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■2011/04/18 (Mon)
評論■
批評なんて、あるわけがない
2010年の終わり頃。アニメは二つのオリジナル作品の発表に沸き立っていた。山本寛監督『フラクタル』、そして新房昭之監督『魔法少女まどか☆マギカ』の二つだ。
いずれも今のアニメ界を代表するアニメーション監督であり、2人の優れた傑作の数々は常にアニメファンの話題の中心であり、作品を発表するたびに熱狂的な支持者の一団を生み出し、制作会社にはありがたい黒字を提供してきた。その2人が同じタイミングでオリジナルストーリーを創作し、ぶつけ合う。
果たしてどちらの作品が勝利を収めるのか。批評家はどちらを支持し、アニメ雑誌はどちらに多くのページ数を割くのか。あるいは、DVD・ブルーレイ売り上げはどちらがランキングを独占するのか。言語数、売り上げ枚数、インターネット上のページ枚数、アニメファンはどちらが高い数字を獲得するのか、冷静に見守った。
結論を言えば――というかすでにあからさまな結論が出ているのだが、勝者は『魔法少女まどか☆マギカ』だった。圧勝という言葉が相応しい勝利だった。
インターネット上の話題は完全に『魔法少女まどか☆マギカ』が独占。普段アニメを見ない、という層までも熱中させ、DVD・ブルーレイ売り上げは、予約だけでも『けいおん!!』を越え、本格的に販売がスタートすれば『化物語』のレコードを越えるだろう。新房昭之監督は売り上げ、批評家評価の1、2位の両方を獲得したことになる。
一方の『フラクタル』は放送開始からわずか一ヶ月目には誰も話題にしなくなり、おびただしい数で制作され放送されるアニメ群の影の中に埋没した。山本寛の名前と『フラクタル』という作品自体は辛うじて忘れられずに済んだものの、情報を見つけてもそこにあるのはあまりにも辛辣なネット批評家たちの罵詈雑言だけである。扱いで言えば、今期もっとも安易なストーリーとキャラクターで制作された『インフィニット・ストラトス』よりも遥かに下、それも東京タワー最上部から見下ろしたマンホールの穴の底、とういうくらいが相応しい扱いであった。
第1話においてまどかの家族環境が詳しく解説された。まどかという人物を知る上で大切なファクターであるが、第1話以後、この家族はほとんど顔を見せなくなった。母親は度々登場するものの、父親は第3話に1度だけ。弟の存在は完全に物語から消失した。監督の意思としては、もう少しこの家族を描いてみたかったらしく、実際にその余地は充分にあっただろう。が、全12話という尺度の都合上、消える以外になかった。
『魔法少女まどか☆マギカ』も『フラクタル』も番組放送直前にあっても、徹底した秘密主義が貫かれていた。大雑把で抽象的な言葉が並んだ「あらすじ」と、いくつかのキャラクターイラストのみ。担当声優は明かされたものの、それがどういったキャラクターで、どのように物語、あるいは主人公と関わっていくのか、まったく不明だった。『魔法少女まどか☆マギカ』に至っては当初、脚本家である虚淵玄の名前すら明かされていなかった。
その物語がどう転んでいくかわからない。どちらも原作なし、という緊張感に満たされていた。
原作なし、という緊張感を効果的に発揮させられたのは間違いなく『魔法少女まどか☆マギカ』だ。『魔法少女まどか☆マギカ』の物語は落ち着いた語り口で順当に展開していった。2人の主人公である鹿目まどかや美樹さやかの立場、謎めいた転校生である暁美ほむら、魔法少女として艶やかな活劇を披露する巴マミ――。1、2話においてはまず必要であると思われる物語上のルール設計が語られた。魔法少女になるにはキュゥべえに見出され、キュゥべえと契約しなければならない。その契約条件は一つだけ願いを叶えること……。それから魔女と戦い、それで得られるグリーフシードを使うことによって、濁ったソウルジェムの輝きを取り戻すことができる。
1話2話は解説に徹底され、ドラマが動き出したのは第3話からだ。魔法少女になるための決意を固めるまどか――しかしその直後、巴マミが魔女の攻撃に油断し、死亡する。
魔法少女といえば女児の見るもの。可愛らしいキャラクターが登場し、甘いお菓子のようなストーリで、決して誰かが死んだり、思いがけないトラブルに見舞われることは決してない。巴マミの死亡はその定石を木っ端微塵に砕き、アニメユーザーに痺れるような緊張感を与えると同時に視線を釘付けにした。巴マミの首切りシーンは今や「誰もが知る有名なアニメの一場面」の一つに数えられるくらいである。第3話のラストシーンを切っ掛けに、物語の激鉄は派手な炸裂音を撒き散らしながら放たれたのである。
蒼樹うめのキャラクターは正面、ななめ、横といった決まりきった構図は存在するが、その中間を埋める絵がない。振り向きの中コマにどうしても不自然に見える絵が入ってしまう。顎の下の空間もなく、アオリからの絵が見せられないという問題がある。平面的な構図を強調した『ひだまりスケッチ』とは違い、アオリ俯瞰といったダイナミックな構図で絵が多く、作画スタッフはかなり苦労したらしい(みんな顎の下よりスカートの中を気にしたようだが)。
その後のストーリーは、どこまでも色調は暗く沈み、暗澹極まる展開を見せていった。第4話から第9話までは、活動が停滞するまどかに代わって(何者かによってまどかの活動に制限がかけられていた)美樹さやかが主人公となり、《魔法少女の運命》を代弁する。
幼馴染の上条恭介の腕の治療を代償に魔法少女になる美樹さやか。が、上条はさやかの友人である志筑仁美とすでに懇意の仲であり、間もなくその関係は成立する。同じ頃、美樹さやかの前に佐倉杏子が立ちふさがり、魔女との戦い、上条恭介との関係など、ことあるごとに妨害する。
そうして間もなく、キュゥべえが意図的に隠していた魔法少女というものの真実が明らかになっていく。願いを叶えられたと同時にその肉体から魂が抜き取られ、ソウルジェムに移されること。魔法少女の本体自身は“死亡”したことになる。
上条との失恋と、自身の肉体の死亡に絶望したさやかは、自分の身を破壊するような危険な戦い方にその身を投じていく。さやかの狂気はやがて濁った憎しみを撒き散らすようになり、膨れ上がった憎しみは、さやか自身を魔女に変えてしまう。魔法少女の末路――それは魔女になることであった。
全面ガラス張りの教室や、液晶パネルの黒板、不思議な様式美を持った自宅に、カットごとに変わるおびただしい数の椅子……。前衛的に思えるが、前者においては全て実際の風景にあるから、後者においては実写ドラマではすでに取り入れられているから、という理由で採用された。現実的に考えると「?」な描写も多々あるが、その場面における印象の強さが優先された。特にアニメは生活空間の描写が苦手で、背景と書割を取り違えていることが多いだけに『魔法少女まどか☆マギカ』から学ぶべきところは多い。
一つ一つの物語は順当に解説され、謎掛けと解明のバランスがよく、一幕一幕がひとつのドラマとして実に心地よい区切り方を心がけられている。主要登場人物は(キュゥべえを含め)わずかに6人――推理小説マニュアルが推奨する容疑者と同じ数であり、物語はミステリ並みの謎掛けの連続で、次の一手を容易に明かそうとしない。驚きの解明は決してコケ脅しにならず、周到な準備を持ってドラマの中に組み込まれている(ツイストが2重に仕掛けられている構造も素晴らしい)。
たった6人だけで展開していく物語だが、その構造は堅牢な強さを持ち、物語の中で完全なる小宇宙を形成している。
特筆すべきは、「視聴者の感情移入」の強さである。これは作り手が意図して操作したいと思ってもできず、それこそ創作における神頼みの部分である。その物語が支持されるか否か――映像作品の制作は1本で1億のお金が吹っ飛ぶものである。ハリウッドのブロックバスターなどは100億円前後が1本の映画製作に消費される。それだけのお金を消費して支持されなければ? 映像制作はひとつの博打であり、誰もが応援して欲しいと思い、願い、時には色々仕掛けたりするものである。
読者による「感情移入」はある程度なら作り手側にも操作可能である。主人公の立場をとにかく丁寧に、順当な準備を持って解説することである。物語とは主人公を介して語られる一つの世界観である。主人公は物語という非日常的な空間と立場の中心に立ち、その世界構造の解説者となる。読者がその物語の主人公の立場を理解し、感情的な経緯に共感し、同情するようになれば、その物語は成功である。読者は主人公と一体となり、あらゆるアクロバティックな展開が迫ろうとためらいもなく、同じ大きさの勇気を抱いて危険の中に飛び込んでいくようになる。
最近はネットの力によって、読者の声(リターン)は凄まじい速度で返ってくるようになった。かつて視聴者の声は番組を放送した後、少数の気まぐれを持った何人かがその想いを葉書にしたため、それが放送局、制作会社と長い長い旅をしてようやくどんな反応を抱いたか、感情を抱いたかを知ることができるのである。それが今や、リターンは一瞬である。特にニコニコ動画では、夥しい数のコメントによって、視聴者がどの場面でどんな感情を抱いたか、あるいは一つのシーンや台詞でどれだけの人が反応したのか即座に知ることができる。作り手にとって若干怖いところもあるが、視聴者の意識を正確にトレースするシステムを獲得したことにより、映像制作はよりスリリングになったし、視聴者の声を即座に制作に反映させられることも可能になった。視聴率などという古いシステムは、もうとっくに博物館行きの過去の遺物である。
『魔法少女まどか☆マギカ』はその感情移入の効果が絶大な力を持って発揮された。物語中、美樹さやかは暁美ほむらや佐倉杏子といった魔法少女たちに失望し、死んだ巴マミを理想化、神聖視するようになっていく。同じ現象が視聴者の多くの内面に起きたようだ。巴マミの死亡にショックを受けた多くの視聴者は、その想いをイラストに描き出すだけではなく、巴マミの映像集を制作し、中には巴マミが生存する「もしも」を題材にしたオリジナルゲームを作成する者まで現れた。
ここまでの動きの中で作り手は何一つ介在していない。通常は作り手側が何かしら仕掛けをし(例えば映画CMで「『まどか☆マギカ』チョ~サイコ~」とか言うあれだ。バカらしいが大多数の一般人には効果がある)、ユーザーの多くがそのお祭り騒ぎに揺り動かされていくものだが、驚くべきことに『魔法少女まどか☆マギカ』の作り手は何一つユーザーの活動に手を加えていない(単純にプロモーションのお金がなかったのだろう)。『魔法少女まどか☆マギカ』を見た決して多くもないユーザーがそれぞれで自発的に活動し、現在に至るまでの大きなムーブメントを作り出していったのだ。
作り手による感情移入の仕掛けは見事に成功。『魔法少女まどか☆マギカ』の物語は読者の心を完全に、それも決別不能なほどの密着度で鷲掴みにした。こういった状態になれば、クライマックスでよほどの間抜けをしない限り、『魔法少女まどか☆マギカ』は批評、ソフト売り上げの両方で確実に成功する。『魔法少女まどか☆マギカ』の企画は、まさに大成功であった。
物語の真相が明かされる第10話だがやや疑問がある。例えば『ワルプルギスの森』の出現について、何故まどかとマミはあらかじめ知っていたのだろう。それから魔法少女になると魂がソウルジェムに移されてしまうという設定だが、これはキュゥべえが秘密にしていたことのはず。どうして巴マミはこの秘密を知っていたのだろう(最終的にほむらも知らなくてはならないから、矛盾ではないが)。物語中に描写されなかったどこかで説明された、ということになっているのだろうか。とにかく尺度に限りがある急ぎ足のエピソードだから、やや仕方ないところだったかも知れない。
好評も、不評も、あるんだよ
一方の世紀の失敗作として誰からも見向きも話題にもされなくなったのは山本寛監督の『フラクタル』だ。『フラクタル』は山本寛監督が自身のアニメ生命を賭け、それまでの全てを注ぎ込んで制作されたはずの作品であった。それがどうしてここまで惨憺たる内容になったのか。
『フラクタル』はネット社会における現代の人間像を描いた作品である。あらゆるものが高度に情報化し、情報化する一方で一次情報である実体を喪失し、情報と同時に実体が虚ろになっていく現代をSFファンタジーの文脈の中でうまく風刺した作品である。おそらく作り手が想定した設計に大きな間違いはない。作り手には相応の意思があって『フラクタル』という作品があったのだ。作品を構成する設定、設計、思想そのものにはおそらく大きな間違いはなかっただろうと思う。だがその描き方、展開の方法に欠陥があった。
例えば主人公クレインの描き方だ。クレインが主人公としてのイニシアチブを持っていたのは、おそらく第2話までだ。第2話においてクレインはネッサとの交流に動揺し、生活空間を徹底的に破壊された結果、その破壊はクレイン自身の意識に革命を起こす。そこには間違いなく変化の物語があり、変容を受け入れ、それまでの生活を捨てるクレインの姿は実にドラマティックな活力があった。
が、『フラクタル』における変容のドラマはこれで終わりであった。第3話以降、クレインは主人公として特に何もしなくなった。
第3話『グラニッツ村』では、《フラクタルシステム》に干渉を受けない人々との交流が描かれる。グラニッツ村訪問はクレインの変化の段階を体現する重要な場面であるが、この頃からクレインの役目はただそこにいて、状況に翻弄されながら何もせず傍観しているだけのただのカメラマンになってしまった。状況は次々と変化するものの、クレインはその中心に介在せず、物語の主導的立場としての力を発揮しない。第3話から第4話冒頭にかけて、僧院の儀式を襲撃する大きな場面が描かれるが、物語の導線はそのクライマックスから完全に逸れたまま、ピントのぼけたグラニッツ村の日常とクレインの行動をひたすら描き続けた。間もなく襲撃というダイナミックな場面があるというのに、そこに至るまでのあらゆる経緯、例えば襲撃準備や“襲撃しなければならない理由・根拠”といった描写を映像からごっそり切り捨てて、視聴者にとっては不意打ちのような展開でいきなり襲撃という場面が描かれてしまった。それは明らかな失敗であった。実弾を使った血なまぐさい戦闘が描かれているというのに、見ている側はまだぽかんとした傍観者の気分のままで、カタルシスなどはどこにもない。物語の一人として介在し、その状況を応援しようという気分にはなれなかった。戦いの結果、主要人物と思われたブッチャーの死が描かれるが、エンリの悲しみにまったく共感を持てない。ブッチャーの死はテレビの向うの知らない誰かの死でしかなく、その死は視聴者の感情を何一つ干渉することはなかった(モブキャラが死んだのかと思った……というくらい、ブッチャーの死には関心が持てなかった)。“感情移入”の完全なる失敗である。『魔法少女まどか☆マギカ』における巴マミとの死による視聴者の反応を比較してみると、その差は歴然だろう。
物語の後半へ行くほどに、『フラクタル』の作劇は奇怪な様相を見せ始めるようになった。例えば第6話「最果ての街」。フラクタルシステムから見放された人々をロストミレニアムに引き入れようと強引な手術を施すディアスを、クレインとフリュネが目撃する。そこで様々な事件が起きて、クレインとフリュネの2人はその様子を間近で見ているのだが、まるで透明人間であるかのように、誰もクレインとフリュネの2人を気にかけていない。その後、ディアスの正体が明らかになった後、クレインとフリュネは難民たちとともに銃口を向けられた上で囲まれるのだが、クレインとフリュネはその包囲からいとも簡単に脱出してしまう。透明人間の“ように”ではなく、“完全に”透明人間の扱いである。その場で起きているドラマに一切参加していないのだ。
そもそも、グラニッツ一族は何を目標にしてフラクタルシステムの破壊を目論んでいるのだろう? フラクタルシステムによって、誰かが犠牲になったり不幸に陥った、といった描写はどこにもない。むしろフラクタルシステムに見捨てられたことにより、医療サービスが受けられないなどの問題のほうが大きく取り上げられているように思える。フラクタルシステムによる洗脳の様子が客観的に見るといびつ、というだけであって、それ以上の問題はどこにも見当たらない。フラクタルシステムは理想的な未来のシステムで、どこに欠陥があるのかわからない。というより、本来物語の中で描かれるべきだった“目標・目的”がごっそり抜け落ちてしまっていた。あるのは妙に空々しく聞こえるスンダ・グラニッツによる“思想”だけである。スンニ・グラニッツが感情的になってまくし立てるだけの言論らしきものには何ら共感を得るものはなく、どこか青春のリビドーと社会思想を履き違えた時代遅れの左翼活動家の姿を連想させる。要するに、思想の核となる“中身”がないのだ(最終話でのスンダの台詞「世界がどうなったらいいかわからん」って、オイ!)。
「フラクタルシステムは何が問題だったのか?」もっとも重要と思えるこの命題を解説する努力を放棄し、見る側との意志の共有・共感を求めようともしない。そんな作品にどうやって感情移入せよというのだ。
物語とは一人の人格が変容を受け入れていく経緯が描かれていくものだが、それとは別に、一つの物語は一つの思想として独立するものである。社会あるいは人間のアイデンティティーはあらゆる情報・思考の集積によって構成されるものであり、物語はこのアイデンティティーの構築に絶大な影響力を持つことができる。
が、『フラクタル』が描く映像・思想の中には何一つ見る側を啓発するような発見はなかった。物語のほとんどは確かに役に立たないものであるが、時にその時代の社会意識を転覆させるだけの影響力を持つことができる。作り手の意識の革命は、実際社会の意識を止揚させ、その時代に大きな痕跡を残すことすらできる。時に社会をそれ以前・以後に振り分けてしまうくらいの力を持つ場合もある。しかし『フラクタル』には時代遅れの陳腐な経験主義があるだけで、今の時代に対して啓蒙するだけの力はなく、砂粒のごとく散乱する現代の意識のどこかに埋没するだけの弱々しい存在でしかなかった。
『フラクタル』はいったいどこを目指していたのか。そもそもそこが見えてこない。“構想”、それから“思想”の二つが欠如した作品だった。
本当の批評と向き合えますか?
傑作と呼ばれるものの条件の中に、『複雑さとシンプルさ』が同時に混在していることが挙げられる(他にも挙げるべきものはあるが今回は取り上げない)。複雑さとは作品を描く際におけるあらゆる描写に必要なものである。構造の複雑さ、描写の複雑さ、ミステリ小説ならばトリック描写の複雑さ……。作品は繊細で精密で複雑で猥雑で、いっそ複雑奇怪な有象無象の何かであればあるほどよい。
その一方で、作品の核であるテーゼ――物語作品であれば主人公の感情はシンプルに訴えかけてこなければならない。主人公はその場面でどうしてそう思ったか、結果的になぜその行動を選択したのか。主人公の感情、立場、行動を起こした理由・根拠は誰が見ても明快であればあるほどよい。
主人公とそれに相応する主要人物の感情は作品の複雑さの中に埋没してはならない。もし作品の複雑さと同じくらい主人公の感情も複雑怪奇で捉えどころのないものにしてしまうと、誰も物語について来られなくなる。作品がより複雑で奇怪なトリックの数々に張り巡らされていれば、シンプルに浮かび上がってくる主人公の感情はより強い情緒を持って読者に訴えかけてくるはずだ。それが現実世界で決して体験できない複雑さと特殊感情で満たされていれば、その作品は特別な存在として賞賛されるかもしれない。
逆に作品の構造がシンプルで、主人公の感情描写もやはりシンプルであると、批評でよく言われるような「作品の奥深さ」や「人物描写の重さ」を見出すことができず、安易な作品と誰も見向きされなくなってしまう。
読者は主人公の立場や感情の経緯をひたすら追いかけることによって、物語を読み解いていく。主人公やそれに相応する人物と一緒に怒ったり笑ったり泣いたりしながら物語を進めていくのである。主人公の立場に深く理解し、同情していくこと。主人公の感情が読者の感情を強く揺さぶり、動揺を与え、最後には感情的陶酔である“感動”を与えること。それこそ名作であることの条件であるし、この感動のないドラマが名作と呼ばれることは絶対にない。
登場人物の感情がいまいち理解できない、推し量れない作品に何ら魅力を感じないし、そんな作品をわざわざ手に取ろうという好事家も少数派だろう。訴えたい主義や主張が無駄に羅列した言葉の中に埋没して、何が言いたいかわからない本や批評が魅力的に思えないのも同じ理由だ。
映画における名作は、主人公の立場が特殊で、その物語の中にあまりにも深い奥行きを内包しているが、それでも物語の経緯を見失うことはない。複雑であるのに、誰が見ても明らかなシンプルさを持ち、特に主人公の感情はビビッドに訴えかけてくるものがある。それは作り手が傑作とは何であるかよく理解し、主人公の感情描写を注意深く描写し、それを見た読者がどう思うかをひたすら考え続けているからである。
『魔法少女まどか☆マギカ』はどうやらこの傑作の条件に当てはまりそうだ。
『魔法少女まどか☆マギカ』の主要登場人物はわずかに6人。しかしその関係は複雑で、物語の進行には常に謎が付きまとい、なかなか明かそうとしない。次の一手がどうなるかわからない緊張が常に作品に張り巡らされ、読み進めていくのが怖いくらいなのに誰もその手を止めようとしなかった。主人公や主要登場人物の立場は極めて特殊だったが、作り手は周到に登場人物の状況を説明し、シンプルに理解できるように心がけていた。結果としては読者はまどかやマミ、さやかの感情に強く潜りこんで行き、作品と一体となって物語を追跡するようになっていった。物語の感情曲線は第9話から真相が明かされる10話において一度クライマックスを迎えるが、読者の感情も同様に極まっていった。
特に第10話「もう誰にも頼らない」は繊細に取り扱うべきエピソードである。第9話までに解説された全てがなければ第10話は深く理解できないし、それ以上に遅いと物語の感情はあまり効果を持たなくなる。物語の背景にある謎が10話に至るまでに順当に解説されていなければならない。『魔法少女まどか☆マギカ』を構成する要素は決して単純ではないし、むしろ複雑で読者が理解しなければならない特殊用語・特殊設定もそこそこに多いが、第10話まで追いかけていけば問題なく理解できるように構成されている。物語全体の力点がどこにあるのか作り手がよく理解したうえで、几帳面なくらいの繊細さで構成していったことがよくわかる。これが『フラクタル』との違いであり、『魔法少女まどか☆マギカ』が多くの人々に賞賛される理由である。
第7話ラストシーン。シルエットで描かれた戦闘シーン。余計なディティールを省いたことにより、ダイナミックな動きが強調された。真っ暗闇の中、極端に大きく描かれた目や口が印象的だ。が、これを見たいわゆる作画厨と呼ばれる連中は「手抜き」とこき下ろした。少しでも絵描きの素養のある人間ならば即座に気付くが、このシルエット画は一度ディティールを描いた上で真っ黒に塗りつぶしている。まったく手抜きではない。コントラストを調整するとわかるが、完全なシルエットではなく黒の濃度にも段階が付いているので、色指定も仕上げも楽ではない。「作画厨」と呼ばれる一団が実は基本的な教養がないことが暴露された瞬間である(作画厨はアニメ批評ブログを書いている人に多いようだ。誰とは言わないが)。
完全なるオリジナルストーリーを映像で描こうという人はすっかり少なくなった。アニメの制作には莫大なお金がかかるし、製作会社は原作なし、というリスクを恐れるようになった。それ以前にオリジナルストーリーを描こうというモチベーションを持った人が業界に少なく、少数ながらオリジナルストーリーを制作しようという試みはあるものの、もしかすると物語を構築するためのノウハウを持っている人は今のアニメ業界にいないのかも知れない。『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』『閃光のナイトレイ』……最近制作されたオリジナルストーリーはどれも後半に進むにつれてボロボロに崩れていった。漫画のカットを映像の上で再現するだけのアニメを作り続けたせいなのか、それはよくわからないし、その究明は現場にいる人たちで行うべきであろう。ここで何かを提示できたとしても、制作の現場に何ら影響力を持つことはできない。
そんな中にあって(そんな状況だからなのか)シャフトが仕掛けたオリジナルアニメーションの挑戦は、奇跡の輝きを放っている。『魔法少女まどか☆マギカ』は成功はアニメ史における少し大きな史跡として記録され語り継がれるだろう。そして新房昭之の名前は、その時代における多くのアニメ監督の一人ではなく、時代を代表する最高の監督として残されるだろう。
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