■ 最新記事
(08/15)
(08/14)
(08/13)
(08/12)
(08/11)
(08/10)
(08/09)
(08/08)
(08/07)
(08/06)
■ カテゴリー
お探し記事は【記事一覧 索引】が便利です。
■2011/12/06 (Tue)
劇場アニメ■
本館と講堂を結ぶ渡り廊下に、午後の陽射しが差し込んでいた。まだまだ冬の寒い空気が残る頃で、陽射しは緩やかな熱の固まりになって廊下に落ちていた。
そんな渡り廊下を、澪を先頭に、次に紬、律、一番最後に唯という順番で歩いている。律は紐で縛った一杯の本の束を抱えていて、唯はゴミの入った透明の袋を後ろ手に持っていた。
「あ~あ……」
ふと唯が溜め息をこぼす。
ぱたぱたと続いていた足音が途切れたのに気付いて、皆は足を止めて振り向く。
「どした?」
律が唯に声を掛ける。唯は開けたままになっていた扉の前に立って、中庭の様子を見ていた。
「うん……」
唯は律を振り向くけど、考え事をするように視線を落とす。
「さっきのさわちゃんの話?」
律が気を遣うようにする。ついさっき、部室でさわ子先生が「留年の可能性がある」なんて話を始めたのだ。からかわれていただけだ、とわかっていても、やはり引っ掛かるものがある。
「じゃなくてね」
唯が考えていたことはもう少し違うようだ。
「うん」
「もしかして私たち、先輩としての威厳がないまま卒業しちゃうんじゃないかな」
「え~」
声を上げたのは律と紬だ。
「そんなことないぞ! 私たちは……」
「背が高い!」
勢いよく声を上げたのは紬だった。
「年上だ!」
律が紬を振り向く。
「元気!」
紬が頷きながら答える。
「他にないのか」
呆れるように澪が突っ込む。それじゃ、尊敬できないだろ。
唯は、再び扉から外を見ていた。校舎の向こう側に見える、淡く霞んだ空を見ていた。
「私、最後に何か先輩らしいことしたい!」
思いを告白するように、唯が振り返った。
『けいおん!』が最初にテレビ放送されたのは2009年の春だった。深夜という見る人が限られるニッチな枠だったのに関わらず、『けいおん!』の存在感は同じ時間帯に放送される有象無象のアニメ群の中にあって際立った輝きを放ち、『けいおん!』はあっという間に「深夜アニメを求める特定の人たち」からより広い意味を持った若者層へ拡大していった。翌2010年には第2期『けいおん!!』が放送。TBSアニメは1クールという原則を破って2クールという長丁場でアニメは制作され、唯たちの最後の1年間がより詳細に描かれるようになった。『けいおん!』熱の奔流は勢い留めず日本という国を、あるいは2009年から2010年という時代を駆け抜けていった。
そして2011年12月3日、誰もが待ち望んだ作品がついに封切られた。『映画けいおん!』である。
テレビ版でも重要なファクターとして扱われた渡り廊下。そこを通過すること、留まることで物語や唯たちが置かれている状況が解説されている。劇場版では間違いなく特別な場所に見えるように映像処理が施された。渡り廊下という場所を基点に見ていくと、『けいおん!』という作品への理解が深まる。
『映画けいおん!』はテレビ版を本編とする傍流作品である。テレビ版では描かれたなかった様々な場面を接ぎ穂するようにエピソード描かれている。『番外編 劇場版!』とするのが正しいだろう。キャラクターの置かれている状況や衣装などで、テレビ版のどことザッピングしているのか容易にわかるように作られている。
『映画けいおん!』を一言で表現するならば「脇道の映画」である。大雑把な枠組みとして、唯たちがロンドン旅行するという話があるものの、唯たちの物語やキャラクターの対話はひたすら脇道を突き進んでいく。脇道と小さなネタが調子のいいテンポでいくつも紡がれ、ゆっくりと本筋の物語や舞台に移り進んでいく。いったいシーンの数は全体でいくつになったのだろう、というくらいシーンが矢継ぎ早に飛んでいく。
普通の映画の作法であれば、まず主題を設定し、そこへ向けて物語なり舞台を移していくものだが、『映画けいおん!』は延々脇道と脱線を繰り広げていく。その勢いはロンドンへ移っても相変わらずで、「いかにもそこにドラマが準備され待っています」という組み立てはまったく見えず、脇道と脱線を繰り返しながら、いつのまにか物語は、映画の中心的テーマへ向かっていく。ある意味過剰なくらい「いつも通り」の唯たちの物語が描かれている。「劇場版だから」といっていかにも気負った感じはなく、気合の入った小ネタ集ではあるものの、作品は決して小さくなく、むしろどっしりと構えた大きな枠組みの中に唯たちの“今”が全力で敷き詰められた作品である。
映画の物語作法としてはイレギュラーだが、『けいおん!』らしさが貫かれた『けいおん!』でしかあり得ない劇場映画として仕上がっている。『けいおん!』という作品に深く接し、誰よりも理解している山田尚子監督だから見つけ出せた、より『けいおん!』らしい作法を持った映画だ。
『映画けいおん!』の映像はテレビシリーズ版と比較して、劇的に変わったという印象はない。キャラクターデザインはテレビシリーズ版のものがほぼそのままで採用されたため、線の密度や重量感が「映画だから」といって増強されたわけではない。
しかし『映画けいおん!』の映像に接していると、不思議と映像の世界に包み込まれているような、不思議な充足感に捉われる瞬間がある。確かに線の密度や設定はテレビシリーズからあえて変更が加えられていないが、“そこにあるべき空気”の存在を丹念に、繊細に描かれている。その場所にあるべき暗さや熱の感覚、奥行き。撮影スタッフは、架空の場所である絵画世界を、あたかも実在して呼吸している場所のように仕上げている。例えば教室内の仄暗さ。テレビシリーズでは漠然と描かれてきたが、劇場版ははっきりと光の存在が意識されている。どこから光が差し込んで、どれだけの暗さ、明るさをもっているのか。場面ごとにその差異がはっきりわかるように描かれている。映画という枠組みを持ったことで、生活空間の描写そのものに奥行きが与えられた点も大きいだろう。今まで見えなかった側面が、いくつも見られたのが面白かった。
また音響効果はわずかな足音、布ズレの瞬間を逃さず音を与えている。キャラクターのほんのちょっとした動きにつられて発する音の数々。アニメのキャラクターは当然実在しないわけだが、あたかもそこに実在して、本当に演技した瞬間の音を捉えたかのようにすら感じる。
音響、撮影ともにこの映画において素晴らしい仕事をした。
キャラクターの線の密度はテレビシリーズから変わらなかった一方、動画枚数は非常に多い。ほんの僅かな動き、仕草を油断なく捉える。そもそも作画監督の堀口悠紀子はキャラクターのほんの僅かな動きを逃さず、繊細な動画を得意とし、どんな動きにも暖かい柔らかさを与える作家である。細かい話をすると、手の動き、脚の動きといった原画と原画の間の詰め指示をより丁寧に、ほんのちょっとの動きでもフォロスルーを与えることであの動きが実現できる(頭では理解できていても、職人的な経験値が必要である)。初の劇場映画の主導的な作画監督に抜擢された堀口悠紀子は、持ち前のセンスを最大限に増幅させて、映画の登場人物に生々しいまでの息吹を与えている。『映画けいおん!』が持っている不思議な温もりや優しいイメージは、現場スタッフの全ての力が合わさった結果だろう。
前半の学校のシーン、家庭のシーンは色彩は特別テレビ版から変わった印象はないものの、どこか仄暗く、閉鎖した印象で描かれている。それが一変するのがロンドン旅行が始まってからだ。舞台がロンドンに移ってから、映像はこれでもかと賑やかに、華やかに、ディティールは線と色彩の洪水という勢いで描写されていく。いかにも「ロンドン旅行」というような観光地を巡っていくだけのものではなく、フェティッシュなレベルでロンドンへ行って目に付いた風景の一つ一つが取り上げられている。ただロンドンへ設定が移っただけではなく、違う空気を持った世界であるということがはっきりと意識されている。「ロンドンへ行く」という映像的な意義や差異が意識されているからこそ描き得たシーンである。
ロンドンから帰ってきた日常風景の描き方にも注目である。あれだけ華やかな色彩が急に抑えられて、彩度を抑えた落ち着いた印象に変わる。後半のクライマックスの一つである教室でのライブシーンですら、色彩は抑えられ、窓の外の光を強調するように描かれている。
日本側の彩度の高い描き方を見ると、不思議と旅行から帰ってきた、日本の湿度に戻ってきた、という印象を感じる。そこが作り手側の狙いの一つだろう。
物語は最後の場面へ、テレビシリーズ版の最終回のエピソードへとザッピングしていく。そこへ近づくほどに、画面は白く漂白していく。まるで夢との端境を表現するように、あるいは夢が覚める瞬間、目蓋の向こうに朝の光を感じている時のように、少女たちが抱いていく幻想を捉え、そこから飛び出していく一歩寸前の“終わりを前にした世界”が描かれていく。劇的なシーン、あるいは台詞などはどこにもないい。映画『けいおん!』のラストシーンはあまりにも静かで、ささやかな幸福が描かれ、それなのにしっかりと引き込まれていく結束の美しさが描かれている。
『けいおん!』は女性映画である。実写の世界ではまあまあ珍しくなくなった女性映画であるが、アニメとなると話は違ってくる。私はアニメーションのシリーズ、劇場映画、この両方で女性が監督したという前例を聞いたことがない。監督がたった一人女性、というわけではなく、脚本、キャラクターデザイン、その他、作画スタッフや衣装デザイン、色彩設計(仕上げはもともと女性比率が高い)、末端に至るまで女性比率が際立って多い作品である。だから『けいおん!』は単に女の子が主人公のアニメという以前に、女性が女の子を描いた作品と読み取るべきだろう。
世界的な通年として、アニメーションの制作現場に女性は少ない。アニメーションの制作はひたすら厳しく、つらく、過酷なものである。しかも、日本ほど安定的な制作体制ができあがっている国は世界を探してもなかなか事例が見つからない。日本以外の場所では、アニメの企画が立てられてそれからスタッフが募集されるが、はじめからアニメーターを専門職をしている人は少ない。そんな業界に女性が立ち入ることは難しく、結果として男性比率が多く、アニメは男性目線になりがちである。それに、業界にやってくる女性スタッフの多くは先頭に立つことを望まない。ずっと線をなぞっているだけで満足、ずっと色を塗っているだけで満足、という人が非常に多い。
しかし『けいおん!』は世界でも珍しい女性が主導になって制作されたアニメーションである。『けいおん!』の主人公、というかほとんどの登場人物は少女である。“少女”は古くから芸術家のモチーフとして描かれてきた対象である。特にアニメにおいては、執拗(病的?)といっていいくらい、ある種の性的コンプレクスが少女像に刻印されてきた。
この少女というモチーフを女性が女性の目線で描けばどうなるのか? その回答ともいえるのが『けいおん!』の映画である。
『けいおん!』で描かれた少女たちはとにかくも賑やかで、騒々しいといっていいくらいだ。いかにもかしこまった“かわいい”表情は作らず、いつも捻り、崩され、弾けている。記号的な“かわいい”の羅列はあえて避けられ、時に大げさに顔が崩され、鼻の穴が強調される。ふとすると、思い切りすぎでは? というくらい思い切った描かれかたをしているが、むしろそういう瞬間こそ『けいおん!』のキャラクターたちが魅力的に輝いている。背景にしっかりとした少女像のビジョンが一つのスタイルとして貫かれているからだろう。女性だからこそ描ける女性の“かわいい”と“うつくしい”。女性だからこそ描ける言葉のやりとりや、落書きの継ぎ足し。唯たちは他のどのアニメのキャラクターよりも魅力的で、愛らしく、少女らしさを持っている。
芸術は嘘と真実の間をゆらゆらと行き交うものであるが、アニメはどんな手法よりもより深く嘘と真実の間を潜行していく。山田尚子監督はその実体と方法論を否定せず、真っ向から取り上げ、唯たちを描きこんでいく。よくありがちな、少女を冷たい彫刻のような、偶像としての“ビショウジョ”ではなく、より温もりをもった生命感あふれる“女の子”を描いた。だからこそ『けいおん!』は特別な作品でありえるのだ。
これが『けいおん!』が静かに成しえていた革命の一つだ。そして、アニメという文化そのものが変わろうとする継ぎ目の作品として注目すべきだろう。
山田尚子監督といえば脚の描写である。フェティッシュなくらい脚を描写するものの、性的ないやらしさはまったくない。山田尚子は脚を描くことについて、次のように語る。「脚は一番素直に人が出るところだから。顔だとわざとらしい。脚には理性が働かないから」(けいおん!!DVD第8巻音声解説より)。脚から人格を描く――いったいどうやって発見したかわからないが、人間の描き方に独自の個性や方法論を持ちえている時点で、すでに立派な自立した監督である。
『映画けいおん!』の公開に向けて、あらゆる場所で『けいおん!』が盛り上がりを見せた。ローソンでは繰り返しタイアップ商品が販売され、デニーズでは『けいおん!』を題材にしたメニューが登場、叡山電鉄にラッピングカーが出現、ルミネエスト、ユニバーサルジャパンで『けいおん!』テーマのイベント。ある日書店へ行くと、多くの雑誌が『けいおん!』を表紙に取り上げ特集をしていて驚かされた。まさに「市場が求めているからこそ」の広がりである。
実は『けいおん!』がいつの間にか達成した“革命”は女性映画という一点だけではない。《宣伝》という部分においても、『けいおん!』は革命的であった。
『けいおん!』は全国130館という規模で公開される。この130館という数字は、通常ジブリアニメやドラえもんでしかありえなかった数字である。しかし深夜発のアニメが、全国130館規模の映画に成長しているのである。しかも、出演キャストがすべてアニメ専門の声優が担当している。
劇場化されるアニメは、プロの声優は広告の後ろに回され、中心に立つのは声優経験のまったくない、知名度のみが優先された素人である。場合によっては、テレビ版のキャストが全て一新され、全員が素人に変更されるといった事例もある。そうでない場合でも、無理矢理でも“ナゾの新キャラクター”なるものが突っ込まれ、そこにやはり知名度優先の芸能人が起用される(それで最近になって徐々に知れ渡るようになったのは、実写俳優の演技力のなさだ。アニメで描かれた作品が実写化すると、実写俳優の演技力の低さが哀れにすら思えてくる)。『けいおん!』の劇場版はおそらく京都アニメが制作費の一部を出資しているから、ある程度の純度が守られたのだろう。もしテレビ主導で『映画けいおん!』が制作されたら、AK48や韓国アイドルが豊崎愛生に代わって唯たちに声を当てていた可能性だってある。まさか、と思うが、『劇場版シンプソンズ』という実例もある(「いや、そんな…」と思うかもしれないが、テレビはそういうことを「やらかす」のである)。
私は個人的に、アニメ映画に素人を採用するという《宣伝方法》に疑問を感じていた。映画は大きな予算を掛けて制作される。だからより多くの人に拡散される必要があるから、知名度優先の素人が採用される(これにはアニメの宿命的“広告下手”が災いしている。ほとんどのアニメ映画は、完成してから映画雑誌の公開スケジュール表の隅っこに載っているのを見かけて、初めてそれが制作されていることを知る、といった状況である。アニメの製作者は、まず《宣伝》について考えるべきである)。確かにそれで映画製作発表などをやると、普段アニメとは接点のない記者が一杯押し寄せてきて、一見注目されているかのような雰囲気が作られる。しかし、果たしてその背後にお客さんはついて来ているのだろうか? 朝から昼まで繰り返し放送しているニュースショーを見ると、映画の情報はせいぜいタイトル名が告げられるだけで、あらすじの紹介もなし、映像もなし。話題の中心は「あの熱愛報道について教えてください!」といったものばかりである。果たしてあんな取り上げられ方で本当に《宣伝》になっているのか? とても伝わっているとは思えない。宣伝の効果が怪しいのに、作品のクオリティを犠牲にしてまで素人を起用する理由がわからない。
だが、『けいおん!』はその宣伝の規模の大きさにも関わらず、作品としての“純度”が完璧に守られた実に珍しいケースであり、『けいおん!』の後に道が続いていけばいいと思っている。
劇場版『けいおん!』はテレビシリーズは主流とする傍流である。テレビシリーズで説明不足になっていた様々な場面を丁寧に取り上げ、補完するための「もう一つのけいおん!」である。しかしそれでいて、いかにも「番外編映画」ではなく、限りなく純度の高い『けいおん!』である。脇道をひたすら突き進む映画だが、第23話『放課後!』での律の台詞にあるように、「人生の無駄遣い」というのが『けいおん!』の本質である。どこまでも疑いなく脇道に突っ走る、瑞々しい輝きを込めた無駄遣いである。唯たちはいっそ、“風速”と呼ぶべき勢いで、桜高の3年間を、あるいは2009年から2011年という期間の日本を猛烈な勢いで駆け抜けていった。『映画けいおん!』は壮大な脇道の結晶のような映画だが、最高の『けいおん!』だった。
『映画けいおん!』はより純度を高めた『けいおん!』である。そこに描かれるのは特定の時代を描き出した“かつて”ではない。『けいおん!』はノスタルジーではなく“今”だ。全力疾走で生きている唯たちの“今”が描かれているのが『けいおん!』だ。山田尚子監督は、唯たちの“今”という瞬間を、永遠のフィルムの中に閉じ込め、何よりも美しい芸術作品にした。
この作品は、『けいおん!』という作品とキャラクターに対する“愛”に向けられた贈り物である。
補足!
作品データ
監督:山田尚子 原作:かきふらい
脚本:吉田玲子 キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子
レイアウト監修:木上益治 楽器設定・楽器作監:高橋博行 絵コンテ:山田尚子・石原立也
色彩設計:竹田明代 美術監督:田村せいき 美術監督補佐:田峰育子
撮影監督:山本倫 撮影監督補佐:植田弘貴 3DCG:梅津哲郎 柴田祐司
音響監督:鶴岡陽太 音楽プロデューサー:小森茂生 礒山敦 岡本真梨子 音楽:白石元
出演:
平沢唯/豊崎愛生
秋山澪/日笠陽子
田井中律/佐藤聡美
琴吹紬/寿美菜子
中野梓/竹達彩奈
真田アサミ 東藤知夏 米沢円 永田依子 中村千絵 浅川悠
中尾衣里 中村知子 MAKO 片岡あづさ 北村妙子 平野妹
そんな渡り廊下を、澪を先頭に、次に紬、律、一番最後に唯という順番で歩いている。律は紐で縛った一杯の本の束を抱えていて、唯はゴミの入った透明の袋を後ろ手に持っていた。
「あ~あ……」
ふと唯が溜め息をこぼす。
ぱたぱたと続いていた足音が途切れたのに気付いて、皆は足を止めて振り向く。
「どした?」
律が唯に声を掛ける。唯は開けたままになっていた扉の前に立って、中庭の様子を見ていた。
「うん……」
唯は律を振り向くけど、考え事をするように視線を落とす。
「さっきのさわちゃんの話?」
律が気を遣うようにする。ついさっき、部室でさわ子先生が「留年の可能性がある」なんて話を始めたのだ。からかわれていただけだ、とわかっていても、やはり引っ掛かるものがある。
「じゃなくてね」
唯が考えていたことはもう少し違うようだ。
「うん」
「もしかして私たち、先輩としての威厳がないまま卒業しちゃうんじゃないかな」
「え~」
声を上げたのは律と紬だ。
「そんなことないぞ! 私たちは……」
「背が高い!」
勢いよく声を上げたのは紬だった。
「年上だ!」
律が紬を振り向く。
「元気!」
紬が頷きながら答える。
「他にないのか」
呆れるように澪が突っ込む。それじゃ、尊敬できないだろ。
唯は、再び扉から外を見ていた。校舎の向こう側に見える、淡く霞んだ空を見ていた。
「私、最後に何か先輩らしいことしたい!」
思いを告白するように、唯が振り返った。
『けいおん!』が最初にテレビ放送されたのは2009年の春だった。深夜という見る人が限られるニッチな枠だったのに関わらず、『けいおん!』の存在感は同じ時間帯に放送される有象無象のアニメ群の中にあって際立った輝きを放ち、『けいおん!』はあっという間に「深夜アニメを求める特定の人たち」からより広い意味を持った若者層へ拡大していった。翌2010年には第2期『けいおん!!』が放送。TBSアニメは1クールという原則を破って2クールという長丁場でアニメは制作され、唯たちの最後の1年間がより詳細に描かれるようになった。『けいおん!』熱の奔流は勢い留めず日本という国を、あるいは2009年から2010年という時代を駆け抜けていった。
そして2011年12月3日、誰もが待ち望んだ作品がついに封切られた。『映画けいおん!』である。
テレビ版でも重要なファクターとして扱われた渡り廊下。そこを通過すること、留まることで物語や唯たちが置かれている状況が解説されている。劇場版では間違いなく特別な場所に見えるように映像処理が施された。渡り廊下という場所を基点に見ていくと、『けいおん!』という作品への理解が深まる。
『映画けいおん!』はテレビ版を本編とする傍流作品である。テレビ版では描かれたなかった様々な場面を接ぎ穂するようにエピソード描かれている。『番外編 劇場版!』とするのが正しいだろう。キャラクターの置かれている状況や衣装などで、テレビ版のどことザッピングしているのか容易にわかるように作られている。
『映画けいおん!』を一言で表現するならば「脇道の映画」である。大雑把な枠組みとして、唯たちがロンドン旅行するという話があるものの、唯たちの物語やキャラクターの対話はひたすら脇道を突き進んでいく。脇道と小さなネタが調子のいいテンポでいくつも紡がれ、ゆっくりと本筋の物語や舞台に移り進んでいく。いったいシーンの数は全体でいくつになったのだろう、というくらいシーンが矢継ぎ早に飛んでいく。
普通の映画の作法であれば、まず主題を設定し、そこへ向けて物語なり舞台を移していくものだが、『映画けいおん!』は延々脇道と脱線を繰り広げていく。その勢いはロンドンへ移っても相変わらずで、「いかにもそこにドラマが準備され待っています」という組み立てはまったく見えず、脇道と脱線を繰り返しながら、いつのまにか物語は、映画の中心的テーマへ向かっていく。ある意味過剰なくらい「いつも通り」の唯たちの物語が描かれている。「劇場版だから」といっていかにも気負った感じはなく、気合の入った小ネタ集ではあるものの、作品は決して小さくなく、むしろどっしりと構えた大きな枠組みの中に唯たちの“今”が全力で敷き詰められた作品である。
映画の物語作法としてはイレギュラーだが、『けいおん!』らしさが貫かれた『けいおん!』でしかあり得ない劇場映画として仕上がっている。『けいおん!』という作品に深く接し、誰よりも理解している山田尚子監督だから見つけ出せた、より『けいおん!』らしい作法を持った映画だ。
『映画けいおん!』の映像はテレビシリーズ版と比較して、劇的に変わったという印象はない。キャラクターデザインはテレビシリーズ版のものがほぼそのままで採用されたため、線の密度や重量感が「映画だから」といって増強されたわけではない。
しかし『映画けいおん!』の映像に接していると、不思議と映像の世界に包み込まれているような、不思議な充足感に捉われる瞬間がある。確かに線の密度や設定はテレビシリーズからあえて変更が加えられていないが、“そこにあるべき空気”の存在を丹念に、繊細に描かれている。その場所にあるべき暗さや熱の感覚、奥行き。撮影スタッフは、架空の場所である絵画世界を、あたかも実在して呼吸している場所のように仕上げている。例えば教室内の仄暗さ。テレビシリーズでは漠然と描かれてきたが、劇場版ははっきりと光の存在が意識されている。どこから光が差し込んで、どれだけの暗さ、明るさをもっているのか。場面ごとにその差異がはっきりわかるように描かれている。映画という枠組みを持ったことで、生活空間の描写そのものに奥行きが与えられた点も大きいだろう。今まで見えなかった側面が、いくつも見られたのが面白かった。
また音響効果はわずかな足音、布ズレの瞬間を逃さず音を与えている。キャラクターのほんのちょっとした動きにつられて発する音の数々。アニメのキャラクターは当然実在しないわけだが、あたかもそこに実在して、本当に演技した瞬間の音を捉えたかのようにすら感じる。
音響、撮影ともにこの映画において素晴らしい仕事をした。
キャラクターの線の密度はテレビシリーズから変わらなかった一方、動画枚数は非常に多い。ほんの僅かな動き、仕草を油断なく捉える。そもそも作画監督の堀口悠紀子はキャラクターのほんの僅かな動きを逃さず、繊細な動画を得意とし、どんな動きにも暖かい柔らかさを与える作家である。細かい話をすると、手の動き、脚の動きといった原画と原画の間の詰め指示をより丁寧に、ほんのちょっとの動きでもフォロスルーを与えることであの動きが実現できる(頭では理解できていても、職人的な経験値が必要である)。初の劇場映画の主導的な作画監督に抜擢された堀口悠紀子は、持ち前のセンスを最大限に増幅させて、映画の登場人物に生々しいまでの息吹を与えている。『映画けいおん!』が持っている不思議な温もりや優しいイメージは、現場スタッフの全ての力が合わさった結果だろう。
前半の学校のシーン、家庭のシーンは色彩は特別テレビ版から変わった印象はないものの、どこか仄暗く、閉鎖した印象で描かれている。それが一変するのがロンドン旅行が始まってからだ。舞台がロンドンに移ってから、映像はこれでもかと賑やかに、華やかに、ディティールは線と色彩の洪水という勢いで描写されていく。いかにも「ロンドン旅行」というような観光地を巡っていくだけのものではなく、フェティッシュなレベルでロンドンへ行って目に付いた風景の一つ一つが取り上げられている。ただロンドンへ設定が移っただけではなく、違う空気を持った世界であるということがはっきりと意識されている。「ロンドンへ行く」という映像的な意義や差異が意識されているからこそ描き得たシーンである。
ロンドンから帰ってきた日常風景の描き方にも注目である。あれだけ華やかな色彩が急に抑えられて、彩度を抑えた落ち着いた印象に変わる。後半のクライマックスの一つである教室でのライブシーンですら、色彩は抑えられ、窓の外の光を強調するように描かれている。
日本側の彩度の高い描き方を見ると、不思議と旅行から帰ってきた、日本の湿度に戻ってきた、という印象を感じる。そこが作り手側の狙いの一つだろう。
物語は最後の場面へ、テレビシリーズ版の最終回のエピソードへとザッピングしていく。そこへ近づくほどに、画面は白く漂白していく。まるで夢との端境を表現するように、あるいは夢が覚める瞬間、目蓋の向こうに朝の光を感じている時のように、少女たちが抱いていく幻想を捉え、そこから飛び出していく一歩寸前の“終わりを前にした世界”が描かれていく。劇的なシーン、あるいは台詞などはどこにもないい。映画『けいおん!』のラストシーンはあまりにも静かで、ささやかな幸福が描かれ、それなのにしっかりと引き込まれていく結束の美しさが描かれている。
『けいおん!』は女性映画である。実写の世界ではまあまあ珍しくなくなった女性映画であるが、アニメとなると話は違ってくる。私はアニメーションのシリーズ、劇場映画、この両方で女性が監督したという前例を聞いたことがない。監督がたった一人女性、というわけではなく、脚本、キャラクターデザイン、その他、作画スタッフや衣装デザイン、色彩設計(仕上げはもともと女性比率が高い)、末端に至るまで女性比率が際立って多い作品である。だから『けいおん!』は単に女の子が主人公のアニメという以前に、女性が女の子を描いた作品と読み取るべきだろう。
世界的な通年として、アニメーションの制作現場に女性は少ない。アニメーションの制作はひたすら厳しく、つらく、過酷なものである。しかも、日本ほど安定的な制作体制ができあがっている国は世界を探してもなかなか事例が見つからない。日本以外の場所では、アニメの企画が立てられてそれからスタッフが募集されるが、はじめからアニメーターを専門職をしている人は少ない。そんな業界に女性が立ち入ることは難しく、結果として男性比率が多く、アニメは男性目線になりがちである。それに、業界にやってくる女性スタッフの多くは先頭に立つことを望まない。ずっと線をなぞっているだけで満足、ずっと色を塗っているだけで満足、という人が非常に多い。
しかし『けいおん!』は世界でも珍しい女性が主導になって制作されたアニメーションである。『けいおん!』の主人公、というかほとんどの登場人物は少女である。“少女”は古くから芸術家のモチーフとして描かれてきた対象である。特にアニメにおいては、執拗(病的?)といっていいくらい、ある種の性的コンプレクスが少女像に刻印されてきた。
この少女というモチーフを女性が女性の目線で描けばどうなるのか? その回答ともいえるのが『けいおん!』の映画である。
『けいおん!』で描かれた少女たちはとにかくも賑やかで、騒々しいといっていいくらいだ。いかにもかしこまった“かわいい”表情は作らず、いつも捻り、崩され、弾けている。記号的な“かわいい”の羅列はあえて避けられ、時に大げさに顔が崩され、鼻の穴が強調される。ふとすると、思い切りすぎでは? というくらい思い切った描かれかたをしているが、むしろそういう瞬間こそ『けいおん!』のキャラクターたちが魅力的に輝いている。背景にしっかりとした少女像のビジョンが一つのスタイルとして貫かれているからだろう。女性だからこそ描ける女性の“かわいい”と“うつくしい”。女性だからこそ描ける言葉のやりとりや、落書きの継ぎ足し。唯たちは他のどのアニメのキャラクターよりも魅力的で、愛らしく、少女らしさを持っている。
芸術は嘘と真実の間をゆらゆらと行き交うものであるが、アニメはどんな手法よりもより深く嘘と真実の間を潜行していく。山田尚子監督はその実体と方法論を否定せず、真っ向から取り上げ、唯たちを描きこんでいく。よくありがちな、少女を冷たい彫刻のような、偶像としての“ビショウジョ”ではなく、より温もりをもった生命感あふれる“女の子”を描いた。だからこそ『けいおん!』は特別な作品でありえるのだ。
これが『けいおん!』が静かに成しえていた革命の一つだ。そして、アニメという文化そのものが変わろうとする継ぎ目の作品として注目すべきだろう。
山田尚子監督といえば脚の描写である。フェティッシュなくらい脚を描写するものの、性的ないやらしさはまったくない。山田尚子は脚を描くことについて、次のように語る。「脚は一番素直に人が出るところだから。顔だとわざとらしい。脚には理性が働かないから」(けいおん!!DVD第8巻音声解説より)。脚から人格を描く――いったいどうやって発見したかわからないが、人間の描き方に独自の個性や方法論を持ちえている時点で、すでに立派な自立した監督である。
『映画けいおん!』の公開に向けて、あらゆる場所で『けいおん!』が盛り上がりを見せた。ローソンでは繰り返しタイアップ商品が販売され、デニーズでは『けいおん!』を題材にしたメニューが登場、叡山電鉄にラッピングカーが出現、ルミネエスト、ユニバーサルジャパンで『けいおん!』テーマのイベント。ある日書店へ行くと、多くの雑誌が『けいおん!』を表紙に取り上げ特集をしていて驚かされた。まさに「市場が求めているからこそ」の広がりである。
実は『けいおん!』がいつの間にか達成した“革命”は女性映画という一点だけではない。《宣伝》という部分においても、『けいおん!』は革命的であった。
『けいおん!』は全国130館という規模で公開される。この130館という数字は、通常ジブリアニメやドラえもんでしかありえなかった数字である。しかし深夜発のアニメが、全国130館規模の映画に成長しているのである。しかも、出演キャストがすべてアニメ専門の声優が担当している。
劇場化されるアニメは、プロの声優は広告の後ろに回され、中心に立つのは声優経験のまったくない、知名度のみが優先された素人である。場合によっては、テレビ版のキャストが全て一新され、全員が素人に変更されるといった事例もある。そうでない場合でも、無理矢理でも“ナゾの新キャラクター”なるものが突っ込まれ、そこにやはり知名度優先の芸能人が起用される(それで最近になって徐々に知れ渡るようになったのは、実写俳優の演技力のなさだ。アニメで描かれた作品が実写化すると、実写俳優の演技力の低さが哀れにすら思えてくる)。『けいおん!』の劇場版はおそらく京都アニメが制作費の一部を出資しているから、ある程度の純度が守られたのだろう。もしテレビ主導で『映画けいおん!』が制作されたら、AK48や韓国アイドルが豊崎愛生に代わって唯たちに声を当てていた可能性だってある。まさか、と思うが、『劇場版シンプソンズ』という実例もある(「いや、そんな…」と思うかもしれないが、テレビはそういうことを「やらかす」のである)。
私は個人的に、アニメ映画に素人を採用するという《宣伝方法》に疑問を感じていた。映画は大きな予算を掛けて制作される。だからより多くの人に拡散される必要があるから、知名度優先の素人が採用される(これにはアニメの宿命的“広告下手”が災いしている。ほとんどのアニメ映画は、完成してから映画雑誌の公開スケジュール表の隅っこに載っているのを見かけて、初めてそれが制作されていることを知る、といった状況である。アニメの製作者は、まず《宣伝》について考えるべきである)。確かにそれで映画製作発表などをやると、普段アニメとは接点のない記者が一杯押し寄せてきて、一見注目されているかのような雰囲気が作られる。しかし、果たしてその背後にお客さんはついて来ているのだろうか? 朝から昼まで繰り返し放送しているニュースショーを見ると、映画の情報はせいぜいタイトル名が告げられるだけで、あらすじの紹介もなし、映像もなし。話題の中心は「あの熱愛報道について教えてください!」といったものばかりである。果たしてあんな取り上げられ方で本当に《宣伝》になっているのか? とても伝わっているとは思えない。宣伝の効果が怪しいのに、作品のクオリティを犠牲にしてまで素人を起用する理由がわからない。
だが、『けいおん!』はその宣伝の規模の大きさにも関わらず、作品としての“純度”が完璧に守られた実に珍しいケースであり、『けいおん!』の後に道が続いていけばいいと思っている。
劇場版『けいおん!』はテレビシリーズは主流とする傍流である。テレビシリーズで説明不足になっていた様々な場面を丁寧に取り上げ、補完するための「もう一つのけいおん!」である。しかしそれでいて、いかにも「番外編映画」ではなく、限りなく純度の高い『けいおん!』である。脇道をひたすら突き進む映画だが、第23話『放課後!』での律の台詞にあるように、「人生の無駄遣い」というのが『けいおん!』の本質である。どこまでも疑いなく脇道に突っ走る、瑞々しい輝きを込めた無駄遣いである。唯たちはいっそ、“風速”と呼ぶべき勢いで、桜高の3年間を、あるいは2009年から2011年という期間の日本を猛烈な勢いで駆け抜けていった。『映画けいおん!』は壮大な脇道の結晶のような映画だが、最高の『けいおん!』だった。
『映画けいおん!』はより純度を高めた『けいおん!』である。そこに描かれるのは特定の時代を描き出した“かつて”ではない。『けいおん!』はノスタルジーではなく“今”だ。全力疾走で生きている唯たちの“今”が描かれているのが『けいおん!』だ。山田尚子監督は、唯たちの“今”という瞬間を、永遠のフィルムの中に閉じ込め、何よりも美しい芸術作品にした。
この作品は、『けいおん!』という作品とキャラクターに対する“愛”に向けられた贈り物である。
補足!
作品データ
監督:山田尚子 原作:かきふらい
脚本:吉田玲子 キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子
レイアウト監修:木上益治 楽器設定・楽器作監:高橋博行 絵コンテ:山田尚子・石原立也
色彩設計:竹田明代 美術監督:田村せいき 美術監督補佐:田峰育子
撮影監督:山本倫 撮影監督補佐:植田弘貴 3DCG:梅津哲郎 柴田祐司
音響監督:鶴岡陽太 音楽プロデューサー:小森茂生 礒山敦 岡本真梨子 音楽:白石元
出演:
平沢唯/豊崎愛生
秋山澪/日笠陽子
田井中律/佐藤聡美
琴吹紬/寿美菜子
中野梓/竹達彩奈
真田アサミ 東藤知夏 米沢円 永田依子 中村千絵 浅川悠
中尾衣里 中村知子 MAKO 片岡あづさ 北村妙子 平野妹
2012年7月23日修正
PR