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■2013/10/12 (Sat)
シリーズアニメ■
纏流子は真っ直ぐに伸びるその道の途上に立ち止まって、そこから見える風景を睨み付けた。足下には白く濁った空気が悪臭を放ちながら絡みついてくる。街はピラミッドのような三角錐の形を作り、その斜面にしがみつくように建物がひしめいていた。その頂に当たるところが逆光の輝きで黒く浮かんでいたが、にわかに浮かび上がってくるシルエットが、街を取り巻いている統制が行き届いるがグロテスクに感じさせる歪さを象徴しているように思えた。
あそこにあるのが本能字学園。鬼龍院皐月が統率する学園で、この学園がそのまま街の全てを支配し統率し、その統率はまさに暴力と理不尽による圧政だった。
あそこなら手がかりが掴めるかも知れない……。纏流子は父を殺害し、片太刀鋏を残していった謎の人物を追っていた。父の仇を求め、関東を放浪した挙げ句、ようやく流れ着いたのがあの本能字学園だった。
纏流子は決意を改めて、街へ至る道へと一歩足を進めた。
『キルラキル』はここ数年のアニメ史を俯瞰してみても、間違いなく突き抜けた個性を持った作品だ。そのアートワークの特殊さは、もはや正気ではないと言ってもいいかも知れない。
物語の構造はいたってシンプルだ。
本能字学園は学園のみならず、街そのものを独裁的な支配状態においていて、街の人達の階級は“制服”で決められる。“征服”と“制服”をかけたシャレだし、「学園ものといえば制服」というファクターをうまく読み替えている。また制服と身分という連なりに捕らわれる日本人の感覚に対するアイロニーにもなっている。
階級が高くなると“極制服”と呼ばれる制服が与えられ、この制服を身につけると特異な能力を得ることができる。この極制服には3つの段階があり、最上級は三つ星。三つ星は生徒会メンバーである“本能字学園四天王”のみに与えられ、学園を統率していた。二つ星が与えられるのは各運動部の部長たちで、彼らは本能字学園四天王の命令に従い、日本中を支配下に収めるための闘争を繰り広げている。
この学園の圧政に纏流子がたった一人で立ち向かうストーリーだが、纏流子が武器とするのは片太刀鋏。これは対極制服用に開発された武器だ。制服を切り裂くからハサミを武器にする……実に理にかなった連想だし、名前を見るとハサミだけではなく“太刀”の語が入っているのが面白い。この片太刀鋏で敵を粉砕し、極制服を切り刻むと、画面には大きく“繊維喪失”の文字が浮かび上がる。これも戦意喪失をかけたシャレだ。
“征服”と“制服”。この制服を裁つために片太刀鋏を使い、“繊維喪失”、すなわち“戦意喪失”させる。アニメといえば学園もので、学園ものといえば制服……。この構図をうまく変換させ、制服を物語構造の中で意味のあるものとして機能させ、さらにこれを粉砕するストーリーを作り出す。シャレといえばそれまでだが、制服と粉砕という構造に鮮やかな連なりを作った発想に脱帽だ。
このシンプルに視覚化された設定を解説するのに、『キルラキル』が必要とした時間はわずかに4分。誰が見ても明らかなストーリーで、あまりにも豪快に突き抜けたビジュアルの凄まじさに、あっという間に映像世界に引き込まれてしまう。
この物語や人物のシンプルさが、映像作家たちがいかに物語やアクションを壮大かつ強烈に語り描き上げるか、という課題に躊躇わず集中できる素地を作っている。
映像を見てただちに気付くのは、画面全体を覆っている白い霧状のものである。おそらく2通りの描き方があり、キャラクターの足下を沈殿している白いガス状のものはブラシ状の筆で擦るように描かれたものだろう。これをデジタル処理して半透明にし、動きが与えられる。
もう一つはざらつきのあるタッチはコンテで描かれたものだ。これは頭上から射し込んでくる光などに使用され、コンテでざっと描いた上に光処理が加えられている。
これらはかつてハーモニー処理と呼ばれる技法の記憶を元にしている。ハーモニー処理とはアクションの決めとなるカットやエピソードの最後となるカットに、セル画に美術スタッフが印象深い厚みを加え、叙情的な印象を与える技法である。
もちろん『キルラキル』で使用され、画面全体を取り巻いているこのざらつきは、正確にはかつてのハーモニー処理とは別様のもので、あくまでも“それらしき記憶”を再生させるものである。まずいってハーモニー処理の光はあんなふうに輝きが与えられることはなかったし、それ以前にノーマルな画面の中に部分的にハーモニー処理が加えられることはなかった。
おそらくは作品にいいようのないざらつきを与えるために考え出されたもので、さらに作品が目指している古っぽさを演出するための効果だ。このざらつきは風景だけではなく、アクションの最中でも常に画面のどこかに書き足されている(もちろん背景美術にも使われている)。この試みは間違いなく成功し、映像を同時代ではまずあり得ない個性的なものにしている。
そのハーモニー処理は劇中で使用されている。
アクションの決めの瞬間など、まさにかつてアニメが使用していたのと同じタイミングで使われる。ハーモニー処理した縦構図の絵を、何度も上下にPANする。完全再現だ。
画面を仰々しく彩るだけではなく、作品の個性を倍加し、さらにはこれが一つのパロディとして笑いを誘う要素にしている。
独特なのはハイライトの効果だ。十字の光が記号的なモチーフとなって画面を彩っている。
この十字の光は、「クロス・フィルター」と呼ばれるものを元にしていると考えられる(アニメでは「ピンホール透過光」とも呼ばれる)。「クロス・フィルター」は光を十文字に輝かせる手法のことで、実写撮影でもよく使われるし、アニメではオープニングアニメーションでヒロインが散らす涙を浮き上がらせるために今でも伝統的に使用される。
『キルラキル』ではこのクロス・フィルターの光をデザインとして意匠化している。この意匠化された十文字の光にも独特のざらつきが与えられ、やはり作品の個性を倍加している。
またこの意匠化された十文字というモチーフは、『エヴァンゲリオン』などに多用された原ガイナックス的なモチーフとも推測できるかも知れない。
『キルラキル』にはしばしばスライドが使用される。『キルラキル』は豪快な動画が描かれることが多いが、あえてスライドを使用し、動きを単純かつ象徴的にすることで、そのギャップに笑いを作り出すことがある。ゆえに、キャラクターのスライドはギャグとして使用されることが多い。
右に掲げたような動画の場合、首をぐるぐる回す動きは「ローリング」と呼ばれている。「ローリング」は主に歩き動画などをクローズアップした時、頭の部分を「ローリングするように動かす」という指示をする場合に使用される。
古いアニメのスタイルが意識された『キルラキル』だが、現代の技術がない限り絶対に不可能な“豪快な動画”がいくつも描かれている。右に掲げたカットは、画面全体がぐるぐる動き回る、ほとんど正気とは思えない動画だ。
デジタルとの併用で描かれる場合が多いが、右のカットはおそらくデジタルは使用されていない。もの凄い速度で流れていく地面はデジタルではなく背景美術が1コマ1コマ描き起こしたものだ。
カメラが方向を変える瞬間、カメラの位置は少し上に上がってキャラクターのみを捉え、その間にカメラを回し、再び地面が映り、キャラクターが地面に激突する場面が描かれる。一番奥に見える校舎は、ひたすら右へPANし続けられるように描かれた長大な一枚絵だろう。
もちろん『キルラキル』にはデジタルを併用した豪快なカットが多く描かれ、それがハーモニー処理されたカットとの連続的な関係を作り、一連のカットの流れが強烈な印象を作っている。
『キルラキル』はかつてのアニメへのオマージュが捧げられている一方、パロディとしても取り上げられている。作中にはしばしば、右(あるいは左)にキャラクターの顔面を置いて、対象を見詰めている場面が描かれる。見て明らかなように、対象と顔との距離は完全に無視されて、同一カットに置かれている。
これはギャグ漫画などで、ボケるキャラクターと突っ込むキャラクターを同一のカットに収めるために多用された構図だ。硬派なアクションばかりではなく、ギャグ漫画からも構図が引用されている。
色彩にはくすんだ印象の、中間色が使用されている。これは撮影技術が今ほど高度でなかった時代の、画像がまだ不鮮明だった頃の記憶を再現したものだ。
アニメがデジタルと出会う以前は、一部の劇場アニメーションは別にしてほとんどのテレビアニメはあまり鮮明な画面を作り出せなかった。アニメカラーも豊富ではなく、最終的にアウトプットされた画像は、青くあるいは赤くくすんで見える場合もあった。
これを『キルラキル』は現代の鮮明に描き出せる技術を持って、一個のスタイルとして再現してみせる。
『キルラキル』を特徴付けているのは現代の様々な技術・技法の産物だが、キャラクター……とくに“線”の描き方は描き手の感性に委ねられている。
それが顕著に現れるのは満艦飾リコだろう(おそらくキャラクターとしても自由さが仮託されているからだろう)。正面顔でも左右のバランスに大きく歪みが出ている。普通のアニメの場合、この左右の歪みは時間をかけて丁寧に修正がかけられる。キャラクターの顔が左右歪んで見えることほど無様な状態はないからだ。
が、『キルラキル』はあえて歪んだまま描かれる。歪みを修整しようという発想がない。普通のアニメの場合、このわずかな歪みでも“不快さ”として浮かび上がってくるのだけど、『キルラキル』は不思議に不思議、むしろこの歪み方が心地よく見えてしまう。
おそらくは普通のアニメの歪みは技術的な欠陥により発生してしまったもの、またあるいはキャラクターが商品として固定された形が存在するからだろう。
しかし『キルラキル』は敢えて歪ませる。キャラクターの左右バランスだけではなく、身体デッサンも正確ではない部分があちこちに見られるが、あえて修正していない。むしろその時々の線の勢いと流れを重視している。アニメーターがその時の気分と勢いがそのまま最終的な画面の中に現れている。技術的な欠陥ではなく、技術的に充分な力を持つ者が敢えて歪ませて描いているのだ。この自由気ままに引かれる線の流れには、描き手の快楽すら感じさせる。この線に仮託された線が、豪快なアクションと連動して素晴らしい画面を作り出している。
スラムに入った纏流子を、不良少年たちが取り囲む。
「なんなんだ、その時代錯誤なチンピラっぷりは。変な街だと思ったら、住んでいるのもトチ狂った連中だね。いいよ。売られた喧嘩は買うのが信条だ。かかってきな」
名作とは、過去を統括する作品のことである。
……と、たったいま思いついた。
天才には2つの役割がある。
1つには黎明期に革命的な技術を開発し、表現様式を編み出し、その文化を爆発的に発展させる。また同時代の作家たちの感性を刺激させ、啓蒙させ、マイナーでおぼつかないものだったその文化を一挙に一般的な娯楽という立場まで押し上げてしまう。このタイプの天才は同時代作家たちへ、あるいは未来の作家たちのために道筋を作り、文化発展のために多大なる貢献を残す。
もう1つの天才は、文化を総括するためにやってくる。第1の天才が作り出した道筋が充分に開拓され尽くし、多様性を失ってかつてのような勢いがなくなり、人々の関心も失ってまさに絶えようというその時にこそ第2の天才は現れる。その文化の最終的な局面を作り、幕を引くためである。だから第2の天才は徹底的に技巧的、誰もが真似しないような神業を次々と繰り出し、見る者を圧倒させ、茫然とさせる。そうしてその文化の最後の花道を飾り、去って行く。この天才の作りし物が新たな遺伝子として残り、再び息を引き返す切っ掛けを作る場合もあるが。
『キルラキル』は70年代以前の、まだ洗練されているとはいえない時代のアニメをデザインの基調にしている。この作品を見ていると、色んなアニメを連想してしまう。『北斗の拳』だったり『ど根性ガエル』『魁!男塾』『炎の転校生』……詳しい人はもっと色んなモチーフを読み取ることだろう。当時制作されていたバイオレンスアニメ、ギャグアニメ、様々なスタイルが混濁して成立している。上の台詞に出てくるように、まさに「時代錯誤」だ。『キルラキル』は誰もやらず、せいぜいパロディとして茶化す程度だった70年代以前の様式を全力で再現し、鬼気迫る熱気で描き、70年代以前アニメを総括しようとする。それはまるで、あの時代に対する鎮魂歌のようにすら見えてしまう。
もっとも、この作品がむしろ新たな表現形式として一つの道筋を作り、大量の模倣者を生む可能性もあるが。
『キルラキル』は遅れてやってきた天才だ。いやいっそ遅すぎるというくらいだ。もう振り返る者のいない時代を掘り起こし、光を当てて、現代の最高の技術を持ってして復活させた。
本当ならもっと時間的な地続きが感じられるその時に作られるべきだったのかも知れない。もはや当時の記憶がぎりぎり残存しているという状態で、タイミングがもう少し遅ければ、アニメユーザーたちはその作品が70年代以前をモチーフにしていると理解できなくなっていただろう。
だが『キルラキル』はおそらく間に合った。まだアニメユーザーたちの記憶を引き起こすだけの素地が残っていたし、それにかつてを様式化させたデザインは間違いなく比類なき個性となって浮かび上がってくる。
『キルラキル』は情熱的なアニメだ。アニメーターが描いた線が、最終仕上げの段階でもスポイルされずくっきりと浮かび上がる。声優の演技は血管切れそうなくらいの勢いで絶叫熱演を繰り広げている。アクションはいうまでもなく強烈な印象を突きつけてくる。とにかく熱い。そしてうるさい。
この凄まじい熱狂が70年代アニメの最終的な花道となるか、それとも新たな表現技法として枝葉を茂らせるか……それはまだわからない。
続き→とらつぐみTwitterまとめ:作品紹介補足
続き→とらつぐみTwitterまとめ:第3話の感想
作品データ
監督:今石洋之 原作:TRIGGER 中島かずき
副監督:雨宮哲 シリーズ構成・脚本:中島かずき
キャラクターデザイン・総作画監督:すしお アートディレクター:コヤマシゲト
セットデザイン:吉成曜 クリエイティブオフィサー:若林広海
美術監督:金子雄司 色彩設計:垣田由紀子 撮影監督:山田豊徳
編集:植松淳一 音響監督:岩浪美和 音楽:澤野弘之
アニメーション制作:TRIGGER
出演:小清水亜美 関俊彦 柚木涼香 洲崎綾
稲田徹 檜山修之 吉野裕行 新谷真弓
岩田光央 たかはし智秋 三木眞一郎 藤村歩
あそこにあるのが本能字学園。鬼龍院皐月が統率する学園で、この学園がそのまま街の全てを支配し統率し、その統率はまさに暴力と理不尽による圧政だった。
あそこなら手がかりが掴めるかも知れない……。纏流子は父を殺害し、片太刀鋏を残していった謎の人物を追っていた。父の仇を求め、関東を放浪した挙げ句、ようやく流れ着いたのがあの本能字学園だった。
纏流子は決意を改めて、街へ至る道へと一歩足を進めた。
『キルラキル』はここ数年のアニメ史を俯瞰してみても、間違いなく突き抜けた個性を持った作品だ。そのアートワークの特殊さは、もはや正気ではないと言ってもいいかも知れない。
物語の構造はいたってシンプルだ。
本能字学園は学園のみならず、街そのものを独裁的な支配状態においていて、街の人達の階級は“制服”で決められる。“征服”と“制服”をかけたシャレだし、「学園ものといえば制服」というファクターをうまく読み替えている。また制服と身分という連なりに捕らわれる日本人の感覚に対するアイロニーにもなっている。
階級が高くなると“極制服”と呼ばれる制服が与えられ、この制服を身につけると特異な能力を得ることができる。この極制服には3つの段階があり、最上級は三つ星。三つ星は生徒会メンバーである“本能字学園四天王”のみに与えられ、学園を統率していた。二つ星が与えられるのは各運動部の部長たちで、彼らは本能字学園四天王の命令に従い、日本中を支配下に収めるための闘争を繰り広げている。
この学園の圧政に纏流子がたった一人で立ち向かうストーリーだが、纏流子が武器とするのは片太刀鋏。これは対極制服用に開発された武器だ。制服を切り裂くからハサミを武器にする……実に理にかなった連想だし、名前を見るとハサミだけではなく“太刀”の語が入っているのが面白い。この片太刀鋏で敵を粉砕し、極制服を切り刻むと、画面には大きく“繊維喪失”の文字が浮かび上がる。これも戦意喪失をかけたシャレだ。
“征服”と“制服”。この制服を裁つために片太刀鋏を使い、“繊維喪失”、すなわち“戦意喪失”させる。アニメといえば学園もので、学園ものといえば制服……。この構図をうまく変換させ、制服を物語構造の中で意味のあるものとして機能させ、さらにこれを粉砕するストーリーを作り出す。シャレといえばそれまでだが、制服と粉砕という構造に鮮やかな連なりを作った発想に脱帽だ。
このシンプルに視覚化された設定を解説するのに、『キルラキル』が必要とした時間はわずかに4分。誰が見ても明らかなストーリーで、あまりにも豪快に突き抜けたビジュアルの凄まじさに、あっという間に映像世界に引き込まれてしまう。
この物語や人物のシンプルさが、映像作家たちがいかに物語やアクションを壮大かつ強烈に語り描き上げるか、という課題に躊躇わず集中できる素地を作っている。
映像を見てただちに気付くのは、画面全体を覆っている白い霧状のものである。おそらく2通りの描き方があり、キャラクターの足下を沈殿している白いガス状のものはブラシ状の筆で擦るように描かれたものだろう。これをデジタル処理して半透明にし、動きが与えられる。
もう一つはざらつきのあるタッチはコンテで描かれたものだ。これは頭上から射し込んでくる光などに使用され、コンテでざっと描いた上に光処理が加えられている。
これらはかつてハーモニー処理と呼ばれる技法の記憶を元にしている。ハーモニー処理とはアクションの決めとなるカットやエピソードの最後となるカットに、セル画に美術スタッフが印象深い厚みを加え、叙情的な印象を与える技法である。
もちろん『キルラキル』で使用され、画面全体を取り巻いているこのざらつきは、正確にはかつてのハーモニー処理とは別様のもので、あくまでも“それらしき記憶”を再生させるものである。まずいってハーモニー処理の光はあんなふうに輝きが与えられることはなかったし、それ以前にノーマルな画面の中に部分的にハーモニー処理が加えられることはなかった。
おそらくは作品にいいようのないざらつきを与えるために考え出されたもので、さらに作品が目指している古っぽさを演出するための効果だ。このざらつきは風景だけではなく、アクションの最中でも常に画面のどこかに書き足されている(もちろん背景美術にも使われている)。この試みは間違いなく成功し、映像を同時代ではまずあり得ない個性的なものにしている。
そのハーモニー処理は劇中で使用されている。
アクションの決めの瞬間など、まさにかつてアニメが使用していたのと同じタイミングで使われる。ハーモニー処理した縦構図の絵を、何度も上下にPANする。完全再現だ。
画面を仰々しく彩るだけではなく、作品の個性を倍加し、さらにはこれが一つのパロディとして笑いを誘う要素にしている。
独特なのはハイライトの効果だ。十字の光が記号的なモチーフとなって画面を彩っている。
この十字の光は、「クロス・フィルター」と呼ばれるものを元にしていると考えられる(アニメでは「ピンホール透過光」とも呼ばれる)。「クロス・フィルター」は光を十文字に輝かせる手法のことで、実写撮影でもよく使われるし、アニメではオープニングアニメーションでヒロインが散らす涙を浮き上がらせるために今でも伝統的に使用される。
『キルラキル』ではこのクロス・フィルターの光をデザインとして意匠化している。この意匠化された十文字の光にも独特のざらつきが与えられ、やはり作品の個性を倍加している。
またこの意匠化された十文字というモチーフは、『エヴァンゲリオン』などに多用された原ガイナックス的なモチーフとも推測できるかも知れない。
『キルラキル』にはしばしばスライドが使用される。『キルラキル』は豪快な動画が描かれることが多いが、あえてスライドを使用し、動きを単純かつ象徴的にすることで、そのギャップに笑いを作り出すことがある。ゆえに、キャラクターのスライドはギャグとして使用されることが多い。
右に掲げたような動画の場合、首をぐるぐる回す動きは「ローリング」と呼ばれている。「ローリング」は主に歩き動画などをクローズアップした時、頭の部分を「ローリングするように動かす」という指示をする場合に使用される。
古いアニメのスタイルが意識された『キルラキル』だが、現代の技術がない限り絶対に不可能な“豪快な動画”がいくつも描かれている。右に掲げたカットは、画面全体がぐるぐる動き回る、ほとんど正気とは思えない動画だ。
デジタルとの併用で描かれる場合が多いが、右のカットはおそらくデジタルは使用されていない。もの凄い速度で流れていく地面はデジタルではなく背景美術が1コマ1コマ描き起こしたものだ。
カメラが方向を変える瞬間、カメラの位置は少し上に上がってキャラクターのみを捉え、その間にカメラを回し、再び地面が映り、キャラクターが地面に激突する場面が描かれる。一番奥に見える校舎は、ひたすら右へPANし続けられるように描かれた長大な一枚絵だろう。
もちろん『キルラキル』にはデジタルを併用した豪快なカットが多く描かれ、それがハーモニー処理されたカットとの連続的な関係を作り、一連のカットの流れが強烈な印象を作っている。
『キルラキル』はかつてのアニメへのオマージュが捧げられている一方、パロディとしても取り上げられている。作中にはしばしば、右(あるいは左)にキャラクターの顔面を置いて、対象を見詰めている場面が描かれる。見て明らかなように、対象と顔との距離は完全に無視されて、同一カットに置かれている。
これはギャグ漫画などで、ボケるキャラクターと突っ込むキャラクターを同一のカットに収めるために多用された構図だ。硬派なアクションばかりではなく、ギャグ漫画からも構図が引用されている。
色彩にはくすんだ印象の、中間色が使用されている。これは撮影技術が今ほど高度でなかった時代の、画像がまだ不鮮明だった頃の記憶を再現したものだ。
アニメがデジタルと出会う以前は、一部の劇場アニメーションは別にしてほとんどのテレビアニメはあまり鮮明な画面を作り出せなかった。アニメカラーも豊富ではなく、最終的にアウトプットされた画像は、青くあるいは赤くくすんで見える場合もあった。
これを『キルラキル』は現代の鮮明に描き出せる技術を持って、一個のスタイルとして再現してみせる。
『キルラキル』を特徴付けているのは現代の様々な技術・技法の産物だが、キャラクター……とくに“線”の描き方は描き手の感性に委ねられている。
それが顕著に現れるのは満艦飾リコだろう(おそらくキャラクターとしても自由さが仮託されているからだろう)。正面顔でも左右のバランスに大きく歪みが出ている。普通のアニメの場合、この左右の歪みは時間をかけて丁寧に修正がかけられる。キャラクターの顔が左右歪んで見えることほど無様な状態はないからだ。
が、『キルラキル』はあえて歪んだまま描かれる。歪みを修整しようという発想がない。普通のアニメの場合、このわずかな歪みでも“不快さ”として浮かび上がってくるのだけど、『キルラキル』は不思議に不思議、むしろこの歪み方が心地よく見えてしまう。
おそらくは普通のアニメの歪みは技術的な欠陥により発生してしまったもの、またあるいはキャラクターが商品として固定された形が存在するからだろう。
しかし『キルラキル』は敢えて歪ませる。キャラクターの左右バランスだけではなく、身体デッサンも正確ではない部分があちこちに見られるが、あえて修正していない。むしろその時々の線の勢いと流れを重視している。アニメーターがその時の気分と勢いがそのまま最終的な画面の中に現れている。技術的な欠陥ではなく、技術的に充分な力を持つ者が敢えて歪ませて描いているのだ。この自由気ままに引かれる線の流れには、描き手の快楽すら感じさせる。この線に仮託された線が、豪快なアクションと連動して素晴らしい画面を作り出している。
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スラムに入った纏流子を、不良少年たちが取り囲む。
「なんなんだ、その時代錯誤なチンピラっぷりは。変な街だと思ったら、住んでいるのもトチ狂った連中だね。いいよ。売られた喧嘩は買うのが信条だ。かかってきな」
名作とは、過去を統括する作品のことである。
……と、たったいま思いついた。
天才には2つの役割がある。
1つには黎明期に革命的な技術を開発し、表現様式を編み出し、その文化を爆発的に発展させる。また同時代の作家たちの感性を刺激させ、啓蒙させ、マイナーでおぼつかないものだったその文化を一挙に一般的な娯楽という立場まで押し上げてしまう。このタイプの天才は同時代作家たちへ、あるいは未来の作家たちのために道筋を作り、文化発展のために多大なる貢献を残す。
もう1つの天才は、文化を総括するためにやってくる。第1の天才が作り出した道筋が充分に開拓され尽くし、多様性を失ってかつてのような勢いがなくなり、人々の関心も失ってまさに絶えようというその時にこそ第2の天才は現れる。その文化の最終的な局面を作り、幕を引くためである。だから第2の天才は徹底的に技巧的、誰もが真似しないような神業を次々と繰り出し、見る者を圧倒させ、茫然とさせる。そうしてその文化の最後の花道を飾り、去って行く。この天才の作りし物が新たな遺伝子として残り、再び息を引き返す切っ掛けを作る場合もあるが。
『キルラキル』は70年代以前の、まだ洗練されているとはいえない時代のアニメをデザインの基調にしている。この作品を見ていると、色んなアニメを連想してしまう。『北斗の拳』だったり『ど根性ガエル』『魁!男塾』『炎の転校生』……詳しい人はもっと色んなモチーフを読み取ることだろう。当時制作されていたバイオレンスアニメ、ギャグアニメ、様々なスタイルが混濁して成立している。上の台詞に出てくるように、まさに「時代錯誤」だ。『キルラキル』は誰もやらず、せいぜいパロディとして茶化す程度だった70年代以前の様式を全力で再現し、鬼気迫る熱気で描き、70年代以前アニメを総括しようとする。それはまるで、あの時代に対する鎮魂歌のようにすら見えてしまう。
もっとも、この作品がむしろ新たな表現形式として一つの道筋を作り、大量の模倣者を生む可能性もあるが。
『キルラキル』は遅れてやってきた天才だ。いやいっそ遅すぎるというくらいだ。もう振り返る者のいない時代を掘り起こし、光を当てて、現代の最高の技術を持ってして復活させた。
本当ならもっと時間的な地続きが感じられるその時に作られるべきだったのかも知れない。もはや当時の記憶がぎりぎり残存しているという状態で、タイミングがもう少し遅ければ、アニメユーザーたちはその作品が70年代以前をモチーフにしていると理解できなくなっていただろう。
だが『キルラキル』はおそらく間に合った。まだアニメユーザーたちの記憶を引き起こすだけの素地が残っていたし、それにかつてを様式化させたデザインは間違いなく比類なき個性となって浮かび上がってくる。
『キルラキル』は情熱的なアニメだ。アニメーターが描いた線が、最終仕上げの段階でもスポイルされずくっきりと浮かび上がる。声優の演技は血管切れそうなくらいの勢いで絶叫熱演を繰り広げている。アクションはいうまでもなく強烈な印象を突きつけてくる。とにかく熱い。そしてうるさい。
この凄まじい熱狂が70年代アニメの最終的な花道となるか、それとも新たな表現技法として枝葉を茂らせるか……それはまだわからない。
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作品データ
監督:今石洋之 原作:TRIGGER 中島かずき
副監督:雨宮哲 シリーズ構成・脚本:中島かずき
キャラクターデザイン・総作画監督:すしお アートディレクター:コヤマシゲト
セットデザイン:吉成曜 クリエイティブオフィサー:若林広海
美術監督:金子雄司 色彩設計:垣田由紀子 撮影監督:山田豊徳
編集:植松淳一 音響監督:岩浪美和 音楽:澤野弘之
アニメーション制作:TRIGGER
出演:小清水亜美 関俊彦 柚木涼香 洲崎綾
稲田徹 檜山修之 吉野裕行 新谷真弓
岩田光央 たかはし智秋 三木眞一郎 藤村歩
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