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■2013/02/23 (Sat)
テレビ放送第1話の解説を読む

  1、灰色の少年

ba62a335.jpeg「高校生活といえば薔薇色。薔薇色といえば高校生活。そう言われるのが当たり前なくらい、高校生活はいつも薔薇色の扱いだよな。さりとて、全ての高校生が薔薇色を望んでいるわけではないと、俺は思うんだが。例えば勉学にも、スポーツにも、色恋沙汰にも興味を示さない人間というのもいるんじゃないか。いわゆる灰色を好む生徒というのもいるんじゃないか。まっ、それってずいぶん寂しい生き方だと思うがな……」

折木奉太郎は別に議論をはじめようとしたわけでもなく、遠大な独り言を途方もなく呟いているのではなく、ただその時なんとなく浮かんだ思いを、福部里志相手にゆるくぶつけているだけである。
福部里志は奉太郎の話を愉快そうに受け止める。
「ホータローに自虐趣味があったとは知らなかったね。勉強にもスポーツにも色恋沙汰にも後ろ向き。常に灰色の人間。それって奉太郎のことだろ」
里志の茶化すような言葉に、奉太郎が反発する。奉太郎は「灰色の高校生活」を話題にしたものの、自身について語ったつもりはなかった。折木奉太郎は自身の信条を、すでに決めていたからだ。即ち――、

「やらなくてもいいことはやらない。やらなければならないことは手短に」

省エネ。
折木奉太郎の体内に情熱や情念といった感性が欠けていた。だからと言って折木奉太郎は何かに打ち込んでいる人や、何かに夢中になって取り組む行為そのものを軽んじるつもりはなかった。ただ、自分がその当事者になれないというだけ。客観的に指摘すれば、それはまさに灰色の生き方。灰色の影の中に人間としての骨格が飲み込まれ、かき消されている。

e6a74312.jpeg第2話『名誉ある古典部の活動』の中で、“愛なき愛読書の”謎を解いた一同が、謎解きのストレスから解放され賑やかに打ち解け合う中で、折木奉太郎はたった一人取り残された感覚に捕らわれていた。薔薇色に輝く周囲に対して、自分だけが暗澹と沈んでいる。そこにいる皆と感情を共有できない。
「折木どう? 問題解いて気分はスッキリってところかしら」
やや皮肉混じりな伊原摩耶花の問いかけに対して、折木奉太郎は「別に」と淡泊に答える。奉太郎は問題に直面している最中であっても、問題を解いた後であっても何ら感情的感慨を得ていないのだ。謎解きのストレスも、回答を見つけた瞬間の感動もない。ただ目の前に立ちふさがった“文章問題”を、「仕方ないな」とぼやきながらしぶしぶとルーチンワークのごとく解いてみせた……その程度の話に過ぎなかった。
折木奉太郎は省エネを信奉しているのではなく、結果として省エネを選ばなければならなかっただけだったのだ。

18c741f7.jpeg映像は学園ものでありながら、ひどく影が重い。校舎の中は常に深い影が落ちて、キャラクターの色彩は影の深さに飲まれかけている。窓の外の光が、影の背後でほのかに輝いている。その光は、いつも滲んだような青と緑の混色で、その表現は灰色と言うより“黄昏”だ。
『氷菓』の冒頭、文集氷菓を巡る第一部はずっとこの調子である。影が深く、時に画像の四方が感度の低いフィルムでの撮影のように像を失っている。
アニメにおける“光の表現”とは、舞台や環境を意識した光ではなく、あくまでもキャラクターに実在感を与えるための手段であった。“この光はいったいどこから来るのか”これが考慮されたケースはほとんどなく、屋内の場面であっても全体に均等に光が当てられるし、光の方向性についても凡そ無頓着である。
なぜもなく、アニメのキャラクターの正体が“人形”であるからだ。キャラクターに光が当てられる時は、舞台や環境といった要因ではなく、感情を表現する時のみである。のっぺりとした質感のキャラクターを表情豊かに見せるために、手法として光の表現があるのだ。アニメは、文楽や人形小瑠璃といった古い文化の系譜を、ほんの断片的であるがこれを受け継いで近代化したものである。
『氷菓』は光の表現において画期的とは言わないが、従来的なキャラクター表現に加えて印象深いコントラストを持った映像を作り出している。校舎の中のほの暗さや、雨に濡れるアーケード。またこの影の深さは、物語上のテーマと密接にリンクしていく。



  2、千反田える

e9d3306c.jpeg折木奉太郎は姉の供恵からの半ば脅迫的な要求によって、古典部の部室となっている地学準備室へ向かう。
まだ夜の訪れは遠い。斜めに傾いた夕日の輝きは、むしろ強さを増してまっすぐ地学準備室の窓から注がれていた。そんな輝きの中に、一人の少女が立っていた。
94554392.jpeg折木奉太郎は……灰色の折木奉太郎は、あたかも自身で輝きを放っているかのような少女を、茫然とした思いで見詰める。
「こんにちわ。あなたって古典部だったんですか。折木さん」
すると、少女が折木奉太郎に微笑みかけた。

ファム・ファタールは可憐でありながらミステリアスな妖しさを持っている。会った覚えはない。しかし少女はあたかも、ずっと前からお互いを知っていたかのような親しみで声を掛け、微笑みかけてくる。
「わかりませんか? 千反田です。千反田えるです」
正体を明かすと、千反田えるは音楽の授業で一度折木奉太郎と顔を会わせていた。千反田えるは図抜けた記憶力の持ち主だったのだ。しかしその出会いは、あたかもずっと古くからの知り合いのように運命の結びつきを予感させ、運命の糸車はただちに猛烈な勢いで折木奉太郎を絡め取っていく。

09abc2e2.jpeg「待ってください折木さん! 気になります。私、なぜ閉じ込められたんでしょう。もし閉じ込められたのでなければ、どうしてこの教室に入ることができたのでしょう。仮に何かの間違いだというなら、誰のどういう間違いでしょうか? ぜひ折木さんも考えてください。……折木さん……私、気になります!」

千反田えるは帰ろうとした折木奉太郎の手を掴み、早瀬のごとき勢いでまくし立てていく。折木奉太郎は千反田えるの強すぎる目の輝きを逸らすことができず、艶やかに伸びていく髪の毛に全身を捕まれるような気分に陥ってしまう。

「私、気になります!」

千反田えるは薔薇色をシンボルだった。その輝きは強烈で、他人のパーソナルエリアなど頓着せず飛び込んで、そこを照らして覗き込もうとする。単に、千反田えるは年齢の割に、清楚な外面の割に、子供っぽいところがあり、何かしらの計算や企みがあるわけではなく、単に子供の純真さそのままの無鉄砲さで飛び込んできただけだったが、感受性に欠陥のある少年の純情には子供の輝きをそのまま持つ千反田は強烈だった。
折木奉太郎は千反田えるを拒絶できず、千反田えるの好奇心を満足させるために手を焼くようになる。

「それはホータロー好みじゃない。千反田さんが来た時、どうして単に知らんと言わなかったんだい。そこが今日のホータローの根本的な間違いだよ。実際、ホータローはずっとそうしてきたじゃないか」

商店街のアーケードの下を通しながら、福部里志が今日の出来事を話していた。アーケードを打つ雨の音が、ゆるいさざ波のように背後に散っていく。福部里志は次から次へと、それこそ空から降る雨のように切れ目なく喋り続けている。

89bfac14.jpeg「不慣れな奴ほど奇をてらう! 今日のホータローがまさしくそれだよ。千反田さんがいるって状況に、まだぜんぜん慣れていない。だからあんな回りくどいことをするのさ。ホータローは今日、千反田さんを拒絶したつもりかも知れない。でもね……」
「拒絶したかったわけじゃない!」

折木奉太郎は思わず憤慨の声を上げる。
福部里志の言うとおりだ。折木奉太郎は千反田えるを拒絶してしまえばよかった。「そんなもの知らん」と言ってほっとけばよかった。そうすれば昨日までそうだったように省エネの信条を守り続けることができた。しかし折木奉太郎はそうはしなかった。むしろ積極的に、千反田えるを受け入れる準備をした。
なぜだったのか。
福部里志は、もったいつけた言い回しの連続で、折木奉太郎の心情を周囲から絡め取っていこうとする。だがずばりな真相だけは口にしないでいる。それをあえて露骨で無粋に翻訳するとこうなるだろう。

「惚れたんだろ?」

しかし福部は決定的な一言は言わず、まだ自身の心情を把握しきれず動揺を抱える腐れ縁の友人を宥めるように付け加えた。

「もちろんそうさ。現状に対するただの保留だね」
「保留? そうか、保留か」

「保留」という言葉を聞かされて、折木奉太郎はほっと落ち着く。
どうして千反田えるを拒絶しなかったのか、自分でもわからない。拒絶しようと思えばいつでもできたけど、それだけがどうしてもできない。まだ感情の色を持たない折木は、千反田えるという他者を自身の体内でどう定めていいかわからず、ただ動揺のさざ波のようなものを感じていた。
その動揺の正体……移ろいかけている感情の正体がわからず、しかし正体を見極めるのを「保留」してもいい。そう言葉を掛けられて、折木奉太郎は安心して現状の維持に努めるのである。



 3、死体のないミステリー

8dc4c900.jpeg第3話『事情ある古典部の末裔』の冒頭。折木奉太郎は休日に千反田えるから電話で呼び出される。待ち合わせの場所は喫茶店パイナップルサンド。遅れてやってきた千反田える……顔には汗を浮かべ、はあはあと肩を揺らしている。急いでやってきたが、それでも遅刻してしまった、といったところだろう。
千反田えるが折木奉太郎を呼び出した理由。それは――、

「私には関谷純という叔父がいたのですが、私が、その叔父から何を聞いたのか、思い出させて欲しいんです」

詳しい事情を話すと、叔父は7年前、インドへ行きそのまま行方不明になっている。失踪の期間が7年を過ぎると、法的に死亡の扱いになる。その“法的に死亡扱い”になる前に、千反田えるは幼い頃、叔父に何を聞いたのか思い出したいという。それが千反田えるにとって叔父の死を受け入れるということであり、この世を去る叔父への手向けだと考えていた。

e619237d.jpeg千反田えるの叔父、関谷純は死亡したわけではない。あくまでも失踪である。そこに死体が現れたわけではない。『愚者のエンドロール』篇では、劇中劇で殺された海藤武雄が生きた姿で登場させるなど、死んでいないことがわざわざアピールされている。
これはミステリーとしてそれなりに特殊な事例だ。というのも標準的なミステリーといえば、死体が出現し、それから物語が始まる。ところが『氷菓』には死体が出てこない。死体を読み解く、というテーゼを欠いたまま、『氷菓』はミステリーとしての物語を始める。
Wikipedia:日常の謎
『氷菓』はミステリー、推理ものだ。ミステリーとしての形式や文脈を規律正しく踏襲して物語が進行する。登場人物の台詞はもったいつけたようにロジカルで、映像の組み立ても構図の一つ一つも謎解きを解くためのピースとして有機的な機能が与えられている。死体が登場してこないが、『氷菓』はミステリーとしての基本的な作法と約束事をきちんと守ってお話が組み立てられているのだ。
ミステリーの作法というのは、「作品中と名探偵と読者が事件を解くためのヒントを平等に与えられている」ということである。このミステリーの絶対的なルールを守った上で、『氷菓』は個々の小さな事件を取り上げていく。第1話では千反田えるが地学準備室に閉じ込められた理由を、第2話では“愛なき愛読書”の正体を、第3話では遠垣内将司が喫煙を隠そうとした事実を暴露する。小さな事件を一つ一つ解きながら、物語の螺旋はゆっくりと、関谷純の過去の解明という大きなお題目へと接近し、答えに辿り着く。関谷純の過去を解明するヒントは、それまでのエピソードの中で順当に提示された。ミステリーの基本的ルールに従って、探偵と読者の間に平等なヒントが与えられ、このヒントを手探りに結末を推理することが可能なように作られていた。

『氷菓』はミステリーとしての形式を持ちながら、接地点はあくまでも日常の世界である。なぜなら「死体」が登場してこないからだ。
「死体」という物体/現象は、現代に限らずずっと古い時代から非日常の産物である。いや、生と死が病院に押し込まれ日常空間から排除されるようになってから、「死」や「死体」はより非日常の要素を深めていった。古くから死は恐れられ、忌み嫌われ、文明の歴史をある見方で解くと、いかに死体を排除し、死を遠ざけるかの過程であるとも言える。現代はその極地ともいえ、「死」という言葉を発しても、かえって状況の重さがどこか夢物語のような軽々しさしか感じなくなってしまった。
しかし、創作の世界では「死」は相変わらず最重要命題/使命である。理由をもっとも短い言葉で説明してしまうと、「創作の世界は生と死が極端な状態で凝縮した世界だから」ということになる。物語の世界がなぜあのように豊かな感情で溢れているかといえば、「生」と「死」が極端な形で織り交ぜられ、圧縮させられているからだ。人間の一生における感情の奔流を圧縮し、現実においては分散されるパッショニズムが体系立てて濃縮され、小説ならば1冊の中に、映画ならわずか2時間の中に提示するから人を感動させることができるのだ。登場人物が大袈裟なほどの感情描写を作り、現実的でない詩的な台詞を口にするのも、物語が本質的に意図する感情を代弁するためである。
創作の世界は非日常であり、そのキーはいつも「死」である。死という問題が非日常的な課題を与え、登場人物と読者を同時に動揺をさせドラマの切っ掛けを作る。
しかし『氷菓』は非日常の物語でありながら、あるいはミステリであるのに関わらず死が描かれていない。創作である限りそこに描かれるのは非日常だが、『氷菓』には死体が登場せず、描かれているのは非日常でありながら「日常」の世界である。

14ef2933.jpeg死体という非日常を描かない代わりに、『氷菓』は日常の世界という空間を、どこまでも濃密に描いてみせた。
主たる舞台である地学準備室は、やっかいなオブジェクトが大量に敷き詰められた場所だ。入り口右手には大きな地学資料棚が置かれ、その中ぎっしり詰められた道具類はきちんと配置が指定されている。さらに棚には梯子が掛けられている。左手には手前からスチールラックが置かれ、スチールラックには鉱石を入れた瓶類や箱。このスチールラックの隣には実験用テーブルが配され、テーブルの上にはケトルやセロテープやその他の筆記用具。手前にはハンガーラックが置かれている。実験用テーブルの裏手に回ると奥の棚が置かれている場所との間に空間があり、机が敷き詰められている。
4ce89134.jpegここを舞台とする場合はほとんどが対話だが、ただ対話だけではなく、アニメーターはそれぞれのさりげない動きや仕草の一つ一つを追いかけていく。お茶をすすったり、本を手にd30c7f64.jpegとってページをめくったり、そうしたごくごく日常的な所作や仕草を妥協せず描写していく。
大きな舞台である神山高校も、ある意味でどこにでもあるありふれた学校だが魅力的に描かれている。学校という客観的なコンクリートの外観だけではなく、建築を取り囲む配管や室外機といった付属物をどのカットも省略せず描かれている。
c36edf7f.jpeg学校を描写するという試みが最も極まったのは間違いなく文化祭だ。学校内部、外観を彩る張り紙、折り紙の鎖、造花、垂れ幕……等々。奥行きのどこまでも徹底的に描かれたディティールの洪水。
加茂花菖蒲園がモデルとなった豪華な千反田邸も忘れてはならない。日本建築特有の堅実な質素さと空間の広がりがうまく描けている。空間のシルエットを強調する光の感b9ec7d76.jpeg性も情緒が感じられていい。話者が切り替わる度に場所を変える試みも、映像作品として緩急をつける役割を果たすだけではなく、物語の切り替えを知らせる効果も同時に達成している。大広間、縁側、大きな舞台から一転して小さな食卓と、ロケーションの持つ魅力を見せる役割も果たしている。
54fc4eed.jpeg構図はキャラクターに接近しすぎず、単に対話だけであってもカメラは被写体に対してある程度距離を置き、キャラクターと同時に周囲の空間を捉えようとする。対話の場面であっても構図が窮屈にならず、ある程度のゆとりを持ち、周囲の空間と一体となったそこに立つ人間としての存在感が描かれている。キャラクターの首や肩の奥行きや厚みがきちんと描写できていることにも注目したい。そのキャラクターがどんな場所に立っているのか、空間的なパースペクティブが常に意識され、奥行きを持った映像が作られていた。
6b7c10a1.gifそうした空間に立つのは主要キャラクターだけではない。『氷菓』はほんの数カット、あるいは1カットしか登場しないモブの一人一人にまで命を吹き込んだ。止め絵で処理される場合があるものの、多くの場面では役割が与えられ、主要キャラクターと同じように、同じ構図の中をあたかも背景設定があるかのように演技している。モブが空間を独占して構図の主役を勝ち取ったのは、やはり文化祭のエピソードだっただろう。学校を埋め尽くす張り紙や折り紙の鎖と同じようにモブが画面を覆うディティールの一つになり、主人公たちをあたかもそこに寄り集まった群衆の一つに過ぎないと宣告するかのように埋没させてしまった。そこに発生した日常に埋没させるという演出家の狙い通りの画面に仕上がっている。
aa8685fd.jpeg空間に合わせた描写の組み合わせにも目を向けたい。文化祭の圧倒するようなモブまみれの構図はすでに述べたとおりだ。放課後の教室に何気なく残っている生徒、あるいは廊下で何気なく談笑している女性徒。バレンタインのエピソードでは、暗くなりかけた下駄箱で、密かな逢瀬をする男女も忘れがたい描写だ。
その日常空間にいるのは折木奉太郎や千反田えるだけではない。その空間にあるべき描写、あるいは日常を追求して描いている。日常の濃密さをどこまでも追いかけた『氷菓』だからこその描写であった。

『氷菓』はごく自然な風景と人間の所作を淡々と追跡した作品だ。それは翻って絵描きとしての真摯な視線を思い起こす結果となった。
商業アニメはいつしか絵画ではなく商業価値の求めたキャラクター作りに腐心し続けてきた。人間の描写はジャンル区別されたカスタマイズパーツを弄り回すだけで、アクションは自然主義的な描写ではなく様式化されたルーチンワークの中でただ繰り返しを続けるだけになった。ある意味、スケールの大きなリピート作画である。
『氷菓』が描いた愚直なまでの自然主義的な視線は、商業アニメでありながら商業アニメへのささやかなアンチテーゼとも読める。いや、結果としてアンチテーゼと読めるような精密さを獲得した作品であった。



 4、2つのイメージ

折木奉太郎は千反田えると伊原摩耶花を両手に華と伴って校舎の廊下を歩く。
「それで折木さん、どこへ行くんですか?」
「美術室だ」
折木はこれといった感情もなく答える。美術室は渡り廊下をまたいだ向こう側の校舎だ。かなり遠い。だから行きたくなかったのだ。
「そこに何が?」
千反田は好奇心の奔流を抑えず尋ねる。
「その前にまず整理だ」

e78955e1.jpeg解説を始める折木の背景に、イメージが現れる。昼休み前後の時間を表にしたタイムテーブルだ。それから台詞に合わせてタイムテーブルに書かれた文字が動き、第5限第6限第7限の文字が合わさって「授業」の文字が変わる。「授業」の文字は各クラスを示す数字を引っ張り寄せ、さらに「体育・音楽・美術・書道」の文字が追加される。
解説に合わせて文字が刻々と変化する。第2話『名誉ある古典部の活動』においては、文字のイメージで映像が作られていた。その手前の場面、女子セーラー服を着て“某”を頭につけたイメージにしても同様だ。
まだ確定したイメージが存在しない段階においては、某などは言葉の中のイメージでしかない。だから文字通り言葉が画面に現れる。頭に“某”を6b26b5eb.jpegつけたセーラー服の少女だ。解説が進んでいく内に言葉は次第に変化を見せ、複数の要素を組み合わせ、密度を高めていき、言葉だけのイメージは間もなく具体性を持っていく。動く言葉が解説と連動し、映像としての面白さだけでなく、見る側の理解をうまく高めるのが狙いだ。
そして解説が終わりに近づいた頃、階段を上って廊下を進んだ先に“答え”が現れる。折木奉太郎が解説する言葉が示す結論としての、イメージの延長である“実体”である。
a0274869.jpeg第3話『事情ある古典部の昔日』では喫煙を隠そうとした遠垣内将司がイメージに登場する。こちらではかなり具体的に遠垣内と壁新聞部の空間が登場する。なぜもなく、その場所はついさっき尋ねた場所で、言葉で仮定する必要のない場所だったからだ。そこが現実ではなく解説されている場所であることがわかるように、背景に派手なドットーンの散らした映像に変わり、異質な感じを出している。
同じく第3話冒頭の場面では、叔父について幼い頃を語る千反田の話が立体絵本として描かれる。絵本は子供の生活に密着したアイテムであり、また“語り”という場面の状況と絵本というモチーフがマッチしている。

折木奉太郎が推理する場面では様々なイメージが登場し、これが作品の個性になっているが、どうやら2つの特徴がありそうだ。
あくまでも現段階での“仮定”をイメージした画像と、具体的なモチーフを使った画像の2つだ。いずれの場合も、イメージは“事実”を明らかにするまでの一つの段階でしかない。

041edf47.jpegただ1度だけ、2つのイメージの両方が使われた事例が存在する。
第4話『栄光ある古典部の昔日』と第5話『歴史ある古典部の真実』だ。
第4話は折木奉太郎たちが千反田邸に集まり、それぞれで考えを発表する場面だ。この場面での問題は“45年前、関谷純に何が起きたのか”。折木奉太郎たちは集めた情報を手がかりに、45年前の想像し、真実を突き止めようとする。文化祭、学園運動、生徒対教師の対立……。折木たちの考えた45年前が、イメージの世界で綴られていく。そこは手がかりはあるものの、あくまでも想像の世界。通俗的な象徴であったり、奥行きのない平面的な画像だったり、イメージの中に登場してくる人達も現実的な頭身よりずっと低く、デフォルメされた姿で描かれている。高校生が考えた45年前のイメージでしかないからだ。

18409bf5.jpeg一方、第5話『歴史ある古典部の真実』で糸魚川養子が語る45年前のイメージはもっと具体的だ。現在の風景と同じくらい精密に描かれ、人物はデフォルメが排除され、空間的構造を持った建築に群がる学生達の描写は、実際のドキュメンタリーフィルムを見るような生々しさを感じさせる。また糸魚川養子が語った45年前の映像の中には代替のイメージが使われていない。
折木奉太郎が集めた資料だけで推測して見せた45年前は間違えてはいない。間違えてはないが、遠い昔を現代の子供が想像しただけのイメージでしかない。論理的な計算に基づくイメージは、現実の強烈さには決して及ばない。想像で描いたタイタニックの沈没と、実際に沈没を体験した人の話とでは、どちらも正しくともそこにある現実感という要素で決定的な差異が生まれる。生々しさが現れてくるのは、当然体験した人の話の方だ。
第4話と第5話の映像を並べると、そうした差異を表現していると言える。

10cea4f7.jpeg最後に糸魚川養子は、文集の表題である「氷菓」の意味について尋ねられた時、こう答える。
「いいえ。その名前は、退学を予感した関谷さんが珍しく無理を通して決めた名前なのよ。自分にはこれくらいしかできないって言ってね。でもごめんなさいね。意味はよくわからないの」
そう語る時の糸魚川養子は、千反田えるの視線を避けるように顔を伏せる。
c693e782.jpegこの時の画面は、まずローアングルから、そこにいる一同を排除して糸魚川養子のみを捉える。続いて、カットは糸魚川の頭をなめこんで、糸魚川が見ているものが描かれる。この2つのカットで、カメラは糸魚川の心理に入り込んでいる。そしてこの時のカメラは、水平よりはっきり傾いて、不安定な状態に示している。ダッチアングルだ。「氷菓の意味について知らない」そう語る糸魚川の心理ははっきりと動揺している、とカメラが語っているのだ。
これが語る真実は何なのか? 関谷純の姪を前にして真実を語るのを躊躇ったのか。糸魚川養子が「氷菓」の意味について知らないはずがないのだ。いや、そこに関谷純の秘めたる“本心”が有り体に示されているから躊躇ったのか。
もっとも確たる台詞として示されていないから、これは飽くまでも推理推測に過ぎないのだが。



 5、2人のヒロイン

『氷菓』の物語に彩りを与えるのは、もちろん2人のヒロイン、千反田える伊原摩耶花だ。近年の過剰気味に投入される傾向のあるアニメーションの中で、ヒロインの数はかなり少なく、まだ登場人物全体の数と関係図を照らし合わせてみても合理的な数字である。

682a08b6.jpeg千反田える。成績優秀。眉目秀麗。品性高潔。名家千反田家の跡取り娘であり、名家の看板を背負うに相応しい美貌と知性と品性を併せ持ったキャラクターだ。
千反田えるのキャラクターを特徴付ける要素は3つ。まずは大きすぎる瞳と、長い黒髪の2つ。『氷菓』のキャラクターは比較的、目は小さく描かれる。その中で千反田えるの瞳は異様と言っていいほど大きい。多くのキャラクターは、目の上端を水平ぎみに描かれるのに対して、瞳の形に合わせて思い切って丸く描かれている。瞳の内部も細かく描かれ、黒目に対して白のハイライトが2つ、さらに黒目の下にもう一つ色トレスによる塗り分け指定が作られている。この塗り分けが瞳をもう一段階奥行きのある効果を与えている。
千反田えるの瞳がもっとも輝き出すのは、好奇心に沸き立つ瞬間である。瞳の紫の部分に炭酸水のような気泡が付け加えられ、単純なべた塗りだった紫にグラデーションが生まれる。千反田えるが好奇心に駆り立てられ、まさしく目の色を変えた瞬間を、映像の中で表現している。
da5ff026.gif少し鼻の描き方について取り上げよう。鼻筋について、他のキャラは鼻の形こそは省略されて描かれているが、眉間から鼻までの流れをわりとしっかり描いている。しかし千反田えるだけはこの鼻筋の線を殆どの場合で描かれていない。千反田えるだけ描き方の様式が若干異なるのだ。
髪の毛は清純さのシンボルのような長7ec8d0aa.gifい黒髪である。千反田えるの髪の毛はかなりの誇張が加えられている。通常の状態でも水分を含んだかのようにボリュームが加えられ、その姿はあたかもカブキの連獅子ようだ。この連獅子のような髪の毛が、アクションの際には効果的な印象を生んでいる。ほんの少しの動きでもふわりふわりと釣られて動く髪の動き。当然それはリアルなアニメーションではなく誇張だ。振り向く瞬間、頭を下げる瞬間、アニメーターは動画枚数を一手間多く消費し、滑らかな髪が分解され柔らかく少女の体に絡みつく瞬間を描いている。
ad140554.jpegもう1つ、外観的なデザインと別のもう1つの要素は、仕草だ。この仕草という部分に、千反田えるというキャラクター設計の精神性が隠されているといえるだろう。何気なく頬に手を添える時の指、口を隠す時の指の動き、何かを指摘する時の指……指の動き、指の添え方に品の高さが見て取れる。千反田えるのアクションはやや大きく、大袈裟なところがあるが、指の動きがアクションの大きさを相殺させ、千反田えるを気品高い少女に留めている。
千反田えると言えば好奇心旺盛、猪突猛進の行動力である。一度好奇心を抱いたら絶対に離さない、あの異様な執着ぶり。他人のパーソナルエリアにも堂々と踏み込んで自己主張してくる無謀な行動力。しかしそこに計算はなく、品格高いお嬢様でありながら子供の感性の両方を不釣り合いに合成させ、それが個性的なキャラクターを作り上げている。
5eadc01f.jpeg千反田えるの(ある意味での)活躍を描いたエピソードと言えば第9話『古丘廃村殺人事件』。ウイスキーボンボンを食べ尽くして酩酊、いつも以上に陽気に振る舞った挙げ句、倒れ、二日酔い。
47a767ed.jpeg第12話『限りなく積まれた例のあれ』文化祭の初日、総務委員長に掛け合うために会議室に向かう千反田えるだったが、その過程で様々な出店、出し物に釣られて寄り道。やっと総務委員長の田名辺の元に辿り着くも、交渉の能力を一切持たない千反田えるはここでも直線的に突撃して勝手に撃沈。その後、地学準備室へ向かうのだが、辿り着く頃には両手一杯の記念品土産物を抱えて、という有様であった。
eca0dcad.jpeg続く第14話『ワイルド・ファイア』では入須が差し出した手にお手。入須に「ものの頼み方」をアドバイスされ壁新聞部の遠垣内相手に実践してみるが、あまりにもそのまんまな言い回しでここでも自滅。遠垣内を困惑させるだけだった。
文化祭を挟んで千反田えるの直線的な性格は完全に固定化し、また話が進む毎に順当に「変な子」へと成長していった。第1話の頃は聡明で静かな少女に思えたのだが。

もう一人のヒロインに望みを託そう。
伊原摩耶花。古典部と漫画研究部を掛け持ちする文化系でありながらかなりアクティブな少女だ。性格は少々厳しいところがあり、相手が上級生であれ思ったことはずばりと言う、曲がった51cc14e2.jpegことは嫌い、問題があれば真っ先に飛び込んでがつんと声を上げる。その時誰に対しても物怖じしない。楚々たるお嬢様である千反田えると対極にいるタイプだ。
伊原摩耶花のデザインを見てみよう。千反田えるが清純のシンボルである長い黒髪に対し、伊原摩耶花はかなり思い切ったショートだ。前髪を短くして額を大きく見せるヒロインはなかなかいない。偶然なのか、片思いをしている福部里志と相似性を感じさせる。この短い髪が揺れる様はなかなか可愛らしい。
dab03f94.jpeg体格はかなり小さく、原作の記述によれば第7話『正体見たり』に登場した善名梨絵、嘉代の中学生姉妹(アニメ版では小学生)に混じっても違和感がないくらいだという。もちろん、梨絵の妹というポジションでだ。
伊原の身長の低さはどの場面でも忘れられず特徴付けられ、まず椅子に座った時に踵が付かない。足を伸ばしてつま先を付けたり、足を伸ばしてぶらぶらさせたりしていることもある。足が地面に届いていないのだ。千反田えるとの座り姿勢を比較すると、差異が見えてくる。千反田えるは椅子に座るとき、背もたれに背中を預けない。いついかなる時でも油断なく背筋は真っ直ぐ伸びている。一方伊原はもう少し力を抜いて座り、一見するとごく普通の高校生の振る舞いだが、とにかく足が付いていない。
第3話『事情ある古典部の末裔』で遠垣内の前からあっさりと撤退を決める折木奉太郎の手を掴み、首に腕を回すが、そのとき伊原はずいぶん無理をして体を伸ばしている。下に着ているシャツが見えてしまっているくらいだ。別の場面でも、折木と対話する時は斜め45度というくらいに顔を上げている。折木奉太郎は決して身長が高い方ではないが(いつも一緒にいる福部里志が小柄)、その折木よりも頭一つ低い。11、5話『持つべきものは』で千反田に軽く持ち上げられてしまう場面もあった。
直線的で感情が率直に読み取れる伊原摩耶花はそれだけでも魅力的だが、それがより輝くのは時々見せる優しさだろう。
26779725.jpeg第10話『万人の死角』で折木を残して教室を去って行こうとする時、「でも……ごめんね、折木」と振り返る時の表情、それから声の演技。続く第12話『愚者のエンドロール』ではつい強く言いすぎたことに気付いた摩耶花が、「でも、私の方が間違ってるかもね。とにかくさ、私は面白かったわよ、あんたのあれ」と折木をフォローする時の切り替え。少し違うが第20話『あきましておめでとう』での福部里志に巫女服姿を見られて恥ずかしがる時の表情もいい。どれも忘れがたい演技だ。

最近のアニメにおいては少ないとも言えるたった2人のヒロイン。しかしその存在感は大きい。まず第1に、個性の差異だ。名家の令嬢であり楚々たる乙女である千反田える。一方小さな体でありならがいつも元気一杯の伊原摩耶花。2つのキャラクターはわかりやすく別の方向を向いている。
またヒロインのアクションにもはっきりした個性が表れている。千反田えると伊原摩耶花、この個性の差異が最初にどこに現れているかと言えば、動きの中だ。いっそ表面的な装飾の全部を剥ぎ取り、キャラクターをデッサン人形にすり替えても本質的な個性は失わないだろう。表面的なキャラクターデザインに頼らず、またテンプレート化された様式に陥らず。アニメの界隈では例えば「お嬢様キャラクターと言えば」という形式化されたテンプレートが存在するが、そういったカスタマイズパーツに頼らず、もっと本質的なところからキャラクターを創造し、造型するところに『氷菓』のキャラクターの強さがあり、さらに他にない独自的な個性がある。



 6、正体見たり

40466f0d.jpeg「ねえねえ昨日のテレビは見た?」
バスに乗り込むと、福部里志が急に切り出してきた。
「何をだ」
折木奉太郎は興味がなく頬杖を突いた。窓の外は青く色づいた草が茂っている。その一つに、テントウ虫が一匹とまっていた。
やがてバスが出発した。テントウ虫と草がずれる。テントウ虫は草ではなく、バスの窓に貼り付いていたのだ。
「幽霊はどれも枯れ尾花さ」
まだ話を続ける里志に、奉太郎はごく当たり前の結論を口にした。ちらと見ると、里志の髪の先にテントウ虫が付いていた。

テントウ虫は言うまでもなく、枯れ尾花の象徴だ。一見すると草にとまっているように見えるテントウ虫。それが実は手前のガラスに貼り付いていた。これから起きる事件をささやかに暗示した場面である。

c39a322a.jpegその日は伊原摩耶花の招待で、親戚が営む民宿へと向かっていた。建物の改装中のために客が取れないため、無料で部屋を貸してくれるという。
折木奉太郎は乗り気ではないが、千反田えるに誘われては断りようがない。ついていくことになったのだが、民宿に泊まった翌朝、千反田えると伊原摩耶花の2人が幽霊を見たという。幽霊が現れたのは別館の向かいに見える本館2階。千反田えると伊原摩耶花が寝ていた部屋が目の前に見える位置だ。真夜中、暗く沈む影の中に、首つりの影がぶらりぶらりと揺れていた、という。その部屋は、自殺者が相次いで使用禁止になった、曰く付きの部屋だった。

首つりの影の正体は、善名姉妹の妹、嘉代がつり下げた着物だった。伊原摩耶花が見た首つりの影は幻に過ぎなかった。正体見たり枯れ尾花。枯れ尾花は着物だった。

0be06dac.jpeg物語の中心で探求されたのは首つりの影の正体だったが、傍流に語られてもう一つのテーマを忘れてはならない。それは善名姉妹の間にあるものだ。
温泉へ向かう途上で、千反田はえるは折木奉太郎に、姉の供恵について聞きたがる。
「実はですね、兄弟が欲しかったんです。姉か弟。気の置けない相手がいつも側にいるなんて素敵だと思いませんか」
すでに枯れ尾花の正体を見きっている折木は「思いません」と心の中で密かに反論する。

8b55a34b.jpeg千反田えるは姉弟か姉妹に憧れていた。そんな千反田には、善名姉妹は理想の存在に見えた。仲のいい姉妹。お互いを理解して、何でも分け合え、お互いを分けることができない関係。
しかし実体は違っていた。自分のものは自分のもの、という独占欲の強い姉の梨絵。嘉代とぶつかって味噌汁をこぼした時、梨絵は「なにやってるのよ!」と嘉代を叱りつけるが、折木の目にはどちらが悪いというようには見えなかった。しかし主張の強い梨絵は嘉代の感情の上にのしかかってしまう。気の弱い嘉代は言い返せない。
着物の一件もそうだった。自分のものは自分のもの、そういう考えの梨絵から着物を貸して欲しいなんて言えるわけがない。だからこっそり借りて、今回の事件が起きた。
折木が暴いた枯れ尾花の正体は着物の影ではない。実は善名姉妹の正体だった。仲がいいように見える姉妹の、本当の間柄。それが枯れ尾花だった。美しく見えるものこそ、枯れ尾花だ。
兄弟や姉妹、そういったものの間にある葛藤を知り、千反田えるはショックを受ける。仲のいい兄弟や姉妹は、枯れ尾花に過ぎない――。
そう思ったそこに現れたのは、善名姉妹の2人。サンダルを切ってしまった嘉代をおぶってやろうとする梨絵の姿。これは原作に描かれなかった場面である。アニメ版は、枯れ尾花に過ぎない姉妹の関係に、少しの救いを与えて終わる。

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