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■2013/04/17 (Wed)
  ハナガ……サイタヨ……
       ハナガ……サイタヨ……

6b365c03.gif第1話。カット2番。この最初のシーンで、作品に込められた言い様の知れない気配を感じて、見る者は愕然とするだろう。
このアニメは全編ロトスコープで制作されている。冒頭に“歩き”のカットが採用されたのは、おそらく通常のアニメとロトスコープのアニメとの差異が誰の目にも明らかに出るからだ。
ロトスコープで制作された歩きの動きは、左右にゆらゆらと不規則に揺れて、視線は一箇所に定まらない。通常のアニメであると、上下の動きは美しい軌道線に守られて規則正しく動き、何より視線は殆どの場合一箇所へ、もしも誰かに名前を呼ばれて振り向くとしても視線は迷わず対象に向けられる。
ロトスコープで制作された動きは、何もかも定まらない。キャラクターがどこを見て何を考えているのか、何も読めない。これが生身の人間の正しい動きなのだ。アニメ『惡の華』は、冒頭からこの生身の人間の動きの生理的“不快”さを突きつけようとしている。

fe2f62b1.jpeg通常のアニメーションはアニメーターによる理想が具現化されている。キャラクターのルックスが、というだけではなく、動きについても徹底された理想化が計られる。人間はアニメーションで描かれるように綺麗な動きはできない。アニメは常に視線を一点に定め、そこだけを見てシンプルにアクションする。時には動きの中に誇張が込められる。
日本のアニメは、この軌道線とコマの操作に特別なこだわりを持っている。リミテッドアニメーションと呼ばれる手法で、これは秒間8枚の絵が描かれる(3コマ撮りと呼ばれている)。しかし日本のアニメを見る限り、秒間8コマという少なさを自覚することはまずない。ゲームの世界では秒間60コマで動くが当たり前だが、これがもしも8コマに減らされたら動きがガタガタで、とてもゲームは進められないだろう。
何故かといえば、秘密が軌道線と詰めの作り方にある。軌道線を美しくなぞりながら、あるコマについては大雑把に飛ばし、ある動きだけは誇張してコマ数を増やす。線に対する執着も強い。線一本でもトレスにミスが出ないよう、フェティッシュに線を追跡していく。さらに言うと、実際には秒間8枚ではなく、ある瞬間には2コマあるいは1コマというタイミングが混在し、コマ単位で動きを慎重に操作している(実はリミテッドアニメーションではない。“部分的に”リミテッドアニメなのだ)。日本のアニメの流麗さはそこから現れている。
海外のアニメでもごく稀にリミテッドアニメーションが作られるが、日本のアニメのように美しい動きが作れない理由がここにある。
『惡の華』の動画に接した時、動きが美しく見えない理由がこれだ。動きがガタついて見えるのは、従来のアニメーション的な制作方法を無視しているからだ。軌道線に一貫した流れを作らず、なのに3コマ撮りだから、動きがガタついて見えてしまう。
ロトスコープの代表者と言えばラフル・バクシが挙げられるが、彼のアニメーションがまずまず流麗に見えるのは、フルコマ(秒間24コマ)で描かれているからだ。(とはいえ、アニメ『指輪物語』はホビットの動きがあまりにも流麗すぎてロトスコープで制作されたキャラクターが浮いて見えてしまったが)

6ecd8089.jpeg『惡の華』はそうしたアニメーターとアニメファンが作り上げてきた理想化を、徹底的に破壊し、ある印象を突きつける。
“不快さ”だ。
そもそもなぜロトスコープで制作する必要があったのか? 実写撮影するのだったら、そのまま実写ドラマとして放映すればよかったのではないか……。
いや、ロトスコープすることに意義があるのだ。さらに言うと、絵にすることに意味があるのだ。
人間は、自分の身の周りにあるものをあまり詳しく見ていない。毎日会って言葉を交わす友人がどんな顔をしているのか、実はあまりしっかり観察していない。「絵に描いてみろ」と言われて、即座に再現できる人はまずいないだろう。それは“何も見ていないから”だ。
絵画には何の意味があるのか? いつかお金に代替できる価値ある品か? いや違うだろう。絵にすることの本当の意義は、それそのものがどんな形をしているか、正しく知るためだ。絵にすることで、人はそれがどんな姿をしているのか初めて理解する。絵というものは、それそのものを周囲の世界から切り離し、存在そのものを誇張して意識に突きつける効果を持っている。絵にしない限り、人は何も気付かないし、何も感じず、ぼんやりした気持ちのまま日々を流されるように過ごすだけだ。人は庭を飛んでいる鳥には興味を持たないが、絵画になった鳥には感心を向ける。
アニメーションはそれに動きを加えたものだ。人は、アニメーションとして描かれていたものを見て、初めて人がどんな動きをするのか、その瞬間にどんな顔をしているのか、気付き発見するのである。
『惡の華』はそれを実践し、実証してみせている。
人間がどんな姿をしているのか、その瞬間にどんな顔をするのか。まず人間のフォルムの不格好さ。人間はあんなに首や腰が太かっただろうか。普段理想化されたフォルムを追跡したアニメを見ているから、あの不格好さには見るに堪えないものがある。
さらに動き。実写トレースされた人間の動きは、ふらふらと一点に定まらず、美しさはどこにもない。とくに酷いのは歩く姿だ。どの若者もうつむいた格好でひょこひょことペンギンみたいに歩いている。
そうした理想を叩きのめし、理想を崩壊させた向こうにある人間が本来持っている“不快さ”を徹底的に誇張し突きつけること、ここに『惡の華』の狙いが隠されている。
『惡の華』を拒絶する人は多いが、それはおそらく「巨人の国」に迷い込んだガリバーのような気持ちなのだろう。人間が醜悪であることを、初めて知った、という人達だ。

c5647761.jpeg人は人を理想化して見ている。それはアニメが、という限定は作らない。美しい記号を備えた女性は美しいと思い込んで見ているし、可愛いという特徴をそろえた犬や猫は可愛いと思っている。美しく見えるグラビア写真が美しく見えるのは、美しく見えるように色んな人が手を加えて、現実を作り替えているからだ。
正しい意味でそれがどんな姿をしているのか、人はよくよく理解していない。
人は実際のものを前にしても、社会的に刷り込まれてきたものに感覚を引き戻そうとする。外国人の多くが「日本人は目が細い」という印象を持ち、実際の日本人を見てもその印象を変えようとしないが、それはおそらく浮世絵の印象で、実際の日本人はそう言われるほど目は小さくも細くもないし、西洋人の中に目が小さく細い人は一杯いる。それでも外国人の多くが「日本人は目が細い」と思い続けているのは、社会常識を強く持ちすぎているからだ。
アニメは人間が思い込み、理想とするフォルムをどこまでも追跡して作られたものだ。アニメの心地よさは、人間が人間に対して「そうであってほしい」という記号の集積である。
しかし『惡の華』はこの思い込みや理想を徹底的に破壊し、突きつけている。人間の醜悪さを。人間の不快さを。それがこの作品に込められたテーマである「思春期の闇」と深い関連を持ってくる。

人は人を理想化されたシルエットのみを見詰めて、その実際がどんな形を持っているかなど知ろうともしない。それは自分自身に対してもそうだ。(自分自身を絵に描いてみろ、と言われて即座に描ける人はまずいない。他人以上に、自分自身を描けという方が難しいだろう)
ffb3a308.jpeg春日高男は自分を優れた人間であると信じている。本に出会って少々の知識を得ていくうちに、自分は周りにいる人達よりとても優秀で才能溢れた人間だと思うようになる。映像はしばしば、春日高男だけを取り残して無人の教室を描く。自分は特別な一人――そんな優越感。
しかしテストの成績は芳しくなく、作品は密かに春日を平凡か平凡以下の学生であることをほのめかす。
春日高男は実際、特別優れた人間でもなかった。性に囚われて性に流されて性に振り回される、ごくごく普通の16歳の高校生だ。そんな少年の前に、好きな女の子の、性的な思いを抱いている相手の体操着が差し出される。
抗いがたい欲望……理想化した自分という表皮の下に流れていた、ただの性欲に溺れる若者の実像が現れてくる。
春日高男は、思わず体操着を手に取り、恍惚の表情で眺めてしまう。この時の表情……従来の準備されたリストからカスタマイズするだけのアニメでは描けない、ロトスコープならではの表情だ。
しかし、その場面を中村佐和に目撃されてしまう。中村佐和は抉るように春日高男の罪を暴き出し、翻弄する。中村佐和の前では、どんな理想化も通用しない。もっとも不快で下劣な実像を、春日高男自身に突きつけ、精神的に追い詰める。

あの教室の中には春日高男の他に、あと2人、自分が特別だと思っている人間がいる。佐伯奈々子と中村佐和の2人だ。
58274bbb.jpeg佐伯奈々子は仮面を被り、回りと危うく折り合いを付けているが、一方中村は堂々と毒を吐き捨てる。
「クソムシが」
春日高男や佐伯奈々子が思っていて口に出さない一言を、平然と言ってのける存在。社会の拘束力に恐れや、弾かれることに不安すら抱いていない存在。
3人の関係は歪に交差していく。
中村佐和は春日高男がどんな本を読んでいるか知っているし、体操着を盗んだことも知っている。
佐伯奈々子は春日高男がどんな本を読んでいるか知らないし、体操着を盗んだことも知らない。
一方は理想化を拒否した関係であり、一方は理想化という仮面を被った関係だ。

96667ce6.jpegこの作品と接すると、妙に居心地が悪く、ざわざわした気持ちがどこからか這い上がってくるように感じる。それはこの作品がアニメにありがちな理想化を排除し、不快な部分をわざわざ誇張して突きつけてくるからだ。
映像はやけに日常描写が多い。延々と映し出される風景描写。普通のアニメならせいぜい3カットまでだが、『惡の華』は延々、風景描写が続く。それも、みんなどこか歪み腐敗した風景ばかりで、映像作品なのにかかわらず美を拒否している。また風景描写が、状況を伝える点描としての役割を果たしていない。
従来のアニメは登場人物の台詞やアクションといったプロットで物語を先導するように作られているが、『惡の華』はそういう指向を捨てている。実写撮影し、それを“編集”するところから物語を組み立てられている。編集で作品に厚みを作る、という手法が採られているから、物語に動きがないのに関わらず、作品に一種の詩情ともいえる余韻が現れている。風景描写が物語を解説する記号という役割を持っていないのはこのためだ。絵コンテから作品を作り出すアニメの方法と比較しても、作劇の本質がそもそも違う。
そこまでしてロトスコープでの映像にこだわる理由は、やはり不快さを突きつけるだけだろう。非日常だが、何一つヒロイズムもカタルシスもない、ただ救いのないだけの非日常があるだけ。踏み外して、奈落に転がり落ちるだけの少年少女の物語。これを、不快さを最大にさせる方法がロトスコープだったのだ。
生理的に不快なものを感じさせる。それも一番強烈な方法で。理想化した仮面を剥ぎ落とし、作者はあの一言を突きつけている。
「クソムシが」
そう、お前らはクソムシだ。自分もクソムシだし、お前もお前ら全員クソムシ。ごまかすな。特別なんてありはしない。お前らはただ地面に這いつくばって、流されるままに生きて、その辺で死ぬだけのクソムシだ。その事実に叩きのめされた上で一生這いつくばって最後には死ね。
そんな作者の言葉が聞こえてきそうだ。

f41c83b8.jpeg『惡の華』はアニメ史における異端だ。後に振り返ってみても、この作品はアニメ史の中においても真っ黒な闇となって穴を開けているだろう。いつかそこに迷い込んで、堕ちる人間をじっと待ち構えながら、密かに笑い続けるのだろう。

作品データ
監督:長濱博史 原作:押見修造
助監督:平川哲生 シリーズ構成:伊丹あき キャラクターデザイン:島村秀一
美術監督:秋山健太郎 色彩監督:梅崎ひろこ 撮影監督:大山佳久
動画監督:佐藤可奈子 編集:平木大輔 実写制作:ディコード
音響監督:たなかかずや 音楽:深澤秀行
アニメーション制作:ZEXCS
出演:植田慎一郎 伊瀬茉莉也 日笠陽子
    松崎克俊 浜添伸也 上村彩子 原紗友里





 

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■2013/04/15 (Mon)
2b7262c0.jpeg妙な静けさだった。何も聞こえなかった。通りを行く人々の足音も、子供が遊ぶ時の叫び声も、ついさっきまでざわざわと取り巻いていた風の音すら、その瞬間は凍り付いたように黙り込んでいた。広場へ行くと街のみんなが茫然と立ち尽くしていて、顔を恐怖の相で固くしたまま空を見上げていた。
「おいアルミン! いったい何が……」
エレンはやっとアルミンに追いついて、その背中に声を掛けた。アルミンはもともと色白だった顔をもっと白くさせて、広場にいる人達と同じように固まっていた。唇が小さく震えていて、返事をするほどの力があるようには見えなかった。
エレンはアルミンや他のみんなが見ている方向を見上げた。そして――驚愕が全身を貫くのを感じた。
空は暮れかけて、にわかに黄昏の色を混じらせかけていた。やけに多く散っている雲も、風を失ったようにその場に留まっている。そんな眺めを遮るように、巨大な壁――高さ50メートルのウォール・マリアが街全体を囲んでいた。壁の向こうで夕日が煌めき、街に夕闇の影を落としかけている。何かを燃やしているのか、灰色の煙が一筋、立ち上っていた。
55a3b9ef.jpeg……いやエレンが、アルミンが、街の人達が見ているのはそんなありふれた眺めではない。その高さ50メートルのウォールマリアの上端に、巨大な掌が一つ、乗せられているのだ。皮が剥がされ筋肉を剥き出しにした指は真っ赤な色を浮かべて、それでも握力は凄まじいらしくむんずと掴んだ壁がぼろぼろと崩れかけている。
それに続いて、掌の主が、信じられないくらい巨大な人間の頭が、壁の向こうからゆらりと現れた。
その日、その時、人々は思い出した。奴らに支配されている恐怖を。この壁の中が、自ら作った鳥籠に過ぎなかったことを。安寧――それは壁という虚像に守られた束の間のものだったことを。


名作が今ここに生まれた。我々は巨人と人類の戦いの目撃者となると同時に、名作が生まれる瞬間を目撃するのだ。
『進撃の巨人』が諫山創の手によって描かれたのは2006年。完璧に構築された異世界を背景に、人間と巨人の戦いを描き、深みのある設定と、全てを読み切ることのできない巧みなストーリー構成で話題を呼び、2006年当時から現在に至るも漫画界隈にける一番の話題作であり続けている。
それがついにアニメーションで描かれる。しかも監督は荒木哲郎――『DEATHNOTE』や『ギルティクラウン』などで圧倒的な作画パワーを惜しみなく放出し続ける作家である。制作は「WIT STUDIO」。名門PRODUCTIONI.Gから分派した新興アニメーションスタジオだが、作品を見るにおそらく実力のあるアニメーター達が揃っているのだろう。
映像化としてのプロジェクトが発表されたのは2012年。間もなくプロモーション映像が公開されたが、それはもはや、テレビアニメという枠から完全に外れた、とてつもないスケールの大きな作品になっていた。美麗なキャラクターや背景というだけではなく、アクションの凄まじさ。特に立体機動アクションは、板野サーカスと並んで一つの文法として確立する可能性すらある斬新かつ魅力的でテクニカルな動画である。アニメーションの技術は毎年天井知らずに上がり続けるが、『進撃の巨人』はその中から頭一つ飛び抜けた作品であり、未来からやってきた、と言ってもいいくらいに時代のハードルを2つ3つほどすっ飛んだパワーを秘めている。

壮大なアクションの連続はもちろん異様なほど高度に煮詰めた技術に裏打ちされたものだが、その手法そのものは実は昔からある伝統的なものばかりで、古くからある日本のアニメーション技術を引き継ぎ、これを新しい時代のアイデアで刷新されたものである。

1・太線
1bbce9e8.jpegキャラクターの輪郭線には強弱のメリハリがきいた太い線で描かれている。輪郭線に強弱をつけることで、キャラクターの存在感を高める手法だ。この効果は作画時に線を2重に描いて作り出すもので、特別な技術ではなく少々手間をかければできるものである。(左はブログ主作成のイメージ。緑で塗られた部輪郭線の部分が仕上げて黒く塗られる。実際はもっと精密な動画用紙が作られる)
ただし、この見せ方は単純に輪郭線を2本描かねばならず、アニメーションのように何枚も描く場合にはやや時間がかかってしまうし、線の太さ細さもきちんと中割しないと、動いた時に意外とブレが目立つなど、厄介な側面は多い。最近のアニメが比較的シャープな線の折り重ねで描かれるようになったのは、そういう背景がある。
ニコニコ動画を見ると、コンピューターが自動的に生成してくれると思っている人がいたようだが、そんな機械はこの世には存在しない。レタスには線の太さを少々変える機能があるが、それは少々修正する程度のもので、ここまで動画全体に一貫したメリハリを付ける機能ではない。
撮影台の時代からある、いっそ古典的と言っていいくらい歴史のある作画方法である。

2・止め絵
fb7f1197.jpeg『進撃の巨人』にはしばしば“止め絵”が使用される。こちらも昔からある表現方法だが、これを美学というところまで高め作品の特色にまで押し上げたのはおそらく出崎統だ。ニコニコ動画を見ると、アニメーターの消耗を避けるための“手抜き”という評価が見られたが、もちろんそれは誤りであり、ある種の非常識というしかない見解だ。
絵を止めるのは、止めることでその場面の持っているメッセージを誇張し、シーンの美を象徴的に描くためだ。『進撃の巨人』の第1話では、遠征隊の凱旋の場面に止め絵は使用された。絵を動かすよりもあえて止めることで、帰ってきた兵士の顔に浮かぶ絶望感が強調されている。
その前後のカットの動きがしっかりしていればするほどに、止めたカットの印象はより強烈に浮かび上がってくる。ヒッチコック映画の『鳥』では、ガソリンスタンドが吹っ飛ぶ急展開の場面に、あえて止め絵を差し挟むことでその場に集まった人々の驚きの表情を強調した。意図するところは同じである。

3・背景動画
96cf5547.gif放送中の第1話、第2話にはまだ兵士による本格的なアクションは始まらず、第1話冒頭にほんの少し挿入されただけである。
まず左のカット。地面の動きが“背景動画”で描かれている。背景動画とは、文字通り、動画スタッフが背景を動かすことである。左の例に掲げられたような、カメラがキャラクターを追って移動する際に使われる手法である。最近ではデジタル製背景動画で失われつつある表現になっている。

4・望遠レンズ
1c65b6c4.gif望遠レンズで風景を撮ると、そこに見えている物が平面的な感じに浮かび上がってくる。その上を、例えば車などを走らせると、近景に入るまではパースなどは気にせず、1枚の絵を平面的に上へ下へとスライドさせればいい。非常に楽な手法なので、アニメでは少々やり過ぎというくらいにまで利用され続けている方法である。
例に掲げた場面では、無数の騎馬が平面上に並んでいるように見え、馬の動きはその場運動、微妙に左右に動いているだけである。それでも見ている側には刷り込みで「手前に走っている」と錯覚させることができる。

5・密着
3c3d947f.gif左に掲げたカットは様々な要素が複雑に絡み、一見するともの凄い技術を使っているように見えるが、分解するとシンプルで古典的な手法の組み合わせであることがわかる。
まず手前と奥で動く背景の動き。これは“密着”と呼ばれる技法である。まず美術で描いた背景をハサミで切り(最近ではデジタルを使うのでハサミは使用しない)、手前の地面の部分だけを切り抜く(美術スタッフがセルに描く場合もある……今の現場でセルは使用しないが)。同じように遠景にある木も切り分ける。このように切り分けたものを速度を変えながら、一番手前の地面は左に、奥の森は右へスライドさせ、さらに一番奥の木は手前の木より少し遅く右へスライドさせて距離感を出す。このカットでは合計3枚の背景が移動している。これが“密着”、あるいは“密着マルチ”と呼ばれる技法だ(私は密着について、詳しくわからないので解説はここまで)
画面の手前を馬の足が横切り、巨人の周囲では兵士が振り子運動している。馬はカメラ手前を右へ横切った後、今度は右から左方向へ進み始める。かなり強調された遠近法だが、同じ馬の列が方向を変えてカメラの右から左へ、さらに右へと疾走していることを現している。
巨人の動きは見た目通りただのその場歩きである。対象を中心に固定しながら、カメラだけをPANさせるとこういった移動感を持った画面を作ることができる。実写でもよく使われるカメラワークである。

6・デジタル背景
bae994b1.gifこのシーンで撮影台時代では表現不能なカットは唯一ここだけである。手前に迫ってくる木の動きがデジタル上で作られている。正確には他のカットでも、木の動きがデジタル制御され、木の動きにパースが付けられていたが、それでも“密着”で代替しても問題はなかっただろう。デジタルの手を借りなくても、殆ど表現できていたのである。それだけに、日本のアニメの技術が蓄積してきたものの豊かさと奥深さを思わずにはいられない。

7・付けPAN
75942026.gif付けPANこそこのアニメの真骨頂である。立体機動アクションは基本的にこの付けPANで描かれている。付けPANとはキャラクターの動きにカメラをぴったり合わせて動かすことである(キャラクターに“付け”て“PAN”)。付けPANは大判作画ではなく、普通サイズの動画用紙に描く。アニメーターの脳内だけで「カメラがこのように動いて」という想定を作り、カメラの動きを想像しながらキャラクターを描いていく技法のことである。背景はこのキャラクターに合わせて動きが付けられる。もちろん、昔からある手法だ。
『進撃の巨人』ではキャラクターが立体機動に入った後、付けPAN状態になり空中を滑空するキャラクターの動きをカメラが追跡しているように描かれる。左に掲げられた例の場合、まず一人目がフレーム手前から奥へと移動する動きをカメラが追跡し、次に画面左側から飛び出してくるキャラクターを中心に捉え、滑空していく様を追跡していく。滑空するキャラクターの動きが構図の中心で静止しているのにかかわらず、背景がもの凄い速度で移動しているのがわかるだろう。キャラクターが移動していることを想定して描かれているので、背景だけが移動しているのだ。こういったキャラクターとカメラの動きを、アニメーターは脳内のみで想像して紙の上に描くのだ。
第1話、第2話ではまだ本格的なアクションは描かれていない。プロモーション映像で披露された大がかりな付けPANが描かれるのはまだもう少し先になるようだ(オープニングでほんの一瞬使用されている)。プロモーション映像ラストに使用された、背景がデジタル制御されて動く付けPANは、従来の付けPANよりかなり複雑なプロセスが必要になる。正確にはわからないが、まず手書きでキャラクターの動き、背景の動きを大雑把に描き、その後デジタルでカメラの動きや、周囲の街の立体物の動きなどを正確に割り出し、その後アニメーターに戻し動きを作る。プロモーション映像のアクションは、まず手前に走るエレンの姿が描かれていたが、単に手前に走る動きの繰り返しではなく、途中煙突に足をのせてジャンプする動きも加わり、異常なほど厄介である。
この手法が使われた例は『けいおん!!』第2期1クール目のオープニングで、5人が演奏する姿をカメラが回転しながら捉える場面がある。『けいおん!!』のオープニングシーンで最も作画困難なカットで、あのカットだけで5人のアニメーターが協力し、あまりの作業の複雑さに挫折しかけたという、曰く付きのカットである。『進撃の巨人』の立体機動アクションはこれより数段複雑で、間違ってもテレビアニメーションのスケールで描くような代物ではない。板野サーカスと同じように、新しい表現として独立させてもいいのではないかと思う。私はとりあえず、《ハイパーアルティメット付けPAN》と勝手に呼んでいる。

49c167b1.jpeg上に挙げたような作画上の技術だけではなく、『進撃の巨人』は人間の心理を異様な濃密さで描いている。
例えば第1話。遠征から帰ってきた兵士の前に、一人の老女が立ちふさがる。
「モーゼス! モーゼス! ……あの息子が、モーゼスが見当たらないんですが、息子はどこでしょうか」
……という場面は、映像の世界では数千回近く繰り返し描かれた場面で、あまりにも使い古したために陳腐化し、もはやパロディでしか見られない光景である。うっかりすれば、いやどう考えてもギャグにしかならず、普通の演出家なら避けて代替案を出すであろう場面だ。しかしアニメ『進撃の巨人』はこれをド直球で描いた。
しかしこの場面はギャグにはならなかった。作画の凄まじさ、声優の演技の異様さに完全に飲み込まれてしまった。ただ虚構に接しているのではない、その瞬間は、あの母親の嘆きと兵士の絶望に深く感情移入して、我々は傍観者ではなく“当事者”としてあの場面に参加させられたのだ。

6dadc3bd.jpeg第1話には後半にもう一つ秀逸な場面がある。
ウォール・マリアを突破した巨人達。エレンは母親の身を案じて、ただちに家へと走る。そこには、潰れた屋根の下敷きになる母親が。救い出そうとするエレンとミカサ。そこに、ハンネスがやってくる。
「みくびってもらっちゃ困るぜカルラ。俺は巨人をぶっ殺して、きっちり三人とも助ける!」
今こそ兵士の性分を見せる時だ。ハンネスは決意を固めて、巨人へと立ち向かう。二人の子供のために、グリシャに恩返しするために――。
が、巨人の前に立った時、ハンネスは恐怖に足がすくんでしまう。強く固めたはずの結束はその瞬間崩壊し、恐怖に囚われてしまったのだ。
この場面が語っているのは表情だけである。一連のカットの流れに、際だって優れたものはない。言ってしまえば、凡庸に極みである。しかし、ハンネスのあの表情を見た瞬間、観客は納得してしまうのである。「ハンネスは精神的に敗北したのだ」と。
a83c4ab8.jpeg目の上に描かれた縦線、急に小さくなる目、顔の影が異様に深くなる。目の周辺に縦線を描く表現は、こちらも陳腐化してとっくにギャグ漫画でしか使われなくなった手法だ。これを、『進撃の巨人』はやはりド直球で描く。もはや、作画の力押しとしか言いようのないカットである。絵そのものの力で、問答無用に見ている者を黙らせ、やはり傍観者でいられないくらい緊張させ、納得させる迫力に満ちている。一枚の絵だけで完璧に語ってしまっているのである。
とことん強度に高められた作画のエネルギー、一般的な言葉で言い換えれば「めちゃくちゃに絵が巧」く、その上に最高度までに誇張された人間の心理描写、ド直球で描かれた表情描写で何もかも押しきってしまうある種の徹底した愚直さ、これら全てがあの熱気の中で醸成されている――これがアニメ『進撃の巨人』における魅力となって輝いているのだろう。

b9e91c7a.jpegアニメ版は原作版と比べて、物語構成がかなり違っている。
原作では巨人によるウォール・マリア突破とシガンシナ区陥落の後、エレンの少年時代の物語が終わり、次のエピソードに入るともう大人になっていて、兵士になるための訓練を終えているところから始まる。それまでに何があったか、については、その都度その都度で必要な部分を少しずつ回想で解説する方法が取られている。
これは漫画の世界では古くから使われている手法である。例えばスポーツ漫画などで、試合が始まってからそれぞれのキャラクターを解説するために、その都度その都度で回想を差し挟む。このように描くことで試合の緊張感を持続させながら、キャラクターを解説することで試合のドラマに厚みを加え、なおかつ読者を飽きさせず物語に引き寄せ続ける効果がある。またこの手法は、作者の「後で思いついた」が自由に利く手法で極めて便利である。弱点としては、全体として見ると、一つの試合が異様に長くなり、気付けば一つの試合を終えるのに1年使っていた、なんてことが起きてしまい、現実の時間に合わせるために試合後、突然1年が経過した、ということになり、それまでに何が起きたかを次の試合中に再び解説するという状況が発生してしまう。
漫画版『進撃の巨人』は回想で解説する手法が中心だが、アニメ版はバラバラに描かれていた原作を概ね時系列順に組み替えて、エレンの立場に何が起きたかを順番に追いかけながら描いている。エピメテウスの発想からプロメテウスの発想に転換したのだ。
結果として、アニメ版には原作版では描かれなかった場面や、不明瞭になっていた場面も時系列順に追って見られるようになった。例えばシガンシナ区が陥落した後、エレンがどうやって生活をしていたか。配給での生活や、元シガンシナ区の住人達が巨人討伐に駆りだされたことや、避難民としての生活を送っていたことや……原作でももちろん描かれた場面だけど、例えば巨人討伐を名目に住人が処分されたことは単に解説だけで感情的に感じるところはなかったし、避難民生活の話もどの時代に属するかいまいちわかりづらかった。単に解説ではなく、アルミンが祖父と別れる場面も描かれ、シーンに感情的なドラマも追加されている(アルミンが調査隊に入る動機も、ここから読み取れるようになっている)605e6f6d.jpegさらに物語上の最重要場面であるあのエレンとその父親グリシャの場面……グレシャがエレンに注射する場面……物語上、最も重要な意味を持つと考えられるシーンなのにかかわらず、原作ではどの辺りに属するかよくわからなかった場面だが、アニメ版ではシガンシナ区を脱出した直後として描かれた。
原作では、少年時代の物語の後、いきなり訓練を終えて、いきなり再び超大型巨人と対決するエピソードが描かれていた。おそらく、連載の当初だから読者を惹き付けておくために展開を急がせたのだろう。それ故に、後になって回想を描くのにかなり手間をかけているし、回想があまりにも多くて時間軸がわからなくなるケースが時々起きている。
しかしアニメ版では、少年時代を経て何があったかを順番に解説している。原作ではだいぶ後になってから登場した宗教家の話も第1話から登場しているし、第3話では訓練生時代のエピソードがしっかり描かれるようだ。これは後々有用な効果を持ってくると考えられる。原作では、超大型巨人と再会するエピソードを先に描いてしまったばかりに、登場してくるキャラクターが充分に掘り下げられておらず、故に感情移入しづらい展開になってしまっていた。単純に、誰が誰なのか、読者が充分に把握できていない状態だった。これがアニメ版では、事前にきっちりと人物を掘り下げてくれるようだ。
またこの構成には楽しみが一つある。原作ではアクションの最中に一時停止して過去に話が引き戻され、メインストーリーの進捗状況が停滞することがしばしばあったが、アニメ版では原作で回想として描かれた場面があらかじめ解説されるわけである。ということは、アクションが始まればノンストップで、一気に描かれるのだ。
おそらく原作第1巻から第3巻にまたいで描かれたアクションシーンに到達するまで、アクションシーンは少なく、人間の物語が丹念に描かれるのだろう、と想像される。またこれも私の予想だけど、原作第3巻のアクションを終えたところで、おそらく1クールを消費する計画ではないだろうか。
想像通りの構成になるかはまだわからないが、あの立体機動アクションが壮大なスケールで、充分な物語上の準備を経た後に描かれるのだ。今から楽しみで仕方がない。

2ee6d38a.jpeg原作の問題は2つある。1つは作者諫山創の絵が下手だったことだ。下手だが、カメラワークのセンスは抜群に良く、ストーリーテラーとしての才能には際だったものがある。おそらくは、演出家タイプの作家だったと思われる。最近では、絵描きの能力だけが求められ、某講談社編集者によれば採用基準は絵が巧いか下手かだけで、物語が顧みられなくなっている(間違いの指摘がありました。この講談社編集者の発言である“絵の巧さ”にはそこに何が描かれているのか、を見せる伝達力を含み、作劇やストーリーラインも絵の巧さ一つである、という意味もあったということです)。それ故に、諫山創は最近の多くの漫画家と違い、スキルポイントの振り分けをストーリーテラーとしての能力に絞った希有な作家である(時流に流されず諫山創を引き上げた編集者に喝采を送りたい)
もう1つの問題は漫画は絵が動かないことだ。漫画なんだから当たり前……わかってはいるのだが、立体機動のアクションはすでに、読者の脳内で動いているのだ。空中を自由に滑走し、巨人に肉薄する瞬間! あの恍惚、カタルシスがもう読者の脳内で動いていて、実際に動く瞬間を渇望していたのだ。
第1の問題は、今アニメ業界で最も作画に対し執着を見せる荒木哲郎監督が描いてくれている。作画に関する心配は完全に解消された。荒木哲郎によるアニメーションは欠点を探せというほうが難しいくらいに高度な技術に支えられたものだった。アニメーションとしても完璧だし、構図の一つ一つが美しい。色彩設計も素晴らしく、夕暮れ時の空の色彩は17世紀のオランダバロック絵画を連想させる。
第2の問題は、アニメ中ではまだ立体機動アクションは本格的に描かれておらず、プロモーション映像のみでの披露だったが、期待していい内容になっているだろう。読者が漫画から読み取り、脳内補正されたアクションが、さらに凄まじい技術と作画が上乗せされて映像の上に再現されているのだ。もう私は、この作品に対しては何の不安を抱かず、安心して物語のみを追っていきたいと思う。

a95a0be6.jpegそれから、これは絶対に取り上げなければならない部分だが、アニメ『進撃の巨人』は伝統的な技術の集積の上に作られている。これは非常に大事な要素である。
というのも、例えば時代劇や特撮の世界では、技術の継承に失敗したからだ。時代の変遷で一時的にでも必要とされなかったために、世代間断層が生まれ、若い世代は時代劇を描こうとしても“正しい人間の所作や様式”がわからない。かといって上の世代との交流が密に取れない状況が生まれているために、時代劇は最近になって再び描かれ始めてきているものの、玄人を満足させられる作品は僅少という結果になっている。(人形劇の世界だと、もう若い担い手がいないそうだ)
海外に目を向けると、ディズニーでは手書きアニメーションの技術が死んでいる。かつてディズニーといえば、世界最高の手書きアニメーションの技術を持っていたが、今は見る影もない(『ライオンキング』や『美女と野獣』を描いていた頃の技術は今の日本でも勝てないかも知れない)。現在のディズニーはデジタルが中心で、時々手書きアニメーションを発表する時があるのだが、そこに往年の技術は見出せない。はっきりいって技術レベルが低い。デジタルへ移行した時に、伝統的な手書きの技術が継承されなかったのだ。
そうした最中、日本のアニメだけがいま世界的な注目を集めている理由はただ一つ、伝統的な技術の一つ一つが断層を作らず継承され、新しい感性のもとで刷新され続けているからだ。世界のアニメがデジタル化へ移行していく中、一時期「時代遅れ」と揶揄されたが、それでも愚直に技術の継承を怠らなかったからこそ、今の立場があるのだ。
99d68b84.jpeg『進撃の巨人』は刺激的な場面がいくつも登場するが、だからといって何もかもが“最新の技術のみ”で描かれているわけではない。むしろ分解してみると最近の技術、すなわりデジタルの部分はごく一部で、ほとんどが古くからあり伝統的に継承された技術の集積で描かれており、これが『進撃の巨人』という新しい原作との化学的作用の末、あるいは荒木哲郎という希代の作画フェティシストの手にかかったために、あのような素晴らしい画像が生まれたのだ。アニメ『進撃の巨人』はアニメの歴史の中から結果的に生まれた作品なのだ。

289805d6.jpegアニメ『進撃の巨人』はあまりにも素晴らしい作品だ。『進撃の巨人』はアニメの歴史の中でも一際大きな史跡として残り続け、10年後の時代でも現在形で語られるかも知れない、そんな作品だ。
この作品は日本国内でとどまらず、世界に向けて挑戦すべき作品だ。おそらくどの国のどんな人間に見せても、『進撃の巨人』の映像に圧倒され、そこに描かれるドラマの濃密さに心奪われるだろう。そしてこの作品が劇場向けに作られた映像ではなく、実はシリーズ作品として作られていることに多くの人達は唖然とし、アニメーションを職業とする人達はあまりの技術の高さに愕然としてしまうだろう。
そう、信じがたいことにこの作品はテレビアニメーションなのだ。劇場映画でもそうそう体感できない異様に高度なアクションと心理描写が展開しているのにかかわらず、劇場スケールよりさらに小さなバジェットで作られているのだ。テレビシリーズでこの作品を接することのできる奇跡を、あるいは幸福を、今は何も考えずに存分に味わいたい。

テレビアニメ『進撃の巨人』公式サイト

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■ 第3話の感想
■ 第4話の感想

作品データ
監督:荒木哲郎 原作:諫山創
総作画監督:浅野恭司・門脇聡 シリーズ構成:小林靖子
アクション作画監督:江原康之・今井有文 キャラクターデザイン:浅野恭司
巨人設定:千葉崇明 3D監督:藪田修平 美術監督:吉原俊一郎
色彩設計:橋本賢 撮影監督:山田和弘 プロップデザイン:肥塚正史
編集:肥田文 音響監督:三間雅文
音楽:澤野弘之 音響効果:倉橋静男
アニメーション制作:WIT STUDIO
出演:梶裕貴 石川由衣 井上麻里奈 谷川紀章 嶋村侑 小林ゆう
    三上枝織 下野絋 逢坂良太 細谷佳正 橋詰知久 藤田咲 藤原啓治





 

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■  付録映像
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■2013/01/22 (Tue)
21332900.jpeg険しい岩山の隙間から吹き上がってきた霧が足下まで届こうとしている。水飛沫のごとく散った霧の切れ間に岩山の姿がちらちらと映るが、いずれもごつごつとした荒涼とした冷たさを見せており、冷たく霜で凍り付いている。まばらに生えている木々も、根をしっかり岩に貼り付いて健気に背を伸ばしているが、やがて岩もろとも崩れて奈落へと落ちてしまいそうだ。
そんな荒涼とした眺めの中に、男が一人、立ち尽くしていた。見る者に沈黙した背中を向けて、果てなく広がる荒涼をただ一人で対峙して、彼方を真っ直ぐに見詰めている。
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒが描いた『雲海の上の旅人』の解説である。
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒは山を多く描いた作家である。代表作『雲海の上の旅人』を始め、『月を眺める二人の男』『リーゼンゲビルゲの朝』『山上の十字架』……。
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの描く絵画の中に、人間の存在は希薄で、人間が立っていたとしても、こちらに目を向けている絵は少数で、ほとんどが背中を向けて、彼方を見ている。彼らは、あるいはフリードリヒの絵画に接する者は眼前に迫る自然と対峙しなければならない。鑑d6e1f6ec.jpeg賞者の視線は、絵画の中に描かれた峻厳な自然に圧倒された後、絵画中登場人物が向けている水平線へとやがて導かれていき、その絵画に込められたある種の厳粛な神聖さを共有する。それは祈りですらある。
アニメ『ヤマノススメ』はそんなカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの絵画からヒントを……いや全く関係ないか。

c761fcbb.jpeg山には不思議な魅力がある。ただそこに立っているだけの場所ではない。山とは古来より信仰の場だった。宗教・武道を問わず修行する者は山にこもり、山と一体になってある種の“悟り”と呼ばれるものを獲得する。
bb11871f.jpeg通俗な文明の香りは山と一体になる過程で剥ぎ取られ、ただ1人の裸となって自然と対峙し、人間としてではなく本来の野生動物に立ち返ることで精神的な解放を得て、人間的なあるいは宗教的な完成を目指すのである。
山という場所は厳しく神聖だ。そこに物質主義の低俗な文明を持ち込む場所ではない。何もかも捨てて、何もかも失って、その先に見えるものを獲得する場所だ。
その時代の潮流や一過性の風俗に流されそうになると、途端に山へこもりたくなる。自然の風景と一体となり、全てを捨てることで自己を取り戻したくなる。山にはそんな効果がある。
だからだろう、インドア傾向の人間ですら、山というものに発作的な欲求を感じるのは。
アニメ『ヤマノススメ』はそういった体験を擬似的に提供するアニメ……ではなさそうだ。

8fe3a917.jpeg

冗談はここまでにしておこう。
『ヤマノススメ』は登山をモチーフにした作品である。登山の経験のない気弱な女の子が、登山好きの玄人に(半ば強引に)誘われて登山を始める切っ掛けを作る。
093b774f.jpeg昨今アニメにありがちな冒頭・展開を、何の捻りもなく踏襲したストーリーである。あらかじめ用意されたテンプレートに登山という題材を当てはめただけの作品だ。1話2話のストーリーの中には既視感以外のものは何も感じない。
一方で、いかに漫画の物語をスタートさせるか、という課題について、行き詰まり感があるのは確かだ。すでにありとあらゆる手法が試された後である。振り向けば踏み荒らされ踏み固められた荒野ばかり。目の前には壁。さて、どのように登場人物を配して結末に向かって物語を出発させるか。
当然のことながら、見る者の意識を考慮しなければならない。誰にも明らかでわかりやすい冒頭は、どんなものがあるだろうか。突飛であると理解されづらい。ありきたりであると見透かされる。60904c46.jpegその合間を縫っていかねば、読者に新鮮な驚きを与えることはできない。
現代の漫画家や編集者は、ここに独創を込めようという意欲をなくしてしまった。物語全体を俯瞰しながら構想を組み立てられる人材は今や絶滅危惧種だ。だから現代の漫画家は、モチーフ選びに腐心するようになった。
漫画雑誌を開けば、冒頭の展開はほとんど同じフォーマットで描かれている。○○未経験の主人公が、玄人の勢いのいい友達に強引に誘われて……。そして○○活動にのめり込んでいくうちに、才能を開花させる。だいたいこれがデフォルトになっている。
その後の意外性については、選んだモチーフの専門性がどれだけ新鮮味のある展開を引き出してくれるか。作家の力以上に、モチーフの力に寄りかかることが多くなっている。
それだけに、編集者は漫画家の採用に、どれだけうまい絵を描けるか、あるいは可愛いキャラクターを描けるかだけに集中し始めている。可愛いキャラクターが描ければ、それだけでビジネスとしての展望が開ける。だからいま漫画家と言えば、魅力的なストーリーを描ける人ではない。そんな人材は編集者や出版社は求めていない(そもそれを理解できる編集者も絶滅危惧種)。ただ絵がうまく描けるかどうか、あるいは出版社の要求を聞き、それを的確に漫画にできるか、それだけが望まれている。
『ヤマノススメ』はそういった作品の一つである。そういった作品の一つであるが、『ヤマノススメ』が選んだモチーフは登山である。山そのものの魅力や、精神性をうまく引き出せれば、テンプレート的な漫画から1歩も2歩も抜きん出た作品に化ける可能性を秘めている。

9c002afe.jpeg『ヤマノススメ』はやや頭身の低めのキャラクターを中心に描かれる。目はぱっちりと大きく、表情がくっきりしていて魅力的だ。色彩もどちらかといえば中間色が使われ、ぬくもりが感じられる。動きの動線がしっかりしていて、可愛らしいデザインである。
その一方で、風景はしっかりしたロケハンの下で描かれている。キャラクターが通過した場所は、どんな何気ない場所でも実際の場所が存在する。もちろん山の風景であっても、妥協なき描写が優れた画像を作り出している。
そこまで綿密なロケハンをしておきながら、アニメで描く必要があるのか。いやアニメだからこそ、だ。
0f069ea2.jpeg忘れられがちだが、アニメの基本要素はキャラクターではない。キャラクターは一要素だ。アニメの基本要素は絵画であることだ。絵画であるから、実際の風景を自由に操作できるし、さらに作家の精神性や抽象性をそこに込めることができる。
現実にこんな可愛い女の子なんていない。現実にはこんな美しい風景は存在しない。絵画は観念だから、平気な顔をしてそこに描かれる。
実写撮影でも、その人間にしか見えない瞬間を区切り取る芸術的な才能を持った人間は存在する。しかし絵画は、そんな技術や精神論をひらりとかわして観念だけの世界を当たり前として描き出すことができる。
絵画のみで構築される山の風景、山の世界。『ヤマノススメ』は果たしてどんな光景を最後に目指しているのか。

6006a54b.jpegしかし『ヤマノススメ』はたった5分で疾走するアニメである。1話60カット少し出る程度だ。あまりにも短い。わずか5分、物語として一つの山をそこに提示するだけで、そこから一切の寄り道をせず、物語の結末を見せなければならない。《起→結》くらいの勢いだ。
寄り道も淀みもない。作家の主張が込められるとしてもほんの一瞬。作品の中に、情緒が描きにくい構成になっている。物語に乗り越えるべき困難を置きづらいのだ。
この作品は、『アーススター』という新興雑誌が企画した低予算アニメだ。想像するまでもなく、30分構成のアニメを制作するだけの資金力がないのだろう。(5分構成であると、予算割り当てのほとんどデザイン料と演出料で、アニメ本編の制作自体にはあまりお金はかかっていないだろう。1カットの予算およそ5000円であるから、60カットで掛けて30万円。デザイン料や演出料を下回る予算だ)
だからこそ時代の変化を感じられる。かつてであれば、テレビ契約で5分構成と言えば、月~金曜日の帯と決められていた。しかし『アーススター』企画のアニメ『てーきゅう』や『まんがーる』はいずれも週1で5分構成だ。アニメの制作は、5分からでもスタートできるし、ユーザー側にもそれを受け入れる体制ができている。
9ae270b7.jpegもしもここでヒットが出て『アーススター』に充分に資金的な準備ができるようになれば、次は25分アニメの企画も生まれるだろう。5分アニメからチャンスが作られる時代になったのである。
今期に入って、ショートアニメの本数は増えつつある。どんな背景があるかわからないが、考えてみれば5分や3分からアニメを制作できるチャンスがある。ニコニコ動画、YouTubeなど、発表の場もすでにある。これを使わない手はないだろう。
何となれば企業ではなく、個人がお金を出してプロに依頼して、ニコニコ動画にアニメを発表することだって可能なのだ! プロの漫画家であれば、出版社に依存しなくても、原稿料や印税で得たお金で独力の力でアニメを発表することだってできる(最初にこれをやるのは誰だろう?)。デジタルとネットの時代により、より多くの人に、あるいは我々にも平等にチャンスが与えられているのである。
0651e972.jpegアーススター製作ではないが、『gdgd妖精s』は15分、少し前なら中途半端な尺として弾かれそうな長さだが、我々はすでにこの作品を受け入れている。しかも『gdgd妖精s』はプロが制作したアニメではなく、映像の素人が「上から降りてきた安い技術」で制作されている。面白いアイデアとストーリーを考える力、あと気概さえあれば誰でもアニメを作り、発表できることを証明したアニメだ。
もちろん欠点はある。先に書いた通り、ショートアニメだと物語の情緒をそこに描くのは難しい。ギャグならコント風の内容でむしろ5分程度が収まり良くなるが、ドラマ作は不向きだ。ショートアニメならどのように描くか、が大きなポイントになるだろう。
そうした新興のアニメに対して、天の邪鬼な見方をして芽を潰すべきではないだろう。できれば積極的な支援をして、応援をしようではないか。


作品データ
監督:山本祐介 原作:しろ
キャラクターデザイン:松尾祐輔 色彩設計:藤木由香里 美術監督・美術設定:松本浩樹
撮影監督:佐藤洋 編集:木村佳史子
音響監督:本山哲 音楽:Flying-Pan
アニメーション制作:エイトビット 製作:アーススターエンターテインメント
出演:井口裕香 阿澄佳奈 日笠陽子 小倉唯 荻野晴朗

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■2013/01/15 (Tue)
eb1777ef.jpeg花屋の《フローリスト・プリンセス》は今日も甘く穏やかな香りを店の外まで漂わせていた。
「や!」
私は店の入り口にぱっと顔を出す。
「あら」
店の人が、笑顔で振り返って手を上げた。
花屋の花瀬かおるさんはとても綺麗な人で、ふわふわした柔らかい金髪を首のところで留めて、くるくる巻いた房を肩の上に載せている。今日はピンクのエプロンをしていた。
「今日も寒いね~」
私はのんびりした気持ちで店の中へと入っていく。花屋の中は私とかおるさんだけだ。
「たまちゃん、学校今日までだっけ?」
穏やか声だけど、ちょっと太めなのは内緒だよ。
「そうだよ」
と側に置かれている花を振り向く。おやおやおや……。
「荷物置かせてね」
「どうぞ」
返事も待たずに私は店の奥に買い物袋を置き、元の花の前に戻ってくる。
dabb5c54.jpeg「これ綺麗だね」
少しかがみ込んで花を覗き込む。なんて名前だろう。緑の茎が何本も伸びていて、その先に白い花弁をちらりと見せている。
「今日入ったのよ。夜になると、香りがするんだって」
かおるさんが説明してくれる。
「へえ」
私はさらに花に顔を寄せて見る。すると……、
何だろう? 花に混じって何かが刺さっている。白く痩せた何かで、淡い緑の茎とほどよい色合いで埋没している。でもそれは花ではなく、花よりは何やらふわふわした羽毛で全身を覆っていて……、
f425c137.jpeg「ぐっは!」
突然、飛びついてきた。私の顔面に貼り付く。凄い勢いで、後ろ向きに倒れそうになる。
「わ~~~!」
びっくりして、とにかく声を上げた。手をばったばった振り回すけど、何も掴めない。こける、こける!
「やだ! たまちゃん大丈夫! 息、息できてる?」
妙に生暖かい闇の向こうで、かおるさんの声が低くくぐもって聞こえてきた。
い、息? ていうか、顔が、顔が、もぞもぞしたものが顔全体に張り付いていて、こ、このままだと……。
「はっくしょん!」
くしゃみが出ちゃった。勢いで、顔に張り付いた何かが飛んだ。
「びっくりした」
まだもぞもぞする鼻をこする。それから、さっきまで私の顔に張り付いていて、今は地面にぺたっと張り付いて……いや倒れてるのかな?……を覗き込んでみる。
トリ? トリなのかな?
太ったお月様みたいな体。立派なおムネ。両肩に大きな翼がついている。体全体は真っ白だけど、ピンクの房を頭に付けている。
オウム……には見えないよね。
「やだなに? お花と一緒に入ってきちゃったのかしら」
かおるさんが見知らぬ虫を見つけたような不安な顔をして鳥を覗き込む。
「トリ、かな?」
「トリ、よね」
意見を求めてみる。やっぱりかおるさんも、トリと認識しているみたい。でも、なんだろう? この何とも言えない違和感。
9352dea3.jpegとりあえず、私はトリさんを両掌でそっと持って、自分の目の高さに持ち上げた。ちょっと、重いよ。
「ごめんね、トリさん。痛くなかっ……」
ebef366a.jpeg「駄目だぜ」
私が言うのを遮って、低い声が《フローリスト・プリンセス》の中に横たわった。
「へ?」
声の主を理解するのに、2秒3秒……。
「俺に惚れちゃ」
e6da23a0.gifまただ。間違いない。トリさんが、黄色の嘴をぱちぱちさせて、人の言葉を喋っていた。そして、ぱちんと片目を閉じてみせる。なぜか、トリの睫の先から、ハートが散ったように思えた。
ぅわ!
びょびょびょ、と背筋に何かが走るのを感じて、私はぱっと立ち上がった。方向は、こっち。お店の外。間違いないように定めて――一気にダッシュ! トリを煉瓦敷きの上へ放り出した。

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ea422fb0.jpeg冒頭の場面。映像が始まって最初のカットだ。橋全体を捉えたロングショット。その橋を今まさに渡ろうとしている3人の女の子達が描かれている。女の子達の笑い声が遠くに聞こえる一方、ダイアローグが上に被せられている。特にこれといった必然性のない対話だ。
映画ではよく見かける冒頭場面である。しかし映画では、こういった場面は通常、モノローグ、映画のテーマを主人公の心情として吐露する独白だ。
これが『たまこまーけっと』では、ごくごく普通の対話。それに音楽が明るい。映像のイメージが黄昏時の場面ということもあり、さらにコントラストが重く出るフィルターが使われており、やや「趣のある画像」である一方、音楽も対話も、映像の重さを蹴散らす明るさで、対話の内容も実に脳天気だ。このファーストカットの明るさで、作品の方向性をいきなり決定的にしていると言えよう。
橋をわたる女の子達は、バトンで繋がってくるくるとはしゃいでいる様が描かれているが、これはすべて同じ動画用紙で描かれている。続く2カット目、3カット目も同じく3人の少女の演技の続きが描かれているが、やはり同じ動画用紙の中で描かれている。3人の女の子がバトンで繋がった状態で、釣られたり引っ張られたり駆け出したりといった動作が、的確な重さを持って描かれており、いきなり高レベルの動画が描かれる。

a253e11b.gif街の一角に落ちる光の筋。ここをジャンプして越えようとする3人の少女。
この女の子達の体がとにかく重い。アニメーションではこういった場面、生理的な気持ちよさを追求して現実より高く飛んだり、様式的な決めのポーズを強調して描かれたりするものだけど、『たまこまーけっと』ではアニメにありがちな外連味を排除し、あえてこの年頃の女の子の身体の重さ、バランスの悪さを描いている。
またわざとホームビデオ風の、感度の低いカメラを想定して描かれており、ざらつきのある光と影のコントラストが美しく、生っぽさを演出している。

94995129.jpeg駆け出す3人の女の子。数えて5カット目。ここで主人公の北白川たまこの顔がクローズアップで映る。

38f6e82f.jpegたまこを追いかけて駆け出す女の子達。常磐みどりと牧野かんなの2人。
走っている場面だが、かんなは何かが気になっているようで、フレーム正面より上を見ている。
「アニメはアニメーターが意識せずとも、ついキャラクターに意思が強く出過ぎてしまう」。コップを取ろうと思ったら、コップをじっと凝視してしまうのがアニメのキャラクターの演技上の弱点である。
しかしこの場面では、同じ方向を目指して走っているのに、必ずしも同じ方向を見ていない。それぞれのキャラクターを想定しながら、「そのキャラクターが見ていそうな方向」を見るように描かれている。また、牧野かんなというキャラクターをクローズアップで見せることができて一石二鳥である。

d5b05c1c.jpegうさぎ山商店街の前でバトンを高く跳ね上げる。
もちろん、うさぎ山商店街の看板を見せるためだ。物語の中心的な舞台であるうさぎ山商店街の入り口を画面の中にきっちりと収め、ここが物語の主要舞台であることを解説し、また視聴者をその中へと誘う目的のために描かれたひと場面である。

e48ba69c.jpegオープニング・アニメーション。
商店街を舞台に、そこで暮らす人々の姿が順々に登場する。こういったカットの連続はアニメーションにおいてスタンダードな見せ方と言えるが、主人公北白川たまこがマジシャンとなって、ミュージカル風の仕立てで見せる方法は、どちらかといえば少し前のアイドルミュージックビデオ風である。“決め”のポーズの見せ方がいずれも様式的なアイドル風のスタイルでどこか懐かしい雰囲気がある。
キャラクターの登場や、動き出す風景など、アニメのオープニングらしい楽しいイメージが連続する。

3b6b32b7.gifオープニングシーン。スキップするたまこの足下をクローズアップする。ワイヤーで釣ったようなふわふわした足取りで妙に非現実的だが、その一方、スカートの動きはリアルである。膝に蹴られてスカートの布がめくれ上がり、皺の動きが後ろに流れていく。使われているカラーは2色だけだが、やや厚手の布の質感をしっかりと描いている。
こうした重量感のない動きはもちろんアニメーションの専売特許だが、実写で試みられた例は存在する。周囲の登場人物との動き、重さが合っておらず、しかも合成技術が未熟でブルーバックの切れ端がちらちらと見えて、不自然の固まりでしかなかったが。こういった超現実的な描写が平気な顔をして精密な背景のなかに登場し同居するのは、やはりアニメーションならではだ。

9dda3b10.jpegうさぎ山商店街をやや高めの、店の屋根の高さから描かれた全景。華やいだ賑やかさの中、たまこが雑踏に埋没している。
最近のアニメではなかなかお目にかかれない密度の高い街の風景だ。アーケード上部を覆う垂れ幕、“メリークリスマス”の垂れ幕で隠れ気味になっているが、大きな魚のオブジェ。人が消失点の奥の方までぎっちり描かれている。そこだけで世界が充足した、ある種の胎内的なイメージである。

e6da23a0.gif花屋《フローリスト・プリンセス》でトリのデラ・モチマッヅィと遭遇する。たまこは大慌てで店の外に投げてしまうが。
この場面、立ち上がり、振り向きにかなりの動画枚数が消費され、動きの連なりがしっかり描かれている。
しかし駆け出した途端、中コマが抜けたり、逆にちゃんと書かれているコマがあったりと不規則な動きで一気にカメラ正面へと向かってくる。また、走る足も、不自然に曲がって、ばたばたと足が左右に激しく動いている様子が描かれ、全体としてコミカルな一場面となっている。たまこがカメラ正面に接近した時の、大きく崩した顔にも注目である。
コマの操作こそがアニメーションの本質、という実体を明快に突いた動画である。

64cd13ba.gif商店街を歩くたまこ。アタマの上には妙に気取ったポーズのトリ。たまこはやや下がり気味の目尻で細かい線の集合で描かれ、涙の線がくっきりした実線作画で描かれている。
「飼ってないよ」と手を振るが、まともに手が描かれているコマが実は少ない。ほとんどが左右にぶれ、“お化け”が描かれている。これでちゃんと動いて見えるところが、アニメーターのトリックである。
また、極端に崩したり、強調したりといった描写の多い『たまこまーけっと』らしい個性が見える場面となっている。

a98e04f5.jpegここでは2つのカットを取り上げる。
左はトリがデラ・モチマッヅィと名乗った場面。右は1話の後半、もち蔵がたまこの背中を叩く場面。いずれもたまこが面白い顔をしている。
左の場面では、たまこの顔と掌が崩して描かれている。ほとんど別の作品の別のキャラ、というくらいにまで崩されて、コミカルな場面を強調している。手などはほとんど“もみじ”である。その一方、たまこの全身、あるいは他のキャラクターの描き方などのデッサンは正確で、このコントラストが楽しい画にさせている。
右の場面では、たまこは無表情。周囲のキャラクターは慌てたような必死な顔、影作画もしっかり描いておきながら、たまこだけがのっぺりとした簡素な絵で描かれ、ここも面白い場面になっている。背中を叩かれながら、ちゃんと全身と髪の毛が揺れるという丁寧な作画もポイントである。顔を崩さず描く方法は、同じ原画をトレスすれば問題なくできる。
『たまこまーけっと』では他の作品より、より大らかにアクションや表情が描かれ、リアルな演劇的な空間を描いた作品ではなく、もっと柔らかく接しやすい作品であるということがわかる。

19982753.jpeg夜の商店街。周囲の暗闇に対して、商店街の中は煌々とした光に包まれている。
実際の夜の商店街はもっと暗いものだが、この作品での商店街はどこまでも明るい。夜の場面であるがよそよそしさはなく、やはり胎内的な暖かさやぬくもりがそこに感じられる空間となり、居心地の良さを感じさせる。

銭湯の場面。またしてもトリを投げる場面。
62357a7d.gifトリを拾うまでは動画枚数を消費してしっかり描かれているが、トリを手にしてから1歩2歩……8歩分の動画が思い切ってなしで描かれている。すべて原画の動きだけで、表情が見えないだけに、キャラクターの動きだけで面白い雰囲気を描いている。おそらくは、「トリを投げる行為」を暴力的に見せないようにするための配慮だろう、と考えられる。もちろん、時間がなくて中割の時間を割いた、とかそういうものではない。
GIF動画を制作する過程で気付いたことだが、背景の下塗りにピンクが使われた。一度画用紙をピンク色に塗りつぶし、それから細部を描いたのだ。木の木目部分を見ていると、下塗りのピンクが見えてくる。絵全体に柔らかなピンクのイメージがあると思っていたが、単に配色の効果で現れたものではなく、下塗りの色のイメージが出たためだ。

36b69afe.jpeg主要舞台はうさぎ山商店街であるが、たまこの通う学校もなかなかこだわったディティールで描かれている。どっしりとした赤エレンがの趣のある校舎。
この場面は、すでにネットユーザーたちの調査によって《京都聖母学院小学校》であると明らかになっている。制服のデザインも、実はこの学校のデザインに近いものが採用されている。
エンディングに学校の一部が登場するが、いずれの場面も美しく、写真映えする建築物である。『けいおん!』に続いて、建築に対するこだわりはやはり強いようである。

39c76f76.jpeg体育館。一応の運動部で体育館に集まる3人だが、特にこれといった何かをするわけではなく、持ち込んだ餅を頬張りながら、特にこれといったテーマのない対話が始まる。
それぞれが勝手な演技で喋り出す感じで、きちんとした脚本のある場面ではなく、あたかもドキュメンタリー的な空気で少女達の日常の一部が描かれている。こうしたゆるさは、『らき☆すた』と『けいおん!』を経てどこか極まったものがある。
またキャラクターの描き方も、アニメにおいては、それぞれのキャラクターの個性を強調する場面ではあるが、『たまこまーけっと』では3人が3人ともごくごく普通の女の子として、アニメのキャラクターらしい主張はなく、あえて平坦に、平均的な表情が描かれているのが特徴だ。

0d1bd7dc.gif餅屋「たまや」
たまこの祖父、北白川福の仕事場面。柔らかくしたもちの固まりちぎって一口分にする。短い場面だが、餅の粘り、ちぎれた餅が渦を巻く瞬間など、非常に細かく丁寧に描かれている。ちぎれる瞬間の「ぺちっ」の音もリアルに感じられていい。
手の動きはAセル。奥の体がBセル。止めでごまかさず、手の演技の連動して動かすところが細かい。

a9d06469.jpegエンディングはオープニングとは対照的に、静的なイメージで描かれる。たまこが髪留めを外し、髪が肩に被さっている様子が新鮮だ。逆光で描かれて、髪の淵が真っ白に輝いている。露出高めの設定で、全体が白っぽく輝いた印象がある。アイドルビデオでよく見かける映像だ。ポーズもアイドルビデオ特有の様式が現れている。やはり感度低めのフィルムが想定された描写で、映像には意図的なざらつきが現れている。
少女の身体、やや俯きの目線、白い花、空、など少女特有のメランコリック、それからイノセントな輝きが強調された、ある種山田尚子監督の独断場と言うべき映像に仕上がっている。
足を描いたカットが多いが、性的なイメージではなく、足からその人間の全身、そこにこもった感情を連想させる手法である。山田尚子監督特有の演出手法である。山田尚子監督によれば、顔・表情を描くとわざとらしくなるが、足にその人間の自然な表情が出る、と言う。
左下、それぞれの足が描かれているが、なにげなくトンカチ。え?と思うが、猟奇的な意味はなく、大工の娘という設定を描いている。
右下の空の場面、もちろん背景美術スタッフの絵だが、撮影スタッフの見事な処理で、あたかも実写のような仕上がりになっている。撮影アニメは『中二病でも恋がしたい』に続いていい仕事をしている。


c0e931fc.jpeg『たまこまーけっと』は商店街を舞台にしたアニメである。
山田尚子監督の前作である『けいおん!』は主要舞台は放課後の部室。それだけに、この場面、空間の演出に注意が注がれ、それ以外の風景は潔くばっさり切り落とされていた。続く第2期『けいおん!!』ではその空間を教室、あるいは学校の外まで広げ、ドラマの幅はゆるやかに広がっていった。
『たまこまーけっと』では主要な舞台が商店街だ。アニメ中の描写は圧巻だ。アーケードの下に並ぶ店の一つ一つ、その店の登場人物、店の外観、内装、ポップ、どこまでも詳細を究めた空間だ。アーケード下の風景は影はなく暖かく柔らかであり、また煌びやかに華やいだ美しさがある。
一方で、主人公を学生としているが、学校の場面は短く切り取られている。多くの学園ものアニメでは、通常4月から始まり、教室での営みや人物が中心に描かれる。しかし『たまこまーけっと』の主要舞台は学校ではない。第1話に授業の場面はなく、冒頭から終業式の後、帰宅する場面から描かれる。その後、バトン部の活動で体育館へ行く場面があるが、特に何かの活動をする場面はなく、ただ友達と喋っただけ。バトン部の部長は顔すら見せなかった。
学園ドラマだとすれば非常にイレギュラーな冒頭だが、『たまこまーけっと』の主要舞台は、あくまでも商店街。北白川たまこ、という学生を主人公としていながら、やや珍しい立ち位置の作品となった。

7474b8e5.jpeg舞台となるうさぎ山商店街は非常に賑やかな場所だ。一人一人がキャラクターとしてしっかり自立し、店内、店外の描き方いずれも丁寧で細かい。商店街の人々、という密度の上にさらにモブ達が一杯に描かれ、映像の密度の重さはさらに極まってくる。
主人公たまこは、そういったうさぎ山商店街の人達からあたかも家族のように扱われ、接している。商店街そのものが、大きな家族世界、という描き方だ。商店街で一つの自己完結した、胎内的な穏やかさがそこに描かれている。たまこの同級生も、キャラクター作りの段階で親⇔子という繋がりが強く意識され、その出発点はやはりうさぎ山商店街だ。この物語では、うさぎ山商店街が世界の出発点なのである。
過去の京都アニメ作品は一貫して、日常のゆるやかさやぬくもりが描かれてきたが、『たまこまーけっと』では、中心に“商店街”を置き、商店街を中心とした“家族”の物語がテーマとして選ばれている。

318dd6a4.jpeg日常の空間はどこまでも精緻な観察主義に基づいている。それだけに、アニメらしいファンタジーであるデラ・モチマッヅィの存在感が強烈に浮かび上がってくる。
考えてみれば、デラ・モチマッヅィは“よそ者”だ。この作品は商店街を一つの大きな家族として全てのキャラクターが繋がっているが、デラ・モチマッヅィだけはよそからやってきた異邦者、という扱いだ。トリの姿をしているが、実際にもこの世界における異物なのだ。
この異物としてのデラ・モチマッヅィが物語にどのような異変を与えるのか、あるいはただの客人として一時的に招かれ、何もせず去って行くだけの存在なのか。デラ・モチマッヅィとたまこを中心とした物語がどのように変節していくのか、楽しみに見たいところだ。

65ec44c8.jpeg『たまこまーけっと』はキャラクターの柔らかさが大きな特徴だ。表情の作りが他のどの作品よりも豊かで楽しい。
場面によっては感度の低いフィルムを意識する場面があり、またキャラクターの身体の描き方はアニメらしからぬ現実主義が貫かれているが(キャラクターの描写や頭身の話ではなく、キャラクターの身体能力や重さについて)、作劇や表情の作り方、あるいは線の崩し方は漫画の特権というべき手法がいくつも使われている。時に大きく崩して、笑いを求めてくる。線の作りが自由で柔らかいのが『たまこまーけっと』の一つの特徴だ。
『氷菓』では現実的な空間の重さを演出するために、コミカルな場面でも線ががっちり描かれ、あるいは演劇的な空間が意識されてきた。しかし『たまこまーけっと』では空間よりも、キャラクターの線を、アニメーターの線の生理が活き活きと見えるように映像が設計されている。

68fd3ef2.jpeg商店街を舞台にした作品、というのは決して珍しいわけではない。この世のありとあらゆる森羅万象をテーマにできる日本の漫画の世界、商店街をメイン舞台にした作品が過去になかったわけではない。
それでも『たまこまーけっと』はこの作品でしかないアイデンティティを持ち、第1話の段階でこれを自然体で主張している。
『たまこまーけっと』特有のアイデンティティ、それはやはり《商店街という家族空間》であろう。この物語は誰に対しても優しく、暖かく、緩やかな受容に満たされている。深夜アニメとして放送しながら、この作品は一切人を選ばない。どんな性別、世代を拒絶しないのだ!(それだけに、なぜ深夜に放送したのか?と問いたくなる。7時のゴールデンタイムでも間違いなく人気作品になれたはずなのに)
『たまこまーけっと』という作品は人に優しい(制作スタッフには厳しいが)。みんなが個性的で、攻撃的な人物はおらず、嫌いになりそうなキャラクターはいない。商店街の描き方が素晴らしい。商店街というふとすれば灰色に沈んだ街の風景の一つに過ぎなかったものが(アーケードの下はいつも影が落ちて、やや暗い)、煌びやかな美しさと柔らかさを持って映像の中で再構築された。
『たまこまーけっと』はコアなアニメユーザーによるアイドル的な人気だけを狙っていくのではなく、できればもっと多くの人に愛されるべき作品だ。

監督:山田尚子
シリーズ構成:吉田玲子 キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子
美術監督:田嶋育子 色彩設計:竹田明代 撮影監督:山本倫
設定:鶴岡陽太 音楽:片岡知子 編集:重村健吾
アニメーション制作:京都アニメーション
製作:うさぎ山商店街
出演:北白川たまこ/州崎綾 常磐みどり/金子有希 牧野かんな/永妻樹里
    トリ/山崎たくみ 北白川あんこ/日高里菜 大路もち蔵/田丸篤志
    朝霧史織/山下百合恵 北白川豆大/藤原啓治 北白川福/西村知道
    大路吾平/立木文彦 大路道子/雪野五月 花瀬かおる/小野大輔





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■2012/07/17 (Tue)
「漫画は漫画として読めばいい。どうしてアニメにするのか!」
fc8b7f1d.jpeg
アニメにする必要性があったかどうかは、後々見ていた人々によって判定されるだろう。



このアニメは、女の子のかわいさをお楽しみいただくため、邪魔にならない程度の差し障りのない会話をお楽しみいただく番組です。

8e199202.jpegというのは建前で、実際には対話こそがこの作品の中心的テーマであるようだ。
原作は久米田康治がネームまでを担当し、それ以降の作業をイラストレーターのヤスが請け負う、という役割分担で描かれる漫画である。ベテラン作家にネームまで描かせ、それまでもっとも重要とされていたキャラクターを別作家に描かせる、というなかなかユニークなシステムで描かれている。漫画とはキャラクターであるのか、それともネームであるのか。漫画家の場合、本質がどこに現れてくるのか、面白い謎かけを解く切っ掛けになる作品である。それ以上に一歩推し進めれば、作家の性質によっていかに分担させ、あるいは共演させるべきなのか、これからの“漫画”のテーマを一歩先んじた作品であるといえる。
『じょしらく』は落語家の少女が主人公であるものの、落語は特に重要なモチーフではない。舞台は楽屋であるが、楽屋という特異性は重要視されず、少女たちも和装姿であるが、これはただその場所と符号させるための変異的な制服といったところで、やはり重要というわけではない。
あくまでも『じょしらく』は会話劇である。誰かがネタを振り、誰かが掘り下げ、誰かが方向性をねじ曲げ、誰かが流れをぶった切る。『じょしらく』の基本ルールは、いかに馬鹿げたあり得ない話であっても絶対に否定しない、全員が話に参加し、ロールプレイを演じる。それが実際あまりにも馬鹿げているからこそ、笑いが巻き起こるわけである。
2ae9fe5a.jpeg笑いとは常識的、社会的条理からの脱線と引き戻しのバランスによって引き起こされる。そこでいかに意外性を持ったユニークさが引き出せるかで、笑いの質が決定される(“恐怖”を演出する場合の方法論もほぼ一緒である)。ただ訳のわからないことをいくつ並べても笑いにはならないし、形式化された言葉や状況を展開させても、それは笑いのセオリーではない。
『じょしらく』いや久米田康治の笑いは、ほとんど今現在の社会的なものから拾い上げられている(故に風刺作家と呼ばれる)。現在系で起きている事件や傾向をえぐり出すように批評を加えつつ、あるいは作者の幅広い知識から偉大な賢人の言葉や法則性が拾い上げられ、それらは風刺ネタと奇妙な化学反応を引き起こし、理想的ともいえる笑いの脱線を展開させる。
『さよなら絶望先生』ではネタの羅列と風刺だったが、『じょしらく』の場合ではキャラクターがとことん演じる、という違いがあるようだ。
近年ありがちになった、ネットに散乱している言い回しや誰かが何度も繰り返したネタを羅列するだけの作品とは趣旨が違う。『じょしらく』はネームの中に、久米田康治のオリジナリティが強烈に表れている。
f24ca0e3.jpeg映像制作がシャフトでなくて良かった、と私は密かに思っている。近年のシャフトは、原作漫画のコマをそのままトレースして、何の工夫もなく色だけ塗って画面上にアウトプットするいい加減な手法で映像を制作してきた。動画の質も、目に見えて低下している。構成はボロボロで、見るに堪えない作品を乱発してきた。一方で『じょしらく』はクオリティに問題のあるJCスタッフである。第2話の段階でも、動画の精度や指先のトレースに崩れが見られた。どこまで品質を維持できるか、不安なところである。

053f04d5.jpegアニメ『じょしらく』は尺の長さに合わせて、複数のエピソードがまとられているようだ。第1話Aパート『普段問答』は、原作第2巻特別編として収録された『ふだん問答』を中心としているが、冒頭の「漫画は漫画として読めばいい……」の台詞は第4巻「30日目/ちょいたし講釈」から採られている。アニメとして見易い話を、うまくまとめられているといえる。
舞台は原作通り楽屋から一歩も外に出ず、対話だけで物語が進行する。自然と構図は人物が中心になる。ほとんどのカットにキャラクターが登場し、何かしらの発言しているといった状態である。人物の構図の切り取り方は、顔、首、胸、腰、股間、膝、くるぶし、と“関節”で切る方法が一般的であるが、それでもパターン化されやすく、うっかりすると“ありきたりな構図の連続”になる難しいところである。
また『じょしらく』特有の所作として、キャラクターたちが“地面に直接座っている”ということが挙げられる。あるいは、正座である。正座した姿勢での演技がキャラクターの動きの基本となっている。
和装姿であるから、歩き走きの動画であまり膝を上げられない、という特徴もある。アニメーターは和装での歩き方、走り方の研究をしなくてはならない。
キャラクターは最近のアニメとしては珍しく、フィルターの効果に頼らず、基本的な色彩だけで描かれている。線と色彩が中心で、今どきの傾向と比較する単調に見えるし、動きや構図の描き方次第で映像が弱くなる可能性を孕んでいる。映像としての力強さは、むしろいかに原画/動画の質を保っていけるかにかかっているだろう。
音楽は現代的な楽器だけではなく、趣を感じさせる音色を中心に採用されているが、いかにも伝統的な単調さを強調させるふうでもなく、またコメディ作品にありがちな騒々しさも避け、静かに穏やかな調子で背景を支えている感じである。
22a6f097.jpeg出演俳優は原作漫画の限定版に付いていたドラマCDを1代目として、アニメ版は“2代目”という扱いになっている。1代目はすでに名の知れているベテランが中心だったが、2代目は新人が中心、後藤沙緒里だけが1代目からの続投で、一番のベテランとなった。



05a6a98c.jpeg意外だったのは、冒頭の場面でキャラクターがちゃんと落語を演じていたことだろう。背景がしっかり描けている。第1話の冒頭場面、落語の終わり際の場面が演じられ、舞台袖に下がるまでの所作を、フルコマで妥協なく描かれている。原作とは異なり、落語をきちんと描こう、というアニメ作家側の意識を感じさせる。
原作における落語の場面と言えば「お後がよろしいようで」の一言だけだったが、アニメ版ではもう少し手前の、何を演じていたかわかるくらいまでは描かれている。
モデルとなっているのは【新宿末廣亭】で間違いないだろう。アニメの一場面とグーグルビューを比較すると、ほぼ一致した。寄席だけではなく、周囲の町並みまでそのまま描かれている。場所を特定し、落語の74e21d9e.jpeg文化を映像の背景に置かれる骨として描こうとしたのだろう。また寄席そのものの解説が加えられたのは意外だった。
毎回Bパートは原作から趣旨を変え、楽屋の外に出るようである。第1話では寄席の周囲を、第2話ではなぜか東京タワー観光。脚本はほぼ完全なオec8327e1.jpegリジナルである。
第1話でみんなが集まってくる場面で一同が着ている衣装は原作第2巻のおまけページに描かれた、ヤスが想像する一同の日常の場面から採られている。第2話の衣装は、原作第4巻目次ページ手前のページに描かれているものを手本にされているようだ。
Bパートは毎回短く、4分から5分と幕間劇のような趣だが、原作を詳しく読み込んでいる者にとっても、なかなか新鮮味のある映像になっている。
381777b1.jpegあまり知られていない話だが、動画マンは何も指示がなかった場合、原画と原画の間を何を描いてもいいのである。左の例は、原画コマがすでに正面を向いているから、原画の指示通りの動画であるが、時々動画マンの遊び心で突飛な絵が入っていたりすることもある。



ae6c336f.jpeg『じょしらく』は基本的に楽屋から外に出ることはない。アニメでは時々、外に出るようだ。原作のルール付けを絶対視するわけではなく、柔軟に、自然な脚本の流れに沿って映像を組み立てているようだ。
原作漫画とアニメを比較すると、映像を組み立てる方法論に違いが見られる。アニメはアニメで、妥当といえる脚本と構図の作り方が実践されているようだ。
しかしだからといって、本当に映像化する価値があったのか。舞台は一つだけ、特に動きの必要のない会話劇の映像化。
映像作家の力量は、ここで示される。映像作品として有無言わせる映像の力があれば、その時には『じょしらく』にアニメ化の意義があったのか判断されるだろう。会話劇でも描き方次第で、人を惹き付ける名作になり得る。アニメ『じょしらく』はまだまだこれからである。

StaChid じょしらく公式ホームページ
Twitter 女子落語協会
新宿末廣亭 公式ホームページ


作品データ
監督:水島努 原作:ネーム・久米田康治/作画・ヤス 監修:林家しん平
キャラクターデザイン:田中将賀 シリーズ構成:横手美智子
美術監督:柴田千佳子 色彩設計:村永麻耶 撮影監督:大河内喜夫
編集:西山茂 音響監督:岩浪美和 音楽:横山克
アニメーション制作:J.C.STAFF
出演:小岩井ことり 山本希望
   佐倉綾音 南條愛乃 後藤沙緒里



 

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