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■2011/09/27 (Tue)
BLOOD-C (3)『BLOOD』シリーズはプロダクションI.Gが制作するオリジナルアニメーションで、テレビ、映画、ゲームと媒体を変えながら繰り返し描かれてきた作品であり、プロダクションI.Gを代表するオリジナルシリーズとして高い人気と支持を得ている。物語は制服姿の少女が日本刀を手に迫り来る怪物を薙ぎ倒していくバトルアクションであるが、実は主人公である少女もヴァンパイアであるという宿命を抱える伝奇的なストーリーを特徴としている。
最新作である『BLOOD-C』は人気女流作家であるCLAMPをゲストとして迎え、キャラクターデザインを担当、それからストーリー構成の一部をCLAMPから提供を求め、作品のカラーもCLAMPスタイルに纏め上げられている。

80106d3e.jpg3157a66d.jpg物語の舞台は浮島神社を中心とする小さな田舎町である。浮島神社の巫女である更衣小夜は神主である父と2人きりで過ごし、毎夜のごとく八卦に現れる告げに従い、御神刀を手に「古きもの」と呼ばれる5777b365.jpg5cc309b1.jpg異形の魔物たちと戦っていた。
恐ろしい宿命を背負う小夜だが、一方で日常は穏やかで平和的に流れていった。朝食は近所のカフェ・ギモーブの主である七原文人からいただき、のどかに歌いながら学校へ向かう。小夜のいる教室はわずか20名ほど。同じ教室には網埜優花や双子の求衛ののとねね、委員長の鞆総逸樹、寡黙な時真慎一郎といった友人たちがいた。小夜の昼の姿は、私立三荊学園に通うごく普通の女子高生であった。
そんな二重生活を続けていく小夜だったが、間もなく戦いの最中に不思議なイメージを見るようになる。それだけではない。昼の穏やかに思えた日常の中にも、何か得体の知れない違和感が広がっていく……。

激しいバトルアクションと怪しげな雰囲気をまとった伝奇を絡めた粗筋だが、シリーズを通して視聴し続けると、あまりの退屈さに見る側の体力とモチベーションをじわりじわり削り取られてしまう作品である。
ではなぜ『BLOOD-C』の映像に「退屈さ」を感じてしまうのか。一向に進行する気配を見せないストーリーだろうか。間違いなく違う映像なのに、同じように感じられる映像が何度も繰り返されるせいだろうか。近年のアニメ作品と比較して、一つの画面に描かれる情報の密度が低いせいだろうか。あるいは、その密度の中に、物語の進行を感じさせる新鮮さがないせいだろうか。台詞に際立った才能を感じさせないからだろうか。
おそらく視聴者が感じているのはその全てで間違いないであろう。しかしここでは、あえて物語を構成する設定や、背景の密度の低さを肯定的に受け入れ、もう一つの側面、「主人公が置かれている立場・状況」を中心に話を進めていくとしよう。
『BLOOD-C』の物語はなぜ退屈に感じられるのか。それは「主人公の置かれている立場・状況」がエピソードをいくら消費しても変化が見られないからである。「主人公の置かれている立場・状況」が変わらない、つまりそれは、実質的に「物語が進行していない」と同義であり、エピソード数をいくつ重ねても新しい展開はそこになく、むしろエピソード数を無用に消費すればするほどに視聴者はそのぶん退屈さを募らせ、次の放送を見るたびに失望の度量を大きくしていくのである。

もっと詳しくエピソードごとに“何が描かれたか”“何が語られたか”を見ていくとしよう。
《次の段落まで読み飛ばし推奨》
第1話は基本的な情報が解説される。更衣小夜は浮島神社の巫女であり、父親と2人きりで過ごしている。夜になると御神刀を手に「古きもの」と呼ばれる怪物と闘争を繰り広げている。島で唯一の学校である私立三荊学園には何人かの親しい友人がいる。もう1つ、第1話の重要と思えるキーはどこかの神社の前に佇む変な“犬”だろう。
次に第2話。第1話とほぼ代わり映えのない日常のシーンが描かれる。第1話との違いであり、キーと考えられるのは“ギモーブ”という食べ物。それから無口なクラスメイト時真慎一郎とのささやかな交流だろう。Bパートのバトルイベントの直前、書庫で父・唯芳との対話がある。母も御神刀を手に「古きもの」と戦ったが破れた、という話がある。
第3話。喫茶ギモーブで朝食、学校へ登校、クラスメイトとの日常的な会話が続く。クラスメイトとギモーブを尋ねたところに警官がやってきて、パン屋の主人が行方不明だと告げられる。その夜、小夜は「古きもの」を追い求める過程でパン屋の主人を見つけ、「古きもの」が飲み込み、殺害される場面を目撃する。小夜は「古きもの」に戦いを挑み、勝利するが、「古きもの」は死に際に「主、約定を守れ」と呟く。
第4話は前回の戦いを回想するところから始まる。「約定を守れ」そのことについて父・唯芳に尋ねると「古きものに惑わされてはいけない」と窘められる。その後はこれまでのエピソードで描いてきた日常の繰り返し。喫茶ギモーブで朝食、学校でクラスメイトの談笑、エピソードの後半に入り約束事になっているバトルイベント。その後、もう一度日常が描かれている。昨夜の戦いではかなりの人が死んだ。しかし街では騒ぎどころかニュースにもならず、いつもの日常が続いていた……。
第5話は冒頭からバトルイベントが始まる。一つ目玉の尼僧と戦い勝利する。一つ目玉の「古きもの」も「約定を守れ」と意味深な台詞を残して死ぬ。
Bパートは再び日常の話。雨で体育が自習になったから怪談をしよう、という話になる。そこで先生の筒鳥香奈子が加わり、その街に残る古い言い伝えを“怪談”として語って聞かせる。
「この街では昔から人ではないものが住まっている。それは人と違う形をしているときもあるし、似たような姿で現れるときもある。けれど、どれも同じなの。人を喰らうこと。それはあまりにも強く、人はその前にあまりにも無力で、なくせないものがあっても、愛するものがいても人ではないものには何にも関わりがない。見つかり、襲われれば、喰われていくだけだった。人たちは、なんとかその人ではないものと話し合おうとした。人ではないものの中には、人と同じ言葉を話すものもいたから。けれど、何も変わらなかった」
「なぜ、ですか?」
小夜が震える声で尋ねる。
「人でないものにとって、人は糧でしかないから。そして、人たちはある決意をした……」
とここで一発の落雷が激しく轟き、小夜が気絶してしまう。
その後、小夜は帰宅し、自宅の書庫の本を読む。今日先生から聞いた話を思い出しながら古い本を読むが、そこに何か違和感があるのに気付く。そこに求衛ねねが尋ねてきて、「古きもの」に襲われる。小夜は御神刀を手に戦うが、ねねが「古きもの」に喰われて死亡する。
第6話。前回のバトルイベントの続きから始まり、小夜は「古きもの」を倒すが、唯芳に眠らされてしまう。小夜は自分の部屋で目覚めるが、夢で見た光景を少しずつ記憶するようになっている。小夜は何か危険なものを感じ、刀を持って学校へ登校する。しかし学校は休校になり帰宅することに。その最中、不思議な犬が話しかけてくる。犬は何か知っているらしい。小夜は追及しようとしたが、そこに怪物と化した求衛ののが襲い掛かってきて、小夜はののもろとも「古きもの」を斬り殺す。
第7話。眠れない小夜に犬が話しかけてくる。小夜と犬はどこかで会ったことがあるらしい。犬はとある店の主だった。そこに小夜が尋ねてきた。「ある願いを叶えるために約束した」と犬は語るが、核心を聞く前に目を覚ましてしまう。Bパートは再び日常が描かれる。ギモーブで朝食を摂り、学校へ行くが「休校よ」と告げられて帰宅。その帰宅途中で「古きもの」と遭遇して戦いになる。「古きもの」は饒舌に御神刀の話も、母の話も、唯芳の話も「戯言だ!」と喚き散らした末に小夜に両断されて死亡する。
第8話は前回の続きから始まり、「古きもの」を退治し、時真との交流がしばし描かれる。小夜は時真にこれまでの事の次第を語って聞かせる。神社に帰り、風呂で休息。そこであの犬が現れ、「怪我がすぐに治る自分の体についてどう思う?」「皆を守る約束を破ったらどうなると思う」と尋ねられるうちに、不思議なイメージを見るようになる。しかし唯芳が風呂場に現れたためにイメージは中断される。それから3日が過ぎて、学校に登校するように指示が来る。学校へ行くと「古きもの」が唐突に現れ……。
第9話。前回のラストに現れた怪物が学校を襲撃。ここでクラスメイトのほとんどが死亡し、多くの犠牲を払ってようやく小夜は「古きもの」を撃退する。ここで小夜は、ようやく違和感の正体に気付く。学校の中に、自分のクラスメイト以外の生徒がいないこと。それから、果たして自分は小夜であったのか、疑問を持つように。
第10話。小夜はまだ自問を続ける。そういえば、母の記憶なんてそもそもなかったことに気付く。そう思い当たった直後、神社を「古きもの」が襲い掛かり、時真が「古きもの」の手によって死亡する。Bパート、自分の部屋で目を覚ました小夜は、ギモーブへ行き、文人から朝食を頂く。そこに先生の筒鳥が尋ねてきて、書庫を見せてほしい、と頼まれる。小夜は筒鳥とともに書庫へ。そこで筒鳥は「いつまでこんなバカな遊びを続けるつもり」と。書庫にある本はすべてニセモノと指摘する筒鳥。そこに、死んだはずの求衛ののとねねが現れる……。
第11話。筒鳥、求衛ののとねね、それから時真の4人が集まり、すべて芝居だったと明かす。街は大きなセットで、たまに見かける人はみんなエキストラとして雇われた人たちばかり。みんなある目的のために集められ、監視されていた、と告げられる……。

■■■■

bb478d85.jpg749a78df.jpg第1話は視聴者に基本的な情報、設定が解説されるので絶対必要である。物語の背景である街がどんな場所か、主人公である小夜がどんな立場にいて、どんな活動をしているのか。第1話における解説0ad1b153.jpg8e26ac5c.jpgは必要なプロセスだから絶対に外せない。
問題があるのはその後の第2話から第4話だ。断片的に必要なキーワードが散りばめられているが、本質的には何も物語587ab02c.jpgaeb30c87.jpgが進んでいない。今回のテーマに照らし合わせて言えば、主人公の立場・状況に対し何ら影響力を持っていない。第4話までに小夜は様々な戦いを経験してきたが、その戦いが小夜に与えた影響は何もなく、小夜に与えられた立場や状況は何も変化していない。視聴者の立場に立てば、「物語が何も進行していない」というふうに感じられるし、「物語が何も進行していない」というのははっきりとした事実である。
80513e9d.jpg03fc7e1e.jpg第5話に入り、ようやく視聴者は新たな情報を得ることになる。教室での怪談を語る場面で、物語の背景にある“設定”が説明される。
が、残念ならが第5話における“怪談”は594e9dd8.jpgd29fbcd3.jpg物語に対して、あるいは小夜の立場・状況に対して何ら影響力を与える力にはならなかった。なぜなら“怪談”として筒鳥の口から語らえれた“物語”はそもそもその作品が始まる前提から用意f21f73d6.jpgされているものであって、それをあらためて説明されただけに過ぎず、それが新たな物語を展開させる切っ掛けにはならなかった。事実として、その“設定”を聞いた後も小夜の立場や状況、小夜の思想そのものに対して何ら影響を与えることはなく、第1話に前提として提示された物語をその後も繰り返してしまう。
ついでに付け加えると、“怪談”という表装を借りた“解説”自体が間違っている。「雨で何となく暗い雰囲気だから怪談をやろう」という展開からしてかなり突飛だし、筒鳥香奈子から語られた怪談は、ちっとも怪談に聞こえない。聞き手がどう努力しても、「設定を説明しているよう」にしか聞こえないのだ。怪談らしい恐ろしげな雰囲気や怪しさはどこにもなく、台詞が語りらしく聞こえてこない(演技が悪いわけではない)。しかし筒鳥の説明に対して、生徒たちは驚いたり怯えたりする描写が描かれ、最後には小夜がショックで昏倒してしまう。筒鳥の話はただの設定説明でしかない、と勘のいい視聴者は即座に理解するはずだから、語りは怖くも恐ろしくもない。なのに怯えた表情を語りの間に差し挟まれると、あまりにもわざとらしく、しらじらしいという印象になってしまうのである。
どうせだったら訳知りの先輩を登場させて、解説を解説として堂々と説明させたほうが手っ取り早く、自然だ。
6c16a530.jpg作品を退屈にしている原因の一つがバトルイベントだ。小夜は時々目を赤くして、より強い力を発揮するが、その目が赤くなる条件がいまいち不明である。しかも、いつも何人か犠牲になった後で、「なぜもっと早く覚醒しないのか」と突っ込みたくなる。どうせなら、もっと緊張感のあるタイミングで目を赤くするべきだ。「目が赤くなる条件は残りの尺と関係しているのではないか」と言われてしまう原因になってしまっている。
第6話に入り、メインキャラクターである求衛ねね・のの姉妹が死亡する。普通の感覚で言えばかなりショッキングな場面であるはずなのに、主人公の小夜が置かれている状況を劇的に変化させる要因にはならなかった。ねねとののの死が小夜の立場・状況に革命を与えることはなく、小夜はその後も変わらず学校へ通うし、敵である「古きもの」と戦い続ける。
求衛ねねとののの死は、客観的に見て大きなインパクトがあってしかるべきである。それに、真昼の大通りでかなり派手な大立ち回りを演じ、求衛ねね・ののだけではなくかなりの人が死亡したし、街の一角に甚大な破壊をもたらした。にも関わらず、誰一人小夜を通報していないのである。警察は制服巡査がたった1人描かれるだけで、あれだけの死亡者(それ以前にかなりの行方不明者が出ている)が出たのにも関わらず、警察は何もしていないのである。
本来であったらあれだけの破壊と死者が出た場合、通報後20分以内でパトカーがすっ飛んできて(どんな田舎でも離島でも20分以内で現場に到着する、という内規がある)、現場は完全に封鎖、機動捜査隊、鑑識による初動捜査が始まるはずである。救急車もやってくるだろう。どう見ても大きな事件だから、かなりの数の捜査員が現場にやってきて、街は厳戒態勢のような状態に陥るはずである。
それにあの場面で小夜を目撃した人もたくさんいた。あの瞬間、間違いなく小夜は第1級の被疑者として町中に指名手配写真が配布されるはずである。もし警察の目から奇跡的に見逃されたとしても、街の人々による警戒の目、差別の意識は強烈に小夜に向けられるはずである。しかし、実際にはそんな状況にはならなかった。あれだけの怪我人と死者を出したのにも関わらず、町の人たちは小夜に何ら干渉してくることはなかった。
メインキャラクターであるはずの求衛ねね・のの姉妹が死亡した、という点にも注目したい。求衛ねね・ののは第1回から登場してきた、作品を彩る賑やかなキャラクターである。視聴者も――普通ならば――かなり愛着を抱いているはずである。しかし求衛ねね・ののの死に小夜の落胆も悲しみも描かれることはなく、その死が物語に対してドラマティックな揺さぶりを与えることはなかった。視聴者にも少しばかりの――奇妙な――動揺を与えただけで、求衛ねね・ののの死が感動的な感傷を生み出すわけでもなく、そして物語自体にも何ら影響を与えることはなかった。小夜が置かれている立場・状況に対して何ら変化を与えなかった。ただ単に、毎回登場しているキャラの1人が減っただけ、という印象であった。
4bafb4d6.jpg120分の映画の場合、物語を転換させるツイストは3~4回が適切だとされている。20~30分に一度ツイストが入る感覚である。シリーズアニメではどれくらいの期間でツイストを入れるべきか、具体的な方法論が示された例はない。早すぎると受け手が感情移入しづらいし、遅すぎると緩慢に感じる。ただ、シリーズアニメは劇場映画より初期地点から大きな変換とその課程を描けるという利点がある。これは大いに自覚して利用すべきところだ。
7話・8話について何ら解説すべき特記事項は見当たらない。求衛ねねとののの死という――普通に考えて――ショッキングな事件が起きたにも関わらず、小夜はほとんど動揺を見せず、自分の置かれている立場や状況に何らかの疑問を呈することもなく、その後も日常と戦いの繰り返しが描写された。その最中に、断片的で意味深なキーワードがいくつも差し挟まされたが、そのキーワードを受け取って小夜が何かしらのアクションを――物語の方向性を変化させるような抵抗運動的な何かをするわけでもなく、普段どおりの行動をその後も繰り返し続けた。はっきり言えば、無駄打ちエピソードである。
9話に入ってようやく、初めて有意義と思われる変化が作品に訪れる。「古きもの」が突如真昼の学校に出現。小夜のクラスを襲撃し、生徒のほぼ全員を虐殺。
『BLOOD-C』以外の普通の作品であれば、間違いなくキャラクターが置かれている立場・状況を一変させる大事件である。しかしクラスメイト全員死亡、という凄まじい惨劇を前にしても、小夜自身の変化といえば「自分のクラス以外の生徒がいない」ということと「自分自身のアイデンティティ」が少々揺らいだだけであった。小夜自身のこの2つの変化と発見は、よくよく考えるまでもなくクラスメイト全員死亡という事件とはまったく無関係の話であり、「もっと早く気付けよ」と突っ込むべきところである。クラスメイトの死亡という事件が何らかのドラマを引き起こす切っ掛けにならず、物語の状況を次に移すためのステップにすらならず、小夜自身に与えた変化といえば、少々の内的な発見だけで、やはり小夜が置かれている立場や状況に変化は起きなかった。視聴者は「結局なにも変わっていない」と受け取ったはずである。
10話にも記すべき変化は何もない。9話の延長で「古きもの」襲撃後の発見を延々繰り返しただけで、有意義な進展のない無駄打ちエピソードである。
10話をすっ飛ばして11話に入り、死んだはずのキャラクターが再登場して、実は全てお芝居だったと明かす。これが本来の意味で初めて有意義な変化だった、と言えるだろう。停滞に次ぐ停滞が延々続き、初めて目の前のもやもやした霞が晴れたような気分である。恐ろしく長い助走が終わり、ようやく三段跳びの最初の一歩目を踏み出せたような、そんな感慨であった。
11話の展開が、3話か4話までに描けていれば、もっと良かった。
382e6b01.jpgおおよそ意味のないプロットの連続に、物語に何ら変化を与える力を持たないサブキャラクターたち。プロット作りは構造的、機能的意義を持って構成しなければならない。それぞれのキャラクターがどんな役割をもって主人公の立場・状況に介入してくるか。ただ思いついたものを整理せず物語に放り込んだだけではダメだし、何が必要で何が必要ではないか、それは物語を描く前に作り手が厳しく判定を下すべき問題である。(『ゆるゆり』の件はあまりにも特殊な事例なので、比較として取り上げるべきではない)
BLOOD-C (2)ここで最近の優秀作品『シュタインズ・ゲート』を引き合いに出すとしよう。『シュタインズ・ゲート』は未来ガジェット研究所……大檜山ビル2階を主だった舞台としてキャラクターたちはほとんど移動せず、エピソードによっては大檜山ビル2階の1室だけで進行することは珍しくない。未来ガジェット研究所が置かれる秋葉原から外に出る場面は基本的にない(東京ビッグサイトのコスプレ会場に行く場面が例外として少しあるだけである)。物語の半径は秋葉原周辺を限界としてそれ以上周辺に広がっていくことはなく、物語に必要なキャラクターやファクターは秋葉原周辺にほとんど準備されている、という設定である。
ふとすると物語が閉塞的になって、退屈な内容になる危険性の高い設計にも関わらず、『シュタインズ・ゲート』は飛びぬけて面白い。今年一番の傑作であるといっても誰も反論しない優れたエンターテインメントである。
では『シュタインズ・ゲート』と『BLOOD-C』を比較した場合、決定的に違うポイントはどこであろうか。それは主人公鳳凰院凶真……いや岡部倫太郎が置かれている立場・状況が確実な歩みを持って少しずつ変化してくところだろう。それぞれのキャラクターに出会い、タイムマシン発明のヒントを握るIBN5000を手に入れ、SERNと少しずつ関わっていく様を順当に描いている。一見するとゆっくりとした慎重な歩みに思えるが、実際には極めて合理的意図を持って着実に物語が目指すクライマックスに向けて重要なファクターを積み上げていっている。
『シュタインズ・ゲート』の物語が決定的な変化を迎えたのが12話。とある重要人物の死によって、物語は大きな節目を迎える。そこで岡部倫太郎は発明したばかりのタイムマシンを利用し、過去へとタイムリープし、とある人物の死を回避するために、様々な方法を考案し、何度も同じ時間を繰り返すのだが、その段階で、これまでに積み上げてきた全てのエピソードが実はかなり重要な意味を持っていることを岡部と視聴者は知ることになり、愕然となるわけである。
全てのキャラクターの台詞、行動が何らかの意図を持って合理的に描かれており、それらが主人公岡部倫太郎の立場・状況に干渉している。だから物語の舞台が同じ場所の繰り返しであっても退屈は感じない。“物語の舞台自体は移動していない”のに、“物語そのものに移動感”があり、その移動感を視聴者に感じさせるようにしっかり描かれている。
『シュタインズ・ゲート』はユニークにひねくった名台詞の数々も楽しみのポイントであるが、それ以上に人を惹きつけさせる力を持っていた。物語の根本である骨格が太く、揺るぎない強さを持っているからである。近年のアニメ作品群にあって間違いなく良質な一作と言える作品であった。
e752c9d0.jpg漫画・小説養成講座などでは、物語が失速ぎみと感じたら、とりあえず主人公を走らせろ!と教えている。確かに主人公が走るとそれだけで疾走感が出る。走る、飛ぶといった原初的な行動は、読む側に無条件の爽快感を与えるのである。しかし『BLOOD-C』には毎回必ずバトルイベントが挿入されたが、爽快感、疾走感はどこにもなかった。どこかRPGのエンカウントバトルのような、まだるっこしい義務感があっただけだ。それは恐らく、“戦った”という経験に意義を与えられなかったからだろう。
そろそろ『BLOOD-C』に話を引き戻し、この感想文をやっつけるとしよう。
『BLOOD-C』の基本的な設定、キャラクターを変更しないルールで、どのように改変し、描けば退屈しないで視聴が耐久マラソン状態にならずに済んだのだろうか。視聴を飽きさせない重要なポイントは、物語に停滞感を与えないことである。それはどんなにひねくったユニークな台詞を連打したとしても、本質的な“変化”がなければどんな作品でも退屈であると判定されてしまう。
大切なのは物語の構築に“移動感”を意識することである。この“移動感”を描くために、主人公の立場・状況を常に明快にしていくと効果的である。
主人公小夜は夜な夜な「古きもの」との死闘を演じていた。間もなく「古きもの」が小夜に「約定を守れ」と語りかける。そこで小夜は、父・唯芳に疑いを持つようになる……。
『BLOOD-C』の決定的問題は、主人公小夜の性格があまりにも淡白に描かれすぎたことである。「古きもの」と戦い、激しく傷ついても翌日には何事もなく回復してしまっている。「古きもの」に語りかけられても、小夜自身の意識と行動に何ら影響を与えることがなく、前回と同じ行動、台詞を当り前のものとして繰り返してしまう。小夜の設定が磐石過ぎて、そこに動きを感じないのだ。
だから、ここを少々改変すれば作品に動きが生まれる。唯芳に対する疑いが生じると共に、「古きもの」との戦い自体に疑いと迷いが生じ、そもそもなぜ自分が「古きもの」と戦うようになったか、その起源を追跡するようになる(そしてその起源に対しても疑いを持つようになる)
これでかなり退屈な繰り返しの物語から、ある程度の動きが生じたはずである。
それでも小夜は、人々に危害を加える「古きもの」との戦いをやめるわけにはいかず、危険の中に身を置き続ける。だが間もなく「古きもの」は夜だけではなく昼の街中にも現れるようになり、戦いは多くの被害者を生み出すようになる。街の人たち、それから小夜のクラスメイトは小夜の存在を強く意識し、同時に小夜も街の人たちを強く意識するようになる。偏見や差別、誤解がこの両者の間に生まれ、小夜は孤独な立場へと追いやられてしまう。こう描けば小夜の孤独なヒロイズムの側面が強く際立ち、同時に鞆総、時真との関係にメロドラマ的な情緒を生み始めるはずである。『BLOOD-C』はなぜか恋愛物語に発展しそうな要素を避けて描かれていたが、恋愛は人々を強く惹きつけるので、むしろ積極的に描き、あるいは恋愛の匂いを漂わせておくべきである。
小夜は街の人たちから徹底的な排除と妨害を受けながらも、戦いを続けていく。おそらくサブキャラクターたちの心理も追いつめられていき、どこかで限界を迎えるだろう。その両者が限界に達したところでネタ晴らし。「実はなにもかもお芝居だった」と誰かが小夜に明かす。登場キャラクターそれぞれの心理的過程をしっかり描けば、間違いなく緊張感を伴う力強いプロットに変わったはずだ。
何となく意味ありげな台詞やキーワードを物語のあちこちに振りまく手法は何ら合理的効果を持たない。それらの台詞やイメージは視聴者に物語の背景を想像させる切っ掛けを与えるが、合理的効果を予想して配置しないと、ただ単に次の展開や話のオチを予想させるヒントになってしまい、かえって物語を追いかけていく楽しみがなくなってしまう。しかも主人公に与えられている立場や状況にはなんら影響を与えていないのだから、物語を次の段階に移す機会を見出せないまま単に時間(あるいはページ枚数)を消費するだけになってしまう。だから、主人公の立場・状況を明確に意識し、物語に移動感を与えることが大切なのだ。
上に書いた修正プロットだけでは正直なところ、視聴者を惹きつける力を持ちえたとは思えない。だが、とりあえずオリジナルプロットよりはほんの少し退屈さが緩和され、もう少し視聴を続けようというだけの移動感が生まれたはずだ。
物語を本当に魅力的にする力とは、合理的な思考、判断とはもっと違うもの――インスピレーションの強烈さである。傑作を生み出す力とは、常識と意外性の谷間に沈んでいる小さなひらめきである。そのひらめきを見出せない限り、いくら会社命令といえど無理に作品を捻り出すべきではない。どんな企画でも熟成させる期間が必要なのだ。物語に確実な移動感があり、さらにドラマティックな感情の高ぶりをより多くの人に共感させられる力があれば、どんな作品でももう少し高い評価が得られるはずである。
c3458d84.jpgプロダクションI.Gは少し前まで、日本で最も絵のうまいアニメーターを抱える制作会社として世界に知れ渡っていた。しかしその勢いは今どこにもない。つい最近も、アニメファンから最低の評価を受けた『もしドラ』もプロダクションI.G作品だった。今のままではアニメファンから見放され、DVD売り上げも伸びず、それらは会社経営に対して甚大な影響力を持つようになるはずだ。会社は良質な作品を作り続けなければならない。そろそろ名誉挽回のための打ち上げ花火を見たいところだが。
『BLOOD-C』のような明らかな失敗作と接すると、その制作会社に乗り込んで、関係者をしつこいくらい追い回してインタビューし、どうしてそうなったのかどの段階で失敗が生じたのか、その原因を追求したくなる。もちろん一介のブロガーにそんな権限などあるわけがないし、普通は失敗作の原因なんて当事者は振り返りたくないはずだし、ほとんどの当事者は自分たちの創作が失敗だったと認めたくないはずだ(大抵の場合、失敗の原因と反省を受け手の側に求める)
一般的な批評家は、制作スタッフの中に知っている名前を何人か見出し、その数人を“戦犯”という名の生贄と祭り上げる。
しかしそういう批評のやり方は何の意味がない。ただ制作スタッフの中の数人を引っ張り上げて精一杯の力で叩きのめしても、失敗した原因を知ったことにはならず、次の作品に向けた反省にもならない。“祭り上げる”“叩く”はイジメにありがちな典型的な心理状態――ストレス解消法でしかなく、叩けばスッキリするだろうが、反省を見出したわけではなく、次も同じ失敗を繰り返すだろうし、やはり反省がなければ誰かを生贄として祭り上げ、放逐した挙句、そのうちにも組織の力は弱体化していく。
どんな天才的な監督、有能なスタッフが集まっても失敗するときは失敗するのである。
映画やアニメといった集団制作を前提とした作品は、個人が作り上げる漫画や小説と明らかに性質が違う。何が原因で失敗したのか、なぜ作品が失速したのか、その原因を分析するのは容易ではない。まずいって当事者ですら理解できていない場合がほとんどだ。
映画やアニメといった集団制作になると、あらゆる状況が製作過程に出現する。時間勝負でお金が流れ出て行ってしまうので、状況のどこかで一旦止めましょうというわけにはいかない。まるで洞窟の掘削作業のごとく、自分でどこを掘り進めているか見失うこともしばしばある。だから、どこで作品の品質という重要問題にほころびが生じたのか、ある意味、作り手が一番理解できず、作り手が知りたいと思うところなのである。
制作開始までに有能なスタッフが集まらなかったのか。どこかで制作体制に甚大な被害をもたらす障害が生じたのか。単純に制作途上でお金が尽きて、無理矢理スケールダウンしなくてはならず、その影響でストーリー構造にも被害を与えてしまったのか。制作に絶対必要なスタッフが病気で倒れた、というケースもあり得る。どこかの段階で間違いなく最終結果に影響を与える何かが起きているはずだけど、当事者がそれを把握できず、また予測もできなかった。
だからその失敗の事例を収集し、分析し、失敗のパターンをインデックスにして提示できれば、将来的には失敗するケース自体はかなりの確率で減らせるはずである。もちろん、【失敗作ではない=傑作】というわけではない。【失敗作ではない=まあまあそこそこの作品】に過ぎない。だが明らかな失敗作を作ってしまうよりかはマシだと思いたい。
その逆に傑作を作り出すことは容易ではないし、どんな作品も傑作を作るための参考にはならない。大ヒットした傑作を手本にしてそれと同等の精度を持った芸術を作り上げても、そのときには人々はすでに違うパースティクティブの作品を求め始めている(例えばセガは、ソニーのゲーム機を意識して丸みを帯びたホワイトボディのドリームキャストを作ったが、当のソニーはブラックボディのいかめしいトールタイプのゲーム機を作った)。傑作に少々の改変を加えてもダメだ。それだけでもオリジナルが持っていたエッセンスは完全に失われる。傑作とはトランプで作ったピラミッドのような、微妙でぎりぎりの均衡を持って奇跡的にそこに立っているものと了解しなくてはならない(つまり、ほとんどのリメイク映画は失敗する宿命を抱えているわけだ)
だからこそ、傑作ではなく駄作にこそ学ぶべきものはあるのだ。「つまらないから」といって切り捨てるのではなく、「なぜつまらないのか」を貪欲に知ろうとする意識が、作品をよりよくする秘密を知るチャンスを得ることになるのだ。

作品データ
『BLOOD-C』
監督:水島努 原作:ProductionI.G/CLAMP 原作監修:藤咲淳一
ストーリー・キャラクター原案:CLAMP 脚本:大川七瀬、藤咲淳一
アニメーションキャラクターデザイン:黄瀬和哉 総作画監督:後藤隆幸
コンセプトデザイン:塩谷直義 『古きもの』デザイン:篠田知宏 
プロップデザイン:幸田直子 美術設定:金平和茂 美術監督:小倉宏昌
色彩設計:境成美 3DCGI:塚本倫基 編集:植松淳一
撮影監督:荒井栄児 特殊効果:村上正博
音楽:佐藤直紀 音響監督:岩浪美和
アニメーション制作:ProductionI.G
出演:水樹奈々 藤原啓治 野島健児 浅野真澄
   福圓美里 阿部敦 鈴木達央 宮川美保
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