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■2012/07/10 (Tue)
シリーズアニメ■
\アッカリ~ン/

『ゆるゆり』が始まった。
『ゆるゆり』が始まったのは2008年、最初の掲載雑誌は『コミック百合姫S』であった。しかしマイナーな弱小雑誌の宿命に翻弄されるままに流浪し、現在では姉妹誌『コミック百合姫』で連載が続いている。
本来であれば、掲載されている雑誌が休刊になると漫画の連載はその時点で終了となる。どんなに濃密な長編ドラマが予定されていようと、雑誌休刊という絶対的な強制力には逆らえず、どんな状況であれ物語は強制終了、編集者は社内異動で保護されるものの、ほとんどの作家は世間に放逐である。雑誌休刊で捨てられた作家のその後は、野良犬すら拾い上げない哀れなものである。
しかし『ゆるゆり』だけは、雑誌が休刊になろうが作品が移籍しようが、何食わぬ顔で、その後もあの驚嘆すべき掲載スピードを緩めず連載が続いていったのである。
間もなく多くの読者も『ゆるゆり』という作品に気付き、その特異性が注目され、今では『コミック百合姫』最大の稼ぎ頭として邁進し続けている。
『ゆるゆり』の主人公は歳納京子である。第2巻のあとがきで、作者自身の発言でそう書かれている。歳納京子は常に漫画の中心にいて扇動者としての役割を持って物語を牽引し、扉絵でも登場回数が多い。歳納京子は間違いなく実質主人公である。
しかし歳納京子が主人公であるという事実にちょっとした論争が起き、編集者が「赤座あかりが主人公ではないか?」と提示されたことにより、主人公の交代が執り行われたのである。
赤座あかりが主人公である根拠――第1回掲載時の登場の仕方が何となく主人公っぽかったからだ。
これを指摘され、作者も「じゃあ赤座あかりが主人公で」となんともいえないゆるさと柔軟さで主人公交代が受け入れられたのである。
歳納京子→吉川ちなつ→船見結衣
→は強い感心と結びつきを現している。関係性、という面では、歳納京子と船見結衣は幼馴染みという点で強い結びつきを持っている。
さらにこの関係性を生徒会一同他を巻き込んで延長すると、以下のようになる。
池田千鶴→池田千歳→杉浦綾乃→歳納京子→吉川ちなつ→船見結衣
やはり赤座あかりの名前が出てこない。上に取り上げられなかったキャラクターたちも、それぞれ対にキャラクターが存在し、そこで何かしらのドラマが生まれるように作られている。が、赤座あかりだけがこのウロボロスの輪の中にいないのだ。
原作第2巻15話yryrホラー・ショー(アニメ版9話)の2ページ目1コマ目に赤座あかりが間違いなく登場する。しかし、その後全てのコマから赤座あかりが剥落し、最後の最後で、実は幽霊だった、というオチで再登場する。
どうしてこうなったのか。おそらく、作者がネームの段階で、赤座あかりを書くのを忘れていたためだろう。作者自身赤座あかりの不在に気付き、オチに使ってしまおう、と考えたのではないか。作者自身が赤座あかりがいないミスに柔軟に対応した結果、赤座あかりの影の薄さが強調されたのだ。
しかし、目立たない、影が薄い、存在感がない、その事実を個性と捉えることで、むしろ赤座あかりのキャラクターは、登場しないことによって強調されていくのだ。全登場人物から無視される、トラブルに見舞われてもほっとかれる、そもそもエピソードに登場していない、などを繰り返すほどに、そこに描かれていないはずの赤座あかりの存在感はより強く際立ち、作品を支配するアイコンとして輝き始めるのだ。
……と、いうことにしておこう。
第1回目の掲載は、後で見るとおとなしめの2話掲載である。その後、ゆるやかにペースを上げていき、第2巻で1度の雑誌出版で5回掲載。その後、執筆ペースはインフレ状態でそのうちにも『コミック百合姫S』の掲載作品はほとんど『ゆるゆり』のみで埋まるという謎の事態に突き進み、この段階で雑誌出版スピードより単行本出版スピードのほうが先になり、第6巻は『まんがなもり ゆるゆりSPECIAL』という雑誌で独立。第7巻は全編書き下ろしとなった。
左は第2巻あとがきに描かれた歳納京子である。頭上からふってくる丸々としたくらげ(のようなもの)を、バレーのように打ち返している姿が描かれている。
これはおそらく、一発書きだろう、と考えられる。
根拠は線全体の流れかたである。線が均一に描かれているのは、線の太さに差が出ない画材が使用されているからだろう(SignoやHI-TECかも知れない)。しかし、それだとしても線の流れが均一である。もしも下書きのある漫画原稿であれば、肌の質感、髪の毛の柔らかさ、服の素材、それぞれで様々な太さに描き分けられる。左の絵の場合、全体が同じ緊張感を持って線が流れている。また、線の継ぎ目が修正されていない。
全編書き下ろしとなった第7巻ではあとがきもキャラクターが中心の漫画が描かれた(右)。ある程度下書きがあったかも知れないが、ほとんど一発書きであると想像される。
なもりは動きを捉えるのがうまい。全身の動きに合わせて、髪の毛、上着、スカートがつられて動く瞬間をしっかり捉えている。もしアニメーターだったら、いい原画を描いただろう。
ここで比較として『じょしらく』を取り上げてみよう(『じょしらく』を比較として取り上げたのは、比較対象として妥当性云々ではなく、単になんとなく机の上に置いてあったからだ。どちらもオチのない漫画、という共通点があるからいいだろう)。
『じょしらく』は当初3段構成、大きなコマでキャラクターが描かれていたが、その後コマのが小さく分割されるようになり、2巻以降は4段から5段構成が基本となり、一つのコマに複数キャラクターが描かれ、台詞量も多く、勢いを付ける集中線などの漫符が多く取り入れられている。
一方『ゆるゆり』での漫画の構成はもっとシンプルだ。台詞量は少なく、漫符も必要最低限しか描かれていない。ほとのどのコマで背景が描かれていないのも特徴だ。シンプルにキャラクターの表情や、台詞のやりとりを追いかけられるように、不要な素材を削ぎ落とした結果だろう。
また作家なもりは、間欠泉のごとくアイデアが沸き続けているのだろう。ここまでの執筆速度を維持するためには、その分のアイデアも必要になってくる。アイデアが出てこなくなったら、当然執筆速度も落ちるはずだが、なもりの場合、加速し続けている。アイデアが途切れることなく延々出続けているためだろう。
第7巻のあとがきで、作者の近況の代わりに、各キャラクターたちの近況が描かれた。これがたっぷり14ページ。振り返ってみるまでもな
アニメ配信に併せて、ニコニコ静画では「大室家」の連載が始まった。てっきり4コマ漫画か何かだろう、と思っていたら、本格的に構成された漫画だった。連載回によってページ数は変動するようだが、ほぼ週刊雑誌連載分が毎週掲載されている。アニメ配信中はずっと連載が続くようだから、アニメシリーズ1本終わる頃には単行本1冊くらいになりそうだ。ところで、どうして大室家だったのだろう? 取り上げるべきキャラクターは他にもいるような……赤座家とか。
色彩の構成は第1期と変わらない、あまり差の出ない穏やかなぬくもりで描かれている。線と影はシンプルで、少女たちの身体と動きを捉える必要最低限の要素で構成されている。相変わらず元気な歳納京子の線は、大胆に省略されたり、あえて歪まされたり、アニメーターが動きを楽しんで
(特にノリノリでアクションを決めたのはオープニングである。規則性のほとんどない謎の動きを、フルコマで描いている。オープニングはほぼフルコマで描かれ、前作とは違う贅沢さを感じさせる)
いつもは大人しく控えめな赤座あかりが鬱陶しいくらいに厚かましいダンディズムを発揮し、女の子たちを虜にしていく。そのあまりの不自然状況に、視聴者たちは夢の話だと察する。この夢が前半9分にもおよび、あまりにも長く、しつこい内容であるのに関わらず、視聴者たちは赤座あかりへの同情と哀れみを込めて、このささやかな夢の一時を妨害しないよう暖かく――見なかったことにするのだ。
おそらく、作者であるなもり自身、歳納京子たちが何をするのか、何をやらかすのか、空想の中で好き勝手遊び回っている状況を楽しんでいるのだろう。作家として、歳納京子を制御して特定のどこかへ導こうという発想は多分ない。読者と同じ目線で、作者自身もキャラクターたちを追いかけている、そんな感じかも知れない。
みんな『ゆるゆり』に夢中なのだ。
ゆるゆり♪♪ スペシャルサイト
ゆるゆり♪♪ あにてれサイト
なもり twitter
作品データ
監督:太田雅彦 原作:なもり
副監督:大隈孝晴 シリーズ構成・脚本:あおしまたかし キャラクターデザイン・総作画監督:中島千明
総作画監督:越智信次・尾尻進矢 色彩設計:真壁源太 美術監督:鈴木俊輔(スタジオ風雅)
撮影監督:佐々木正典 音響監督:えびなやすのり 音響制作:ダックスプロダクション
音楽:三澤康広 音楽制作:ポニーキャニオン
アニメーション制作:動画工房
出演:三上枝織 大坪由佳 津田美波 大久保瑠美
藤田咲 豊崎愛生 加藤英美里 三森すずこ
倉口 桃 白石涼子 後藤沙緒里 竹達彩奈 悠木碧
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■2012/05/08 (Tue)
シリーズアニメ■

俺は福部里志を相手に、思っていたことを話す。
放課後だ。窓から射す光はささやかで、教室の中は灰色に溶け込もうとしていた。教室の中には何かの仕事を始末しようとしている男子生徒が一人と、机を挟んで、楽しげな会話をひそひそと交わしている2人組の女子生徒が残っている。俺は何の興味も関心もなく、ただそこにいるから、というだけでそういう連中の背中を眺めていた。
「奉太郎に自虐趣味があったとは知らなかったね」
里志は俺の机に肘を付けて頬杖をしながら、俺を上目使いに見て、この男特有の軽い皮肉っぽさを混じらせながら言う。
「自虐趣味?」

「別に後ろ向きなわけじゃない」
俺は声にかすかな憤慨を混じらせた。といっても、感情的になるほど俺はアクティブじゃない。
「奉太郎的にはね。省エネ、なんだよね。奉太郎は」
やけに得意げだ。
もったい付けた言葉を選んでいるが、別に議論しようってわけじゃない。単なる暇つぶしだ。放課後の猶予時間を無駄に消費する……あるいは、そうすることですべき決断やそれに伴う行動に対して保留しようとしている。

「ただただ面倒で、浪費としか思えないことには興味が持てない。そのモットーはすなわち!」
里志が俺を指さす。俺は思わず、里志の指先に注目してしまった。
「やらなくてもいいことはやらない。やらなきゃいけないことなら手短に」
俺は溜め息混じりに言う。俺の普段からの口癖、信条であるが、それを他人に言わされるとなると、なにやら腹立たしい。
「だね。でもね、奉太郎。この多彩な部活動の殿堂、神山高校で部活にも入っていない奉太郎は、結果だけ見れば灰色そのものってことだよ。そんな奉太郎が寂しい生き方なんて、自虐趣味の何物でもない」
「口の減らない奴だな」
愚痴をこぼす。かといって、この男が不愉快なわけではない。鬱陶しいくらい言葉が溢れ出す男だが、不愉快に思ったことは一度もない。むしろ、不思議と好意すら感じていた。
そんな俺の心情を察しているかのように、福部は身を乗り出して、また俺を上目使いにした。
「何を今更。中学からの付き合いだろ」
いや、今度はさすがに苛っときた。
「ふん。まあいい。先に帰れ」
どうやら暇つぶしと保留はおしまいだ。面倒だがそろそろ行動に移さねばならない。
「先に? どういうこと?」
里志は少しきょとんとした風情だった。俺は何も言わず、内ポケットの畳んでしまっていた紙切れを引っ張り出し、里志の前で開いてみせた。

「まさかそんな! 入部届! 奉太郎が部活に! しかも古典部に!」
大げさな奴だな。教室に居残っていた連中が、ちらと俺たちを注目する。俺はそんな視線を逃れて、

と里志に尋ねる。教室の一同は、ただちに俺たちから興味を喪った。
「もちろんさ! だけど何だって奉太郎が古典部?」
疑問の里志。俺は、もう一つの紙切れを引っ張り出した。今度はもう少し厚みのある。手紙だった。

「インドから送ってきた。ベナレスだかどこかだか……」
里志は手紙を受け取り、文章にさっと目を通した。
「これは困ったね。お姉さんの頼みか」
「部員がいなくて、廃部寸前らしい。存続のために入部しろ……だとさ」
俺は憂鬱に頬杖を突く。
「お姉さんの特技は確か……」
「合気道と逮捕術。痛くしようと思えばかなり痛い」
「あっはっは。これは断り切れない」
里志はこれ以上ないくらい、朗らかに笑ってみせた。他人の不幸は何とやら。実に忌々しい。
「でも部員がいないんだよね。だったら古典部の部室は独り占めじゃないか。学校の中にプライベートスペースが持てるってのも、結構いいものだよ」
「プライベートスペース?」
俺はにわかに興味が沸き上がって、顔を上げて里志を見た。里志の朗らかな笑顔に、さっき感じた嫌みぽさはなかった。
さて行動だ。俺は職員室へ行き、予備の鍵を手に入れ、それから校舎を移って階段を一段一段上っていく。ようやくたどり着いたそこは、特別棟の4階の地学準備室。まさに最果てだ。
ドアを開けようとする。鍵がかかっている。まあ当たり前か。職員室で手に入れた鍵を鍵穴に差し込み、ドアを開けた。


俺は女を覗き込もうと、地学準備室の中を進んだ。女は何かに気をとられているように、まだ俺の存在に気づかない。かすかに、女のうなじが、横顔が見えた。ほんの少し見えただけだったが、それでも黄金比を巧みに組み合わせたような、整った顔立ちに思った。

整った顔。大きく憂いのこもった瞳。綺麗に整った真っ直ぐの黒髪。何ともいえない落ち着いた佇まい……。

俺は……どんなつもりだったが自分でもわからないが、その瞬間言葉を失って、女の顔を、姿を見つめてしまっていた。女も、しばらく驚いたような大きな瞳のまま、俺を見つめていた。そして、女はふっと微笑みを作った。
□■□


千反田えるがそう言った瞬間、デジタルエフェクトの洪水が花咲く。エフェクト少女、と呼べば斬新に聞こえるが、『咲-Saki-』などの前例がすでにあるので、珍しいわけではない。しかしこれほどまで入念なデジタルエフェクトに包まれるアニメヒロインは個性的ですらある。
デジタルエフェクトだけではなく、アニメーターによる作画も堂に入っている。まるで意思を持ったかのように長く伸びて絡みついてくる黒髪。黒髪に添えられる淡い緑の葉。デジタルエフェクトは絡みついてくる黒髪のように複雑に織り込まれている。
超現実的な構図の作りと相まって、見る者を有無言わさず千反田えるの世界に引き込んでしまう。圧倒的な作画の世界であり、デジタルエフェクトの楽しげな饗宴である。

髪の毛の線や、服のしわ、特に重要度の高い顔のディティールなど。必ずしも睫が3本でなければならない、というような規則性は思い切って放棄して、その構図に相応しい線の密度、流れが採用されている。
こういった線の流れは、最近にかけてどんどん曖昧さやラフで描いた瞬間のイメージを取り入れるようになったが、『氷菓』はその中でもさらにその傾向を推し進めている。
この頃はMMDなど、三流のコンピューターでも誰でも簡単にアニメーションを再現できるツールが登場している。そこそこのスペックとソフトさえあれば、誰でもアニメーションが作れる時代だ。大きな予算は必要ではない。そんな時代だからこそ、コンピューターでは決して到達することのできない線の感性、手書きだからこそ現れる精神性にこそ重点が置かれている。

左は例の台詞(呪文?)を口にした直後の瞳のクローズアップである。実線で縁取られた外線と、中心となる黒目。色トレスの線が合計3本(しかもこの色トレス線は中心の黒目を縁取る線と重なり合い、違う明るさ色が指定されている)。ハイライトは瞳の中に4つ、白目部分に1つ。色トレス線の色の境界には、ブラシでかすかなハイライトが加えられている。さらに瞳の中に、デジタル処理で星屑がきらきらと散っている。これに別のカットでは、奉太郎の姿が別に作画され、合成されている。劇中では、真っ白に輝いているハイライトが艶やかに回転する。
さらに、目を縁取る実線にも注目したい。睫の数など、ある程度の法則性はあるものの、左右非対称である。瞳の下の線も、左右違うリズムで描かれている。ここにも線の曖昧さが取り入れられている。
瞳のクローズアップ、そのディティールに無用なこだわりを見せるのはアニメの分野においてありがちなことだが、ここまで徹底された例を見るのは初めてだ。
あと控えめな巨乳としても注目したいキャラだ。

左は第2話の振り向きの一例だ。振り向きの動画としてはごく普通だが、それに髪の毛が異様な量感を持って一緒に動いてくる。ごく普通の振り向き動画が、きわめて凶悪な代物に変わってしまっている。
千反田えるの髪の動きは常にこの調子だ。部分的に絵を動かそうと思えば、その部分の線だけ動かせばいい。しかし決してそうはせず、全身の動きを取り入れるだけでも飽き足らず、さらに髪の毛も動かしている。
ごく普通に長い黒髪を描こうと思えば、もう少しまとまりをもって描けば済む話だ。その方が簡単に済むし、それでも綺麗に見える。『氷菓』はその方法を選択せず、わざと髪の流れにわずかな乱れを作り、それがあらゆるタイミングに合わせて揺れ動く様子を描写している。おそらく、その線の動きや軽やかさを研究するために、実際の髪の動きをずいぶん観察したのだろう。


やや話が逸れるが、最近よく見かけるようになったMMDの動画作品について、一つ苦言を呈したい。MMDのほぼすべての動画作品に対して言えることだが、髪の動きが美しくない。
しかしあの動きは、おそらく正確な重力計算に基づくものなのだろう。キャラクターの動き、指定したアクションに対して、コンピューターが計算した動きなのだろう。
それでは駄目なのだ。「リアルな動きは実はリアルではない」。計算上正しい描写が正しいわけではない。
例えば、いくつか折り重なった線の羅列を描いていると、何本かの線は必ず歪んだり、弧を描いたりしているように見える。錯覚だ。絵の世界、映像の世界では、この種の錯覚はしばしば起きる。描き手はこの錯覚に気づき、修正を加えつつ、“実は正しくないが、絵としては正しい”線を選んで描きこんでいく。
動きについても同じだ。コンピューターの導き出した“正しい動き”であっても、描き手の意思で修正を加え、完成を目指していかなければならない。それに、無用に暴れ回るツインテールは美しくない。
背景のディティールも、手頃な予算と期間で制作されるテレビアニメーションとは思えないくらいの描き込みである。

空間の奥行き、レンズの焦点。あるいは光の処理だ。


多くの部活ものの学園物語――最近の学園ものは部活の話が中心である――で見られる部室の描写は、もっと簡素なものである。小さな6畳くらいの空間。机がいくつか置かれて、隅にロッカー、それから水場があるだけである。
しかし、地学準備室は必要あるのか、と問いたくなるくらい物で溢れ返っている。扉から見て右手にガラス戸のある大きな棚。棚には移動式の梯子が備え付けられている。棚の中にはビーカーなど、何かの実験に使いそうなものが置かれている。左手には大きな机。しかし、物が一杯置いてあって、とても使用できるものではない。机の裏には中途半端な空間があり、ここに生徒用の机が重ねて敷き詰められている。机の背後の壁には、もう一つ棚がある。
果たしてここまで描く必要があるのか。普通のアニメーションなら、スタッフの負担を軽減させるために、あるいは間に合わせるようにもっと簡素に描くものだ。あそこまで容赦のない密度が常に張り込まれてくる空間、となると、描ききれないスタッフもいるはずだ。それでも敢えて逃げのない挑戦的な映像を作ることに、描き手の意地を感じた。


ここで注目すべきは、テーブルの上に置かれた招き猫だ。いったい何の意味があって置いているのだろう? ともかくも、招き猫と信楽焼は欲しい。

内装も、やけに掲示物が多い。壁という壁に、何かしらの絵画や時計が置かれている。薄いカーテンに隠れて、絵画が掛けられている。やけに多く飾られている時計は、どれも意匠にこだわって描かれ、デジタル処理で与えられた陰影表現が実に美しい。


アーケードの下を歩き、雨をしのいでいる。アーケードの端までくると傘を差し、再びアーケードの下に入り、傘を閉じる。単に傘を差して歩く、だけではなく、ロケーションに合わせた演技が描かれている。
アニメの背景は、ただ書き割りになりやすい。実際の場所で撮影しているわけではないから、俳優がどれだけの距離を歩いて、そこが背景のどの地点なのか、考えるのが難しいし、そこまで入念な背景を作り出すのが困難だからだ。
『氷菓』のこだわりはここでも強烈で、あたかも実際の俳優が実際の場所で演技しているような前提で描かれている。



ただの妄想場面。映像の世界ではありがちな場面だが、『氷菓』で描かれるこの場面は強烈だ。異様な密度、ゆったりしているが妙に圧力のあるメロディ。大きく歪んだレンズワークに、濃厚な色彩、やはり圧倒されるディティール。瞬発的に見る者を異空間に放り込み、何とも言えない居心地の悪さに引き込まれていく。
何気ない場面だから描写の強さが際立つ。ふとテレビアニメであることを忘れる場面だ。
■□■

いかにもミステリといった風情の、論理的な言葉の選び方。ミステリ風のもったいつけた言い回し、と書くべきだろうか。言葉の使い方はミステリである。ミステリには、日常的な言葉や、生活感を示す場面はほとんど登場してこない。あらゆる場面は、ミステリとしてのロジックの中に取り込まれ、何気ない台詞や日常の場面こそ、むしろ事件を解き明かす鍵が隠されている。
しかし『氷菓』が向き合っているのは、組織の陰謀でもなく、殺人事件でもなく、ごくごく日常――日常の中にささやかに差し挟まれている“不思議”である。
『涼宮ハルヒの憂鬱』は日常の物語である。SF作品に分類されているし、実際『涼宮ハルヒの憂鬱』にはSF的な台詞がいくつも登場し、日常世界として描写されているあらゆるものはSFというロジックの中で描かれている。
だが『涼宮ハルヒの憂鬱』は実際には日常の物語だった。侵略者が登場するわけでもないし、宇宙へ旅立つわけでもない。宇宙人未来人

対して、『氷菓』はミステリという文脈・視点で“日常”が再構築された作品である。やや特殊で、むしろ違和感が際立つ。その違和感こそが、『氷菓』をその他のアニメ作品とは違う、特別な個性を持った作品にしているのだ。
それにしても、『氷菓』が描いてみせた日常の空間は圧倒的だ。テレビアニメであることを忘れるくらい、あるいはテレビアニメということを作り手自身が意識していない、徹底したものを感じさせる。ここまで来ると、京都アニメの日常に対するこだわりが、何か特別なもののようにすら感じる。
学園もの、といえば、今はほとんどがコメディだ。同じ学園ものでありながら、いかに学園ものを捉えるか――というテーマとして見ても、なかなか面白い作品だ。

『氷菓』はもっと簡単に描くことができる。背景のディティールを落とし、デジタル処理で作り出す光処理を抑え、キャラクターの線はもっとシステマチックに、誰にでも描きやすい簡素な形にすることだってできたはずである。シリーズアニメという小さなバジェットと、制作期間を考慮すると、そうしたほうが効率がいいし、安全である。
しかし『氷菓』はあえて妥協しなかった作品である。確かにテレビアニメだが、その構図を、キャラクターをどこまで洗練させられるか、あるいはグレードを上げることができるか。
絵画の作りに正面から向き合い、挑戦している作品だ。そのためのあらゆる手間と苦労を惜しまない。純粋に絵描きとして(アニメ作家として)、作品に向き合おうとしている。そんなふうに思える作品だった。
放送終了後の評論
作品データ
監督:武本康弘 原作・構成協力:米澤穂信
キャラクター原案・デザイン・総作画監督:西屋太志 シリーズ構成:賀東招二
色彩設計:石田奈央美 設定:唐田洋 美術監督:奥出修平
撮影監督:中上竜太 編集:重村建吾 音響監督:鶴岡陽太 音楽:田中公平
アニメーション制作:京都アニメーション
出演:中村悠一 佐藤聡美 阪口大助 茅野愛衣 雪野五月
■2012/04/24 (Tue)
シリーズアニメ■

この最初のカットでぶっ飛んだ。
主人公の西見薫の足下で切り捨てられた急な坂道を、学生たちが群れをなしてぞろぞろと登ってきている。朝の登校風景だ。皆それぞれの顔で、憂鬱そうにうつむいたり、ぼんやり視線を投げかけたり、友達を見つけて笑顔で挨拶したり。
そのただ中であり構図の中心で、西見薫は呪いのこもった憂鬱をカメラの正面に向けている。
パースの行方は遙か向こうまで立体的に描かれ、同じ方向を目指して歩いてくる学生たちの1人1人を手抜きなしに描いている。ふとすると“ただのモブキャラ”と切り捨てられそうな群衆を、それぞれ何かしらの表情と演技を付け、何かしらの“背景”を思わせるように描かれている。
坂道はただでさえ作画の難しい題材である。地上の位置が断続的に変化し、そこに立つべき人も建物もそれに合わせて浮き上がったり沈んだりしているように描かねばならず、下手に描くとあっという間に空間の歪んだ気持ち悪い絵になってしまう。うっかりすると、浮世絵的な縦構図の絵でごまかされそうな場面である。
しかし『坂道のアポロン』はこの坂道を絵画としてごまかしのない正攻法で描き、見る者に対し、自信たっぷりに突きつけた。
これは凄いアニメが来たぞ。

西見薫は横須賀から九州の叔父の家に居候することとなった。やってきた場所は長崎。東京とはあまりにも環境が違う。聞き慣れない博多弁。節操のない視線。囁き声とは言えなくらいの遠慮のない声。教室から聞こえてきた声は、転校生への好奇や期待ではなく、余所者に対する侮蔑だ。
転校続きだった西見薫は人と接することが苦手だ。転校直後にありがちな生徒たちの視線を浴びると、途端に気持ち悪くなる。同じことを子供の頃から何度も繰り返した挙げ句、吐く癖がついてしまっていた。
全身にまとわりついてくる不快から逃れる唯一の方法――。自分を取り戻すための場所――。それは屋上へ行くことだった。
しかしそこにいたのは、川渕千太郎。この学校の問題児で、同じクラスメイトからも恐れられる不良少年である。西見薫が駆け上がった屋上で見たものは、3年の不良グループと殴り合いの喧嘩をする千太郎だった。
だが不思議にもこの2人を結びつけるものがあった。音楽である。
西見薫はクラシック。千太郎はジャズ。ジャンルは違えども、同じ音楽趣味として、引きつけるものがあった。

それは見る者にとっても、親しみのない異境である。学園ものの舞台として大阪や広島はまあまああるものの、それ以上に西に踏み込んだ作品は例が少ない。スタジオジブリの『海が聞こえる』は希少な例の一つだろう。聞き慣れない博多弁、都会ものに対する遠慮のない軽蔑。西見薫だけではなく、多くのアニメの視聴者にとっても新鮮であり、強烈に感じるところである。
60年代――昭和40年代という年代にも作品特有の個性を感じさせる。
調べてみると、この頃、SFブームが起き、ビートルズが来日し、ウルトラマンの放映もこの頃だ。少年マガジンでは『巨人の星』の連載が始まり、骨太な不良少年漫画隆盛の時期である。千太郎のような大柄な不良少年も、実際の風景にいたかもしれない。思えばいま権威的ともいえるくらい大きくなった文化の始まりが、おおむねこの時代に集中している。
ひょっとしたらジャズも色んな文化に乗って日本にやってきたかも知れない。若者たちはその音楽の端っこに触れて、夢中になってギターを弾きドラムを叩き下手くそに真似しようとしていた。『坂道のアポロン』そんな時代の空気を追いかけ、描こうとした作品だ。


女学生の着こなしもいかにも古い。長いスカート、男子生徒のものと見た目があまり変わらない飾りっ気のないブラウス(男子生徒の学ランは最近のものと変わりがなく、逆にびっくりさせられる)。
もっと特徴的なのは、現代のセンスからは想像できない千太郎のファッションだろう。破けた学生帽、ワイシャツの下には赤と白の縞々模様のシャツを着込んでいる。今時あんな赤と白の縞々シャツは、あの漫画家の普段着でしかお目にかかることはできない。
学校の風景は、鉄骨とコンクリートを組み合わせただけの不格好な積み木細工のような建築である。机や椅子などは、机や椅子といわず、はっきりいえばただの腰を掛けるだけの木の構造物でしかない。きっとその日の午後には腰がどうにかなっているだろう。今時はもう少し洒落た建築物として学校が描かれるが(それでも我慢ならないくらい美的センスが喪失しているが)、『坂道のアポロン』はあえてその時代にあったであろう古さや、記憶の中に危うく残存している建築の形を再現しようとしている。現在のセンスで、しかし当時の形をある種の理想として追いかけている。


ムカエレコードの地下に作られた狭いスタジオ。そこで景気よくドラムを叩く千太郎。その圧倒的な音感と、作画のエネルギー。
この場面は、モデルとなった演奏者の周囲に無数のカメラを設置し、動きを“一度”に撮影し、それを素材としてアニメーターに引き渡して描き起こしさせたものだ。
ここで監督は、“一発撮影”にこだわった。同じ演奏を、カメラワークを変えてやり直させる、ということをさせなかった。それはジャズのリズムではない。ジャズはその瞬間に込められた勢いで呼吸感そのものだ。だから素材の継ぎ接ぎはさせず、一発撮影に執着した。
アニメーションとして描き起こす際にも、もちろんロトスコープのようななぞり描きというわけにはいかない。まず、実写の演者とアニメのキャラクターのフォルムが違う。アニメーションとし

対する西見薫の反応も秀逸だ。はじめはドラムの音に驚き、耳を塞ぐ。しかし間もなくそのリズムに捕らわれる。いつの間にか塞いでいた耳を放し、引き込まれている。その心情の移り変わりを、模範的なモンタージュの積み重ねで描いているが、その効果は抜群である。西見がじわじわと引き込まれいく過程が、実際にアニメを見ている人の気持ちとなって重なり、西見の心情をリアルに感じさせてくれる。それには動画の圧倒するエネルギーと、一発撮りにこだわったドラムの音の圧力があったからこそだ。
この瞬間だけでも、テレビアニメの歴史に残していいだけの堂々たる名シーンである。

いま学園ものは、題材で描かれる。

キャラクター創作についてもすでに飽和状態で、よほどの場外ホームランを打たない限り、現在進行形で量産されるおびただしいキャラクターたちの中に埋没してしまう。キャラクターのあらゆる系統は提出済みで、そこから新しく何かを提示するのはもはや不可能。「できるものなら、やってみろ」状態だ。
だからこそ、何をモチーフにして学園物語を描くべきか。あるいは主人公に何をさせるべきか。漫画雑誌を手に取ると、そのモチーフの探索に作家も編集者も苦労している様が見えてくる。野球やサッカー、バスケットといったメジャーなスポーツの傑作はすでに積み上げるほど描かれてきた。どう切り口を変えてみても、どこかの誰かがすでに足跡を残している。今の漫画家は、過去の作家が描き散らかして雑草すら残っていない荒野で、新しい何かを描き、結果的に読者に「面白い!」と言わせねばならないのだ。
ある作家は女の子に麻雀をやらせ、ある作家は女の子にギターを持たせ、ある作家は女の子を自転車に乗せ、ある作家は女の子に水泳をさせ……。

だからこそ題材なのである。題材が持っている専門性が否応なくその物語を、あるいはキャラクターをそれ以外の多くの作品と違う道を歩ませる。例えば、麻雀をはじめた人と、ギターをはじめた人とは、向かう結末はまるっきり違うだろう。あるいは、その先に見えてくる風景も違ってくるだろう。登山家と航海士が見る風景が同じはずはない。また専門性が読者に新鮮な知識を与えてくれるはずだ(最終的には、読者にどんな風景を見せられるか、が勝負である。そこで「あの作品とあまり変わらない」と思われたら、もうその作品には価値はない)。
だからいかに題材を描くか、題材を探すか、がいま漫画/アニメにおいて重大なテーマになっているのだ。その題材でいかに多くの人に影響を与えられるか、『坂道のアポロン』を見てジャズに興味を持った、ジャズをやってみようと思わせられるかが、ヒットを切り分けるポイントとなっている。
『坂道のアポロン』が見つけ出したテーマはジャズ。時代は60年代。たった50年前とはいえ、現代とは見える風景もキャラクターのイメージも違う。気合いたっぷりに描いたジャズの演奏シーンも圧巻だ。この組み合わせは、やはり新鮮だ。ファーストインプレッションは文句なしの満点だ。この先に良き展開が、そして良き結末が描かれることに期待しよう。
作品データ
監督:渡辺信一郎 原作:小玉ユキ
脚本:加藤綾子・柿原優子 キャラクターデザイン:結城信輝 総作画監督:山下喜光
美術監督:上原伸一 美術設定:上原成代 色彩設定:鎌田千賀子
編集:廣瀬清志 撮影監督:武原健二 録音監督:はたしょう二 音楽:菅野よう子
アニメーション制作:MAPPA/手塚プロダクション
出演:木村良平 細谷佳正 南里侑香 諏訪部順一
○ 北島善紀 岡本信彦 村瀬歩 佐藤亜美菜
■2011/10/18 (Tue)
シリーズアニメ■
あーーはっはっはっは!
私はイカ娘でゲソッ! 私たちの住処である海を汚す人間どもを侵略し、平和を取り戻すために地上にやってきたでゲソ!
私が来たからには、もういい加減なことは書かせないでゲソ。この変なブログは完全に私のものでゲソ。ここを拠点に、電脳世界は私が制圧するでゲソ!

人間たちの悪しき振る舞いに怒りを覚えた私は、海での平和な生活を捨て地上に這い上がり、最初に目に付いた海の家「れもん」を侵略の拠点にしようと飛び込んだでゲソ。……なのに気付けば「れもん」で働くことになっていたでゲソ。
仕事のない時は栄子たちの家で過ごし、漫画を読んだり、セガのゲームで遊んだりしているでゲソ。たけるや清美は大切な友達でゲソ。千鶴は……普段はいい人だけど、怒ると怖い人でゲソ。早苗は変な女でゲソ。一度早苗の部屋に監禁され、変な服を着せられ、恥ずかしい写真を一杯撮られたでゲソ。早苗は危険人物だから仲良くなりたくないでゲソ。シンディーは宇宙人の研究でなぜか日本の海水浴場に居座っている変な女でゲソ。
私の周りにはこんな変なやつらばっかりだけど、私は負けないでゲソ。いつか人類を支配し、もとの美しい海を取り戻すでゲソ!


2010年に私の目覚しい活動の記録がテレビ放送されて以来、あらゆる作品やメディアに進出しているでゲソ。
まずは人間界の学問の中心地である早稲田大学の学園祭を2度も侵略。池袋のナンジャタウンでは私をモチーフにしたメニューが作られているでゲソ。オンラインゲーム「トリックスター」でも私の侵略拠点が出現。「とある魔術の禁書目録」のイン……なんだったでゲソ? とにかく侵略してきたでゲソ。今ではカーペイントで私を取り上げるのは常識! スタジオジブリの宮崎駿も「イカ娘」をお気に入り作品に挙げているでゲソ!(←これは本当でゲソか?) 私の口癖「~ゲソ」はネット流行語大賞銅賞を受賞しているでゲソ。 私の勢力は着実に人間世界に広まっていっているでゲソ。このまま突き進めば、世界侵略もきっと夢では終わらないでゲソ!


エンディングテロップを見てもわかるように、スタッフ構成も少人数。1つのエピソードに対して原画はたったの5人。第2原画を加えても10人を越えないでゲソ。もしかすると、漫画の制作人数を同じくらいの少なさでゲソ。
シンプルな映像構成でキャラクターが中心にクローズアップされるから、自然とキャラクターの動画と、その精度の高さのみに意識が集中できるでゲソ。もしかしたら、最近のアニメ作品において、もっとも経済効率のいい作品ともいえるでゲソ。


永遠に夏の陽気さが続く作品……それが『イカ娘』でゲソ!
もしも私が「れもん」から去ると……どうやら季節が動き出すらしいでゲソ。なんででゲソか?

……って、私に中の人はいないでゲソー!
世界侵略への道は遠く険しく、果てしないでゲソ。この先、どんな障害が私の前に待ち受けているのか……。
今までも多くの苦難を乗り越えてきたでゲソ。MITの手先と戦ったり、早苗のおぞまし罠にはめられたり、たけるの小学校を侵略したり……。世界侵略達成への道はまだ半ば。始まったばかりでゲソ!
いつか、かつてのような海の美しさを取り戻すために……私は人間世界を侵略し続けるでゲソ!
イカ娘さん、代筆ありがとうございました……主より
作品データ
総監督:水島努 監督:山本靖貴 原作:安部真弘
シリーズ構成:横手美智子 キャラクターデザイン・総作画監督:石川雅一
色彩設計:坂本いづみ 美術監督:舘藤健一 撮影監督:濵 雄紀
音楽:菊谷知樹 音響監督:若林和弘
アニメーション制作:ディオメディア
出演:金本寿子 藤村歩 田中理恵 大谷美貴
○ 伊藤かな恵 中村悠一 片岡あづさ 生天目仁美
○ 菊池こころ 佐々木雄二 勝杏里
■2011/04/12 (Tue)
シリーズアニメ■
ある穏やかな春の朝のことだった。空には雲ひとつないすっきりした青空が広がっている。風が暖かくて、冬の寒さはもう遠くに去ってしまったように思われた。
でも長野原みおの気分は沈みがちで、自分の胸を押さえつつ何度もため息をこぼしていた。
そんなみおの後ろ姿を見つけて、相生裕子――ゆっこが駆け寄る。
ゆっこは手を軽くあげて、元気に声をかけた。
みおは憂鬱そうな顔をしていたけど、ゆっこの顔を見つけて少し明るい顔を浮かべた。
「ああ、ゆっこ。おはよう」
――あれ? スラマッパギ素通り?
拳を思い切り振り上げたのに、みっともなく空振りしたような気分で、それでもゆっこはできるだけ気持ちを引きずらずにみおの右隣に並んで歩き始めた。
「どうしよう。学生証付け忘れて来たよ」
みおが再び左胸を気になるように押さえはじめた。
ゆっこはさっきの気まずさなど早々に忘れて、元気な声で提案した。
「なんの解決にもなってないじゃん」
軽く非難するように、みおが不満な声を上げる。
「なに? 雷? 晴れてるのに」
みおが足を止めて、顔を緊張でこわばらせていた。
ゆっこも足を止めた。でもからかう調子で軽く、
「いきなり降ってくるかもよ。夕立とか、雹とか……」
衝撃的だった。重いショックが頭の上に落ち、痛みが首を通して全身に凄まじい速度で駆け巡っていく。
しかしそれは、ゆっこの頭にぶつかったおかげで勢いをなくし、カランカランと軽い音を立てながら足元に転がった。
こけしだった。
ゆっこは愕然と呟いた。
「大丈夫、ゆっこ?」
「うう、まさかのこけしだよ」
痛みとショックで、ゆっこは今にも泣き出しそうな声を漏らした。
「びっくりした。どっから落ちてきたんだろう」
みおがしゃがみこんで、不思議そうにこけしを拾う。
「わかんないよ~」
とゆっこは泣き出しそうな声で訴えるけど、すぐに気分を改めて笑顔を浮かべた。
「でも、人生の中でこけしに当たるなんてなかなかないからね。滅多にないでしょ、そんな人」
ゆっこは元気に喋りながら歩き始める。
「まずいないよ」
み
「逆についているかも……」
ズゴッ
強烈だった。でもそれは、やはりゆっこの頭にぶつかったおかげで勢いをなくし、カランカランと軽い音を立てながらゆっこの足元に転がった。
赤べこだった。
ゆっこは愕然と膝を着き、アスファルトの地面をつかんでうなだれた。
絶望がひしひしと伝わってくる暗い声だった。
「ゆっこ大丈夫?」
みおが片膝を着いて、うなだれるゆっこを覗き込もうとする。
「まさかの赤べこだよ……」
それでもゆっこは、気丈にも立ち上がり、再び歩きはじめた。みおは地面に落ちている赤べこを拾い、ゆっこと並んで歩く。
「違う。ついてないんじゃない」
「こう考えればいいんだよ、みおちゃん。当たったものが生ものじゃなくて良かったって。そう考えれば不幸中の幸いって……」
ぺしょ。
一瞬、世界が色を失くしたように思えた。
痛くはなかった。痛くはなかったけど、それは物凄
ゆっこは茫然とした気分のまま、自分の頭の上に手を伸ばし、それを掴んで目の前まで持ってきた。
「……シャケだー!」
ゆっこは意味もわからず、叫んでいた。
『日常』その表題が示すように、この物語には血肉が踊りそうな冒険もなければ遠大な思想もなく、ビビッドな感情が交差しそうな恋物語もない。ただただ『日常』の一コマ一コマがそこにあるだけだ。
そんな気の抜けそうな作品にも関わらず、京都アニメーションは意味のわからないところで無駄な感性の高さと技術の強さをこれでもかと映像の中に注ぎ込み、『日常』の物語を見逃すべきではない一つの映像作品へと昇華させている。

なんともいえず、素敵な作品である。この一瞬だけで、アニメ『日常』を特別な作品として注目すべきものに仕上げてしまっている。
対象を中心に捉えながら周囲が動いているのは、対象をカメラの中心にぴったりと固定しつつ、カメラをPANさせている状態を想定しているためである。こうすると、画面はフィックス状態で静止しているように見えるのに、周囲の風景が移動しているような映像が作れる。アクションの最中での台詞など、そのシーンが持っている移動感を殺さずフィックスの画面を作りたい時などに利用できる技法である。

映像としては一瞬だが、凄まじいディティールで描かれている。アニメで爆発を描く場合は、ロングで爆発の泡が広がっていく様子を描き、その大きさで威力の強弱を表現するというやり方がセオリーである。ここまでカメラを低く設置し、爆発の威力を有り体に描写するケースは珍しいし、確実にその効果を上げている。
左のカットは爆発の衝撃が真っ白な津波のような表現でカメラ正面に飛びついてくるように描かれている。はっとするような瞬間を描いているが、その周囲を飛び交うのは場違いに思える奇妙な物体ばかりで、爆発の恐ろしさはどこにもなく、衝撃をむしろシュールな笑いに変えている。


わずか数分だが、あらゆる作画技術が惜しみなく投入された
ラフに描かれた線は、形さえ繋がっていれば正確に中割りする必要はないし、そもそも原理的に中割り不可能である。だが、時々ラフに放り出された線の一つ一つをコンピューター並みの精密さで中割りしてしまう神業の持ち主が現れる。あまりに正確すぎる動画ができあがってしまうと、残念だがリテイクの原因となって返ってきてしまうので注意したい。



見る側には大変さのほとんどは伝わらないが、それでも作り手は決して表現に手を抜いてはならない。作り手の苦労なんて1%くらいしか伝わらず、その一方で見る側の好みに合わないと「手抜きだ!手抜きだ!」の理不尽な大合唱が始まる――それがアニメ制作の宿命なのである。
我々にとっては超現時的な異空間だが、しかし不安に思うことない。登場人物たちにとってはあの日々は、飽くまでも「日
その一方で、『日常』の映像は素晴らしい力強さで描写される瞬間がある。第1話においてはゆっこがタコさんウインナーを手に入れるために格闘を繰り広げるあの瞬間である(第2話ではノートを巡る走り)。作り手はあのほんの数分のために不条理とも思える技術と労力を投
圧倒するような技術をほんの一瞬の笑いのために。その制作上の“理不尽”こそが、『日常』という作品に内包された“理不尽”な笑いを効果的に盛り上げている。
が、そのメッセージは見る側にはまるで伝わらず、「手抜きアニメ」の非難を浴び、興行成績はそれまでジブリが経験したことのない勢いで大敗(実は『となりのトトロ』よりは稼いでいるが、『もののけ姫』との落差が凄まじかった)。監督の高畑勲はその後、10数年にわたりアニメ監督をやるチャンスを
だが、実は『となりの山田くん』は当時最先端だったデジタル技術を投入して制作された作品だった。それまで困難だった曖昧な線を取り込む技術を開発し、やわらかな絵として仕上げるための手法を考案し、その果てにようやく完成した映像だったのだ。制作費はその2年前に公開された超大作『も
あれから12年の時が流れた。『日常』はふとすると、「手抜き」と蹴り落とされそうな作品である。それも、線の密度こそ
ざっくりと省略された線、奥行きを切り落としたパースティクティブ、単純化した平面的な演劇、記号的な書割のような背景、そしてあまり可愛くないキャラクター(『ハルヒ』や『らき☆すた』と比べて)――。しかしそれは、充分に発達した技術的な裏打
思えば『となりの山田くん』は真面目すぎたのかもしれない。映画館という場所は、日本人にとって厳粛な場所である。映
その一方、『日常』はシュールなギャグやニコニコ動画といった場所が作品の味方をするかも知れない。笑いは見る側の
果たして『日常』はどのように受け入れられていくのだろう。すべての作品が黒字になればいい。それは作り手を含めた全てのアニメユーザーの願いである。『日常』が作り手から解き放たれた時、見る側・受け手はどのような印象を抱き、作品はどのように変貌していくのか。おそらく『日常』は、通常の作品のようにその作品だけで独立し自己完結せず、作り手だけではなく多くの受け手側の意識や印象や時に意識的な改変に作られた膨大な二次創作の全てを内包し、ようやく一つの作品として完結するだろう。その最終的な局面において、『日常』がどのような姿を見せるのか。きっと作り手の想像もしない方向へ飛躍した作品になっているだろう。しかしそんなシュールな状況すらも、『日常』という作品の内包する一つの感性として受け入れられ、語られていくだろう。
この作品は深夜放送であり、ニコニコ動画で配信される作品である。『日常』に限らず、多くのアニメーションがニコニコ動画に集まってきている。『花咲くいろは』(←私の住んでいる地域ではテレビ放送しないらしい)『シュタインズ・ゲート』『そふてにっ』『30歳の保健体育』そしてまだ完了していない『魔法少女まどか☆マギカ』。
ニコニコ動画では主力コンテンツとして注目を浴びる一方、テレビ放送ではテレビ欄の隅っこのほうで省略して書かれる深夜放送である。これはもはや、テレビの敗北と言うべきだろう。
例えば『けいおん!』はゴールデンタイムで放送すれば、テレビ局は最近経験したことのない数値の視聴率と、莫大な広告費を得ただろう。しかしテレビはそのチャンスをものの見事に逃してしまった。特に『けいおん!』は、第1期の成功の1年後、第2期の放送があったのにも関わらずにだ。テレビはいまだに『冬のソナタ』の成功体験を忘れられず(言うほど成功していないと思うのだが)、新しい韓国俳優を発掘し、大々的に韓国ドラマの放送を宣伝すれば全ての視聴者の関心を取り戻せると信じている。まるで宗教だ。
しかしテレビの仕事に従事しているほとんどの人たちは、自分たちが大きなチャンスを取り逃していることに気付いていないだろう。アニメという文化そのものを、何か特殊で異常な性癖を持った人たちによるいびつな何かに貶め、大衆的な場面から深夜という隅っこに追いやってしまった。それでいて、自分たちこそが大衆文化の中心で、日本中の関心がテレビに釘付けできるという――いや釘付けにできていると信じている。おそらく彼らの脳内で、厳しい鎖国制度ができあがり、周囲に関心が向けられないのだろう。自分たちの領域からさほど遠くないコミュニティで、どんな変化が起き、新しい社会性が作られているのか。テレビはその全てを知らず、いや何かしらの変化を察知しているからこそ大慌てでレッテル張りをしてアニメを深夜に追い込み、「良心は自分たち」であり、彼らは「異端」であるという印象をより多くの人たちの共通意識にしようとしている。
だからテレビはチャンスを失い、ニコニコ動画がチャンスを得た。もっとも魅力的なコンテンツはテレビからインターネットに移された。まだアニメのいくつかは深夜枠を借りているが、間借りしているだけに過ぎない。遠からず、アニメはテレビを捨てるだろう。アニメユーザーはすでにテレビへの興味をほとんど失っている。もはやアニメユーザーがテレビを捨てるが先か、アニメ業界がテレビを捨てるが先か、といったところまで来ている。
いっそテレビはこのまま鎖国してくれればいい。テレビはとっくに妄言と狂信を振りまくだけの場所になっている(テレビは常に「ネットは嘘ばかりで信用ができない」と喧伝するが、テレビのほうがよっぽど信用できない。テレビは嘘を吐き散らかす病的な媒体になりつつある)。鎖国して永久にこちらの存在を認知せず、テレビがお気に入りの芸能人のスキャンダルだけを追い回してさえいればいい。そして自分たちが“今も”大衆文化の中心だ、という夢を見続けていつのまにか消えてなくなる。テレビにはそれがお似合いだろう。
「日常」 公式ホームページ
作品データ
監督:石原立也 原作・構成協力:あらゐけいいち
副監督:石立太一 シリーズ構成:花田十輝 キャラクターデザイン・総作画監督:西屋太志
色彩設計:宮田佳奈 設定:高橋博行 編集:重村建吾(楽音舎)
美術監督:鵜ノ口穣二 撮影監督:高尾一也 音響監督:鶴岡陽太(楽音舎)
音楽:野見祐二 音楽プロデューサー:斎藤滋(ランティス)
音響制作:楽音舎 音楽制作:ランティス プロデューサー:伊藤敦・八田英明
アニメーション制作:京都アニメーション
出演:本多真梨子 相沢舞 富樫美鈴 今野宏美 古谷静佳
○ 白石稔 堀川千華 川原慶久 山本和臣 平松広和
○ 小林元子 吉崎亮太 廣坂愛 比上孝浩 玉置陽子
○ 樋口結美 佐土原かおり 山口浩太 小菅真美 稲田徹
○ 水原薫 チョー 中博史 皆口裕子