遍的に共有するほどにまでなった。しかし肝心なところで素人に過ぎない読者エリートは、そのロジックをかなり誤解して捉えている。そうした物語の法則性を一つ見つけるたびに、彼らは必ずこう言うのだ――
「最近の物語はありきたりだ。意外性がない」

0d8602d2.jpeg先鋭化するエリートユーザーは、創作の新たな楽しみ方を発見したようだ。
その作品がパロディを指向していなくても、過去作品との類似を見出し、パロディとして見てしまうのだ。作家はそれをパロディとして描いたつもりはないし、ユーザー達が似ていると指摘する作品を意識しているわけでもない。そもそも知らない場合もある。しかしユーザー達は類似を作り、過去作品と比較し、現在形の作品をパロディとして受け入れようとする。最近のシリアスストーリーである『進撃の巨人』も一部のユーザー達からパロディ作品として受け入れられているようだ。
そうしたパロディとして見なされるためには、その本家と類似作品の間に、必ず“パロディ化”された何かが差し挟まれている。
例えば『ドリフの大爆笑』で有名な加藤茶の「ちょっとだけよ」。これはストリッパーのパロディだ。加藤茶はストリップ劇場に通い、舞台照明や音楽を研究し、パロディとして再構築した。以後、本業のストリッパーは怒り心頭である。脱ぐたびに客席から笑いが巻き起こる。みんな加藤茶の「ちょっとだけよ」を連想するのだ。
fb0f6363.jpeg同じように、どこかで一度パロディ化されたものが差し挟まれると、それ以後の類似は全てギャグとしてユーザーが受け取ってしまう。例えば、画面に集中線が出ると「強いられているんだ!」。背後に敵が現れたら「志村ー後ろー!」。男同士の友情が描かれると「アーッ!」。女同士の友情が描かれると「キマシ」。「穴」や「掘る」とか「塞ぐ」といった言葉にも反応する。こうした反応はニコニコ動画特有の合いの手文化と言えなくもないが、これこそ過剰に訓練され形式化したユーザーの反応といえる。
過去作品との類似が全くない作品などあるはずもない。すでに書いたように過去作品という礎があって今の作品がある。完全なオリジナルがあったとすればそれはオーパーツだ。だがそれ故に、現代のユーザーの手に掛かれば、どんな作品でもパロディになってしまうのだ。どんなストーリーも途中で結末を言い当ててしまうエリートユーザー達の意識の中に、もはや“シリアスストーリー”なるものは存在しない。全てパロディとして扱われる。

900ddc3d.jpeg現代はある意味で歪な時代である。かつてはそういった口うるさいエリートはごく一部に過ぎなかった。だが、今や誰も彼もエリートといった状態だ。
『スターウォーズ』は制作された当時から『隠し砦の三悪人』との類似が指摘され、「これはオリジナルというよりSFリメイクではないか」と言われていたが、その当時はそう指摘をする人自体がごく少数で、それ以上に声は大きくはならなかった。結局、長い年月の末に、『隠し砦の三悪人』は忘れられ、『スターウォーズ』は「オリジナル作品」として多くの人に受け入れられ、『スターウォーズ』も『隠し砦の三悪人』を連想させないくらい独自的なイメージを持つまでに成長した。
しかしもしも現代だったら? もはや誰も彼もエリート視聴者という時代に『スターウォーズ』のような作品が制作されたら? 「あんなものはただのパクリだ」と間違いなく世界規模で監督が袋叩きになっていたところだろう。
リメイク作品である樋口真嗣監督の『隠し砦の三悪人』は少なくとも『スターウォーズ』よりは完成度の高い作品だと思うが、すでに手厳しいエリートユーザーが大量に育った時代、オリジナル作品と比較され、徹底的に叩きのめされた作品になってしまった。
そうした時代であるから作り手が目下求められているのは、そういったエリートユーザーの思考パターンを1つ越えることである。これまで、創作の教科書に書かれてきた方法論は無意味ではないが、参考程度にしかならない。セオリー通り物語を組み立てても、すべて見透かされてしまう。あろうことか“ありきたりな展開”と捉えられてしまう。そこからさらに向こうの世界を目指さないと、時代を一つ飛び抜けた作品にはならない。
まったくの不可能ではない。あまりの意外性と、誰も結末を予想できなかった『魔法少女まどか☆マギカ』といった良作がある。美しいビジュアルと、緊張感のある俳優の演技で圧倒した『Feto/Zero』といった作品がある。
アイデアを絞り出せば、誰も思いつかなかったストーリーに、思わずコメントを忘れるくらい圧倒させるシーンや演技を作ることは可能なのだ。ただ、今までに以上に、作家は苦労して知恵を絞らなければならない。


■ 逆襲のニャル子さん

『這いよれ!ニャル子さん』の秀逸さは、そうした時代の感覚を了解した上で作っていることにある。『這いよれ!ニャル子さん』は、ユーザーの全てがエリートであることを見越した上で、敢えてハードルの下をくぐり抜ける選択をしたのである。時代の一つ上を飛び抜けるのではなく、時代の感性に寄り添ったのだ。
大量のパロディを散布することで、ユーザーに合いの手を入れてもらう。現代はみんながエリートユーザーだ。どんなパロディを投げても、ユーザー達は確実で正確にラリーを打ち返してくれる。
作り手側が意図していなくても、ユーザーは作品に過去作品と類似を見出して、勝手にパロディとして受け入れてしまう。その性格を逆手に取り、意図的に過去作品との類似を大量に放り込む。キャラクターがパロディについてフォローしなくても、ユーザーが勝手にギャグとして受け入れて笑ってくれる。ギャグは提示したものAと突っ込みBとの間にある落差で笑いを生み出すが、この落差を作り手側が提示しなくても、ユーザー側が勝手にやってくれるというわけである。どんな断片的なパロディであっても、ユーザーは決して見落とさず、拾い上げてくれる。現代のユーザーが先鋭化したエリートだからこそ、あるいはニコニコ動画というメディアがあったからこそ成立する、かなり特殊な“笑い”である。

また『這いよれ!ニャル子さん』は現代のユーザー達に向けてささやかなながら逆襲を試みている。一見すると、意味もなく配列しているだけに思えるパロディの数々。そのパロディこそが、次の展開を作る伏線である、という構図だ。
40a758be.jpegこの方法論が最初に提示されたのは第2話、ニャル子さんがベンチに座り、「さーて今日の世界情勢は、と」と新聞を開く。これは千葉繁が押井守作品に何度か繰り返したギャグである。この台詞は『うる星やつら』『パトレイバー』などで使用された。これをニャル子さんが踏襲したのである。これが、実は後半に向けたかなり重要な伏線であった。
さらに真尋が図書館で何気なく手にした本。『邪神様のメモ帳』。『神様のメモ帳』というタイトルの推理小説を基にしたパロディだ。視聴者は多くのパロディの一つだと思って、笑って見過ごしたが、実はこれこそ、エピソードの結末に繋がる伏線であった。
そう、『這いよれ!ニャル子さん』はパロディを物語展開の重要な一要素として取り込んだのである。

――『這いよれ!ニャル子さん』のパロディはいったい何を指向しているのだろうか。
d00d39c8.jpegいよいよこの答えが見えてきただろう。『這いよれ!ニャル子さん』のパロディには物語的な有意味が与えられた作品であるのだ。パロディの概ねの意図はギャグであるが、『這いよれ!ニャル子さん』はそこに有意味を与え、パロディが物語的重要度を持っている。それはエリートユーザー達が予想もできなかった“意外性”を確実に提示するものだった。
6f82c547.jpegシリーズ後半に入れば、ユーザーが予想してくることを見越して、「どのパロディが伏線でしょう」と提示してくる。第10話は『マーズアタック』と『宇宙戦争』のパロディをはじめに提示し、どちらが伏線か予想させるような内容だった。ここまで来ると、ユーザーとの双方向を意識したゲームのようだ。
『這いよれ!ニャル子さん』はハードルの下をくぐり抜けるという、一見すると“ズル”を使いつつ、同時代の予想を一歩上回る作品として自立した。パロディをパッチワークのように折り重ねて、その末でできあがった作品であり、パロディが単にパロディとして孤立しているのではなく、作品を構成させる重要な要素になっている。またそれは、同時代の先鋭化した感性があったからこそ成立した方法論であった。オリジナリティをあえて切り捨てることで成立した、『這いよれ!ニャル子さん』らしいオリジナリティである。


 

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■2013/02/23 (Sat)
前編を読む

 7、見えざる者の叫び

『氷菓』は死体が登場してこないミステリである。しかしある意味での「死」をこの作品は描いている。
『氷菓』には物語上の最重要人物であるにも関わらず、登場してこない3人の人物がいる。関谷純本郷真由安城春菜の3人だ。『氷菓』は一度も登場しないこの3人を軸に、この3人を追いかけていく物語であるともいえる。

fc3e7f9e.jpeg第1部「氷菓」篇は関谷純の物語だ。
第3話『事情ある古典部の末裔』で折木奉太郎は、千反田えるから「叔父の関谷純があの時、何を言ったか調べて欲しい」と依頼される。千反田えるは関谷純のある一言を聞いて、「泣いてしまった」という。あの時、何を聞いて、どうして泣いてしまったのか……。間もなく千反田は、その切っ掛けは文集氷菓にあったと思い出す。叔父に文集について尋ね、その答えを聞いて泣いてしまったのだ、と。

「氷菓」の答えは単純な駄洒落だった。氷菓を英語にするとアイスクリーム。アイスクリームの切り方を変えると、“アイ・スクリーム”。これを和訳すると――“私は叫ぶ”。
叫び、悲鳴。これが文集氷菓の正体だった。文集に込められていたのは、その後の永久不変に残り続け、文化祭の時期になると必ず目を覚ます“呪い”であった。

高校生活と言えば薔薇色。折木奉太郎はそう考えていた。関谷純の時代、潮流に乗せられて、身につけたばかりの角張った言葉を振りかざして学生達は政治的運動に身を捧げていた。もっとも、それは“ごっこ遊び”に過ぎなかった。学生達は大人のつもりで不満の声を上げ、体制を憎み何かを変えようと活動に熱中するが、実体は単に無用に供給されてくる若いエネルギーを消費したいだけだった。学校という保護され閉鎖された空間の中で、いくら喚いても暴れ回っても社会に与える影響は何もない。無謀な勇気を示した者は学校の中では尊敬されるだろう。しかし学生運動の限界はそれまでだ。ヤンキーの武勇伝となんら変わりない。井の中の蛙、これが学生運動の正体だ。
それでも関谷純は学生運動に夢中になり、青春の炎を燃やし、燃やし尽くした。関谷純は教師との対立で、5日間という文化祭の期間を戦果として得た。きっと悔いはなかったのだろう、と折木奉太郎は考えた。

「この旅楽しいわ。きっと10年後、この旅を惜しまない」姉の手紙にはそう書かれていた。
「確かに、10年後の私は気にしないのかも知れません。でもいま感じた私の気持ち、それが将来どうでもよくなっているかもなんて……今は思いたくないんです。私が生きているのは今なんです」千反田えるは自分の思いをこう捉えている。
関谷純も満足行くまで戦った。きっと惜しんではいないはず。

3449ed34.jpegしかし現実は違った。関谷純の青春時代は薔薇色ではなかった。
校長の独断で決められた文化祭縮小。それに対抗して組織された反対運動。そのリーダーに押しつけられた関谷純。実際の運営は別の人がやっていて、関谷純の役割はもしも何かしらの問題が起きた時の生け贄。
反対運動の情熱は激しく燃え上がり、文字通りとある学生が格技場に火を付けてしまった。暴れ回った学生の責任を取って退学を申し渡された関谷純。結果として5日間の文化祭を成果として手に入れたが、それは関谷純が関わって得たものではなかった。
体制である犬に食らいつかれた関谷純。助けを呼ぼうと振り返るが、そこにいた兎たちはみんな知らない顔をして背を向け、目をそらしていた。兎たちは関谷純という犠牲など構わずに、身勝手に文化祭を謳歌していた。犠牲の弔いとして“カンヤ祭”という名前だけ残したが、それは欺瞞でしかなかった。裏切りと身勝手、それをごまかすために用意された名前だった。これが45年前の“薔薇色の青春”の正体だ。
だから関谷純は、自分がその時に上げられなかった“叫び”を文集のタイトルに残した。自分の“叫び”がその後も残り、文化祭の背景にある呪いとして学生達の間に密かに残り続けるように。

声の上げられなかった者の叫び。すでに物語の舞台から去って行った者の叫び。あまりにも小さく、誰からも気付いてもらえなかった悲鳴。叫び声すら上げられなかった、弱き者の嘆き。ある意味の死者。折木奉太郎は、そこに残存した無念を掬い上げ、弔う。

25a22695.jpeg第2部『愚者のエンドロール』篇では本郷真由が見えざる者として“叫び”を上げる。
第8話『試写会に行こう!』で古典部一同は入須冬美から依頼を受ける。途中まで作られたビデオ映画。仮称は『ミステリー』。その前半部分、謎の提示だけが作られ、解決篇がまだ未完成だった。脚本を一任された本郷真由が病気で倒れたため、解決篇がどう展開するのか、犯人が誰だったのか、わからないままだった。それを予想して欲しい、というのが入須冬美の依頼内容だった。
折木奉太郎は入須冬美の依頼通りに映画に決着を付け、『万人の死角』というタイトルを与える。

しかしその後、映画に隠された真実に気付く。本郷真由が映画に託した思いは、折木奉太郎が考えたものと全く違っていた。
そもそも脚本を担当した本郷真由は、自分から立候補したわけではない。文化祭に参加したい、という運動部系の人達の熱気に押されて、やむなく“押しつけられた”役目だった。クラスの多数決で映画は「ミステリー」と決まったが、本郷真由は人が死ぬような話なんて書けるタイプではない。しかし気の弱かった本郷真由は、脚本担当を断ることができず、クラスの多数決を否定することもできず、仕事を引き受けて……いや“押しつけられて”しまったのだ。
それでようやくできた前半部分だけの脚本で撮影が始まるが、できあがった映像は本郷真由の意図とはまったく違うものだった。死ぬはずのなかった海藤武雄。本郷真由はほんの少し流血する程度で済ますつもりだった。それが優しい本郷真由が書ける限界だった。
しかしクラスの一同はその場のノリで、あるいは撮影に熱中していくうちに暴走していく。死ぬはずのなかった海藤武雄は死亡、しかも腕が切断されるという凄まじい状態で。
ac3d54c7.jpeg……脚本はできあがっていたのだ。できあがっていたが、クラスの全員が勝手に作ってしまった前半部分とまるで違う内容だった。前半部分を撮影し直すほどの余裕はなく、それに本郷真由はクラスの決定に反して、人の死なないミステリーを書こうとしていたのだ。
状況に隠されたキーワードは、第1部『氷菓』篇と一致する。押しつけられ、回りの暴走の責任を取らされる役。関谷純も本郷真由も、同じ場所に立っていた。
事態に気付いた入須冬美は、本郷真由は病気だ、ということにして皆の目から遠ざけてしまう。その上で、映画に別の結末を付け替えてしまった。
折木奉太郎が見つけ出したのは、映画の中に込められた本郷真由のささやかな“叫び”だった。叫び声を上げたかったけど、気が弱かったために誰にも届かなかった声。やはり本郷真由は、物語の舞台から去り、戻ってくることのない、ある種の死者であった。



 8、薔薇色の高校生活

『氷菓』は折木奉太郎という少年の成長の物語である。感情の色を失っていた少年の、人格を取り戻していく過程の、そして冒頭に掲げられた「薔薇色」を得るまでの物語である。

もう一度第1話の冒頭の台詞に戻ってみよう。
「高校生活をいえば薔薇色。薔薇色といえば高校生活。そう言われるのが当たり前なくらい、高校生活はいつも薔薇色の扱いだよな。さりとて、全ての高校生が薔薇色を望んでいるわけではないと俺は思うんだが。例えば勉学にも、スポーツにも、色恋沙汰にも興味を示さない人間というのもいるんじゃないのか。いわゆる灰色を好む生徒というのもいるんじゃないのか。ま、それってずいぶん寂しい生き方だと思うがな。」
折木奉太郎はこの場面で、自分について語ったわけではない。そういうものもあるんじゃないか、という話をしただけだ。しかし客観的に見ると折木奉太郎は灰色。特に夢中になるものはない。平凡な学生が通るであろう青春に興味を持てない。感受性に欠陥を持った少年、それが折木奉太郎だった。

第2話『名誉ある古典部の活動』で“愛なき愛読書”の謎を解いてみんなで大騒ぎしている中、折木奉太郎だけがぽつんと灰色をまとっている。奉太郎は疎外感すら感じていた。
千反田えるの依頼に応じて、折木奉太郎は45年前、関谷純に何が起きたかを読み解こうとする。その帰り道――。

8ec06c24.jpeg「いい加減灰色にも飽きたからな。千反田ときたら、エネルギー効率が悪いことこのうえない。部長職、文集作り、試験……。そして過去の謎解き。よく疲れないもんだ。お前も伊原もだ。無駄な多いやり方をしているよ、お前らは」
そこは見渡す限りの田んぼ。あぜ道の途上で止まって、里志と対話する。降っていた雨は止みかけて、光が差し込もうとしていた。
「ま、そうかもね」
里志にしては珍しく感情を込めない言い方だった。
奉太郎は、ぽつりぽつりと言葉を続ける。
「でもな……隣の芝生は青く見えるもんだ。お前らを見ていると、たまに落ち着かなくなる。俺は落ち着きたい。だが、それでも俺は何も面白いと思えない。だからせめて……その、何だ。推理でもして一枚噛みたかったのさ。お前らのやり方にな」
見上げると、一羽のカラスが飛び去っていくのが見えた。まだ灰色に影を落としている山なみの向こうで小さくなっていくのが見えた。
「何か言えよ」
何も言わない里志を、ちらと振り向く。
「ホータローは……ホータローは薔薇色が羨ましかったのかい」
里志は雨合羽のフードを深く被っていた。光が差し始めていたから、里志の顔に暗い影が落ちていた。
「……かもな」
奉太郎は自転車を進ませる。

薔薇色のシンボルである千反田える。何事にも好奇心を示し、熱心に物事にぶち当たろうとする千反田える。その千反田えるが持っているエネルギーに逆らえず飲み込まれてしまった折木奉太郎。
もう一人の薔薇色のシンボル折木供恵も同じだった。「10年後、私はこの旅を惜しまない」と手紙にははっきり書かれていた。
だから関谷純もきっと薔薇色だったのだろう、と折木奉太郎は考えていた。結果は退学だったが、青春の炎を全力で燃やしきった上での退学。だから惜しむなんてことはなかっただろう……。
しかし実際は違っていた。関谷純は生け贄だったのだ。無理やり責任を押しつけられ、了解しない退学を突きつけられ、しかし弱くて叫び声すら上げられず学校を、青春時代の舞台から去って行った。
きっとそこに薔薇色が隠れているに違いない、そう思って探し当てた関谷純は、灰色――それも限りなく黒に近い灰色だった。折木奉太郎は、ここで本当の意味での灰色を知ることになる。探し当てたのは、関谷純という人物が密かに込めた“感情”だった。

d9c93fbb.jpeg千反田えるはいついかなる時でも全力で当たる。不満があれば恐れもせず声を上げる。間違いがあればずばり指摘する。
第6話『大罪を犯す』で、千反田は尾道先生の間違いに怒った。尾道先生が間違えていたからだ。その後、千反田はどうして自分が怒ったのか、その理由を知りたがった。具体的にはなぜ尾道先生が間違いを犯したのか。
折木奉太郎は答えを示しながら、千反田という人物について考える。
「怒らない千反田が怒り、その理由を知りたがった。怒ることは悪いことじゃないと言いつつも、本当はいつだって怒りたくないんではないだろうか。だから千反田が理由を知りたがったのも、尾道にも3分の理があり、怒ったのは自分のミスだった、と思いたかったからじゃないだろうか。千反田えるとは、そういう奴ではないか。……いや俺は千反田の何を知っているというのか。千反田の行動を読めることはあっても、心の内まで読み切れると考えては、俺はあれだ。“大罪”を犯している。慎むべき慎むべき」
折木奉太郎は、千反田という人物について、千反田がどういう感情を持っているのか、それを知ろうと考え始める。

e1e9ad08.jpegその後第8話『試写会へ行こう!』で折木奉太郎は、入須冬美からビデオ映画の結末を考える依頼を引き受ける。
いまいち乗り気ではなかった折木奉太郎だったが、第10話『万人の死角』で入須冬美から諭される。
「最初から君が目当てだった。古典部などではなく、折木君、私は君がこれまでの一件で君自身の技術を証明したと考える。君は、特別よ。……君は、トクベツよ」
82ca9dd1.jpeg「特別」この言葉が与えられた瞬間、画面にはささやかに薔薇の花びらが散り、さらにカメラがイマジナリィラインを越える。これまでの灰色の折木奉太郎ではなく、薔薇色の折木奉太郎に次元が移り変わったからだ。
しかし折木奉太郎は躊躇する。
「俺は特別なのか。俺は俺自身を、本当に正しく見積もっているのか。信じて、良いのだろうか」
そう考えながら見詰めるグラスの中の自分自身はゆらゆら揺れていた。

こうして、折木奉太郎の薔薇色生活が始まった。第10話は画面がやけに明るい。シリーズ全体を通しても、画面がもっとも明るく作られている。折木奉太郎が薔薇色の高校生の生活に入ったからだ。
しかしそうして解いたビデオ映画の真実は、薔薇色ではなかった。秘められていたのは本郷真由という人物が残した“叫び”。入須冬美から与えられた“薔薇色”はまがい物だった。騙されていたのだ。
dc332bcb.jpeg第11話『愚者のエンドロール』で千反田えるに諭された後、折木奉太郎は自分自身が移る川面を見詰める。そこには、はっきりと自分の姿が映っていた。入須冬美のまやかしではなく、真実に目を向け始めたからだ。
折木奉太郎は、謎をただの文章問題としか考えていなかった。そこに込められている“人間の感情”を何も知ろうとしなかった。謎を解こうと思えば簡単にできる。しかし大切なのは、そこに込められた“人間の感情”。そういう結末を選んでしまった“人間の感情”。折木奉太郎は、ようやく謎の向こうに隠された“人間の感情”を意識するようになる。

11,5話『持つべきものは』。入須に弄ばれ落ち込んでいる折木奉太郎に、千反田えるは強く言う。
「折木さんは特別ですよ! 私たちにとって! 福部さんも、摩耶花さんも特別です。私が関わった方は、私にとって皆さん特別です」
「お前の主観の話はいい。俺は一般論として……」
奉太郎は話を打ち切ろうと、千反田から目をそらす。
「主観じゃ駄目ですか! 回りと比べて、普通とか特別とか、そんなこと気にしなくたっていいじゃないですか。誰か一人でもいい。特別と思ってくれる人がいれば、私はそれで充分だと思うんです」
灰色に沈んでいた折木奉太郎の精神は、再び回復し始める。

第1話から順番に映像を見ていけば気付くが、『氷菓』の画面は次第に次第に明るくなっている。第1話の暗いトーンを持った画面。文集氷菓の一件を通して次第に明るさを取り戻していき、画面の明るさは10話で一度ピークを迎える。
文化祭はハレの場所だから明るく描かれるのは当然として、その後のエピソードは比較的明るい画面で描かれるようになった。決して、撮影の時間が足りずフィルターをかける余裕がなかった、とかそういう理由ではないだろう。折木奉太郎という人物の世界に対する印象の変化を、画面で表現した結果だと考えられる。

82bc4f38.jpeg第18話『連邦は晴れているか』はアニメオリジナルのエピソードだ。中学時代にいたという小木正清。校舎の頭上を飛んでいくヘリコプターを見て、ふと折木奉太郎は「小木はヘリが好きだったな」と回想する。
しかしすぐに疑問にぶち当たる。「小木は本当にヘリが好きだったのだろうか?」。わずかなヒントを元に図書館へ調べに行くと、真相が出てきた。小木はヘリが好きだったのではない。あの日、山で遭難者が出ていて、救出のヘリが出るかどうかを気にしていたのだ。
折木奉太郎は反省する。そんな小木の気持ちも斟酌せず「小木はヘリ好きだったな」なんて言ってはならない、と。
「それは無神経ってことさ。(中略)人の気持ちも知らないでって感じだ」
謎解きは得意でも感情の読めない折木奉太郎が、真っ先に小木の心象を探ろうとしたのだ。
f937bffd.jpegそんな折木奉太郎の気持ちに、千反田えるは言葉にできない感情を持ち始める。
「折木さん、それってとても……うまく言えません」
しかし千反田自身、自分が何を思ったのか、どういう感情を持ったのか言葉にできなかった。
千反田えるは折木奉太郎を変えた。そして折木奉太郎は、千反田えるを変えようとしている。しかしその答えは保留され、別の機会のお預けとなった。

それでも、折木奉太郎に対する千反田えるの態度はにわかに変化があった。
b765e2d7.jpeg第19話『心当たりのある者は』で千反田はいつものように折木奉太郎の側へ行くが、ふと我に返って恥ずかしそうに頬を染める。その以前の千反田えるは同じようなことをしても気にも留めなかったはずだ。
第20話『あきましておめでとう』では折木奉太郎に着物を見せびらかしたい、という理由で初詣に誘う。
e6a49ecc.jpeg第21話『手作りチョコレート事件』では千反田はチョコレートを送ることについて、折木にこう言う。
「折木さん。その、今日はバレンタインですが、私の家では本当に親しい方にはお歳暮やお中元をお送りしないことにしているんです。ですので、バレンタインも、あの……」
千反田は恥ずかしそうに声を潜めてしまう。
それを聞いた折木奉太郎は動揺する。「それって、つまり……どうなんだ?」奉太郎はどっちの側に受け取るべきなのか、判断を保留する。
355052f6.jpeg同じ第21話では、真相を明かした折木が里志を掴み、「もし冗談なんて言ったら。殴るしかないだろうな。千反田の分と伊原の分。グーで」と詰め寄る。折木奉太郎は、他人のために憤慨して、問い詰めたのだ。だが福部里志から理由を聞かされたその後、「すまん。お前のこと何もわかってなかった。と言うべき何だろうが、まあ言えないな」と心の中で反省する。
再び千反田の話に戻ろう。第22話『遠回りする雛』では何もない田舎の道を2人きりで歩きながら、千反田は「紹介したかった」と語る。
5a1321ac.jpeg「見てください、折木さん。ここが私の場所です。水と土しかありません。人もだんだん老いて疲れてきています。私はここを、最高に美しい場所だとは思いません。可能性に満ちているとも思っていません。でも、折木さんに紹介したかったんです」
それは千反田えるという人物が抱えている背景の全部。それを折木奉太郎に知って欲しい、と千反田えるは考えたのだ。

『氷菓』は折木奉太郎の成長物語だ。感情を持たない少年が、いかに感情を持つか。灰色の少年がいかに薔薇色に変わっていくか。その途上で薔薇色と思っていた関谷純の過去が薔薇色なんてものではないと知り、入須冬美から薔薇色を与えてもらったと思ったそれは利用されていただけだったと知る。
第1話の冒頭で折木奉太郎が考えていた「薔薇色」は間違えていなかったが正しくもなかった。学生運動みたいに大騒ぎして情熱を燃やし尽くすのが必ずしも薔薇色ではない。他人から与えられる薔薇色も違う。そういういかにも誰から見てもそれだという薔薇色ではなく、内面的なところからごくごく普通に出てくる感情を得ること、感じること、これを自身のものにすること。第1話の折木奉太郎は何も感じない少年だった。だが第21話では誰かのために感情的になっている。感動のない少年がごく普通で平均的なパッションを獲得する。千反田に対するかすかな恋愛感情も、感情を獲得する上で重要なファクターである。感情を得て誰か他人の考えや行動に介在する、その物語の中に、恋愛は描くべきモチーフであった。
e7d18d84.jpegいかにもな情熱を獲得する物語ではなく、ごくごく普通の少年としての感性を獲得する。それこそが、実は「薔薇色」の本当の姿だった。
しかし、折木奉太郎は最後の最後まで保留する。
「ところで、お前が諦めた経営的戦略眼についてだが……俺が治めるというのはどうだ?」
第22話で折木奉太郎はこういう言葉を考えた。しかしその言葉を発することはなかった。その言葉が意味すること――千反田えるの人生を引き受けるということだ。
折木奉太郎は第1話でどうして千反田えるを拒絶しなかったのか、と問われて「保留」という言葉を与えられる。第22話でも折木奉太郎は再び「保留」した。折木奉太郎が保留ではなく「答え」を出すのは、まだもう少し先の物語だろう。



 9、天才と凡人/期待

『氷菓』には“叫び”というモチーフ以外に、もう一つ重要なモチーフが存在する。それが“期待”だ。『氷菓』は常にこの2つの軸を交差させながら、進行していく。

最初に期待、いや“才能”がテーマになったのは第8話『試写会に行こう!』だ。
学校へ向かう折木奉太郎と福部里志。ふと校舎を見ると、水泳部の決勝戦進出の大きな垂れ幕がかけられようとしていた。
1fabcffd.jpeg「へえ、決勝進出だってさ。すごいよね。ああいうのを見ると、僕にも何か才能が、とか考えちゃうけど、どうも福部里志には天賦の才はなさそうだ。大器晩成に賭けたいところだけど、望み薄だね」
福部里志はいつもの軽々しさで話を始める。
さらに里志は続ける。
「普通の人生に魅力を感じるのかい? ホータローならそうかもね。でも果たしてホータローにそれが送れるかな?」
「どういう意味だ」
折木はからかわれているような気がして足を止める。
「僕は福部里志に才能がないのを知っている。でも折木奉太郎までがそうなのかはまだ保留したいところだよ」
ここでは福部里志はあくまでも「保留したい」と言っている。しかし里志は答えを概ね見つけていたのだ。

4a2439ca.jpeg第10話で折木奉太郎はこう尋ねる。
「里志、お前はお前にしかできないことがあると思うか?」
「ないね」
里志は即答だった。
「言わなかったっけ。僕には才能がないんだって。例えば、僕はシャーロッキアンに憧れている。でも、僕にはそれにはなれないんだ。僕には深遠なる知識の迷宮に、とことん分け入ってやろうという気概が決定的に欠けている。もし摩耶花がホームズに興味を傾けたら、保証して良い、三ヶ月で僕は抜かれるね。色んなジャンルの玄関先をちょっと覗いて、パンフレットにスタンプを押して回る。それが僕にできる精々のことさ。第1人者にはなれないよ」
さらに里志は去り際にこう言う。
「シャーロッキアンよりも心惹かれるものはいくらでもあるさ。それにしても……羨ましい限りだね」

自分に才能があるかないか。それを確かめる方法はたった1つだ。充分に自分を試すことだ。これしかない。高校生になると、大抵は自分の身の程を理解するようになる。自分は天才か凡人か。小学生には難しい問いかも知れないが、高校生にとっては容易な答えだ。ないものはない。あるものはある。それだけだ。
よく「天才などいない。すべては努力だ」という言葉を耳にするが、それは言い訳に過ぎない。「才能のない自分でも、努力さえすれば」と結論を出すのを先延ばししているだけだ。充分すぎるくらいの努力をしても、いや努力したからこそ間違いなく見えてくるものがあるだろう。「自分には才能がない」と。才能がない、という結論は、努力した者にしか見えない結論であり、その先に行ったものが天才と呼ばれるのだ。それでも認められない者は、単に現実から逃げているだけだ。

そして「才能なき者」がどれだけ「情熱」を燃やしたところで、結果はたかが知れている。第8話『試写会へ行こう!』で入須冬美がはっきり口にする。
「《技術》がない者がどんなに情熱を注いでも結果は知れたもの」

10話『万人の死角』、“折木奉太郎には《技術》がある”と判断した入須冬美は折木奉太郎に語る。
bce82826.jpeg「では一つ話をしよう。座興と思って聞いて欲しい。とある運動部の補欠がいた。補欠はレギュラーになろうと、極めて激しい努力をしたが、レギュラーにはなれなかった。そのクラブにはその補欠よりもよっぽど有能な人材が揃っていたから。その中でも天性の才能の持ち主がいた。もちろん補欠の技術とは天と地の開きがあった。彼女はある大会で非常に優れた活躍をし、MVPにも選ばれた。インタビューアが彼女に聞いた。大活躍でしたね、秘訣は何ですか、と。彼女はこう答えた。――ただ運がよかっただけです。この答えは、その補欠にはあまりにも辛辣に響いたと思うけど、どう?」
これが現実だ。同じ努力しても、才能という基本的要素がなければ結果が出ることはない。天才の1の努力は、凡人の100の努力に匹敵する。ピカソは13歳で美術大学に入り、15歳でアカデミズムから全てを学び、自分で新しいアートの形を探すしかないという問題にぶち当たってしまった。誰しもそういうわけにはいかない。努力一つでピカソになれるのなら、苦労はない。
「努力さえすれば自分でも」なんて根拠のない言葉をふりかざす人間は、まだ充分にやりきっていないのだ。

29d468b5.jpeg第3部である『クドリャフカの順番』。十文字事件が起き、福部里志は犯人逮捕に躍起になる。手の届かない月に手を伸ばしながら、1人で考える。
「奉太郎は変わった。いや、真価を発揮した。千反田さんに出会うことで僕がこよなく愛する、意外性の秘めた人間として。果たしてそれを、僕はただ愉快だ、と思っているだろうか。容疑者は1000人以上。この中から推理で犯人を導き出すなんて、どんな人間でも不可能だ。だとしたらできるのは現行犯逮捕。ホータロー向きじゃないこの事件の真相を、僕の手で解き明かす。ホータロー、十文字は僕が捕まえてみせる」
福部里志は、まだ諦めていなかった。自分には可能性がある……はずだ、と。だから可能性に賭けようとした。十文字事件の犯人を捕まえて、自分で自分に証明しようとした。
しかし、福部里志は敗北した。

第16話『最後の標的』で、折木奉太郎は犯人の目星をつけた。里志は、その事実に愕然とした。
efcaa189.jpeg「どっちでもない? 容疑者は1000人以上だよ。それなのに、繋がりもミスも見つけず、犯人を特定しようってのかい?」
「まあ、そうだな」
「どうやってさ!」
里志は動揺の声を上げて飛びつく。あれだけ学校中を駆けずり回っても怪盗十文字を捕まえられなかったのに。多くの探偵志願者が怪盗十文字を追いかけたのに誰も捕まえられなかったのに、折木奉太郎は地学準備室から一歩も出ず、答えを導き出したという。
以来里志は、「期待」という言葉を多用する。
「自分に自信がある時は、期待なんて言葉を出しちゃいけない。期待ってのは、諦めから出る言葉なんだよ。そうせざるを得ない、どうしようもなさがないと、そらぞらしい。期待っていうのは例えば……」
ここで里志はそこで見た真実を回想する。折木奉太郎と田名辺治朗の密談。里志はそこで決定的な敗北を突きつけられたのだ。

もう1人、才能のない自分に失望する者がいる。漫画研究部の河内亜也子だ。河内亜也子には1年前、仲の良い友人がいた。安城春菜だ。『氷菓』に登場しない、第3の人物である。
河内と安城は友達同士で、漫画の話で盛り上がって、今度一つ書かないか、という話になった。安城春菜は漫画好きでも漫画を書いたことがあるわけではない。河内もそんな大したものができあがるとは思っていなかった。しかしできあがったのは、傑作だった。
dab870a6.jpeg「あんた読めばわかる。そう言ったよね。そう、わかるよ。わかっちゃうんだ。でも、ほら……そういうのって認めたくないでしょ。あんたならどうよ? あんまり漫画読まないねって思ってた友達がさ、初めての原作でさ、それを書いたとしたらさ……ね? 洒落にならないと思うでしょ? だからそれは押し入れの奥。一番奥の箱の中。見ないことにして、ついでに名作なんてどこにもないことにしてたのにね。つくづく巡り合わせだね」
河内亜也子は打ちのめされたのだ。才能というものに。河内自身漫画描きで、伊原摩耶花によればそれなりに描けるほうだという。充分に努力もしてきて、いくつも作品を書いてきたのだろう。しかし、天才が現れ、打ちのめされてしまった。自暴自棄になった河内が誰構わず当たり散らすようになったのは、これが原因だろう。

才能のない者は、才能ある者から打ちのめされるしかない。その上で、「期待」するしかない。それがせめての慰めだから。
第3部『クドリャフカの順番』に込められた“叫び”とは、才能なき者のルサンチマンである。福部里志や河内亜也子、それから田名辺治朗。そういった才能なき者たちの嘆きが、諦めの集まりが十文字事件を起こした。才能ある者に伝えたい言葉があったから。
「クドリャフカ」……実験でロケットに乗せられて、帰ってこられなかった犬の名前。“非業の死”というのは福部里志の解釈だ。この物語は、打ち上げられ、帰ることのなかった者達が残された人に送ったメッセージだ。安城春菜はそのシンボルだったのだろう。

第17話『クドリャフカの順番』で、田名辺治朗は語る。
「折木君。君は陸山が『クドリャフカの順番』の原作を紛失したから、僕がこういう事件を起こしたと言ったね」
「あくまで仮定です。先輩の動機まで知りようがありませんから」
「まあ無理もない。僕の気持ちがわかるのは、たぶん安城さんだけだ」
ずっと平常を保っていた田名辺の言葉は、表情は次第に崩れ始める。陸山会長にあてた暗号だったけど、伝わらなかった。
「だったらなぜ?」
折木は問う。
19ad0211.jpeg「ムネは、陸山は『夕べには骸に』を仕上げて以来、一度もペンを握っていないんだ。安城さんも天才的だけど、ムネがあれほど書けるとは知らなかった。下手糞な僕と、比べものにならない。原作はちゃんとあるんだ! なくしてなんかない! あいつがその気にさえなれば、『夕べには骸に』を越える話になる筈なんだ! けど、ムネにとって漫画描きはあの時限りの遊びだったんだ。勿体ないだろ? 惜しいと思うだろ? なのにムネは描こうとしない。あいつが一言やるぞと言えば、僕は何でもするつもりでいた。ムネに聞くのが怖かった。メッセージに気付いていないなんて、信じたくなかった。……絶望的な差からは“期待”が生まれる。僕はずっと期待していた」
田名辺は訥々と静かに感情を爆発させていく。十文字事件を暴いた時でさえ見せなかった、感情と本心がそこに現れていた。
「なら、あなたが本当に伝えたかったことはこうですか。「陸山、お前はクドリャフカの順番を読んだのか」」
その手前の場面で、折木奉太郎は「クドリャフカの順番を紛失した」という回答を示したが、これも間違えではなかった。だが折木奉太郎は、表面的な回答のさらに向こう側に秘められた、当事者の“叫び”を探り当てる。

第17話は『氷菓』では珍しく、物語の前後が入れ替わっている。最初に十文字事件の完遂を。その次に里志が目撃した、十文字事件の真相を。それから文化祭閉幕の挨拶の場面fd781e73.jpeg「今年の文化祭もつつがなく終えることができました。いや変な事件もあったみたいだけど」の陸山の台詞。さらに陸山は、密かに田名辺へ「おつかれさん」の言葉を残す。これも原作にはない台詞だ。アニメ版は原作の意図を増幅させ、田名辺の失望感を強調している。
そして、田名辺の告白の場面へと物語が進む。一見バラバラに分解して見える構成。しかし感情はひと連なりで繋がっている。福部里志の敗北の場面からはじまり、その理由を。次に田名辺の敗北の場面が挿入され、告白の場面を。陸山は田名辺が犯人だと気付いていた。しかしそこに込めたメッセージは、“叫び”はその上を素通りしていた。その愕然とした思いを、折木との対話の場面をやり直してまで言葉にして込めた。
文化祭に集まったおよそ1000人の人達は敗北した。誰も十文字事件を解くことはできなかった。勝者はたった2人、折木奉太郎と陸山宗芳だけだった。凡人にできることは、ただ天才達に“期待”するだけだった。




薔薇色。
叫び。
期待。
『氷菓』は3つの軸を交差させながらゆっくり物語を進行させていく。映像は間違いなくシリーズアニメ史における最高のクオリティ。ストーリーも一見すると地味で大きな感情のうねりもないように見えるが、シーンの構成も台詞の使い方も合理的で、いずれも物語の骨格に作用してあまりにも見事なクライマックスを作り上げている。後世に残すべき最高のアニメーションとなった。
しかしながら、『氷菓』はあまり充分に議論され、批評されていないのではないか、と思うようになった。色んな人の意見を聞いていると、「絵は良いけど話は駄目」というところで一致している。
話は駄目? いったい何を見ているんだ? どうしてここまであからさまなメッセージを読み落としているんだ。
これが、私が『氷菓』批評を書こうと思った切っ掛けであった。『氷菓』という物語の中に込められた“叫び”を明らかなものにして、公開すべきだと考えたからだ。
こういった解説を、作り手自身が行うことは禁じられている。解説で1から10まで全部できてしまうのなら、あそこまで手間暇かけて映像にする意味がないからだ。「作家は作品で語れ」この信条を失った時点で、作品からパッションは失われる。
もっとも、こういった解説は才能なき者がやると決まっている。私のような凡人は、本当の芸術を作る天才に“期待”するしかないのだ。それが解説者の宿命であり、同時に命題なのだろう。
解説を書きながら、私は密かな“叫び”をその中に込める。





 

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■2013/02/23 (Sat)
テレビ放送第1話の解説を読む

  1、灰色の少年

ba62a335.jpeg「高校生活といえば薔薇色。薔薇色といえば高校生活。そう言われるのが当たり前なくらい、高校生活はいつも薔薇色の扱いだよな。さりとて、全ての高校生が薔薇色を望んでいるわけではないと、俺は思うんだが。例えば勉学にも、スポーツにも、色恋沙汰にも興味を示さない人間というのもいるんじゃないか。いわゆる灰色を好む生徒というのもいるんじゃないか。まっ、それってずいぶん寂しい生き方だと思うがな……」

折木奉太郎は別に議論をはじめようとしたわけでもなく、遠大な独り言を途方もなく呟いているのではなく、ただその時なんとなく浮かんだ思いを、福部里志相手にゆるくぶつけているだけである。
福部里志は奉太郎の話を愉快そうに受け止める。
「ホータローに自虐趣味があったとは知らなかったね。勉強にもスポーツにも色恋沙汰にも後ろ向き。常に灰色の人間。それって奉太郎のことだろ」
里志の茶化すような言葉に、奉太郎が反発する。奉太郎は「灰色の高校生活」を話題にしたものの、自身について語ったつもりはなかった。折木奉太郎は自身の信条を、すでに決めていたからだ。即ち――、

「やらなくてもいいことはやらない。やらなければならないことは手短に」

省エネ。
折木奉太郎の体内に情熱や情念といった感性が欠けていた。だからと言って折木奉太郎は何かに打ち込んでいる人や、何かに夢中になって取り組む行為そのものを軽んじるつもりはなかった。ただ、自分がその当事者になれないというだけ。客観的に指摘すれば、それはまさに灰色の生き方。灰色の影の中に人間としての骨格が飲み込まれ、かき消されている。

e6a74312.jpeg第2話『名誉ある古典部の活動』の中で、“愛なき愛読書の”謎を解いた一同が、謎解きのストレスから解放され賑やかに打ち解け合う中で、折木奉太郎はたった一人取り残された感覚に捕らわれていた。薔薇色に輝く周囲に対して、自分だけが暗澹と沈んでいる。そこにいる皆と感情を共有できない。
「折木どう? 問題解いて気分はスッキリってところかしら」
やや皮肉混じりな伊原摩耶花の問いかけに対して、折木奉太郎は「別に」と淡泊に答える。奉太郎は問題に直面している最中であっても、問題を解いた後であっても何ら感情的感慨を得ていないのだ。謎解きのストレスも、回答を見つけた瞬間の感動もない。ただ目の前に立ちふさがった“文章問題”を、「仕方ないな」とぼやきながらしぶしぶとルーチンワークのごとく解いてみせた……その程度の話に過ぎなかった。
折木奉太郎は省エネを信奉しているのではなく、結果として省エネを選ばなければならなかっただけだったのだ。

18c741f7.jpeg映像は学園ものでありながら、ひどく影が重い。校舎の中は常に深い影が落ちて、キャラクターの色彩は影の深さに飲まれかけている。窓の外の光が、影の背後でほのかに輝いている。その光は、いつも滲んだような青と緑の混色で、その表現は灰色と言うより“黄昏”だ。
『氷菓』の冒頭、文集氷菓を巡る第一部はずっとこの調子である。影が深く、時に画像の四方が感度の低いフィルムでの撮影のように像を失っている。
アニメにおける“光の表現”とは、舞台や環境を意識した光ではなく、あくまでもキャラクターに実在感を与えるための手段であった。“この光はいったいどこから来るのか”これが考慮されたケースはほとんどなく、屋内の場面であっても全体に均等に光が当てられるし、光の方向性についても凡そ無頓着である。
なぜもなく、アニメのキャラクターの正体が“人形”であるからだ。キャラクターに光が当てられる時は、舞台や環境といった要因ではなく、感情を表現する時のみである。のっぺりとした質感のキャラクターを表情豊かに見せるために、手法として光の表現があるのだ。アニメは、文楽や人形小瑠璃といった古い文化の系譜を、ほんの断片的であるがこれを受け継いで近代化したものである。
『氷菓』は光の表現において画期的とは言わないが、従来的なキャラクター表現に加えて印象深いコントラストを持った映像を作り出している。校舎の中のほの暗さや、雨に濡れるアーケード。またこの影の深さは、物語上のテーマと密接にリンクしていく。



  2、千反田える

e9d3306c.jpeg折木奉太郎は姉の供恵からの半ば脅迫的な要求によって、古典部の部室となっている地学準備室へ向かう。
まだ夜の訪れは遠い。斜めに傾いた夕日の輝きは、むしろ強さを増してまっすぐ地学準備室の窓から注がれていた。そんな輝きの中に、一人の少女が立っていた。
94554392.jpeg折木奉太郎は……灰色の折木奉太郎は、あたかも自身で輝きを放っているかのような少女を、茫然とした思いで見詰める。
「こんにちわ。あなたって古典部だったんですか。折木さん」
すると、少女が折木奉太郎に微笑みかけた。

ファム・ファタールは可憐でありながらミステリアスな妖しさを持っている。会った覚えはない。しかし少女はあたかも、ずっと前からお互いを知っていたかのような親しみで声を掛け、微笑みかけてくる。
「わかりませんか? 千反田です。千反田えるです」
正体を明かすと、千反田えるは音楽の授業で一度折木奉太郎と顔を会わせていた。千反田えるは図抜けた記憶力の持ち主だったのだ。しかしその出会いは、あたかもずっと古くからの知り合いのように運命の結びつきを予感させ、運命の糸車はただちに猛烈な勢いで折木奉太郎を絡め取っていく。

09abc2e2.jpeg「待ってください折木さん! 気になります。私、なぜ閉じ込められたんでしょう。もし閉じ込められたのでなければ、どうしてこの教室に入ることができたのでしょう。仮に何かの間違いだというなら、誰のどういう間違いでしょうか? ぜひ折木さんも考えてください。……折木さん……私、気になります!」

千反田えるは帰ろうとした折木奉太郎の手を掴み、早瀬のごとき勢いでまくし立てていく。折木奉太郎は千反田えるの強すぎる目の輝きを逸らすことができず、艶やかに伸びていく髪の毛に全身を捕まれるような気分に陥ってしまう。

「私、気になります!」

千反田えるは薔薇色をシンボルだった。その輝きは強烈で、他人のパーソナルエリアなど頓着せず飛び込んで、そこを照らして覗き込もうとする。単に、千反田えるは年齢の割に、清楚な外面の割に、子供っぽいところがあり、何かしらの計算や企みがあるわけではなく、単に子供の純真さそのままの無鉄砲さで飛び込んできただけだったが、感受性に欠陥のある少年の純情には子供の輝きをそのまま持つ千反田は強烈だった。
折木奉太郎は千反田えるを拒絶できず、千反田えるの好奇心を満足させるために手を焼くようになる。

「それはホータロー好みじゃない。千反田さんが来た時、どうして単に知らんと言わなかったんだい。そこが今日のホータローの根本的な間違いだよ。実際、ホータローはずっとそうしてきたじゃないか」

商店街のアーケードの下を通しながら、福部里志が今日の出来事を話していた。アーケードを打つ雨の音が、ゆるいさざ波のように背後に散っていく。福部里志は次から次へと、それこそ空から降る雨のように切れ目なく喋り続けている。

89bfac14.jpeg「不慣れな奴ほど奇をてらう! 今日のホータローがまさしくそれだよ。千反田さんがいるって状況に、まだぜんぜん慣れていない。だからあんな回りくどいことをするのさ。ホータローは今日、千反田さんを拒絶したつもりかも知れない。でもね……」
「拒絶したかったわけじゃない!」

折木奉太郎は思わず憤慨の声を上げる。
福部里志の言うとおりだ。折木奉太郎は千反田えるを拒絶してしまえばよかった。「そんなもの知らん」と言ってほっとけばよかった。そうすれば昨日までそうだったように省エネの信条を守り続けることができた。しかし折木奉太郎はそうはしなかった。むしろ積極的に、千反田えるを受け入れる準備をした。
なぜだったのか。
福部里志は、もったいつけた言い回しの連続で、折木奉太郎の心情を周囲から絡め取っていこうとする。だがずばりな真相だけは口にしないでいる。それをあえて露骨で無粋に翻訳するとこうなるだろう。

「惚れたんだろ?」

しかし福部は決定的な一言は言わず、まだ自身の心情を把握しきれず動揺を抱える腐れ縁の友人を宥めるように付け加えた。

「もちろんそうさ。現状に対するただの保留だね」
「保留? そうか、保留か」

「保留」という言葉を聞かされて、折木奉太郎はほっと落ち着く。
どうして千反田えるを拒絶しなかったのか、自分でもわからない。拒絶しようと思えばいつでもできたけど、それだけがどうしてもできない。まだ感情の色を持たない折木は、千反田えるという他者を自身の体内でどう定めていいかわからず、ただ動揺のさざ波のようなものを感じていた。
その動揺の正体……移ろいかけている感情の正体がわからず、しかし正体を見極めるのを「保留」してもいい。そう言葉を掛けられて、折木奉太郎は安心して現状の維持に努めるのである。



 3、死体のないミステリー

8dc4c900.jpeg第3話『事情ある古典部の末裔』の冒頭。折木奉太郎は休日に千反田えるから電話で呼び出される。待ち合わせの場所は喫茶店パイナップルサンド。遅れてやってきた千反田える……顔には汗を浮かべ、はあはあと肩を揺らしている。急いでやってきたが、それでも遅刻してしまった、といったところだろう。
千反田えるが折木奉太郎を呼び出した理由。それは――、

「私には関谷純という叔父がいたのですが、私が、その叔父から何を聞いたのか、思い出させて欲しいんです」

詳しい事情を話すと、叔父は7年前、インドへ行きそのまま行方不明になっている。失踪の期間が7年を過ぎると、法的に死亡の扱いになる。その“法的に死亡扱い”になる前に、千反田えるは幼い頃、叔父に何を聞いたのか思い出したいという。それが千反田えるにとって叔父の死を受け入れるということであり、この世を去る叔父への手向けだと考えていた。

e619237d.jpeg千反田えるの叔父、関谷純は死亡したわけではない。あくまでも失踪である。そこに死体が現れたわけではない。『愚者のエンドロール』篇では、劇中劇で殺された海藤武雄が生きた姿で登場させるなど、死んでいないことがわざわざアピールされている。
これはミステリーとしてそれなりに特殊な事例だ。というのも標準的なミステリーといえば、死体が出現し、それから物語が始まる。ところが『氷菓』には死体が出てこない。死体を読み解く、というテーゼを欠いたまま、『氷菓』はミステリーとしての物語を始める。
Wikipedia:日常の謎
『氷菓』はミステリー、推理ものだ。ミステリーとしての形式や文脈を規律正しく踏襲して物語が進行する。登場人物の台詞はもったいつけたようにロジカルで、映像の組み立ても構図の一つ一つも謎解きを解くためのピースとして有機的な機能が与えられている。死体が登場してこないが、『氷菓』はミステリーとしての基本的な作法と約束事をきちんと守ってお話が組み立てられているのだ。
ミステリーの作法というのは、「作品中と名探偵と読者が事件を解くためのヒントを平等に与えられている」ということである。このミステリーの絶対的なルールを守った上で、『氷菓』は個々の小さな事件を取り上げていく。第1話では千反田えるが地学準備室に閉じ込められた理由を、第2話では“愛なき愛読書”の正体を、第3話では遠垣内将司が喫煙を隠そうとした事実を暴露する。小さな事件を一つ一つ解きながら、物語の螺旋はゆっくりと、関谷純の過去の解明という大きなお題目へと接近し、答えに辿り着く。関谷純の過去を解明するヒントは、それまでのエピソードの中で順当に提示された。ミステリーの基本的ルールに従って、探偵と読者の間に平等なヒントが与えられ、このヒントを手探りに結末を推理することが可能なように作られていた。

『氷菓』はミステリーとしての形式を持ちながら、接地点はあくまでも日常の世界である。なぜなら「死体」が登場してこないからだ。
「死体」という物体/現象は、現代に限らずずっと古い時代から非日常の産物である。いや、生と死が病院に押し込まれ日常空間から排除されるようになってから、「死」や「死体」はより非日常の要素を深めていった。古くから死は恐れられ、忌み嫌われ、文明の歴史をある見方で解くと、いかに死体を排除し、死を遠ざけるかの過程であるとも言える。現代はその極地ともいえ、「死」という言葉を発しても、かえって状況の重さがどこか夢物語のような軽々しさしか感じなくなってしまった。
しかし、創作の世界では「死」は相変わらず最重要命題/使命である。理由をもっとも短い言葉で説明してしまうと、「創作の世界は生と死が極端な状態で凝縮した世界だから」ということになる。物語の世界がなぜあのように豊かな感情で溢れているかといえば、「生」と「死」が極端な形で織り交ぜられ、圧縮させられているからだ。人間の一生における感情の奔流を圧縮し、現実においては分散されるパッショニズムが体系立てて濃縮され、小説ならば1冊の中に、映画ならわずか2時間の中に提示するから人を感動させることができるのだ。登場人物が大袈裟なほどの感情描写を作り、現実的でない詩的な台詞を口にするのも、物語が本質的に意図する感情を代弁するためである。
創作の世界は非日常であり、そのキーはいつも「死」である。死という問題が非日常的な課題を与え、登場人物と読者を同時に動揺をさせドラマの切っ掛けを作る。
しかし『氷菓』は非日常の物語でありながら、あるいはミステリであるのに関わらず死が描かれていない。創作である限りそこに描かれるのは非日常だが、『氷菓』には死体が登場せず、描かれているのは非日常でありながら「日常」の世界である。

14ef2933.jpeg死体という非日常を描かない代わりに、『氷菓』は日常の世界という空間を、どこまでも濃密に描いてみせた。
主たる舞台である地学準備室は、やっかいなオブジェクトが大量に敷き詰められた場所だ。入り口右手には大きな地学資料棚が置かれ、その中ぎっしり詰められた道具類はきちんと配置が指定されている。さらに棚には梯子が掛けられている。左手には手前からスチールラックが置かれ、スチールラックには鉱石を入れた瓶類や箱。このスチールラックの隣には実験用テーブルが配され、テーブルの上にはケトルやセロテープやその他の筆記用具。手前にはハンガーラックが置かれている。実験用テーブルの裏手に回ると奥の棚が置かれている場所との間に空間があり、机が敷き詰められている。
4ce89134.jpegここを舞台とする場合はほとんどが対話だが、ただ対話だけではなく、アニメーターはそれぞれのさりげない動きや仕草の一つ一つを追いかけていく。お茶をすすったり、本を手にd30c7f64.jpegとってページをめくったり、そうしたごくごく日常的な所作や仕草を妥協せず描写していく。
大きな舞台である神山高校も、ある意味でどこにでもあるありふれた学校だが魅力的に描かれている。学校という客観的なコンクリートの外観だけではなく、建築を取り囲む配管や室外機といった付属物をどのカットも省略せず描かれている。
c36edf7f.jpeg学校を描写するという試みが最も極まったのは間違いなく文化祭だ。学校内部、外観を彩る張り紙、折り紙の鎖、造花、垂れ幕……等々。奥行きのどこまでも徹底的に描かれたディティールの洪水。
加茂花菖蒲園がモデルとなった豪華な千反田邸も忘れてはならない。日本建築特有の堅実な質素さと空間の広がりがうまく描けている。空間のシルエットを強調する光の感b9ec7d76.jpeg性も情緒が感じられていい。話者が切り替わる度に場所を変える試みも、映像作品として緩急をつける役割を果たすだけではなく、物語の切り替えを知らせる効果も同時に達成している。大広間、縁側、大きな舞台から一転して小さな食卓と、ロケーションの持つ魅力を見せる役割も果たしている。
54fc4eed.jpeg構図はキャラクターに接近しすぎず、単に対話だけであってもカメラは被写体に対してある程度距離を置き、キャラクターと同時に周囲の空間を捉えようとする。対話の場面であっても構図が窮屈にならず、ある程度のゆとりを持ち、周囲の空間と一体となったそこに立つ人間としての存在感が描かれている。キャラクターの首や肩の奥行きや厚みがきちんと描写できていることにも注目したい。そのキャラクターがどんな場所に立っているのか、空間的なパースペクティブが常に意識され、奥行きを持った映像が作られていた。
6b7c10a1.gifそうした空間に立つのは主要キャラクターだけではない。『氷菓』はほんの数カット、あるいは1カットしか登場しないモブの一人一人にまで命を吹き込んだ。止め絵で処理される場合があるものの、多くの場面では役割が与えられ、主要キャラクターと同じように、同じ構図の中をあたかも背景設定があるかのように演技している。モブが空間を独占して構図の主役を勝ち取ったのは、やはり文化祭のエピソードだっただろう。学校を埋め尽くす張り紙や折り紙の鎖と同じようにモブが画面を覆うディティールの一つになり、主人公たちをあたかもそこに寄り集まった群衆の一つに過ぎないと宣告するかのように埋没させてしまった。そこに発生した日常に埋没させるという演出家の狙い通りの画面に仕上がっている。
aa8685fd.jpeg空間に合わせた描写の組み合わせにも目を向けたい。文化祭の圧倒するようなモブまみれの構図はすでに述べたとおりだ。放課後の教室に何気なく残っている生徒、あるいは廊下で何気なく談笑している女性徒。バレンタインのエピソードでは、暗くなりかけた下駄箱で、密かな逢瀬をする男女も忘れがたい描写だ。
その日常空間にいるのは折木奉太郎や千反田えるだけではない。その空間にあるべき描写、あるいは日常を追求して描いている。日常の濃密さをどこまでも追いかけた『氷菓』だからこその描写であった。

『氷菓』はごく自然な風景と人間の所作を淡々と追跡した作品だ。それは翻って絵描きとしての真摯な視線を思い起こす結果となった。
商業アニメはいつしか絵画ではなく商業価値の求めたキャラクター作りに腐心し続けてきた。人間の描写はジャンル区別されたカスタマイズパーツを弄り回すだけで、アクションは自然主義的な描写ではなく様式化されたルーチンワークの中でただ繰り返しを続けるだけになった。ある意味、スケールの大きなリピート作画である。
『氷菓』が描いた愚直なまでの自然主義的な視線は、商業アニメでありながら商業アニメへのささやかなアンチテーゼとも読める。いや、結果としてアンチテーゼと読めるような精密さを獲得した作品であった。



 4、2つのイメージ

折木奉太郎は千反田えると伊原摩耶花を両手に華と伴って校舎の廊下を歩く。
「それで折木さん、どこへ行くんですか?」
「美術室だ」
折木はこれといった感情もなく答える。美術室は渡り廊下をまたいだ向こう側の校舎だ。かなり遠い。だから行きたくなかったのだ。
「そこに何が?」
千反田は好奇心の奔流を抑えず尋ねる。
「その前にまず整理だ」

e78955e1.jpeg解説を始める折木の背景に、イメージが現れる。昼休み前後の時間を表にしたタイムテーブルだ。それから台詞に合わせてタイムテーブルに書かれた文字が動き、第5限第6限第7限の文字が合わさって「授業」の文字が変わる。「授業」の文字は各クラスを示す数字を引っ張り寄せ、さらに「体育・音楽・美術・書道」の文字が追加される。
解説に合わせて文字が刻々と変化する。第2話『名誉ある古典部の活動』においては、文字のイメージで映像が作られていた。その手前の場面、女子セーラー服を着て“某”を頭につけたイメージにしても同様だ。
まだ確定したイメージが存在しない段階においては、某などは言葉の中のイメージでしかない。だから文字通り言葉が画面に現れる。頭に“某”を6b26b5eb.jpegつけたセーラー服の少女だ。解説が進んでいく内に言葉は次第に変化を見せ、複数の要素を組み合わせ、密度を高めていき、言葉だけのイメージは間もなく具体性を持っていく。動く言葉が解説と連動し、映像としての面白さだけでなく、見る側の理解をうまく高めるのが狙いだ。
そして解説が終わりに近づいた頃、階段を上って廊下を進んだ先に“答え”が現れる。折木奉太郎が解説する言葉が示す結論としての、イメージの延長である“実体”である。
a0274869.jpeg第3話『事情ある古典部の昔日』では喫煙を隠そうとした遠垣内将司がイメージに登場する。こちらではかなり具体的に遠垣内と壁新聞部の空間が登場する。なぜもなく、その場所はついさっき尋ねた場所で、言葉で仮定する必要のない場所だったからだ。そこが現実ではなく解説されている場所であることがわかるように、背景に派手なドットーンの散らした映像に変わり、異質な感じを出している。
同じく第3話冒頭の場面では、叔父について幼い頃を語る千反田の話が立体絵本として描かれる。絵本は子供の生活に密着したアイテムであり、また“語り”という場面の状況と絵本というモチーフがマッチしている。

折木奉太郎が推理する場面では様々なイメージが登場し、これが作品の個性になっているが、どうやら2つの特徴がありそうだ。
あくまでも現段階での“仮定”をイメージした画像と、具体的なモチーフを使った画像の2つだ。いずれの場合も、イメージは“事実”を明らかにするまでの一つの段階でしかない。

041edf47.jpegただ1度だけ、2つのイメージの両方が使われた事例が存在する。
第4話『栄光ある古典部の昔日』と第5話『歴史ある古典部の真実』だ。
第4話は折木奉太郎たちが千反田邸に集まり、それぞれで考えを発表する場面だ。この場面での問題は“45年前、関谷純に何が起きたのか”。折木奉太郎たちは集めた情報を手がかりに、45年前の想像し、真実を突き止めようとする。文化祭、学園運動、生徒対教師の対立……。折木たちの考えた45年前が、イメージの世界で綴られていく。そこは手がかりはあるものの、あくまでも想像の世界。通俗的な象徴であったり、奥行きのない平面的な画像だったり、イメージの中に登場してくる人達も現実的な頭身よりずっと低く、デフォルメされた姿で描かれている。高校生が考えた45年前のイメージでしかないからだ。

18409bf5.jpeg一方、第5話『歴史ある古典部の真実』で糸魚川養子が語る45年前のイメージはもっと具体的だ。現在の風景と同じくらい精密に描かれ、人物はデフォルメが排除され、空間的構造を持った建築に群がる学生達の描写は、実際のドキュメンタリーフィルムを見るような生々しさを感じさせる。また糸魚川養子が語った45年前の映像の中には代替のイメージが使われていない。
折木奉太郎が集めた資料だけで推測して見せた45年前は間違えてはいない。間違えてはないが、遠い昔を現代の子供が想像しただけのイメージでしかない。論理的な計算に基づくイメージは、現実の強烈さには決して及ばない。想像で描いたタイタニックの沈没と、実際に沈没を体験した人の話とでは、どちらも正しくともそこにある現実感という要素で決定的な差異が生まれる。生々しさが現れてくるのは、当然体験した人の話の方だ。
第4話と第5話の映像を並べると、そうした差異を表現していると言える。

10cea4f7.jpeg最後に糸魚川養子は、文集の表題である「氷菓」の意味について尋ねられた時、こう答える。
「いいえ。その名前は、退学を予感した関谷さんが珍しく無理を通して決めた名前なのよ。自分にはこれくらいしかできないって言ってね。でもごめんなさいね。意味はよくわからないの」
そう語る時の糸魚川養子は、千反田えるの視線を避けるように顔を伏せる。
c693e782.jpegこの時の画面は、まずローアングルから、そこにいる一同を排除して糸魚川養子のみを捉える。続いて、カットは糸魚川の頭をなめこんで、糸魚川が見ているものが描かれる。この2つのカットで、カメラは糸魚川の心理に入り込んでいる。そしてこの時のカメラは、水平よりはっきり傾いて、不安定な状態に示している。ダッチアングルだ。「氷菓の意味について知らない」そう語る糸魚川の心理ははっきりと動揺している、とカメラが語っているのだ。
これが語る真実は何なのか? 関谷純の姪を前にして真実を語るのを躊躇ったのか。糸魚川養子が「氷菓」の意味について知らないはずがないのだ。いや、そこに関谷純の秘めたる“本心”が有り体に示されているから躊躇ったのか。
もっとも確たる台詞として示されていないから、これは飽くまでも推理推測に過ぎないのだが。



 5、2人のヒロイン

『氷菓』の物語に彩りを与えるのは、もちろん2人のヒロイン、千反田える伊原摩耶花だ。近年の過剰気味に投入される傾向のあるアニメーションの中で、ヒロインの数はかなり少なく、まだ登場人物全体の数と関係図を照らし合わせてみても合理的な数字である。

682a08b6.jpeg千反田える。成績優秀。眉目秀麗。品性高潔。名家千反田家の跡取り娘であり、名家の看板を背負うに相応しい美貌と知性と品性を併せ持ったキャラクターだ。
千反田えるのキャラクターを特徴付ける要素は3つ。まずは大きすぎる瞳と、長い黒髪の2つ。『氷菓』のキャラクターは比較的、目は小さく描かれる。その中で千反田えるの瞳は異様と言っていいほど大きい。多くのキャラクターは、目の上端を水平ぎみに描かれるのに対して、瞳の形に合わせて思い切って丸く描かれている。瞳の内部も細かく描かれ、黒目に対して白のハイライトが2つ、さらに黒目の下にもう一つ色トレスによる塗り分け指定が作られている。この塗り分けが瞳をもう一段階奥行きのある効果を与えている。
千反田えるの瞳がもっとも輝き出すのは、好奇心に沸き立つ瞬間である。瞳の紫の部分に炭酸水のような気泡が付け加えられ、単純なべた塗りだった紫にグラデーションが生まれる。千反田えるが好奇心に駆り立てられ、まさしく目の色を変えた瞬間を、映像の中で表現している。
da5ff026.gif少し鼻の描き方について取り上げよう。鼻筋について、他のキャラは鼻の形こそは省略されて描かれているが、眉間から鼻までの流れをわりとしっかり描いている。しかし千反田えるだけはこの鼻筋の線を殆どの場合で描かれていない。千反田えるだけ描き方の様式が若干異なるのだ。
髪の毛は清純さのシンボルのような長7ec8d0aa.gifい黒髪である。千反田えるの髪の毛はかなりの誇張が加えられている。通常の状態でも水分を含んだかのようにボリュームが加えられ、その姿はあたかもカブキの連獅子ようだ。この連獅子のような髪の毛が、アクションの際には効果的な印象を生んでいる。ほんの少しの動きでもふわりふわりと釣られて動く髪の動き。当然それはリアルなアニメーションではなく誇張だ。振り向く瞬間、頭を下げる瞬間、アニメーターは動画枚数を一手間多く消費し、滑らかな髪が分解され柔らかく少女の体に絡みつく瞬間を描いている。
ad140554.jpegもう1つ、外観的なデザインと別のもう1つの要素は、仕草だ。この仕草という部分に、千反田えるというキャラクター設計の精神性が隠されているといえるだろう。何気なく頬に手を添える時の指、口を隠す時の指の動き、何かを指摘する時の指……指の動き、指の添え方に品の高さが見て取れる。千反田えるのアクションはやや大きく、大袈裟なところがあるが、指の動きがアクションの大きさを相殺させ、千反田えるを気品高い少女に留めている。
千反田えると言えば好奇心旺盛、猪突猛進の行動力である。一度好奇心を抱いたら絶対に離さない、あの異様な執着ぶり。他人のパーソナルエリアにも堂々と踏み込んで自己主張してくる無謀な行動力。しかしそこに計算はなく、品格高いお嬢様でありながら子供の感性の両方を不釣り合いに合成させ、それが個性的なキャラクターを作り上げている。
5eadc01f.jpeg千反田えるの(ある意味での)活躍を描いたエピソードと言えば第9話『古丘廃村殺人事件』。ウイスキーボンボンを食べ尽くして酩酊、いつも以上に陽気に振る舞った挙げ句、倒れ、二日酔い。
47a767ed.jpeg第12話『限りなく積まれた例のあれ』文化祭の初日、総務委員長に掛け合うために会議室に向かう千反田えるだったが、その過程で様々な出店、出し物に釣られて寄り道。やっと総務委員長の田名辺の元に辿り着くも、交渉の能力を一切持たない千反田えるはここでも直線的に突撃して勝手に撃沈。その後、地学準備室へ向かうのだが、辿り着く頃には両手一杯の記念品土産物を抱えて、という有様であった。
eca0dcad.jpeg続く第14話『ワイルド・ファイア』では入須が差し出した手にお手。入須に「ものの頼み方」をアドバイスされ壁新聞部の遠垣内相手に実践してみるが、あまりにもそのまんまな言い回しでここでも自滅。遠垣内を困惑させるだけだった。
文化祭を挟んで千反田えるの直線的な性格は完全に固定化し、また話が進む毎に順当に「変な子」へと成長していった。第1話の頃は聡明で静かな少女に思えたのだが。

もう一人のヒロインに望みを託そう。
伊原摩耶花。古典部と漫画研究部を掛け持ちする文化系でありながらかなりアクティブな少女だ。性格は少々厳しいところがあり、相手が上級生であれ思ったことはずばりと言う、曲がった51cc14e2.jpegことは嫌い、問題があれば真っ先に飛び込んでがつんと声を上げる。その時誰に対しても物怖じしない。楚々たるお嬢様である千反田えると対極にいるタイプだ。
伊原摩耶花のデザインを見てみよう。千反田えるが清純のシンボルである長い黒髪に対し、伊原摩耶花はかなり思い切ったショートだ。前髪を短くして額を大きく見せるヒロインはなかなかいない。偶然なのか、片思いをしている福部里志と相似性を感じさせる。この短い髪が揺れる様はなかなか可愛らしい。
dab03f94.jpeg体格はかなり小さく、原作の記述によれば第7話『正体見たり』に登場した善名梨絵、嘉代の中学生姉妹(アニメ版では小学生)に混じっても違和感がないくらいだという。もちろん、梨絵の妹というポジションでだ。
伊原の身長の低さはどの場面でも忘れられず特徴付けられ、まず椅子に座った時に踵が付かない。足を伸ばしてつま先を付けたり、足を伸ばしてぶらぶらさせたりしていることもある。足が地面に届いていないのだ。千反田えるとの座り姿勢を比較すると、差異が見えてくる。千反田えるは椅子に座るとき、背もたれに背中を預けない。いついかなる時でも油断なく背筋は真っ直ぐ伸びている。一方伊原はもう少し力を抜いて座り、一見するとごく普通の高校生の振る舞いだが、とにかく足が付いていない。
第3話『事情ある古典部の末裔』で遠垣内の前からあっさりと撤退を決める折木奉太郎の手を掴み、首に腕を回すが、そのとき伊原はずいぶん無理をして体を伸ばしている。下に着ているシャツが見えてしまっているくらいだ。別の場面でも、折木と対話する時は斜め45度というくらいに顔を上げている。折木奉太郎は決して身長が高い方ではないが(いつも一緒にいる福部里志が小柄)、その折木よりも頭一つ低い。11、5話『持つべきものは』で千反田に軽く持ち上げられてしまう場面もあった。
直線的で感情が率直に読み取れる伊原摩耶花はそれだけでも魅力的だが、それがより輝くのは時々見せる優しさだろう。
26779725.jpeg第10話『万人の死角』で折木を残して教室を去って行こうとする時、「でも……ごめんね、折木」と振り返る時の表情、それから声の演技。続く第12話『愚者のエンドロール』ではつい強く言いすぎたことに気付いた摩耶花が、「でも、私の方が間違ってるかもね。とにかくさ、私は面白かったわよ、あんたのあれ」と折木をフォローする時の切り替え。少し違うが第20話『あきましておめでとう』での福部里志に巫女服姿を見られて恥ずかしがる時の表情もいい。どれも忘れがたい演技だ。

最近のアニメにおいては少ないとも言えるたった2人のヒロイン。しかしその存在感は大きい。まず第1に、個性の差異だ。名家の令嬢であり楚々たる乙女である千反田える。一方小さな体でありならがいつも元気一杯の伊原摩耶花。2つのキャラクターはわかりやすく別の方向を向いている。
またヒロインのアクションにもはっきりした個性が表れている。千反田えると伊原摩耶花、この個性の差異が最初にどこに現れているかと言えば、動きの中だ。いっそ表面的な装飾の全部を剥ぎ取り、キャラクターをデッサン人形にすり替えても本質的な個性は失わないだろう。表面的なキャラクターデザインに頼らず、またテンプレート化された様式に陥らず。アニメの界隈では例えば「お嬢様キャラクターと言えば」という形式化されたテンプレートが存在するが、そういったカスタマイズパーツに頼らず、もっと本質的なところからキャラクターを創造し、造型するところに『氷菓』のキャラクターの強さがあり、さらに他にない独自的な個性がある。



 6、正体見たり

40466f0d.jpeg「ねえねえ昨日のテレビは見た?」
バスに乗り込むと、福部里志が急に切り出してきた。
「何をだ」
折木奉太郎は興味がなく頬杖を突いた。窓の外は青く色づいた草が茂っている。その一つに、テントウ虫が一匹とまっていた。
やがてバスが出発した。テントウ虫と草がずれる。テントウ虫は草ではなく、バスの窓に貼り付いていたのだ。
「幽霊はどれも枯れ尾花さ」
まだ話を続ける里志に、奉太郎はごく当たり前の結論を口にした。ちらと見ると、里志の髪の先にテントウ虫が付いていた。

テントウ虫は言うまでもなく、枯れ尾花の象徴だ。一見すると草にとまっているように見えるテントウ虫。それが実は手前のガラスに貼り付いていた。これから起きる事件をささやかに暗示した場面である。

c39a322a.jpegその日は伊原摩耶花の招待で、親戚が営む民宿へと向かっていた。建物の改装中のために客が取れないため、無料で部屋を貸してくれるという。
折木奉太郎は乗り気ではないが、千反田えるに誘われては断りようがない。ついていくことになったのだが、民宿に泊まった翌朝、千反田えると伊原摩耶花の2人が幽霊を見たという。幽霊が現れたのは別館の向かいに見える本館2階。千反田えると伊原摩耶花が寝ていた部屋が目の前に見える位置だ。真夜中、暗く沈む影の中に、首つりの影がぶらりぶらりと揺れていた、という。その部屋は、自殺者が相次いで使用禁止になった、曰く付きの部屋だった。

首つりの影の正体は、善名姉妹の妹、嘉代がつり下げた着物だった。伊原摩耶花が見た首つりの影は幻に過ぎなかった。正体見たり枯れ尾花。枯れ尾花は着物だった。

0be06dac.jpeg物語の中心で探求されたのは首つりの影の正体だったが、傍流に語られてもう一つのテーマを忘れてはならない。それは善名姉妹の間にあるものだ。
温泉へ向かう途上で、千反田はえるは折木奉太郎に、姉の供恵について聞きたがる。
「実はですね、兄弟が欲しかったんです。姉か弟。気の置けない相手がいつも側にいるなんて素敵だと思いませんか」
すでに枯れ尾花の正体を見きっている折木は「思いません」と心の中で密かに反論する。

8b55a34b.jpeg千反田えるは姉弟か姉妹に憧れていた。そんな千反田には、善名姉妹は理想の存在に見えた。仲のいい姉妹。お互いを理解して、何でも分け合え、お互いを分けることができない関係。
しかし実体は違っていた。自分のものは自分のもの、という独占欲の強い姉の梨絵。嘉代とぶつかって味噌汁をこぼした時、梨絵は「なにやってるのよ!」と嘉代を叱りつけるが、折木の目にはどちらが悪いというようには見えなかった。しかし主張の強い梨絵は嘉代の感情の上にのしかかってしまう。気の弱い嘉代は言い返せない。
着物の一件もそうだった。自分のものは自分のもの、そういう考えの梨絵から着物を貸して欲しいなんて言えるわけがない。だからこっそり借りて、今回の事件が起きた。
折木が暴いた枯れ尾花の正体は着物の影ではない。実は善名姉妹の正体だった。仲がいいように見える姉妹の、本当の間柄。それが枯れ尾花だった。美しく見えるものこそ、枯れ尾花だ。
兄弟や姉妹、そういったものの間にある葛藤を知り、千反田えるはショックを受ける。仲のいい兄弟や姉妹は、枯れ尾花に過ぎない――。
そう思ったそこに現れたのは、善名姉妹の2人。サンダルを切ってしまった嘉代をおぶってやろうとする梨絵の姿。これは原作に描かれなかった場面である。アニメ版は、枯れ尾花に過ぎない姉妹の関係に、少しの救いを与えて終わる。

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■2013/02/13 (Wed)
テレビシリーズとのリンク

映画本編の感想記事はこちら

833eedfa.jpegSCENE1 CUT1
平沢唯の部屋に貼り付けている写真がフェードインする。この写真はテレビシリーズ第2期第22話『受験!』で中野梓が作ったチョコケーキ。食べる前に撮影したらしい。撮影者は不明。(さわ子先生はいなかったはず)
SCENE1 CUT6
目覚まし時計に手を伸ばす平沢唯。リンクではないが、第1期第1話の冒頭の場面を連想させるように作られている。
劇場版冒頭のこの一連のカットの流れも第1期第1話がほぼそのままなぞられている。制服が第1期第1話と比較して、やや丸みを帯びているのに注目したい。
OPENING CUT23
場面の流れから想像して、第1期第1話。平沢唯が入部する以前、何も活動せずお茶を飲んでいた頃と想像される。


OPENING CUT24
前CUT23と同ポジション。第1期第1話とのリンク。田井中律が平沢唯の手を引いて入ってくる場面。それぞれのキャラクターのポーズが一致している。



OPENING CUT25
前CUT前々CUTと同ポジション。第1期第8話『新歓!』の最後の場面。机に置かれているのは緑茶と5種類のお餅、皿には桜が添えられている。田井中律が入部希望でやってきた中野梓に「確保~!」と飛びつく場面。同ポジ構図に収めるため、キャラクターの配置にややズレがある。
SCENE10 CUT11
唯が「後は卒業するだけか~」と感慨深げに呟く。第22話『受験!』の後であることがわかる台詞。




SCENE13 CUT9
手元のミカンを弄っている平沢唯。何気なしに親指を突っ込む。第1期DVD/ブルーレイ第3巻パッケージを意識している。第2期番外編『訪問!』でもミカンに親指を突っ込む遊びをやっている。


SCENE16 CUT20
高橋風子が「卒業式の日にクラス全員でさわ子先生に何かしたいんだけど……」と呼びかける。第2期最終回『卒業!』で寄せ書きを書いた色紙をプレゼントする場面に繋がる。
またCUT8、9で真鍋和と相談する場面が描かれている。
SCENE54 CUT109
テレビシリーズでラブクライシスが登場したのは第1期『番外編ライブハウス!』。ドラムのマキと田井中律は中学時代の友人。アニメ版のみに登場するキャラクター。



SCENE60 CUT54
大英博物館でロゼッタストーンのレプリカを覗き込む一同。ロゼッタストーンが登場したのは第2期第19話『ロミジュリ!』。演劇の中で、田井中律が演じるジュリエットのお墓を紛失し、急遽オカルト研究部からロゼッタストーンのレプリカを借りることになった。
映画『けいおん!』では後半の場面でロゼッタストーンが登場する。

767cb50b.jpegSCENE68 CUT5
いきなり飛びついてきた平沢唯に、中野梓が肘鉄を食らわす。この護身術を学んだのは第2期番外編『計画!』。平沢唯たちが3年生で夏の話。パスポートを取得したのもこのエピソード。

SCENE78 CUT2
ライブハウスのマネージャー。登場したのは第1期番外編『ライブハウス!』。さわ子の同級生。第2期第10話『先生!』で再登場する。
奥でビール缶を持っているのは河口紀美。同じくさわ子の同級生で「DEATHDEVIL」のメンバー。サイドギターを担当していた。テレビシリーズに登場したのは第2期第10話『先生!』と番外編『訪問!』。
SCENE111 CUT7
教室で演奏する放課後ティータイム。言うまでもなく第2期2クール目のオープニングの再現。ファンが最も見たかった場面の一つ。

SCENE127 CUT20
体育の時間。体操着で卓球をやっている。この場面は第2期第23話『放課後!』とリンクする。この後、パンを買いに行った中野梓は平沢唯と田井中律と遭遇する。



SCENE132 CUT2
卒業式の朝の場面。テレビシリーズ第2期最終回『卒業!』とリンク。「早く起きてギー太触ってたらこんなことに……」を裏付ける場面。田井中律からメールが届くが、文面は「みんな待ってるぞーー。」。これに対して平沢唯は「鮭に痛てて。」とメールを返す。
SCENE135 CUT1B
第2期最終回『卒業!』とリンク。卒業式の場面はテレビシリーズと同じなので思い切ってカットされる。この場面は卒業式の後、真鍋和と分かれて階段を上ってきたところ。階段を上るポーズが一致する。この後、唯は感慨深げに部活周囲の風景を眺める。
SCENE135 CUT20
先輩たちに送る手紙を書いている中野梓の手元。あの手紙がこの時に書かれたものとわかる。




SCENE135 CUT26
窓の向こうに見える飛行機雲を見上げながら、額を押さえる中野梓。第2期最終回『卒業』で頭をぶつけたため。絆創膏が貼ってあるのを気にしている。


SCENE135 CUT25
平沢唯たち3年生組が空を見上げる。飛行機雲が空を横切っている。この飛行機雲はテレビシリーズでも目撃された。




SCENE136 CUT1
ここで使用されているティーカップは第1期第1話『廃部!』で使用されたものと同じ。
いつもは時間ジャンプで省略されがちの一連の動作を、あえてゆっくり、長回しで見せることでその場面にある情緒の深さを表現している。OFF台詞でどう切り出すかを相談している。これは最終回『卒業!』で琴吹紬の「それ私の台詞!」を裏付ける台詞になっている。
この後、「今日くらいはお茶いれようと思ったんですけど……」のやりとりはテレビ版でも見ることができる。

9901a8fe.jpegSCENE137 CUT1
職員室に戻ったさわ子。卒業生から送られた寄せ書きを感慨深げに眺めている。この詳細は第2期『けいおん!!』限定版ブルーレイの特典で見ることができる。


SCENE139 CUT1
演奏後の台詞「あんまりうまくないですね。でも私、もっともっと聞きたいです。アンコール」はテレビシリーズ第2期最終回『卒業!』で聞くことができる。






その他、気になった場面

781b3a1a.jpegSCENE4 CUT3
黒板の端に置かれている牛乳のパック。もちろん田井中律のもの。劇中何度か飲んでいる場面がある。テレビシリーズでは第2期第2話『整頓!』で飲んでいた。いつも牛乳を飲んでいるのは背が低いのを気にしているためだ。

SCENE8 CUT6
中野梓を驚かそうと喧嘩ごっこをしている一同。喧嘩はごっこでもあまりするものではない。ごっこのつもりが本気の喧嘩、それきり縁が切れる、なんて話はよくある。


SCENE10 CUT8
いつもの席に座り、和やかに談話。テレビシリーズ版と違って、一応の場のテーマはあるものの、台詞がやや被り気味になり、対話として自然な感じになっている。



SCENE11 CUT1
渡り廊下を歩く3年生組一同。渡り廊下は日常と日常の境界線として、日常では語られることのない心情を独白する場面として使われている。
第2期最終回『卒業!』で渡り廊下の外にいたのは、卒業してこの学校に人間ではなくなったことを示唆している。



左SCENE11 CUT4
右SCENE71 CUT2

c2fb9d9e.jpeg
2つのカット、フレームやカメラ角度が違うものの、動きをコマ単位で一致させ、違う場面との関連づけができるのはアニメの特権。最近ではデジタルのお陰で実写でも可能になったが、実写で同じ表現をやるとむしろ奇怪さが際立つ。やはり自然に見せられるのはアニメならでは。この場面では、まだまどろみ状態にある梓の夢心地の気分を表現するために、動作の一致を不思議な感覚の一部に感じられるように描かれている。

524bb999.jpegSCENE11 CUT12
映画中頻繁に描かれた、ほぼ何も描かれていない空に真っ直ぐ引かれる飛行機雲。どんな意味があるのか解説されていないが、画面を真っ直ぐに区切る線は、境界線や区切りといった意味が考えられる。場面との関連で、飛行機雲に込められた意味も少しずつ変わってきていると考えられる。
SCENE15 CUT2
朝の登校風景。幕間劇。映像は映画の筋道立ったドラマから少し離れて、唯たちのごくごく普通の日常が描かれる。この場面に映画として意義ある台詞はまったく、ドラマとしての演劇空間からも遠ざかるが、しかしここが映画の核となる場面になっている。おそらく山田尚子監督がテレビシリーズを通して描きたかった場面だったのだろうと想像される。
47c53244.jpegSCENE16 CUT1
靴を履き替える場面。足下のクローズアップ。何気ない感じにカメラを向けたふうを意識したカット。濃淡のある描写のお陰か、不思議とフォトジェニックな美しさを感じさせる。



SCENE16 CUT3
同じく幕間劇の一場面。構図は首で切り取られ、スカートからちらと覗く少女達の白い脚を捉える。フェティッシュな構図だが性的な臭いをあまり感じさせない。こうした場面に清潔感を与えるのは山田監督ならではの感性。
この場面でも何気ない日常の対話が交わされるが、映画らしい段取りくささはなく、ごく自然な勝手に言葉を発しているような雰囲気が意識されている。

f51a1512.jpegSCENE16 CUT14
教室での場面。画面は机で区切られ、カメラはやや上を向き、構図が広がりすぎないように描かれているが、音響は教室にいるクラスメイト全員が意識されている。劇場のスピーカーで聴くと、きちんとデザインされたそれぞれのキャラクターの声が聞こえ、教室1つぶんの広がりを感じさせる。
SCENE17 CUT126
テンション上がった秋山澪が「ロロロ……ドンドン!」と思わず言ってしまう。しかし笑いどころの「ドンドン!」気付いた人はあまりいなかった。

SCENE17 CUT153
秋山澪「あ、ママ?」の台詞。テレビシリーズでは「ママ」と言ってしまう度に「お母さん」と言い直していたが、やはり家庭では「ママ」と呼んでいるようだ。


SCENE18 CUT7
ここからBパート。あまり必然のないシーンだが、平沢唯がヨーロッパとイギリスについて勘違いしたままで、他の場面にフォローがなかったから必要になってしまった、という感じの場面。もしもこの場面がなかったら、唯の勘違いを投げっぱなしになってやや気持ち悪いものになっていただろう。
SCENE29 CUT5
平沢姉妹の親が登場する。テレビシリーズ版では、第1期第3話『特訓!』でほんの一瞬登場し「イェイ!」と言ったきりである。これまで親が登場しなかったのは、唯たち子供の世界を大切に描きたかったから、外の社会のシンボルである親を登場させなかったため。親や大人は、子供の世界にとっては巨大な力を持っているように認識され、親や大人社会の介入がしばしば子供の世界を崩壊させてしまう危険がある。子供を主役にした作品に大人が登場しないのはそういう理由もある。
しかし、この場面ではしれっと登場する。

294f73d2.jpegSCENE36 CUT3
動く廊下で遊ぶ唯たち。顔をお餅のように膨らませた琴吹紬は劇場予告編で使用された。絵コンテの段階からすでにこの顔である。




SCENE38 CUT34
毎回あんまりな服装センスを見せてくれる平沢唯。飛行機の中では、前がお母さん、背中がお父さんという謎の絵がプリントされた服を着ていた。背中側のお父さんが見えるのはこのカットのみ。

SCENE38 CUT64
ワイルドな平沢唯を想像して、思わず吹き出してしまう中野梓。絵コンテには「あなたがおもしろい」と書かれている。



SCENE41 CUT3
ロンドン空港に到着してそれぞれの荷物を手にする。琴吹紬が何やらメールを打っている。この場面でキーボードをロンドンのホテルに送るよう指示を出している。



SCENE47 CUT12
面白い眉毛の動きをする琴吹紬。海外旅行の経験が多いのにも関わらず、実は英会話ができない紬。これは原作からの設定である。




SCENE51 CUT12
また幕間劇。地下鉄で待っている5人の顔を、少しずつピントを送りながら見せている。ここも何気ない日常の風景だけど、照明のほどよい暗さと音楽のリズムで妙にかっこいい場面になっている。描き方次第で日常の風景がいかようにも変わる、ということがわかる一場面。
絵コンテには「あめちゃんたべつつ」と書かれている。
SCENE54 CUT86
寿司屋「蘭鋳」での一場面。唯たちの演奏の最中、なぜかクローズアップされる衝立。絵コンテの段階から描かれる。演奏のリズムの間を埋めるため、尺の間を埋めるためのカットだが、なにやら謎めいた感じになってしまっている。
SCENE57 CUT11
変圧器を使用しないで電気製品を動かそうとするとこうなる。本当に電気製品が爆発する場合もあり、かなり怖い。旅行者が一度は経験する失敗。海外旅行の時には注意しよう。




SCENE58
8553c752.jpeg
いずれもSCENE58、中野梓の夢の中の場面。中野梓の記憶が奇妙な空気感を伴ってレイヤリングされている。右上は第1期第9話『新入部員!』から、左下は第1期最終回『軽音!』から、右下は第2期第15話『マラソン大会!』から。第1期最終回の記憶なのになぜか「トンちゃん」がすでにいたり、中野梓が制服で平沢唯が舞台衣装になっているなど、実際と違う点が意識的に描き出されており、これがこの場面の奇妙な心地を醸成している。夢の中にありがちな光景をうまく映像化している。

e9d55dfe.jpegSCENE60 CUT32
ロンドン市内の公園で、緑色のポストに手を突っ込んで遊んでいる一同。わかりにくいが、これは犬の糞をすてるための専用ポスト。



SCENE60 CUT40
ホームズ館前で記念写真を撮る5人。絵コンテにはホームズ館内部の様子も少し描かれていた。欠番になった死んでいる人形の頭を触っている紬のカットは、実際にスタッフが撮影した場面だ。その場面はメイキングDVDで見ることができる。

SCENE60 CUT46
アビーロードを通り過ぎていく5人。絵コンテには、澪「アビーロードまだ見てない」梓「この辺りらしいんですけど……」と書かれている。そこがアビーロードだと気付かず通り過ぎたようだ。


SCENE60 CUT49
放課後ティータイムのシンボルマークにそっくりな看板を掲げるお店。あたかもこの映画のために用意されていたかのようなお店だが、残念なことにこのお店はすでに閉店している。

SCENE68 CUT17
子守歌を歌う平沢唯。うとうとして……ほんの一瞬、白目を見せる。ヒロインらしからぬ描写に挑戦する『けいおん!』である。
最近では不思議なことに、白目を剥いた女性の絵に性的に興奮する人もいるらしい。

SCENE69 CUT4
ベッドに寝転がる田井中律。特に解説すべき特記事項はないが、演出の石原立也さんナイス!と言いたい。



SCENE72 CUT20
秋山澪が学校指定のジャージ姿。これは旅行の前日、電話で田井中律が「ジャージ持って行くの?」澪「え?ジャージも持って行くのか」といったやりとりがあったためらしい。本当にジャージを持ってきた澪が、あまりにもしのびないので律がパーカーを貸した、という設定だ。秋山澪が着ているパーカーは律のものだ。
SCENE76 CUT4
緑の髪、赤い顔の巨大なゾンビの格好をしているお兄さん。に、追われて逃げている秋山澪とそれに釣られて走る一同。この巨大なゾンビは、ロンドン取材中に実際にいたらしい。


SCENE80 CUT19
中野梓を含む5人が1つの携帯を手に集まってくる。やや距離感のあった中野梓が3年生組とひとつになった象徴的なカット。



SCENE91 CUT106
『けいおん!』の劇中歌はすべてCD再生ではなく、専用に収録し直している。この場面では、客席の赤ちゃんに気付いて「ごはん~」の歌がやや力が抜けたようになる。この後の、英語バージョン『ごはんはおかず』は1発でOKを出した。豊崎愛生の歌唱力がわかるエピソードだ。「音の外し方が完璧だった」と音響関係者は語る。

06555eda.jpegSCENE112 CUT20
日本に帰国して、急に色彩が押さえられる。本来ならロンドンは年がら年中曇って光が弱く、文学的表現においても「灰色の風景」と称されるほど色彩の淡い都市であるが、映画『けいおん!』ではその逆でロンドンの風景を色彩豊かに、日本の風景のほうを彩度を落として差を出している。この差が日本特有の湿り気を感じさせ、日本と外国の差を明快にしている。彩度を落とした日本側の風景はどこか落ち着いた気分を感じさせ、イギリスの猥雑さに対して、湿り気の深さと清涼感を感じさせる。
教室でのゲリラライブを通して卒業までのわずかな日数、画面の色彩はにわかに淡く漂白していく。テレビシリーズで、色彩の差で学校に留まる者、卒業する者との間にある空気の差を表現していたが、おそらく狙いは同じところにあるのだろうと考えられる。
またこのシーンから背後の壁に大きな窓の影が映り始める。もちろん、実際に劇中の通り照明を当てた場合このような影は映らない。意図は不明だが妙に印象的で、物語の結末を情緒深いものにしている。

c88c58e0.jpegSCENE135 CUT7
なぜか空いていた屋上の扉。唯たちはここぞと飛び出して、空を見上げながら走り、叫ぶ……。
高校時代という青春時代のクライマックス、少女時代の輝きの強さをカット全体で表現した秀逸な場面。特に感動的な台詞もないが、ここで涙する人は多い。カットの後半、画面の中を飛び散る光は撮影の効果だが、動きはアニメーターが指定した。
SCENE135 CUT39
空を横切る飛行機雲を掌に収める平沢唯。劇中、何かしらのシンボリックなイメージとして描かれた飛行機雲を指で作ったフレームの中に収める……。恐らく、そうすることに何かしらの意図があるのだろうと考えられる。
SCENE138 CUT18
歌の場面。歌が始まってから回想とイメージカットが始まる。このカットは唯たちがロンドン旅行へ行った時の衣装。対して梓は学校制服。これは卒業する唯たちと、まだ学校に留まる梓たちを対比している。シーンの最後、制服姿の梓が唯たちのもとへ駆けていくのは、心情的な繋がりができたことを示唆している。テレビシリーズ第2期最終回『卒業!』ではこの後、梓を含めた5人で『ふわふわタイム』を演奏する。


26ac75c8.jpegSCENE138 CUT20
ケーキを入れた箱を持って階段を駆け上っていく唯たち。直前には中野梓の動向を探る場面が入る。コートの下をよく見ると、制服ではなく普段着だ。何も説明がないが、おそらくホワイトデーの日に、こっそり学校に戻って軽音部の部室にケーキを置いていった、という場面ではないだろうか。
SCENE139 CUT2
映画の最後のシーンは4人の足下を長回しで捉える。脚の動きはフルコマ。脚の動きだけでそれぞれの感情を表現している。脚で感情を表現する手法を続けてきた『けいおん!』の最後を飾るのに相応しいカットだ。動画枚数が多く、カット袋ではなくカット箱になったそうだ。




総括としてのエンディング

f034bb4e.jpegエンディングが始まって冒頭の場面、放課後ティータイムの5人がそろって名前が出てくる。ロールアップではなく、全員が同時に、同じ場所に名前が書かれることに意味がある、と監督は語る。


エンディングが始まって1カット目。何かを破って現れる秋山澪。衣装は、今まで子供っぽさが意識されてきたが、ここでは思い切った大人の衣装で現れる。
海が見える平原を歩くロングショットが続くが、絵コンテにはホワイトクリフとある。
白いバラに囲まれたどこか。そこで集まって演奏をしている5人。平沢唯の動きがかなり激しい。歌詞には「メロディの産声に歓喜して感極まって」とある。5人が集まって音楽が生まれた、という意味で“出会い”という意味にも繋がる。
白いバラに囲まれた花園は、大人になった澪たちが子供時代を回想した場面、あるいはそのイメージと考えられる。同じ制服に閉鎖された空間、つまりここは学校、あるいは学生時代である。

3b4bbf3c.jpeg演奏する澪のクローズアップ。実際こんな演奏が可能かどうか不明だが、このポーズは美しい。






手元の白いバラ。白いバラはおそらく少女時代の象徴だろう。飴は5人のイメージカラーに塗り分けられている。





差し込んでくる赤い光。もともとは撮影の失敗で、フィルムに光が入って起きる現象だが、デジタルの時代を通じて表現の一つとして使われるようになった。この表現も、“過去”のシンボルである。
また三つ編みにした髪型や大きすぎるメガネなど、極端に子供っぽいイメージで描かれている。
冒頭で破り捨てていた何かは、花園の壁であったことがここで明らかになる。
少女時代の、自分を取り囲んでいたものを破り捨てて、大人になろうとしている姿をイメージとして描いている。

砂浜で5人が演奏している。子供っぽさを意識されていた『けいおん!』シリーズだったが、この場面ではじめて全員が大人としての姿を現す。



再び少女時代。カウチに身体を預け、憂鬱そうな顔を浮かべている澪。大人や親といった社会に保護された少女時代。安全で幸福である一方で、学校という壁に制限される不自由さも同時にある。輝かしい青春時代を中心に描かれた『けいおん!』だが実際にはどこかに憂鬱さがあったのだろう。

谷へ白いバラを捨てる澪。全員に「行こう!」と呼びかけて駆け出す。
白いバラは前述のとおり“少女時代”の象徴。それを捨てて駆け出し始める。澪たちにとっての新しい門出を象徴している。









ce036ff0.jpeg構図は遠くから走っている5人の姿。壁のあった狭い構図の少女時代。しかし大人になったこれからは、壁のない広い世界が待ち受けている。だからといって、構図には不安や不幸の予兆は感じさせない。これまで通り、澪たちは全速力で駆けていくだろう……そう想像させるカットになっている。
唯の走りポーズにも注目だ。高校時代を通して一番変化が大きかった唯。それを感じさせる走り方だ。
また、ここからキャラクターが右方向→へ進んでいることにも注目したい。これまではキャラクターは概ね左方向←を向いていた。進み始めた時代と停滞していた時代との差異を生み出すためだが、右方向への進行は、日本では古来から「進んでいる」というイメージで捉えられていた。演劇では「上手」といえば右側だし、最近でもベルトタイプのゲームの進行歩行は右と決まっている。左方向で停滞を表現し、右方向が一転して進展を表現し、走る動作が停滞のストレスからの転換を強調している。

歌詞を見るとこう書かれている
「道なき道でも進もうよ 一緒に踏み出すそこが道だよ
(中略)
いつまでもずっと…Yes,We are Singing NOW!」

c357663d.jpegバラを捨てた後でも、一度少女時代の回想が現れる。5人が並んで、手をピンクで結びつける。少女時代に築いた絆は今でも、と解釈するべきだろう。





エンディングは山田尚子自身で『けいおん!』を総括している。少女時代の終わり、学生時代の卒業。これまでの端的に振り返り、大人への道を歩んでいく5人の道筋を描いた。傑出したメロディを多く生み出した『けいおん!』だったが、エンディングテーマ曲「Singing」はさらに一つ飛び抜けた音楽となった。『けいおん!』という青春の終了を飾るに相応しいエンディングになった。




 

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■2013/02/09 (Sat)
  (」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!
(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!
 Let's\(・ω・)/にゃー!
e9091af7.jpeg

オープニング主題歌が始まると同時に、画面は【(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!】の文字で埋め尽くされる。【(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!】はオープニング冒頭、地球の画像をバックに登場人物の一人ニャル子さんが連呼する台詞である。オープニング主題歌は声優の阿澄佳奈がニャル子さんというキャラクターとして歌う明るいポップな曲で、ニャル子さん、松来未祐役のクー子の2人が掛け合いを入れる楽しい曲である。ニコニコ動画という場所においては【(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!】とコメントすることが一つの掛け合いであり、『這いよれニャル子さん』という祭りに参加する行為でもあった。

cecfcca7.jpeg93fe845d.jpegアニメ『這いよれニャル子さん』が放送されたのは2012年4月期。その以前からアニメ化への期待は高く、放送されると一気に人気が爆発。笑いを目一杯詰め込んだストーリーと癖のあるキャラクターに多くの人が魅了され、2012年4月期の一番ヒットのアニメとなった。
功績を振り返ってみると、第1話の再生回数だけで155万8600回(現在)という数字が出ている。アニメの人気は通常1週間、いや数日で絶えるものだが、『這いよれニャル子さん』に限っては2週目に入っても再生回数が上昇し続け、第1話第2話の両方が同時にランキング入りするという異例のヒットとなった。第1話は無料配信のため現在でも視聴可能で、150万回を越える再生数はニコニコ動画配信のアニメの中でもライバルなき記録である。
第2話以降は60万回と一気に落ち、第3話第4話と50万回40万回と徐々に減っていくが、それでも高いヒット率を保持している。

a4a03574.jpegしかし『這いよれニャル子さん』はアニメーションとして決して品質の高い作品というわけではない。
キャラクターの表現は顔のディティールばかりに集中し、身体へ向けられていない。構図のほとんどが顔面、それも極端なクローズアップで首と額で切り取られ、表情と台詞の芝居だけで物語を進めようとしている。身体の表現も多少は見られるものの、顔面への執着と比べると圧倒的に線の量も影塗り分けの数も減る。全身が動くカットは少なく、カメラがフルサイズからロングサイズなどになると殆どの場合が「止め」、あるいは合成処理でほんの一部が動くだけ、そうでなければ歩きや走りといった教科書的な単調なアクションだけである。
47f8097e.jpeg笑いの表現も専ら台詞だけで、画で示されることは少ない。言葉の掛け合いだけでキャラクターのアクションで表現されることは少なく、またアクションが笑いを生み出すことはなかった。可愛らしい表面的なイメージが悪趣味なグロテスクな画に転換され、そのギャップで笑いを誘うのが狙いだが、最初から最後まで何の捻りもなく同じ手法が繰り返される。
そもそも『這いよれニャル子さん』のヒロインニャル子が、可愛らしいイメージのシンボルである一方、実はクトゥルーに登場するグロテスクな怪物が正体で、そんなおぞましい怪物がハイテンションなギャグを繰り広げるというのが、この作品の笑いの本質ではあるが。
また『這いよれニャル子さん』は様々な作品がパロディとして取り上げられるが、その中身を分類するとゲーム・アニメ・特撮ものに限定され、これらのパロディが笑いを増幅するようには作用しておらず、ジャンル作品にありがちな約束事を披露してそれでお終い、という場合がほとんどである。ユーザーの側に元ネタへの知識がなければ、ただちにそこで起きている笑いの外へと放り出されてしまう。『這いよれニャル子さん』を充分に理解するためには、アニメやゲーム、特撮といった作品へのある程度の知識が必要だし、その笑いもジャンルに対するアンチテーゼ的な笑いではなく、元々よく知られているパロディのパターンをなぞっているだけで笑いの構築方法に革新的な野心は感じられない。ネット上で散乱しているスラングをただ羅列しただけの部分もあり、それは笑いを求めているというより、気分の同調を求めている、といった感じだろうか。

a1bd8d9e.jpeg身体感覚の希薄さは、現在のアニメユーザーの思考を象徴していると言えよう。『這いよれニャル子さん』は構図の殆どがクローズアップである。顔やその周辺のディティールには非常に高い密度を持っているが、全身の表現になると線の数は減り、動きも平面的で単調になる。
この身体感覚の希薄さは、近年のアニメ/漫画業界におけるキャラクターデザインの考え方を強く反映させた姿である。
ここ10年ほどのキャラクターデザインの歴史を俯瞰して見ると、その労力のほとんどが顔面のみに費やされている。輪郭の淵をどうなぞるか、眼の丸みをどのように設定するか、髪の毛の線のどこに個性を出すか――。顔面のカスタマイズパーツをひたすら増やし続けた一方、身体の表現はせいぜい高身長と低身長、これにバストサイズを掛け合わせただけだ。
9676b951.jpegどうしてこうなったのか、理由の一つにテレビの影響が挙げられる。テレビは映画のような大スクリーンではなく、大型化したとはいえ大体20インチから30インチといったところだろう。そうしたサイズで映し出される顔面は現実の私たちの顔面とほぼ同じくらいで、ブラウン管という障壁はあるものの次々と映し出される顔と対話は、あたかもテレビとお茶の間の誰かと談笑しているような錯覚を与える。リビングルームにテレビを導入することは、対話する人数を一人増やす、ということでもある。
またもう一つ、現実世界で身体を意識する機会が減った。単純に体を動かさなくなった。体を動かしても手や足、あるいは腹や腰といった身体への感性が弱くなり、意識の殆どが顔面ばかりに集中するようになった。顔しか意識しないし、顔しか見ない、そういったところだろうか。
アニメのキャラクターへの関心も、様々なユーザーの声を聞いてみても身体へ注意が向けられることはなく、専ら顔だけに集中している。そのヒロインの顔が好むか好まないか、出来のいい悪いもテクニカルな議論へは発展せず、自分たちの好みの通り線が引けているかで終わってしまっている。
顔とオッパイしか見ていない。そんな感じだろうか。
『這いよれニャル子さん』はそんな近年のアニメユーザーの考え方に寄り添った描き方をした作品だと言える。

79c1d84f.jpegお話は八坂真尋を中心に美少女たちが集まってくる、というありきたりな構造で、これに最近の潮流を組み合わせて男女の立場を逆転させている。美少女たちが主人公である少年に言(這)い寄り、少年がこれを回避し続けるコメディである。一方は煩悩を剥き出しに接近するが、その情熱は空回りし続け、この空回りの滑稽さが笑いをもたらす。既視感以外なにも感じないが、安心感を与える効果はある。
物語には大きな波はなく、平坦な展開はキャラクター達が冒頭の地点から大きく移動するということもない。この平坦さをごまかすように余白をネタで埋めている感じだろうか。およそ20分という尺を持ちながら、この時間の中で有意義なプロットは少なく、キャラクター達が主体的な意思を持って物語を進行・変化させる事例は少ない。
構成の方法も良くない。
第6話『マーケットの中の戦争』は誘拐された八坂真尋の母・頼子を救うため、ルルイエランドを目指すが、誘拐の原因が新ゲームハードの開発だったとわかり、何事もなかったかのように帰ってくる。このエピソードは17分という中途半端な長さで終わり、ここでアイキャッチが挟まれ、強引に突っ込むがのごとくBパート海辺の話が始まる。
物語の構成として第6話はルルイエランドのエピソードをしっかり描き、このエピソードの中で起承転結をしっかり描くべきだろう。もしも海辺のエピソードを突っ込むことにそれなりの蓋然性があれば了解できるが、ここに充分な意義はなく、「語るものがなくなって時間が余ったから次回の話を突っ込んだ」とそんなふうに見えてしまう。

4e151982.jpegしかしそれでも『這いよれニャル子さん』は2012年で最もヒットした作品の一つある。冒頭に掲げた【(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!】の単語はその年の流行のワードに選ばれたし、今でも人気の高い作品で間もなく第2期放送が始まろうとしている。
なぜならこの作品は「お祭りアニメ」だったからだ。ただ一方的に配信されてくる作品ではなく、お祭りアニメとしてユーザーが参加できることにこの作品の価値はあった
ニコニコ動画では始まると同時に【(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!】のコメントが乱舞する。本編に入ってもそのテンションは変わらず、登場キャラクターより激しくネタに突っ込み、笑いの場面ではユーザーたちが率直な反応を見せる。終わるまで決してコメントが絶えることはない。ただ羅列されているだけの収まりの悪いネタでも、ニコニコ動画のユーザーたちがコメントで補完していく感じだ。
そう、『這いよれニャル子さん』はお祭りアニメだったのだ。

95872443.jpeg今も昔も、アニメユーザーはお祭りが大好きである。コミックマーケット(コミケ)は言うまでもなく、アニメユーザーたちが自発的に作った文化祭であり、古い時代から切り離されたまったく新しい種類のカーニバルである。ごく最近に入り、アニメは各地でムーブメントを起こし、鷲宮神社を筆頭に様々な地域でアニメイベントが開催されそのどれもが成功している。アニメに取り上げた地域を巡礼するブームは個人規模ながらずっと絶えず行われている。
アニメユーザーはお祭りが大好きだ。イベントが大好きだ。彼らは常にお祭りやお祭りのような騒ぎが起きないかアンテナを張り続けるし、機会あらば自分たちの手でお祭りを作ろうと活動を始める。
押井守は『パトレイバー』のビデオシリーズを制作してから後に、このように語っている。
「アニメファンはお祭り騒ぎをするための作品が欲しかったんだ」
アニメの場合、作品の質が良いからヒットして社会現象を起こす、という場合ももちろんあるのだが、それとは別で、品質がどうこうとはまったく別次元のところで、お祭りの切っ掛けのための作品を求めている。作品やキャラクターをネタに、大騒ぎしてやろう、というわけである。
2012年は『這いよれニャル子さん』がお祭りアニメとして選ばれたのだ。

『這いよれニャル子さん』は決してベストなストーリーではないし、キャラクターもベストではない。アニメファンはいつもベストなものを求められているわけではない。むしろハイレベルな作品を制作し続ける制作会社にアンチと呼ばれる批判するだけの迷惑ユーザーが大量につきまとう。こうしたアンチユーザーは『這いよれニャル子さん』のような作品はまず攻撃しない。
『這いよれニャル子さん』はニャル子さんというヒロインが可愛くてアイドル的な人気が発生したわけではない。感動的な物語がそこにあるわけではない。品質の良し悪しでいえば、少々劣るというくらいだ。
それでも『這いよれニャル子さん』がヒットしたのは、その親しみやすさだ。裏表のない明るいキャラクターたち。ネットスラングを多用した台詞は、今のユーザーの感性に密着し、面白くはなくとも強い親しみを感じただろう。『這いよれニャル子さん』は今のアニメユーザーの感性と親和性が高く、これをさらに増幅させ勢いをつける効果を持っていた。

039a0f3e.jpeg今、映画も音楽もヒットから見放されている。音楽は「ユーザーが何を求めているかわからない」と嘆きの声を上げるくらいだ。
そんな中で、アニメだけが突出した勢いを持っている。デフレ不況の最中でありとあらゆる消費が落ち込んでいるという中で、アニメだけがこの10年間、経済規模を右肩上がりで上昇させ続け、文化としての基盤を強力にしている。
その理由は――音楽に限っていえば時代の変化を完全に見落としたからだ。例えば今は若者でも政治に強い関心が向けられている。社会問題も多い。歌はその時代の感情を掬い上げ、時代のシンボル的なものになる。どんな時代でも若者が歌を口ずさむのは、歌がその時代の感情を率直に捉え、時代を動かす原動力として遠からずの影響を与えているからだ。しかし今は音楽といえば、ただただ「頑張れ!」「会いたい!」と空虚に連呼しているだけである。これだけ社会が大きく動き、若者が政治的な視点を持ち始めているのに、それをシンボルとする流行歌が誕生しない。アーティストと呼ばれる人達も時代を象徴する音楽を作ろうとしない。今の時代を掬い上げようという人もいない。これだけでも異様な時代だと言っていい。
そうした最中でもアニメがヒットを飛ばせるのは、いつも若い時代に寄り添っていて、若い時代の感性を的確に掬い上げているからだ。しかもそれを、上から目線で供給されたものではなく、ユーザーと同じ目の高さで、今のアニメユーザーが抱えるコンプレクスや願望を率直に映像化しているからだ。自然体でいられたから、アニメは時代の壁を乗り越えてトップランナーになれたのだ。
『這いよれニャル子さん』は2012年を象徴する作品に選ばれた。その理由はやはり今の若い感性と一体でいることができて、しかもそれが自然体だったからだ。
もっともこのブームはネット上だけの盛り上がりで、それ以上外に広がることはなかった。『らき☆すた』のように現実の風景を舞台にしなかったから、現実世界に祭りを移す機会がなかったのだろう。
だがネットだけとはいえ、ブームの大きさはなかなか強烈だった。2012年のシンボルとして『這いよれニャル子さん』が発した言葉の数々はアニメユーザーの中に強い痕跡を残しただろう。
このブームは一度は沈静したが、間もなく第2期放送が始まる。そこでニャル子さんのお祭りがいま一度再現され、あるいは前回より大きなうねりになる可能性すらある。期待して注目しよう。






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