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■2013/07/29 (Mon)
この記事には映画のネタバレが多く書かれています。
映画をまだご覧になっていない人は決して読まないでください。

オープニングアニメーション

「もーいいかい」
画面がゆっくりフェードして、大きな鳥居が現れる。赤いワンピースの少女がしゃがみ込み、自分の手で目を隠している。どうやらかくれんぼに興じているようだ。
その始まりのカットから奇妙な印象が画面全体に漂っている。鳥居が描かれているが、どこにも境内は描かれていない。少女の背後に描かれているのは異様な重々しさを持ったコンクリートの残骸――廃墟だ。しかも暮れかける時間で、廃墟に暗い影を落とし始めている。
全てが“端境”を示唆している。鳥居は人間の俗世界と神の神聖なる世界を分けるシンボルだ。暗闇が静かに広まる夕暮れの時間はかつて“逢魔が時”と呼ばれていた。廃墟はかつて何かであったものの残骸であり、現在は何物でもない建築物の遺骸である。そんな只中で“かくれんぼ”を興じる少女は、目を隠し、現実の世界から一時的に目を離している。
案の定、少女は異界に迷い込んでしまう。「もーいいかい」と目を開けて振り返ると、そこは見知らぬ場所で、案内人の白ウサギがぽつんと立っている。白ウサギについて行こうとすると、その向こうから手が伸びて、少女を掴み“あちらの世界”に引きずり込まれてしまう。少女の眼前に現れたのは様々なイメージだ。近未来の世界であり、清涼たる自然のイメージであり……。そのイメージはただ少女を翻弄するだけではなく、ついに少女の体内にまで潜り込み、少女そのものを様々なイメージに変換させる。少女は体内から沸き起こるイメージの連打に驚き、声を上げて、歓喜する。光輝く体内からふわりと現れるのは『SHORTPEACE』の文字。
少女が迷い込んだのは日本人がイメージし、日本人が描いた“日本”という名の異界だ。そのアニメーションは単に『SHORT PEACE』というタイトルを出すために作られた短編であるが、描かれているイメージは圧倒的だし、通俗的な瞬間も見られるがそれを内包しつつ突き抜けたパッションで満たされている。これから始まる映像絵巻のスケールを示唆する物として、充分な力を持った短編アニメーションだ。

作品データ
監督・デザインワーク・作画:森本晃司 音楽:Minilogue
出演:春名風花

■ ■■■ ■

九十九

森はすっかり夜だった。雨は激しく降り注ぎ、雷鳴が轟いている。男はどこかに雨をしのげる場所はないだろうか、と辺りを見回す。すると鬱蒼たる森の深い闇の中に、小さな塚が建てられているのに気付く。「ちょうどいい……」と男は思い、塚の中へと駆け込んだ。
男は旅の疲れを取ろうと、目を閉じて落ち着こうとする。それからふと気付くと、違う場所に迷い込んでいた……。
『九十九』はほとんどがデジタルで作られた作品だ。キャラクターの線は、いかにもデジタルといった感じの固くくっきりとした線で、当然だが一切の“ブレ”がない。旧来的なアニメのイメージで描かれた線に対して、色彩は色トレス塗り分けのようにはっきりと分かれず、淡くグラデーションがかけらえている。静止した一点画になると、この処理がイラストレーションのようでなかなか美しい。しかし動画には線に呼吸感がなく、躍動が感じられない。
すべてがデジタルで描かれた理由と利点は、背景やキャラクターに貼り込まれた「和柄」だ。主人公である男の衣装に描かれたパッチワークのような模様。これが一切の破綻を起こさず、キャラクターにしっかり接地して動き出す。
見知らぬ場所に迷い込んだ男の前に、無数の和傘が目の前で花開く。しかし和傘は古くなり破れ、人ならざる異形が取り憑こうとしている。しかし男は驚きも怯えもせず、妖怪が取り憑く和傘を感嘆して覗き込み、さらに「ちょっと拝借」と手に取ってしまう。男は道具箱を開き、そこに収めていた和紙を引っ張り出すと、破れた和傘を次々と直してしまう。男は古くなって壊れた物を直す、「修理屋」であったのだ。
日本人は、物に対してフェティッシュな考え方を持っている。全ての物に命が宿っていると考えている。物作りを生業にする多くの人は、今でも自分の作っている物に命が宿っていると信じている。流通した後の物であっても、人々は丁重に扱い、愛着を持ち、使わなくなっても大切に保管した。それでも使い切った道具は、“捨てず”に“奉納”したのである。物を異界の霊の元に送り返したのだ。
室町時代の京都を闊歩した「百鬼夜行」と呼ばれる妖怪の集団は、見るからに道具に宿った霊達であった。まさに“物怪”である。物怪の起源についてはさすがに詳しくわからないが、“物”の“怪”という字が当てられていることから、おそらく全ての物に霊が宿るというアニミズム的な信仰と無関係ではあるまい。
『九十九』はまさにその考え方をアニメーションの中で描いた作品だ。物を愛し、物に淫し、物に霊を見出す。そうした日本人が根源的に持っている、“見えざるもの”への信仰そのものをテーマにしている。
男は、使い切ったといえず捨てられたしまった哀れな傘を修繕し、次に使われず捨てられてしまった反物を修繕する。しかしその最後に現れたのは、もはや修繕不能になった道具の霊である。修繕もできなくなり、人から捨てられた道具たちの集合体である。
そんな物怪を前にして、男は手を合わせ、拝むのである。もはや使いようのない道具の霊を感謝し、慰めるのである。使い切った道具を捨てずに“奉納”する……物に神の霊を見出す、日本人の心象そのものが、ここに描かれる。

作品データ
監督・脚本:森田修平
ストーリー原案・コンセプトデザイン:岸啓介 キャラクターデザイン:桟敷大祐
CGI監督:坂本隆輔 美術:中村豪希 作画:堀内博之 音楽:北里玲二
出演:山寺宏一 悠木碧 草尾毅

■ ■■■ ■

火要鎮

映像が始まって最初に現れるのは一つの絵巻物だ。紐が解かれ絵巻物が広がると、画面は左へ左へと進んでいく。絵巻物に現れるのは17世紀の江戸の風景だ。しかもその風景は、“現代人が考えたリアルな風景”ではなく、当時の人が考え、当時の人がおそらくそうした意識で見ていたであろう浮世絵の風景であり、日本画が描いた風景である。その風景がずっと左へと進んでいくと、やがて遠くに見えていた家が接近し、とある大店の屋敷を捉えたところで止まる。
屋敷に住んでいる幼い女の子と、その隣に住んでいる同じ年頃の男の子の物語だ。この絵に、現代的な透視図法が使用されていない。平面的な縦と斜めの線だけで構築されている。影は全く描かれておらず、線の流れは流麗だが立体感はまったくない。17世紀当時、頻繁に描かれた絵画の典型的な様式の再現であり、しかもその様式美の中で人物が演技を始めるのである。
やがてカメラが接近していき、数年後の世界が描かれる。あの女の子と男の子は大人になっている。男の子は火消しに憧れて放蕩を繰り返すうちについに勘当されてしまう。女の子は年頃になり縁談話がやってくるが、想いは未だに勘当されたあの男の子にある。
『火要鎮』は浮世絵・日本画の再現である。それも完璧といえる精度である。絵を見ると現代人ではなく17世紀当時の人が描いた、と納得してしまうくらいの、あまりにも完璧、徹底的に作られた浮世絵の再現アニメである。
どの構図にもまったく立体感がない。透視図法の概念のない時代の絵画が再現されている。縦と斜めの線、それは中世の時代、頻繁に描かれた典型的な浮世絵の構図だ。キャラクターはおそらく日本画から取られているのだろう。日本髪の生え際に描かれる淡いタッチや、微妙にほつれた髪。その髪に飾られる様々な美しい装身具。人間は手書きのアニメーションで描かれ、髪の部分だけがデジタルで貼り込まれて作られた。ちょうど、デジタルのカツラを被せた、という感じだったようだ。こうして完成された動画は、まさしく美人画そのもの。アニメに対して沈黙を続ける画壇も頷かなければならないクオリティだ。
アニメーションの絵は浮世絵に似ている……。なんてことは過去50年間言われ続け、50年間無視されてきた事実だ。線を追いかけていく漫画の技法と、線での構成を様式美まで押し上げた日本画と、版画で生産する都合で線が主体になった浮世絵。それぞれに技術的理由が背景にあって結果的にそういった形に進化したわけだけど、おそらくはそれ以上に日本人が連綿として受け継いできた精神性が似通った形にしてしまうのだろう。
『火要鎮』の凄まじさは、現代的な感性を徹底的に排除して、17世紀当時の感性を再現して見せたことだ。現代的な空間構造は完全に否定されている。レイアウト作りの作法から見直されている。色彩の使い方も、アニメカラーではなく当時の絵でよく見られる淡い中間色だ。衣装の細かい模様や、髪の描き方、立ち回りや言葉遣い、何もかもが浮世絵時代の再現。現代人が考えるリアリティなどがそこに入る余地はなく、現代的な感性で時代劇の世界を刷新するという考えを放棄し、17世紀当時の視点に立ち、その当時の人達が見ていたであろう心象世界そのものを描いてしまっている。
物語後半、江戸の街は業火に包まれる。この場面の炎の描写。めらめらと燃え上がる炎の形。やはりリアルな炎ではなく、絵画の中に描かれた、当時の人が感じていたリアルな絵だ。この炎のフォルムは、伴大納言絵巻から採られているという。実際の炎はあんな形をしていないが、当時の人の美意識が様式化して見せた炎の形そのもので、しかもそれを動画として動かしつつ、かつ炎と感じられる激しさをそこに込めさせている。
火事が起きると火消しの出番だ。当時は放水技術などないから、火事が起きる隣家に乗り込んでいって、柱を切り倒し、思い切って倒してしまう。破壊消防と呼ばれる方法だ。炎が描くスペクタクルも凄まじいが、この破壊消防のシーンも圧巻だ。これまで美しい浮世絵の描写にただ感嘆していたものが、火事の場面に入ると画面が作り出す迫力に圧倒されてしまう。構図は相変わらずパースのない画であるのに関わらず、火消し達が次々と乗り込み、生々しく入り乱れる人々の姿を見て、絵画にすぎないと思っていた世界は、今度はリアルな迫力を持って引き込まれていくのを感じる。そして、そうした荒々しさの中にすっと入り込んでくる哀れさ。作品は荒々しさと詩情を交えながら終幕へと向かっていく……。

作品データ
監督・脚本:大友克洋
キャラクターデザイン・ビジュアルコンセプト:小原秀一 音楽:久保田麻琴
作画監督:外丸達也 エフェクト作画監督:橋本敬史
演出:安藤裕章 美術:谷口淳一・本間禎章
CGI監督:篠田周二 画面設計:山浦晶代
出演:早見沙織 森田成一

■ ■■■ ■

GAMBO

舞台は荒廃が進んだ戦国時代だ。戦ばかりが続き、国土は消耗しきって、人は死に村は絶えて、生き残るためには戦う以外の選択肢はなかった。
そんな最中、とある村の上空から何者かが現れた。およそ3メートルの巨人で、肌の色は赤く、頭に角質化したイボのような角をぽつぽつと付けていた。
見るからにそれは鬼。巨大で凶暴で人の言葉を解さず、立ち向かう者があれば人外の豪腕で粉砕し、問答無用に人の住み家を蹂躙していく。鬼の圧倒的な力を前に人々は為す術もなく破壊されるままに破壊され、女達は連れて行かれていった。たった1匹の鬼の出現で、村は間もなく壊滅という事態まで追い詰められてしまったのだ。
もうすぐ自分も鬼に連れて行かれる……。少女は運命から逃れるように村の外へ駆けていく。辿り着いたそこは彼岸花が咲き乱れる森の一角。その向こうに待ち受けていたのは1頭の巨大な白熊。
少女はすがるように白熊に懇願する「助けて……」。
という物語の流れで、白熊は赤鬼の住み家に乗り込み、決死の戦いを始める。その圧倒的重量感。まさに重量級同士のぶつかり合い。戦国時代の当時、武士ですらやっと150センチという低身長の時代で、家屋も小さい。そんな最中で3メートル級の巨人の戦いは、今の感覚で言うところの怪獣同士の戦いを思わせるくらいの重量感で、実際に映像はそれくらいの力強さが感じられた。
この作品も、最初の一篇『九十九』と同じくデジタル技術でキャラクターが生成されている。ただしこちらの作品は、かなり手書きの生理に近い。私も見ていて、果たして手書きだろうかデジタルだろうか、ど判定できずにいた。後で解説を読むに、キャラクターは全てデジタルで制作されていたようだ。
線はロットリングで描いたような強弱を持った掠れを残し、その線には常にゆらゆらと揺れるタッチ線が添えられている。影は淡く、RETASで作成したグラデーション処理のようで、ややぼんやりした印象に感じられる。『九十九』の線は見るからにデジタルであるのに対して、『GAMBO』の線には手書き特有の呼吸感がわずかに感じられた。揺れるタッチ線がそういう印象を与えているのだろうか。
動きは、特に中割の動きがなだらかに進みすぎて、静の場面ほどデジタルの癖が出ているように感じられた。
もっとも、違和感があったのは線割の動きくらいのもので、アクションが始まったらデジタルであるか、なんてほとんど考えなくなった。おそらく、アクションの動きは1コマ1コマにアニメーターの感性が加わるからだろう。また動きが激しく、考えるより画面の持つ熱量に圧倒されてしまう。
白熊と赤鬼の肌の色は、色を一定に定めず常にゆらゆら揺れている。線画の下に隷属したこの質感がブラシストローク処理に似た印象で、かなりデジタル感があるものの、巨大なものという存在感が何かしら怪しい影がうごめいているような不気味な印象を滲み出している。
『GAMBO』は他のエピソード以上に投げっぱなしの部分が多く感じられる。十字架を下げた白髪の曰くありげな野武士。終盤になって唐突に現れる武装した兵隊は、何ら脈絡もなく現れては白熊対鬼の戦いに参戦する。しかしそれらの解説を全て放り投げて、白熊対鬼の対決という一幕に全てが注がれた作品であった。

作品データ
監督:安藤裕章 原案・脚本・クリエイティブディレクター:石井克人
キャラクター原案:貞本義行 脚本:山本健介
キャラクターデザイン・作画監督:芳垣祐介 美術監督:本間禎章
CGI監督:小久保将志 CGアニメーションチーフ:坂本隆輔
色彩設計・色指定:久保木祐一 コンポジットチーフ:佐藤広大 音楽:七瀬光
出演:田村睦心 浪川大輔

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武器よさらば

『武器よさらば』は大友克洋作品の中でも伝説的な存在感を持つ作品を原作にしている。漫画にデジタル技術が盛りこまれた、最初の作品だ。
舞台となるのは国籍不明の荒野。見渡す限り荒れ果て砂漠化した大地が続き、その中を疾駆する装甲車のような車両が砂煙を吹き上げている。やがて荒野の向こう側に、唐突に残骸のような都市が出現する。舗装されたアスファルトは荒野の手前で寸断され、その一角だけ砂漠のオアシスのように孤立しているが、かつて大きな都市だったらしく、背の高い高層ビルがそびえ立っている。都市の残骸は、長年砂嵐を浴びて、荒野と同じ日に焼けた砂の色をしていた。
主人公達ギムレットの仕事は、廃墟に残された兵器を探索し、この処理を行うことらしい。詳しい設定は語られていないが、彼らは軍人としての訓練も受け、その上でこの仕事を請け負っているようだ。
ギムレット達はプロテクションスーツを身に纏う。これは宇宙服のような外観だが、人間の力を数倍に引き出すパワードスーツで、全身密着型だが空調が効いていて中は涼しく、むしろ荒野のような熱砂の中にいるとプロテクションスーツを着ていた方が涼しいという。
隊員全員がプロテクションスーツを身に纏い、任務遂行のために都市に乗り込んでいく。そこに現れたのはかつての戦争で置き去りにされ現在も機能している無人兵器ゴングだった。ギムレット達はゴングと戦うために作戦を展開していくが……。
監督を務めたのはカトキハジメ。アニメ界隈ではメカデザイナーとしてすでに充分な地位を固めた作家だ。『武器よさらば』は原作に対する猛烈な愛情ばかりではなく、メカデザイナーという仕事で培われた知識、メカに対するフェティッシュな感性が目一杯に注ぎ込まれた作品になった。
作品の中心は言うまでもなく、ゴングとの戦いの一幕に注がれている。ゴングのAIはどうやら高度なものではないようだ。動くものを索敵して、レーザーで打ち込むだけ。ただし、その火力は圧倒的だし、反射速度が異様に速い。たかがそれだけのシンプルな構成のAIだが、人間がこれに立ち向かうのは容易ではない。
ギムレット達は空中に探索機を飛ばして、ゴングの行く先に周り、攻撃のタイミングを見計らう。矢継早に流れていくカット、緊迫した状況、確かな描写力……何もかもが完璧な精度で、少々のハッタリはあるものの充分な知識に基づくアクションだ。原作はどちらかといえばさっぱりした感じの、短いアクションものだったが、映像化された『武器よさらば』はこれでもかと密度を追加して厚みのあるアクションに仕上げている。
“メカ描写”とはやはり“線”だ。デザイン以上に線の集合で圧倒するのが、メカアニメの流儀だ。キャラクターもメカも背景も、画面を幾何学的な線で埋め尽くして圧倒する。もちろん、線には有機的な思想が込められていなければ、ただのハッタリにしかならない。『武器よさらば』では、バイザーから見えている顔面だけを手書きで描き、プロテクションスーツをデジタルで描いている。デジタルで描くことで線の密度を破綻させず一定以上の密度を保たせることができる。またデジタルにすることで、制作途中からのデザイン変更も可能だったようだ。
そうしたデジタルの利点を活かしつつ、作り手はメカアクションの描写に徹底した力を注ぐ。たった十数分のアクションだが、ゴングの脅威を充分伝える内容になっているし、それに対する人間側の作戦展開も見応えある緊迫感を出している。
『武器よさらば』は映像化する際、当時読んだ人達が「思いで補整」して現代化した部分を計算してそのぶんの厚みが追加された作品だ。原作に思い入れのある作家が描いたからこそ、より完成度を高めた大友作品になった、といえる。

作品データ
監督・脚本:カトキハジメ 原作:大友克洋
キャラクターデザイン:田中達之 メカニカルデザイン:カトキハジメ・山根公利
CGI監督:若間真 作画監督:堀内博之 美術監督:小倉宏昌
演出:森田修平 色彩設計:山浦晶代 撮影監督:田沢二郎
編集:瀬山武司 音楽:石川智久
出演:二叉一成 檀臣幸 牛山茂 大塚明夫 置鮎龍太郎

■ ■■■ ■

『SHORT PEACE』は4人の作家による4つの短編の映像絵巻である。全員が割り当てられたそれぞれの場所で、それぞれの“一幕”だけを描いている。しかしその“一幕”は起承転結としての役割を持っていない。1本の連続映画としてものの見事に投げっぱなしで、誰もストーリーを、あるいは映画をまとめようとはしていない。全員が競い合うように、その前後にあるべき物語の流れを削ぎ落として、人間とアクションがもっとも激しく躍動する“クライマックス”のみを描いている。
それだけに熱量が凄まじい。誰もが自分の描きたい一幕のみを描くために、その全てを注ぎ込んでいる。強烈なエゴイズムがフィルムに現れ、それが全体の熱量となって作品の魅力となっている。
一応、お題目として「日本」が掲げられている。4人がイメージした「日本」はそれぞれでまったく異なるものだった。『九十九』は物に取り憑く妖怪を描き日本人のアニミズムの精神性を描き、『火要鎮』は風情ある浮世絵世界の品格を完璧な精度で再現して見せた。『GAMBO』は戦国時代を背景に、好き放題ファンタジーを巡らせて超重量級アクションを描いた。『武器よさらば』は未来の日本が舞台にされているが、もはや日本でなくてもいいじゃないか、という内容になっている。しかも物語のまとめとしての役割を完全放棄している。
モチーフや映像の感触が違うというだけではなく、どの短編にも実験的な要素を孕んでいる。映画を制作するビッグバジェットを利用しつつ、映画そのものが技術実験の場にしてしまっている。それぞれで違う技術、手法が試みられて、この映画で考案されたあらゆる技術は、間もなく業界内にあまねく広がり、技術的なボーダーラインを一つあげてくれるだろう。
全員が投げっぱなしで奔放にイメージした日本。細密である一方でいい加減に風呂敷を押し広げてしまう日本。しかしそれこそ翻って日本だ。格式やありきたりな様式では決して捉えられず、むしろその様式を内包しつつ自由にイマジナリィを放出させる。
まさにそれこそが日本だ。これが日本のアニメであり、アニメの中の日本だ。

総監督:大友克洋
アニメーション制作:サンライズ


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