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■2013/02/09 (Sat)
評論■
(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!
(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!
Let's\(・ω・)/にゃー!
(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!
Let's\(・ω・)/にゃー!
オープニング主題歌が始まると同時に、画面は【(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!】の文字で埋め尽くされる。【(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!】はオープニング冒頭、地球の画像をバックに登場人物の一人ニャル子さんが連呼する台詞である。オープニング主題歌は声優の阿澄佳奈がニャル子さんというキャラクターとして歌う明るいポップな曲で、ニャル子さん、松来未祐役のクー子の2人が掛け合いを入れる楽しい曲である。ニコニコ動画という場所においては【(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!】とコメントすることが一つの掛け合いであり、『這いよれニャル子さん』という祭りに参加する行為でもあった。
アニメ『這いよれニャル子さん』が放送されたのは2012年4月期。その以前からアニメ化への期待は高く、放送されると一気に人気が爆発。笑いを目一杯詰め込んだストーリーと癖のあるキャラクターに多くの人が魅了され、2012年4月期の一番ヒットのアニメとなった。
功績を振り返ってみると、第1話の再生回数だけで155万8600回(現在)という数字が出ている。アニメの人気は通常1週間、いや数日で絶えるものだが、『這いよれニャル子さん』に限っては2週目に入っても再生回数が上昇し続け、第1話第2話の両方が同時にランキング入りするという異例のヒットとなった。第1話は無料配信のため現在でも視聴可能で、150万回を越える再生数はニコニコ動画配信のアニメの中でもライバルなき記録である。
第2話以降は60万回と一気に落ち、第3話第4話と50万回40万回と徐々に減っていくが、それでも高いヒット率を保持している。
しかし『這いよれニャル子さん』はアニメーションとして決して品質の高い作品というわけではない。
キャラクターの表現は顔のディティールばかりに集中し、身体へ向けられていない。構図のほとんどが顔面、それも極端なクローズアップで首と額で切り取られ、表情と台詞の芝居だけで物語を進めようとしている。身体の表現も多少は見られるものの、顔面への執着と比べると圧倒的に線の量も影塗り分けの数も減る。全身が動くカットは少なく、カメラがフルサイズからロングサイズなどになると殆どの場合が「止め」、あるいは合成処理でほんの一部が動くだけ、そうでなければ歩きや走りといった教科書的な単調なアクションだけである。
笑いの表現も専ら台詞だけで、画で示されることは少ない。言葉の掛け合いだけでキャラクターのアクションで表現されることは少なく、またアクションが笑いを生み出すことはなかった。可愛らしい表面的なイメージが悪趣味なグロテスクな画に転換され、そのギャップで笑いを誘うのが狙いだが、最初から最後まで何の捻りもなく同じ手法が繰り返される。
そもそも『這いよれニャル子さん』のヒロインニャル子が、可愛らしいイメージのシンボルである一方、実はクトゥルーに登場するグロテスクな怪物が正体で、そんなおぞましい怪物がハイテンションなギャグを繰り広げるというのが、この作品の笑いの本質ではあるが。
また『這いよれニャル子さん』は様々な作品がパロディとして取り上げられるが、その中身を分類するとゲーム・アニメ・特撮ものに限定され、これらのパロディが笑いを増幅するようには作用しておらず、ジャンル作品にありがちな約束事を披露してそれでお終い、という場合がほとんどである。ユーザーの側に元ネタへの知識がなければ、ただちにそこで起きている笑いの外へと放り出されてしまう。『這いよれニャル子さん』を充分に理解するためには、アニメやゲーム、特撮といった作品へのある程度の知識が必要だし、その笑いもジャンルに対するアンチテーゼ的な笑いではなく、元々よく知られているパロディのパターンをなぞっているだけで笑いの構築方法に革新的な野心は感じられない。ネット上で散乱しているスラングをただ羅列しただけの部分もあり、それは笑いを求めているというより、気分の同調を求めている、といった感じだろうか。
身体感覚の希薄さは、現在のアニメユーザーの思考を象徴していると言えよう。『這いよれニャル子さん』は構図の殆どがクローズアップである。顔やその周辺のディティールには非常に高い密度を持っているが、全身の表現になると線の数は減り、動きも平面的で単調になる。
この身体感覚の希薄さは、近年のアニメ/漫画業界におけるキャラクターデザインの考え方を強く反映させた姿である。
ここ10年ほどのキャラクターデザインの歴史を俯瞰して見ると、その労力のほとんどが顔面のみに費やされている。輪郭の淵をどうなぞるか、眼の丸みをどのように設定するか、髪の毛の線のどこに個性を出すか――。顔面のカスタマイズパーツをひたすら増やし続けた一方、身体の表現はせいぜい高身長と低身長、これにバストサイズを掛け合わせただけだ。
どうしてこうなったのか、理由の一つにテレビの影響が挙げられる。テレビは映画のような大スクリーンではなく、大型化したとはいえ大体20インチから30インチといったところだろう。そうしたサイズで映し出される顔面は現実の私たちの顔面とほぼ同じくらいで、ブラウン管という障壁はあるものの次々と映し出される顔と対話は、あたかもテレビとお茶の間の誰かと談笑しているような錯覚を与える。リビングルームにテレビを導入することは、対話する人数を一人増やす、ということでもある。
またもう一つ、現実世界で身体を意識する機会が減った。単純に体を動かさなくなった。体を動かしても手や足、あるいは腹や腰といった身体への感性が弱くなり、意識の殆どが顔面ばかりに集中するようになった。顔しか意識しないし、顔しか見ない、そういったところだろうか。
アニメのキャラクターへの関心も、様々なユーザーの声を聞いてみても身体へ注意が向けられることはなく、専ら顔だけに集中している。そのヒロインの顔が好むか好まないか、出来のいい悪いもテクニカルな議論へは発展せず、自分たちの好みの通り線が引けているかで終わってしまっている。
顔とオッパイしか見ていない。そんな感じだろうか。
『這いよれニャル子さん』はそんな近年のアニメユーザーの考え方に寄り添った描き方をした作品だと言える。
お話は八坂真尋を中心に美少女たちが集まってくる、というありきたりな構造で、これに最近の潮流を組み合わせて男女の立場を逆転させている。美少女たちが主人公である少年に言(這)い寄り、少年がこれを回避し続けるコメディである。一方は煩悩を剥き出しに接近するが、その情熱は空回りし続け、この空回りの滑稽さが笑いをもたらす。既視感以外なにも感じないが、安心感を与える効果はある。
物語には大きな波はなく、平坦な展開はキャラクター達が冒頭の地点から大きく移動するということもない。この平坦さをごまかすように余白をネタで埋めている感じだろうか。およそ20分という尺を持ちながら、この時間の中で有意義なプロットは少なく、キャラクター達が主体的な意思を持って物語を進行・変化させる事例は少ない。
構成の方法も良くない。
第6話『マーケットの中の戦争』は誘拐された八坂真尋の母・頼子を救うため、ルルイエランドを目指すが、誘拐の原因が新ゲームハードの開発だったとわかり、何事もなかったかのように帰ってくる。このエピソードは17分という中途半端な長さで終わり、ここでアイキャッチが挟まれ、強引に突っ込むがのごとくBパート海辺の話が始まる。
物語の構成として第6話はルルイエランドのエピソードをしっかり描き、このエピソードの中で起承転結をしっかり描くべきだろう。もしも海辺のエピソードを突っ込むことにそれなりの蓋然性があれば了解できるが、ここに充分な意義はなく、「語るものがなくなって時間が余ったから次回の話を突っ込んだ」とそんなふうに見えてしまう。
しかしそれでも『這いよれニャル子さん』は2012年で最もヒットした作品の一つある。冒頭に掲げた【(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!】の単語はその年の流行のワードに選ばれたし、今でも人気の高い作品で間もなく第2期放送が始まろうとしている。
なぜならこの作品は「お祭りアニメ」だったからだ。ただ一方的に配信されてくる作品ではなく、お祭りアニメとしてユーザーが参加できることにこの作品の価値はあった。
ニコニコ動画では始まると同時に【(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!】のコメントが乱舞する。本編に入ってもそのテンションは変わらず、登場キャラクターより激しくネタに突っ込み、笑いの場面ではユーザーたちが率直な反応を見せる。終わるまで決してコメントが絶えることはない。ただ羅列されているだけの収まりの悪いネタでも、ニコニコ動画のユーザーたちがコメントで補完していく感じだ。
そう、『這いよれニャル子さん』はお祭りアニメだったのだ。
今も昔も、アニメユーザーはお祭りが大好きである。コミックマーケット(コミケ)は言うまでもなく、アニメユーザーたちが自発的に作った文化祭であり、古い時代から切り離されたまったく新しい種類のカーニバルである。ごく最近に入り、アニメは各地でムーブメントを起こし、鷲宮神社を筆頭に様々な地域でアニメイベントが開催されそのどれもが成功している。アニメに取り上げた地域を巡礼するブームは個人規模ながらずっと絶えず行われている。
アニメユーザーはお祭りが大好きだ。イベントが大好きだ。彼らは常にお祭りやお祭りのような騒ぎが起きないかアンテナを張り続けるし、機会あらば自分たちの手でお祭りを作ろうと活動を始める。
押井守は『パトレイバー』のビデオシリーズを制作してから後に、このように語っている。
「アニメファンはお祭り騒ぎをするための作品が欲しかったんだ」
アニメの場合、作品の質が良いからヒットして社会現象を起こす、という場合ももちろんあるのだが、それとは別で、品質がどうこうとはまったく別次元のところで、お祭りの切っ掛けのための作品を求めている。作品やキャラクターをネタに、大騒ぎしてやろう、というわけである。
2012年は『這いよれニャル子さん』がお祭りアニメとして選ばれたのだ。
『這いよれニャル子さん』は決してベストなストーリーではないし、キャラクターもベストではない。アニメファンはいつもベストなものを求められているわけではない。むしろハイレベルな作品を制作し続ける制作会社にアンチと呼ばれる批判するだけの迷惑ユーザーが大量につきまとう。こうしたアンチユーザーは『這いよれニャル子さん』のような作品はまず攻撃しない。
『這いよれニャル子さん』はニャル子さんというヒロインが可愛くてアイドル的な人気が発生したわけではない。感動的な物語がそこにあるわけではない。品質の良し悪しでいえば、少々劣るというくらいだ。
それでも『這いよれニャル子さん』がヒットしたのは、その親しみやすさだ。裏表のない明るいキャラクターたち。ネットスラングを多用した台詞は、今のユーザーの感性に密着し、面白くはなくとも強い親しみを感じただろう。『這いよれニャル子さん』は今のアニメユーザーの感性と親和性が高く、これをさらに増幅させ勢いをつける効果を持っていた。
今、映画も音楽もヒットから見放されている。音楽は「ユーザーが何を求めているかわからない」と嘆きの声を上げるくらいだ。
そんな中で、アニメだけが突出した勢いを持っている。デフレ不況の最中でありとあらゆる消費が落ち込んでいるという中で、アニメだけがこの10年間、経済規模を右肩上がりで上昇させ続け、文化としての基盤を強力にしている。
その理由は――音楽に限っていえば時代の変化を完全に見落としたからだ。例えば今は若者でも政治に強い関心が向けられている。社会問題も多い。歌はその時代の感情を掬い上げ、時代のシンボル的なものになる。どんな時代でも若者が歌を口ずさむのは、歌がその時代の感情を率直に捉え、時代を動かす原動力として遠からずの影響を与えているからだ。しかし今は音楽といえば、ただただ「頑張れ!」「会いたい!」と空虚に連呼しているだけである。これだけ社会が大きく動き、若者が政治的な視点を持ち始めているのに、それをシンボルとする流行歌が誕生しない。アーティストと呼ばれる人達も時代を象徴する音楽を作ろうとしない。今の時代を掬い上げようという人もいない。これだけでも異様な時代だと言っていい。
そうした最中でもアニメがヒットを飛ばせるのは、いつも若い時代に寄り添っていて、若い時代の感性を的確に掬い上げているからだ。しかもそれを、上から目線で供給されたものではなく、ユーザーと同じ目の高さで、今のアニメユーザーが抱えるコンプレクスや願望を率直に映像化しているからだ。自然体でいられたから、アニメは時代の壁を乗り越えてトップランナーになれたのだ。
『這いよれニャル子さん』は2012年を象徴する作品に選ばれた。その理由はやはり今の若い感性と一体でいることができて、しかもそれが自然体だったからだ。
もっともこのブームはネット上だけの盛り上がりで、それ以上外に広がることはなかった。『らき☆すた』のように現実の風景を舞台にしなかったから、現実世界に祭りを移す機会がなかったのだろう。
だがネットだけとはいえ、ブームの大きさはなかなか強烈だった。2012年のシンボルとして『這いよれニャル子さん』が発した言葉の数々はアニメユーザーの中に強い痕跡を残しただろう。
このブームは一度は沈静したが、間もなく第2期放送が始まる。そこでニャル子さんのお祭りがいま一度再現され、あるいは前回より大きなうねりになる可能性すらある。期待して注目しよう。
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