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■2011/01/24 (Mon)
シリーズアニメ■
おんなのこって なんでできてる?
~Roses are red、violets are blue~
~Roses are red、violets are blue~
制服。
ぶかぶかなのを買ってもらったはずなのに、なんだか、窮屈に感じるなんて。
首のところを見たら、プラスチックの、板みたいなのが入っていたんです。
ベタッとくっついて、ヒヤッとして……。
でも、ちゃんと着なくちゃ。今日から中学生だから。
――おんなのこって、なんでできている?
問いかけなのか独白なのか、物語はその言葉から始まる。
女の子の服に憧れる少年。男の子の服に憧れる少女。
似ているようで、なぜか交わらない2種類の感性。二鳥修一と高槻よしのは小学生時代、恋愛感情を持って結びつきかけたが、今は少し距離を置いている。といっても、関係が破綻したわけではない。“恋人”の距離からもう一歩遠ざかって、“親友”をやり直しているところだった。
違う性別だけど、お互いの社会的性に憧れる2人――。近い場所にいて、同じ気持ちを共有して、お互いを必要としているのに、それ以上に接近する術をまだ知らないくらい子供の2人。
そんな2人が、中学校に入学するところから物語が始まる。
中学――小学生の頃と違って、社会が性の差を明確に区分けする場所。本人の自覚や認識がどうであろうと、中学になると男は男、女は女という性の違いが明確に区別される。
しかし主人公である二鳥修一は、男でありながら女性という社会的性――とりわけ女性服に憧れを抱いている。一方高槻よしのは、男性服に憧れを持っている。
トランスジェンダーは本人が自覚している生物学的性と、社会が要求する性的役割と本人の意識が一致しない現象を指す。生物学的には男性だけど、本人の意識の中では女性。生物学的には女性だけど、本人の意識の中では男性。
だが、『放浪息子』が描いているのはどうやら性の不一致の問題ではないらしい。ただただ、異性という立場への憧れ。それを描いた作品だ。
二鳥修一と高槻よしの。自身の願望にためらいを持つ一方で、更科千鶴という男と女、社会的性を自由にスイッチを入れるみたいに切り替えられる少女がいる。二鳥と高槻の2人が「そうなりたい」と思う対象をあからまさに描き、対比を見せている。
詰襟はベタッと首にくっついて気持ち悪い。ぶかぶかのはずなのに窮屈で、息苦しいものすら感じさせる。あれを毎日着なくてはならないと考えた時、心底ゾッとした気持ちになる。
窮屈で息苦しくて、居心地が悪い。
それが現代の男性像――と、そう自覚している人は(多少は)いるかも知れない。
その一方で、女性は自由で解放的で、現代ほど快活に毎日を過ごしている時代はないだろう。
街に出るとあらゆる場所で女性は優遇され、料金は割引になり、毎朝の通勤ラッシュの最悪の状態から抜け出られる。ファッションのバリエーションはもはや数えることが不可能なくらい多く、色彩は艶やかで、その細部は下着のレース、リボンの一つ一つまで徹底されている。
一方の男性は、社会的抑圧の強さは相変わらず変わらず、公共的な場所ですら立ち入り禁止を要求され、時には目視することすら社会道徳に反すると非難される。ファッションに至っては何の面白味も工夫もない前時代的な繰り返しを現代まで引きずっている。はっきりいって、オッサン臭い(しかも高い)。
今、何よりも自由で何の社会的拘束も制限もなしに時代を謳歌しているのは女性なのである。女性は自由にファッションを楽しみ、美食に舌鼓を打ち、自身の美しさと教養の高さをどこまでも追及できる。生きることへの“ためらい”を持たないのが現代の女性だ。
そんな女性であることの自由さと美しさに憧れることに、どんな不思議があるのだというのだろう。
オープニングシーンは背景のパースに合わせてスタッフクレジットが浮かび上がっているように見せている。この手法はデビッド・フィンチャーが『パニックルーム』で披露した表現方法で、瞬く間に世界中の映像作家が模倣しつくしたために《パクリ》と言わず《文法》として組み込まれた手法だ。この作品が実は技術的な高さに支えられているということを、暗に主張する場面となっている。(一般における《盗作》と《文法からの引用》の差とは何なのだろう?)
現代は男性に何も求めていない。以前なら男性に社会的意義と責任を与えていた。
男性であるからには――結婚して、家を建て、車を運転すべき。あまりにもわかりやすい価値意識がそこにあり、その流れにうまく乗ってさえさえいれば、自分で考える必要もなく、価値意識の良い悪いを規定する必要もなかった。社会が良いと言ったら良い、悪いといったら悪い。かつての時代は、社会的刷り込みさえ了解していれば何も考えなくても感じなくても良かった。
だが、そんな都合のいい価値意識はとっくに崩壊した。そのくせに社会は、男性であることの立場や態度といったポーズを要求する。ぶかぶかなのに、ひどく息苦しいものを感じさせる詰襟のようなそれである。
だから、もっと自由になりたい。性という絶対的な規範の向こう側へ飛び越えて、自身を解放させたい。今の自分は社会的性がそう要求しているから、上っ面だけで演じているだけだ。社会的な性は、もはや「抜け殻」のようなものでしかない。本当の気持ちは、男であり続けることに――女であり続けることに、意義を見出せず飽きて疲れきっている。別の誰かへ――変身願望を充足させたい。
でもそんな心理的欲求を社会は決して受け入れない。ここぞとばかりに前時代的な権威主義が猛威をふるって、その個人と欲求を徹底的に陵辱し、破壊しようとする。
「気持ち悪い!」――なぜ? 社会がそう規定しているから。あるいは、変化を前におびえて震えているだけ。
だから二鳥修一と高槻よしのの2人は、密やかにお互いの願望を満たしあっている。恋心も同時に一歩一歩進めながら。
二鳥修一の姉、真穂は女装する修一に「気持ち悪い!」と問答無用のののしりを浴びせかける。社会の拒絶反応を極端な形で描いたものであり、ある意味、修一が内面的に抱いている後ろめたさを具体化したキャラクターだ。真穂は修一が「そうでありたい」と願っている全てを持った存在である。
映像が美しい作品だ。キャラクターの線はカーボン転写したセル画をイメージした線ではなく、鉛筆のざらつきをわざと残し、色の境界線には手塗りふうの塗りむらを残している。まるで、一枚一枚を筆で塗ったかのような柔らかい色彩だ。
背景は淡い水彩画風で、特に昼のシーンはフレームの四方と水平線が白く溶け込みさせ、ふわふわ浮かんだ印象を作り出している。夜になると一転して厚みを持った暗闇が描かれ、ディティールが持つ実在感を強めている。
動画は精密に描きこまれ、主要キャラクターが生き生き動くのは当然で、さらにどんな小さなモブの動きも《止め》を最小限にして妥協なく動きを与えている。暖かな印象で技術的な作品という印象を与えたない一方で、どこまでもハイレベル・ハイテクノロジーな作品だ。
そんな淡い印象で貫かれた映像の中を、キャラクターの独白と、ピアノの淡々としたメロディが彩りを与えている。混乱の少ない静かで淡々とした物語だが、淡い映像と独白とピアノの演奏が、思いがけないビビッドな心象風景を持った作品にしている。
最近のアニメーション作品では群を抜いて“美しい”と言える作品だ。間違いなく、今期最強のダークホースだろう。
作品データ
監督:あおきえい 原作:志村貴子
シリーズ構成:岡田磨里 キャラクターデザイン・総作画監督:牧野竜一
小物設定・衣装デザイン:松本昌子 メインアニメーター:サトウミチオ
美術監督:伊藤聖 美術設定:児玉陽平 編集:右山章太 色彩設計:大内綾
コンポジットディレクター:加藤友宜 CGディレクター:松浦裕暁
音響監督:明田川仁 音楽プロデューサー:佐野弘明
音楽:神前暁 岡部啓一 アニメーションプロデューサー:長野敏之
アニメーション制作:AIC Classic
出演:畠山航輔 瀬戸麻沙美 南里侑香 南條愛乃 井口祐一
○ 千葉妙子 豊崎愛生 水樹奈々 堀江由衣 松岡禎丞
○ 水原薫 本田貴子 宮坂俊蔵 小堀友里絵 高岡瓶々
○ 寿美菜子 鈴木恭輔 室元気 栗山拓也 佐倉綾音
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