■ 最新記事
(08/15)
(08/14)
(08/13)
(08/12)
(08/11)
(08/10)
(08/09)
(08/08)
(08/07)
(08/06)
■ カテゴリー
お探し記事は【記事一覧 索引】が便利です。
■2011/04/12 (Tue)
シリーズアニメ■
ある穏やかな春の朝のことだった。空には雲ひとつないすっきりした青空が広がっている。風が暖かくて、冬の寒さはもう遠くに去ってしまったように思われた。
でも長野原みおの気分は沈みがちで、自分の胸を押さえつつ何度もため息をこぼしていた。
そんなみおの後ろ姿を見つけて、相生裕子――ゆっこが駆け寄る。
ゆっこは手を軽くあげて、元気に声をかけた。
みおは憂鬱そうな顔をしていたけど、ゆっこの顔を見つけて少し明るい顔を浮かべた。
「ああ、ゆっこ。おはよう」
――あれ? スラマッパギ素通り?
拳を思い切り振り上げたのに、みっともなく空振りしたような気分で、それでもゆっこはできるだけ気持ちを引きずらずにみおの右隣に並んで歩き始めた。
「どうしよう。学生証付け忘れて来たよ」
みおが再び左胸を気になるように押さえはじめた。
ゆっこはさっきの気まずさなど早々に忘れて、元気な声で提案した。
「なんの解決にもなってないじゃん」
軽く非難するように、みおが不満な声を上げる。
「なに? 雷? 晴れてるのに」
みおが足を止めて、顔を緊張でこわばらせていた。
ゆっこも足を止めた。でもからかう調子で軽く、
「いきなり降ってくるかもよ。夕立とか、雹とか……」
衝撃的だった。重いショックが頭の上に落ち、痛みが首を通して全身に凄まじい速度で駆け巡っていく。
しかしそれは、ゆっこの頭にぶつかったおかげで勢いをなくし、カランカランと軽い音を立てながら足元に転がった。
こけしだった。
ゆっこは愕然と呟いた。
「大丈夫、ゆっこ?」
「うう、まさかのこけしだよ」
痛みとショックで、ゆっこは今にも泣き出しそうな声を漏らした。
「びっくりした。どっから落ちてきたんだろう」
みおがしゃがみこんで、不思議そうにこけしを拾う。
「わかんないよ~」
とゆっこは泣き出しそうな声で訴えるけど、すぐに気分を改めて笑顔を浮かべた。
「でも、人生の中でこけしに当たるなんてなかなかないからね。滅多にないでしょ、そんな人」
ゆっこは元気に喋りながら歩き始める。
「まずいないよ」
み
「逆についているかも……」
ズゴッ
強烈だった。でもそれは、やはりゆっこの頭にぶつかったおかげで勢いをなくし、カランカランと軽い音を立てながらゆっこの足元に転がった。
赤べこだった。
ゆっこは愕然と膝を着き、アスファルトの地面をつかんでうなだれた。
絶望がひしひしと伝わってくる暗い声だった。
「ゆっこ大丈夫?」
みおが片膝を着いて、うなだれるゆっこを覗き込もうとする。
「まさかの赤べこだよ……」
それでもゆっこは、気丈にも立ち上がり、再び歩きはじめた。みおは地面に落ちている赤べこを拾い、ゆっこと並んで歩く。
「違う。ついてないんじゃない」
「こう考えればいいんだよ、みおちゃん。当たったものが生ものじゃなくて良かったって。そう考えれば不幸中の幸いって……」
ぺしょ。
一瞬、世界が色を失くしたように思えた。
痛くはなかった。痛くはなかったけど、それは物凄
ゆっこは茫然とした気分のまま、自分の頭の上に手を伸ばし、それを掴んで目の前まで持ってきた。
「……シャケだー!」
ゆっこは意味もわからず、叫んでいた。
『日常』その表題が示すように、この物語には血肉が踊りそうな冒険もなければ遠大な思想もなく、ビビッドな感情が交差しそうな恋物語もない。ただただ『日常』の一コマ一コマがそこにあるだけだ。
そんな気の抜けそうな作品にも関わらず、京都アニメーションは意味のわからないところで無駄な感性の高さと技術の強さをこれでもかと映像の中に注ぎ込み、『日常』の物語を見逃すべきではない一つの映像作品へと昇華させている。

なんともいえず、素敵な作品である。この一瞬だけで、アニメ『日常』を特別な作品として注目すべきものに仕上げてしまっている。
対象を中心に捉えながら周囲が動いているのは、対象をカメラの中心にぴったりと固定しつつ、カメラをPANさせている状態を想定しているためである。こうすると、画面はフィックス状態で静止しているように見えるのに、周囲の風景が移動しているような映像が作れる。アクションの最中での台詞など、そのシーンが持っている移動感を殺さずフィックスの画面を作りたい時などに利用できる技法である。

映像としては一瞬だが、凄まじいディティールで描かれている。アニメで爆発を描く場合は、ロングで爆発の泡が広がっていく様子を描き、その大きさで威力の強弱を表現するというやり方がセオリーである。ここまでカメラを低く設置し、爆発の威力を有り体に描写するケースは珍しいし、確実にその効果を上げている。
左のカットは爆発の衝撃が真っ白な津波のような表現でカメラ正面に飛びついてくるように描かれている。はっとするような瞬間を描いているが、その周囲を飛び交うのは場違いに思える奇妙な物体ばかりで、爆発の恐ろしさはどこにもなく、衝撃をむしろシュールな笑いに変えている。


わずか数分だが、あらゆる作画技術が惜しみなく投入された
ラフに描かれた線は、形さえ繋がっていれば正確に中割りする必要はないし、そもそも原理的に中割り不可能である。だが、時々ラフに放り出された線の一つ一つをコンピューター並みの精密さで中割りしてしまう神業の持ち主が現れる。あまりに正確すぎる動画ができあがってしまうと、残念だがリテイクの原因となって返ってきてしまうので注意したい。



見る側には大変さのほとんどは伝わらないが、それでも作り手は決して表現に手を抜いてはならない。作り手の苦労なんて1%くらいしか伝わらず、その一方で見る側の好みに合わないと「手抜きだ!手抜きだ!」の理不尽な大合唱が始まる――それがアニメ制作の宿命なのである。
我々にとっては超現時的な異空間だが、しかし不安に思うことない。登場人物たちにとってはあの日々は、飽くまでも「日
その一方で、『日常』の映像は素晴らしい力強さで描写される瞬間がある。第1話においてはゆっこがタコさんウインナーを手に入れるために格闘を繰り広げるあの瞬間である(第2話ではノートを巡る走り)。作り手はあのほんの数分のために不条理とも思える技術と労力を投
圧倒するような技術をほんの一瞬の笑いのために。その制作上の“理不尽”こそが、『日常』という作品に内包された“理不尽”な笑いを効果的に盛り上げている。
が、そのメッセージは見る側にはまるで伝わらず、「手抜きアニメ」の非難を浴び、興行成績はそれまでジブリが経験したことのない勢いで大敗(実は『となりのトトロ』よりは稼いでいるが、『もののけ姫』との落差が凄まじかった)。監督の高畑勲はその後、10数年にわたりアニメ監督をやるチャンスを
だが、実は『となりの山田くん』は当時最先端だったデジタル技術を投入して制作された作品だった。それまで困難だった曖昧な線を取り込む技術を開発し、やわらかな絵として仕上げるための手法を考案し、その果てにようやく完成した映像だったのだ。制作費はその2年前に公開された超大作『も
あれから12年の時が流れた。『日常』はふとすると、「手抜き」と蹴り落とされそうな作品である。それも、線の密度こそ
ざっくりと省略された線、奥行きを切り落としたパースティクティブ、単純化した平面的な演劇、記号的な書割のような背景、そしてあまり可愛くないキャラクター(『ハルヒ』や『らき☆すた』と比べて)――。しかしそれは、充分に発達した技術的な裏打
思えば『となりの山田くん』は真面目すぎたのかもしれない。映画館という場所は、日本人にとって厳粛な場所である。映
その一方、『日常』はシュールなギャグやニコニコ動画といった場所が作品の味方をするかも知れない。笑いは見る側の
果たして『日常』はどのように受け入れられていくのだろう。すべての作品が黒字になればいい。それは作り手を含めた全てのアニメユーザーの願いである。『日常』が作り手から解き放たれた時、見る側・受け手はどのような印象を抱き、作品はどのように変貌していくのか。おそらく『日常』は、通常の作品のようにその作品だけで独立し自己完結せず、作り手だけではなく多くの受け手側の意識や印象や時に意識的な改変に作られた膨大な二次創作の全てを内包し、ようやく一つの作品として完結するだろう。その最終的な局面において、『日常』がどのような姿を見せるのか。きっと作り手の想像もしない方向へ飛躍した作品になっているだろう。しかしそんなシュールな状況すらも、『日常』という作品の内包する一つの感性として受け入れられ、語られていくだろう。
この作品は深夜放送であり、ニコニコ動画で配信される作品である。『日常』に限らず、多くのアニメーションがニコニコ動画に集まってきている。『花咲くいろは』(←私の住んでいる地域ではテレビ放送しないらしい)『シュタインズ・ゲート』『そふてにっ』『30歳の保健体育』そしてまだ完了していない『魔法少女まどか☆マギカ』。
ニコニコ動画では主力コンテンツとして注目を浴びる一方、テレビ放送ではテレビ欄の隅っこのほうで省略して書かれる深夜放送である。これはもはや、テレビの敗北と言うべきだろう。
例えば『けいおん!』はゴールデンタイムで放送すれば、テレビ局は最近経験したことのない数値の視聴率と、莫大な広告費を得ただろう。しかしテレビはそのチャンスをものの見事に逃してしまった。特に『けいおん!』は、第1期の成功の1年後、第2期の放送があったのにも関わらずにだ。テレビはいまだに『冬のソナタ』の成功体験を忘れられず(言うほど成功していないと思うのだが)、新しい韓国俳優を発掘し、大々的に韓国ドラマの放送を宣伝すれば全ての視聴者の関心を取り戻せると信じている。まるで宗教だ。
しかしテレビの仕事に従事しているほとんどの人たちは、自分たちが大きなチャンスを取り逃していることに気付いていないだろう。アニメという文化そのものを、何か特殊で異常な性癖を持った人たちによるいびつな何かに貶め、大衆的な場面から深夜という隅っこに追いやってしまった。それでいて、自分たちこそが大衆文化の中心で、日本中の関心がテレビに釘付けできるという――いや釘付けにできていると信じている。おそらく彼らの脳内で、厳しい鎖国制度ができあがり、周囲に関心が向けられないのだろう。自分たちの領域からさほど遠くないコミュニティで、どんな変化が起き、新しい社会性が作られているのか。テレビはその全てを知らず、いや何かしらの変化を察知しているからこそ大慌てでレッテル張りをしてアニメを深夜に追い込み、「良心は自分たち」であり、彼らは「異端」であるという印象をより多くの人たちの共通意識にしようとしている。
だからテレビはチャンスを失い、ニコニコ動画がチャンスを得た。もっとも魅力的なコンテンツはテレビからインターネットに移された。まだアニメのいくつかは深夜枠を借りているが、間借りしているだけに過ぎない。遠からず、アニメはテレビを捨てるだろう。アニメユーザーはすでにテレビへの興味をほとんど失っている。もはやアニメユーザーがテレビを捨てるが先か、アニメ業界がテレビを捨てるが先か、といったところまで来ている。
いっそテレビはこのまま鎖国してくれればいい。テレビはとっくに妄言と狂信を振りまくだけの場所になっている(テレビは常に「ネットは嘘ばかりで信用ができない」と喧伝するが、テレビのほうがよっぽど信用できない。テレビは嘘を吐き散らかす病的な媒体になりつつある)。鎖国して永久にこちらの存在を認知せず、テレビがお気に入りの芸能人のスキャンダルだけを追い回してさえいればいい。そして自分たちが“今も”大衆文化の中心だ、という夢を見続けていつのまにか消えてなくなる。テレビにはそれがお似合いだろう。
「日常」 公式ホームページ
作品データ
監督:石原立也 原作・構成協力:あらゐけいいち
副監督:石立太一 シリーズ構成:花田十輝 キャラクターデザイン・総作画監督:西屋太志
色彩設計:宮田佳奈 設定:高橋博行 編集:重村建吾(楽音舎)
美術監督:鵜ノ口穣二 撮影監督:高尾一也 音響監督:鶴岡陽太(楽音舎)
音楽:野見祐二 音楽プロデューサー:斎藤滋(ランティス)
音響制作:楽音舎 音楽制作:ランティス プロデューサー:伊藤敦・八田英明
アニメーション制作:京都アニメーション
出演:本多真梨子 相沢舞 富樫美鈴 今野宏美 古谷静佳
○ 白石稔 堀川千華 川原慶久 山本和臣 平松広和
○ 小林元子 吉崎亮太 廣坂愛 比上孝浩 玉置陽子
○ 樋口結美 佐土原かおり 山口浩太 小菅真美 稲田徹
○ 水原薫 チョー 中博史 皆口裕子
PR