■ 最新記事
(08/15)
(08/14)
(08/13)
(08/12)
(08/11)
(08/10)
(08/09)
(08/08)
(08/07)
(08/06)
■ カテゴリー
お探し記事は【記事一覧 索引】が便利です。
■2011/03/08 (Tue)
ゲーム■
2月の半ばに入った頃だった。私もネット予約に敗北し、発売日にニンテンドー3DSを手に入れるのは無理か、と諦めていたのだが、ふと何気なく近所のゲームショップに出かけると「ニンテンドー3DS予約受付中」の張り紙があった。さっそく店に入り、店員に聞いてみる。
「ニンテンドー3DSの予約受付まだやっていますか?」
「ええ、まだやっていますよ」
「発売日に手に入りますか」
「予約されたら確実に手に入ります」
というわけで、何の苦労もなく発売日にニンテンドー3DSを手に入れた。ネットが駄目ならば、リアル店舗を訪ねてみるべきかもしれない。どうしても手に入らない、と思っていた貴重な品も、案外簡単に手に入るかもしれない(予約なしでも買えたらしい)。転売屋に天誅!
発売日に同時購入したロンチタイトルは次の3本。
『Nintendogs+cats&Newフレンズ』
『スーパーストリートファイター4 3D』
『リッジレーサー3D』
本当なら、一つ一つのソフトを取り上げて詳しく記事を書きたいところだが、一本一本をしっかりプレイする時間もなく、記事にする時間もないので、短く要約して書きたい。
『ARゲームズ』
本機にあらかじめプリセットされたゲームの中でも期待していた作品。「マトあて」「タマつき」「つり」「らくがき」「キャラさつえい」「Miiさつえい」の6種類のゲームが遊べる。「マトあて」「タマつき」は回り込んだり覗き込んだり、携帯ゲームなのに全身を使ったアクティブな遊びが極めて新鮮。ゲームとしては難易度が低く、ショートゲームといった感じなので、やりこむ深度は浅い。
「キャラさつえい」は有名な任天堂キャラクターを現実空間の中に出現させ、3Dカメラによる撮影ができる。おそらくこれは、新しいカードやデータの更新などで、様々なキャラクターを登場させられるのではないかと思う。アニメキャラクターなども登場させられるはずなので、キャラクタービジネスにとって新しいチャンスだろう。とりあえず、『ラププラス3D』はこのARカードを利用した何かをやってくれるはずだ。
『顔シューティング』
こちらも本機にあらかじめプリセットされているゲーム。顔写真を取り込み、それをゲーム中の敵にして遊ぶゲームである(ちゃんと目と口を認識するので、笑ったり怒ったりといった表情を作ったりする)。このゲームはジャイロセンサーが利用され、プレイヤーは立ちあがって360度、上や下に本機を向けて敵を探し、撃破していかなければならない。周りに何もない場所を探してプレイすることをお勧めする。難易度は決して高くないものの、ちゃんと攻略法を考えないとクリアできないようになっており(ミニゲームだが、ここはさすが任天堂)、それにかなり運動になる。連続で3ステージほど遊んだが、それだけでも息が上がってしまった。ちょっとしたダイエットになりそうなゲームである。新しい顔写真を取り込めば次のステージに進めるというルールなので、さっそく家族全員の顔写真を撮らせてもらった。ちなみに、撮影対象は別に人間である必要はないらしい。
こちらはなかなか楽しいゲームで、しばし夢中になってプレイした。
余談だが、バイオハザードシリーズは絶対にこのジャイロセンサーを採用するに違いない、と思っていたが予想が外れてしまった。ニンテンドー3DS本機を前後左右に動かし、ゾンビがどこから迫ってくるかわからない、というゲームだったら面白いと思っていたのだが。
『Nintendogs+cats&Newフレンズ』
想像以上にふわふわである。3D表示にすると、子犬の顔の凹凸もはっきりと識別できるくらいちゃんと立体に見える。ただし、子犬の3Dモデリングの完成度に比べて、部屋内部のディティールはあっさりしている。
Nintendogs+cats&Newフレンズは一日のうちにできる内容が限定されており、長時間遊べば遊ぶほど何か得になるゲームではない。毎日少しずつ、まったりと子犬と仔猫との一時を楽しむゲームである。
たぶんヘビーユーザーには向かないゲームだと思うが、忙しい合間にちょっと遊びたい人、あるいはふわふわした子犬や仔猫と遊びたい人にはお勧めだ。ちなみにゲームをはじめて最初は子犬しか選択できず、仔猫を得るのは数日間のゲームプレイが必要だ(長時間プレイしても、ゲームがある程度以上進行し過ぎないように設計されてる)。
ところで個人的な話だが、現在私は仕事が忙しく、ゲームで遊ぶ時間がなかなか取れない。『Nintendogs+cats&Newフレンズ』を数日間放置し、久しぶりにプレイしたら、喉はカラカラ、お腹がすいてやせ細った愛犬の姿が……。妙なところでリアルなゲームである。毎日少しずつでも様子を見なくてはならないようだ(時間がないのに、いったいどうしろと……)。
『スーパーストリートファイター4 3D』
私が格闘ゲームをプレイするのは『ストゼロ』以来である。久しぶりに格闘ゲームを手にしたわけだが――波動拳が出せなくなっていた。昇竜拳などはたまにまぐれで出る程度。まず波動拳の練習からはじめなければならず、アーケードモードもいまだ最弱難易度から抜け出せない。例によって、親指の腹を真っ赤に腫らせているところだ。
というわけで、当然、他機種版の『ストリートファイター4』をプレイしておらず、比較記事などは書けるわけないので、ここではなくヘビーユーザーによる記事を参考にするべきだろう(対戦相手になってくれる人もいないし)。
プレイ動画などで見かけたものより、背景のディティールが減少したように見える(これについては後述する)
『リッジレーサー3D』
リッジレーサーシリーズをプレイするのは、多分『リッジレーサー2』以来。というわけで、こちらもシリーズを統括した詳しい記事を書くことはできない。ヘビーユーザーの記事を参考したほうがいいだろう。ゲーム自体は非常に楽しく、グランプリモードのEVENT2以降は3Dを意識した高低差の極端に激しいコースが中心となり、アトラクション的な楽しみが加わってくる。ただ、ややポリ欠けの多さが気になるところだ。
ゲーム批評ではないが、リッジレーサーを遊ぶ際には視点変更し、主観視点にすることをお勧めする。あの臨場感は2Dゲーム機では絶対に体験できない。3Dゲーム機ならではの特権だ。
某ネット記事(ニコニコニュース:レースゲームの醍醐味が3Dによって昇華された!『リッジレーサー3D』インプレッション)に、「コーナーをドリフトする瞬間、振動演出が加わり、3D効果が薄れる」と書かれていたが、これは多分、ニンテンドー3DS本機を左右に傾けてしまったたためだろう。ゲームプレイ中、緊張してボタンを押しているとゲーム機を左右に傾けてしまうことがよくある。確かにゲームプレイ中、ついつい左右に傾けてしまう瞬間はあるものの、落ち着いてまっすぐに構えてゲームプレイすれば「ドリフトの瞬間に3D効果が薄れる」ということはまずない。ちなみに「振動演出」は多分、ニトロエンジンのことだろう。プレイし始めて最初の頃、カーブを曲がるときにL・Rボタンを押してしまうのだ。後で少し触れるが、ニンテンドー3DSの3D表現は、左右方向からの視角に極端に弱いという弱点を持っている。
ちなみに今回購入した3本の中で、『リッジレーサー3D』が一番のお気に入りだ。「映像が美しくない」という不評が多く(美しくないのは事実だし、3Dによる立体感もいまいち)、確かにポリ欠けなど引っかかるところは多いものの、実際に3本通してプレイしてみると『リッジレーサー』が一番面白かった。
「ゲームは3Dを獲得することで、確実にその性質を変化させる」と私は考えている。ゲームはポリゴン技術を獲得したことによって、ゲーム中世界を立体的に表現することを可能とし、さらにゲーム機自体の表現能力の向上、あるいは作家の表現手法・方法の進歩によって、より複雑で濃密な別世界へと直裁的にプレイヤーを引き込む力を得た。ポリゴンを得ることによって、それまで平面状の座標軸を操作させるだけのゲームから、作家が意図した完全な別世界の中をキャラクターが自由に走り、戦い、空を飛ぶスペースへとゲームを進化させた。ポリゴンによる立体表現は、明らかにゲームの次元を一段階止揚させたのである。
しかしその一方で、ゲームは一つのジレンマに悩ませることになったのである。“距離感”である。
例えば、目の前に立っているゾンビはあと何歩で自分と接触するのか、あと数歩の距離にあるはず穴は実際どれくらいの距離なのか。主観視点によるゲームは特にこの“距離感”による問題に捉われ続けた。現実問題ならば何ら問題にならないごく当たり前の“距離感”の認識に対して、ゲームプレイヤーはひどく困惑し、ゾンビの接近を正確に推し量ることができず無防備にその牙と爪によってズタズタにされ、あるいは目の前にある穴に間抜けに片足を突っ込んでしまっていた。
ポリゴンによる立体表現は、むしろゲームプレイを犠牲にしている。ゲームの映像表現がどんなに優れた技術と感性で進化し、無限と思える奥行きを獲得しても、結局はカメラを操作し古典的な横スクロールの視点に固定した上でゲームを進行させている。
なぜそうなってしまうのか。それは表現上はどんなに立体的であっても、最終的にアウトプットされる映像は2次元でしかないからだ。
例えば映画にありがちな場面だが、俳優の2人が向き合って殴りあう場面があるとする。大抵の場合、カメラは殴る側の背後に回り、殴られる俳優の顔面を捉える。そして、一方が殴り、もう一方が殴られた振りをして吹っ飛ぶ。この時、もちろん俳優の拳は当たっていない。最低でも20センチ。50センチ近くも離れている場合もあるという。最近のアクション映画の格闘シーンは、俳優の動きもカメラの動きも非常に複雑になっているが、この原則は今も変わっていない。どんなアクション映画でも、カメラはこれから殴ろうとする俳優の背後に素早く視点を移動し、相手俳優は殴られた振りをして吹っ飛ぶ。
なぜそんなふうに見えてしまうのか。それは最終的にアウトプットされる画面が2次元だからだ。2次元だから距離が圧縮され、20センチや50センチといった距離を感じさせなくしてしまう。
ゲームにおいてもこの原則は一緒だからこそ、大きなジレンマであった。ただ映像を鑑賞するだけならば、俳優同士の距離感など気にせずとも楽しめるのだが(というか気付かない場合がほとんど)、ゲームとしてある仮想3次元空間を移動したり敵と戦ったりする場合は“距離感が圧縮される”ことが大きな障害になってしまう。距離感が圧縮されてしまうから、間もなく迫ってくるカーブのタイミングを正確につかめず、あるいは届くと思って振りかざした剣が敵に当たらず空振りしてしまう(『ゼルダの伝説 時のオカリナ』敵に当てるつもりで剣を振ったもののなかなか当たらず、ジャンプ切りしたら敵本体に接触してダメージ……みんな一度はやったはずだ)。
ゲームの作り手は、“距離感が圧縮される”現象の前に苦闘し、その打開策として、概ね2つの方法を採用してきた。カメラの高さをキャラクターからやや離れて上方から捉えるか、あるいは世界をポリゴンで構築する一方、ゲームの進行自体は古典的な横スクロールの形式を採用するかの2つだ。
だがニンテンドー3DSは、あからさまな立体を描くことで、これまで困難であった“2次元変換された立体空間”への認識を感動的なまでに容易にしてくれた。我々はもう、作り手が複雑に構成した立体空間を前にしても困惑することもないだろう。どこが出っ張っていてどこが引っ込んでいるか、ポリンゴンに貼り付けられたテクスチャー(むしろ邪魔な陰影表現)に惑わされて、「この壁は果たして上れるのだろうか?」などと悩む必要はなくなった(と思う)。これまでは向かってくる敵の攻撃を大げさにキャラクターをのけぞらせて避けていたものが、3Dディスプレイなら動きを最小限にし、敵の剣をすんででかわし、反撃に転じる、というようなゲームプレイも玄人でなくてもできるようになるかもしれない。3Dディスプレイの採用は、ゲームのビジュアルに華を添えるだけではなく、ゲームキャラクターに実在感を与えるだけでもなく、それ以上にゲームプレイにおいて革命的な変化を与える。ゲームの攻略それ自体に影響を与えられるのだ。
ここ十数年、ゲームは同じ思考方法を延長させ、ひたすらビジュアルだけを進化させてきた。それは間違いなくゲームをゴージャスにさせてきたが、批判的に捉えれば、それは決定的な変化とは言い切れなかった。ゲームという構造を何一つ変える力はそこになく、ビジュアルがゴージャスなゲームは、本質的な変化も革命も止揚も引き起こさなかった。
だが我々はニンテンドー3DSにおいて、あからさまな変化を目にした。ニンテンドー3DSというゲーム機によって、ゲームの本質は確実に変わるのである。
批判的な意見も多いが、私は映像における3Dを肯定的に捉えている。
映画と技術は決して切り離せない関係で結ばれている。いや映画の本質は技術である、と言い換えてもいい。口うるさい大批評家様の意見によれば「映画の本質は、脚本の素晴らしさと俳優の演技、それが芸術的な感性で結ばれたときだ」と語るだろう。それは間違ってはいないし、反対する気もない。しかしそれは、ソフト制作的な面での話であって、ハード的な側面を一切無視している。映画を決定的に変化させるのは、あくまでもハード的な側面で革命を起こした時なのだ。
例えば、映画がトーキーになり肉声を獲得し、テクニカラーが採用され自然の風景が画面上に再現され、カメラがクレーンと結びつき構図はよりダイナミックに縦横無尽に動くようになり、次にデジタルの導入で、超現実的なキャラクターと生身の俳優を競演させることに成功した。最近の映画の傑作である『アバター』や『ロード・オブ・ザ・リング』などは、どちらも数年早いと決して作ることはできなかった。技術という地平が少しずつ物語に追いつくことで、あの驚くようなビジュアルが実現したのである。
口うるさい大批評家様は、いつも無邪気にこう連呼する。「もっと新しい作品を!もっと斬新な作品を!」「最近の作品はどれも似たり寄ったりだ!」。
黙れ、と言いたくなる。新しい発想や才能がそう簡単に見つかるはずもない。見つからないこそ、作り手は苦労して「これこそは!」という題材を必死に探しているのだ。という以前に、“同じ人間である限り、どんなに国籍や人種が変わろうとそこに共通する精神構造が見出され、それらが考え、作り出そうとする創作物にはどこかしらに共通する構造が必ず見出される”のである。つまり本当に斬新な物語を目にしたいのであったら、自分努力で宇宙に出て火星人でも連れて来い、とう話である。
だからこそ技術的な平面を一段止揚させ、映画の印象を変えつつ同じ映画を作る(技術的な本質を変えつつ、同じものを作る)ことは、新しい映画を提供するという方法論に間違いはない。例えば(技術的な)エポックメイキングと賞賛される『アバター』などは、ストーリーだけを抜き出すと、似たような映画を過去作品のインデックスの中からいくらでも見出せる。映画という括りを外し、小説、民話、神話といった範疇から似たような構造、アイデアを持った作品を探せば、信じられないくらいたくさん見つかるだろう(どんな物語も、別の物語と比較するとどこかに必ず共通点が見出される。そんな当たり前の事実を知らず、ほんの少しの類似を見つけ出しては「パクリだ!謝罪しろ!」と大騒ぎする大批評家様は自ら無知を表明しているようなものだ)。絶対的唯一の個性を求めるなど、高望みでしかないのだ。そういうものは人間ではなく神様に求めておくれ(最近は神様の創造物にも「マンネリかな?」と思うようにすらなってきたが。南米奥地の希少性の高いトカゲを見ても「似たようなデザインをどこかで見たな……」という印象しかなくなってしまった。神様の創造物に驚くことがなくなってしまった)。
と長い前置きを書きながら、私は全ての映画を3D化するべきとも思っていない。特に過去作品の映画を3D化することはあまりにも愚かしい行為である。
というのも3D以前の映画の全ては、平面で表現することを前提としたトリック映画だからだ。
例えば先にあげた俳優同士の殴り合いのシーン。20~50センチ離れてもパンチが当たったように見えるのは、平面だからだ。他にも映画にありがちなシーンといえば、大きな洋館の中に入っていくと、どこまでも続く壮大に長い廊下が出現する。あるいはロボット格納庫にずらりと並ぶ待機中のロボット軍団。ほとんどの場合、この長い廊下やロボットの群れは「マット画」と呼ばれる精巧な「絵」である。「このCG全盛の今の世の中に、時代遅れのマット画なんて」と思う人は多いと思うが、マット画は今現在も現役の映画手法である。CGよりもずっと早く安く手軽でしかも上質に制作できるマット画とマット画アーティストは、現場において非常に重宝する存在である。
以上のような平面を前提とした表現をそのまま3Dで鑑賞すると、当たり前のようだがあらゆる不具合が出現する。例えば、永遠と続く廊下やずらりと並ぶロボットは、誰がどう見ても平面状に描かれたマット画でしかないと気付いてしまう。俳優同士の殴り合いは、実は当たっていないという事実に気付かれてしまい、せっかくの俳優の演技やアクション監督の努力を台無しにしてしまう。
俳優同士の殴り合いのシーンは、実際の3D映画撮影における一つの問題となっており、解決策として、拳を相手の体ぎりぎりまで接近させる、あるいは本当に当てるしかない、という事態になっている。主演級スターの顔に痣を作るわけにはいかないから(次の撮影が脚本の次のシーンとは限らないので、撮影進行に不具合が生じる)、殴られる瞬間のシーンだけ代役を立てて背面から撮影したり、顔を殴る行為そのものをなしにしてしまったり。とにかく、この初歩的問題が解決されるまで、主演俳優の顔面が殴られるシーンは、映画からなくなりそうだ(多分デジタル上で距離感を変換できるようになるのだろう)。
過去のあらゆる映画を、3D変換してしまうテレビなどが開発されているが、愚の骨頂としかいいようがない。そんなことをすれば、映画に込められたあらゆるマジックがたちどころに解き明かされてしまい、映画の世界から夢と幻が消えてなくなってしまう。俳優同士がどんなに素晴らしい演技で対峙していても拳が当たっていない事実に気付いてしまうし、初歩的な遠近法の応用で撮影された『ロード・オブ・ザ・リング』は小人や人間といった人種が交じり合う妖精世界の物語ではなく、ただの遠近法で撮影された映画に過ぎないとわかってしまう。3Dテレビは決して夢のアイテムではないのだ。
3Dが有効な影響力を与えるのは、映画ではなくゲームである。ゲームは3Dによって確実にその本質を変化させるが、映画、あるいは映像全般においてはそれほど決定的ではないと考えられる。3Dを前提に制作された映画ならば、その有効性を充分に発揮できるかもしれないが、すべての映像作品が3Dである必要はない。特に毎日ぼんやりと見ているニュース番組やバラエティ番組が3Dになったとしても、その事実に何の意味があるのか、とむしろ問いたくなる。どうでもいいよ、と思うし、3Dテレビの購入を見送っているほとんどのユーザーはこの「別にどうでもいいよ」という心境なのだろう。実際に3Dテレビを購入したところで、ほとんどの番組、あるいはDVD、ブルーレイは3Dに非対応であるのだから、まさしく無駄な買い物ということになってしまう。3Dが本質を変化させられるのは、映画ではなくゲームであるのだ。
ところでニンテンドー3DSはこれまで任天堂が発売してきた携帯ゲーム機と比較すると、やや高めの値段に設定されている。2万5000円。過去の任天堂携帯ゲーム機の値段は、ややバラつきがあるものの1万円~1万5000円の範囲に抑えられてきた。もっとも高かったニンテンドーDS-LLが1万8000円である。任天堂の携帯ゲーム機が2万円を越えたことはたぶん前例がなかったはずだ。
任天堂の携帯ゲーム機がやや低めに設定されていたのは、子供でも何とかなる値段設定にするため、あるいは据え置き型ゲーム機を「ゲームの主役」と位置づけた上で、携帯ゲーム機はその付属品、あるいはオマケという認識だったからかもしれない(全部私の思い込みだが)。実際にこれまでの携帯ゲーム機は据え置き型ゲーム機とは比べようもないくらい機能面で低く、制作されるゲームソフトも、据え置き型ゲーム機で製作されるゲームと比較するとやはりボリュームは少なめだった。据え置き型ゲーム機で制作される有名シリーズ作品が携帯ゲーム機で制作されるときは、決して「本家シリーズ」ではなくあくまでも「番外編」という扱い。据え置き型ゲーム機のストーリーを「本流」とする小さな「サブストーリー」というポジションが携帯ゲーム機の立場だった。
据え置き型ゲーム機に対する「オマケ」。小さなゲーム機。それがこれまで携帯ゲーム機が背負ってきた宿命のようなものだった。
だがニンテンドー3DSの値段は2万5000円。これは、これまで任天堂が発売してきた据え置き型ゲーム機と同じ値段である。ニンテンドー3DSのポテンシャルがそこまで高い、ということへの自信と主張であると考えられる(実際ニンテンドー3DSはゲーム機本体だけでもこれでもかと色んな要素が一杯に詰め込まれている。恐ろしく贅沢な代物、という印象だった)。それ以上に感じられるのが、携帯ゲーム機の質的変化――いやポジションの変化である。
これまでは据え置き型ゲーム機がゲームの主役だった。高いマシンスペックと膨大なデータ量を記録できる記録メディア。そして、そのポテンシャルの高さを最大限に利用したゲーム。そういうものは、携帯ゲーム機では実現できない質量的な“大きさ”が必要だった。
が、技術の進歩は質量的な大きさを、より小さなものの中にぎっしり押し込めてしまった。携帯ゲーム機でも高いマシン性能と膨大なデータを蓄積できる記録メディアを獲得し、かつては絶対不可能だった映像表現も携帯ゲーム機でも問題なく可能になってしまった。しまもニンテンドー3DSには、据え置き型ゲーム機にない2画面と3Dディスプレイという強力な武器を持っている。「大は小を兼ねる」ではなく、「小が大を包括する」時代がやってきたのである。
ニンテンドー3DSならば、完璧主義の天才肌監督によるこだわりのゲームを制作することだってできるだろうし、実際に制作されるだろう。対戦も通信機能の発達でストレスなく行えるから、画面を分割する必要もない。もう家族に背中を睨まれながら、あるいはゲームそのものに敵意を向けられながら居間のテレビを間借りしなくてもいいのだ。ゲームの中心は据え置き型ゲーム機から携帯ゲーム機に中心軸を移したのだ。もしも今の現状で一人用RPG超大作を据え置き型ゲーム機で出そうとするならば、「空気を読めよ」という冷ややかな水をぶっ掛けられるだけだろう。携帯ゲーム機でも超大作RPGの制作は充分可能だ。
(テレビの存在価値は、もうアニメと映画だけで充分だ。オンエアされているほとんどの番組に見るべきものがないのなら、テレビはゴミとして廃棄してしまったほうがいいだろう。テレビがあると部屋が狭くなる。アニメと映画だけならば、コンパクトなプロジェクターを買い、真っ白な壁面に映像を映すだけでいい)
とは言うものの、据え置き型ゲーム機がまったく必要なくなるとも思っていない。パブリックな場所を複数人で興じ、その楽しさや興奮をその場にいる全員で共有する場合はやはり据え置き型ゲーム機の出番だろう。例えばパーティーゲームや、複数人で競うことを前提で設計されたアクションゲームやレースゲーム。
一人で淡々と一つのゲームに集中し、道を究めていく場合は携帯ゲーム機だ。例えばRPGやシューティングゲーム、シミュレーションゲーム、レコードを競い合うタイプのレースゲーム。
据え置き型ゲーム機はよりパブリックなポジションを強めていく一方、携帯ゲーム機は一人きりで攻略やレベル上げ、レースゲームのタイム更新といったより個的な感心を強めていくゲームに特化していくだろう。要はそれぞれの立場をより明確に切り分けていく、というわけだ。
性能面にこだわってゲーム機を選択する時代は終わった。これからは「どんな方向性のゲームを遊びたいか」でゲーム機を選択するようになるだろう。作り手にとっては、「どんな方向性のゲームを作りたいか」で発売するゲーム機を選択する。パブリックな場所を共有する意義があり、なおかつあのリモコンコントローラーを有効に使えるアイデアがあるならばWiiだろう。それ以外のゲームを作るならばニンテンドー3DSを選択するべきだろう。なにしろマシンスペックが高く、しかも全てのゲームが3D表示になるので、空間表現にこだわった作品ならばニンテンドー3DSのほうがプレイヤー側としてはありがたい。
ユーザー、制作者、双方がどんな基準でゲームを選択し、制作し、購入するか。ニンテンドー3DSはその区別をはっきりと付けさせるゲーム機だ。まさにゲームに対する考え方を一段階変えさせるゲーム機だ。
本体仕様と同じくらい興味深かったのは、あまりにも豪華なソフトラインナップである。任天堂がゲーム業界における主導的立場を失って以来、ソフトメーカーは様々な理由で任天堂を離れていった。別のゲーム機のほうが販売台数が多く、より高い商業的利益が見込める。別のゲーム機のほうが性能が高く、それと比較すると任天堂ゲーム機の性能はやや不安がある。そうなると、わざわざ任天堂機で発売する理由があまりないという結論になる。
ところが、ニンテンドー3DSには多くのソフトメーカーが戻ってきている。任天堂ゲーム機とはまったく縁のなかったナムコの『リッジレーサー』、性能面の問題で任天堂ゲーム機を避けてきた『メタルギアソリッド』、かつて「これからは任天堂ゲーム機を中心にゲームを出す!」と宣言しておきながら、あっさりと裏切った『バイオハザード』シリーズの帰還。他にも『デッド・オア・アライブ』『ストリートファイター』『テイルズ・オブ~』シリーズ、もちろん任天堂開発による人気シリーズ(『ゼルダの伝説 時のオカリナ』!)も発売ラインナップに含まれている。ゲームキューブやWiiにはなかった豊富さと幅の広さ。任天堂にとってもゲーム業界にとっても黄金期である、スーパーファミコン時代の再来を予感させる。古いゲームユーザにとってはこれだけでも感動的な事件だ。
任天堂はゲーム機の傑作と呼ばれたゲームキューブの商業的失敗以来、ゲーム作りのスケールを大幅に縮小し、開発の視点をコアゲームユーザーから軽薄短小と呼ばれるライトユーザーに移し始めた。《タッチジェネレーション》、初期においては「軽薄短小」と呼称されたゲーム群である。これまでのゲーム作りと販売方法に限界を感じていた任天堂は、むしろこれまでゲームに接したことのない多くの人たちにゲームの良さを知ってもらい、手に取ってもらおうと考えた。
この戦略は着実に成功を収め、ゲーム人口は飛躍的に増大。この深刻な不況下にも関わらず、任天堂の黒字はWii発売後3倍近くまで飛翔している(もし今のような経済不況、デフレ下でなければ? と思うととんでもない業績である)。「軽薄短小」構想は大成功であった。
しかし、軽薄短小は軽薄短小なのである。軽薄短小ユーザーは流行に乗せられて2万5000円のゲーム機を買ったものの、それ以上に入れ込むことはしなかった。一つのゲーム機をしっかりやり込もうとはせず、新しい情報を仕入れて別のソフトメーカーや作家の作品に触れようという考えを持たず、飽きたらポイッ。テレビラックの横に放置したまま、旧型ビデオデッキと共にそこにあったことすら意識しないようになる。軽薄短小は物事の良し悪しを自力で判断することができないし、しようともしない。ただその一時だけ大騒ぎできる道具さえあればいい。軽薄短小はどんなに素晴らしい芸術が目の前にあっても、無関心に通り過ぎるだけ。どんなに優れた栄養を与えても、少しも健康状態がよくならない痩せた肉体のようなものなのである。軽薄短小はいつまでたっても軽薄短小。だから軽薄短小なのだ。
ニンテンドーDSとWiiはこの絶対的多数派である軽薄短小ユーザーを大幅に獲得したが、その一方で本当にゲーム好きである少数のユーザーから見放されていった。サードパーティーも任天堂ゲーム機から遠ざかっていき、気付けば「任天堂ソフトしか売れていない」という状況になっていた(本体売り上げは飛躍的に伸びたものの、ソフト売り上げは思ったほど伸びていない)。売れているのは『脳トレ』とどこかのお笑い番組とタイアップした安っぽいゲームだけである。ネットコミュニティでは、ニンテンドーDSを所持していること自体が失笑の対象になってしまった。
批評家の意見を借りれば、確かにどの作品も別のゲームハードで一度発売された作品のリメイクやシリーズ作品ばかりである。だが「注目度」という要素だけを抜き出せば破壊力は抜群である。ほとんどのコアゲームユーザーは、ニンテンドー3DSというゲーム機自体ではなく、ソフトラインナップのほうが遥かに魅力的で、これだけを動機に購入を決めるだろう。持っているユーザー人口が多くなれば、ゲーム会社の経営者はそのゲーム機で作品を出そう、という考え方を持つようになる。これまで「プレ……プレなんとかがたくさん売れてるからプレなんとかで開発する」と言っていたのと同じ理屈だ。
ニンテンドー3DSは間違いなく高い売り上げを獲得するだろう。それも爆発的に。その後も一過性の流行に終わらず、息の強いペースで必要とされ続けるだろう。そうすれば金玉混在の無数のゲームがニンテンドー3DSに集まってくるようになる。バグ満載のどうしようもない駄作も出るだろうし(それはそれで愛好家に素晴らしい話題を提供してくれるだろう)、今まで誰も考えたことのない奇怪な作品も出るだろう。それに、あくまでも携帯ゲーム機である。低い予算で、アイデア勝負の作品も期待できる。もちろん、天才的な作家がひたすらこだわりぬいた芸術的なゲームも出るだろう。ニンテンドー3DSは様々なタイプの作家の要求に応えられるだけの高いスペックを持っている。
XBOX360やプレなんとかはハイスペックすぎて、ハリウッド的に言えばブロックバスター作品でなければメーカーもユーザーも受け入れられない状況になっている。例えば『桃太郎電鉄』のような伝統あるシリーズは、「ビジュアルが相応しくない」という理由でソニーはプレなんとかでの発表をお断りしている。XBOX360やプレなんとかはゲーム云々を議論する前に、映像表現にゴージャスにしないとユーザーから安っぽく見られる場合があり(特に『ファイナルファンタジー7』を切っ掛けにゲームにはまり込んだユーザーに多い考え方だ)、映像に金と労力のほとんどを消費し、ゲームの本質的側面を疎かにしてしまう傾向が少なからずある(見た目は確かに豪華だけど、ビジュアル面をマイナスすれば「これファミコンでも開発可能だよね?」というゲームはたくさんある。見た目は豪華だけど、中身は8ビットゲーム。そういうゲームって実は多い。ゲーム自体も、見た目は確かに豪華だが、実は同じボタンをひたすら連打しているだけで全ステージクリアできてしまうものもある)。
そこで携帯ゲーム機である。携帯ゲーム機であるというフットワークの軽さが、映像表現だけに捉われない、より柔軟なゲームクリエイトを可能にしてくれるだろう――と期待したい。
ニンテンドー3DSにおける弱点は、どう考えてもバッテリーの少なさだ。たったの3時間。バックライトを抑えるなどをすれば5時間ほど持つ、という仕様だが、それでもたったの5時間である。ゲームで遊ぶにはあまりにも不安定な短さだ。
次のモデルチェンジがニンテンドー3DSLiteになるのかLLになるのかわからないが(現時点でかなり小さいが)その時にはバッテリーを見直されていることを強く希望したい。
それから、これは構造的問題なのかもしれないが、3D立体視野角度があまりにも狭い。ゲーム機に対してほぼ真正面、近づけすぎても駄目、遠ざけすぎても駄目、35センチ前後というかなり限定的な範囲を推奨している。
ゲームプレイ中、複雑なコマンドを入力しようとボタンを押している最中、どうしてもゲーム機本体を傾けて画面が2重にぶれてしまう瞬間がある。リッジレーサーの話題で「コーナリング中に画面が2重にぶれる」というのを挙げたが、これは「そういう演出」なのではなく、プレイ中、本体をある一定以上傾けてしまったせいだ。3Dに見える範囲があまりも狭いために起きてしまう現象だ。昇竜拳すらまともに出せない人間(つまり私)が『スーパーストリートファイター4』のような複雑なコマンドが必要なゲームをプレイすると、しょっちゅう画面がぶれる。この3D視角の問題は構造的な問題で難しいのかもしれないが、次のモデルチェンジの時には是非とも改善、3Dに見える視角を大幅に広げてほしいところだ。
少し蛇足になるが、ニンテンドー3DSは「3Dで見せること」を新たに考える必要があるのかもしれない。というのも『スーパーストリートファイター4』の背景ビジュアルが、少しあっさりしているように見えたからだ。おそらく別の3Dではない画面で見ると、ごちゃっとした密集感を表現しているように見えるのだろうが、立体になることでそれぞれのパーツの間に「ゆとり」が生まれ、2Dで見るほどの密集感が失われてしまっていた。それは間違いなく3Dであることの「売り」なのだが、2Dで表現していた時のように見せられない、という問題もあるのかもしれない。……まあ2Dで見せたい場合は、2Dで作ればいいという話なのだが。
ニンテンドー3DSは6歳以下の幼児には3D機能を使わせないように注意喚起している。本家サイトでもそう注意喚起されているので、ここでもそれにならいたいと思う。
しかし、実際にはどんな年齢でも3D視聴は視力に何ら影響はない、という見解もある。いずれにしても、確たる根拠がまだ出揃っているとは言いがたいので、とりあえずは6歳以下という規制には従うべきだろう。
最後に私個人的な見解である。私の場合、ニンテンドー3DSで遊んだ後、ちょうど「ステレオグラム」で遊んだ後のような感じになり、非常に目がスッキリした感じになる。読書の合間にニンテンドー3DSで遊べば、確実に目の疲れが解消されている。
これがどういう状況なのか、いまいちよくわからない。ニンテンドー3DSをプレイすると、短時間でも激烈な目の痛みを感じるという人のほうが圧倒的多数である。確かに私も、3D映画『アバター』を視聴したとき、最初の1時間ほどはひどく苦労したのを覚えている。どの空間にピントを合わせるべきか、特に3D映画は俳優の演技と字幕が違う距離に出てくるので、かなりの疲労感があった(ただし激痛というのはなかった)。が、途中から慣れてきたのか、字幕と俳優の演技の両方を見ることに苦労はなくなった。そういった経験があるからなのか、ニンテンドー3DSの画面には何ら苦労なく見ることはできた。数時間連続で遊んでも、眼精疲労というのはまるで感じない。
もしかしたら、慣れの問題なのかも知れない。ゲームがポリゴン表現を獲得したはじめの頃、3D酔いする人が多数報告された。3次元空間の中を目まぐるしく動くキャラに目と頭が追いつかず、車酔いしたような状況になるのである。これもポリゴン表現が一般的になるにつれて、3D酔いを訴える人は確実に減っていき、今では3D酔いを口にする人はいなくなった。ポリゴン表現に慣れたのか、あるいはゲームそのものからリタイアしたのかのどちらかだろう。私は3D酔いしたことはない。
現時点で、「ニンテンドー3DSをプレイすると視力がよくなったように感じる」という人は少数だがいるようである。それはあくまでも少数派であるし、目が痛いという人のほうが圧倒的多数だ。そもそも小さな画面を首と手の位置を固定して、しかもかなり強烈なバックライトを浴びているのだから、目に良いはずなどないのである。それに、その人間がもともと持っている目の性質(例えば両目の視力の差)によって3Dがまったく見えない、それが原因で視力悪化の原因になる、などがあるようである。3Dで遊ぶことは、まだある程度の警戒が必要かも知れない。
「ニンテンドー3DSの予約受付まだやっていますか?」
「ええ、まだやっていますよ」
「発売日に手に入りますか」
「予約されたら確実に手に入ります」
というわけで、何の苦労もなく発売日にニンテンドー3DSを手に入れた。ネットが駄目ならば、リアル店舗を訪ねてみるべきかもしれない。どうしても手に入らない、と思っていた貴重な品も、案外簡単に手に入るかもしれない(予約なしでも買えたらしい)。転売屋に天誅!
発売日に同時購入したロンチタイトルは次の3本。
『Nintendogs+cats&Newフレンズ』
『スーパーストリートファイター4 3D』
『リッジレーサー3D』
本当なら、一つ一つのソフトを取り上げて詳しく記事を書きたいところだが、一本一本をしっかりプレイする時間もなく、記事にする時間もないので、短く要約して書きたい。
『ARゲームズ』
本機にあらかじめプリセットされたゲームの中でも期待していた作品。「マトあて」「タマつき」「つり」「らくがき」「キャラさつえい」「Miiさつえい」の6種類のゲームが遊べる。「マトあて」「タマつき」は回り込んだり覗き込んだり、携帯ゲームなのに全身を使ったアクティブな遊びが極めて新鮮。ゲームとしては難易度が低く、ショートゲームといった感じなので、やりこむ深度は浅い。
「キャラさつえい」は有名な任天堂キャラクターを現実空間の中に出現させ、3Dカメラによる撮影ができる。おそらくこれは、新しいカードやデータの更新などで、様々なキャラクターを登場させられるのではないかと思う。アニメキャラクターなども登場させられるはずなので、キャラクタービジネスにとって新しいチャンスだろう。とりあえず、『ラププラス3D』はこのARカードを利用した何かをやってくれるはずだ。
『顔シューティング』
こちらも本機にあらかじめプリセットされているゲーム。顔写真を取り込み、それをゲーム中の敵にして遊ぶゲームである(ちゃんと目と口を認識するので、笑ったり怒ったりといった表情を作ったりする)。このゲームはジャイロセンサーが利用され、プレイヤーは立ちあがって360度、上や下に本機を向けて敵を探し、撃破していかなければならない。周りに何もない場所を探してプレイすることをお勧めする。難易度は決して高くないものの、ちゃんと攻略法を考えないとクリアできないようになっており(ミニゲームだが、ここはさすが任天堂)、それにかなり運動になる。連続で3ステージほど遊んだが、それだけでも息が上がってしまった。ちょっとしたダイエットになりそうなゲームである。新しい顔写真を取り込めば次のステージに進めるというルールなので、さっそく家族全員の顔写真を撮らせてもらった。ちなみに、撮影対象は別に人間である必要はないらしい。
こちらはなかなか楽しいゲームで、しばし夢中になってプレイした。
余談だが、バイオハザードシリーズは絶対にこのジャイロセンサーを採用するに違いない、と思っていたが予想が外れてしまった。ニンテンドー3DS本機を前後左右に動かし、ゾンビがどこから迫ってくるかわからない、というゲームだったら面白いと思っていたのだが。
『Nintendogs+cats&Newフレンズ』
想像以上にふわふわである。3D表示にすると、子犬の顔の凹凸もはっきりと識別できるくらいちゃんと立体に見える。ただし、子犬の3Dモデリングの完成度に比べて、部屋内部のディティールはあっさりしている。
Nintendogs+cats&Newフレンズは一日のうちにできる内容が限定されており、長時間遊べば遊ぶほど何か得になるゲームではない。毎日少しずつ、まったりと子犬と仔猫との一時を楽しむゲームである。
たぶんヘビーユーザーには向かないゲームだと思うが、忙しい合間にちょっと遊びたい人、あるいはふわふわした子犬や仔猫と遊びたい人にはお勧めだ。ちなみにゲームをはじめて最初は子犬しか選択できず、仔猫を得るのは数日間のゲームプレイが必要だ(長時間プレイしても、ゲームがある程度以上進行し過ぎないように設計されてる)。
ところで個人的な話だが、現在私は仕事が忙しく、ゲームで遊ぶ時間がなかなか取れない。『Nintendogs+cats&Newフレンズ』を数日間放置し、久しぶりにプレイしたら、喉はカラカラ、お腹がすいてやせ細った愛犬の姿が……。妙なところでリアルなゲームである。毎日少しずつでも様子を見なくてはならないようだ(時間がないのに、いったいどうしろと……)。
『スーパーストリートファイター4 3D』
私が格闘ゲームをプレイするのは『ストゼロ』以来である。久しぶりに格闘ゲームを手にしたわけだが――波動拳が出せなくなっていた。昇竜拳などはたまにまぐれで出る程度。まず波動拳の練習からはじめなければならず、アーケードモードもいまだ最弱難易度から抜け出せない。例によって、親指の腹を真っ赤に腫らせているところだ。
というわけで、当然、他機種版の『ストリートファイター4』をプレイしておらず、比較記事などは書けるわけないので、ここではなくヘビーユーザーによる記事を参考にするべきだろう(対戦相手になってくれる人もいないし)。
プレイ動画などで見かけたものより、背景のディティールが減少したように見える(これについては後述する)
『リッジレーサー3D』
リッジレーサーシリーズをプレイするのは、多分『リッジレーサー2』以来。というわけで、こちらもシリーズを統括した詳しい記事を書くことはできない。ヘビーユーザーの記事を参考したほうがいいだろう。ゲーム自体は非常に楽しく、グランプリモードのEVENT2以降は3Dを意識した高低差の極端に激しいコースが中心となり、アトラクション的な楽しみが加わってくる。ただ、ややポリ欠けの多さが気になるところだ。
ゲーム批評ではないが、リッジレーサーを遊ぶ際には視点変更し、主観視点にすることをお勧めする。あの臨場感は2Dゲーム機では絶対に体験できない。3Dゲーム機ならではの特権だ。
某ネット記事(ニコニコニュース:レースゲームの醍醐味が3Dによって昇華された!『リッジレーサー3D』インプレッション)に、「コーナーをドリフトする瞬間、振動演出が加わり、3D効果が薄れる」と書かれていたが、これは多分、ニンテンドー3DS本機を左右に傾けてしまったたためだろう。ゲームプレイ中、緊張してボタンを押しているとゲーム機を左右に傾けてしまうことがよくある。確かにゲームプレイ中、ついつい左右に傾けてしまう瞬間はあるものの、落ち着いてまっすぐに構えてゲームプレイすれば「ドリフトの瞬間に3D効果が薄れる」ということはまずない。ちなみに「振動演出」は多分、ニトロエンジンのことだろう。プレイし始めて最初の頃、カーブを曲がるときにL・Rボタンを押してしまうのだ。後で少し触れるが、ニンテンドー3DSの3D表現は、左右方向からの視角に極端に弱いという弱点を持っている。
ちなみに今回購入した3本の中で、『リッジレーサー3D』が一番のお気に入りだ。「映像が美しくない」という不評が多く(美しくないのは事実だし、3Dによる立体感もいまいち)、確かにポリ欠けなど引っかかるところは多いものの、実際に3本通してプレイしてみると『リッジレーサー』が一番面白かった。
「ゲームは3Dを獲得することで、確実にその性質を変化させる」と私は考えている。ゲームはポリゴン技術を獲得したことによって、ゲーム中世界を立体的に表現することを可能とし、さらにゲーム機自体の表現能力の向上、あるいは作家の表現手法・方法の進歩によって、より複雑で濃密な別世界へと直裁的にプレイヤーを引き込む力を得た。ポリゴンを得ることによって、それまで平面状の座標軸を操作させるだけのゲームから、作家が意図した完全な別世界の中をキャラクターが自由に走り、戦い、空を飛ぶスペースへとゲームを進化させた。ポリゴンによる立体表現は、明らかにゲームの次元を一段階止揚させたのである。
しかしその一方で、ゲームは一つのジレンマに悩ませることになったのである。“距離感”である。
例えば、目の前に立っているゾンビはあと何歩で自分と接触するのか、あと数歩の距離にあるはず穴は実際どれくらいの距離なのか。主観視点によるゲームは特にこの“距離感”による問題に捉われ続けた。現実問題ならば何ら問題にならないごく当たり前の“距離感”の認識に対して、ゲームプレイヤーはひどく困惑し、ゾンビの接近を正確に推し量ることができず無防備にその牙と爪によってズタズタにされ、あるいは目の前にある穴に間抜けに片足を突っ込んでしまっていた。
ポリゴンによる立体表現は、むしろゲームプレイを犠牲にしている。ゲームの映像表現がどんなに優れた技術と感性で進化し、無限と思える奥行きを獲得しても、結局はカメラを操作し古典的な横スクロールの視点に固定した上でゲームを進行させている。
なぜそうなってしまうのか。それは表現上はどんなに立体的であっても、最終的にアウトプットされる映像は2次元でしかないからだ。
例えば映画にありがちな場面だが、俳優の2人が向き合って殴りあう場面があるとする。大抵の場合、カメラは殴る側の背後に回り、殴られる俳優の顔面を捉える。そして、一方が殴り、もう一方が殴られた振りをして吹っ飛ぶ。この時、もちろん俳優の拳は当たっていない。最低でも20センチ。50センチ近くも離れている場合もあるという。最近のアクション映画の格闘シーンは、俳優の動きもカメラの動きも非常に複雑になっているが、この原則は今も変わっていない。どんなアクション映画でも、カメラはこれから殴ろうとする俳優の背後に素早く視点を移動し、相手俳優は殴られた振りをして吹っ飛ぶ。
なぜそんなふうに見えてしまうのか。それは最終的にアウトプットされる画面が2次元だからだ。2次元だから距離が圧縮され、20センチや50センチといった距離を感じさせなくしてしまう。
ゲームにおいてもこの原則は一緒だからこそ、大きなジレンマであった。ただ映像を鑑賞するだけならば、俳優同士の距離感など気にせずとも楽しめるのだが(というか気付かない場合がほとんど)、ゲームとしてある仮想3次元空間を移動したり敵と戦ったりする場合は“距離感が圧縮される”ことが大きな障害になってしまう。距離感が圧縮されてしまうから、間もなく迫ってくるカーブのタイミングを正確につかめず、あるいは届くと思って振りかざした剣が敵に当たらず空振りしてしまう(『ゼルダの伝説 時のオカリナ』敵に当てるつもりで剣を振ったもののなかなか当たらず、ジャンプ切りしたら敵本体に接触してダメージ……みんな一度はやったはずだ)。
ゲームの作り手は、“距離感が圧縮される”現象の前に苦闘し、その打開策として、概ね2つの方法を採用してきた。カメラの高さをキャラクターからやや離れて上方から捉えるか、あるいは世界をポリゴンで構築する一方、ゲームの進行自体は古典的な横スクロールの形式を採用するかの2つだ。
だがニンテンドー3DSは、あからさまな立体を描くことで、これまで困難であった“2次元変換された立体空間”への認識を感動的なまでに容易にしてくれた。我々はもう、作り手が複雑に構成した立体空間を前にしても困惑することもないだろう。どこが出っ張っていてどこが引っ込んでいるか、ポリンゴンに貼り付けられたテクスチャー(むしろ邪魔な陰影表現)に惑わされて、「この壁は果たして上れるのだろうか?」などと悩む必要はなくなった(と思う)。これまでは向かってくる敵の攻撃を大げさにキャラクターをのけぞらせて避けていたものが、3Dディスプレイなら動きを最小限にし、敵の剣をすんででかわし、反撃に転じる、というようなゲームプレイも玄人でなくてもできるようになるかもしれない。3Dディスプレイの採用は、ゲームのビジュアルに華を添えるだけではなく、ゲームキャラクターに実在感を与えるだけでもなく、それ以上にゲームプレイにおいて革命的な変化を与える。ゲームの攻略それ自体に影響を与えられるのだ。
ここ十数年、ゲームは同じ思考方法を延長させ、ひたすらビジュアルだけを進化させてきた。それは間違いなくゲームをゴージャスにさせてきたが、批判的に捉えれば、それは決定的な変化とは言い切れなかった。ゲームという構造を何一つ変える力はそこになく、ビジュアルがゴージャスなゲームは、本質的な変化も革命も止揚も引き起こさなかった。
だが我々はニンテンドー3DSにおいて、あからさまな変化を目にした。ニンテンドー3DSというゲーム機によって、ゲームの本質は確実に変わるのである。
批判的な意見も多いが、私は映像における3Dを肯定的に捉えている。
映画と技術は決して切り離せない関係で結ばれている。いや映画の本質は技術である、と言い換えてもいい。口うるさい大批評家様の意見によれば「映画の本質は、脚本の素晴らしさと俳優の演技、それが芸術的な感性で結ばれたときだ」と語るだろう。それは間違ってはいないし、反対する気もない。しかしそれは、ソフト制作的な面での話であって、ハード的な側面を一切無視している。映画を決定的に変化させるのは、あくまでもハード的な側面で革命を起こした時なのだ。
例えば、映画がトーキーになり肉声を獲得し、テクニカラーが採用され自然の風景が画面上に再現され、カメラがクレーンと結びつき構図はよりダイナミックに縦横無尽に動くようになり、次にデジタルの導入で、超現実的なキャラクターと生身の俳優を競演させることに成功した。最近の映画の傑作である『アバター』や『ロード・オブ・ザ・リング』などは、どちらも数年早いと決して作ることはできなかった。技術という地平が少しずつ物語に追いつくことで、あの驚くようなビジュアルが実現したのである。
口うるさい大批評家様は、いつも無邪気にこう連呼する。「もっと新しい作品を!もっと斬新な作品を!」「最近の作品はどれも似たり寄ったりだ!」。
黙れ、と言いたくなる。新しい発想や才能がそう簡単に見つかるはずもない。見つからないこそ、作り手は苦労して「これこそは!」という題材を必死に探しているのだ。という以前に、“同じ人間である限り、どんなに国籍や人種が変わろうとそこに共通する精神構造が見出され、それらが考え、作り出そうとする創作物にはどこかしらに共通する構造が必ず見出される”のである。つまり本当に斬新な物語を目にしたいのであったら、自分努力で宇宙に出て火星人でも連れて来い、とう話である。
だからこそ技術的な平面を一段止揚させ、映画の印象を変えつつ同じ映画を作る(技術的な本質を変えつつ、同じものを作る)ことは、新しい映画を提供するという方法論に間違いはない。例えば(技術的な)エポックメイキングと賞賛される『アバター』などは、ストーリーだけを抜き出すと、似たような映画を過去作品のインデックスの中からいくらでも見出せる。映画という括りを外し、小説、民話、神話といった範疇から似たような構造、アイデアを持った作品を探せば、信じられないくらいたくさん見つかるだろう(どんな物語も、別の物語と比較するとどこかに必ず共通点が見出される。そんな当たり前の事実を知らず、ほんの少しの類似を見つけ出しては「パクリだ!謝罪しろ!」と大騒ぎする大批評家様は自ら無知を表明しているようなものだ)。絶対的唯一の個性を求めるなど、高望みでしかないのだ。そういうものは人間ではなく神様に求めておくれ(最近は神様の創造物にも「マンネリかな?」と思うようにすらなってきたが。南米奥地の希少性の高いトカゲを見ても「似たようなデザインをどこかで見たな……」という印象しかなくなってしまった。神様の創造物に驚くことがなくなってしまった)。
と長い前置きを書きながら、私は全ての映画を3D化するべきとも思っていない。特に過去作品の映画を3D化することはあまりにも愚かしい行為である。
というのも3D以前の映画の全ては、平面で表現することを前提としたトリック映画だからだ。
例えば先にあげた俳優同士の殴り合いのシーン。20~50センチ離れてもパンチが当たったように見えるのは、平面だからだ。他にも映画にありがちなシーンといえば、大きな洋館の中に入っていくと、どこまでも続く壮大に長い廊下が出現する。あるいはロボット格納庫にずらりと並ぶ待機中のロボット軍団。ほとんどの場合、この長い廊下やロボットの群れは「マット画」と呼ばれる精巧な「絵」である。「このCG全盛の今の世の中に、時代遅れのマット画なんて」と思う人は多いと思うが、マット画は今現在も現役の映画手法である。CGよりもずっと早く安く手軽でしかも上質に制作できるマット画とマット画アーティストは、現場において非常に重宝する存在である。
以上のような平面を前提とした表現をそのまま3Dで鑑賞すると、当たり前のようだがあらゆる不具合が出現する。例えば、永遠と続く廊下やずらりと並ぶロボットは、誰がどう見ても平面状に描かれたマット画でしかないと気付いてしまう。俳優同士の殴り合いは、実は当たっていないという事実に気付かれてしまい、せっかくの俳優の演技やアクション監督の努力を台無しにしてしまう。
俳優同士の殴り合いのシーンは、実際の3D映画撮影における一つの問題となっており、解決策として、拳を相手の体ぎりぎりまで接近させる、あるいは本当に当てるしかない、という事態になっている。主演級スターの顔に痣を作るわけにはいかないから(次の撮影が脚本の次のシーンとは限らないので、撮影進行に不具合が生じる)、殴られる瞬間のシーンだけ代役を立てて背面から撮影したり、顔を殴る行為そのものをなしにしてしまったり。とにかく、この初歩的問題が解決されるまで、主演俳優の顔面が殴られるシーンは、映画からなくなりそうだ(多分デジタル上で距離感を変換できるようになるのだろう)。
過去のあらゆる映画を、3D変換してしまうテレビなどが開発されているが、愚の骨頂としかいいようがない。そんなことをすれば、映画に込められたあらゆるマジックがたちどころに解き明かされてしまい、映画の世界から夢と幻が消えてなくなってしまう。俳優同士がどんなに素晴らしい演技で対峙していても拳が当たっていない事実に気付いてしまうし、初歩的な遠近法の応用で撮影された『ロード・オブ・ザ・リング』は小人や人間といった人種が交じり合う妖精世界の物語ではなく、ただの遠近法で撮影された映画に過ぎないとわかってしまう。3Dテレビは決して夢のアイテムではないのだ。
3Dが有効な影響力を与えるのは、映画ではなくゲームである。ゲームは3Dによって確実にその本質を変化させるが、映画、あるいは映像全般においてはそれほど決定的ではないと考えられる。3Dを前提に制作された映画ならば、その有効性を充分に発揮できるかもしれないが、すべての映像作品が3Dである必要はない。特に毎日ぼんやりと見ているニュース番組やバラエティ番組が3Dになったとしても、その事実に何の意味があるのか、とむしろ問いたくなる。どうでもいいよ、と思うし、3Dテレビの購入を見送っているほとんどのユーザーはこの「別にどうでもいいよ」という心境なのだろう。実際に3Dテレビを購入したところで、ほとんどの番組、あるいはDVD、ブルーレイは3Dに非対応であるのだから、まさしく無駄な買い物ということになってしまう。3Dが本質を変化させられるのは、映画ではなくゲームであるのだ。
ところでニンテンドー3DSはこれまで任天堂が発売してきた携帯ゲーム機と比較すると、やや高めの値段に設定されている。2万5000円。過去の任天堂携帯ゲーム機の値段は、ややバラつきがあるものの1万円~1万5000円の範囲に抑えられてきた。もっとも高かったニンテンドーDS-LLが1万8000円である。任天堂の携帯ゲーム機が2万円を越えたことはたぶん前例がなかったはずだ。
任天堂の携帯ゲーム機がやや低めに設定されていたのは、子供でも何とかなる値段設定にするため、あるいは据え置き型ゲーム機を「ゲームの主役」と位置づけた上で、携帯ゲーム機はその付属品、あるいはオマケという認識だったからかもしれない(全部私の思い込みだが)。実際にこれまでの携帯ゲーム機は据え置き型ゲーム機とは比べようもないくらい機能面で低く、制作されるゲームソフトも、据え置き型ゲーム機で製作されるゲームと比較するとやはりボリュームは少なめだった。据え置き型ゲーム機で制作される有名シリーズ作品が携帯ゲーム機で制作されるときは、決して「本家シリーズ」ではなくあくまでも「番外編」という扱い。据え置き型ゲーム機のストーリーを「本流」とする小さな「サブストーリー」というポジションが携帯ゲーム機の立場だった。
据え置き型ゲーム機に対する「オマケ」。小さなゲーム機。それがこれまで携帯ゲーム機が背負ってきた宿命のようなものだった。
だがニンテンドー3DSの値段は2万5000円。これは、これまで任天堂が発売してきた据え置き型ゲーム機と同じ値段である。ニンテンドー3DSのポテンシャルがそこまで高い、ということへの自信と主張であると考えられる(実際ニンテンドー3DSはゲーム機本体だけでもこれでもかと色んな要素が一杯に詰め込まれている。恐ろしく贅沢な代物、という印象だった)。それ以上に感じられるのが、携帯ゲーム機の質的変化――いやポジションの変化である。
これまでは据え置き型ゲーム機がゲームの主役だった。高いマシンスペックと膨大なデータ量を記録できる記録メディア。そして、そのポテンシャルの高さを最大限に利用したゲーム。そういうものは、携帯ゲーム機では実現できない質量的な“大きさ”が必要だった。
が、技術の進歩は質量的な大きさを、より小さなものの中にぎっしり押し込めてしまった。携帯ゲーム機でも高いマシン性能と膨大なデータを蓄積できる記録メディアを獲得し、かつては絶対不可能だった映像表現も携帯ゲーム機でも問題なく可能になってしまった。しまもニンテンドー3DSには、据え置き型ゲーム機にない2画面と3Dディスプレイという強力な武器を持っている。「大は小を兼ねる」ではなく、「小が大を包括する」時代がやってきたのである。
ニンテンドー3DSならば、完璧主義の天才肌監督によるこだわりのゲームを制作することだってできるだろうし、実際に制作されるだろう。対戦も通信機能の発達でストレスなく行えるから、画面を分割する必要もない。もう家族に背中を睨まれながら、あるいはゲームそのものに敵意を向けられながら居間のテレビを間借りしなくてもいいのだ。ゲームの中心は据え置き型ゲーム機から携帯ゲーム機に中心軸を移したのだ。もしも今の現状で一人用RPG超大作を据え置き型ゲーム機で出そうとするならば、「空気を読めよ」という冷ややかな水をぶっ掛けられるだけだろう。携帯ゲーム機でも超大作RPGの制作は充分可能だ。
(テレビの存在価値は、もうアニメと映画だけで充分だ。オンエアされているほとんどの番組に見るべきものがないのなら、テレビはゴミとして廃棄してしまったほうがいいだろう。テレビがあると部屋が狭くなる。アニメと映画だけならば、コンパクトなプロジェクターを買い、真っ白な壁面に映像を映すだけでいい)
とは言うものの、据え置き型ゲーム機がまったく必要なくなるとも思っていない。パブリックな場所を複数人で興じ、その楽しさや興奮をその場にいる全員で共有する場合はやはり据え置き型ゲーム機の出番だろう。例えばパーティーゲームや、複数人で競うことを前提で設計されたアクションゲームやレースゲーム。
一人で淡々と一つのゲームに集中し、道を究めていく場合は携帯ゲーム機だ。例えばRPGやシューティングゲーム、シミュレーションゲーム、レコードを競い合うタイプのレースゲーム。
据え置き型ゲーム機はよりパブリックなポジションを強めていく一方、携帯ゲーム機は一人きりで攻略やレベル上げ、レースゲームのタイム更新といったより個的な感心を強めていくゲームに特化していくだろう。要はそれぞれの立場をより明確に切り分けていく、というわけだ。
性能面にこだわってゲーム機を選択する時代は終わった。これからは「どんな方向性のゲームを遊びたいか」でゲーム機を選択するようになるだろう。作り手にとっては、「どんな方向性のゲームを作りたいか」で発売するゲーム機を選択する。パブリックな場所を共有する意義があり、なおかつあのリモコンコントローラーを有効に使えるアイデアがあるならばWiiだろう。それ以外のゲームを作るならばニンテンドー3DSを選択するべきだろう。なにしろマシンスペックが高く、しかも全てのゲームが3D表示になるので、空間表現にこだわった作品ならばニンテンドー3DSのほうがプレイヤー側としてはありがたい。
ユーザー、制作者、双方がどんな基準でゲームを選択し、制作し、購入するか。ニンテンドー3DSはその区別をはっきりと付けさせるゲーム機だ。まさにゲームに対する考え方を一段階変えさせるゲーム機だ。
本体仕様と同じくらい興味深かったのは、あまりにも豪華なソフトラインナップである。任天堂がゲーム業界における主導的立場を失って以来、ソフトメーカーは様々な理由で任天堂を離れていった。別のゲーム機のほうが販売台数が多く、より高い商業的利益が見込める。別のゲーム機のほうが性能が高く、それと比較すると任天堂ゲーム機の性能はやや不安がある。そうなると、わざわざ任天堂機で発売する理由があまりないという結論になる。
ところが、ニンテンドー3DSには多くのソフトメーカーが戻ってきている。任天堂ゲーム機とはまったく縁のなかったナムコの『リッジレーサー』、性能面の問題で任天堂ゲーム機を避けてきた『メタルギアソリッド』、かつて「これからは任天堂ゲーム機を中心にゲームを出す!」と宣言しておきながら、あっさりと裏切った『バイオハザード』シリーズの帰還。他にも『デッド・オア・アライブ』『ストリートファイター』『テイルズ・オブ~』シリーズ、もちろん任天堂開発による人気シリーズ(『ゼルダの伝説 時のオカリナ』!)も発売ラインナップに含まれている。ゲームキューブやWiiにはなかった豊富さと幅の広さ。任天堂にとってもゲーム業界にとっても黄金期である、スーパーファミコン時代の再来を予感させる。古いゲームユーザにとってはこれだけでも感動的な事件だ。
任天堂はゲーム機の傑作と呼ばれたゲームキューブの商業的失敗以来、ゲーム作りのスケールを大幅に縮小し、開発の視点をコアゲームユーザーから軽薄短小と呼ばれるライトユーザーに移し始めた。《タッチジェネレーション》、初期においては「軽薄短小」と呼称されたゲーム群である。これまでのゲーム作りと販売方法に限界を感じていた任天堂は、むしろこれまでゲームに接したことのない多くの人たちにゲームの良さを知ってもらい、手に取ってもらおうと考えた。
この戦略は着実に成功を収め、ゲーム人口は飛躍的に増大。この深刻な不況下にも関わらず、任天堂の黒字はWii発売後3倍近くまで飛翔している(もし今のような経済不況、デフレ下でなければ? と思うととんでもない業績である)。「軽薄短小」構想は大成功であった。
しかし、軽薄短小は軽薄短小なのである。軽薄短小ユーザーは流行に乗せられて2万5000円のゲーム機を買ったものの、それ以上に入れ込むことはしなかった。一つのゲーム機をしっかりやり込もうとはせず、新しい情報を仕入れて別のソフトメーカーや作家の作品に触れようという考えを持たず、飽きたらポイッ。テレビラックの横に放置したまま、旧型ビデオデッキと共にそこにあったことすら意識しないようになる。軽薄短小は物事の良し悪しを自力で判断することができないし、しようともしない。ただその一時だけ大騒ぎできる道具さえあればいい。軽薄短小はどんなに素晴らしい芸術が目の前にあっても、無関心に通り過ぎるだけ。どんなに優れた栄養を与えても、少しも健康状態がよくならない痩せた肉体のようなものなのである。軽薄短小はいつまでたっても軽薄短小。だから軽薄短小なのだ。
ニンテンドーDSとWiiはこの絶対的多数派である軽薄短小ユーザーを大幅に獲得したが、その一方で本当にゲーム好きである少数のユーザーから見放されていった。サードパーティーも任天堂ゲーム機から遠ざかっていき、気付けば「任天堂ソフトしか売れていない」という状況になっていた(本体売り上げは飛躍的に伸びたものの、ソフト売り上げは思ったほど伸びていない)。売れているのは『脳トレ』とどこかのお笑い番組とタイアップした安っぽいゲームだけである。ネットコミュニティでは、ニンテンドーDSを所持していること自体が失笑の対象になってしまった。
批評家の意見を借りれば、確かにどの作品も別のゲームハードで一度発売された作品のリメイクやシリーズ作品ばかりである。だが「注目度」という要素だけを抜き出せば破壊力は抜群である。ほとんどのコアゲームユーザーは、ニンテンドー3DSというゲーム機自体ではなく、ソフトラインナップのほうが遥かに魅力的で、これだけを動機に購入を決めるだろう。持っているユーザー人口が多くなれば、ゲーム会社の経営者はそのゲーム機で作品を出そう、という考え方を持つようになる。これまで「プレ……プレなんとかがたくさん売れてるからプレなんとかで開発する」と言っていたのと同じ理屈だ。
ニンテンドー3DSは間違いなく高い売り上げを獲得するだろう。それも爆発的に。その後も一過性の流行に終わらず、息の強いペースで必要とされ続けるだろう。そうすれば金玉混在の無数のゲームがニンテンドー3DSに集まってくるようになる。バグ満載のどうしようもない駄作も出るだろうし(それはそれで愛好家に素晴らしい話題を提供してくれるだろう)、今まで誰も考えたことのない奇怪な作品も出るだろう。それに、あくまでも携帯ゲーム機である。低い予算で、アイデア勝負の作品も期待できる。もちろん、天才的な作家がひたすらこだわりぬいた芸術的なゲームも出るだろう。ニンテンドー3DSは様々なタイプの作家の要求に応えられるだけの高いスペックを持っている。
XBOX360やプレなんとかはハイスペックすぎて、ハリウッド的に言えばブロックバスター作品でなければメーカーもユーザーも受け入れられない状況になっている。例えば『桃太郎電鉄』のような伝統あるシリーズは、「ビジュアルが相応しくない」という理由でソニーはプレなんとかでの発表をお断りしている。XBOX360やプレなんとかはゲーム云々を議論する前に、映像表現にゴージャスにしないとユーザーから安っぽく見られる場合があり(特に『ファイナルファンタジー7』を切っ掛けにゲームにはまり込んだユーザーに多い考え方だ)、映像に金と労力のほとんどを消費し、ゲームの本質的側面を疎かにしてしまう傾向が少なからずある(見た目は確かに豪華だけど、ビジュアル面をマイナスすれば「これファミコンでも開発可能だよね?」というゲームはたくさんある。見た目は豪華だけど、中身は8ビットゲーム。そういうゲームって実は多い。ゲーム自体も、見た目は確かに豪華だが、実は同じボタンをひたすら連打しているだけで全ステージクリアできてしまうものもある)。
そこで携帯ゲーム機である。携帯ゲーム機であるというフットワークの軽さが、映像表現だけに捉われない、より柔軟なゲームクリエイトを可能にしてくれるだろう――と期待したい。
ニンテンドー3DSにおける弱点は、どう考えてもバッテリーの少なさだ。たったの3時間。バックライトを抑えるなどをすれば5時間ほど持つ、という仕様だが、それでもたったの5時間である。ゲームで遊ぶにはあまりにも不安定な短さだ。
次のモデルチェンジがニンテンドー3DSLiteになるのかLLになるのかわからないが(現時点でかなり小さいが)その時にはバッテリーを見直されていることを強く希望したい。
それから、これは構造的問題なのかもしれないが、3D立体視野角度があまりにも狭い。ゲーム機に対してほぼ真正面、近づけすぎても駄目、遠ざけすぎても駄目、35センチ前後というかなり限定的な範囲を推奨している。
ゲームプレイ中、複雑なコマンドを入力しようとボタンを押している最中、どうしてもゲーム機本体を傾けて画面が2重にぶれてしまう瞬間がある。リッジレーサーの話題で「コーナリング中に画面が2重にぶれる」というのを挙げたが、これは「そういう演出」なのではなく、プレイ中、本体をある一定以上傾けてしまったせいだ。3Dに見える範囲があまりも狭いために起きてしまう現象だ。昇竜拳すらまともに出せない人間(つまり私)が『スーパーストリートファイター4』のような複雑なコマンドが必要なゲームをプレイすると、しょっちゅう画面がぶれる。この3D視角の問題は構造的な問題で難しいのかもしれないが、次のモデルチェンジの時には是非とも改善、3Dに見える視角を大幅に広げてほしいところだ。
少し蛇足になるが、ニンテンドー3DSは「3Dで見せること」を新たに考える必要があるのかもしれない。というのも『スーパーストリートファイター4』の背景ビジュアルが、少しあっさりしているように見えたからだ。おそらく別の3Dではない画面で見ると、ごちゃっとした密集感を表現しているように見えるのだろうが、立体になることでそれぞれのパーツの間に「ゆとり」が生まれ、2Dで見るほどの密集感が失われてしまっていた。それは間違いなく3Dであることの「売り」なのだが、2Dで表現していた時のように見せられない、という問題もあるのかもしれない。……まあ2Dで見せたい場合は、2Dで作ればいいという話なのだが。
ニンテンドー3DSは6歳以下の幼児には3D機能を使わせないように注意喚起している。本家サイトでもそう注意喚起されているので、ここでもそれにならいたいと思う。
しかし、実際にはどんな年齢でも3D視聴は視力に何ら影響はない、という見解もある。いずれにしても、確たる根拠がまだ出揃っているとは言いがたいので、とりあえずは6歳以下という規制には従うべきだろう。
最後に私個人的な見解である。私の場合、ニンテンドー3DSで遊んだ後、ちょうど「ステレオグラム」で遊んだ後のような感じになり、非常に目がスッキリした感じになる。読書の合間にニンテンドー3DSで遊べば、確実に目の疲れが解消されている。
これがどういう状況なのか、いまいちよくわからない。ニンテンドー3DSをプレイすると、短時間でも激烈な目の痛みを感じるという人のほうが圧倒的多数である。確かに私も、3D映画『アバター』を視聴したとき、最初の1時間ほどはひどく苦労したのを覚えている。どの空間にピントを合わせるべきか、特に3D映画は俳優の演技と字幕が違う距離に出てくるので、かなりの疲労感があった(ただし激痛というのはなかった)。が、途中から慣れてきたのか、字幕と俳優の演技の両方を見ることに苦労はなくなった。そういった経験があるからなのか、ニンテンドー3DSの画面には何ら苦労なく見ることはできた。数時間連続で遊んでも、眼精疲労というのはまるで感じない。
もしかしたら、慣れの問題なのかも知れない。ゲームがポリゴン表現を獲得したはじめの頃、3D酔いする人が多数報告された。3次元空間の中を目まぐるしく動くキャラに目と頭が追いつかず、車酔いしたような状況になるのである。これもポリゴン表現が一般的になるにつれて、3D酔いを訴える人は確実に減っていき、今では3D酔いを口にする人はいなくなった。ポリゴン表現に慣れたのか、あるいはゲームそのものからリタイアしたのかのどちらかだろう。私は3D酔いしたことはない。
現時点で、「ニンテンドー3DSをプレイすると視力がよくなったように感じる」という人は少数だがいるようである。それはあくまでも少数派であるし、目が痛いという人のほうが圧倒的多数だ。そもそも小さな画面を首と手の位置を固定して、しかもかなり強烈なバックライトを浴びているのだから、目に良いはずなどないのである。それに、その人間がもともと持っている目の性質(例えば両目の視力の差)によって3Dがまったく見えない、それが原因で視力悪化の原因になる、などがあるようである。3Dで遊ぶことは、まだある程度の警戒が必要かも知れない。
PR