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■2013/04/06 (Sat)
b1ae9459.jpeg2006年の冬。映画監督のアリ・フォルマンは古い友人であるボアズ・レイン=バスキーラに呼び出されて、夜のバーで会っていた。ボアズとは同郷の友人で、1982年のレバノンの内戦にイスラエル国防軍として共に参加していた。
「……26匹の犬がホテルの下に集まっていて吠えているんだ。凄い剣幕で殺してやるってね」
「26匹? なんで26匹だってわかる?」
ボアズはちびちびと酒を飲みながら、とりとめのない奇妙な話をし始めた。聞くと、それは夢の話だという。ボアズは2年前から同じ夢を繰り返し見ているという。
アリ・フォルマンは意図が読めず苛立つ。なぜ26匹なのか、なぜ夢の話なんて始めたのか――。もちろんボアズの話には理由があった。
「レバノンでの話だよ。パレスチナゲリラの捜索で、ある村に入った。その時、犬が臭いを嗅ぎつけて吠えだした。これじゃ村人が飛び起きて、かくまっているゲリラを逃がしてしまう。犬を始末しないと、こっちの身が危ない。それで指揮官に言われたんだ。「よしボアズ、お前が行って犬を撃ち殺して来い」と。全部で26匹。1匹1匹ぜんぶ憶えている。顔立ちも傷跡も。目つきだって26匹ぶん、鮮明に覚えているよ……」

b439e979.jpeg戦争のトラウマ。ボアズは20年経った今でも、あの戦争から逃れられずにいた。ボアズがアリにこの話をしたのは、おそらくは同じ戦闘に参加して、同じ立場を知り、理解してくれる友人だと思ったからだ。そのボアズの考え方は正しく、アリはボアズを心配し、慰めて別れた。
しかし一方のアリは――?
戦争での出来事など何一つ思い出せず、あろうことか戦争に参加したことすら忘れていた。
なぜ戦争での出来事を忘れてしまったのか? あれだけ凄まじい体験をしたのに? なぜ20年間もずっと思い出せずにいたのか?
アリは自身の記憶を追求していく。なぜ忘れてしまったのか。なぜ思い出そうとも思わなかったのか。それは、あの事件……サブラ・シャティーラで起きた虐殺と関係していた。

違和感。
808dd0be.jpeg映像と接して、最初に感じたのは違和感だった。映画の冒頭、犬が町の中を疾走する場面から始まる。カメラがもの凄い速度で犬を追跡し、犬も激しいアクションで四肢を動かし目の前に塞がる椅子や箱や人間を蹴散らして疾駆する。しかしその動きに、躍動はまったくない。走る犬に表情の動きはなく、4本の足だけが、身体から分離して動いているように見える。体を纏う毛並みは、接着剤で固めたかのように動きはない。
この映画は一見すると『スキャナー・ダークリー』のようなロトスコープで制作されたように見えるが、実はフラッシュアニメの応用で作られている。犬の走る動きが、体と足、分離して見えたのは錯覚ではなく、実際に足と体は分離されて、フラッシュアニメの技術で動きが与えられていたからだ。
映像は実写撮影されたものを元にアニメーション化されているために、非常にリアルスティックな印象を与えるが、イメージや動きやあまりにも超現実的で、違和感ばかりが浮き上がってくる。が、実はこの違和感こそ、監督が狙い、作為的に演出されたものだった。

映画監督のアリ・フォルマンは20年前のレバノン内戦で何が起きたのか、自分が何をしたのか、同じく戦争に参加した戦友達と会って掘り下げていく。
そこで遭遇したのは、シュールな体験話ばかりだった。
3a32a723.jpegカルミ・クナアンはこう語る。
レバノンに向かうクルーザーに乗っていると、時々奇妙な幻覚に出くわした。巨大な裸の女だった。裸の女が海から這い上がってくると、自分をさらって海の中へと潜っていく。カルミは女の体にすがりついて、海に浮かぶ船を見ていた。すると突然、爆撃機が通り過ぎて船が真っ赤に炎上する。仲間達が燃え上がって船から飛び降りるのをカルミは他人事のように見ていた。
その後、ようやくレバノンに上陸する。興奮していたカルミとその仲間達は上陸と同時に目に見えるものをとにかく撃ちまくった。ようやく落ち着いてみて確かめて見ると、自分が撃ったのは家族を乗せた車だった……。

d53cd30e.jpeg現実と非現実の崩壊。戦争に参加した記憶が曖昧で歪んでいるのはアリばかりではなかった。誰に戦争体験を聞いても、どこか違和感のある現実味のない話ばかりだった。彼らの話は間違っていないが、何かがおかしい、どこか歪んでいる、そういう話ばかりだったのだ。
戦争とは、タブーのそのものである。
一般的な社会では、人は決して殺してはならない。怪我をさせてもならない。その逆で、普通に過ごしていれば自分が誰かに殺される心配はない。もしも死体が出現しても社会が徹底的に目眩ましをかけて隠してくれる。死体を公共の場に見えるようにしておくことは、現代では決して許されない行為であり、もっといえば、死を想起させる一切の言葉や現象すらタブーとして扱われる。
しかし戦争になると、これらのタブーは一挙に反転する。
戦争状態に入ると、兵士は人を殺すプロフェッショナルとしての訓練を受け、戦場では人を殺さねばならない。殺すことが第一の目的で、人を殺さねば規律違反として罰や叱責を受けてしまう。
また戦場においては、自分が殺されるかも知れない恐怖と戦わねばならなくなる。現代人の思想にとって、最も恐るべき現象は自身の死だろう。次の瞬間には殺されるかも知れない、一方、殺さねばならない。殺す対象は自分たちのような訓練された兵士だけではなく、武器を持たされた子供も混じっているのだ。この両者を極端な状態で煮詰めた状況が戦争なのだ。そのストレスに、戦場の兵士達は精神を崩壊させていく……。

a407febd.jpeg実際に戦争に参加した元軍人に話を聞くと、戦場での体験はどこかぼんやりと霞んでいると言う。あれは、そう、戦争映画でも見ているような、そんな感じ。あるいは、最近のリアルスティックに作られたゲームをやっているような感じ。現実感が、その時にもその後にも思い返してみてもないのだという。
『戦場でワルツを』ではこんな話が紹介されている。
とある若いアマチュア・カメラマンは何度も戦争に立ち入って写真を撮っていたが、恐怖は感じていなかったという。日帰りの旅行みたいだと思っていて、兵士や兵器がずらりと並ぶ様子に子供みたいに興奮してカメラを撮っていた。
が、ある時、カメラが壊れてしまった。するとカメラマンは、途端に戦争の現実が目の前にあるという事実に気付き、耐えがたい恐怖に囚われたのだという。自分が戦争の只中にいる、という現実を処理できず、パニックになったのだ。カメラマンはその時になって初めて、ファインダーの向こう側にある何かではなく、戦争の当事者になったのだ。

b831f0d5.jpeg耐えがたい状況を直面すると、人間は自分を守ろうとして感覚や記憶の一部を封印したり、あるいはファンタジーを作ったりする。
アリ・フォルマンの場合、あるイメージだった。水の中に浮かんでいる自分。夜で、空には照明弾がきらきら輝いていて、アリはぼんやりした意識でそれを見ている……という光景だった。あの時の戦争を思い出そうとすると、真っ先に出てきたのはそのイメージだった。
創作というものは、作家の中ですら勘違いしている人があまりにも多いが、ゼロか作られるわけではなく、なにかしらの原型が常に存在する(もしもゼロから新しいイメージを作れるという人がいたら、それは人間ではなく神だ)。その原型というのは、大抵は作家自身が体験し、その体験を解体した上で自身の生理感覚で組み替えられ、美意識に従って磨き上げられたものである。真の意味での“オリジナル”と呼ばれるものは、実は存在しないのである。
アリ・フォルマンが抱いた光景はまさにそれだった。実際に起きた出来事を、直接的な場面については自分の精神を守るために封印し、レバノンで体験した様々な出来事を解体して“美”というオブラート(と慰め)が与えたうえで再構築されたものだった。アリ・フォルマンが最初に思い出したというイメージは美しく、静謐で、幻想的な空気すら漂っている。しかしだからこそ、その背景には恐るべき真実が隠されていた。

ddd383d0.jpeg戦争はいつだって非現実的なもの――。それは戦争を体験している者にとっても、戦争の後方にいるあらゆる人にとっても同じだ。
アリ・フォルマンがレバノンの市街地に入った時、奇妙な光景を目の当たりにする。
突然、手前のホテルから敵の銃撃を受ける。しかし敵の姿が見えない。アリたちの部隊は近くの溝に飛び込み、銃弾をやり過ごそうとするが、銃撃は激しく兵士達はそこに釘付けになってしまった。
激しい銃撃戦である。銃弾が飛び交い、ちょっとでも顔を出すと撃ち殺されてしまう。そんな戦闘の最中を、テレビ特派員のロン・ベン=イシャイが悠然と、まるで近所を散歩でもするみたいに、あるいは観光客が珍しい恐竜の剥製でも見るかのように歩いていたのだ。
映画はもちろん、イシャイへのインタビューも敢行している。イシャイはその時に見た光景を、こう語っている。
「確かにあれは大きな十字路になっていて、道路は片側車線で、ハムラ通りへと繋がっている。西ベイルートのハムラ地区へ、直接行けるんだ。やたらしゅーしゅーと音がしていたのを憶えているよ。ロケット砲が放たれる時にそういう音がするんだ。ドカンという爆発音は聞こえてこなかったが、しゅーしゅーという音と、壁が砕け散る音はやたら憶えている。顔を上げると、そんな修羅場を、住民達がベランダから見ているんだ。中には女性もいたし、子供も老人もいた。映画か何かをみているみたいに、他人事なんだ」
イシャイが見た光景が映像の中に再現されている。激しい銃撃戦からそう遠くない、というか目と鼻の先のアパートのベランダに、人が一杯出てきていて、戦闘を見ている。まるで火事場に集まってくる野次馬のように、みんなで銃撃戦を見物しているのだ。

5ba13f29.jpeg違和感。
誰にとっても同じだった。みんな戦争を体験したのに、戦場にいたのに、あるいはその戦場となった場所に住んでいるのに、誰も戦争という状況に現実を感じていない。戦争という現実は確かにそこにあるのに、誰もが遠くに感じていて、物見遊山する観光客の感覚で、身に降りかかっているはずの状況にリアリティを感じていない。あるのは違和感。『戦場にワルツを』はその違和感そのものを描いている。
しかし状況を虚構に置き換えるための道具……カメラマンで言うところのカメラはいつか壊れてしまうのだ。その時、初めて人々は、個人は戦争という状況が目の前にあることに気付き、衝撃を受ける。
アリ・フォルマンはかつての仲間達の証言を組み合わせて、かつて何が起きたのか、レバノンで自分が何をしたのか、頭から離れないあのイメージを解体して、それぞれに意味を与えて、現実的な像を見つけ出していく。映画の後半に入り、“真実”がじわじわと浮かび上がってくる。違和感しかなかった戦争体験は、やがて実感のある実像に変換されていく。これが戦争だ、と。これがあそこで起きた本当の出来事だったんだ、と。

d84ff23b.jpeg驚くほど深いテーマが物語と映像の両面に与えられた作品である。映像の作りも、編集の構造も、素晴らしく完成度が高い。隅々まで監督の意図と理性が行き届いている。またテーマに対して個別に表現方法が模索されている。アニメーションとして制作されたのは、アニメーション映画を作ろうという前提でスタートされたものではなく、表現方法(あるいはテーマ)を追求して結果としたアニメーションになったのだ。
こういった深みのあるテーマを持った作品は、日本の商業アニメの中から見出すことはできない。日本の全てのアニメはこの作品の前に完全敗北である。日本のアニメは間違いなく最高級の技術を持っており、技術面だけで言えば『戦場のワルツ』でもつけいる隙はあちこちにある。冒頭の犬の動きにしても、途中で差し挟まれる空手の演武にしても、躍動がないし、コマの扱い方が下手だ。だが、テーマの大きさという一点において、この映画に優る作品は日本のコンテンツの中にはないだろう。(日本のアニメは、『機動戦士ガンダム』をはじめとして戦争をテーマにした作品も多くあるが、実際的な戦争や兵士の心理を追った作品は皆無だ。『機動戦士ガンダム』にしても、戦争を描いていながら実際には少年の成長物語だし、少年の命はガンダニウム合金という固い殻に覆われて危険に及ぶことは決してない。『戦場でワルツを』にも「戦車の中にさえいれば安全だと思った」と語る場面はあるが、その安心感は実際の戦闘が始まった瞬間打ち砕かれる。一発の爆撃で戦車は吹っ飛び、兵士は狙い撃ち去れ、ボロボロになりながら逃げ去っていく……。日本のロボットアニメで、こういった場面に相当する描写は多分一度もない。ロボットアニメが描くロボットはどんな時も絶対無敵で、アメージングな存在で、どんな危険を前にしても、どんな兵器を前にしても平気で切り抜けてしまい、それが当然だと誰もが思っている。この一点だけでも、日本のロボットアニメは『戦場でワルツを』というたった一作の前に全面敗北する)
アニメ作家は、あるいはアニメを目指す人にはぜひ見て欲しい作品だ。

戦争は、親が少年を寝かしつける時に聞かせるものだった。激しい戦場、その中で繰り広げられるヒロイズムの乱舞。少年は英雄物語に夢中になり、その主人公である父親を尊敬する。いつか自分も戦争に参加して、父親のような武勲を得たい……。若者が戦争に参加する時に抱くある高揚感は、少年時代に父親から聞かされたものだった。
そして、現実に直面して打ち砕かれる。
戦争はいつだって非現実的なもの。戦争は体験していない者に語っても、フィクションにしかならない。格好いい英雄譚と解釈される。
それは兵士達にとっても同じだった。目の前で繰り広げられる状況の凄まじさに精神は閉じ、やがて何も感じられなくなるか、あるいは戦争の現実を何か象徴的なイメージの断片に置き換えられ戦争そのものは思い出せなくなる。
戦争の後方にいる人にも、戦争を体験した者にも、戦争という現実はどこか実体のない空虚なフィクションでしかない。戦争はいつだって非現実的なもの。それは全ての人にとって同じ価値観なのかも知れない。しかしそんな虚構も心の防壁も打ち破られて、いつか彼らが、私自身が戦争の当事者になる日がやってくるかも知れない。

監督・脚本・製作・出演:アリ・フォルマン
美術監督・イラストレーター:デイヴィッド・ポロンスキー アニメーション監督:ヨニ・グッドマン
音楽:マックス・リヒター 編集:ニリ・フェレー
出演:アリ・フォルマン ミキ・レオン オーリ・シヴァン
    イェヘズケル・ラザロフ ロニー・ダヤグ シュムエル・フレンケル
    ザハヴァ・ソロモン ロン・ベン=イシャイ ドロール・ハラジ
※ボアズ・レイン=バスキーラを除いて全て本人が出演している。





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