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■2013/02/09 (Sat)
ファミコンの時代。私はまだ子供で、当時のゲームは理不尽なくらい難解で、まともにクリアできたゲームはほとんどなかった。自分がそこそこにゲームができるようになった、という実感が持てるようになったというのは、だいぶ後になってからの話で、ファミコン初期の時代というのは、せいぜい冒頭の場面でうろうろしているだけで、中盤以降の展開を知っているゲームなんていうのはほとんどない。かなりいい加減にゲームをやっていたな、というのが後で思う印象である。ちゃんとエンディングまでたどり着けるようになったのは、スーパーファミコン以降の話ではないだろうか。
そんなふうにゲームをやり流してきたわけだが、それでもその後も頭の中に残り、時々は思い出して気になっているソフトというのが何本かある。


『ゴーストバスターズ』

ファミコンのソフトである。ゲームが始まると、マップ画面らしき街の俯瞰画像が現れる。で――何も起きないのである。十字キーを押してもAボタンBボタンを押しても何も起きない。そうこうしているうちに、マシュマロマンが登場し、街を徹底的に破壊してゲームオーバーになる。
(※マシュマロマンというのは、映画『ゴーストバスターズ』のラストに登場する巨大モンスターのこと)
プレイヤーは茫然である。いったい何が起きた? 
おそらく……いや、まず間違いなく、このマシュマロマンによる破壊を阻止するのがこのゲームの目的だろう。しかし、どう進めていいのか皆目検討もつかない。ゲームソフトの持ち主に聞いても、このゲームはどう進めていいかわからないという。完全にお手上げだった。
一度だけ、マップ画面に表示されている建物に入れたことがあったが、いったい何をしていいかわらず、何もしないままにやはりマシュマロマンが登場してゲームオーバーだった。
当時のゲームというのは、今のゲームのような懇切丁寧なガイドやチュートリアルがあったりするわけではない。『ゴーストバスターズ』のように、いきなりプレイヤーをゲームに放り出し、その後は何もかもほったらかし、なんてゲームは珍しくない。野球を知らない人に、ルール説明もなしにいきなりゲームをやらせるようなものである。当時はほぼ全てのゲームがそんな有様だった。だから「武器を買ったら装備しろ」と説明してくれる『ドラゴンクエストⅠ』は驚愕の親切設計だったのだ。(今さらながら、何の説明もされずに、やってみれば直感的にゲームのルールが理解できるように作られていた『スーパーマリオブラザーズ』がいかに偉大だったか、と感心させられる)
当時はみんな子供だったから、ゲームの箱や説明書をちゃんと保管する人はまずいない。というか、当時の思い出でゲームの取扱説明書なんて読んだ記憶すらない。ずいぶん小さなメモ帳のようなものだった、というふうに記憶しているが(説明書の形状すら記憶していないとは!)
ファミコン最初期というのは、ゲームの作り手にもプレイヤーにも共通したゲームルールというものがなかった。今は全てのゲームはジャンルで細分化され、「このジャンルのゲームなら、だいたいこういうアクションをすれば良い」というふうに、それまでの記憶の中で蓄積された感覚をあてはめれば、だいたい正解に行き着けるようになっている。しかし昔のゲームというのは、そういった感覚(共有言語?)すらまだ構築されていなかった。ゲームは信じられないくらいいい加減で混沌としていて、ゲームプレイヤーはひどく苦労しながら、目の前に提示されたゲームはどんなものなのか、どうやって進めるべきなのか、ゲームの作り手はどのように考えて設計したのか、ゲーム中の言語のようなものを解読しながら進めていかねばならなかった。まさに道なき道を進んでいる感じだった。
そのぶん、自由があったのは確かだけど。混沌とした自由だった。
『ゴーストバスターズ』は当時のゲームの中でもあまりに意味不明なソフトだった。それゆえに、今でも何かの拍子にふと思い出すゲームである。

と、これを書いている最中、何気なく検索をかけてみると、『ゴーストバスターズ』のプレイ動画を発見した。
え?! このゲーム3分くらいで終わるの? なんか……がっかりだ。



『ドラキュラⅡ 呪いの封印』

ファミコン・ディスクシステムで登場したゲームである。ヒット作『悪魔城ドラキュラ』の続編で、アクションゲームにRPG要素が組み合わされた、当時としては画期的な作品である。ゲームは昼と夜に分割され、夜になると街中であってもゴーストが登場して襲いかかってくる。また「血の涙」などの名曲は、このゲームが初出である。当時の音源をいま聞いても、思わず聞き惚れてしまう名曲である。
RPG要素、昼と夜の構成、今では当たり前すぎて何とも思わないかも知れないが、この当時では前衛的な“発明”ですらあった。
しかし私は、このゲームもほとんど進行させられずに終わった。冒頭の街を出ても、そこにあるのは茫漠と続く横スクロールのアクションゲームで、進んでいくと湖で行き止まってそれ以上進めないようになっている。
いったい、どうすればいいのだ? 子供の知恵でずいぶん色々試してみたが、結局何もできないまま進めるのを諦めてしまった。目的もなくゴーストを相手にレベル上げをしていたような記憶がある。
そういえば当時のゲームは、重要な説明が英語表示だった例が多かった。あの時代だから、ゲームプレイヤーといえばほとんど小学生。小学生相手に英語で説明する、今にして思えばいったい何を考えているんだ、と尋ねたくなるような話である。『ドラキュラⅡ』は……ああそうか、カタカナ表記だったっけ。

ゲーム最初期の時代というのは、作り手と受け手の間に共通した言語や方法といったものがまだなかった。そういうものを、まさに手探りで模索していた時代だった。
それだけに、今にして思えば「いったい何を考えてこんな設計にしたのだ?」と問いたくなるようなゲームやそんな局面は多くあった。
そういった「いったい何を考えて」を最初から最後まで満載させたゲームこそ『たけしの挑戦状』である。今は「クソゲーの殿堂」「クソゲーの神」と謎の尊称で名前が挙げられる作品であるが、『たけしの挑戦状』がクソゲーとして扱われるのは、ゲームとして当り前のように掲げられる文脈の全てを無視したから、あるいはそういった文脈を知らない人がうっかり作ったからだ。「こうすれば面白いんじゃない」と北野武流の芸人感覚の笑いを求めて作ったのではないか、と私は想像する。
『たけしの挑戦状』を文脈のない作品の代名詞として取り上げたものの、後に名作と呼ばれる多くの作品のなかにも、文脈から外れた解き方はいくつもあったように思える。「いや、そんなのわかんねぇから」といいたくなるような局面だ。
逆に、後に常識になる文脈をいち早く取り入れ、あるいはその作品で文脈そのものを提示(そして文脈から外れた理不尽は決して犯さない)した作品こそ古典名作と呼ばれるのだろう。

『ドラキュラⅡ』も……動画を見つけたけど、あれ? ぜんぜん理不尽な謎解きとかもないぞ? 当時の私はなんで解けなかったのだろう。



『リンクの冒険』

リベンジを試みたゲームもある。ディスクシステムで発売したゲーム『リンクの冒険』がそれだ。
『リンクの冒険』は同じくディスクシステムで発売した『ゼルダの冒険』の続編である。俯瞰のマップ画面を移動し、エンカウントすると横スクロールのアクション画面に切り替わるアクションRPGである。ナムコの『テイルズ』シリーズを斬新だと思っている半端な連中は、このゲームをプレイして膝から崩れるといい。
私はこのゲームを、最初のボスである「馬面」のところまで進んだが、そこが限界だった(馬面、というのは馬の頭をした大男のボスのこと。正式な名前を知らないので、「馬面」と呼んでいる)。冒頭で挫折した多くのゲームの一つである。
2004年、ゲームボーイアドバンス「ファミコンミニ」シリーズでリバイバルした時、真っ先に購入した。もちろんあの時のリベンジをするつもりでだ。
改めて当時のゲームを遊んでみると、色んな意味でシビアだった。私はコンピュータの仕組みはよくわからないのだが、ゲームはボタンを押せば常に反応するものではない。反応する瞬間と、そうでない瞬間とがある。最近のゲームでは、常に何かしらのボタンを押すとスムーズで確実に反応するように設計されているが、昔のゲームはそういうわけにはいかなかった。私の頭の中では「ここだ!」というタイミングで剣を振ったつもりだが、反応していない、ということが頻繁にあった。『リンクの冒険』もそういう意味でシビアなゲームだった。攻撃したつもりが、ジャンプしたつもりが、実際にはぜんぜんその通りに動いてくれない。
“当たり判定”も厳しかった。プレイヤーのつもりでいえば「当たっていない」しかし当たっていると判定されることが多かった。敵の攻撃は、少し大袈裟なくらいに確実にかわす。最近のゲームは、むしろ甘めに判定されるようになっているが、当時はどのゲームもこの判定という部分は厳しかった。
ゲームボーイアドバンス版の『リンクの冒険』は順調に進めることができた。攻略法などは一切見ない。難易度は高いが、ちゃんとやってみると理不尽なものではない。『リンクの冒険』も有効なガイドはほとんどなく、プレイヤーの聡明さにすべてを委ねられていた。「○○の街へ行け」なんて誰も教えてくれない(考えてみればノーヒントが当たり前の当時のゲームは理不尽だったような)。今の状況で何が可能でどこへ行けるのか、一つ一つ手にとって確かめて進めていく。後に名作と呼ばれる『ゼルダ』シリーズと同じやり方を実践していけば、確実に進めていけるのである。順調のボスを撃破し、ハートのかけらを集め、なかなか悪くない感じに進んでいた。
が――デスマウンテンで挫折してしまった。
デスマウンテンは尋常ではないくらい長く、過酷な難易度を持つ洞窟である。しかも分岐が多く、複雑である。敵も多く、どれも強い。それでも、私は果敢に挑み、進んでいった。全ての分岐を注意深く確かめ、たった一つの正解を探りながらゲームを進んだ。デスマウンテンに突入して2時間くらいが経過しただろうか。いよいよ終わりだ、ゴールに到達するはずだ――しかし私が行き着いたのは行き止まりだった。横スクロールのアクションシークエンスが終わり、俯瞰マップ画面に切り替わったそこは、四方八方行き場のない行き止まりだった。
なぜだ? どこで道を間違えた? どこから道を間違えていた? どこからやり直さねばならないのだ?
これまでの道のりは――もちろん覚えていない。どこをどう歩いてきたのか、そこまで丁寧にマッピングする性質ではない。どこまで戻って、間違いを確認しなければならないのか、見当もつかない。私の脳内のアリアドネの糸は完全に混乱し、道を見失っていた。私はこの瞬間、『リンクの冒険』を諦めてしまった。昔のゲームはやっぱり難しかった。
この挫折の体験は貴重である。「人はどこで、どうやって挫折するのか」その克明な記録になった。ゲームでなくても、小説や漫画でも途中で挫折してしまう人は多い。人はどうして挫折するのか。現在位置がわからなくなってしまった時、状況が掴めなくなった時、状況の確認があまりにも煩雑で途方もないもの、というふうに思わせてしまった時、人は挫折する。これは物作りにおいて重要な問題であるから、自分の失敗をしっかり記憶し、いつか他人の失敗に直面した時、いつでもフォローできる知恵や手法を考えておかねばならない。



昔のゲームは意味不明なものが一杯あった。ゲームのオールドユーザーは最近の懇切丁寧なわかりやすいゲームを指して、「今のゲームプレイヤーは簡単なものしか知らない。昔はもっと難しかった」などとと語るが、昔のゲームは(操作体系が洗練されておらず)単に理不尽なだけで、しかも実際にエンディングまで到達できた人なんてほとんどいなかったはずだ。
当時、エンディングを見たことのあるゲームというのは、ほとんどが裏技でいきなりエンディングかその直前にジャンプする方法を試みたもので、それまでの経過がどんなもので、ラストボスがどんな姿をしていてどんな攻略法が必要なのか、まともに知っている作品なんてろくにないはずだ(当時は簡単にエンディングに飛べる裏技がだいたいのゲームにも搭載されていた)
「自分はゲームエリートだ」と固く信じる老害ゲームユーザーは、その当時の自身の戦歴がいかにボロボロだったかろくに覚えていない。実際は遊んだ、といっても適当に遊び流しただけで、せいぜい序盤で行き詰まってそこから先にどんな展開があるのか何も知らない。思い出だけはいつも美しい、というわけだろうか。
“ほとんどのゲームは手も足も出ず、ただ単に画面上に変わった反応があるのが面白かったから遊んでいただけ”これが本当のところだろう。最近のゲームの方が確実に出来はいいはずである。

それにしても思い返してみると、挫折したゲームのいかに多いことか。クリアしていないゲームの怨霊で、我が身が崩れそうである。
失敗や挫折の記憶というものは、なかなか消えるものではない。今ではネットで「正解の道」を紹介した動画に行き当たり、特に失敗や挫折を気にせずにいられるかもしれない(実際、今回記事を書きながらネットで検索したら、エンディングまでのプレイ動画が簡単に見つかった)
しかしあの時代は、ちょっとした失敗や挫折が、解決の手段がなくずっと頭の中に残り、もやもやしてすっきりせず、中には私のようにふっと思考の中に吹き上がってくるタイプの人間もいる(簡単に忘れられる、という人も結構いるようだが)
挫折したゲームの記憶は、クリアしたゲームより深く記憶の中に根付いている。実に鬱陶しい。クリアしたゲームは美しいが、しっかりやり込んだはずなのに挫折したゲームの記憶は負の記憶である。
失敗や挫折の記憶は、多分どーでもいい、何の価値もないものだが、しかし何かを“忘れない”ようにするための一つの方法だし、もしかしたら知らないところで何かを始めようとする原動力になっているかも知れない……と肯定的に話を終えよう。






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