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■2013/10/13 (Sun)
『凪のあすから』は朝の風景から始まる。少年が慌ただしく朝食の準備をしている。上半身裸なのはきっと暑い夏だからだろう。
ごく普通の日常的な風景に見えて、何かがおかしい――。空中を魚が漂っているし、テレビの中では天気予報の代わりに“潮予報”が流れている。少年は籠の中に入れた青い炎をコンロに移して、強火にしている。それに、画面がじわりと青い。
少年が家から外に飛び出した瞬間、違和感の正体が明らかになる。空一杯にただよう魚の群れ。空の向こうには水面が描かれ、さらに向こう側に“地上”がちらりと見える。
そう、そこは水の中。少年たちは水の中に街を作り、住んでいる人達だったのだ。

『凪のあすから』は地上と水中、二つの世界が交差する物語である。地上の街は間違いなく現実に存在すると思われる日本の街だ。一方、水中の「海村」は絶対にあり得ない空想の街でありながら、どこか非現実と言い捨てるわけにはいかない高密度に作られた世界観である。
海村はかなり傾斜のきつい町で、正面から見ると瀬戸内に見られる町のように全体が立ち上がっているように見える。接近してみると、入り組んだ階段が斜面を這うように登っていて、尾道を連想させる。白漆喰を中心にした風景に、青いペンキと茶煉瓦が少しずつ混じって、色の印象は爽やかだ。配色は笹倉鉄平の絵画を感じさせるものがある。町の外縁に建設途中で放逐された高速道路の柱が描かれているが、これがクロード・ロランの絵画に描かれるギリシャ風柱を連想させる。高速道路としては柱が細すぎるので、おそらくはオブジェとして描かれているのだろう。
町全体のシルエットはイタリアのアマルフィ海岸が参考にされていると推測されるが、細部は明らかに日本のもので作られている。日本の植物に、日本語の表記の入った、日本でよく見られる標識や看板、日本的な衣装を着た人達、石畳も日本で見られるものが使われている。全体のイメージはイタリアのアマルフィ海岸やクロード・ロランの絵画といったものが参考にされているが、細部はあくまでも日本のもの、日本に極めて近い文化様式を持った風景が作られている。様々なものを参考にしながら、描き手の理想がそこに込められた世界となっている。
地上の世界は間違いなく実在する日本の風景だ。海村は異世界でありながら、その日本の風景と現実的な地続きを感じさせる空間として構築されている。日本と深い関連を持ち、明かな接点を持って発展していきながら、しかし地上とは明らかに異なる文化様式が創造されている。
トールキンが完全な異世界を作り上げ、自ら“準創造”と呼んだが、『凪のあすから』が試みた創造は、それよりもかなり現実世界と接点を持った、シミュレーション的な発想で世界が作られている。このあまりにも見事な創造に、私は手放しの賞賛を送らねばならない。

海村の住民は一見するとごく普通の人間として描かれているが、細かなところで地上人物との差異が作られている。
まず目の色。瞳も縁の線も、青で描かれている。少し緑が混じった青だ。BLブラックが使用されていないので、少し色が抜けたような淡い印象がある。これが制服の青の色彩と関連を作り、なかなか美しくまとまっている。
瞳の中には3種類のハイライトが使用されている。瞳のもっとも暗い部分と重なる一番大きなハイライト。最近、色んなアニメで見かけるようになった表現方法だ。点々と打たれたハイライトは2つの色パターンが使われている。
海村キャラクターの中でもっとも瞳が大きく描かれるのは向井戸まなかだ。向井戸まなかが斜めに顔を向けた時、瞳の形は水滴を連想させるような歪み方をする。向井戸まなかのような大きな目を持った生き物の瞳がこのように歪むと思えないが、瞳の内部に描かれた瞳孔、ハイライトで立体的なイメージが表現されている。アニメ特有の様式的な表現といえるだろう。
水中世界は全体が青みがかった色調が使われる。おそらくは仕上げまでは通常に作られ、撮影段階で全体を青くするフィルターが使われていると推測される。同じ色を比較してみると、下の画像のように海の世界がやや青くなっているのがわかる(向井戸まなかの肌の影色を比較している)。実線はもちろん黒で描かれているが、このフィルターを使った場合、不思議と線が青く浮き上がってくる。どういった効果によるものなのかはわからないが、海世界独特の雰囲気が演出されている。


一方、地上世界は海岸沿いの風景らしく、夥しい量の錆で覆われている。この錆は、美術スタッフの手によるものではなく、デジタル貼り込みによるものではないだろうか。錆だけではなく、雨の跡や、海風でかすれた看板文字や、様々なものが一杯に貼り込まれた上で完成形にしている。
P.A.WORKSを印象づけているものといえば、高品質な背景であり、背景美術の見事さが、作品の品格を間違いなく底上げしているといえるだろう。もちろん、個々の美術スタッフのポテンシャルの高さがこの世界観を支えているのは間違いないが、やはり撮影スタッフの存在を、あるいは撮影スタッフの連係プレーを無視して語るわけにはいかないだろう。
 P.A.WORKS作品には常にどこかしらに光が当たり、深くはないが爽やかな印象を持ったコントラストが描かれているが、この光の効果も撮影スタッフが底上げしているものだろうと考えられる。この光の効果が的確だから、平面上に書かれた絵画に過ぎないものを実写的な印象にしているのだろう。
細かく見てみると、光は太陽の位置だけではなく、壁や床に当たって反射しているところまで作られている。コントラストも場面設計に合わせて再調整されているようだし、奥行きにもピントの調整が加えられている。これらが元々完成度の高い背景美術をより高品質なものにしているのだろう。
それから雲の描き方だ。同じ場面では同じ雲が描かれ、雲の位置でキャラクターがどの方向を見ているかわかるし、またキャラクターと雲がどのような連携を持つかでシーンの心情を表現している。雲が単に書き割りではなく、シーン全体の設計に対して重要な役割が与えられている。

物語は波路中学廃校のため、海村の少年少女が陸上の学校、美濱中学校に通うようになったというところから始まる。そこで向井戸まなかが木原紡と“特別な出会い”を経験してしまう。
これは中学生――思春期の少年少女の物語だ。古里の海世界を離れて地上に出るというシチュエーションは、外の世界に歩み出そうとする少年少女の身体的心情的移り変わりを表現したものだろう。
そこで、向井戸まなかは木原紡という風変わりな少年に恋をする。しかしまなかはうろこ様に呪いを受け、膝に奇怪な魚を付けられてしまう。これはおそらく、初潮の暗喩だろうと考えられる。初潮でなくても、向井戸まなか自身にコントロールできないものの芽生えの象徴――すなわち“性欲”である。
またこの呪いが、神さまポジションのうろこ様が与えるもの、というところも象徴的である。人間の理性ではどうにもならぬもの、内なる声=神、というわけだ。
もっとも、そういった性的なモチーフが露骨に描かれているわけではない。膝に受けた魚の呪いは、先島光には明かせるけど、他の誰にも明かせない。この段階では二人だけの秘密として描かれていた。二人だけの秘密、という絆の強さというモチーフでも利用されている。この秘密を共有して、先島光は喜んでいる。
しかし、向井戸まなかは不本意とはいえ木原紡にこの秘密を明かしてしまう。向井戸まなかは木原紡がこの秘密を受け入れたことに喜ぶ。2人きりだけの秘密だったところに木原紡が割り込んできて、先島光は怒りを覚える。この怒りははっきり嫉妬だ。
『凪のあすから』はオーソドックスな恋愛ストーリーと見てもいいだろう。しかし現実的に見えるこの物語はファンタジーでもある。海村の人間が地上の人間に恋をすると、追放されるのである。その暗い実例を、先島あかりというキャラクターに演じさせている。現実的な世界を背景にしているが、少しずつ非現実的なルール付けが物語に混入しているのだ。そういうところで、ファンタジー空間を作り出したことに意義が現れてきている。
思春期の恋愛と性――。第2話で、先島光は寝ようとする直前に向井戸まなかの姿を想像する。ただしその姿は裸。裸が描かれたのはただのイメージではないだろう。先島光が向井戸まなかに抱いている性的な欲望……もっとも、それが光自身に明確な自覚として現れているかまだわからないが。
海と陸の異文化恋愛。日本が古来から描いてきた異類婚姻譚の物語であり、思春期の性と恋愛の物語であり。性に関するモチーフがどこまで描かれるかわからないが……最後まで暗喩程度の描写になるか、どこかで表面的な理性が転落して性欲に飲み込まれるか……しかし芽生え始めた性に対する感覚が、恋愛をはじめようという行動と無関係ではないだろう。
異類婚姻譚というファンタジーであり、現実的な思春期の恋愛を描いた物語であり。『凪のあすから』は思った以上に多重的に世界観を構築する狙いがありそうである。

『凪のあすから』は恐ろしく入念に作り込まれた世界観に裏打ちされた映像作品である。一見すると、海の世界はなんのために作られたのだろうか――と思わせるが、異世界というモチーフが『凪のあすから』を標準的な恋愛物語から少し特殊なものに変えている。恋愛をすると追放されるという罰が与えられるという不安。それはお伽話的なルールだけど、高度に作り込まれ考証が行き届いた世界観だから、現代の物語として自立可能なものにしている。
お伽話を、現代を背景にした世界観の中で再現する。もちろんそこには現代的な視座も加えられている。思春期の葛藤や苛立ち。お伽話的な異類婚姻譚でありながら、青春ストーリーという要素も絡みついてくる。より複雑化し、現代的な高度さを持ったお伽話、というふうに表現するべきかも知れない。
『凪のあすから』のストーリーが、もしかすると日本人がずっと深い所に抱き続けていた精神を呼び起こすかも知れない。

続き→とらつぐみTwitterまとめ:作品紹介補足

作品データ
監督:篠原俊哉 原作:Project-118
シリーズ構成:岡田麿里 キャラクター原案:ブリキ
キャラクターデザイン・総作画監督:石井百合子 キーアニメーター:高橋英樹
美術監督:東地和生 美術設定:塩澤良憲 撮影監督:梶原幸代
色彩設計:菅原美佳 3D監督:平田洋平 特殊効果:村上正博
編集:高橋歩 音楽:出羽良彰 音響監督:明田川仁
アニメーション制作:P.A.WORKS
出演:花江夏樹 花澤香菜 茅野愛衣 逢坂良太
   石川界人 名塚佳織 鳥海浩輔 小松未可子 石原夏織

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■2013/10/12 (Sat)
纏流子は真っ直ぐに伸びるその道の途上に立ち止まって、そこから見える風景を睨み付けた。足下には白く濁った空気が悪臭を放ちながら絡みついてくる。街はピラミッドのような三角錐の形を作り、その斜面にしがみつくように建物がひしめいていた。その頂に当たるところが逆光の輝きで黒く浮かんでいたが、にわかに浮かび上がってくるシルエットが、街を取り巻いている統制が行き届いるがグロテスクに感じさせる歪さを象徴しているように思えた。
あそこにあるのが本能字学園鬼龍院皐月が統率する学園で、この学園がそのまま街の全てを支配し統率し、その統率はまさに暴力と理不尽による圧政だった。
あそこなら手がかりが掴めるかも知れない……。纏流子は父を殺害し、片太刀鋏を残していった謎の人物を追っていた。父の仇を求め、関東を放浪した挙げ句、ようやく流れ着いたのがあの本能字学園だった。
纏流子は決意を改めて、街へ至る道へと一歩足を進めた。

『キルラキル』はここ数年のアニメ史を俯瞰してみても、間違いなく突き抜けた個性を持った作品だ。そのアートワークの特殊さは、もはや正気ではないと言ってもいいかも知れない。
物語の構造はいたってシンプルだ。
本能字学園は学園のみならず、街そのものを独裁的な支配状態においていて、街の人達の階級は“制服”で決められる。“征服”と“制服”をかけたシャレだし、「学園ものといえば制服」というファクターをうまく読み替えている。また制服と身分という連なりに捕らわれる日本人の感覚に対するアイロニーにもなっている。
階級が高くなると“極制服”と呼ばれる制服が与えられ、この制服を身につけると特異な能力を得ることができる。この極制服には3つの段階があり、最上級は三つ星。三つ星は生徒会メンバーである“本能字学園四天王”のみに与えられ、学園を統率していた。二つ星が与えられるのは各運動部の部長たちで、彼らは本能字学園四天王の命令に従い、日本中を支配下に収めるための闘争を繰り広げている。
この学園の圧政に纏流子がたった一人で立ち向かうストーリーだが、纏流子が武器とするのは片太刀鋏。これは対極制服用に開発された武器だ。制服を切り裂くからハサミを武器にする……実に理にかなった連想だし、名前を見るとハサミだけではなく“太刀”の語が入っているのが面白い。この片太刀鋏で敵を粉砕し、極制服を切り刻むと、画面には大きく“繊維喪失”の文字が浮かび上がる。これも戦意喪失をかけたシャレだ。
“征服”と“制服”。この制服を裁つために片太刀鋏を使い、“繊維喪失”、すなわち“戦意喪失”させる。アニメといえば学園もので、学園ものといえば制服……。この構図をうまく変換させ、制服を物語構造の中で意味のあるものとして機能させ、さらにこれを粉砕するストーリーを作り出す。シャレといえばそれまでだが、制服と粉砕という構造に鮮やかな連なりを作った発想に脱帽だ。
このシンプルに視覚化された設定を解説するのに、『キルラキル』が必要とした時間はわずかに4分。誰が見ても明らかなストーリーで、あまりにも豪快に突き抜けたビジュアルの凄まじさに、あっという間に映像世界に引き込まれてしまう。


この物語や人物のシンプルさが、映像作家たちがいかに物語やアクションを壮大かつ強烈に語り描き上げるか、という課題に躊躇わず集中できる素地を作っている。
映像を見てただちに気付くのは、画面全体を覆っている白い霧状のものである。おそらく2通りの描き方があり、キャラクターの足下を沈殿している白いガス状のものはブラシ状の筆で擦るように描かれたものだろう。これをデジタル処理して半透明にし、動きが与えられる。
もう一つはざらつきのあるタッチはコンテで描かれたものだ。これは頭上から射し込んでくる光などに使用され、コンテでざっと描いた上に光処理が加えられている。
これらはかつてハーモニー処理と呼ばれる技法の記憶を元にしている。ハーモニー処理とはアクションの決めとなるカットやエピソードの最後となるカットに、セル画に美術スタッフが印象深い厚みを加え、叙情的な印象を与える技法である。
もちろん『キルラキル』で使用され、画面全体を取り巻いているこのざらつきは、正確にはかつてのハーモニー処理とは別様のもので、あくまでも“それらしき記憶”を再生させるものである。まずいってハーモニー処理の光はあんなふうに輝きが与えられることはなかったし、それ以前にノーマルな画面の中に部分的にハーモニー処理が加えられることはなかった。
おそらくは作品にいいようのないざらつきを与えるために考え出されたもので、さらに作品が目指している古っぽさを演出するための効果だ。このざらつきは風景だけではなく、アクションの最中でも常に画面のどこかに書き足されている(もちろん背景美術にも使われている)。この試みは間違いなく成功し、映像を同時代ではまずあり得ない個性的なものにしている。

そのハーモニー処理は劇中で使用されている。
アクションの決めの瞬間など、まさにかつてアニメが使用していたのと同じタイミングで使われる。ハーモニー処理した縦構図の絵を、何度も上下にPANする。完全再現だ。
画面を仰々しく彩るだけではなく、作品の個性を倍加し、さらにはこれが一つのパロディとして笑いを誘う要素にしている。

独特なのはハイライトの効果だ。十字の光が記号的なモチーフとなって画面を彩っている。
この十字の光は、「クロス・フィルター」と呼ばれるものを元にしていると考えられる(アニメでは「ピンホール透過光」とも呼ばれる)。「クロス・フィルター」は光を十文字に輝かせる手法のことで、実写撮影でもよく使われるし、アニメではオープニングアニメーションでヒロインが散らす涙を浮き上がらせるために今でも伝統的に使用される。
『キルラキル』ではこのクロス・フィルターの光をデザインとして意匠化している。この意匠化された十文字の光にも独特のざらつきが与えられ、やはり作品の個性を倍加している。
またこの意匠化された十文字というモチーフは、『エヴァンゲリオン』などに多用された原ガイナックス的なモチーフとも推測できるかも知れない。

『キルラキル』にはしばしばスライドが使用される。『キルラキル』は豪快な動画が描かれることが多いが、あえてスライドを使用し、動きを単純かつ象徴的にすることで、そのギャップに笑いを作り出すことがある。ゆえに、キャラクターのスライドはギャグとして使用されることが多い。
右に掲げたような動画の場合、首をぐるぐる回す動きは「ローリング」と呼ばれている。「ローリング」は主に歩き動画などをクローズアップした時、頭の部分を「ローリングするように動かす」という指示をする場合に使用される。

古いアニメのスタイルが意識された『キルラキル』だが、現代の技術がない限り絶対に不可能な“豪快な動画”がいくつも描かれている。右に掲げたカットは、画面全体がぐるぐる動き回る、ほとんど正気とは思えない動画だ。
デジタルとの併用で描かれる場合が多いが、右のカットはおそらくデジタルは使用されていない。もの凄い速度で流れていく地面はデジタルではなく背景美術が1コマ1コマ描き起こしたものだ。
カメラが方向を変える瞬間、カメラの位置は少し上に上がってキャラクターのみを捉え、その間にカメラを回し、再び地面が映り、キャラクターが地面に激突する場面が描かれる。一番奥に見える校舎は、ひたすら右へPANし続けられるように描かれた長大な一枚絵だろう。
もちろん『キルラキル』にはデジタルを併用した豪快なカットが多く描かれ、それがハーモニー処理されたカットとの連続的な関係を作り、一連のカットの流れが強烈な印象を作っている。

『キルラキル』はかつてのアニメへのオマージュが捧げられている一方、パロディとしても取り上げられている。作中にはしばしば、右(あるいは左)にキャラクターの顔面を置いて、対象を見詰めている場面が描かれる。見て明らかなように、対象と顔との距離は完全に無視されて、同一カットに置かれている。
これはギャグ漫画などで、ボケるキャラクターと突っ込むキャラクターを同一のカットに収めるために多用された構図だ。硬派なアクションばかりではなく、ギャグ漫画からも構図が引用されている。

色彩にはくすんだ印象の、中間色が使用されている。これは撮影技術が今ほど高度でなかった時代の、画像がまだ不鮮明だった頃の記憶を再現したものだ。
アニメがデジタルと出会う以前は、一部の劇場アニメーションは別にしてほとんどのテレビアニメはあまり鮮明な画面を作り出せなかった。アニメカラーも豊富ではなく、最終的にアウトプットされた画像は、青くあるいは赤くくすんで見える場合もあった。
これを『キルラキル』は現代の鮮明に描き出せる技術を持って、一個のスタイルとして再現してみせる。

『キルラキル』を特徴付けているのは現代の様々な技術・技法の産物だが、キャラクター……とくに“線”の描き方は描き手の感性に委ねられている。
それが顕著に現れるのは満艦飾リコだろう(おそらくキャラクターとしても自由さが仮託されているからだろう)。正面顔でも左右のバランスに大きく歪みが出ている。普通のアニメの場合、この左右の歪みは時間をかけて丁寧に修正がかけられる。キャラクターの顔が左右歪んで見えることほど無様な状態はないからだ。
が、『キルラキル』はあえて歪んだまま描かれる。歪みを修整しようという発想がない。普通のアニメの場合、このわずかな歪みでも“不快さ”として浮かび上がってくるのだけど、『キルラキル』は不思議に不思議、むしろこの歪み方が心地よく見えてしまう。
おそらくは普通のアニメの歪みは技術的な欠陥により発生してしまったもの、またあるいはキャラクターが商品として固定された形が存在するからだろう。
しかし『キルラキル』は敢えて歪ませる。キャラクターの左右バランスだけではなく、身体デッサンも正確ではない部分があちこちに見られるが、あえて修正していない。むしろその時々の線の勢いと流れを重視している。アニメーターがその時の気分と勢いがそのまま最終的な画面の中に現れている。技術的な欠陥ではなく、技術的に充分な力を持つ者が敢えて歪ませて描いているのだ。この自由気ままに引かれる線の流れには、描き手の快楽すら感じさせる。この線に仮託された線が、豪快なアクションと連動して素晴らしい画面を作り出している。

■ ■■■ ■■■ ■

 スラムに入った纏流子を、不良少年たちが取り囲む。
「なんなんだ、その時代錯誤なチンピラっぷりは。変な街だと思ったら、住んでいるのもトチ狂った連中だね。いいよ。売られた喧嘩は買うのが信条だ。かかってきな」

名作とは、過去を統括する作品のことである。
……と、たったいま思いついた。
天才には2つの役割がある。
1つには黎明期に革命的な技術を開発し、表現様式を編み出し、その文化を爆発的に発展させる。また同時代の作家たちの感性を刺激させ、啓蒙させ、マイナーでおぼつかないものだったその文化を一挙に一般的な娯楽という立場まで押し上げてしまう。このタイプの天才は同時代作家たちへ、あるいは未来の作家たちのために道筋を作り、文化発展のために多大なる貢献を残す。
もう1つの天才は、文化を総括するためにやってくる。第1の天才が作り出した道筋が充分に開拓され尽くし、多様性を失ってかつてのような勢いがなくなり、人々の関心も失ってまさに絶えようというその時にこそ第2の天才は現れる。その文化の最終的な局面を作り、幕を引くためである。だから第2の天才は徹底的に技巧的、誰もが真似しないような神業を次々と繰り出し、見る者を圧倒させ、茫然とさせる。そうしてその文化の最後の花道を飾り、去って行く。この天才の作りし物が新たな遺伝子として残り、再び息を引き返す切っ掛けを作る場合もあるが。
『キルラキル』は70年代以前の、まだ洗練されているとはいえない時代のアニメをデザインの基調にしている。この作品を見ていると、色んなアニメを連想してしまう。『北斗の拳』だったり『ど根性ガエル』『魁!男塾』『炎の転校生』……詳しい人はもっと色んなモチーフを読み取ることだろう。当時制作されていたバイオレンスアニメ、ギャグアニメ、様々なスタイルが混濁して成立している。上の台詞に出てくるように、まさに「時代錯誤」だ。『キルラキル』は誰もやらず、せいぜいパロディとして茶化す程度だった70年代以前の様式を全力で再現し、鬼気迫る熱気で描き、70年代以前アニメを総括しようとする。それはまるで、あの時代に対する鎮魂歌のようにすら見えてしまう。
もっとも、この作品がむしろ新たな表現形式として一つの道筋を作り、大量の模倣者を生む可能性もあるが。
『キルラキル』は遅れてやってきた天才だ。いやいっそ遅すぎるというくらいだ。もう振り返る者のいない時代を掘り起こし、光を当てて、現代の最高の技術を持ってして復活させた。
本当ならもっと時間的な地続きが感じられるその時に作られるべきだったのかも知れない。もはや当時の記憶がぎりぎり残存しているという状態で、タイミングがもう少し遅ければ、アニメユーザーたちはその作品が70年代以前をモチーフにしていると理解できなくなっていただろう。
だが『キルラキル』はおそらく間に合った。まだアニメユーザーたちの記憶を引き起こすだけの素地が残っていたし、それにかつてを様式化させたデザインは間違いなく比類なき個性となって浮かび上がってくる。

『キルラキル』は情熱的なアニメだ。アニメーターが描いた線が、最終仕上げの段階でもスポイルされずくっきりと浮かび上がる。声優の演技は血管切れそうなくらいの勢いで絶叫熱演を繰り広げている。アクションはいうまでもなく強烈な印象を突きつけてくる。とにかく熱い。そしてうるさい。
この凄まじい熱狂が70年代アニメの最終的な花道となるか、それとも新たな表現技法として枝葉を茂らせるか……それはまだわからない。

続き→とらつぐみTwitterまとめ:作品紹介補足
続き→とらつぐみTwitterまとめ:第3話の感想

作品データ
監督:今石洋之 原作:TRIGGER 中島かずき
副監督:雨宮哲 シリーズ構成・脚本:中島かずき
キャラクターデザイン・総作画監督:すしお アートディレクター:コヤマシゲト
セットデザイン:吉成曜 クリエイティブオフィサー:若林広海
美術監督:金子雄司 色彩設計:垣田由紀子 撮影監督:山田豊徳
編集:植松淳一 音響監督:岩浪美和 音楽:澤野弘之
アニメーション制作:TRIGGER
出演:小清水亜美 関俊彦 柚木涼香 洲崎綾
    稲田徹 檜山修之 吉野裕行 新谷真弓
    岩田光央 たかはし智秋 三木眞一郎 藤村歩

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■2013/10/10 (Thu)
そろそろ校舎の影が深くなって、運動部の声も聞こえなくなった。沈黙した風景の中に、しつこく冬を残した風が重く巡っている。
急ぐ用事もなく、校門までの道のりをゆっくり歩いていた僕が振り返ったのは、風が吹いたのか、何かの予感を感じたのか――。
振り返って黄昏の色に染まるコンクリートの壁をずっとずっと上へと視線を向けると、そこに紺色の布の切れ端がひらりと風に揺れているのが見えた。
何だろう?
 僕はじっと目をこらす。ただの布きれじゃなくてそれは――はっとなったのはそれが女の子だったから。女の子は屋上のフェンスを跳び越えた縁に立っていて、新入生であることを示す紺のリボンを春風にはためかせていた。
自殺!
ただちにそう判断した。自殺。命を絶つこと。おそらく僕が一生試みない行為。
ここで物語の進行は大きく2つに別れる。1つは主人公が積極的に物語に参加して進行していく方法。1つは主人公が消極的で勝手に物語が進行していく方向。
僕は明らかに後者のタイプだったけど、その時ばかりは体が動いた。昇降口に飛び込み、上履きを履かず、靴のまま階段を駆け上がる。全速力で屋上へ、息が上がるとかしんどいとか言っていられない。とにかく階段を駆け上がった。
間もなく屋上へ出た。大きな室外機が独占する小さな広場は、背の高いフェンスにぐるりと囲まれている。緑の味気ない金網の向こうに、女の子は背を向けたまま、立っていた。夕日の輝きが眩しく、女の子の背中を黒く浮かび上がらせていた。
「あ、あの……」
僕は夢中になって叫んだ。そこでどんな言葉を用いたかは割愛するけど、とにかく僕は……、
「とにかく、あなたのような眼鏡の似合う人が死んではいけない!」
という旨を、ただひたすらに伝えようとしていた。その最後に、僕はありったけの思いを込めて叫んだ。
「要するに、眼鏡が大好きです!」
返ってきたのは沈黙だった。その後で、女の子が風に消え入りそうな声で、ぽつりと言った。
「……不愉快です」
女の子が空を飛んだ。フェンスを跳び越えて空中で鮮やかに体を捻りつつ、地面に着地して僕の前に飛びついた。
「……君」
驚いた。茫然としつつも、何かを尋ねようとしていた。
だけど――。
「うあぁぁぁ!」
僕は低く呻いて膝をついた。胸を強烈な痛みが刺していた。意識が白く飛びかけていた。
 僕の胸に、真っ赤な剣が突き刺さっていた。いつの間にか女の子が持っていた剣だ。この剣が、僕の胸を貫き、切っ先が背中から突き出ていた。確実に心臓を貫いている。痛みが制服を赤く染める血のように広がっていった。
「あ、相手が悪かったですね」
女の子は強気を装っていたけど、明らかに怯えるふうに声を震わせていた。柄を握る手も震えている。
僕は消え入りそうな意識をしっかりと繋ぎ止め、かすかに顔を上げた。女の子の……眼鏡を見たかったけど、視界はゆらゆらと霞んでいた。
「あのさ……とりあえず、これどうにかしてくれない? 頼むよ」
なんとかそう、言葉を絞り出した。
「あなた……いったい何者ですか」
女の子は茫然とした色に、困惑を浮かべている。でも、
「それは僕の台詞だよ」
僕は微笑みかけた。
こうして、僕と栗山未来は出会った。こんな2人が、そのとき限りの関係で終わるとしたら、全ての物語はこの世に存在できないだろう。

■ ■■■ ■

黄昏。それは昼と夜の境界。人間界と異界の境界。フェンスの向こう側という境界。少年は人と妖夢の端境に立っている。
ここにはありとあらゆる境界がせめぎ合っている。『境界の彼方』は、その狭間に立っている少年と少女の物語だ。

  思い出すのは2年前の『中二病でも恋がしたい!』だ。この作品の中で、京都アニメは思うさま空想を押し広げて活劇を描いてみせた。あちらの世界とこちらの世界、正気と空想、現在と過去、少年と少女……『中二病でも恋がしたい!』にはありとあらゆる境界が描かれていた。連想をするまでもなく、『境界の彼方』は『中二病でも恋がしたい!』の延長上にある作品、あるいは同じ軸上にある作品であると考えられる。ただし、『境界の彼方』はパロディではない。
『中二病でも恋がしたい!』は学園アクションもののパロディだった。学園アクションものを、冷静な目線で見たらどのように映るか。それは少年の頃に冒険を終えた者が、高校生になったというのにまだ冒険の最中にいる人をどのように見るか……あの時の甘酸っぱさが、現代の白けた視線を混濁させて、強烈な恥ずかしさとして跳ね返ってくる。『中二病でも恋がしたい!』はその姿をコメディとして描いている。
普通に考えれば、順序で言えば逆なのだ。同じ軸上の延長線上ではなく、同じ軸の一歩手前にある作品。それが『境界の彼方』だ。しかし京都アニメは、あえて逆の順序で、パロディを描いた後で、その元ネタにするべき作品の制作に取りかかった。
ジョルジュ・バタイユは熱心なキリスト教徒だったが、「笑い」というものに遭遇して以後、キリスト教がまとっている荘厳さの一切が笑いとしか感じられなくなった。神聖な大聖堂も、厳粛な礼拝も、何もかも滑稽だ――。
「中二病」はまさしく時代全体が笑いに覆われて、厳粛さを失ってしまった時代を象徴する言葉だ。ありとあらゆるエンターテインメントの中に描かれていた真面目さが、パロディに変換されてしまう時代。ありとあらゆるスタイルのエンターテインメントが描かれ尽くしてしまい、視聴され尽くされてしまい、成熟しきったユーザーにはパロディしか連想できなくなってしまった時代。シリアスを描いてもユーザーが脳内でパロディに変換してしまう時代。
『中二病でも恋がしたい!』はそうした今の若者たちが感じている感覚そのものを描いて共感を得たが、『境界の彼方』はそれからいくらか後退してみせる。本格アクションを描いてもパロディと取られてしまうとわかっていながら、あえて――ありきたりすぎるとも言えるような――学園伝奇アクションを描こうとする。

京都アニメの創作は意欲的だし挑戦的だといえるが、映像の作りは――いやキャラクターの作りはシンプルだ。キャラクターの生成にブラシもグラデーショントーンも使用していない。今時は髪の毛や瞳に鮮やかなグラデーションを、頬にブラシを入れるやり方が主流だが、その方法を使用していない。シンプルな線と色だけで構成するキャラクターは、余計なものが取り払われて動画そのものの肌触りを浮き上がらせる。
空間の作りには奥行きを出すためのぼかし掛けが細かくかけられ、しばしば空間的な厚みを出すための陰影がその奥行きに与えられている。
舞台設計は過去の京都アニメーションらしい実直さが現れる。徹底的に取材と考証を重ねた上での緻密な描写。飛躍はほとんどなく、おそらく実際にあるのだろうと思われる風景を丹念に描いている。
中心的舞台が学校であるから、画面の中を学生が多くひしめいているが、今のところデジタルモブは使用されていない。すべて手書きで書き起こされている。朝の登校風景など、多くの学生が一斉に動く場面があるが、あえて手書きでこだわり、手書きで動きが与えられている。

キャラクターの仕上げ処理は非常にシンプルである。そうした理由は動き出した瞬間、意図が見えてくる。
ダイナミックかつ繊細なアクションの連続。映像の主眼は日常世界の描写や、可愛らしいキャラクターにあるのではなく、アクションの動きそのものにあるのだ。
ヒロインの栗山未来は「浮遊する少女」の系譜にあるキャラクターである。
右に掲げた動画には、階段を鮮やかに跳躍する栗山未来が描かれている。まず階段という空間をしっかりしたパースで描き、その中を神原秋人が駆け下りている。これが映像の基準になっている。普通の人は神原秋人のように階段を駆け下りていく。しかしその直後、栗山未来が同じ場所を軽々と跳躍してみせるのである。2回のジャンプだけで階段を飛び降りていく(栗山未来のジャンプはコマ数が少し多く描かれている。これが浮遊している感じを出している)。この栗山未来の動きを見た瞬間、映像にある種の解放感が現れるのである。 さらに神原秋人を蹴り倒した栗山未来は、持っている剣で切り裂こうとする。煙エフェクトがさっと画面を横切るが、さらに刃の動きに合わせて赤い鮮血が飛び散る。神原秋人の血ではない。血で生成した剣が、振り下ろした瞬間わずかに液状に分離して周囲に飛び散ったのだ。これは血で生成した剣、という設定上のものだが、画面の効果として面白いものになっている。

栗山未来は、しばしば地面を氷の上を滑走しているように滑る。実際的な重力の存在を無視して、自然の法則を無視したかのように地面を滑っていく。なぜ滑るのか、どうして滑っているのか、現実的な理由を考えると不思議な描写だが、走る、飛ぶに続く疾走のイメージの連続で繋がれていて、実に痛快な描写になっている。
この動きはもちろん作り手の誇張が作り出したものだが、ふと『中二病でも恋がしたい!』の小鳥遊六花のアクションを思い出す。小鳥遊六花も靴にローラーを仕込んでいて、地面を滑っていた。『中二病でも恋がしたい!』でパロディとして描いていたものを、ここで元ネタとして描いているのだ。

栗山未来のアクションは非現実的かつ誇張された活劇の申し子だが、周囲の環境、自然の法則は丹念に描かれている。
神原秋人が水の入ったバケツを投げる。ここからスローモーション。バケツに気付いた栗山未来。しゃがみ込んで剣を前に突き出す。『スーパーマリオブラザーズ』のBダッシュの後のように滑っていく。剣がバケツに触れて切り裂かれていく。真っ二つに切り裂かれるバケツ。中に入った水が弾け飛んでいく。恐ろしく難易度の高い作画だが、スローモーションで水滴の一つ一つが跳ねていく様子をしっかり描いている(水滴が大きく描かれているところが、唯一の妥協点だ)

栗山未来が持っている剣は、血で生成される。掌から出た一滴が、画面の中に広がっていく。宇宙空間のように空間一杯に広がっていくが、間もなく栗山未来の手元に集まり、剣に変化する。鮮やかなメタモルフォーゼ。コマ全体として20コマ(3コマ撮りだから60コマだろうか)。栗山未来とは別のセルとして動いていたものが、手に収まった瞬間、同じセルに統合される。

この性質がアクションの中で活用される場面がある。妖夢の包帯で、剣の動きが封じられてしまった。妖夢の攻撃が迫る。栗山未来は、とっさに剣を液体に戻す。どろっと粘性の持った血となって弾け、次に構えを直して、血は再び剣に変わる。固体から液体へ、液体から固体へ、メタモルフォーゼがアクションの中に鮮やかに組み込まれている。

走る上下動の動きに、手の動きが激しく動く。上下動の動きはノーマルに描かれ、その上に手の動きが書き足されている。エフェクトはAセル、手の動きがBセル、体の動きがCセルという構成だ。体の動き、手の動きはリピートだが、別様のパターンで動いている。
体の動きと手の動きが違うという、一見すると奇妙に見える動きだが、目にもとまらない動きを、あるいは目まぐるしい動きを、ある種の記号的表現に戻して描かれた場面だ。
この場面のポイントは、キャラクターの上に載せられているエフェクトだ。フルコマで描かれたエフェクトが、人物以上の激しい猛烈さを表現してみせている。

ストロボを当てて、人物の動きを象徴的に見せている。
この動きは実写で表現する場合、俳優には普通にアクションをさせて激しいストロボを当てる。すると俳優は動いているのに、見た目にはパッパッと静止コマを並べているように見える。
『境界の彼方』はその表現を元にしているが、こちらの場合、栗山未来の動きは本格的に静止している。赤く煌めくエフェクトだけが動いている。「ここだ」という決めのポーズだけがストロボの光が当たった瞬間浮かび上がっていく。
こちらも目にもとまらぬ動きを表現した一コマだ。素早い動きを、素早い動きとして描いてみせるのではなく、あえて静止コマの連続で描いてみせている。またアクションのケレン味が生き生きと輝く瞬間でもある。

ついに妖夢を切り裂く! 瞬間、妖夢が輝きを放つ。真っ白に輝く粉が周囲に飛び散る。このエフェクトは次のカットにも描かれている。寸前の赤黒い血が、真っ白に変換されたようで、画面の効果として非常に美しい。


■ ■■■ ■

『境界の彼方』は『中二病でも恋がしたい!』『Free!』に続く3度目の挑戦である。京都アニメは『中二病でも恋がしたい!』以来、自社で本を出版し、それを自ら映像化している。『境界の彼方』はそのオリジナル事業の3本目となる。
私はかねてより、ある程度力を持ったアニメ会社は出版事業を始めるべきだという持論を持っていた。なぜならば、ネット配信を利用すればタダで出版事業を始められるからだ。
出版事業は莫大なお金がかかるし、相応の人員も必要になってしまう。雑誌を出版した場合、300万部売らないと黒字にならない。雑誌単体で利益が出せないから、単行本で収益を計る。そこまでになってくると、相当の資金的な後ろ盾が必要になってくる。サンデーやマガジンすら創刊してから数年近く赤字に悩まされた。
しかしネット上で雑誌を作る場合、基本的にタダだ。誰でも自分でサイトを作って、勝手に始めてしまってもいい。実質的な経費は作家への報酬と、編集家を雇うお金、それからサイトを維持するための少々のお金だけでいい。それらは“莫大”というほどのお金が必要なわけではない。オンライン雑誌で作品を発表し、それから単行本で利益収入を目指す……Kindleを利用するという手もある。
なぜアニメ会社が出版事業を始めるべきなのか……それは“自立”するためである。アニメの製作には莫大なお金がかかり、製作委員会の資金力が頼りだが、アニメ会社は基本的に制作費だけで、作品が大ヒットしても成功報酬を手にすることができない。一方、製作委員会なら大失敗してもリスクを分散させられるという長所もあるが。
アニメーターの労働環境の劣悪さは誰もが知っている話だろう。作品がそれなりのヒットを飛ばしても、現場に還元されることは滅多にない。
ならばアニメ会社が単独で自立するしかない。アニメ会社自身が企画し、制作し、販売まで引き受ける。当然、利益を自分のところで独占する。成功すれば、アニメーターの労働環境を一挙に是正することができる。もちろん失敗したら、責任は自分で引き受けねばならないが。
アニメーターの労働環境を是正させるもっとも手っ取り早く、合理的な方法とは“儲けること”なのだ。
しかしネットユーザーたちの声を聞いてみると、京都アニメの挑戦を“悪しき商法”と捉えている人が多数派のようだ。なぜなのか?
どうやら、儲けようという行為自体が“悪”という歪んだ嫌儲精神に基づくものらしい。従来型のビジネスは“悪しき商法”ではないとネットユーザーたちは考えている。なぜならばその以前にあったから。以前からあったビジネスは“当たり前のものとしてそこにあるもの”だから意識できない。一方、新規なものはそうではないからネットユーザーたちにとって目の前を飛び回る蚊のように存在が浮き上がって見えてしまう。そこで今までにないビジネスを、嫌儲精神に照らし合わせて、“悪”として断罪する。
アニメーターの労働環境の劣悪さを知っていながら、それを是正しようという挑戦を始めると“悪い商法”と批判するのである。
もしかしたら、ユーザーの意識そのものが追いついてくるのを待つべきなのかも知れない。
ともあれ、責任を自社で負うから、勝負には負けるわけにはいかない(実際には音楽事業やDVD販売など色んな事業の協力が必要になるから、製作委員会を作っている)。幸いにも『中二病でも恋がしたい!』『Free!』の2作品は批評的にもビジネス的にも成功を収め、良き道筋を作っている。この作品『境界の彼方』もその道筋に乗って欲しいところだが、残念なことにニコニコ生放送では低評価という結果に終わってしまった。
①56.0%②24.4%③12.6%④3.8%⑤3.2%
①②を合算させるとそれなりの数字だし、③より下を押した人は少ない。しかしこの結果が、ネットでは「『境界の彼方』はつまらない」という評判を定着させ、加速させる一因を作ってしまった。ネットユーザーの間にじわりと醸成されつつある“ブランド嫌い”を援用させる結果となってしまった。
作品はまだ始まったばかり、物語もこれから動き始めるところだ。ストーリーものは、これから起きる“展開”で驚きを与えるのだ。3度目の挑戦はまだまだこれから、始まったばかりだ。

続き→とらつぐみTwitterまとめ:作品紹介補足

作品データ
監督:石立太一 原作:鳥居なごむ
シリーズ構成:花田十輝 キャラクターデザイン・総作画監督:門脇未来
美術監督:渡邊美希子 色彩設計:宮田佳奈 小物設定:髙橋博行
妖夢設定:秋竹斉一 撮影監督:中上竜太 編集:重村建吾
音響監督:鶴岡陽太 音楽:七瀬光
アニメーション制作:京都アニメーション
出演:KENN 種田梨沙 茅原実里 鈴木達央
    進藤尚美 渡辺明乃 松風雅也 川澄綾子 今野宏美

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■2013/07/20 (Sat)
5fa93e7b.jpeg物語は、七瀬遙の少年時代のできごとから始まる。スイミングスクールに通い、仲間達と出会い、輝かしい時代を過ごしていた。
が、一転してその数年後。スイミングスクールは潰れ、身近な場所からプールはなくなり、仕方なく小さな浴槽に水を張って潜っている七瀬遙。大きな体を水の中に沈ませながら、七瀬遙は憂鬱に思考を巡らす。
「死んだ婆ちゃんから聞いた古い諺。10で神童、15で天才、20すぎるとただの人。……ただの人まで、あと3年ちょっと。ああ、早くただの人になりてぇ……」
七瀬遙は自身が普通の人間と違うことに自覚的でいる。過剰に、中毒者のように水を求める性格。泳ぐ行為そのものへの渇望。それから言うまでもなく泳ぐための圧倒的な技術。
七瀬遙は天才だ。天才ゆえに水を渇望してしまう。しかしただの人になりさえすれば、もう泳ぐことを求めずに済むかも知れない。もしかしたら、泳ぐ才能で他の誰かを打ちのめしてしまうこともなくなるかもしれない……という思いもあるかもしれない。

19134ff8.jpeg『Free!』は水を失って彷徨い続ける少年の物語だ。通っていたスイミングスクールは潰れ、進学した高校にはプールはあるものの、長年使用されておらず荒廃が進んでいる。
七瀬遙は水泳の才能と、水泳への愛着を抱きながら、その機会を完全に失ってしまった少年だ。
その一方で、自由に水へアクセスできる少年が登場する。七瀬遙のライバルである松岡凜だ。しかし2人は対立状態にあり、松岡凜はオーストラリアに水泳留学をしながらも、挫折し現在水泳部に所属していない。いつでも水に触れられる立場にありながら、松岡凜はあえて水と接触していないのだ。
この2人の関係は、ともに少年時代に遡ることができる。おそらく松岡凜は、分断された七瀬遙の少年時代の一つなのだろう。七瀬遙が取り戻そうとしているのは、少年時代、スイミングスクールに通っていたあの時なのだ。
荒廃したプールを修復するのは、七瀬遙の精神の修復するためだろう。対立関係にある松岡凜は、おそらくは七瀬遙から切り離されたもう一つの自我。だから七瀬遙と松岡凜、2人が和解した時にこそ、荒廃した七瀬遙の精神が回復し、次なる段階へ成長する切っ掛けになるのだろう。七瀬遙が目指しているのは、失われた少年時代の再現だ。

アニメーションとしての『Free!』の主軸は、言うまでもなく“水”と“水泳”だ。水泳をテーマにして描く限り、避けて通れない要素だろう。
水を描くのは難しい。手書きアニメーションの世界だけではなく、デジタルアニメーションの世界でも同様に言われている。なぜなら、“教科書”が存在しないからだ。
eeb79d07.gifアニメーションの動きは、多くが教科書が存在する。歩き方、走り方、振り向き、フォロースルー、煙や風の表現……アニメーションはだいたいこの基礎的な動きの組み合わせで成り立っている。アニメーションの教科書を買えば、人間が歩くときどのように足を上げて、重心を移動しているか解析的に描かれているのがわかると思う。キャラクターが自由自在に動いているように見えるアニメーションは、先人がその基礎的な動きを細かく解剖して、形式的な表現を体型付けしているから、今の作り手がその上に様々な創意を積み上げられるのだ。
が、しかし水に限っては教科書がない。教科書には参考としていくつかカットを取り上げているものの、決定的なものとは言いがたい。
e9601868.gif水はどのように動くのか? おそらくアニメの作り手にとって、大きな課題であったに違いない。漠然とした感覚で、水がどのように動くのか理解しているものはある。しかしそれを絵画として動きとして再現できるか、という間には大きな溝が立ちふさがっている。
“何となく知っている”と“本当の意味で理解している”との間には、あまりにも大きな差異があり、絵を描くという行為は、芸術的行動云々ではなく実際にはこの“理解する”という部分を突き詰めていく作業であり、ある種の科学的追求の一様であるとも言える。“知らない”で描いた絵は、漠然と近いものがあっても真実と呼ぶには足りぬのだ。
この水を観察し、絵の中で再現する過程のなかで、どんな葛藤があったのか我々はまだ知ることができない。これから作り手による情報が開示されると思われるが、相当な苦労があったと想像される。手書きアニメーションとしては“水”というテーマは前人未踏の領域だ。これをテーマとして掲げた時点で、『Free!』にはアニメ史的な意義があるといえるだろう。

822bcad7.gifまた“水”の表現と同じくらいに、この作品では“泳ぐ姿”が大きなテーマに掲げられている。“泳ぎ”も“水”と同様に、教科書にない動きだ。アニメーターは“水”の表現と同じくらいに、泳ぐ姿の描写に精力を注いだことだろう。
人間が泳ぐとき、どのように動くのか……。まず飛び込みの瞬間。人はどれくらいの速度と角度で水面に突っ込んでいくのか。また水は、どの程度弾け飛ぶのか。水の中に潜り、泡をまといながら這い進んでいく。それから水面に這い上がっていき、腕で水を掻き出しつつ泳ぐ。この時の腕の動きは、3コマ撮りの場合、何コマで動くべきか。アニメーターは動きを徹底的に解析しなければならない。1枚画で再現すればいいのなら、写真をトレースすればいい。しかしアニメーションは動きを分析しつつ、アニメーションとして洗練された動きに見えなければならない。リアルであればいいというのではなく、アニメーションとして落とし込み、人間の動き、水の動きを同時に体系化していかねばならない。教科書がないから、アニメーター達はいちから全てを模索しなければならなかったはずだ。
泳ぎ、あるいは競泳をテーマにしたアニメは、寡聞にして私は知らない。おそらくはアニメで初めての試みだと思われるし、これはサッカーやテニスやバスケを描くよりも、よほど大きな冒険だったはずだ(もっともアニメにおけるサッカーやテニスやバスケは、実際的な観察によるものではなく、多分にファンタジーだが。特にテニスは)
現在第3話まで放送されているが、水と泳ぎの表現に関しては見事というしかなくらいによく描けている。アクションシークエンスとして、その他のアニメの中に際立った存在感を持っているとも言える。
『Free!』がいい形に終わり、この作品で描かれたアニメーション……すなわち“水”と“泳ぎ”の表現が教科書として残れば、この作品が映像化された意義は非常に大きいと考えられる。

6a2ac5a3.jpeg映像の印象はといえば、どちらかといえば淡い印象だ。線は柔らかく、色彩は淡い。影はノーマル色とのギャップが少なく、キャラクターを立体的に見せる効果としてはあまり有用的に機能しているとは言えない。フィルターの効果で肌がじわりと滲み、柔らかな印象をより強調している。これは線や色の柔らかさを誇張するためだ。
背景も同様にざっくりと描かれている。線は少なく、色数も少ない。必要最低限の奥行きだけで、その他のものが削ぎ落とされている。場面によっては、パースが怪しく見える場面すらある。
物語の主眼が、そうしたキャラクターや空間表現にないことがよくわかる。
その一方で、やはり注目は男性キャラクターの骨格だろう。いや、筋肉というべきか。ただしその表現は筋骨隆々、というのではなく、体脂肪を極限まで抑えられた姿だ。それはスポーツしている人間の体というより、モデルのような美しく、流線的なボディだ。こういった描3a34cedf.gifきように、ある種フェティッシュな執着を感じずにはいられない。第1話の冒頭の場面、水から這い上がる七瀬遙の体を伝って落ちていく水滴が、これでもかと立体的に描かれていた。ここで、作り手のこだわりのポイントがどこにあるかがわかる。
『Free!』はリアルな男性の体格が追求されたアニメではなく、美術家としての理想が追い求められた作品だ。筋肉の描き方に、「こうでなければならない!」という作り手のこだわりと、執着、美意識が同時に感じられる部分である。

アニメーションの制作は、京都アニメーションというより、アニメーションDoとするべきだろう。アニメーションDoは2000年に設立されたアニメーション会社で、その設立目的そのものが京都アニメーションのバックアップであり、外注を受け付けた場合は“京都アニメーション”と一括される場合もあるようだ。
業界において高クオリティを誇示する京都アニメーションの縁の下として支えてきたアニメーションDoだが、その中でも優れた作家が育ちつつあるようだ。『Free!』の監督内海紘子は、現在もアニメーションDoの所属だ。内海紘子だけではなく、作画監督や演出にアニメーションDoのスタッフが名前を連ねるようになってきた。
アニメーションDoはすでに、単に京都アニメーションを下支えするだけの存在ではない。しかしライバル関係のような対立はなく、立場は良好で、才能の交流が進んでいるようだ。
京都アニメーションとアニメーションDo……ふたつの優れた才能が、相乗効果となって今後もよりより作品を作っていくことに期待したい。

作品データ
監督:内海紘子 原案:おおじこうじ
シリーズ構成:横谷昌宏 キャラクターデザイン・総作画監督:西屋太志
美術監督:鵜ノ口穣二 色彩設計:米田侑加 小物設定:秋竹斉一
撮影監督:高尾一也 編集:重村建吾
音響監督:鶴岡陽太 音楽:加藤達也 音楽制作:ランティス
アニメーション制作:京都アニメーション/アニメーションDo
出演:島﨑信長 鈴木達央 宮野真守 代永翼 平川大輔 渡辺明乃
    雪野五月 佐藤聡美 津田健次郎 宮田幸季 家中宏


 

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■2013/04/18 (Thu)
6a758253.jpeg「ほら。餅じゃなくて団子だけど」
パックには団子が二つ載せられていた。
「わぁーい!」
ゆずこが元気な声をあげてバンザイ。ゆかりはおしとやかに手を一度叩く程度に留めた。
でも私はちょっと溜め息をこぼす。さっき本屋で漫画を買ったばかり。なのに2人にせがまれて団子を買っちゃった。でも、二人の喜ぶ姿が見られたから、まあいいか。
3人でお店の前のベンチに座る。ゆずことゆかりはさっそく団子を食べ始めている。
「おいしー」
「うん。それにお餅って腹持ちがいいよねー」
二人が満足げに感想を漏らしている。
すると、ゆずこがはっと気付いたように、団子でゆかりを指した。
「おもち……だけに」
なぜか低く重い声で、団子を持つ手が震えていた。
「いえーい!」
満足だったらしく、ゆずことゆかりがハイタッチ。
「お前らアホだろ!」
私の突っ込む声をそよ風のごとく受け流して、ゆずことゆかりはまた団子を食べ始めた。
7d2e24c0.jpeg私は、本を入れた紙袋の封を開けて、ちょっと中を覗く。ここで読んじゃおうかな? いや、団子一つだしすぐに食べ終わっちゃうか。
と、ゆずこが私を覗き込むようにしてじっと見ていた。
「なに?」
「ねーゆいちゃん。ほっぺにちゅーしていい?」
お弁当のおかずをおねだりするように、ゆずこは言った。
「はあ、やだよ!」
でも私は大慌て。思わず顔をのけぞらせてしまう。
「ええ、なんで!」
私の拒否が予想外だったらしく、ゆずこが声を上げた。
「なんでもなにも……」
どうしよう、どう言い返せばいいんだろう。私は恥ずかしくてうつむいてしまう。
すると、ゆずこは急に立ち上がった。
「じゃあおっぱい揉ませて!」
「なんで難易度あげてくるんだよ!」
ゆずこは思いっきり言葉に力を込める。私は同じ勢いで、怒鳴って返した。
それで満足だったらしく、ゆずこはいつもの柔らかい笑顔に戻ってベンチに座った。串に残った団子を、口の中にぱくっと入れる。
b1d1e334.jpeg「あ。ゆずちゃん、ついてる」
するとゆかりが自分の頬を指して言った。
ゆずこは、あっと指で自分の頬を触ろうとしたが、何か思いついたみたいに引っ込めた。それから、私の側へすすすと近寄ってきて、
「ゆいちゃん。ぺろって取って」
私を覗き込んで、頬を差し出してくる。
「ちょ!」
「ゆずちゃんずるい~」
ゆかりが笑顔のまま私に顔を寄せてくる。
「ぺろって。ぺろってして~」
「手で拭け!」
私はベンチの端っこへ下がる。
でもゆずこが体を寄せて迫ってくる。そんなゆずこの体にもたれかかって、ゆかりまでも迫ってきた。
「ぺろがいいです~」
ゆずこが甘ったるい声で懇願してきた。
どうすりゃいいんだよ。
dc4d3e77.jpeg

2ebbd558.jpeg何とも言えず、個性的なバランス感覚でキャラクターが描かれている。
とりあえず、顔を10等分にしてみた(左の画像はクリックすると拡大する)(ゆかりを取り上げたのは、笑顔の時の目のラインに特徴が出るから)。1番上の線を0%として、前髪の生え際が描かれているのが10%のところである。眉毛は20%のところ。目の上端は40%のところよりやや上から、思い切って縦に長く、下端は60%~70%のちょうど中間辺り。目のラインはくっきりと強調され、必ず前髪のラインの上に被る。口は一番下で、開くと顎の輪郭線に接する。
可愛い顔を描く時は、目を下の方に大きく描き、頭を大きくする。これは子供の顔や猫の顔から観察して割り出されたセオリーである。しかし『ゆゆ式』は目の位置は中間ラインよりかなり上。髪の生え際のラインとなると、頭の上輪郭線とほぼ接する位置であり、反対に口の位置は下顎のラインと完全に接してしまっている。
20d6c068.jpegもっとも、『ゆゆ式』に限らず昨今のアニメ界隈では“美少女の描き方”にかなりの変動が現れてきている。顔全体に対する顔面領域が大きく、生え際は上の方へ追いやられ、そのぶん目や鼻や口の領域が大きく作られている。目は大きく描かれ、鼻や口はそれなりの距離を作ってある程度のゆとりを持って配置されている。可愛いキャラクターを描く時は、目を中間ラインより下へ、というセオリーはそろそろ過去のものになりつつある。
ただ『ゆゆ式』の描き方は、そういった中でも突き抜けてしまっている。従来のセオリーから完全に外れる描き方で、それでいてちゃんとキャラクターが“可愛い”と感じられる。
このバランス感覚の発見が、作者三上小又の一つの功績であり、この個性はそれだけで名刺になり得るものである。

89b224f4.jpeg映像はゆい、ゆずこ、ゆかりの3人を中心においてすっきりとまとめられている。背景は輪郭線がくっきりと描かれているものの、色彩は淡く、ロングサイズになると全体が描写されずところどころ白くディティールが飛ばされてある。モブはゆいたちと同居するときはシンプルなラインで、グレー一色でまとめられている。
中心に立っているゆいたちも構図の中心でありながら、色彩は淡く柔らかい。落ち着いた雰囲気のある色彩感覚である。
キャラクターの線は、もちろんかなりデフォルメされ最小限のラインのみが選択されて描かれているが、部分的に実在的な肉体感覚を思わせる瞬間がある。よく見られるのが手の描き方。指の一つ一つの肉付きの柔らかさや、微妙な角度で変わるフォルムの違いなど、デフォルメでありながらパターン化された描写に陥らずにしっかりと描いている。
映像の特徴的な部分と言えば、フェティッシュなものを感じさせるクローズアップの多用だ。足や指先、セーラー服の裾からちらと見えるへそなど。物語の進行に特に効果を持たない描写でありながら、執拗に描写される。あからさまにフェティッシュな描写だが、ただただ同性から見た可愛らしさを追いかけだけで、性的な感覚からずっと遠く、むしろ心地よい気持ちを後に残してくれる。

5bd833ab.jpeg物語の中心にいるのはゆい、ゆずこ、ゆかりの3人。物語の中身と言えば、ただただひたすら、この3人の過剰とも言えるスキンシップが延々続くだけである。
その触れ方が、ただ触るとか抱きつくといったものではなく、身体が強く意識されている。第1話ではゆいのおさげを、ゆずことゆかりが弄って遊ぶ場面が描かれている。おさげといったキャラクターの特徴を引っ張り出して弄る場面は珍しいし、またその時の身体の描き方に実在感があるために表面的に弄っている6b3c882b.jpeg感じではなく、ちょっとした生々しさがそこにある。
もちろんそこに性的なやらしさはどこにもない。女の子同士の目線で、ただただお互いが「可愛い」。可愛いから触りたいし愛でたい。お互いのことがすごく好き。それでいてキャラクターのやりとりにも映像にも性的な視線がまったく感じられない。おっぱいを触っても、恥ずかしいけど性的な意思はなく、ただそこにある実在を感じていたいから。手を触ったりおさげを弄ったりする行為からもう少しハードルが高いだけで、あくまでもスキンシップの一つ、性的ではない愛でたいという感情の一様でしかないのだ。
『ゆゆ式』のキャラクターは見ての通り、かなり個性的なバランス感覚で描かれている。生え際は極端に上、目は極端に大きく、口は極端に下。思い切った、というよりある種の突き抜けたバランス感覚で描かれるが、それでもキャラクター達は可愛いと感じられる不思議なフォルムだ。おそらく、作者自身もこのバランスを発見した時、「あ、可愛い」と気付いただろう。いや、「可愛い」と思わなかったら、このスタイルを突き詰めて名刺代わりの「自分の絵」にしようとは思わないはずだ。
「この子たちが可愛い」そういう思いが、そのまま作品に反映され、キャラクター達に仮託され、お互いでキャラクターを愛で合う。
「この子たちが好き」
混じりもののない「この子たちが好き」という純度の高さが、作品をほほえましい少女のスキンシップの物語にしているし、映像化も原作の意思をよくよく汲み取って、フェティッシュでありながら性的な臭いはまったくさせずにある種の無邪気さを感じさせるくらいのおだやかな少女達の物語にしている。

何となく心地いい気持ちになる作品である。
映像には柔らかいぬくもりが行き届いているし、笑いはあってもささやかに添えられるだけ。フェティッシュな画像が連続するが、見ている者を動揺させるような性的な強烈さはなく、そこにあるのはただお互いが「可愛い」という気持ちだけ。3人固まっていて、いつも一緒にいられて楽しい、そういう気持ちだけである。
見ている者の心情を激しく揺さぶるものは何もない。ただこの子たちが無邪気にスキンシップする姿がほほえましい。それだけの物語だけど、映像全体に張り巡らされたお互いを愛でたいというぬくもりが、作品を受容的な優しさに満たしている。
454c87bb.jpeg


次の記事
■ 第3話の感想
■ 第4話の感想

作品データ
監督:かおり 原作:三上小又
シリーズ構成:高橋ナツコ キャラクターデザイン:田畑壽
メインアニメーター:まじろ・小嶋慶祐 美術監督:加藤浩
色彩設計:水田信子 音響監督:明田川仁
撮影監督:若林優 編集:須藤瞳
アニメーション制作:キネマシトラス
出演:大久保瑠美 津田美波 種田梨沙
    堀江由衣 茅野愛衣 潘めぐみ 清水茉菜





 

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