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■2011/05/03 (Tue)
評論■
最後に残った批評
『魔法少女まどか☆マギカ批評・前編』を読む
『魔法少女まどか☆マギカ』は大きな社会現象を引き起こし、それは一時的なムーブメントに終わらず、放送が終了した今でも多くの人に様々な話題を提供し続けている。放送を見逃したという人も、話題の大きさに感化されてニコニコ動画やこれから発売になるDVDやブルーレイでぜひ見たいという動きがある。『魔法少女まどか☆マギカ』は深夜放送にも関わらず、多くの人が視聴し、ショックを受け、その話題に無関係でいることが難しいくらいの大きな波となった。その影響力について、少し想像してみるとしよう。
まず、漫画・アニメ・ゲームといった分野に魔法少女ものは激増するだろう。魔法少女ものが流行している、とにかく魔法少女ものさえ描けば儲かる――そんな安易な幻想(“勘違い”ともいう)を抱いた経営者たちがいくつもの魔法少女ものの企画をスタートさせるだろう。作家側はいまいち乗り気ではない、というか「絶対外れるだろうな」と思いながらも、ギャラの大きさに断りきれず黒歴史を積み重ねてしまう。そうして無数の魔法少女たちが望まれもせずに生み出され、あるいはそれに準じたジャンルヒーローが大量に放り出され、アニメ・ゲームなどの視覚メディアの紙面を埋め尽くすだろう。
かつて『もののけ姫』『エヴァンゲリオン』という2大ヒットアニメが制作された直後、勘違いした社長たちが次々とアニメに投資、大量の作品を作らせたものの、そもそも人手不足のアニメーターに極端すぎるオーバーワークを強いることになり(最近理解したことだが、アニメに詳しくない一般人は、普段のアニメーターは仕事が少ないと思い込み、「むしろありがたい話じゃないか?」と結論づけてしまう傾向にある。どうやらお笑い芸人と一緒という前提があるらしく、アニメの仕事は大量の過労死を生み出す激烈な仕事、という事実はなかなか了解してくれない)、結果的にアニメ全体のクオリティを引き下げる結果となった。『魔法少女まどか☆マギカ』実体的な黒字実績はさほど大きくないから『もののけ姫』『エヴァンゲリオン』当時ほどの大きな動きは起きないと想像されるが、結果的にアニメのクオリティを引き下げてしまうような現象を引き起こす可能性はある。
それから、漫画・小説のコンテストに大量の魔法少女ものが送られてくるだろう。もっとも、今のこの時期に魔法少女ものを描けば、それだけで『魔法少女まどか☆マギカ』の影響と見做され、下読みに本編を読んでもらえず梗概だけで落とされるだろう(下読みはまず梗概だけで落とす)。最終審査に残る作品に魔法少女ものは1本も残らず、漫画・小説コンテストの背景にそんなことが起きてるなど我々は知る切っ掛けもないだろうが。とりあえず、もしライトノベル作家志望が今これを読んでいたら、こう忠告したい。余程の独創的なアイデアがない限り、少なくとも10年間は魔法少女ものは禁じ手にすべきだ、と。
インキュベーターの語る「エントロピー」の解説が正しくない、という指摘がある。物語内における原則に矛盾がなければ現実世界の法則を多少捻じ曲げても問題ない。物語世界に矛盾がない状態のほうがよほど大事だ。が、この種の周辺知識的な描写は可能な限り現実の法則に学び、一致させたほうがよい。現実的な描写や法則を取り入れれば取り入れるほどに物語の真実味は増大するし、一般的な認識において、「リアリティ」の密度がより高い作品ほど上質な作品と考える傾向にあるからだ。リアル云々を重視しすぎてしまうと、女の子が魔法で変身する、という設定自体リアリティがないという話になってしまうが。
それからもう一つの影響――ストーリー展開、あるいはそれに準ずる性格を取り入れた作品がいくつも生み出されるだろう。かつて『エヴァンゲリオン』が社会現象をもたらした後、漫画・アニメの主人公たちの性格が暗くなり、物語の展開も憂鬱気味に、それからとりあえず(展開の必要、不要に関わらず)内面世界に逃避・埋没していく場面が描かれるようになった。
「影響」は決して悪いことではないし、非難されるような状態ではない。『エヴァンゲリオン』のヒットの後、誰もが『エヴァンゲリオン』の真似をした。みんな不器用に自身の創作、あるいは企画の中に『エヴァンゲリオン』を取り入れ、漫画・アニメの業界は一時的に(うんざりさせられるほど)『エヴァンゲリオン』の模造品だらけになった。
だが結果的に、漫画・アニメは以前より良くなった。登場人物はより深い内面まで描かれるようになったし、ストーリーは現実的な背景をしっかり描写されるようになり、何より画面の精度は確実に上がった。いま『エヴァンゲリオン』を再び見ても、そこから何かを見出すことはできない。かつてあれほど影響力を持ったはずの映像、ストーリーは今となってはどこにでもある平凡な創作物の一つでしかない。はっきりいえば、ただの古いアニメである(あの古臭い作品を未だに神聖視する人は多いようだが)。当時の感覚でいって『エヴァンゲリオン』という作品のショックを乗り越えるためには、その作品をひたすら模倣するしか方法がなく、結果的に時代は『エヴァンゲリオン』を踏み越えてそれ以上の作品を作り出す力を、あるいは方法を獲得したのだった。時代は『エヴァンゲリオン』を踏み台にして、確実に一歩上の段階へと突き進んだのだ。
それでは『魔法少女まどか☆マギカ』からどんな影響が想像されるだろう。『魔法少女まどか☆マギカ』というショックを人々はどのように乗り越えていくだろう。重要と思われた人物の強制的な死亡だろうか。主人公の意のままにならない残酷なストーリー展開だろうか。『魔法少女まどか☆マギカ』の物語の特徴は、登場人物たちの想いがただひたすら伝わらないことだ、という見方もある。あるいは魔法少女ものではなく、別の古くからあるジャンルヒーローを『魔法少女まどか☆マギカ』と同じルールで再構築する、という描き方だろうか。
しかしその模倣の方法では『魔法少女まどか☆マギカ』というショックを乗り越え、創作の意識をそれ以上の段階へと押し上げることはできない。作家たちはいつか『魔法少女まどか☆マギカ』以上の作品を生み出さねばならず、それができなければ視聴者は「いくら見てもあれ以上の感動が得られることはない」とアニメの視聴自体に飽きてしまう。作る側の成長速度よりも、見る側の「目が肥える」速度のほうがよほど早いのだ。だから『魔法少女まどか☆マギカ』はどのように物語が構成され、展開していったかそれを解体し、分析していく必要があるのである。『魔法少女まどか☆マギカ』は小さな町が舞台で、主要登場人物はたったの6人だけである。それがいかにしてあれだけの大きなスケールを持ち、あれだけの大きなエモーションを演出できたのか。そのスケールを操作する方法について、見ていきたいと思う。
鹿目まどかの母・鹿目詢子とそれからクラス担任の早乙女和子の会話シーン。ここで2人が実は古くからの友人であることがわかる。鹿目詢子と早乙女和子は物語にほとんど関与しない脇役であるが、面白いくらいディティールはしっかり作られ、登場回数は少ないものの極めて強い印象を残す。この2人を中心に据えたエピソードがなかったことが実に惜しい。
改めて『魔法少女まどか☆マギカ』の物語をそれぞれの構成要素に分解してみよう。
中心点―鹿目まどか
時間遡行者―暁美ほむら
第2の中心点―美樹さやか
前任者―巴マミ
介入者―佐倉杏子
使者―キュゥべえ
その他―上条恭介/志筑仁美
とりあえず中心的な物語を構築する登場人物は以上の8人だ。鹿目まどかの家族を含めるともう少し増えるが、さほど物語に介入してこないから必要ないと見做す。ちなみに物語の舞台となる場所は主人公たちが暮らす街一つだけである。
次にエピソードごとにおける物語の構成である。
1~3話までがこの物語における基本的な解説である。魔法少女の前任者であり指導役である巴マミと出会い、そして死による別れが描かれる。巴マミの死によって、物語の本質的な過酷さが直裁的に視覚化される。巴マミは自ら死ぬことで、物語の背景的な重さを解説し、鹿目まどかと見る者に警告を与えたのだ。
4~9話は鹿目まどかは物語の中心点という役割を一時的に美樹さやかに譲り、美樹さやかは魔法少女としての運命を代弁する。美樹さやかの物語の中に、上条恭介と志筑仁美の恋愛物語が描かれ、さらに佐倉杏子が介入してくる。「魔法少女とは何であるのか?」この物語上の命題は巴マミが解説した段階よりもさらに次の段階へと進んでく。
「魔法少女になると魂がソウルジェムに移され、肉体は死亡する」「ソウルジェムに輝きが失われると、魔法少女は魔女に変化する」この事実が明かされる頃、キュゥべえの正体がにわかに明らかになって行き、それぞれの関係性にコペルニクス的転回が起きる。自身の肉体の死と失恋に絶望した美樹さやかは、終局的に魔女に変化し、魔法少女としての運命を解説する役割を終える。巴マミと同じように、美樹さやかも自ら死亡することで、物語の本質的な“設定”を説明したのである。
ここまでの途上で、この物語における重大なテーゼが解説されている。
「魔法少女になるためにはキュゥべえと契約しなければならない。その契約とは、希望を一つ現実にすることである」
「ただし、この希望を叶えられると同時に、その主体はそこから消失する」
「間もなくソウルジェムは呪いを吐き出すようになり、魔法少女は希望の代弁者ではなくなる」
最大の希望を叶えた後に残るのは絶望だけ――というわけではないが、魔法少女たちは自身の希望に裏切られるわけである。自らの延命を願った巴マミは早々に死亡し、幼馴染の治療を願った美樹さやかはその幼馴染に裏切られ、佐倉杏子もやはり父親のために願い、父親に裏切られるという末路を経験している。魔法少女は自身が願った希望の当事者には絶対になれないのである。魂を天秤にかけた希望は結局幸福を生み出さず、だから魔法少女は恨み――呪いと絶望を吐き出すようになり、最後にはその本質を攻撃と破壊のシンボルへと変えてしまうのだ。
第10話は以上の前提を踏まえながら、もう一つのツイストである暁美ほむらが抱えている秘密が描かれる。暁美ほむらの過去――その物語が始まる以前に、どんな経緯があったのか。暁美ほむらは何を望み、魔法少女になったのか。ここでそれまで停滞していたかのように思われていた鹿目まどかが再びクローズアップされて、実は物語の大きな中心点に立つ重要な存在であったことが明らかにされる。【暁美ほむら―鹿目まどか】の物語を背景に置きながら【美樹さやか―佐倉杏子】の物語が描かれ、その物語に必要なルール設定が説明されていたわけである。
ちなみに暁美ほむらの願いは「鹿目まどかとの出会いをやりなおす」ことであった。その願いは確かに叶えられたが、鹿目まどかの死という結末だけが回避できない。だがそれでも暁美ほむらのソウルジェムが真っ黒な絶望に満たされないのは、「やり直し」が可能だったからだった。やり直しが可能である限り、暁美ほむらのソウルジェムは決してほむら自身を魔女に変えることはない。しかし11話のラスト、鹿目まどかは絶対に救えないという事実に行き当たり、ついにソウルジェムは真っ黒な闇に反転する(暁美ほむらは鹿目まどかを救うのではなく、鹿目まどかに救われなければならなかったのだ)。どうやっても魔法少女は自身が叶えた希望の主体にはなれず、最後に残すのは絶望という運命なのである。
物語はこうして終局面である11話12話へと向かっていく。10話までの物語によって必要な設定“ルール”が説明され、2つのツイストによって重要なキーワードが提示されている。
1つめのツイストはキュゥべえが黒幕であること。2つ目のツイストは時間遡行者である暁美ほむらの過去。
キュゥべえが黒幕という事実により、魔法少女という運命の全容が説明された。魔法少女になるためには強い願いが必要であり、願いが叶うと魂は肉体から分離されソウルジェムへと移される。ソウルジェムは間もなく恨みや呪いを吸い込み、吐き出して魔女へと変化する。これらは全てキュゥべえの企みであり、エントロピーを得て宇宙の延命を図るためであった。ここで重要なのは大きな望みが魔法少女を作り出す、という部分である。
もう一つのツイストは暁美ほむらの存在である。1つ目のキーワードを前提において、ほむらは時間を逆行して鹿目ほむらを死の運命から救い出そうとした。しかし何度繰り返してもその試みは失敗に終わり、時間遡行を繰り返すたびにまどかに絡んだ因果の糸は強くなり、物語におけるまどかの重要度は肥大化していった。
『魔法少女まどか☆マギカ』を支える最終的なキーワードは上の2つである。「魔法少女になるためには強い願いが必要」「暁美ほむらの過去」。この2つのキーワードを基本構造として背景に起き、どこまで深くドラマを描きこんでいけるか、あるいはスケールを大きく描けるか。
物語を構築する基本的な構成は、シンプルであればあるほど良い。ここを複雑にすると、物語の本質を見誤り、作る側も見る側も何となく「?」という状況になり、そこから魅力的な作品が生まれることはない。物語の本質となるキーワードは常にシンプルで、もっといえば簡単な形に視覚化できるものが望ましい。大きなバジェットで作品を創作する場合は、このキーワードはワンフレーズのスローガンにして、チーム全体が常に目にでき、自身が作ろうとする本質を再確認できるようにするべきである。
その物語において何を語るべきなのか。それからどの程度の規模の物語を描くつもりなのか。基本的なキーワードが持っている可能性、強さ、そのキーワードから構想されるスケールの全体スペースを計算に入れつつ、作り手はテーマの設計をじっくり吟味しなくてはならない。物語がどの程度の規模を持ち、結末に何が描かれるか、そして見る者にどの程度のエモーションを提示できるのか。すべてを逆算し、絞り込み、中心的な核を見定めた上で作り手はキーワードの選択を行うべきである。
基本的なキーワードをシンプルに設定しつつ、その上にどんなディティールを描くべきか。基本的なキーワードがシンプルな力強さを持っていれば、その上に描かれるディティールがどんなに複雑怪奇な有象無象であっても、作る側も見る側の物語の本質を見失うことはなく、物語の本質は変わらず強い輝きを放ち続ける。むしろディティールを複雑に描いたほうが、映像はもっともらしい力を持ち始める。だから基本的なキーワードがシンプルでありながらどれだけの力を持ち得るか、それを思いつくこと自体に作家の構想力=《実力》が試される。
物語とは登場人物の感情のぶつかり合いを描くものであるが、同時に作家の思想・思考を具体的な形にして提示する唯一の方法である。だから物語とは、一つの思想である以前に、作家自身の人格である。物語とは仮定として構築された宇宙であり、世界である。集合無意識から分離された世界であると同時に、集合無意識的なものを包括する世界である。作家はいかにして物語を思考し、構想し、世界を構築していくか。そのドラマが描く感情がどれだけの人々に動揺を与えられるか。そしてどれだけの影響力を持ち得るか。それを想定するために、シンプルでありながらより強い力を持ち得るキーワードの設定が必要なのである。
『魔法少女まどか☆マギカ』の場合は、上の2つがキーワードとなり、そのキーワードが前提となって登場人物が配置され、結末に向かっていくドラマが描かれた。シンプルなキーワードは、『魔法少女おりこ☆マギカ』『魔法少女かずみ☆マギカ』といったシリーズを生み出す拡張性を持ち得る。作家の構想は大成功である。宇宙そのものを飲み込む結末を生み出した構想力の凄まじさは、普通に考えられるイマジネーションを大幅に飛躍し、クライマックスが提示したエモーションの強さはかつて体験したことのない恍惚と陶酔をもたらした。シンプルでありながら強い力を持ち得るストーリー。脚本家・虚淵玄はこの課題を完璧な解答を示して乗り越え、魔法少女》をより新しく、刺激的で、感動的な叙事詩に変えて今の時代に復活させた。
第10話の放送後、東日本大震災の影響により11話12話の放送が大幅に延期になってしまった。しかしその間にアニメファンの熱狂はどこまでも高まり続け、「客席は充分に暖まった」状態になっていた。それに11話12話はひと連なりになった前後編であり、これを分離して放送することはありえなかった。放送の延期と2話連続放送。むしろこのことが『魔法少女まどか☆マギカ』という社会現象をより大きなものにした。
わたしの、最高の批評
脚本家の構想が完了すれば、後は芸術家の仕事だ。その場面をどのように描き、キャラクター、俳優に誰を選択するか、どんな音楽を映像に当てはめるか。構想に間違いがなく、どこにも矛盾も破綻もなく、それでいて素晴らしいクオリティの高さを示すことができていれば、後は余程の間違いがない限り、芸術家が余程の無能でない限り、作品は成功する。
『魔法少女まどか☆マギカ』は構想の方法について、重要を思えるキーワードを提示してくれた。しかしそのキーワードを充分に活用するためには相応の実力が必要であり、また野放図に展開させるスケールの大きなイマジナリィが必要だ。小さな笑いを積み重ねただけの小手先の技だけがいくらうまくなっても、陶酔と恍惚を持ったクライマックスを描くことはできない。
日本のアニメは間違いなく世界最強のポテンシャルを持っている。日本以外のテレビアニメと比較すると、日本のテレビアニメのクオリティは異常なレベルであるといっていい。しかし、劇場アニメの分野で見ると、西洋のアニメに1歩2歩も遅れている。ピクサーやドリームワークスが制作するアニメが稼ぎ出す興行収入と比較すると、日本のアニメは完全に敗北している。ストーリー、アクションを比較しても、日本のアニメが勝てそうな分野といえば、せいぜいバイオレンスとセクシャリティだけであり、日本以外の多くの人たちが日本のアニメに注目し期待しているのは、実際には暴力とエロだけだ。クエンティ・タランティーノも、安っぽい暴力とエロにまみれたグラインドハウスで日本のアニメを知り、詳しくなった。
なぜか? 長編物語を構成するためのノウハウがまったくないからだ。物語の結末を見定め、どのように描き、スケールを操作するのか。あるいはクライマックスに向かってどのように物語を組み立てればいいのか、誰も知らないからだ。アニメ映画のほとんどが無計画にストーリーが進行し、意味のない台詞をいくつも積み重ね、後半に進むほど退屈な中だるみが増大し、なにやら哲学的な台詞やシーンが描かれて何となく映画が終わる。作り手のその時の気分が徒にフィルムに投影されただけで、一貫したテーマ、あるいは主体性を見出すことができない。だから映画作りのプロであるハリウッドの製作者に日本のアニメは敗北し続けるわけだし、日本のアニメがマニアックな一部の人たちの趣味という範疇から抜け出せず、閉鎖した印象を持たれてしまい、そうすると当然市場も閉鎖し、アニメーターの給料体制(最重要事項)も一向によくなるわけもない。
大きな構想、それから大きな予算をふんだんに利用し、大きな作品を組み立てるための方法論を知らないから、これだけの高いポテンシャルを持ちながらそれ以上の広がりをもつことができないのだ。日本のアニメは何でもない日常を切り抜いた作品を描くことを得意としているが、それは「同じ文化圏」にいる人たちにのみ有効な表現なのであって、日本以外の人たちにとっては「?」だし、下手すると同じ日本人にすら文化を共有していないと「?」である場合もある。作品のほとんどは同じ予算で同じスケールで構想が組み立てられ、だから描けるものの限界も同じで、それ以上の、その向うにあるものが何であるのかの想定もできないないし、描こうともしない。今の日本に必要なのは、「うまい味噌汁の作り方」ではない。そんなものは誰でも作れる。必要なのは巨大建築を構想するようなスケールの大きく、それでいてコケ脅しではない骨の通った堅牢なるモニュメントを作る力である。
『魔法少女まどか☆マギカ』は大きな作品を作るための基本的な構想の手法をほんの少し、断片的に示してくれた。あとはどのように自分たちの作品に取り入れていくか、である。始めに書いたように、「影響」を受けることは決して悪いことはではない。自身のものとして体得できるまで、何度も繰り返し「真似」して「パクれ」ばいい。かつてアニメ・ゲームのストーリーが何を見ても『エヴァンゲリオン』の模倣になったように、徹底的に影響を受け真似して、その末に『エヴァンゲリオン』を踏み越えてそれ以上の作品が描けるようになればいい。『魔法少女まどか☆マギカ』もいつか「ただの古くさいアニメ」になるだろう(いつまでも当時の価値観、当時感じた感情を引きずって神聖化する連中はいるだろうが、そういうのは無視して結構)。
『魔法少女まどか☆マギカ』はアニメに対する意識を一段階止揚する切っ掛けを与えてくれた。これを切っ掛けに、同じ品質のアニメをただむやみに量産し続けるだけの今の状況から、もう少し野心的で挑発的な作品を作ろうというモチベーションが生まれればいいと思う。
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