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■2013/07/26 (Fri)
劇場アニメ■
この記事はネタバレが多く書かれています。
映画をまだご覧になっていない人は、決して読まないでください。
映画をまだご覧になっていない人は、決して読まないでください。
『風立ちぬ』は「堀越二郎」と「堀辰雄」という2人の実在人物をベースに作られた作品だ。もちろん物語も実際の歴史を背景にしている。そのため可愛らしいキャラクターは登場しないし、出てくる人物が豚などの動物化もしていない。物語の基本的な骨格は「堀越二郎」から多く取られているが、宮崎駿が空想で描いた部分は非常に大きく、結果として「歴史に基づく映画」ではなく飽くまでも「フィクションの映画」と割り切って作られた作品だ。
物語は大正5年から終戦の1945年(昭和20年)までのかなり広い範囲が舞台にされている。大らかな静岡の田舎時代を過ごした少年期、それから上京し三菱内燃機株式会社に入社し、軍の要請で零戦を完成させるまでが描かれる。背景に戦争の災禍が迫り、その時代の流れに荷担しつつ駆け抜けていく1人の若者の半生が映画の舞台だ。
『風立ちぬ』は実在人物をモデルとした、実際の歴史を背景にした物語である。しかし映像から受ける印象は、“リアリティ”ではなくもっと素朴な柔らかさを持った“漫画映画”の感触である。
線は最近のアニメの水準と比較すると、かなり太く描かれ、また線の数も少ない。色塗り分けも最小限に抑えられ、コントラストも淡い。
背景との関連性、例えば開くドアなど、あからさまに背景と動画、別のものだとわかる描かれ方をしている。最近ではデジタルを使って、背景と動画の境界を曖昧にする方法が一般的に使われているが『風立ちぬ』では画面を見ると、どこが背景でどこが動画であるかたちどころにわかってしまう。机の周囲に置かれた小物や、壁に引っかけられた上着、窓の外ではためく旗など、一目見るとすぐにそれらが動画であることがわかる。わかるように描かれているのだ。
映画中には電車やバス、船、飛行機といった様々な無機物が登場するが、デジタルは1シーンも使用されていない。何もかもが動画で描かれ、かつキャラクターと同じく最低限の線と色塗り分けだけで描かれている。線の数を増やしてリアルに描こうとはしていないし、ブラシを使用して背景と区別できないようにしようとも指向しておらず、誰が見てもあからさまに手書きとわかる絵で描かれている。
背景動画などもそうだ。疾走していく飛行機をカメラが追跡していく場面でも、背景の動きはデジタルではなく手書きの動画だ。真っ正面にトラックしていく場面のみデジタルが使用されているが、それは恐らく2例くらいだ。
そう、『風立ちぬ』は動画に立ち返ったアニメなのである。それも極めて古典的な動画作品への回帰であり、いかにもな顔をしてふんぞり返った“劇場アニメ”ではなく“漫画映画”なのである。
『風立ちぬ』は何もかもが活き活きとした躍動感に満たされている。例えばキャラクターの顔だ。キャラクターの顔といえば、崩せばただちに「キャラ崩壊」「作画崩壊」といった声が聞こえてきそうだが、『風立ちぬ』のキャラクターは大胆に顔が崩れる。キャラクターの感情に合わせて、キリッと勇ましく描かれたり、ぐにゃっと歪ませて動揺を表したりする。
そうした描き方はキャラクターだけに留まらず、飛行機や汽車といった無機物に対しても同様の描かれ方が試みられている。汽車はゆったりと揺れながらレールの上を走っているし、飛行機は無理に速度を上げようとした瞬間、全身がぶるぶると震えて前傾姿勢になる。
『風立ちぬ』には今どきな作家が描いている「リアリティ」が皆無なのである。細部を突き詰めて見る側を圧倒してやろう、という意思が感じられない。飽くまでも“漫画映画”として描かれ、その追求はまさに“飽くなき徹底ぶり”なのである。
映画前半の大きな見せ場といえば間違いなく関東大震災のシーンだろう。東京の町並みが“弾け飛んだ”地面に吹っ飛ばされ、家が破壊され電柱がなぎ倒され、平和な日常が瞬く間に大惨事に変わる……。そんな場面ですら、画面にはリアリティはまったくない。使われている技術は何もかもが古い。あからさまな漫画だ。凄まじい振動で跳ね飛ぶ地面は、背景を連ねて密着マルチで描かれているし、崩れる線路などは背景動画だ。デジタルは一切使用されていない。
しかしこの関東大震災のシーンは画面全体が生命観を持って、大きな“しゃっくり”でもしたように見える。その後繰り返される余震が人間の肉声を合成して作った唸り声で表現されていて、リアリティはないが異様な生々しさを持っており、「リアルな光景を目撃した」という感覚は全くないが、映像が持っている有機的イメージがその瞬間その場にいた、といような気分にさせてくれる。地震直後の阿鼻叫喚の風景が贅沢なワイドレンズで描かれ、執念のような動画がやはり凄まじいシーンに仕上げている。
『風立ちぬ』は実在の人物をモデルとしており、実際の歴史を背景にしているのに関わらず、実際の風景をリアルな画で再現してやろうという意思が全く感じられない。ある意味で“素朴”とすらいえる画だが、だからといって映像に“弱さ”はなく、むしろビビッドな力強さすら感じさせる。
歴史の背景を再現した構図はどれも美しく、大らかともいえる線のみで構成されたキャラクターのシルエットは的確だし、何より動画への執念は凄まじい。動画の軌道線はどの場面も流麗だし、映画の大画面でありながら線の流れに違和感が出る瞬間はなかった。動くときはキャラクターだけではなく画面上の何もかもが動き出して、場面の情緒を語り始める。ただ動くのではなく、画面全体が俳優として演技を始めるのだ。
素朴さと職人的な芸術が交差する画面の中で、庵野秀明の芝居とすらいえない下手糞な棒読み演技が不思議な調和を持ち始める。
『千と千尋の神隠し』と『ハウルの動く城』で徹底的に線を突き詰めた後、『崖の上のポニョ』で全てを投げて動画の原典に回帰し、その後だからこそ辿り着けた映像だ。生涯をかけて絵と動画に全てを捧げてきた画狂老人だからこそ描ける一つの境地とも呼べる精神性の高さが作品から感じられる。
『風立ちぬ』は一つ一つのシーンが短い。断片的にキャラクターの行動と発言を追いかけた後、あっという間に次の場面へと飛んでいき、場合によっては数年の時間が過ぎ去ってしまう。
宮崎駿の映画といえば、一貫した娯楽映画であり続け、多くの作品は一つ一つのシーンにそれなりの長さを持ち、キャラクターの個性がゆったりと魅力がわかるように語られ、何よりもアクションの流れがくっきりとした導線で描かれていた。
しかし『風立ちぬ』はそのように描かれていない。性急といえる早さで物語が進行していく。時に時間が前後して、重要と思える事実の解明も端的に仄めかす程度という描き方である。そうした描き方は、淡泊というほど感情を感じない。
これまでの方法論が使われない代わりに、映画には様々なモチーフが使用されている。飛ぶ帽子や、紙飛行機、こうもり傘、サバの骨……。一つ一つのシーンが短い代わりに、モチーフが全体の連なりを作り、ドラマを繋げ人物を語り始めている。今までにない宮崎駿のドラマメイキングだ。
そうした中で、かなり長いシーンがいくつか描かれている。一つは堀越二郎が見ている夢の中のシーンである。この夢の中で、堀越二郎は憧れのジャンニ・カプローニと遭遇する。ジャンニ・カプローニと堀越二郎がともに同じ夢を見ている、というが、とうとうジャンニ・カプローニが現実世界に登場することがなかったので、2人が本当に夢を共有したのかわからずじまいに終わってしまった。
『風立ちぬ』はあえてなのだろう、フィクションにありがちな独白が描かれていない。どのキャラクターも現実的な範疇での対話しかしていない。事務的な連絡事項のような対話ばかりで、現実世界で感情を剥き出しにして何かを語る、という場面がない。もっといえば、『風立ちぬ』の描写にはいかにもな“ドラマチック”が欠落している。
そうした人物の独白や感情といった部分は、夢の中で語られる。堀越二郎が飛行機作りを将来の夢にするのは、現実の風景ではなくこの夢の場面だ。新しい飛行機の設計を語るのも、現実世界ではなくこの夢の世界だ。
またジャンニ・カプローニは飛行機作りの暗部を語る。職人は単純で純粋に美しい物を作りたい、という動機で飛行機を作っているが、それは戦争の道具に使用されてしまう。これはジャンニ・カプローニを通じて、堀越二郎が抱いている懸念は不安が代弁された場面で、実際にこの懸念を抱いているのは堀越二郎である。堀越二郎が夢の中で、ジャンニ・カプローニという代理人格を通して、自分自身の不安と不満を語っているのだ。
もう一つ、長く描かれた場面がある。奈緖子と再会する軽井沢の高原の場面だ。堀越二郎が七試艦戦のテスト飛行に失敗し、挫折の傷心を癒やすためにやってきた場所である。
ここで、もう一人の外国人が登場する。カストルプと名乗るドイツ人だ。カストルプは堀越二郎の隣の席に座り、唐突にカプローニの話を始める。いうまでもなく、カストルプはカプローニの代理人であり、軽井沢の風景は、確かに現実世界であるが極めて堀越二郎の内面世界に近い場面である。軽井沢のあまりにも浮き世離れした美しい草原の風景は、堀越二郎の夢の世界に酷似している。軽井沢はもちろん現実の世界だが、一方で半分くらいは夢の世界であり、この夢の世界で堀越二郎は里見菜穂子と出会い、夢の世界だからこそ活き活きと感情を交差させるのだ。
『風立ちぬ』は風の映画である。宮崎駿といえば飛翔と風。何もない場面でも風を巻き起こす作家だ。
しかし『風立ちぬ』は全てのシーンに風が吹いているわけではない。むしろ現実の風景は風が極限まで抑えられてる。飽くまでも現実の世界として、人間や世界が地面に縛り付けられているものとして描かれている。
その一方で、夢の世界は過剰なくらい風が意識されて描かれている。雲は早く流れていき、足下の草むらにざわざわと風が流れていく様子が描かれ、人物は絶えず吹いている風を体に浴びている。菜穂子の出会いの場面も同様に強烈な風が意識されているのがわかるだろう。
また夢の場面は戦争から遠ざかった平和の場面であるといえる。現実の世界は色も重々しく、風が凪いで今まさに迫ろうとしている戦争にみんなざわざわとしている。もちろん、『風立ちぬ』には実際の戦争、あるいは戦闘の場面はまったく描かれていない。しかし風のなさと情景の重々しさが戦争の影を予告している。
その一方で風渡る夢の世界は平和の世界であり、同時にファンタジーの世界である。戦争が迫る現実世界から逃避したファンタジーである。ファンタジーだからこそそこで風が吹いているわけだし、またファンタジーだからこそ情念が交わされるのである。
飛行機を作りたいがそれは戦争に利用され、戦争に利用されるから作るチャンスが巡ってくる。しかし堀越二郎は戦争の道具など作りたいとは思っていない。そうした前提から置かれた矛盾。そうした矛盾への折り合いと、願望が実現される場所として、ファンタジーが用意されている。
『風立ちぬ』は巨匠・宮崎駿の新しい局面である。いや、『もののけ姫』を総決算映画と見なすと、それ以後の作品はずっと新しい局面を、新しい扉を開き続けているといえる。
『千と千尋の神隠し』で自身の深層心理と死を見詰め、『ハウルの動く城』では老いと死というテーマを極限まで追い詰めて、『崖の上のポニョ』では一転して無邪気な生命の誕生を高らかに描きあげた。
『風立ちぬ』はそれまで作り続けた娯楽映画の文法を全て切り捨てて、今まで手を出してこなかったドラマが描かれた。堀越二郎40歳までの経緯が描かれた作品だ。これまで、一つの事件、短い時間の間に起きた出来事ばかり描いてきたから、大胆ともいえる転換で、しかもそれがあまりにも見事に完成している。文法を変えてみても、巨匠はやはり巨匠だった、というわけだ。
70歳を過ぎてまだまだ転機。まだまだ新局面。とんでもない作家だ。宮崎駿の周囲では、まだ新しい風が吹き続けている。
ほんの少し続きを書きました→とらつぐみTwitterまとめ:『風立ちぬ』感想 夢から取り出した理想は、現実世界の醜さにまみれて失われてしまう
作品データ
原作・脚本・監督:宮崎駿
作画監督:高坂希太郎 動画検査:舘野仁美 美術監督:武重洋二
色彩設計:保田道世 撮影監督:奥井敦 編集:瀬山武司
音響演出・整音:笠松広司 アフレコ演出:木村絵理子 音楽:久石譲
プロデューサー:鈴木敏夫 製作担当:奥田誠治・福山亮一・藤巻直哉
アニメーション制作:スタジオジブリ
出演:庵野秀明 瀧本美織 西島秀俊 西村雅彦
スティーブン・アルパート 風間杜夫 竹下景子
志田未来 國村隼 大竹しのぶ 野村萬斎
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