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■2013/07/04 (Thu)
■ \(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!
(」・ω・)」SAN値!(/・ω・)/ピンチ!!
\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!
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主題歌が始まると同時に、ニコニコ動画の画面は【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】の文字で埋め尽くされる。【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】とは、『這いよれ!ニャル子さんW』のオープニング主題歌に使われたキーフレーズだ。オープニングの冒頭、途中など、d27c6530.jpeg様々な箇所に何度も【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】のフレーズが繰り返され、その度に【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】のコメントが画面を一杯に覆う。
最近の話ではなく、アニメではずっと昔から「馴染みやすいフレーズ」が主題歌に取り入れられてきた。多くの場合が主人公や必殺技の名前、あとはやはり【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】などの本編で使用されるわけではないキーとなるフレーズだ。そうしたキーフレーズの多くはサビに入ったところの、一番盛り上がったところで使用される。歌い手は高らかに必殺技を叫び、主題歌のテンションは最高潮のラインのさらに上を突き抜けて恍惚の瞬間に突入するのだ。
アニメの主題歌はそうした伝統ともいえるキーフレーズの使い方を継承し、現代的な早いリズムやサンプリングを利用して独自の地位とスタイルを作り上げている。『這いよれ!ニャル子さん』のオープニング主題歌はその形式をさらに押し進めて、【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】のフレーズをあたかも一つの音楽のように取り入れ、何度も繰り返しす。
このリズムが実際かなり心地よく、ニコニコ動画は“合いの手”を入れるように【\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!】のコメントで埋め尽くされた。

『這いよれ!ニャル子さん』は“合いの手”のアニメだ。アニメ本編に入っても、コメントは絶えることは決してない。『這いよれ!ニャル子さん』の本編といえば、ストーリーラインの骨格が見えなくなるくらいに、ありとあらゆるパロディが連打される。数秒おきに台詞、描写にパロディが打ち込まれ、そのパロディの一つ一つに対して、ユーザーがコメントを打ち返していく。パロディの量はとんでもなく多く、見ていてもほとんどが何のパロディがわからず、次第にそれがパロディなのかパロ18254b43.jpegディでないのかの判別すらできなくなる。しかしユーザーは取りこぼさずコメントを打ち込んでいく。あたかも、キャラクターが取り逃がした、あるいは敢えてスルーしたパロディに対して突っ込みを入れるように。それはあたかも、作品に対して“合いの手”を入れているようである。
そういう意味で、『這いよれ!ニャル子さん』は“視聴者参加型アニメ”というスタイルを独自に確立したといってもいい。普通に、アニメに限らず映像メディアは一方通行だ。すでに作ったものを放送しているのだからそれは当然だ。しかし『這いよれ!ニャル子さん』に限っては一方通行という感じがしない。あたかもユーザーの合いの手を待ち構えているかのように、いくつものパロディが捻り込まれる。一方通行メディアにかかわらず、どこか舞台劇のような近い距離感を感じさせるアニメだ。
『這いよれ!ニャル子さん』は、視聴者が参加することで、初めて完成するアニメなのだ。ニコニコ動画という視聴者との双方向性を活かせる場所があったからこそ、『這いよれ!ニャル子さん』はより輝いたのである。



■ パロディとギャグの狭間

しかし作品を視聴し続けていくうちに、やがて疑問に思うようになった。
物語中、大量に散布されているパロディの数々。そのパロディの物量に圧倒されるが、しかしそのパロディは果たして――ギャグなのか?

ギャグとは何なのか、パロディとは何なのか、そういうそもそもの問題を突き詰めていかねばならない。『這いよれ!ニャル子さん』がパロディを主体としている作品であるのは間違いない。しかし、ギャグとはそもそも何なのか?
Wikipedia:ギャグ
Wikipediaに示された概要には、概ねにおいて笑いをもたらすフレーズとなっている。しかし、ギャグのどういった瞬間に、我々は笑うのか。
3c2d2be2.jpeg一面的な例として“落差”という要因が考えられるだろう。まず提示するAというフレーズがあり、次にオチとなるBというフレーズが続く。その落差の大きさが笑いを生む。
多くの場合、提示となるAは常識的、世間的なものが題材となる。一般的にごくごく当たり前に考えられているものを引っ張り出して、次なるBでその逆である“非常識”を突きつける。AとBの連なりの間で「それはあり得ない」と思うもの、聞き手が想定しないものを提示する。その緊張感と脱力との差異に「そんなものはあり得ない!」という笑いが起きる。
もちろん、これは一面的な例に過ぎない。提示するAに一般的に広まっている何かを引っ張り出し、Bで「それはおかしいのではないか」と。おかしいのはオチであるBではなく、そもそものAではないか、という。ある意味での風刺といった使い方もできるし、もちろんこれでも笑いの反応を引き出すことができる。
実際にギャグの形式は多様だ。Wikipediaにあるように、一般的な所作を誇張することで笑いをもたらす場合もある。ギャグの考案者の数だけ、ギャグのヴァリアントがあるといっていい。

ここで『這いよれ!ニャル子さん』に話題は戻ってくる。『這いよれ!ニャル子さん』のパロディはどうしてギャグではないかも知れない、という疑惑が生まれるのか。
確かに『這いよれ!ニャル子さん』には大量のパロディが描かれているが、その羅列にギャグとしての機能が付与されているのか、という疑問である。不用意に連打されるパロディが、ギャグとして笑いを生むほどに落差を作っているだろうか……と。ある意味で、単にパロディがいくつも並んでいるだけであり、それはギャグとは違う性質のものではないのか、と。

パロディとは無条件に笑いを作り出すものではない。パロディには実際様々な形が存在し、パロディであるからこそギャグとは違う性質の社会的な意義が付与される場合がある。
それを事件として報じたのは、1971年(昭和46年)10月1日の読売新聞だ。
e3ee87d4.jpeg記事の内容はこうだ。山岳写真家の白川義員(“よしかず”。“ぎいん”ではない)がオーストラリアの雪山の一場面を撮影した。写真はオーストラリアのスキー学校と交渉して、2ヶ月がかりでやっと完成させたものだった。
ところが、パロディ写真家マッド・アマノはこの写真の上部に、巨大なタイヤを書き足してしまった。マッド・アマノの狙いはシンプルだ。巨大なタイヤは自動車公害問題を示唆しており、スキーヤーたちは、その公害から逃げようとしている人々である。(写真出自:芸術とスキャンダルの間 大島一洋)
この場合のパロディは、“笑い”が狙いではない。この事例のようにパロディとして再構築することで、風景写真が風刺メッセージを得ることだってある。またマッド・アマノのこのパロディは、白川義員が撮影した写真に、ヘリコプターで現地に乗り込み、まっさらな雪原にスキーヤーを走らせる行為に自然破壊的なものを読み取り、その側面をクローズアップさせた。写真家が意図していない側面すらもパロディが突いて見せたのだ。
Wikipedia:パロディ裁判 白川義員はマッド・アマノのパロディに憤慨し、訴訟を起こした)

というように、パロディには様々な“意図”が込められることで、幅広いメッセージ性を持たせることができる。ギャグは徹頭徹尾“笑い”が主題であるが、パロディには“笑い”以外の様々な表現方法が可能なのである。
では、『這いよれ!ニャル子さん』のパロディはいったい何を指向しているのだろうか。笑いだろうか。確かに『這いよれ!ニャル子さん』はパロディを笑いとして扱っている。ニコニコ動画を見ると、多くの人がギャグとして受け入れているのがわかる。この疑問は愚問ですらある。
しかし敢えて提示してようと思う。
『這いよれ!ニャル子さん』のパロディは、実はギャグ以外の何かを指向しているとしたら?



■ 2次創作化するオリジナル

少しひねくれた人は、大ヒットアニメ『エヴァンゲリオン』を見てこう批判するだろう。
「あんなものはオリジナルとはいえない。設定もシーンも、どれも過去の特撮やアニメで描かれたものばかりじゃないか」
まったくもってその通りだ。しかし、これは批評する側の知っている/知らないの話に過ぎない。そもそも、全ての創作は2次創作であるのだ。
04599feb.jpeg以前に、『インディ・ジョーンズ』の映像と、サイレント時代に制作された冒険映画のいくつかを組み合わせた動画と比較する動画がYouTubeにあった(残念ながらブックマークを作らなかったので、現物を提示することができない)。これが、ぴたりと一致するのである。カット割りから台詞のタイミング、カメラの流れ方まで、ぴたりと一致する。もはや、丸パクリといっても差し支えがないくらいにまでそのままなのだ。
しかし『インディ・ジョーンズ』は『エヴァンゲリオン』のように「あれはパクリだ!」という声は聞こえてこない。何故かといえば、答えはシンプルである。そのことを知らないからだ。だから『エヴァンゲリオン』が過去作のパクリに過ぎない、という意見を口にする人は、単にその程度の知識しか持ち合わせていない、と告白しているようなものである。
最近では『パシフィック・リム』が日本のロボットアニメをリスペクトして作られた作品であると監督自身が公言している。『パシフィック・リム』に限らず、例えば『スターウォーズ』は黒澤明監督の『隠し砦の三悪人』とそっくりだ。パクリでなければ何だと言うくらい、類似が多い。寛容だった当時だから許されたものの、いま制作したらジョージ・ルーカスは袋叩きだっただろう。『マトリックス』は押井守監督の『GHOST IN THE SHELL』を元ネタに作っているという話はあまりにも有名だ。こちらにも類似は非常に多い。
では、上に挙げたあからさまな例以外の作品は、純粋たるオリジナルと呼べるのだろうか。そう呼ぶにはやはり疑問だ。というのも、現在形の作品は、過去の作品と無関係でいることは決してできないからだ。

47fc0150.jpegある仮説として、創作は20年前後を周期にして回帰すると考えられる。その作家が少年時代に見て感銘を受け、その後大人になって自分が好きだったものを再現するようになるまで、およそ20年くらいだろう、という考え方だ。
例えば庵野秀明が少年時代、テレビの特撮に夢中になる。その後大人になり、プロの映像作家となって、自分が好きだった特撮を再現しようと『エヴァンゲリオン』という作品を思いつく。それまでの期間を、かなり大雑把に20年前後であろう、と。創作は、20年周期で“帰ってくる”のである。
庵野秀明に限らず、作家を目指す人というのは、作家になろうという感銘を受けた、影響を受けた作品というものがあり、大人になった後も、意識せずともそれを現代的な感性と技術でグレードを上げつつこれを再現しようとしてしまう。少年時代に見て、影響を受けたり、感銘を受けたりといった作品は、作家側がどんなに否定しようとも、絶対に無関係でいられるはずがないのだ。
また、技術面や表現方法においても、過去の作品という礎があるから、今の作品がある。怪獣の見せ方一つ取っても、どう見せればかっこよく見えるか、恐ろしく見えるか、そういう模索を過去の人が充分に検討してくれたから、それを踏み台にしてよりよい表現を目指すことができる。技術面においても、培ってきたものがあるからこそ、より密度の高い描写が可能になる。
過去の作品を礎にし、古びたと思ったテーマを復活させつつ、創作は少しずつグレードを上げてより高度な次元へと発達していくのだ。

現代がかつての時代とどう違うのか、という話をすると、作家になろうとする人達が過剰に創作漬けで育ってきた、ということがいえる。すべてが映像で見てきたものの2次創作なのだ。映像で見てきたもの、即ちフレームで区切られ、特撮が導入され、演出家が指示した演技を見て、これに加算する形で、自分たちの映像を作ろうとしている。
ある種のエリートともいえるが、2次創作という側面はかつてより大きく、克明に現れてくると思う。漫画を目指す人は、かつてより漫画のエリートで漫画の表現や技法を知り尽くした上で漫画家を目指そうとするし、映画監督を目指す人はやはり映画のエリートだろう。しかしそれくらいのエリートでなければ、現代の先鋭化した表現のさらに上を目指すのは、困難であるといえる。
では、そうした2次創作は――『エヴァンゲリオン』や『スターウォーズ』といった作品はオリジナルではないのか、といえば間違いなくオリジナルだ。なぜなら、『エヴァンゲリオン』には庵野秀明という個人の精神性が色濃く現れているし、確かに過去作品の映像が断片的に見えてくるものの、『エヴァンゲリオン』は『エヴァンゲリオン』として一貫したテーマと映像の連なりを持っており、ストーリーも過去作品の類似は発見できるものの、やはり『エヴァンゲリオン』は『エヴァンゲリオン』という揺るぎない存在感を放っている。要するに、過去作品を連想させないだけの力強さを持っている。それに、誰が見てもオリジナルだと言うだろう。2次創作化といえば2次創作だけど、それ以上に、過去作品から切り離された新しい時代に向けた作品だからオリジナルなのだ。


■ 先鋭化するユーザー

そうした作品漬けの日々を過ごしたエリートは、もはや作り手だけの特権ではない。見ている側、読んでいる側といった受け手も、創作のエリートなのだ。ただし彼らは、あくまでも読者エリートであり、作家の立場にいこうとは考えなかった人達だ。

acb21dde.jpeg彼らエリートユーザーは創作の方法論など知らないし、作品の体系化もしているわけではないが、それまでに培ってきた視聴経験、読書経験から漠然とながら、しかしかなり的確なストーリーパターンを了解している。
作家がさりげなく描いたつもりのカットから「これは伏線で、次の場面のどこかでこういう展開が来るだろう」と予測を立てて、そのおおよそは的中させてしまう(作家側から見ると「的中させられてしまう」)。現代の読者は、「フラグ」というゲーム由来の言葉を多用しつつ、かなり正確に物語の典型的なパターンを読解し、次なる展開、あるいは物語中に散布した要素から結末を読み当ててしまう(作家側からするとやはり「的中させられてしまう」)
彼らエリートユーザーは、もちろん作家になるための教育を受けたわけでも訓練を実践したわけでもない。方法論を含めた物語の成り立ちを了解しているわけでもない。だから読者エリートたちの意見は、どこかで必ずおかしい……身の丈に合っていない意見を口にする。
過剰なまでに作品漬けの現代。読者エリート達は作品漬けになる過程で、物語を組み立てる必要なロジックを了解し、そのロジックを普遍的に共有するほどにまでなった。しかし肝心なところで素人に過ぎない読者エリートは、そのロジックをかなり誤解して捉えている。そうした物語の法則性を一つ見つけるたびに、彼らは必ずこう言うのだ――
「最近の物語はありきたりだ。意外性がない」

0d8602d2.jpeg先鋭化するエリートユーザーは、創作の新たな楽しみ方を発見したようだ。
その作品がパロディを指向していなくても、過去作品との類似を見出し、パロディとして見てしまうのだ。作家はそれをパロディとして描いたつもりはないし、ユーザー達が似ていると指摘する作品を意識しているわけでもない。そもそも知らない場合もある。しかしユーザー達は類似を作り、過去作品と比較し、現在形の作品をパロディとして受け入れようとする。最近のシリアスストーリーである『進撃の巨人』も一部のユーザー達からパロディ作品として受け入れられているようだ。
そうしたパロディとして見なされるためには、その本家と類似作品の間に、必ず“パロディ化”された何かが差し挟まれている。
例えば『ドリフの大爆笑』で有名な加藤茶の「ちょっとだけよ」。これはストリッパーのパロディだ。加藤茶はストリップ劇場に通い、舞台照明や音楽を研究し、パロディとして再構築した。以後、本業のストリッパーは怒り心頭である。脱ぐたびに客席から笑いが巻き起こる。みんな加藤茶の「ちょっとだけよ」を連想するのだ。
fb0f6363.jpeg同じように、どこかで一度パロディ化されたものが差し挟まれると、それ以後の類似は全てギャグとしてユーザーが受け取ってしまう。例えば、画面に集中線が出ると「強いられているんだ!」。背後に敵が現れたら「志村ー後ろー!」。男同士の友情が描かれると「アーッ!」。女同士の友情が描かれると「キマシ」。「穴」や「掘る」とか「塞ぐ」といった言葉にも反応する。こうした反応はニコニコ動画特有の合いの手文化と言えなくもないが、これこそ過剰に訓練され形式化したユーザーの反応といえる。
過去作品との類似が全くない作品などあるはずもない。すでに書いたように過去作品という礎があって今の作品がある。完全なオリジナルがあったとすればそれはオーパーツだ。だがそれ故に、現代のユーザーの手に掛かれば、どんな作品でもパロディになってしまうのだ。どんなストーリーも途中で結末を言い当ててしまうエリートユーザー達の意識の中に、もはや“シリアスストーリー”なるものは存在しない。全てパロディとして扱われる。

900ddc3d.jpeg現代はある意味で歪な時代である。かつてはそういった口うるさいエリートはごく一部に過ぎなかった。だが、今や誰も彼もエリートといった状態だ。
『スターウォーズ』は制作された当時から『隠し砦の三悪人』との類似が指摘され、「これはオリジナルというよりSFリメイクではないか」と言われていたが、その当時はそう指摘をする人自体がごく少数で、それ以上に声は大きくはならなかった。結局、長い年月の末に、『隠し砦の三悪人』は忘れられ、『スターウォーズ』は「オリジナル作品」として多くの人に受け入れられ、『スターウォーズ』も『隠し砦の三悪人』を連想させないくらい独自的なイメージを持つまでに成長した。
しかしもしも現代だったら? もはや誰も彼もエリート視聴者という時代に『スターウォーズ』のような作品が制作されたら? 「あんなものはただのパクリだ」と間違いなく世界規模で監督が袋叩きになっていたところだろう。
リメイク作品である樋口真嗣監督の『隠し砦の三悪人』は少なくとも『スターウォーズ』よりは完成度の高い作品だと思うが、すでに手厳しいエリートユーザーが大量に育った時代、オリジナル作品と比較され、徹底的に叩きのめされた作品になってしまった。
そうした時代であるから作り手が目下求められているのは、そういったエリートユーザーの思考パターンを1つ越えることである。これまで、創作の教科書に書かれてきた方法論は無意味ではないが、参考程度にしかならない。セオリー通り物語を組み立てても、すべて見透かされてしまう。あろうことか“ありきたりな展開”と捉えられてしまう。そこからさらに向こうの世界を目指さないと、時代を一つ飛び抜けた作品にはならない。
まったくの不可能ではない。あまりの意外性と、誰も結末を予想できなかった『魔法少女まどか☆マギカ』といった良作がある。美しいビジュアルと、緊張感のある俳優の演技で圧倒した『Feto/Zero』といった作品がある。
アイデアを絞り出せば、誰も思いつかなかったストーリーに、思わずコメントを忘れるくらい圧倒させるシーンや演技を作ることは可能なのだ。ただ、今までに以上に、作家は苦労して知恵を絞らなければならない。


■ 逆襲のニャル子さん

『這いよれ!ニャル子さん』の秀逸さは、そうした時代の感覚を了解した上で作っていることにある。『這いよれ!ニャル子さん』は、ユーザーの全てがエリートであることを見越した上で、敢えてハードルの下をくぐり抜ける選択をしたのである。時代の一つ上を飛び抜けるのではなく、時代の感性に寄り添ったのだ。
大量のパロディを散布することで、ユーザーに合いの手を入れてもらう。現代はみんながエリートユーザーだ。どんなパロディを投げても、ユーザー達は確実で正確にラリーを打ち返してくれる。
作り手側が意図していなくても、ユーザーは作品に過去作品と類似を見出して、勝手にパロディとして受け入れてしまう。その性格を逆手に取り、意図的に過去作品との類似を大量に放り込む。キャラクターがパロディについてフォローしなくても、ユーザーが勝手にギャグとして受け入れて笑ってくれる。ギャグは提示したものAと突っ込みBとの間にある落差で笑いを生み出すが、この落差を作り手側が提示しなくても、ユーザー側が勝手にやってくれるというわけである。どんな断片的なパロディであっても、ユーザーは決して見落とさず、拾い上げてくれる。現代のユーザーが先鋭化したエリートだからこそ、あるいはニコニコ動画というメディアがあったからこそ成立する、かなり特殊な“笑い”である。

また『這いよれ!ニャル子さん』は現代のユーザー達に向けてささやかなながら逆襲を試みている。一見すると、意味もなく配列しているだけに思えるパロディの数々。そのパロディこそが、次の展開を作る伏線である、という構図だ。
40a758be.jpegこの方法論が最初に提示されたのは第2話、ニャル子さんがベンチに座り、「さーて今日の世界情勢は、と」と新聞を開く。これは千葉繁が押井守作品に何度か繰り返したギャグである。この台詞は『うる星やつら』『パトレイバー』などで使用された。これをニャル子さんが踏襲したのである。これが、実は後半に向けたかなり重要な伏線であった。
さらに真尋が図書館で何気なく手にした本。『邪神様のメモ帳』。『神様のメモ帳』というタイトルの推理小説を基にしたパロディだ。視聴者は多くのパロディの一つだと思って、笑って見過ごしたが、実はこれこそ、エピソードの結末に繋がる伏線であった。
そう、『這いよれ!ニャル子さん』はパロディを物語展開の重要な一要素として取り込んだのである。

――『這いよれ!ニャル子さん』のパロディはいったい何を指向しているのだろうか。
d00d39c8.jpegいよいよこの答えが見えてきただろう。『這いよれ!ニャル子さん』のパロディには物語的な有意味が与えられた作品であるのだ。パロディの概ねの意図はギャグであるが、『這いよれ!ニャル子さん』はそこに有意味を与え、パロディが物語的重要度を持っている。それはエリートユーザー達が予想もできなかった“意外性”を確実に提示するものだった。
6f82c547.jpegシリーズ後半に入れば、ユーザーが予想してくることを見越して、「どのパロディが伏線でしょう」と提示してくる。第10話は『マーズアタック』と『宇宙戦争』のパロディをはじめに提示し、どちらが伏線か予想させるような内容だった。ここまで来ると、ユーザーとの双方向を意識したゲームのようだ。
『這いよれ!ニャル子さん』はハードルの下をくぐり抜けるという、一見すると“ズル”を使いつつ、同時代の予想を一歩上回る作品として自立した。パロディをパッチワークのように折り重ねて、その末でできあがった作品であり、パロディが単にパロディとして孤立しているのではなく、作品を構成させる重要な要素になっている。またそれは、同時代の先鋭化した感性があったからこそ成立した方法論であった。オリジナリティをあえて切り捨てることで成立した、『這いよれ!ニャル子さん』らしいオリジナリティである。


 

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