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■2013/04/13 (Sat)
b0bc07f1.jpeg時代は1963年。戦後の混沌から切り抜け、一応の規律が生まれ高度経済成長が始まろうとする日本。あちこちで開発が盛んに進められ、希望ある未来をフレーズに華やかりし時代と賞賛される一方、舗装の進んでいない道路や鉄道はまさに交通地獄、車や工場が排出するガスで空気も空も灰色に沈んでいた。
戦後日本の青春時代――『コクリコ坂から』が舞台にしたのはまさにそんな時代である。
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松崎海は1963年当時の平均的な女子高生だった。父親は朝鮮戦争に出兵以後、帰らずの人となったが、海は毎朝、父がいつか帰ってくると希望を抱いて信号旗を上げている。母は英文学の大学助教授のため、現代はアメリカにいる。両親は不在だが、松崎家には下宿人が多く、海はみんなの食事や家事に追われて賑やかで忙しい日々を過ごしていた。
学校では文系部の部室棟であるカリチェラタンの取り壊しで揺れていた。一方的に取り壊しを断行しようとする教師達と生徒たちの対立。始めは無関係でいた海だったが、次第に学校に渦巻く狂騒のなかに取り込まれていく……。

5199999d.jpeg『ゲド戦記』から5年。宮崎吾朗が2作目の監督に選んだのは、父親達の時代、父親達が過ごした青春時代だった。
宮崎吾朗にとって、父親を知ることは、我々が考える以上に大きな意味を持っている。なぜなら、宮崎吾朗の父親は宮崎駿――近い将来、歴史上の偉人として名前が並べられることがほぼ確定化している現代を代表する芸術家だからだ。あまりにも偉大すぎる父親を持ち、それ故にチャンスが得られたが、一方で世界最高の才能と比較され皮肉られ叩きのめされる毎日……。しかもその父親は、(天才ゆえなのか)激烈な性格で知られており、息子だろうが情け容赦なく全力で谷から突き落とし、そうしてでも我が芸術を高めようという情熱の持ち主である。天才を父親に持ち、その父親から排除され、世間からは父親と比較される……それだけに宮崎吾朗にとって「父親」は避けて通れぬ命題であった。
そんな宮崎吾朗が描いた『コクリコ坂から』は、一見するとあっさりしたやわらかな線だが、時代の感覚や感性を鋭く捉えて、時代を“再構築”している。映画が始まって最初の場面、舗装されていない坂道が描かれ、そこにはやや傾いた木製の電柱が幾本も立っている。そんな風景の中に立つ松崎家はなかなか小洒落た雰囲気を持っている。
道幅はやけに狭く、しかも舗装されていない道は、車でひしめき合って灰色のガスをまきちらしている。交通地獄と揶揄された時代の感覚を、丁寧に活写している。
キャラクターの線は徹底してシンプルにまとめられている。松崎海と、妹の空とのデザイン的な差異はわずかな輪郭線の違いと、目鼻のバランスのみ。セーラー服は大雑把なシルエットだけで、襟とネクタイの線は基本的に描写されていない。キャラクターの所作で、脇の下のファスナーの存在をほのめかす程度である。
圧巻なのは物語の中心となるカルチェラタン。港南学園の文系部室棟であり、部活名目で学生が勝手に集まって何かしらの活動を勝手に展開し、それで清掃という最低限の責任すら負わない、それはまさに無法地帯と呼べる魔窟であった。
7d50a2be.jpeg映画を見てわかるように、映像としての力は全体を通して弱いのに、このカリチェラタンの場面だけは異様に際立っている。その他が明るい色彩で描かれているのに対して、カリチェラタンの描写は密度が飛び抜けて高く、光の入らない施設ゆえに映像は暗くなりがちだが、そのぶん色彩は豊かで闇の中に浮かぶディティールの一つ一つを取りこぼすことなくくっきりとした輪郭線で描いている。この場面だけに登場するキャラクターも多く、その彼らを描いたカットも多い。
とにかく生き生きしている。歯切れの悪かった冒頭の場面と比較すると、カリチェラタンが映画の核だと見ればわかる。
カリチェラタンは描く側にとっても複雑奇怪な魔窟だが、複雑さをごまかさず正面から描いている。目が回りそうなくらい多層的なな空間だが、正確なパースラインの中でしっかり描かれ、何気なく放り出されている有象無象や落書きや汚れ、崩れる屋根に足を取られる人達など、どこまでも細かいところまで目が行き届いている。隅々まで明確にイメージができているからだ。カリチェラタンの描写に、宮崎吾朗の際だった空間把握能力を見た。
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732fdf12.jpeg時代は学生運動真っ盛りである。学生は政治に夢中になり、左翼思想に心酔している。学生達は「政治だ! 革命だ!」と無邪気に叫び、もっともらしい角張った熟語を連呼し、学校や教師を“悪しき体制”と見なして一方的に攻撃を仕掛ける。
学生達は自分たちをヒーローのつもりでいたが、単に学校という閉鎖した空間の中で暴れ回っていただけである。学校という籠の中で、社会や親に保護された箱の中で、“正義の戦い”をやっているつもりだったのだ。いってしまえば、おままごとでしかない。カリチェラタンも“文化”という名目で好き放題モラトリアル期を謳歌するための場所でしかない。今時ふうの言葉で言えば、教室での喚きあいが世界を変えると信じて疑わない“セカイ系”の思想があり、目に映る全てを悪と見なして角張った熟語を振りかざせば勝利できるという考え方は“中二病”の世界である。当時の学生は、“セカイ系”と“中二病”を同時に展開していたのだ。“痛い”とかいうレベルではない。当時の若者に“黒歴史”の発想があれば、今頃は「うわああああぁぁ!」となっている頃だろう(その発想がないのが問題なんだけど)
講堂で描かれた闘争は、描写に力がなかったからだが、まさに子供のごっこ遊びであった。スクラムを組んでのぶつかり合いが、小さい子供の運動会風景にしか見えない。妙に楽しそうだ。これをこの当時の学生は、本気でやっていたというから滑稽だ。

0c85fe71.jpeg講堂のシーンに限らず、映像の力は弱い。
カリチェラタンを中心に置きながら、松崎海と風間俊の恋愛が描かれるが、やがて二人が“実は姉弟ではないか”という疑いが現れ、二人の関係を遮ってしまう。しかし二人はこれといった感情を見せはしない。穏やかに静かにかすかな感情と、あるいは言葉を交わし合うだけ。二人の感情を近づけたり突き放したりするのは、感情のドラマではなく、“設定”である。“設定”の折り重ね方で二人が実は姉弟であることをほのめかし、また一方で最後には“設定”のささやかな操作で、二人の恋愛の危機が回避される。この間に、二人は恋愛というテーマで激昂したりはしない。あくまでも静かにおだやかに、ある種の品の良さで、静かに恋愛を押し進め、姉弟という疑惑を前にあっさりと遠ざかる。この物語構造の作り方は、監督の成果というよりも脚本家の成果と言うべきだろう(宮崎駿はちゃんとしたシナリオを書けないから、丹羽圭子の実力だと思われる)
これはある種、現代っ子の反応だ。現代っ子の大人や社会の言ったことに素直に聞いて従う良い子。それでいて普段から感情は見せず、本音は語らず、関係を壊さないためにも大抵のことには我慢する……。そういう現代っ子の姿が松崎海と風間俊の間に見えてくる。

46a929fb.jpegだからといって、映像の見るべきものがないわけではない。どの場面をとっても丁寧で背景は極めて精密だ。時代の感覚をよく捉えている。
松崎海と風間俊の二人の場面で秀逸だったのは、自転車で坂道を降りる場面だ。ロング、クローズアップを3度繰り返しながら、少しずつカメラは二人に接近していく。特にこれといった対話もないのに、妙にスピード感があり、停滞しがちな映画にさわやかな感覚を与えている。学校で知り合い、お互いにちょっと気になっていたという二人が、感情を接近させ恋愛のはじまりを予兆させる場面になり、まさに映画が動く瞬間を描いている。

efaee31e.jpeg宮崎吾朗はアニメに直接関わったのは『ゲド戦記』のみで、それ以外の現場の経験はない。アニメの業界において異端の存在である。それだけに映像の作り方もやや変わった点が見られる。
例えば左の2カット。上は朝の松崎家の風景。下は松崎海が机に座っている場面である。
上のカットでは、セルで描かれているのは松崎海と松崎海が手にしている炊飯器と桶のみである。それ以外は全て美術で描かれている。
下のカットでは、海が手にしている本と次に手に取る写真立て以外全てのみ美術である。
普通の演出家なら、上のカットでは食器類や鍋類すべてセルで描き、下のカットの場合なら机の上のもの全てセル処理で描いただろう。宮崎駿ならそう描いたはずだ。
なぜなら、セルで描かれたキャラクターは背景と質感が違う。背景とキャラクター、境界線を曖昧にするための、準遠景と呼ぶべき範囲の小物まではセルで描く。特定の小物だけがセルで描かれていると、見ている側に「次にあのセルで描かれたものを手に取るんだな」と見透かされてしまう。そのために、キャラクターが手の届きそうな小物は概ね、セルで描くものなのである。
ところが宮崎吾朗は最低限のキャラクターと小物だけをセルで描き、それ以外のすべてを背景美術にしてしまった。こういうところで、宮崎吾朗はアニメ演出の経験がまだ浅いのだとわかる。

7fd1ac92.jpeg松崎海と風間俊という人物に見えてくるのは聞き分けの良い、大人しい現代っ子の姿である。物事に冷静に対処し、周りの環境にむやみに振り回されたりしない。なぜそう描かれたかといえば宮崎吾朗は特殊な父親の子として生まれたものの本質的には現代っ子だからだ。その現代っ子が、父親の時代を振り返り、自分がこうだと思う人物をそこに描く。そうすると、時代がかった風景に対して、人間が現代っ子になるのは当然だ。
それに、この映画は父親達の時代を捉え、“再構築”するための映画だ。厳密で正確な意味での1963年が描かれたわけではない。映像はかなり精密に、その時代にあったものを一つ一つ検証した上で登場させ、そうして完成した構図はなかなか堂に入ったものがある。だがこれは、現代っ子が父親達の時代を“想像で”描き、1963年という時代を“現代に”再構築したものなのだ。1963年というリアルな書き割りを背景に、現代の子供がちょっと昔ふうの衣装を着て演じている……これが『コクリコ坂から』という映画の実像だ(“再現”ではなく“再構築”なのだ)
なぜそうしたのか――そうする必要があったのだ、宮崎吾朗には。20世紀21世紀をまたいで賞賛され続ける伝説的な巨匠である父親。しかし宮崎吾朗は、その父親のことを実はあまり詳しく知らないのである。宮崎駿も、「知らないうちに大人になっていた」と成長期の息子の顔をあまり記憶していないという(逆に言えば宮崎駿も息子のことをよく知らない。『ゲド戦記』で吾朗の絵を見せられた時、茫然としてしばらく言葉も出なかったそうだ。息子が絵を描けることすら知らなかったのだ)。度の過ぎた仕事人間で、吾朗は父親という人間を――もちろん尊敬すべき偉大な人なのに関わらず――実はよく知らない。もしかすると、宮崎駿を熱心に追いかけているファンの方が詳しいかも知れない、というくらいだ。
だからこそ、父を知るために、父が過ごした時代を改めて知るために、父親の時代を描き、なおかつその時代を自分たちの時代と接近させ、自身の中で和解する必要があった。『コクリコ坂から』は、ある意味で宮崎吾朗が父親を知ろうとあがいた末に生まれた作品でもある。

987f7f9c.jpegところで、この『コクリコ坂から』には一つの疑惑がつきまとっている。
平成23年(2011年)7月に発売した『TVBros』のインタビューで、押井守はこのように語っている。
「ヒロインが好きになるハンサムな少年は敏ちゃん(鈴木敏夫のこと)なんだよ。それに彼の親友の生徒会長も敏ちゃん(中略)言い換えれば敏ちゃんの自伝的なファンタジー映画だよ」
押井守が言うには、『コクリコ坂から』には鈴木敏夫の影があまりにも強烈に出ている、という。東京オリンピックを背景にした時代は鈴木敏夫の青春時代にぴったりはまるし、松崎海、風間俊、水沼史郎の3人が直訴に向かうのは徳丸書店……鈴木敏夫が入社した徳間書店のこととしか思えないし、徳丸社長は徳間康快にそっくりなのだという。
『コクリコ坂』は実は鈴木敏夫の映画なのだ、と押井守は種明かしをしている。ドラマと時代が分離し、1963年という時代設定に必然があるのは唯一そこ、鈴木敏夫の青春時代という一点のみだという。時代は東京オリンピックの直前、東京という街がもの凄い勢いで根ごそぎ開発で変えられようとしていた時代なのに、それを思わせる描写もない。もしもあったとしてもそこにある物語との関係性がまったく見えてこない。
考えてみれば……『ゲド戦記』の冒頭の場面、アレンが突然わけもなく父親をナイフで刺したが、あれを指示したのは鈴木敏夫であった。その後、メディアでは宮崎駿と宮崎吾朗の親子対決が盛んに報じられ、映画の内容も実際の親子関係も完全に宣伝に利用されていた。そしてこの『コクリコ坂から』。『コクリコ坂から』には鈴木敏夫の青春時代が一杯に描かれている。そう、何もかもあの老獪なプロデューサー……鈴木敏夫の企みなのだ。
宮崎吾朗は父親が過ごした時代を描く、という命題を企画の中に発見し、その時代を描写することに全精力を注いだが、実際にはそれよりもっと後ろに鈴木敏夫がいて、宮崎吾朗は思惑通りに踊らされたのだ……か、どうかわからないが。『コクリコ坂から』の本当の指揮者は鈴木敏夫、これがどこまで本当なのか、押井守の思い込みの話なのか、それはよくわからない。

93d78be1.jpeg宮崎吾朗の記念すべき第1作目であった『ゲド戦記』は駄作である。どうにもならない凡庸な作品である。しかし状況を考えると、『ゲド戦記』の存在は奇跡的ですらある。宮崎吾朗は現場経験のまったくないド素人で、絵描きとしての教育は一切受けていない。絵を描いていたといっても落書き程度で、イラストなど描いたこともなかったという。アニメにも映画にもそこまで詳しいわけではない。国内最高のスタッフがバックアップしていたとはいえ、完成まで持ち込めた事実自体、奇跡のような話である。しかも彼がはじめて描いたイラストは、美術スタッフにより完成形となって広告ポスターになったが、絵描き教育を一切受けていない者の書くものとはとても思えない完成度だった。宮崎吾朗が描いたレイアウトや絵コンテも、どの絵を見てもデッサンやパースが正確で、何年も絵描きになろうと修行をしていた者を挫折させるに充分な代物だった。複雑奇怪なカリチェラタンのイメージボードや絵コンテも宮崎吾朗が描いている。
『ゲド戦記』はまったくの未経験の人間に映画(しかもファンタジー大作)を作らせるという暴挙の末に駄作となり、当時は厳しい批評が相次いだが、それより向こうが見える人には宮崎吾朗のまだ磨かれぬ純金の才能を見つけ、圧倒されたはずだ。
『コクリコ坂から』は宮崎吾朗の才能がじわじわ磨かれ、形が定まろうとする途中経過の作品だ。『コクリコ坂から』はまだ映画として平均点を獲得した、とはいえない。映像の力が弱く、人物の描写も弱く、そこからドラマが生まれる気配がない。まだ映像の向こうに、宮崎吾朗という人間が見えてこないのだ。誰がどう見ても宮崎吾朗、そういう痕跡が見えてこない限り、映画批評は誰も宮崎吾朗を認めないだろう。厳しい批評はまだまだ続きそうだ。
しかし『コクリコ坂から』には誠実さを感じる。1960年代という背景にあるものをしっかり収集し、絵の中に描写している。人間の描写には力はないが、非常に丁寧に動きを追っている。そういった真面目さや誠実さ、手を抜かない気持ちだけはよく伝わってくる。
駄作『ゲド戦記』と比較してみると『コクリコ坂から』は随分成長した。本当なら修業時代で解消しておくべき問題であったが、状況が特異なだけにそれは仕方ないだろう。これからもおそらく成長が望めるという期待が持てるし、いずれ映画に宮崎吾朗という人物が現れ、それが宮崎駿と鈴木敏夫の手から完全に離れて、吾朗という顔しか見えなくなった時、そのとき人々は彼を自立した一流の監督として認めるだろう。

作品データ
監督:宮崎吾朗 原作:高橋千鶴・佐山哲郎
脚本:宮崎駿・丹羽圭子 音楽:武部聡志 プロデューサー:鈴木敏夫
キャラクターデザイン:近藤勝也 撮影:奥井敦 音響:笹松広司
作画監督:山形厚史 廣田俊輔 高坂希太郎 稲村武志 山下明彦
美術監督:吉田昇 大場加門 高松洋平 大森崇
出演:長澤まさみ 岡田准一 竹下景子 石田ゆり子 柊瑠美
    風吹ジュン 内藤剛志 風間俊介 大森南朋 香川照之





 

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追補:

d57d88a9.jpegブログ本文7段落目に書いた、《セルと美術のバランス》についてちょっと補足。
左は『氷菓』第4話のいちカット。場面は千反田家の中で道に迷った折木奉太郎が、間違えて千反田えるの部屋に入ってしまうところだ。そこで折木奉太郎は、千反田えるの机に気付く。机の上には、叔父の関谷純に関する資料が一杯に置かれ、千反田が熱心に調べていたことがわかる。ここに掲げたカットの他、あと2カット、クローズアップされたカットが続く。
見てわかるように、美術で描かれているのは壁と机と椅子のみである。その他の全ての小物がセルで描かれている。本、辞書、卓上カレンダー、ルーズリーフ、封筒、ペン、写真、飴を入れたグラス……。この場面では机の上にあるものを強調するために(やや過剰気味に)セルで描かれているわけだが、本来、アニメではこれくらいの範囲のものはセルで描かれるのである。
一方、宮崎吾朗は、必要最低限のものしかセルで描こうとしなかった。ここに、宮崎吾朗がアニメ演出家として経験の浅さが見て取れる。

60b84924.jpeg次は、『氷菓』第7話の最後の方に描かれたカット。
虫に食われ気味の花が、セルで描かれている。この場面は、美術で描く手もあるのだが、手前に置かれた花を強調するためにあえてセルで描いている。
演出でいうとやや特殊な見せ方だが、セルで描いたことによって結果的に場面が持っている意図が明快になった。
花はセル特有のくっきりした輪郭線と色塗り分けで浮かび上がってくるわけだが、ブラシやフィルターが複雑にかけられ、なかなか美しい仕上がりになっている。描写として文句なしの完成度なのだが、それでも美術と質感が合わず浮かび上がって見える。が、まさに浮かび上がってくるように見せるのがこの場面に狙いである。
セルで描くのはキャラクターばかりではない。このように、演出家が見せたい物をセルで描く。アニメならではの手法だがこそ、よくよく考え活用していきたい手法である。





 
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