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■2013/02/23 (Sat)
評論■
前編を読む
7、見えざる者の叫び
『氷菓』は死体が登場してこないミステリである。しかしある意味での「死」をこの作品は描いている。
『氷菓』には物語上の最重要人物であるにも関わらず、登場してこない3人の人物がいる。関谷純、本郷真由、安城春菜の3人だ。『氷菓』は一度も登場しないこの3人を軸に、この3人を追いかけていく物語であるともいえる。
第1部「氷菓」篇は関谷純の物語だ。
第3話『事情ある古典部の末裔』で折木奉太郎は、千反田えるから「叔父の関谷純があの時、何を言ったか調べて欲しい」と依頼される。千反田えるは関谷純のある一言を聞いて、「泣いてしまった」という。あの時、何を聞いて、どうして泣いてしまったのか……。間もなく千反田は、その切っ掛けは文集氷菓にあったと思い出す。叔父に文集について尋ね、その答えを聞いて泣いてしまったのだ、と。
「氷菓」の答えは単純な駄洒落だった。氷菓を英語にするとアイスクリーム。アイスクリームの切り方を変えると、“アイ・スクリーム”。これを和訳すると――“私は叫ぶ”。
叫び、悲鳴。これが文集氷菓の正体だった。文集に込められていたのは、その後の永久不変に残り続け、文化祭の時期になると必ず目を覚ます“呪い”であった。
高校生活と言えば薔薇色。折木奉太郎はそう考えていた。関谷純の時代、潮流に乗せられて、身につけたばかりの角張った言葉を振りかざして学生達は政治的運動に身を捧げていた。もっとも、それは“ごっこ遊び”に過ぎなかった。学生達は大人のつもりで不満の声を上げ、体制を憎み何かを変えようと活動に熱中するが、実体は単に無用に供給されてくる若いエネルギーを消費したいだけだった。学校という保護され閉鎖された空間の中で、いくら喚いても暴れ回っても社会に与える影響は何もない。無謀な勇気を示した者は学校の中では尊敬されるだろう。しかし学生運動の限界はそれまでだ。ヤンキーの武勇伝となんら変わりない。井の中の蛙、これが学生運動の正体だ。
それでも関谷純は学生運動に夢中になり、青春の炎を燃やし、燃やし尽くした。関谷純は教師との対立で、5日間という文化祭の期間を戦果として得た。きっと悔いはなかったのだろう、と折木奉太郎は考えた。
「この旅楽しいわ。きっと10年後、この旅を惜しまない」姉の手紙にはそう書かれていた。
「確かに、10年後の私は気にしないのかも知れません。でもいま感じた私の気持ち、それが将来どうでもよくなっているかもなんて……今は思いたくないんです。私が生きているのは今なんです」千反田えるは自分の思いをこう捉えている。
関谷純も満足行くまで戦った。きっと惜しんではいないはず。
しかし現実は違った。関谷純の青春時代は薔薇色ではなかった。
校長の独断で決められた文化祭縮小。それに対抗して組織された反対運動。そのリーダーに押しつけられた関谷純。実際の運営は別の人がやっていて、関谷純の役割はもしも何かしらの問題が起きた時の生け贄。
反対運動の情熱は激しく燃え上がり、文字通りとある学生が格技場に火を付けてしまった。暴れ回った学生の責任を取って退学を申し渡された関谷純。結果として5日間の文化祭を成果として手に入れたが、それは関谷純が関わって得たものではなかった。
体制である犬に食らいつかれた関谷純。助けを呼ぼうと振り返るが、そこにいた兎たちはみんな知らない顔をして背を向け、目をそらしていた。兎たちは関谷純という犠牲など構わずに、身勝手に文化祭を謳歌していた。犠牲の弔いとして“カンヤ祭”という名前だけ残したが、それは欺瞞でしかなかった。裏切りと身勝手、それをごまかすために用意された名前だった。これが45年前の“薔薇色の青春”の正体だ。
だから関谷純は、自分がその時に上げられなかった“叫び”を文集のタイトルに残した。自分の“叫び”がその後も残り、文化祭の背景にある呪いとして学生達の間に密かに残り続けるように。
声の上げられなかった者の叫び。すでに物語の舞台から去って行った者の叫び。あまりにも小さく、誰からも気付いてもらえなかった悲鳴。叫び声すら上げられなかった、弱き者の嘆き。ある意味の死者。折木奉太郎は、そこに残存した無念を掬い上げ、弔う。
第2部『愚者のエンドロール』篇では本郷真由が見えざる者として“叫び”を上げる。
第8話『試写会に行こう!』で古典部一同は入須冬美から依頼を受ける。途中まで作られたビデオ映画。仮称は『ミステリー』。その前半部分、謎の提示だけが作られ、解決篇がまだ未完成だった。脚本を一任された本郷真由が病気で倒れたため、解決篇がどう展開するのか、犯人が誰だったのか、わからないままだった。それを予想して欲しい、というのが入須冬美の依頼内容だった。
折木奉太郎は入須冬美の依頼通りに映画に決着を付け、『万人の死角』というタイトルを与える。
しかしその後、映画に隠された真実に気付く。本郷真由が映画に託した思いは、折木奉太郎が考えたものと全く違っていた。
そもそも脚本を担当した本郷真由は、自分から立候補したわけではない。文化祭に参加したい、という運動部系の人達の熱気に押されて、やむなく“押しつけられた”役目だった。クラスの多数決で映画は「ミステリー」と決まったが、本郷真由は人が死ぬような話なんて書けるタイプではない。しかし気の弱かった本郷真由は、脚本担当を断ることができず、クラスの多数決を否定することもできず、仕事を引き受けて……いや“押しつけられて”しまったのだ。
それでようやくできた前半部分だけの脚本で撮影が始まるが、できあがった映像は本郷真由の意図とはまったく違うものだった。死ぬはずのなかった海藤武雄。本郷真由はほんの少し流血する程度で済ますつもりだった。それが優しい本郷真由が書ける限界だった。
しかしクラスの一同はその場のノリで、あるいは撮影に熱中していくうちに暴走していく。死ぬはずのなかった海藤武雄は死亡、しかも腕が切断されるという凄まじい状態で。
……脚本はできあがっていたのだ。できあがっていたが、クラスの全員が勝手に作ってしまった前半部分とまるで違う内容だった。前半部分を撮影し直すほどの余裕はなく、それに本郷真由はクラスの決定に反して、人の死なないミステリーを書こうとしていたのだ。
状況に隠されたキーワードは、第1部『氷菓』篇と一致する。押しつけられ、回りの暴走の責任を取らされる役。関谷純も本郷真由も、同じ場所に立っていた。
事態に気付いた入須冬美は、本郷真由は病気だ、ということにして皆の目から遠ざけてしまう。その上で、映画に別の結末を付け替えてしまった。
折木奉太郎が見つけ出したのは、映画の中に込められた本郷真由のささやかな“叫び”だった。叫び声を上げたかったけど、気が弱かったために誰にも届かなかった声。やはり本郷真由は、物語の舞台から去り、戻ってくることのない、ある種の死者であった。
8、薔薇色の高校生活
『氷菓』は折木奉太郎という少年の成長の物語である。感情の色を失っていた少年の、人格を取り戻していく過程の、そして冒頭に掲げられた「薔薇色」を得るまでの物語である。
もう一度第1話の冒頭の台詞に戻ってみよう。
「高校生活をいえば薔薇色。薔薇色といえば高校生活。そう言われるのが当たり前なくらい、高校生活はいつも薔薇色の扱いだよな。さりとて、全ての高校生が薔薇色を望んでいるわけではないと俺は思うんだが。例えば勉学にも、スポーツにも、色恋沙汰にも興味を示さない人間というのもいるんじゃないのか。いわゆる灰色を好む生徒というのもいるんじゃないのか。ま、それってずいぶん寂しい生き方だと思うがな。」
折木奉太郎はこの場面で、自分について語ったわけではない。そういうものもあるんじゃないか、という話をしただけだ。しかし客観的に見ると折木奉太郎は灰色。特に夢中になるものはない。平凡な学生が通るであろう青春に興味を持てない。感受性に欠陥を持った少年、それが折木奉太郎だった。
第2話『名誉ある古典部の活動』で“愛なき愛読書”の謎を解いてみんなで大騒ぎしている中、折木奉太郎だけがぽつんと灰色をまとっている。奉太郎は疎外感すら感じていた。
千反田えるの依頼に応じて、折木奉太郎は45年前、関谷純に何が起きたかを読み解こうとする。その帰り道――。
「いい加減灰色にも飽きたからな。千反田ときたら、エネルギー効率が悪いことこのうえない。部長職、文集作り、試験……。そして過去の謎解き。よく疲れないもんだ。お前も伊原もだ。無駄な多いやり方をしているよ、お前らは」
そこは見渡す限りの田んぼ。あぜ道の途上で止まって、里志と対話する。降っていた雨は止みかけて、光が差し込もうとしていた。
「ま、そうかもね」
里志にしては珍しく感情を込めない言い方だった。
奉太郎は、ぽつりぽつりと言葉を続ける。
「でもな……隣の芝生は青く見えるもんだ。お前らを見ていると、たまに落ち着かなくなる。俺は落ち着きたい。だが、それでも俺は何も面白いと思えない。だからせめて……その、何だ。推理でもして一枚噛みたかったのさ。お前らのやり方にな」
見上げると、一羽のカラスが飛び去っていくのが見えた。まだ灰色に影を落としている山なみの向こうで小さくなっていくのが見えた。
「何か言えよ」
何も言わない里志を、ちらと振り向く。
「ホータローは……ホータローは薔薇色が羨ましかったのかい」
里志は雨合羽のフードを深く被っていた。光が差し始めていたから、里志の顔に暗い影が落ちていた。
「……かもな」
奉太郎は自転車を進ませる。
薔薇色のシンボルである千反田える。何事にも好奇心を示し、熱心に物事にぶち当たろうとする千反田える。その千反田えるが持っているエネルギーに逆らえず飲み込まれてしまった折木奉太郎。
もう一人の薔薇色のシンボル折木供恵も同じだった。「10年後、私はこの旅を惜しまない」と手紙にははっきり書かれていた。
だから関谷純もきっと薔薇色だったのだろう、と折木奉太郎は考えていた。結果は退学だったが、青春の炎を全力で燃やしきった上での退学。だから惜しむなんてことはなかっただろう……。
しかし実際は違っていた。関谷純は生け贄だったのだ。無理やり責任を押しつけられ、了解しない退学を突きつけられ、しかし弱くて叫び声すら上げられず学校を、青春時代の舞台から去って行った。
きっとそこに薔薇色が隠れているに違いない、そう思って探し当てた関谷純は、灰色――それも限りなく黒に近い灰色だった。折木奉太郎は、ここで本当の意味での灰色を知ることになる。探し当てたのは、関谷純という人物が密かに込めた“感情”だった。
千反田えるはいついかなる時でも全力で当たる。不満があれば恐れもせず声を上げる。間違いがあればずばり指摘する。
第6話『大罪を犯す』で、千反田は尾道先生の間違いに怒った。尾道先生が間違えていたからだ。その後、千反田はどうして自分が怒ったのか、その理由を知りたがった。具体的にはなぜ尾道先生が間違いを犯したのか。
折木奉太郎は答えを示しながら、千反田という人物について考える。
「怒らない千反田が怒り、その理由を知りたがった。怒ることは悪いことじゃないと言いつつも、本当はいつだって怒りたくないんではないだろうか。だから千反田が理由を知りたがったのも、尾道にも3分の理があり、怒ったのは自分のミスだった、と思いたかったからじゃないだろうか。千反田えるとは、そういう奴ではないか。……いや俺は千反田の何を知っているというのか。千反田の行動を読めることはあっても、心の内まで読み切れると考えては、俺はあれだ。“大罪”を犯している。慎むべき慎むべき」
折木奉太郎は、千反田という人物について、千反田がどういう感情を持っているのか、それを知ろうと考え始める。
その後第8話『試写会へ行こう!』で折木奉太郎は、入須冬美からビデオ映画の結末を考える依頼を引き受ける。
いまいち乗り気ではなかった折木奉太郎だったが、第10話『万人の死角』で入須冬美から諭される。
「最初から君が目当てだった。古典部などではなく、折木君、私は君がこれまでの一件で君自身の技術を証明したと考える。君は、特別よ。……君は、トクベツよ」
「特別」この言葉が与えられた瞬間、画面にはささやかに薔薇の花びらが散り、さらにカメラがイマジナリィラインを越える。これまでの灰色の折木奉太郎ではなく、薔薇色の折木奉太郎に次元が移り変わったからだ。
しかし折木奉太郎は躊躇する。
「俺は特別なのか。俺は俺自身を、本当に正しく見積もっているのか。信じて、良いのだろうか」
そう考えながら見詰めるグラスの中の自分自身はゆらゆら揺れていた。
こうして、折木奉太郎の薔薇色生活が始まった。第10話は画面がやけに明るい。シリーズ全体を通しても、画面がもっとも明るく作られている。折木奉太郎が薔薇色の高校生の生活に入ったからだ。
しかしそうして解いたビデオ映画の真実は、薔薇色ではなかった。秘められていたのは本郷真由という人物が残した“叫び”。入須冬美から与えられた“薔薇色”はまがい物だった。騙されていたのだ。
第11話『愚者のエンドロール』で千反田えるに諭された後、折木奉太郎は自分自身が移る川面を見詰める。そこには、はっきりと自分の姿が映っていた。入須冬美のまやかしではなく、真実に目を向け始めたからだ。
折木奉太郎は、謎をただの文章問題としか考えていなかった。そこに込められている“人間の感情”を何も知ろうとしなかった。謎を解こうと思えば簡単にできる。しかし大切なのは、そこに込められた“人間の感情”。そういう結末を選んでしまった“人間の感情”。折木奉太郎は、ようやく謎の向こうに隠された“人間の感情”を意識するようになる。
11,5話『持つべきものは』。入須に弄ばれ落ち込んでいる折木奉太郎に、千反田えるは強く言う。
「折木さんは特別ですよ! 私たちにとって! 福部さんも、摩耶花さんも特別です。私が関わった方は、私にとって皆さん特別です」
「お前の主観の話はいい。俺は一般論として……」
奉太郎は話を打ち切ろうと、千反田から目をそらす。
「主観じゃ駄目ですか! 回りと比べて、普通とか特別とか、そんなこと気にしなくたっていいじゃないですか。誰か一人でもいい。特別と思ってくれる人がいれば、私はそれで充分だと思うんです」
灰色に沈んでいた折木奉太郎の精神は、再び回復し始める。
第1話から順番に映像を見ていけば気付くが、『氷菓』の画面は次第に次第に明るくなっている。第1話の暗いトーンを持った画面。文集氷菓の一件を通して次第に明るさを取り戻していき、画面の明るさは10話で一度ピークを迎える。
文化祭はハレの場所だから明るく描かれるのは当然として、その後のエピソードは比較的明るい画面で描かれるようになった。決して、撮影の時間が足りずフィルターをかける余裕がなかった、とかそういう理由ではないだろう。折木奉太郎という人物の世界に対する印象の変化を、画面で表現した結果だと考えられる。
第18話『連邦は晴れているか』はアニメオリジナルのエピソードだ。中学時代にいたという小木正清。校舎の頭上を飛んでいくヘリコプターを見て、ふと折木奉太郎は「小木はヘリが好きだったな」と回想する。
しかしすぐに疑問にぶち当たる。「小木は本当にヘリが好きだったのだろうか?」。わずかなヒントを元に図書館へ調べに行くと、真相が出てきた。小木はヘリが好きだったのではない。あの日、山で遭難者が出ていて、救出のヘリが出るかどうかを気にしていたのだ。
折木奉太郎は反省する。そんな小木の気持ちも斟酌せず「小木はヘリ好きだったな」なんて言ってはならない、と。
「それは無神経ってことさ。(中略)人の気持ちも知らないでって感じだ」
謎解きは得意でも感情の読めない折木奉太郎が、真っ先に小木の心象を探ろうとしたのだ。
そんな折木奉太郎の気持ちに、千反田えるは言葉にできない感情を持ち始める。
「折木さん、それってとても……うまく言えません」
しかし千反田自身、自分が何を思ったのか、どういう感情を持ったのか言葉にできなかった。
千反田えるは折木奉太郎を変えた。そして折木奉太郎は、千反田えるを変えようとしている。しかしその答えは保留され、別の機会のお預けとなった。
それでも、折木奉太郎に対する千反田えるの態度はにわかに変化があった。
第19話『心当たりのある者は』で千反田はいつものように折木奉太郎の側へ行くが、ふと我に返って恥ずかしそうに頬を染める。その以前の千反田えるは同じようなことをしても気にも留めなかったはずだ。
第20話『あきましておめでとう』では折木奉太郎に着物を見せびらかしたい、という理由で初詣に誘う。
第21話『手作りチョコレート事件』では千反田はチョコレートを送ることについて、折木にこう言う。
「折木さん。その、今日はバレンタインですが、私の家では本当に親しい方にはお歳暮やお中元をお送りしないことにしているんです。ですので、バレンタインも、あの……」
千反田は恥ずかしそうに声を潜めてしまう。
それを聞いた折木奉太郎は動揺する。「それって、つまり……どうなんだ?」奉太郎はどっちの側に受け取るべきなのか、判断を保留する。
同じ第21話では、真相を明かした折木が里志を掴み、「もし冗談なんて言ったら。殴るしかないだろうな。千反田の分と伊原の分。グーで」と詰め寄る。折木奉太郎は、他人のために憤慨して、問い詰めたのだ。だが福部里志から理由を聞かされたその後、「すまん。お前のこと何もわかってなかった。と言うべき何だろうが、まあ言えないな」と心の中で反省する。
再び千反田の話に戻ろう。第22話『遠回りする雛』では何もない田舎の道を2人きりで歩きながら、千反田は「紹介したかった」と語る。
「見てください、折木さん。ここが私の場所です。水と土しかありません。人もだんだん老いて疲れてきています。私はここを、最高に美しい場所だとは思いません。可能性に満ちているとも思っていません。でも、折木さんに紹介したかったんです」
それは千反田えるという人物が抱えている背景の全部。それを折木奉太郎に知って欲しい、と千反田えるは考えたのだ。
『氷菓』は折木奉太郎の成長物語だ。感情を持たない少年が、いかに感情を持つか。灰色の少年がいかに薔薇色に変わっていくか。その途上で薔薇色と思っていた関谷純の過去が薔薇色なんてものではないと知り、入須冬美から薔薇色を与えてもらったと思ったそれは利用されていただけだったと知る。
第1話の冒頭で折木奉太郎が考えていた「薔薇色」は間違えていなかったが正しくもなかった。学生運動みたいに大騒ぎして情熱を燃やし尽くすのが必ずしも薔薇色ではない。他人から与えられる薔薇色も違う。そういういかにも誰から見てもそれだという薔薇色ではなく、内面的なところからごくごく普通に出てくる感情を得ること、感じること、これを自身のものにすること。第1話の折木奉太郎は何も感じない少年だった。だが第21話では誰かのために感情的になっている。感動のない少年がごく普通で平均的なパッションを獲得する。千反田に対するかすかな恋愛感情も、感情を獲得する上で重要なファクターである。感情を得て誰か他人の考えや行動に介在する、その物語の中に、恋愛は描くべきモチーフであった。
いかにもな情熱を獲得する物語ではなく、ごくごく普通の少年としての感性を獲得する。それこそが、実は「薔薇色」の本当の姿だった。
しかし、折木奉太郎は最後の最後まで保留する。
「ところで、お前が諦めた経営的戦略眼についてだが……俺が治めるというのはどうだ?」
第22話で折木奉太郎はこういう言葉を考えた。しかしその言葉を発することはなかった。その言葉が意味すること――千反田えるの人生を引き受けるということだ。
折木奉太郎は第1話でどうして千反田えるを拒絶しなかったのか、と問われて「保留」という言葉を与えられる。第22話でも折木奉太郎は再び「保留」した。折木奉太郎が保留ではなく「答え」を出すのは、まだもう少し先の物語だろう。
9、天才と凡人/期待
『氷菓』には“叫び”というモチーフ以外に、もう一つ重要なモチーフが存在する。それが“期待”だ。『氷菓』は常にこの2つの軸を交差させながら、進行していく。
最初に期待、いや“才能”がテーマになったのは第8話『試写会に行こう!』だ。
学校へ向かう折木奉太郎と福部里志。ふと校舎を見ると、水泳部の決勝戦進出の大きな垂れ幕がかけられようとしていた。
「へえ、決勝進出だってさ。すごいよね。ああいうのを見ると、僕にも何か才能が、とか考えちゃうけど、どうも福部里志には天賦の才はなさそうだ。大器晩成に賭けたいところだけど、望み薄だね」
福部里志はいつもの軽々しさで話を始める。
さらに里志は続ける。
「普通の人生に魅力を感じるのかい? ホータローならそうかもね。でも果たしてホータローにそれが送れるかな?」
「どういう意味だ」
折木はからかわれているような気がして足を止める。
「僕は福部里志に才能がないのを知っている。でも折木奉太郎までがそうなのかはまだ保留したいところだよ」
ここでは福部里志はあくまでも「保留したい」と言っている。しかし里志は答えを概ね見つけていたのだ。
第10話で折木奉太郎はこう尋ねる。
「里志、お前はお前にしかできないことがあると思うか?」
「ないね」
里志は即答だった。
「言わなかったっけ。僕には才能がないんだって。例えば、僕はシャーロッキアンに憧れている。でも、僕にはそれにはなれないんだ。僕には深遠なる知識の迷宮に、とことん分け入ってやろうという気概が決定的に欠けている。もし摩耶花がホームズに興味を傾けたら、保証して良い、三ヶ月で僕は抜かれるね。色んなジャンルの玄関先をちょっと覗いて、パンフレットにスタンプを押して回る。それが僕にできる精々のことさ。第1人者にはなれないよ」
さらに里志は去り際にこう言う。
「シャーロッキアンよりも心惹かれるものはいくらでもあるさ。それにしても……羨ましい限りだね」
自分に才能があるかないか。それを確かめる方法はたった1つだ。充分に自分を試すことだ。これしかない。高校生になると、大抵は自分の身の程を理解するようになる。自分は天才か凡人か。小学生には難しい問いかも知れないが、高校生にとっては容易な答えだ。ないものはない。あるものはある。それだけだ。
よく「天才などいない。すべては努力だ」という言葉を耳にするが、それは言い訳に過ぎない。「才能のない自分でも、努力さえすれば」と結論を出すのを先延ばししているだけだ。充分すぎるくらいの努力をしても、いや努力したからこそ間違いなく見えてくるものがあるだろう。「自分には才能がない」と。才能がない、という結論は、努力した者にしか見えない結論であり、その先に行ったものが天才と呼ばれるのだ。それでも認められない者は、単に現実から逃げているだけだ。
そして「才能なき者」がどれだけ「情熱」を燃やしたところで、結果はたかが知れている。第8話『試写会へ行こう!』で入須冬美がはっきり口にする。
「《技術》がない者がどんなに情熱を注いでも結果は知れたもの」
10話『万人の死角』、“折木奉太郎には《技術》がある”と判断した入須冬美は折木奉太郎に語る。
「では一つ話をしよう。座興と思って聞いて欲しい。とある運動部の補欠がいた。補欠はレギュラーになろうと、極めて激しい努力をしたが、レギュラーにはなれなかった。そのクラブにはその補欠よりもよっぽど有能な人材が揃っていたから。その中でも天性の才能の持ち主がいた。もちろん補欠の技術とは天と地の開きがあった。彼女はある大会で非常に優れた活躍をし、MVPにも選ばれた。インタビューアが彼女に聞いた。大活躍でしたね、秘訣は何ですか、と。彼女はこう答えた。――ただ運がよかっただけです。この答えは、その補欠にはあまりにも辛辣に響いたと思うけど、どう?」
これが現実だ。同じ努力しても、才能という基本的要素がなければ結果が出ることはない。天才の1の努力は、凡人の100の努力に匹敵する。ピカソは13歳で美術大学に入り、15歳でアカデミズムから全てを学び、自分で新しいアートの形を探すしかないという問題にぶち当たってしまった。誰しもそういうわけにはいかない。努力一つでピカソになれるのなら、苦労はない。
「努力さえすれば自分でも」なんて根拠のない言葉をふりかざす人間は、まだ充分にやりきっていないのだ。
第3部である『クドリャフカの順番』。十文字事件が起き、福部里志は犯人逮捕に躍起になる。手の届かない月に手を伸ばしながら、1人で考える。
「奉太郎は変わった。いや、真価を発揮した。千反田さんに出会うことで僕がこよなく愛する、意外性の秘めた人間として。果たしてそれを、僕はただ愉快だ、と思っているだろうか。容疑者は1000人以上。この中から推理で犯人を導き出すなんて、どんな人間でも不可能だ。だとしたらできるのは現行犯逮捕。ホータロー向きじゃないこの事件の真相を、僕の手で解き明かす。ホータロー、十文字は僕が捕まえてみせる」
福部里志は、まだ諦めていなかった。自分には可能性がある……はずだ、と。だから可能性に賭けようとした。十文字事件の犯人を捕まえて、自分で自分に証明しようとした。
しかし、福部里志は敗北した。
第16話『最後の標的』で、折木奉太郎は犯人の目星をつけた。里志は、その事実に愕然とした。
「どっちでもない? 容疑者は1000人以上だよ。それなのに、繋がりもミスも見つけず、犯人を特定しようってのかい?」
「まあ、そうだな」
「どうやってさ!」
里志は動揺の声を上げて飛びつく。あれだけ学校中を駆けずり回っても怪盗十文字を捕まえられなかったのに。多くの探偵志願者が怪盗十文字を追いかけたのに誰も捕まえられなかったのに、折木奉太郎は地学準備室から一歩も出ず、答えを導き出したという。
以来里志は、「期待」という言葉を多用する。
「自分に自信がある時は、期待なんて言葉を出しちゃいけない。期待ってのは、諦めから出る言葉なんだよ。そうせざるを得ない、どうしようもなさがないと、そらぞらしい。期待っていうのは例えば……」
ここで里志はそこで見た真実を回想する。折木奉太郎と田名辺治朗の密談。里志はそこで決定的な敗北を突きつけられたのだ。
もう1人、才能のない自分に失望する者がいる。漫画研究部の河内亜也子だ。河内亜也子には1年前、仲の良い友人がいた。安城春菜だ。『氷菓』に登場しない、第3の人物である。
河内と安城は友達同士で、漫画の話で盛り上がって、今度一つ書かないか、という話になった。安城春菜は漫画好きでも漫画を書いたことがあるわけではない。河内もそんな大したものができあがるとは思っていなかった。しかしできあがったのは、傑作だった。
「あんた読めばわかる。そう言ったよね。そう、わかるよ。わかっちゃうんだ。でも、ほら……そういうのって認めたくないでしょ。あんたならどうよ? あんまり漫画読まないねって思ってた友達がさ、初めての原作でさ、それを書いたとしたらさ……ね? 洒落にならないと思うでしょ? だからそれは押し入れの奥。一番奥の箱の中。見ないことにして、ついでに名作なんてどこにもないことにしてたのにね。つくづく巡り合わせだね」
河内亜也子は打ちのめされたのだ。才能というものに。河内自身漫画描きで、伊原摩耶花によればそれなりに描けるほうだという。充分に努力もしてきて、いくつも作品を書いてきたのだろう。しかし、天才が現れ、打ちのめされてしまった。自暴自棄になった河内が誰構わず当たり散らすようになったのは、これが原因だろう。
才能のない者は、才能ある者から打ちのめされるしかない。その上で、「期待」するしかない。それがせめての慰めだから。
第3部『クドリャフカの順番』に込められた“叫び”とは、才能なき者のルサンチマンである。福部里志や河内亜也子、それから田名辺治朗。そういった才能なき者たちの嘆きが、諦めの集まりが十文字事件を起こした。才能ある者に伝えたい言葉があったから。
「クドリャフカ」……実験でロケットに乗せられて、帰ってこられなかった犬の名前。“非業の死”というのは福部里志の解釈だ。この物語は、打ち上げられ、帰ることのなかった者達が残された人に送ったメッセージだ。安城春菜はそのシンボルだったのだろう。
第17話『クドリャフカの順番』で、田名辺治朗は語る。
「折木君。君は陸山が『クドリャフカの順番』の原作を紛失したから、僕がこういう事件を起こしたと言ったね」
「あくまで仮定です。先輩の動機まで知りようがありませんから」
「まあ無理もない。僕の気持ちがわかるのは、たぶん安城さんだけだ」
ずっと平常を保っていた田名辺の言葉は、表情は次第に崩れ始める。陸山会長にあてた暗号だったけど、伝わらなかった。
「だったらなぜ?」
折木は問う。
「ムネは、陸山は『夕べには骸に』を仕上げて以来、一度もペンを握っていないんだ。安城さんも天才的だけど、ムネがあれほど書けるとは知らなかった。下手糞な僕と、比べものにならない。原作はちゃんとあるんだ! なくしてなんかない! あいつがその気にさえなれば、『夕べには骸に』を越える話になる筈なんだ! けど、ムネにとって漫画描きはあの時限りの遊びだったんだ。勿体ないだろ? 惜しいと思うだろ? なのにムネは描こうとしない。あいつが一言やるぞと言えば、僕は何でもするつもりでいた。ムネに聞くのが怖かった。メッセージに気付いていないなんて、信じたくなかった。……絶望的な差からは“期待”が生まれる。僕はずっと期待していた」
田名辺は訥々と静かに感情を爆発させていく。十文字事件を暴いた時でさえ見せなかった、感情と本心がそこに現れていた。
「なら、あなたが本当に伝えたかったことはこうですか。「陸山、お前はクドリャフカの順番を読んだのか」」
その手前の場面で、折木奉太郎は「クドリャフカの順番を紛失した」という回答を示したが、これも間違えではなかった。だが折木奉太郎は、表面的な回答のさらに向こう側に秘められた、当事者の“叫び”を探り当てる。
第17話は『氷菓』では珍しく、物語の前後が入れ替わっている。最初に十文字事件の完遂を。その次に里志が目撃した、十文字事件の真相を。それから文化祭閉幕の挨拶の場面「今年の文化祭もつつがなく終えることができました。いや変な事件もあったみたいだけど」の陸山の台詞。さらに陸山は、密かに田名辺へ「おつかれさん」の言葉を残す。これも原作にはない台詞だ。アニメ版は原作の意図を増幅させ、田名辺の失望感を強調している。
そして、田名辺の告白の場面へと物語が進む。一見バラバラに分解して見える構成。しかし感情はひと連なりで繋がっている。福部里志の敗北の場面からはじまり、その理由を。次に田名辺の敗北の場面が挿入され、告白の場面を。陸山は田名辺が犯人だと気付いていた。しかしそこに込めたメッセージは、“叫び”はその上を素通りしていた。その愕然とした思いを、折木との対話の場面をやり直してまで言葉にして込めた。
文化祭に集まったおよそ1000人の人達は敗北した。誰も十文字事件を解くことはできなかった。勝者はたった2人、折木奉太郎と陸山宗芳だけだった。凡人にできることは、ただ天才達に“期待”するだけだった。
薔薇色。
叫び。
期待。
『氷菓』は3つの軸を交差させながらゆっくり物語を進行させていく。映像は間違いなくシリーズアニメ史における最高のクオリティ。ストーリーも一見すると地味で大きな感情のうねりもないように見えるが、シーンの構成も台詞の使い方も合理的で、いずれも物語の骨格に作用してあまりにも見事なクライマックスを作り上げている。後世に残すべき最高のアニメーションとなった。
しかしながら、『氷菓』はあまり充分に議論され、批評されていないのではないか、と思うようになった。色んな人の意見を聞いていると、「絵は良いけど話は駄目」というところで一致している。
話は駄目? いったい何を見ているんだ? どうしてここまであからさまなメッセージを読み落としているんだ。
これが、私が『氷菓』批評を書こうと思った切っ掛けであった。『氷菓』という物語の中に込められた“叫び”を明らかなものにして、公開すべきだと考えたからだ。
こういった解説を、作り手自身が行うことは禁じられている。解説で1から10まで全部できてしまうのなら、あそこまで手間暇かけて映像にする意味がないからだ。「作家は作品で語れ」この信条を失った時点で、作品からパッションは失われる。
もっとも、こういった解説は才能なき者がやると決まっている。私のような凡人は、本当の芸術を作る天才に“期待”するしかないのだ。それが解説者の宿命であり、同時に命題なのだろう。
解説を書きながら、私は密かな“叫び”をその中に込める。
7、見えざる者の叫び
『氷菓』は死体が登場してこないミステリである。しかしある意味での「死」をこの作品は描いている。
『氷菓』には物語上の最重要人物であるにも関わらず、登場してこない3人の人物がいる。関谷純、本郷真由、安城春菜の3人だ。『氷菓』は一度も登場しないこの3人を軸に、この3人を追いかけていく物語であるともいえる。
第1部「氷菓」篇は関谷純の物語だ。
第3話『事情ある古典部の末裔』で折木奉太郎は、千反田えるから「叔父の関谷純があの時、何を言ったか調べて欲しい」と依頼される。千反田えるは関谷純のある一言を聞いて、「泣いてしまった」という。あの時、何を聞いて、どうして泣いてしまったのか……。間もなく千反田は、その切っ掛けは文集氷菓にあったと思い出す。叔父に文集について尋ね、その答えを聞いて泣いてしまったのだ、と。
「氷菓」の答えは単純な駄洒落だった。氷菓を英語にするとアイスクリーム。アイスクリームの切り方を変えると、“アイ・スクリーム”。これを和訳すると――“私は叫ぶ”。
叫び、悲鳴。これが文集氷菓の正体だった。文集に込められていたのは、その後の永久不変に残り続け、文化祭の時期になると必ず目を覚ます“呪い”であった。
高校生活と言えば薔薇色。折木奉太郎はそう考えていた。関谷純の時代、潮流に乗せられて、身につけたばかりの角張った言葉を振りかざして学生達は政治的運動に身を捧げていた。もっとも、それは“ごっこ遊び”に過ぎなかった。学生達は大人のつもりで不満の声を上げ、体制を憎み何かを変えようと活動に熱中するが、実体は単に無用に供給されてくる若いエネルギーを消費したいだけだった。学校という保護され閉鎖された空間の中で、いくら喚いても暴れ回っても社会に与える影響は何もない。無謀な勇気を示した者は学校の中では尊敬されるだろう。しかし学生運動の限界はそれまでだ。ヤンキーの武勇伝となんら変わりない。井の中の蛙、これが学生運動の正体だ。
それでも関谷純は学生運動に夢中になり、青春の炎を燃やし、燃やし尽くした。関谷純は教師との対立で、5日間という文化祭の期間を戦果として得た。きっと悔いはなかったのだろう、と折木奉太郎は考えた。
「この旅楽しいわ。きっと10年後、この旅を惜しまない」姉の手紙にはそう書かれていた。
「確かに、10年後の私は気にしないのかも知れません。でもいま感じた私の気持ち、それが将来どうでもよくなっているかもなんて……今は思いたくないんです。私が生きているのは今なんです」千反田えるは自分の思いをこう捉えている。
関谷純も満足行くまで戦った。きっと惜しんではいないはず。
しかし現実は違った。関谷純の青春時代は薔薇色ではなかった。
校長の独断で決められた文化祭縮小。それに対抗して組織された反対運動。そのリーダーに押しつけられた関谷純。実際の運営は別の人がやっていて、関谷純の役割はもしも何かしらの問題が起きた時の生け贄。
反対運動の情熱は激しく燃え上がり、文字通りとある学生が格技場に火を付けてしまった。暴れ回った学生の責任を取って退学を申し渡された関谷純。結果として5日間の文化祭を成果として手に入れたが、それは関谷純が関わって得たものではなかった。
体制である犬に食らいつかれた関谷純。助けを呼ぼうと振り返るが、そこにいた兎たちはみんな知らない顔をして背を向け、目をそらしていた。兎たちは関谷純という犠牲など構わずに、身勝手に文化祭を謳歌していた。犠牲の弔いとして“カンヤ祭”という名前だけ残したが、それは欺瞞でしかなかった。裏切りと身勝手、それをごまかすために用意された名前だった。これが45年前の“薔薇色の青春”の正体だ。
だから関谷純は、自分がその時に上げられなかった“叫び”を文集のタイトルに残した。自分の“叫び”がその後も残り、文化祭の背景にある呪いとして学生達の間に密かに残り続けるように。
声の上げられなかった者の叫び。すでに物語の舞台から去って行った者の叫び。あまりにも小さく、誰からも気付いてもらえなかった悲鳴。叫び声すら上げられなかった、弱き者の嘆き。ある意味の死者。折木奉太郎は、そこに残存した無念を掬い上げ、弔う。
第2部『愚者のエンドロール』篇では本郷真由が見えざる者として“叫び”を上げる。
第8話『試写会に行こう!』で古典部一同は入須冬美から依頼を受ける。途中まで作られたビデオ映画。仮称は『ミステリー』。その前半部分、謎の提示だけが作られ、解決篇がまだ未完成だった。脚本を一任された本郷真由が病気で倒れたため、解決篇がどう展開するのか、犯人が誰だったのか、わからないままだった。それを予想して欲しい、というのが入須冬美の依頼内容だった。
折木奉太郎は入須冬美の依頼通りに映画に決着を付け、『万人の死角』というタイトルを与える。
しかしその後、映画に隠された真実に気付く。本郷真由が映画に託した思いは、折木奉太郎が考えたものと全く違っていた。
そもそも脚本を担当した本郷真由は、自分から立候補したわけではない。文化祭に参加したい、という運動部系の人達の熱気に押されて、やむなく“押しつけられた”役目だった。クラスの多数決で映画は「ミステリー」と決まったが、本郷真由は人が死ぬような話なんて書けるタイプではない。しかし気の弱かった本郷真由は、脚本担当を断ることができず、クラスの多数決を否定することもできず、仕事を引き受けて……いや“押しつけられて”しまったのだ。
それでようやくできた前半部分だけの脚本で撮影が始まるが、できあがった映像は本郷真由の意図とはまったく違うものだった。死ぬはずのなかった海藤武雄。本郷真由はほんの少し流血する程度で済ますつもりだった。それが優しい本郷真由が書ける限界だった。
しかしクラスの一同はその場のノリで、あるいは撮影に熱中していくうちに暴走していく。死ぬはずのなかった海藤武雄は死亡、しかも腕が切断されるという凄まじい状態で。
……脚本はできあがっていたのだ。できあがっていたが、クラスの全員が勝手に作ってしまった前半部分とまるで違う内容だった。前半部分を撮影し直すほどの余裕はなく、それに本郷真由はクラスの決定に反して、人の死なないミステリーを書こうとしていたのだ。
状況に隠されたキーワードは、第1部『氷菓』篇と一致する。押しつけられ、回りの暴走の責任を取らされる役。関谷純も本郷真由も、同じ場所に立っていた。
事態に気付いた入須冬美は、本郷真由は病気だ、ということにして皆の目から遠ざけてしまう。その上で、映画に別の結末を付け替えてしまった。
折木奉太郎が見つけ出したのは、映画の中に込められた本郷真由のささやかな“叫び”だった。叫び声を上げたかったけど、気が弱かったために誰にも届かなかった声。やはり本郷真由は、物語の舞台から去り、戻ってくることのない、ある種の死者であった。
8、薔薇色の高校生活
『氷菓』は折木奉太郎という少年の成長の物語である。感情の色を失っていた少年の、人格を取り戻していく過程の、そして冒頭に掲げられた「薔薇色」を得るまでの物語である。
もう一度第1話の冒頭の台詞に戻ってみよう。
「高校生活をいえば薔薇色。薔薇色といえば高校生活。そう言われるのが当たり前なくらい、高校生活はいつも薔薇色の扱いだよな。さりとて、全ての高校生が薔薇色を望んでいるわけではないと俺は思うんだが。例えば勉学にも、スポーツにも、色恋沙汰にも興味を示さない人間というのもいるんじゃないのか。いわゆる灰色を好む生徒というのもいるんじゃないのか。ま、それってずいぶん寂しい生き方だと思うがな。」
折木奉太郎はこの場面で、自分について語ったわけではない。そういうものもあるんじゃないか、という話をしただけだ。しかし客観的に見ると折木奉太郎は灰色。特に夢中になるものはない。平凡な学生が通るであろう青春に興味を持てない。感受性に欠陥を持った少年、それが折木奉太郎だった。
第2話『名誉ある古典部の活動』で“愛なき愛読書”の謎を解いてみんなで大騒ぎしている中、折木奉太郎だけがぽつんと灰色をまとっている。奉太郎は疎外感すら感じていた。
千反田えるの依頼に応じて、折木奉太郎は45年前、関谷純に何が起きたかを読み解こうとする。その帰り道――。
「いい加減灰色にも飽きたからな。千反田ときたら、エネルギー効率が悪いことこのうえない。部長職、文集作り、試験……。そして過去の謎解き。よく疲れないもんだ。お前も伊原もだ。無駄な多いやり方をしているよ、お前らは」
そこは見渡す限りの田んぼ。あぜ道の途上で止まって、里志と対話する。降っていた雨は止みかけて、光が差し込もうとしていた。
「ま、そうかもね」
里志にしては珍しく感情を込めない言い方だった。
奉太郎は、ぽつりぽつりと言葉を続ける。
「でもな……隣の芝生は青く見えるもんだ。お前らを見ていると、たまに落ち着かなくなる。俺は落ち着きたい。だが、それでも俺は何も面白いと思えない。だからせめて……その、何だ。推理でもして一枚噛みたかったのさ。お前らのやり方にな」
見上げると、一羽のカラスが飛び去っていくのが見えた。まだ灰色に影を落としている山なみの向こうで小さくなっていくのが見えた。
「何か言えよ」
何も言わない里志を、ちらと振り向く。
「ホータローは……ホータローは薔薇色が羨ましかったのかい」
里志は雨合羽のフードを深く被っていた。光が差し始めていたから、里志の顔に暗い影が落ちていた。
「……かもな」
奉太郎は自転車を進ませる。
薔薇色のシンボルである千反田える。何事にも好奇心を示し、熱心に物事にぶち当たろうとする千反田える。その千反田えるが持っているエネルギーに逆らえず飲み込まれてしまった折木奉太郎。
もう一人の薔薇色のシンボル折木供恵も同じだった。「10年後、私はこの旅を惜しまない」と手紙にははっきり書かれていた。
だから関谷純もきっと薔薇色だったのだろう、と折木奉太郎は考えていた。結果は退学だったが、青春の炎を全力で燃やしきった上での退学。だから惜しむなんてことはなかっただろう……。
しかし実際は違っていた。関谷純は生け贄だったのだ。無理やり責任を押しつけられ、了解しない退学を突きつけられ、しかし弱くて叫び声すら上げられず学校を、青春時代の舞台から去って行った。
きっとそこに薔薇色が隠れているに違いない、そう思って探し当てた関谷純は、灰色――それも限りなく黒に近い灰色だった。折木奉太郎は、ここで本当の意味での灰色を知ることになる。探し当てたのは、関谷純という人物が密かに込めた“感情”だった。
千反田えるはいついかなる時でも全力で当たる。不満があれば恐れもせず声を上げる。間違いがあればずばり指摘する。
第6話『大罪を犯す』で、千反田は尾道先生の間違いに怒った。尾道先生が間違えていたからだ。その後、千反田はどうして自分が怒ったのか、その理由を知りたがった。具体的にはなぜ尾道先生が間違いを犯したのか。
折木奉太郎は答えを示しながら、千反田という人物について考える。
「怒らない千反田が怒り、その理由を知りたがった。怒ることは悪いことじゃないと言いつつも、本当はいつだって怒りたくないんではないだろうか。だから千反田が理由を知りたがったのも、尾道にも3分の理があり、怒ったのは自分のミスだった、と思いたかったからじゃないだろうか。千反田えるとは、そういう奴ではないか。……いや俺は千反田の何を知っているというのか。千反田の行動を読めることはあっても、心の内まで読み切れると考えては、俺はあれだ。“大罪”を犯している。慎むべき慎むべき」
折木奉太郎は、千反田という人物について、千反田がどういう感情を持っているのか、それを知ろうと考え始める。
その後第8話『試写会へ行こう!』で折木奉太郎は、入須冬美からビデオ映画の結末を考える依頼を引き受ける。
いまいち乗り気ではなかった折木奉太郎だったが、第10話『万人の死角』で入須冬美から諭される。
「最初から君が目当てだった。古典部などではなく、折木君、私は君がこれまでの一件で君自身の技術を証明したと考える。君は、特別よ。……君は、トクベツよ」
「特別」この言葉が与えられた瞬間、画面にはささやかに薔薇の花びらが散り、さらにカメラがイマジナリィラインを越える。これまでの灰色の折木奉太郎ではなく、薔薇色の折木奉太郎に次元が移り変わったからだ。
しかし折木奉太郎は躊躇する。
「俺は特別なのか。俺は俺自身を、本当に正しく見積もっているのか。信じて、良いのだろうか」
そう考えながら見詰めるグラスの中の自分自身はゆらゆら揺れていた。
こうして、折木奉太郎の薔薇色生活が始まった。第10話は画面がやけに明るい。シリーズ全体を通しても、画面がもっとも明るく作られている。折木奉太郎が薔薇色の高校生の生活に入ったからだ。
しかしそうして解いたビデオ映画の真実は、薔薇色ではなかった。秘められていたのは本郷真由という人物が残した“叫び”。入須冬美から与えられた“薔薇色”はまがい物だった。騙されていたのだ。
第11話『愚者のエンドロール』で千反田えるに諭された後、折木奉太郎は自分自身が移る川面を見詰める。そこには、はっきりと自分の姿が映っていた。入須冬美のまやかしではなく、真実に目を向け始めたからだ。
折木奉太郎は、謎をただの文章問題としか考えていなかった。そこに込められている“人間の感情”を何も知ろうとしなかった。謎を解こうと思えば簡単にできる。しかし大切なのは、そこに込められた“人間の感情”。そういう結末を選んでしまった“人間の感情”。折木奉太郎は、ようやく謎の向こうに隠された“人間の感情”を意識するようになる。
11,5話『持つべきものは』。入須に弄ばれ落ち込んでいる折木奉太郎に、千反田えるは強く言う。
「折木さんは特別ですよ! 私たちにとって! 福部さんも、摩耶花さんも特別です。私が関わった方は、私にとって皆さん特別です」
「お前の主観の話はいい。俺は一般論として……」
奉太郎は話を打ち切ろうと、千反田から目をそらす。
「主観じゃ駄目ですか! 回りと比べて、普通とか特別とか、そんなこと気にしなくたっていいじゃないですか。誰か一人でもいい。特別と思ってくれる人がいれば、私はそれで充分だと思うんです」
灰色に沈んでいた折木奉太郎の精神は、再び回復し始める。
第1話から順番に映像を見ていけば気付くが、『氷菓』の画面は次第に次第に明るくなっている。第1話の暗いトーンを持った画面。文集氷菓の一件を通して次第に明るさを取り戻していき、画面の明るさは10話で一度ピークを迎える。
文化祭はハレの場所だから明るく描かれるのは当然として、その後のエピソードは比較的明るい画面で描かれるようになった。決して、撮影の時間が足りずフィルターをかける余裕がなかった、とかそういう理由ではないだろう。折木奉太郎という人物の世界に対する印象の変化を、画面で表現した結果だと考えられる。
第18話『連邦は晴れているか』はアニメオリジナルのエピソードだ。中学時代にいたという小木正清。校舎の頭上を飛んでいくヘリコプターを見て、ふと折木奉太郎は「小木はヘリが好きだったな」と回想する。
しかしすぐに疑問にぶち当たる。「小木は本当にヘリが好きだったのだろうか?」。わずかなヒントを元に図書館へ調べに行くと、真相が出てきた。小木はヘリが好きだったのではない。あの日、山で遭難者が出ていて、救出のヘリが出るかどうかを気にしていたのだ。
折木奉太郎は反省する。そんな小木の気持ちも斟酌せず「小木はヘリ好きだったな」なんて言ってはならない、と。
「それは無神経ってことさ。(中略)人の気持ちも知らないでって感じだ」
謎解きは得意でも感情の読めない折木奉太郎が、真っ先に小木の心象を探ろうとしたのだ。
そんな折木奉太郎の気持ちに、千反田えるは言葉にできない感情を持ち始める。
「折木さん、それってとても……うまく言えません」
しかし千反田自身、自分が何を思ったのか、どういう感情を持ったのか言葉にできなかった。
千反田えるは折木奉太郎を変えた。そして折木奉太郎は、千反田えるを変えようとしている。しかしその答えは保留され、別の機会のお預けとなった。
それでも、折木奉太郎に対する千反田えるの態度はにわかに変化があった。
第19話『心当たりのある者は』で千反田はいつものように折木奉太郎の側へ行くが、ふと我に返って恥ずかしそうに頬を染める。その以前の千反田えるは同じようなことをしても気にも留めなかったはずだ。
第20話『あきましておめでとう』では折木奉太郎に着物を見せびらかしたい、という理由で初詣に誘う。
第21話『手作りチョコレート事件』では千反田はチョコレートを送ることについて、折木にこう言う。
「折木さん。その、今日はバレンタインですが、私の家では本当に親しい方にはお歳暮やお中元をお送りしないことにしているんです。ですので、バレンタインも、あの……」
千反田は恥ずかしそうに声を潜めてしまう。
それを聞いた折木奉太郎は動揺する。「それって、つまり……どうなんだ?」奉太郎はどっちの側に受け取るべきなのか、判断を保留する。
同じ第21話では、真相を明かした折木が里志を掴み、「もし冗談なんて言ったら。殴るしかないだろうな。千反田の分と伊原の分。グーで」と詰め寄る。折木奉太郎は、他人のために憤慨して、問い詰めたのだ。だが福部里志から理由を聞かされたその後、「すまん。お前のこと何もわかってなかった。と言うべき何だろうが、まあ言えないな」と心の中で反省する。
再び千反田の話に戻ろう。第22話『遠回りする雛』では何もない田舎の道を2人きりで歩きながら、千反田は「紹介したかった」と語る。
「見てください、折木さん。ここが私の場所です。水と土しかありません。人もだんだん老いて疲れてきています。私はここを、最高に美しい場所だとは思いません。可能性に満ちているとも思っていません。でも、折木さんに紹介したかったんです」
それは千反田えるという人物が抱えている背景の全部。それを折木奉太郎に知って欲しい、と千反田えるは考えたのだ。
『氷菓』は折木奉太郎の成長物語だ。感情を持たない少年が、いかに感情を持つか。灰色の少年がいかに薔薇色に変わっていくか。その途上で薔薇色と思っていた関谷純の過去が薔薇色なんてものではないと知り、入須冬美から薔薇色を与えてもらったと思ったそれは利用されていただけだったと知る。
第1話の冒頭で折木奉太郎が考えていた「薔薇色」は間違えていなかったが正しくもなかった。学生運動みたいに大騒ぎして情熱を燃やし尽くすのが必ずしも薔薇色ではない。他人から与えられる薔薇色も違う。そういういかにも誰から見てもそれだという薔薇色ではなく、内面的なところからごくごく普通に出てくる感情を得ること、感じること、これを自身のものにすること。第1話の折木奉太郎は何も感じない少年だった。だが第21話では誰かのために感情的になっている。感動のない少年がごく普通で平均的なパッションを獲得する。千反田に対するかすかな恋愛感情も、感情を獲得する上で重要なファクターである。感情を得て誰か他人の考えや行動に介在する、その物語の中に、恋愛は描くべきモチーフであった。
いかにもな情熱を獲得する物語ではなく、ごくごく普通の少年としての感性を獲得する。それこそが、実は「薔薇色」の本当の姿だった。
しかし、折木奉太郎は最後の最後まで保留する。
「ところで、お前が諦めた経営的戦略眼についてだが……俺が治めるというのはどうだ?」
第22話で折木奉太郎はこういう言葉を考えた。しかしその言葉を発することはなかった。その言葉が意味すること――千反田えるの人生を引き受けるということだ。
折木奉太郎は第1話でどうして千反田えるを拒絶しなかったのか、と問われて「保留」という言葉を与えられる。第22話でも折木奉太郎は再び「保留」した。折木奉太郎が保留ではなく「答え」を出すのは、まだもう少し先の物語だろう。
9、天才と凡人/期待
『氷菓』には“叫び”というモチーフ以外に、もう一つ重要なモチーフが存在する。それが“期待”だ。『氷菓』は常にこの2つの軸を交差させながら、進行していく。
最初に期待、いや“才能”がテーマになったのは第8話『試写会に行こう!』だ。
学校へ向かう折木奉太郎と福部里志。ふと校舎を見ると、水泳部の決勝戦進出の大きな垂れ幕がかけられようとしていた。
「へえ、決勝進出だってさ。すごいよね。ああいうのを見ると、僕にも何か才能が、とか考えちゃうけど、どうも福部里志には天賦の才はなさそうだ。大器晩成に賭けたいところだけど、望み薄だね」
福部里志はいつもの軽々しさで話を始める。
さらに里志は続ける。
「普通の人生に魅力を感じるのかい? ホータローならそうかもね。でも果たしてホータローにそれが送れるかな?」
「どういう意味だ」
折木はからかわれているような気がして足を止める。
「僕は福部里志に才能がないのを知っている。でも折木奉太郎までがそうなのかはまだ保留したいところだよ」
ここでは福部里志はあくまでも「保留したい」と言っている。しかし里志は答えを概ね見つけていたのだ。
第10話で折木奉太郎はこう尋ねる。
「里志、お前はお前にしかできないことがあると思うか?」
「ないね」
里志は即答だった。
「言わなかったっけ。僕には才能がないんだって。例えば、僕はシャーロッキアンに憧れている。でも、僕にはそれにはなれないんだ。僕には深遠なる知識の迷宮に、とことん分け入ってやろうという気概が決定的に欠けている。もし摩耶花がホームズに興味を傾けたら、保証して良い、三ヶ月で僕は抜かれるね。色んなジャンルの玄関先をちょっと覗いて、パンフレットにスタンプを押して回る。それが僕にできる精々のことさ。第1人者にはなれないよ」
さらに里志は去り際にこう言う。
「シャーロッキアンよりも心惹かれるものはいくらでもあるさ。それにしても……羨ましい限りだね」
自分に才能があるかないか。それを確かめる方法はたった1つだ。充分に自分を試すことだ。これしかない。高校生になると、大抵は自分の身の程を理解するようになる。自分は天才か凡人か。小学生には難しい問いかも知れないが、高校生にとっては容易な答えだ。ないものはない。あるものはある。それだけだ。
よく「天才などいない。すべては努力だ」という言葉を耳にするが、それは言い訳に過ぎない。「才能のない自分でも、努力さえすれば」と結論を出すのを先延ばししているだけだ。充分すぎるくらいの努力をしても、いや努力したからこそ間違いなく見えてくるものがあるだろう。「自分には才能がない」と。才能がない、という結論は、努力した者にしか見えない結論であり、その先に行ったものが天才と呼ばれるのだ。それでも認められない者は、単に現実から逃げているだけだ。
そして「才能なき者」がどれだけ「情熱」を燃やしたところで、結果はたかが知れている。第8話『試写会へ行こう!』で入須冬美がはっきり口にする。
「《技術》がない者がどんなに情熱を注いでも結果は知れたもの」
10話『万人の死角』、“折木奉太郎には《技術》がある”と判断した入須冬美は折木奉太郎に語る。
「では一つ話をしよう。座興と思って聞いて欲しい。とある運動部の補欠がいた。補欠はレギュラーになろうと、極めて激しい努力をしたが、レギュラーにはなれなかった。そのクラブにはその補欠よりもよっぽど有能な人材が揃っていたから。その中でも天性の才能の持ち主がいた。もちろん補欠の技術とは天と地の開きがあった。彼女はある大会で非常に優れた活躍をし、MVPにも選ばれた。インタビューアが彼女に聞いた。大活躍でしたね、秘訣は何ですか、と。彼女はこう答えた。――ただ運がよかっただけです。この答えは、その補欠にはあまりにも辛辣に響いたと思うけど、どう?」
これが現実だ。同じ努力しても、才能という基本的要素がなければ結果が出ることはない。天才の1の努力は、凡人の100の努力に匹敵する。ピカソは13歳で美術大学に入り、15歳でアカデミズムから全てを学び、自分で新しいアートの形を探すしかないという問題にぶち当たってしまった。誰しもそういうわけにはいかない。努力一つでピカソになれるのなら、苦労はない。
「努力さえすれば自分でも」なんて根拠のない言葉をふりかざす人間は、まだ充分にやりきっていないのだ。
第3部である『クドリャフカの順番』。十文字事件が起き、福部里志は犯人逮捕に躍起になる。手の届かない月に手を伸ばしながら、1人で考える。
「奉太郎は変わった。いや、真価を発揮した。千反田さんに出会うことで僕がこよなく愛する、意外性の秘めた人間として。果たしてそれを、僕はただ愉快だ、と思っているだろうか。容疑者は1000人以上。この中から推理で犯人を導き出すなんて、どんな人間でも不可能だ。だとしたらできるのは現行犯逮捕。ホータロー向きじゃないこの事件の真相を、僕の手で解き明かす。ホータロー、十文字は僕が捕まえてみせる」
福部里志は、まだ諦めていなかった。自分には可能性がある……はずだ、と。だから可能性に賭けようとした。十文字事件の犯人を捕まえて、自分で自分に証明しようとした。
しかし、福部里志は敗北した。
第16話『最後の標的』で、折木奉太郎は犯人の目星をつけた。里志は、その事実に愕然とした。
「どっちでもない? 容疑者は1000人以上だよ。それなのに、繋がりもミスも見つけず、犯人を特定しようってのかい?」
「まあ、そうだな」
「どうやってさ!」
里志は動揺の声を上げて飛びつく。あれだけ学校中を駆けずり回っても怪盗十文字を捕まえられなかったのに。多くの探偵志願者が怪盗十文字を追いかけたのに誰も捕まえられなかったのに、折木奉太郎は地学準備室から一歩も出ず、答えを導き出したという。
以来里志は、「期待」という言葉を多用する。
「自分に自信がある時は、期待なんて言葉を出しちゃいけない。期待ってのは、諦めから出る言葉なんだよ。そうせざるを得ない、どうしようもなさがないと、そらぞらしい。期待っていうのは例えば……」
ここで里志はそこで見た真実を回想する。折木奉太郎と田名辺治朗の密談。里志はそこで決定的な敗北を突きつけられたのだ。
もう1人、才能のない自分に失望する者がいる。漫画研究部の河内亜也子だ。河内亜也子には1年前、仲の良い友人がいた。安城春菜だ。『氷菓』に登場しない、第3の人物である。
河内と安城は友達同士で、漫画の話で盛り上がって、今度一つ書かないか、という話になった。安城春菜は漫画好きでも漫画を書いたことがあるわけではない。河内もそんな大したものができあがるとは思っていなかった。しかしできあがったのは、傑作だった。
「あんた読めばわかる。そう言ったよね。そう、わかるよ。わかっちゃうんだ。でも、ほら……そういうのって認めたくないでしょ。あんたならどうよ? あんまり漫画読まないねって思ってた友達がさ、初めての原作でさ、それを書いたとしたらさ……ね? 洒落にならないと思うでしょ? だからそれは押し入れの奥。一番奥の箱の中。見ないことにして、ついでに名作なんてどこにもないことにしてたのにね。つくづく巡り合わせだね」
河内亜也子は打ちのめされたのだ。才能というものに。河内自身漫画描きで、伊原摩耶花によればそれなりに描けるほうだという。充分に努力もしてきて、いくつも作品を書いてきたのだろう。しかし、天才が現れ、打ちのめされてしまった。自暴自棄になった河内が誰構わず当たり散らすようになったのは、これが原因だろう。
才能のない者は、才能ある者から打ちのめされるしかない。その上で、「期待」するしかない。それがせめての慰めだから。
第3部『クドリャフカの順番』に込められた“叫び”とは、才能なき者のルサンチマンである。福部里志や河内亜也子、それから田名辺治朗。そういった才能なき者たちの嘆きが、諦めの集まりが十文字事件を起こした。才能ある者に伝えたい言葉があったから。
「クドリャフカ」……実験でロケットに乗せられて、帰ってこられなかった犬の名前。“非業の死”というのは福部里志の解釈だ。この物語は、打ち上げられ、帰ることのなかった者達が残された人に送ったメッセージだ。安城春菜はそのシンボルだったのだろう。
第17話『クドリャフカの順番』で、田名辺治朗は語る。
「折木君。君は陸山が『クドリャフカの順番』の原作を紛失したから、僕がこういう事件を起こしたと言ったね」
「あくまで仮定です。先輩の動機まで知りようがありませんから」
「まあ無理もない。僕の気持ちがわかるのは、たぶん安城さんだけだ」
ずっと平常を保っていた田名辺の言葉は、表情は次第に崩れ始める。陸山会長にあてた暗号だったけど、伝わらなかった。
「だったらなぜ?」
折木は問う。
「ムネは、陸山は『夕べには骸に』を仕上げて以来、一度もペンを握っていないんだ。安城さんも天才的だけど、ムネがあれほど書けるとは知らなかった。下手糞な僕と、比べものにならない。原作はちゃんとあるんだ! なくしてなんかない! あいつがその気にさえなれば、『夕べには骸に』を越える話になる筈なんだ! けど、ムネにとって漫画描きはあの時限りの遊びだったんだ。勿体ないだろ? 惜しいと思うだろ? なのにムネは描こうとしない。あいつが一言やるぞと言えば、僕は何でもするつもりでいた。ムネに聞くのが怖かった。メッセージに気付いていないなんて、信じたくなかった。……絶望的な差からは“期待”が生まれる。僕はずっと期待していた」
田名辺は訥々と静かに感情を爆発させていく。十文字事件を暴いた時でさえ見せなかった、感情と本心がそこに現れていた。
「なら、あなたが本当に伝えたかったことはこうですか。「陸山、お前はクドリャフカの順番を読んだのか」」
その手前の場面で、折木奉太郎は「クドリャフカの順番を紛失した」という回答を示したが、これも間違えではなかった。だが折木奉太郎は、表面的な回答のさらに向こう側に秘められた、当事者の“叫び”を探り当てる。
第17話は『氷菓』では珍しく、物語の前後が入れ替わっている。最初に十文字事件の完遂を。その次に里志が目撃した、十文字事件の真相を。それから文化祭閉幕の挨拶の場面「今年の文化祭もつつがなく終えることができました。いや変な事件もあったみたいだけど」の陸山の台詞。さらに陸山は、密かに田名辺へ「おつかれさん」の言葉を残す。これも原作にはない台詞だ。アニメ版は原作の意図を増幅させ、田名辺の失望感を強調している。
そして、田名辺の告白の場面へと物語が進む。一見バラバラに分解して見える構成。しかし感情はひと連なりで繋がっている。福部里志の敗北の場面からはじまり、その理由を。次に田名辺の敗北の場面が挿入され、告白の場面を。陸山は田名辺が犯人だと気付いていた。しかしそこに込めたメッセージは、“叫び”はその上を素通りしていた。その愕然とした思いを、折木との対話の場面をやり直してまで言葉にして込めた。
文化祭に集まったおよそ1000人の人達は敗北した。誰も十文字事件を解くことはできなかった。勝者はたった2人、折木奉太郎と陸山宗芳だけだった。凡人にできることは、ただ天才達に“期待”するだけだった。
薔薇色。
叫び。
期待。
『氷菓』は3つの軸を交差させながらゆっくり物語を進行させていく。映像は間違いなくシリーズアニメ史における最高のクオリティ。ストーリーも一見すると地味で大きな感情のうねりもないように見えるが、シーンの構成も台詞の使い方も合理的で、いずれも物語の骨格に作用してあまりにも見事なクライマックスを作り上げている。後世に残すべき最高のアニメーションとなった。
しかしながら、『氷菓』はあまり充分に議論され、批評されていないのではないか、と思うようになった。色んな人の意見を聞いていると、「絵は良いけど話は駄目」というところで一致している。
話は駄目? いったい何を見ているんだ? どうしてここまであからさまなメッセージを読み落としているんだ。
これが、私が『氷菓』批評を書こうと思った切っ掛けであった。『氷菓』という物語の中に込められた“叫び”を明らかなものにして、公開すべきだと考えたからだ。
こういった解説を、作り手自身が行うことは禁じられている。解説で1から10まで全部できてしまうのなら、あそこまで手間暇かけて映像にする意味がないからだ。「作家は作品で語れ」この信条を失った時点で、作品からパッションは失われる。
もっとも、こういった解説は才能なき者がやると決まっている。私のような凡人は、本当の芸術を作る天才に“期待”するしかないのだ。それが解説者の宿命であり、同時に命題なのだろう。
解説を書きながら、私は密かな“叫び”をその中に込める。
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