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■2013/02/27 (Wed)
その他■
1 テレビはそろそろ捨ててもいいだろう
ニコニコ動画でテレビアニメシリーズが配信されるようになって、そろそろ3年が過ぎようとしている。ニコニコ動画でアニメを見ることは一般的になったし、製作サイドもニコニコ動画をビジネスの場としてそれなりの重要度を与えるようになってきた。「アニメーションはテレビで」この考え方は急速に過去のものになりつつある。
3年前、『ストライクウィッチーズ2』及び『学園黙示録HIGHSCHOOL OF THE DEAD』が配信された時にも一度ブログに取り上げた(ストライクウィッチーズ 第1話)が、その当時から思っていて書ききれなかったことや、また状況の激しい変化の時期であり、今の時点での考えを残しておきたいと考えている。
まず最初の主張は、シリーズ・アニメはテレビを捨ててもよいのではないか、という話だ。
3年前のブログ記事で書いた内容の繰り返しになるが、アニメーションをテレビというスケールで制作し続けるには限界がある。
まず12話から13話という“クール”の概念。テレビでシリーズ作品を放送してしまうと、その時点で放送回数が確定され、これが制作上あるいは視聴の上での問題の第1歩となっている。
例えば連載中の原作作品を映像化する場合。週刊雑誌での連載だとだいぶストーリーの進行が早いが、それでも週刊連載18ページと24分放送とでは大きな開きがある。アニメの展開をゆっくりペースで制作してもいずれ原作ストックを消費して、アニメはその時点で終わりにするか、原作にない結末を蛇足のように付け足すか、あるいは原作とはまったく違うストーリーを展開するか、いずれかの選択を選ばなければならない。そもそも原作のペースに合わせてストーリー進行を遅らせた緩慢な展開が喜ばれるとは思えない(いつまで経っても悟空がやってこない、いつまで経っても星矢が矢を放たない、30分付き合って今週も話進まなかったね、という徒労を何度も経験してきた世代として、これは由々しき問題である)。『銀魂』のように、原作ストックの問題そのものをテーマにしてしまう作品もあるが、あれは例外中の例外で、殆どの場合でユーザーが望まない付け足しと改編でがっかりさせられる。
連載中漫画をアニメ化する場合、1週間に1回放送には無理がある。もしも原作に忠実に映像化するならば、映像化の作家が原作以上の創意を込める気がないのならば、アニメに放送は2週に1回か、週に1回の場合でも15分ほどが最適ではないかと思われる。
それに、12話~13話という構成が、ストーリーの展開に制限を与えてしまう。その物語が出発点からどこまで進行し、変化を与えられるか。それは物理的時間に比例する。映画の場合、およそ30分区切りの起承転結で構成した場合、そこに描かれるのは大きな課題を一つ、大抵の場合、主人公の葛藤を乗り越える物語で完結してしまう。シリーズ作品の魅力は主人公の成長、冒険の旅の過程であり、映画とは違うスケールを持った進行距離を描くことができる。映画よりもっと深い所まで人物を掘り下げ、主人公の成長と変化をより大きなものにできる。物語を描くならば映画よりシリーズの方がいい。物語により大きなダイナミズムを与えるのがシリーズの特権であるし、見る側は主人公達の成長を友人のごとく付きある楽しみが生まれる。
しかしあらかじめ12話という制限が与えられてしまうと、見る側としては途中から結末が見えてしまう。6話前後で物語に変化が起きて、10話に入る頃には結末に向けて伏線の回収が始まる。12話という前提で構成してしまうと、どのアニメも同じセオリーを踏襲するから、だいたい同じような展開と結末になってしまう。主人公が物語の中で進める移動距離に限界が与えられてしまうのだ。
12話構成が絶対的になってしまうと、これが枷となって物語の背景を充分に語る準備が作れず、その逆にそもそも12話も必要ない物語も存在する。
前者においては『DARKER THAN BLACK -流星の双子-』がその例だ。『DARKER THAN BLACK -流星の双子-』は明らかに12話では収まらないスケールを持った物語だった。この物語をきちんと展開させ、結末へと持って行こうと思ったら、12話では足りない。では何話が適切だったのか、と問われると制作者にインタビューしないとわからないが、とにかく12話は明らかに不充分だった。それまでの物語はそれなりに順当に物事のあらましを描き、それぞれの人物の感情を描いてきたのだが、12話に入って突然、切り貼りのダイジェストになってしまった。あまりにも説明がなさ過ぎて、奇妙な印象になってしまったクライマックス、登場人物が突然まったく別の場所に移動しているなど、書きこぼしたシーンが多い。おそらくダイジェストになってしまったクライマックスを4~5話くらいの尺度で展開していけば、その過程で十分に説明ができるし、人物の行く末も描けて、誰もが納得できる結末になっていただろう。しかし12話構成という前提である限り、それは望めない。
後者の事例は、最近では『さんかれあ』だろう。『さんかれあ』は12話(未放送を含めると14話)で映像化するべきではなかった。『さんかれあ』は第6話「あなたに…出会えたから」までは登場人物の背景と心理をスローペースながら丹念に描いてきたのに、それ以降、突然物語は散華例弥や降谷千紘から遠ざかっていく。話の本筋はおあずけ状態になり、サブキャラクターのエピソードで話数を消費していき、ようやく本筋に戻っても展開は緩慢で、ほんの少々の波を乗り越えたところで完結してしまった。おそらく『さんかれあ』に必要だった話数は8話くらい。12話は必要ではなかった。余計なところはざっくり刈り込んで、物語の中心を大きくクローズアップし、ドラマとしてのクライマックスを目指すべきだった。だが『さんかれあ』のアニメ版は、キャラクターの感情を物語の結末へと導く動線が描けていなかった。それにもしも12話という構成で充実した内容を描きたいのであれば、まず原作者を会議室に入れて、原作に描かれていない背景や、その後の展開も聞き出しておくべきだった。
次に、地域の放送格差の問題だ。『花咲くいろは』『ちはやふる』『LUPIN the Third -峰不二子という女-』といった、いずれも話題になった作品だが、私の住んでいる地域では放送されていない。『花咲くいろは』はニコニコ動画で見るチャンスを得たが、もしここで出会わないと、永久にそのままだっただろう。『ちはやふる』も『LUPIN the Third -峰不二子という女-』も気になっている作品だが、未だに見る機会がない。
放送されていない、という問題の他に、放送時期のずれが問題になっている。かつてなら特に気にしない格差だったが、ネットの時代になるとここに少々の問題が孕む。話題に入れない、乗り遅れる、といった問題だ。最近では制作者側が公式としてツイッターで情報を発信しているが、地方出身者はここで自分たちがまだ得るべきではないタイミングの情報を与えられてしまう。本家にネタバレされてしまう危険があるのだ。
またセールス面についても、関東地方に偏りがでやすくなってしまう。関東地方の住人は製作者側が望むタイミングで広告が打てるが、地方の住人に対してはどうしてもここにズレが生じてしまう。関東地方の住人のみを“いいお客さん”と見なしている、というわけではないはずだが、地方に住んでいると何もかもに参加できず、この広告のタイミングのズレが収益にも少なからずの影響を与えてしまう。
アニメが深夜枠で放送されるようになったのは、単純に安く枠を買えるようになった、という背景によるものだが、やはりそれなりにお金がかかってしまう。内容によっては放送局側が拒否する場合もある。確かにテレビ放送は、レンタルショップにDVDを置くよりはるかに注目を集め、宣伝にもなるが、ネットでの視聴が主流になりかけている今、深夜放送にどれだけの意義があるのかあやしいところだ。
それから、テレビだとユーザー側に視聴のチャンスが1度しかない。この1度を逃してしまうと、ユーザーはもう見るチャンスを失ってしまう。もしもストーリーものだと、1回見逃した状態で視聴を続けなければならず、シリーズ作品を見続けようというモチベーションの維持にも関わってくる。もしも録画に失敗したら? 野球延長で放送時間の変更を察知できなかったら? 考えてみれば、テレビはユーザー側にかなり理不尽な制限を与えてきたといえる。
2 アニメの形式はどう変わるのか
テレビ放送には以上のような様々な問題がつきまとってきたわけだが、ネット配信に切り替えるとこの全てが一度に解決させられる。
まず放送回数と放送時間の問題。その作品に、あるいは物語に見合った放送回数と放送時間を独力で決めることができる。これがもっと早く可能なら『DARKER THAN BLACK -流星の双子-』は12話完結ではなく、もっと違う形で結末を描けたはずだった。『さんかれあ』は無駄を省いて、8話前後で完結できるようにしておけば、作品の評価はずっと変わっただろう。
すでにテレビ放送からネット配信へと転換を決めている作品もある。『化物語』はテレビ放送後もYouTubeでその続きが制作され配信されたし、未完に終わった『咲-Saki-阿智賀篇』は原作が溜まってきたタイミングでその都度映像化している。しかも放送時間は29分と、テレビ放送できない尺で制作している。話の引き延ばしも余計なオリジナル要素もなく、ユーザーにとって理想的な形で『咲-Saki-阿智賀篇』のアニメ版は制作され続けている。
もしもこれからニコニコ動画のみで作品を発表していくのなら、その都度その作品に必要な物語の長さを考え制作ができる自由度が生まれる。“放送回数”や“放送時間”といった囚われは失われ、物語の本質や描きたいテーマと結末、それを見定めて純粋な意味での“物語至上主義”を作品に込めることができる。逆に言えば放送回数やそれぞれの放送時間を自身で決めなければならないというわけだが――その程度の決定もできない作家に用はない。この革命を最初に起こしてくれるのが誰になるのか……今後に注目である。
(多分、広告を打つ側としては、ある程度の固まりになっていないと難しいのだと思う。発表の時期があまりにもバラバラだと広告のタイミングがわからないし、作品の公開が散発的だとユーザーの記憶にも残りづらくなる。だからまず最初に10話前後の固まりで制作する。この段階でうまくユーザーに浸透し、支持が生まれ、利益に繋がるとわかれば、それから続きを原作のペースに合わせて発表していけばいい。第2期という括りを待つ必要はない。第2期を待つより早くユーザーは作品の映像化を見ることができる)
地域格差の問題も解消される。配信された瞬間、日本中のユーザーが同時に視聴できるし、生放送などのイベントは同時に参加できる。ニコニコ動画だけではなく、YouTubeも連動させて配信すれば、世界規模で同時に作品発表もできる。
ちょっと余談になるが、世界に向けた配信は、今後考えていかねばならないテーマである。というのも、いま日本のアニメは世界中から注目を浴びている。そのほとんどが違法サイトでの視聴だが、日本で放送された、あるいは配信されたアニメが、日本のユーザーとほぼ同じタイミングで視聴されている。しかし世界に向けたセールスはほとんど進んでいない。北米向けのDVDは日本よりも2年以上遅れて発売するのは普通だし、海外のユーザーの声を拾っていくと、翻訳が不充分であるという。はっきりいえば「公式の翻訳は糞。海賊版の翻訳の方ができがいい」という意見が多く見られる。(参考:翻訳冒険活劇/海外のオタク「アニメ業界は海外市場にもっと目を向けるべきだと思う?」)(掲載した図は海外における日本のコンテンツの収益をまとめたもの。数字を見てわかるように、海外のアニメ市場はゲーム事業に相当するポテンシャルを持っているが、その収益のほとんどを手にしていない。業界がいまだ海外事業について手を付けていないのがわかる。出自は日経エンタテインメント)
ネットの時代になり、制作の方法もビジネスの方法も変わっている。今は世界に向けて広告を打つことが簡単にできる時代になった。それに、国内だけでの商売では限界が見えるし、すでに限界に頭をぶつけそうになるのを危うくかわしながら続けているといった状態が続いている。いずれにおいても世界に向けた配信、広告、販売は必須になるのは間違いないし、すでに可能な環境は整っている。ここまで良条件が整ってやらない理由がわからない。
任天堂は『NintendoDirect』という番組を不定期にニコニコ動画で配信し、これはYouTubeと連動し世界同時公開を実現している。こうすることで情報を世界中の人と共有させ、同時発表することで情報格差を取り払い、さらに世界中で同時にムーブメントの波を起こすことに成功している。考えてみればスケールの大きな話だが、任天堂はニコニコ動画を情報発信の場として重要度を自覚し、1年前からこれを実践してきている(任天堂がWiiUアプリにまずニコニコ動画を作ったのはそういう繋がりもあるのだろう)。アニメがこれに倣って続こうと思ったら、いつでもできるはずなのに。
話を元に戻そう。ネット配信にすれば、ユーザーが見逃す事態をかなり防ぐことができる。視聴のチャンスが1週間。チャンネルをお気に入り登録しておけば、自動的にマイページに配信されて、放送日を忘れていても、定期的にマイページを覗いていれば見逃す心配はない。1週間以内であればいつ視聴しても構わない。ユーザーの都合に合わせることができる。テレビは一方的に時間が指定し、ユーザーを振り回し続けてきたが、その時代と比べるとずいぶん進歩してきたものである。
3 ニコニコ生放送の問題と可能性
しかし生放送の扱いはやや難しい。生放送は通常の配信よりもイベント的なもの、と見なすべきだろう。
私は前から“同時間性”という造語を勝手に使って人に説明している(別に“ソーシャル”といって説明すれば充分なのだが……造語を作りたい年頃なんだ、ほっといてくれ。造語のセンスがないとか言うな)。インターネットの特徴は初期の頃からロングテールと呼ばれ、その性質や意義は確かにその通りだが、今はそれよりも、“最先端の時間”で“何を共有しているのか”がより重要になっているように思える。
例えば2ちゃんねるなどの実況やツイッター、フェイスブック。これらのツールはより最先端の時間で何を共有したか、誰がいつ何を発信したかが重要な要素になっている。というより、今は検索ツールを使っても最新のデータしか出てこない。古い情報になるといくら検索しても出てこない。古い事件について調べるのなら、ネットで調べるより図書館へ行った方が早いかも知れない。インターネットは過去を振り返るツールではなくなり、より加速しながら最先端の時間や感覚を共有するツールに変わりつつある。ニコニコ生放送は普通の配信よりも、同時間性といった特徴を持っているといえるし、コメントを打って画面内で盛り上がっていく様子は、仮想空間上のお祭りのようにも見える。盛り上がっている時には特にそうだ。ニコニコ生放送は本質は、この“お祭り状態”というハレの感情を同時に共有していくことではないかと思う。
それでニコニコ生放送がなぜ難しいといえば――いつ放送されているかわからないからだ。注目されている生放送ならニコニコ動画のトップページに表示されるが、それ以外の生放送はなかなか察知できない。お気に入りチャンネルした作品はマイページに表示されるが、ほぼ全ての事例で配信直後に通知が出る、といった状態だ。これだと放送が始まってからはじめて情報を知る、という状況になるし、常にマイページを覗いてチェックしているわけではないから大抵の場合放送が終わってからやっと情報を知るという結果になる。一挙放送など長時間にわたって放送されるものはこちらも時間の調整しなくてはならなくなる。その当日、その時間になって一挙放送の情報を知っても、見る都合を付けることができなくなる。イベントを開催しても、参加して欲しいユーザーが参加できない。これは制作する側にとっても、配信する側にとってもマイナス要因になっている、とはっきり言いたい。なぜ前日にマイページやメールでお知らせを配信するという簡単なことができないのか、と問いたい。
それに、いま多くのアニメが深夜に生放送し、その後に通常の配信というやりかたである。いったい何を考えているんだ、と配信する側に問いたい。深夜に生放送するのは、深夜放送するテレビの慣習にならったやり方だと思われるが、テレビの場合録画するからこれが許される。しかし録画できるわけではない生放送が同じように深夜に開催するのは果たしてどうかと思われる。これだけでユーザーが参加しづらい環境を作り、やはり制作する側が最終的に損をしている。
アニメは娯楽であり、娯楽とは本来生活に必要のない、無駄なものである。その無駄なもののためにユーザーに不便や不健康を強いてはならないのである。これは作り手の心得として、絶対に胸に置いておくべき信条である。しかし深夜に生放送を配信し、これに参加しようとすれば、そのぶん睡眠時間が削られ、仕事や勉学にはっきりとした悪影響を与える。視聴するのは大人だけではない、学生も多くいるのだと考えて欲しい。本来学業に専念すべき児童を寝不足にさせる環境を作ってしまうことは、作り手の良心に反する行為だと強く主張したい。
ニコニコ生放送でしか視聴のできないアニメもある。生放送のみという形式は、それなりにビジネス的な戦略があれば問題はないのだが、深夜の時間帯で、生放送でしか見られないという作品にたまに出くわす。ここまで来ると、ユーザーに作品を見せるつもりないだろ、と突っ込みを入れたくなる。先に言ったように、学生も見るということを忘れてはならない。生放送のみ、というやり方を問題にするつもりはないが、見せる気がないような放送は控えるべきである。
私ならアニメの生放送を、ゴールデンタイムで放送する。いまテレビが底なしに衰退している。コンテンツ制作の能力がなくなり、どのチャンネルを回しても似たり寄ったりの内容に、雛壇芸人の馬鹿騒ぎ、無理にでも話題を韓国に繋げて韓国芸能人を称揚する。「テレビつまんないね」と誰もが思っている。だったら、「その視聴率、こちらでいただきます」くらいの図太さを持って欲しい。テレビのユーザーを一気にニコニコ動画に引き込む。テレビつまんないね、と思っているユーザーをニコニコ動画に注目させる。そういったチャンスがあるのにやらない理由がわからない。
それに、深夜アニメといえどそこまで刺激的な作品ばかりが制作されているわけではない。『侵略!イカ娘!』や『けいおん!』といった、本来もっと広くユーザーにアピールするべき作品が多くあるのに、深夜であるためにユーザーが偏り、大衆化する機会を失っている。作り手が利益を獲得する機会も失っている。(『花咲くいろは』や『TARITARI』もゴールデンタイムで放送すれば全世帯から共感を得られる内容だったはずだ。『たまこまーけっと』は日曜6時~7時に放送するべき内容。なぜ深夜なのかわからない。『日常』も最初から夕方に放送するべきだった)
アニメの作り手は、貪欲になるべきである。(詳しく知らないが)ゴールデンタイムにテレビ放送するには、権利料だけで数億円というお金が必要らしい。しかしニコニコ生放送ならそんな制約はない。だったらやってしまえばいい。夕食後の落ち着いた時間にイベント開始だ。テレビが衰退しているのなら、ゴールデンタイムでアニメをぶつけてその視聴率を奪い取ればいい。一番手になった者が勝利者だ。ゴールデンタイムで生放送を打てば、アニメに対するある種の偏見を払拭できるかも知れない(偏見とは無知から生まれる。実物に触れれば、偏見の実体が虚構であった事実を知る)。そういた様々なチャンスが目の前に転がっているのだから、挑戦しない手はないだろう。
4 ニコニコ動画への苦言
現状の話で言うと、ニコニコ動画を無条件に称揚するつもりはない。
まずニコニコ動画のわかりにくさ。トップメニューを開いてみても、雑多なお勧め動画がぽつぽつと貼り付けられ、あまり整理されているとはいえず、ここにユーザーが望んでいる情報や動画があると言えない。私はトップページはほとんど見ずに、右上のマイページの横に小さく書いてあるランキングへと進むのだが、最近はここをざっと見ても興味を持てる動画を見つけることができない。それは、ここに私が求めているものはない、という意味だ。
動画配信はただやればいい、という話ではない。情報を得たいと思っているユーザーに届くように作らねばならない。宣伝する側は、相手に検索してもらうまで待ちましょう、というような受け身的な考えで仕事してはならない。将来的によいお客さんになってくれる可能性を持った人に情報が届かないのは、それだけで損失だ。まずニコニコ動画のトップメニューから手を加えて、ユーザーが得たい情報により密着したレイアウトに変えるべきだろう。(ニコニコ動画の運営がやらないなら、非公式のサイトを作ってしまう手はあるが)
またニコニコ動画特有の性格が作品によってはかえってマイナスになる可能性がある。ニコニコ動画の特徴は、ユーザーのコメントが画面上に現れることだ。これがコンテンツをより魅力的にさせ、コメントを読むことでユーザーの心理を知り、あるいはどこで一番大きく盛り上がったのか容易に確かめることができる。視聴率よりはるかに信頼できるシステムである。
しかしこれは、コメディ作品でしか充分な効果を発揮しない。コメディ作品なら、キャラクターがフォローしない突っ込みをコメントが補完し、より一体感を強めてくれる。が、シリアス系の作品となると途端にコメントの存在が邪魔に思えてくる。静かに鑑賞すべき場面に空気を読まないコメントが流れてくると、あっという間に興ざめになる。感動すべき場面に、余計なコメントが感情の流れを分断し、没入間を妨げてしまう。コメント同士での喧嘩などは目も当てられない。和気藹々としているうちは楽しいものだが、煽りあい罵りあいが始まるとせっかくの気分を台無しにされる。「あのコメントが気に入らない」というようなほんの些細な切っ掛けで感情をぶつけ合う人があまりにも多い。私はそういう感情の抑制のできないユーザーは即座にNG登録に放り込むようにしている。話は変わってしまったが、シリアス系の作品はニコニコ動画にはあまり向いていない。コメントが場合によってシーンの性質を変えてしまうからだ。コメントが大抵のシリアスな場面を笑いに変えてしまう。
それから問題視すべきはネタバレコメントだ。ストーリーものは次にどんな展開が起きるのか、どんな意外な転換があるのか、その驚きを求めて見る、という面もある。しかしニコニコ動画でストーリーものを配信すると、コメントでネタバレする者が後を絶たない。ニコニコ動画でミステリを配信するべきではないだろう。
原作のある作品となると、さらに状況は酷くなる。「ここで主人公はこの台詞を言うはず」とコメント上で原作比較をはじめ、それが結果的にネタバレになっているし、さらに進んで「原作と違うから駄目だ」といった議論が動画上で始める。面倒なので、そういうユーザーも見つけ次第NG登録に放り込んでいる(この場合の彼らには、悪意がないのだが)。あらかじめコメントを消しておけばいい、と言われればそうだが、どんなコメントが来るかなどあらかじめ察知することはできない。
ニコニコ動画にはニコニコ動画特有の空気が流れている。コメディ作品の中でも、ニコニコ動画の大雑把なユーザーの心理傾向に沿った作品は特に盛り上がる。『這いよれニャル子さん』などはまさにそれで、作品は決して上質ではなかったが、ネットスラングを多用した台詞やその言葉を具体化したシーンの構成は、ニコニコ動画のユーザーから大きな支持を得た。『這いよれニャル子さん』はニコニコ動画だからより成功を大きくした作品だといえるだろうし、そういう祭りに参加するための作品は常に必要だと思う。
色んな人の大雑把な意見が常に流れていることの危険性は、視聴者がコメントの意見に流されてしまう可能性だ。例えば「この作品面白くない」というコメントが比較的多いと、コメントの意見に釣られて、自分も「面白くない」思い込み始めてしまう(逆に、大した内容でなくても「面白い!最高だ!」というコメントが大量に打たれていたら、三流四流の作品でも「神動画」と賞賛され、その実例は多い)。作品が視聴者自身に意見を持たせるのではなく、コメントが視聴者全体の漠然とした意識を作ってしまうのだ。ごく普通の暮らしを営んでいる人は、自分の意識や考えを常に川に流れる杭のごとく一つの所に打ち付けているわけではない。特に初めて知る情報については、その情報についてどういう感想を抱くべきか、好むべきか嫌悪すべきか自身の判断を保留にし、周囲の意見を聞いてそれから、あたかも自分も最初からそう思っていた、というように意識を確定する(私にもそういう所はかなりある)。コメントが自分だけの感想を持てなくして、場合によっては本来の批評を変えてしまう、コメントに埋没して作品の本質を見誤る、結果としてもっと評価されるべき作品がコメントによってボロボロにされる危険性すらあるのだ。(ネットスラングばかりに接していると、ネットスラングが持つ論理構造でしか思考できなくなり、さらに短い1フレーズでしか意見を言えなくなる。2ちゃんねるのユーザーはすでにその状態に陥っている)
もちろん、作品が視聴者の考えを圧倒しなければならないが、ニコニコ動画は長期的なストーリー構造を読む努力を難しくさせ、その場その場の散発的な場面の面白さやノリに振り回され、物語が描くあらゆる経緯の向かうところにあるクライマックスがあまり効果的に発揮できない弱点を抱えている。ショートストーリーとコメディはニコニコ動画で絶大な効果を発揮するが、長期的なプランを持ったドラマはニコニコ動画のユーザーの忍耐では耐えられない可能性がある。コメントに考えが釣られやすい環境にあるニコニコ動画では、ショートストーリーとコメディ以外で名作が生まれる可能性は低いと考えられる。
そういった危険性は、発信者側も同時に抱えている。ニコニコ動画のみで発信し続けていると、“勘違い”する危険性があるのだ。上にも書いたように、ニコニコ動画で“受ける動画”というのは独特な方向性を持っている。この独特の方向性をニコニコ動画内で意識を醸成していくうちに、世間全体における普遍的なものと勘違いし、作品の作り方自体を変容させてしまう可能性がある。長編を作る能力は真っ先に喪うだろう。映像作りの基本的な教養や方法論、といったものも次第に次第に後退し、ニコニコ動画的に面白いネタをただ羅列する能力だけが身についてしまう。またニコニコ動画は、ある種そこがニコニコ動画という空気があるからこそその瞬間だけニコニコ動画特有のユーザーになる、という現象が起きている。あまりにニコニコ動画的な“受け”を狙って作っても、それは必ずしもユーザーが望んでいるものではない。コメントがある前提で映像を作った作品をDVDやブルーレイで見た時の寂莫とした寒々しさは、少し痛々しいものがある。こういった諸々の危険性について、作り手自身が常に自覚的であるべきである。
ニコニコ動画ではまずまずの評判を得たのに、ビジネス的には惨敗した作品もある。『日常』がそれだ。ニコニコ動画始まって以来の悪例を作った作品である。『日常』は第1話の配信から最終話まで動画再生数は極めて高く、毎回必ずランキング1位を奪取し、ユーザーによる多くの広告料が振り込まれ、人気は間違いなく高いと言える作品だった。が、その後のDVD/ブルーレイ売り上げは千枚程度にしか売れなかった。日常の商業的な失敗は、アマゾンに書かれたコメントを見るとヒントが見えてくるが(コメントの多くが作品を賞賛するが、DVDが高くて買えない、DVD1枚に2話しか入っていない、オマケに入っている動画が返って作品の評価を下げている、等で作品自体には異議があるわけではなかったのだ。単に“売り方”が著しく間違えただけだった)、ニコニコ動画での成功は必ずしもビジネス的に成功するわけではない、という教訓を作った。(『日常』の場合製作サイドのオウンゴールだが)
5 不穏な動き
ニコニコ動画について、最近はこういう意見が非常に多くなった。
「面白くなくなった」
かつてはもっと自由だった。法律スレスレの動画が一杯あったし、優れた二次創作が一杯あったし、今よりもっと濃い動画がたくさんあった。
なのに今では、ランキングをざっと見ても自分が見たいと思う動画は見つからない。ごくごく一部で人気らしい、馬鹿が馬鹿をやっている動画ばかり上がってくる。それ以外の動画でも、何が面白いのだかさっぱりわからないのに、コメントは「神! 神! 神!」の連呼(『DEATHNOTE』かよ)。おまけにトップページのレイアウトがいまいちで、面白い動画を発掘できない。恐らく、見るべき動画はどこかに埋没しているのだろうけど、それを発見することができない。そもそも何か薄くて軽い。
そういう気持ち、よくわかる。アニメの公式配信や『NintendoDirect』などについてここで大いに賞賛しているが、それ以外については正直の所、劣化と衰退が始まっているのではないかとすら思う。正直、面白くないし、熱気の方向性も何やら違う方向へ進んでいる気がしてついて行けない。(といっても、プレミアム会員は増え続けているが)
ニコニコ動画は短期間のうちにずいぶん多くの人が見るようになり、また支持されるようになった。安倍総理がニコニコ動画について言及しているのを聞いて、時代は変わったという印象があった。そういった一般化する過程で、失ったものは多い。著作権に関してはJASRACなどを始め、権利団体が直接監視するようになり、(違法スレスレ動画は仕方ないとして)二次創作の多くはここで全滅した。一般化する過程で、環境をクリーンに、無害なほどに安全なものにする必要があると考えると、これは仕方がない。
人が多くなっていくと、もともとの性質や魅力が薄く引き延ばされていくことはある程度仕方のないこと。それでもやはり気になるのは、その後に入ってきた新しいユーザー達だ。もともとニコニコ動画にいたユーザー達とまったく性質を異にする人達で、彼らは横繋がりの連携をもの凄い勢いで強めていくタイプで、非常に自己主張の大きな人達だ。こういった彼らが配信する、ナルシズム的な動画とその隆盛……これが古参ユーザーとの意識の間に拒絶と乖離を同時に起こしている。
どれもこれも仕方のないこと。そう念じるしかないが、しかしやはり気になる。
今年2013年4月、幕張メッセで2回目となるニコニコ超会議が開催される。普段ニコニコ動画に発信している人達が、リアルな舞台で技や演技を発揮する場所である。参加数は非常に多く、賑わっているようだ。しかしこのイベントについても批判は多い。利益を出していない、このイベントを開催するための莫大な資金をサーバーに投資してほしい、などなど。まとめて見ると、多くの人が特に意義を感じていない、というところに問題の焦点があるように思える。現在ニコニコ動画で熱心に視聴し投稿している人達と、古くからユーザーで静かに見てコメントを打っている人達との間で、熱気の性質に差があり、盛り上がっている人達がいる一方、その熱気についていけないという人達が多数いるという現状だろうか。
一方が燃え上がれば燃え上がるほどに、一方は冷たく遠ざかっていく。このニコニコ動画内で発生している分離や意識の乖離について、まだちょうどいい落としどころは見つかっていない。そういった両者を包括して、ニコニコ動画内で住み分けることができればいいな、とはいつも思っているのだが……(例えば、ランキングの方向性を自分で細かくカスタマイズできる、など)。一般化する一方で、一般化したからこそ醒めきって離れていく人達は多い。
ニコニコ動画は今も勢いを強めているし、もっと栄えよ、と正直に思っている。不定期に配信される『NintendoDirect』はそれなりの成果を収めて任天堂に利益をもたらした。アニメ配信の多くは順当に浸透し、それなりの支持を得ていると思う。
やはり2012年11月29日に安部晋三が提案して開催された党首討論は忘れられてはならない。140万人を越える視聴者を集めたこの討論は、もちろんノーカットでバイアスはなく、ネット配信ならではの威力を発揮、ニコニコ動画の可能性を一般層に強烈に印象づけた。「報道の自由のない国53位」である我が国のマスコミは、もうとっくに「信頼に値せず」という評価が確定してしまっている。これから政治的なメッセージはニコニコ動画を中心に発信していくべきだろうし、政治家は「記者倶楽部」ではなくニコニコ動画を積極的に選択していくだろう。
しかし不穏な動きも水面下で起きている。私は詳しく知らないが、ニコニコ動画のトップに宗教団体や利権団体といった人達が椅子取り合戦を始めているという。そうした人達がどういった影響を持つか、まだわからないが最悪の予想を立てると、宗教団体や利権団体といった人達による検閲で優良な動画が次々と削除され、彼らが望む種類の動画しか残らなくなる可能性がある(特に政治面は、彼らが望む種類の思想のものしか残らなくなる)。もちろん想像だが。
そうした最中、ニコニコ動画の最初期の立役者であった西村博之がニコニコ動画を運営するニワンゴを退社した。西村博之が退社した理由、本当の動機、さらにこれが今後ニコニコ動画自体にどんな影響を与えるのか。わからないことは多い。
ニコニコ動画の一般化による動画とユーザーの軽薄短小化、宗教団体や利権団体の介入、西村博之の退社……。不安要素はかなり多い。大きくなったからチーズに群がるネズミのような人達が集まってくるのはわかるが、ニコニコ動画というある種の聖域は守られるのだろうか、と不安は感じる。
3年前ニコニコ動画を取り上げた時は、アニメの公式配信が始まったばかりで、まだ混沌としていたと同時に可能性を強く感じた。わずか3年で状況は大きく変わった。良くなったところと悪くなったところ、この2つを天秤に掛けて、果たしてニコニコ動画はより良くなったのかと問われれば、正直なところ、気持ちの上では不穏なものを感じずにはいられない。
だが、もっともっと栄えよ、とは思っている。そうすれば、アニメやゲームに関しては、より多くの人達へ向けて配信できるし、そういった人達が得られる利益は大きくなる。アニメに限って言えば、深夜アニメというニッチなポジションから脱却できるチャンスをニコニコ動画が持っている限り、私は支持したいと思っている。
今回、ニコニコ動画について独立した記事を書いたのは、たまたまの気まぐれだ。3年の時間が経過して、ニコニコ動画も様変わりして、現段階での状況や私個人的な感想を残しておこう、と思っただけだ。もしかしたら3年後も再びニコニコ動画について取り上げるかも知れない。その時には、天秤が良いほうへ傾いていることを期待する。
ニコニコ動画でテレビアニメシリーズが配信されるようになって、そろそろ3年が過ぎようとしている。ニコニコ動画でアニメを見ることは一般的になったし、製作サイドもニコニコ動画をビジネスの場としてそれなりの重要度を与えるようになってきた。「アニメーションはテレビで」この考え方は急速に過去のものになりつつある。
3年前、『ストライクウィッチーズ2』及び『学園黙示録HIGHSCHOOL OF THE DEAD』が配信された時にも一度ブログに取り上げた(ストライクウィッチーズ 第1話)が、その当時から思っていて書ききれなかったことや、また状況の激しい変化の時期であり、今の時点での考えを残しておきたいと考えている。
まず最初の主張は、シリーズ・アニメはテレビを捨ててもよいのではないか、という話だ。
3年前のブログ記事で書いた内容の繰り返しになるが、アニメーションをテレビというスケールで制作し続けるには限界がある。
まず12話から13話という“クール”の概念。テレビでシリーズ作品を放送してしまうと、その時点で放送回数が確定され、これが制作上あるいは視聴の上での問題の第1歩となっている。
例えば連載中の原作作品を映像化する場合。週刊雑誌での連載だとだいぶストーリーの進行が早いが、それでも週刊連載18ページと24分放送とでは大きな開きがある。アニメの展開をゆっくりペースで制作してもいずれ原作ストックを消費して、アニメはその時点で終わりにするか、原作にない結末を蛇足のように付け足すか、あるいは原作とはまったく違うストーリーを展開するか、いずれかの選択を選ばなければならない。そもそも原作のペースに合わせてストーリー進行を遅らせた緩慢な展開が喜ばれるとは思えない(いつまで経っても悟空がやってこない、いつまで経っても星矢が矢を放たない、30分付き合って今週も話進まなかったね、という徒労を何度も経験してきた世代として、これは由々しき問題である)。『銀魂』のように、原作ストックの問題そのものをテーマにしてしまう作品もあるが、あれは例外中の例外で、殆どの場合でユーザーが望まない付け足しと改編でがっかりさせられる。
連載中漫画をアニメ化する場合、1週間に1回放送には無理がある。もしも原作に忠実に映像化するならば、映像化の作家が原作以上の創意を込める気がないのならば、アニメに放送は2週に1回か、週に1回の場合でも15分ほどが最適ではないかと思われる。
それに、12話~13話という構成が、ストーリーの展開に制限を与えてしまう。その物語が出発点からどこまで進行し、変化を与えられるか。それは物理的時間に比例する。映画の場合、およそ30分区切りの起承転結で構成した場合、そこに描かれるのは大きな課題を一つ、大抵の場合、主人公の葛藤を乗り越える物語で完結してしまう。シリーズ作品の魅力は主人公の成長、冒険の旅の過程であり、映画とは違うスケールを持った進行距離を描くことができる。映画よりもっと深い所まで人物を掘り下げ、主人公の成長と変化をより大きなものにできる。物語を描くならば映画よりシリーズの方がいい。物語により大きなダイナミズムを与えるのがシリーズの特権であるし、見る側は主人公達の成長を友人のごとく付きある楽しみが生まれる。
しかしあらかじめ12話という制限が与えられてしまうと、見る側としては途中から結末が見えてしまう。6話前後で物語に変化が起きて、10話に入る頃には結末に向けて伏線の回収が始まる。12話という前提で構成してしまうと、どのアニメも同じセオリーを踏襲するから、だいたい同じような展開と結末になってしまう。主人公が物語の中で進める移動距離に限界が与えられてしまうのだ。
12話構成が絶対的になってしまうと、これが枷となって物語の背景を充分に語る準備が作れず、その逆にそもそも12話も必要ない物語も存在する。
前者においては『DARKER THAN BLACK -流星の双子-』がその例だ。『DARKER THAN BLACK -流星の双子-』は明らかに12話では収まらないスケールを持った物語だった。この物語をきちんと展開させ、結末へと持って行こうと思ったら、12話では足りない。では何話が適切だったのか、と問われると制作者にインタビューしないとわからないが、とにかく12話は明らかに不充分だった。それまでの物語はそれなりに順当に物事のあらましを描き、それぞれの人物の感情を描いてきたのだが、12話に入って突然、切り貼りのダイジェストになってしまった。あまりにも説明がなさ過ぎて、奇妙な印象になってしまったクライマックス、登場人物が突然まったく別の場所に移動しているなど、書きこぼしたシーンが多い。おそらくダイジェストになってしまったクライマックスを4~5話くらいの尺度で展開していけば、その過程で十分に説明ができるし、人物の行く末も描けて、誰もが納得できる結末になっていただろう。しかし12話構成という前提である限り、それは望めない。
後者の事例は、最近では『さんかれあ』だろう。『さんかれあ』は12話(未放送を含めると14話)で映像化するべきではなかった。『さんかれあ』は第6話「あなたに…出会えたから」までは登場人物の背景と心理をスローペースながら丹念に描いてきたのに、それ以降、突然物語は散華例弥や降谷千紘から遠ざかっていく。話の本筋はおあずけ状態になり、サブキャラクターのエピソードで話数を消費していき、ようやく本筋に戻っても展開は緩慢で、ほんの少々の波を乗り越えたところで完結してしまった。おそらく『さんかれあ』に必要だった話数は8話くらい。12話は必要ではなかった。余計なところはざっくり刈り込んで、物語の中心を大きくクローズアップし、ドラマとしてのクライマックスを目指すべきだった。だが『さんかれあ』のアニメ版は、キャラクターの感情を物語の結末へと導く動線が描けていなかった。それにもしも12話という構成で充実した内容を描きたいのであれば、まず原作者を会議室に入れて、原作に描かれていない背景や、その後の展開も聞き出しておくべきだった。
次に、地域の放送格差の問題だ。『花咲くいろは』『ちはやふる』『LUPIN the Third -峰不二子という女-』といった、いずれも話題になった作品だが、私の住んでいる地域では放送されていない。『花咲くいろは』はニコニコ動画で見るチャンスを得たが、もしここで出会わないと、永久にそのままだっただろう。『ちはやふる』も『LUPIN the Third -峰不二子という女-』も気になっている作品だが、未だに見る機会がない。
放送されていない、という問題の他に、放送時期のずれが問題になっている。かつてなら特に気にしない格差だったが、ネットの時代になるとここに少々の問題が孕む。話題に入れない、乗り遅れる、といった問題だ。最近では制作者側が公式としてツイッターで情報を発信しているが、地方出身者はここで自分たちがまだ得るべきではないタイミングの情報を与えられてしまう。本家にネタバレされてしまう危険があるのだ。
またセールス面についても、関東地方に偏りがでやすくなってしまう。関東地方の住人は製作者側が望むタイミングで広告が打てるが、地方の住人に対してはどうしてもここにズレが生じてしまう。関東地方の住人のみを“いいお客さん”と見なしている、というわけではないはずだが、地方に住んでいると何もかもに参加できず、この広告のタイミングのズレが収益にも少なからずの影響を与えてしまう。
アニメが深夜枠で放送されるようになったのは、単純に安く枠を買えるようになった、という背景によるものだが、やはりそれなりにお金がかかってしまう。内容によっては放送局側が拒否する場合もある。確かにテレビ放送は、レンタルショップにDVDを置くよりはるかに注目を集め、宣伝にもなるが、ネットでの視聴が主流になりかけている今、深夜放送にどれだけの意義があるのかあやしいところだ。
それから、テレビだとユーザー側に視聴のチャンスが1度しかない。この1度を逃してしまうと、ユーザーはもう見るチャンスを失ってしまう。もしもストーリーものだと、1回見逃した状態で視聴を続けなければならず、シリーズ作品を見続けようというモチベーションの維持にも関わってくる。もしも録画に失敗したら? 野球延長で放送時間の変更を察知できなかったら? 考えてみれば、テレビはユーザー側にかなり理不尽な制限を与えてきたといえる。
2 アニメの形式はどう変わるのか
テレビ放送には以上のような様々な問題がつきまとってきたわけだが、ネット配信に切り替えるとこの全てが一度に解決させられる。
まず放送回数と放送時間の問題。その作品に、あるいは物語に見合った放送回数と放送時間を独力で決めることができる。これがもっと早く可能なら『DARKER THAN BLACK -流星の双子-』は12話完結ではなく、もっと違う形で結末を描けたはずだった。『さんかれあ』は無駄を省いて、8話前後で完結できるようにしておけば、作品の評価はずっと変わっただろう。
すでにテレビ放送からネット配信へと転換を決めている作品もある。『化物語』はテレビ放送後もYouTubeでその続きが制作され配信されたし、未完に終わった『咲-Saki-阿智賀篇』は原作が溜まってきたタイミングでその都度映像化している。しかも放送時間は29分と、テレビ放送できない尺で制作している。話の引き延ばしも余計なオリジナル要素もなく、ユーザーにとって理想的な形で『咲-Saki-阿智賀篇』のアニメ版は制作され続けている。
もしもこれからニコニコ動画のみで作品を発表していくのなら、その都度その作品に必要な物語の長さを考え制作ができる自由度が生まれる。“放送回数”や“放送時間”といった囚われは失われ、物語の本質や描きたいテーマと結末、それを見定めて純粋な意味での“物語至上主義”を作品に込めることができる。逆に言えば放送回数やそれぞれの放送時間を自身で決めなければならないというわけだが――その程度の決定もできない作家に用はない。この革命を最初に起こしてくれるのが誰になるのか……今後に注目である。
(多分、広告を打つ側としては、ある程度の固まりになっていないと難しいのだと思う。発表の時期があまりにもバラバラだと広告のタイミングがわからないし、作品の公開が散発的だとユーザーの記憶にも残りづらくなる。だからまず最初に10話前後の固まりで制作する。この段階でうまくユーザーに浸透し、支持が生まれ、利益に繋がるとわかれば、それから続きを原作のペースに合わせて発表していけばいい。第2期という括りを待つ必要はない。第2期を待つより早くユーザーは作品の映像化を見ることができる)
地域格差の問題も解消される。配信された瞬間、日本中のユーザーが同時に視聴できるし、生放送などのイベントは同時に参加できる。ニコニコ動画だけではなく、YouTubeも連動させて配信すれば、世界規模で同時に作品発表もできる。
ちょっと余談になるが、世界に向けた配信は、今後考えていかねばならないテーマである。というのも、いま日本のアニメは世界中から注目を浴びている。そのほとんどが違法サイトでの視聴だが、日本で放送された、あるいは配信されたアニメが、日本のユーザーとほぼ同じタイミングで視聴されている。しかし世界に向けたセールスはほとんど進んでいない。北米向けのDVDは日本よりも2年以上遅れて発売するのは普通だし、海外のユーザーの声を拾っていくと、翻訳が不充分であるという。はっきりいえば「公式の翻訳は糞。海賊版の翻訳の方ができがいい」という意見が多く見られる。(参考:翻訳冒険活劇/海外のオタク「アニメ業界は海外市場にもっと目を向けるべきだと思う?」)(掲載した図は海外における日本のコンテンツの収益をまとめたもの。数字を見てわかるように、海外のアニメ市場はゲーム事業に相当するポテンシャルを持っているが、その収益のほとんどを手にしていない。業界がいまだ海外事業について手を付けていないのがわかる。出自は日経エンタテインメント)
ネットの時代になり、制作の方法もビジネスの方法も変わっている。今は世界に向けて広告を打つことが簡単にできる時代になった。それに、国内だけでの商売では限界が見えるし、すでに限界に頭をぶつけそうになるのを危うくかわしながら続けているといった状態が続いている。いずれにおいても世界に向けた配信、広告、販売は必須になるのは間違いないし、すでに可能な環境は整っている。ここまで良条件が整ってやらない理由がわからない。
任天堂は『NintendoDirect』という番組を不定期にニコニコ動画で配信し、これはYouTubeと連動し世界同時公開を実現している。こうすることで情報を世界中の人と共有させ、同時発表することで情報格差を取り払い、さらに世界中で同時にムーブメントの波を起こすことに成功している。考えてみればスケールの大きな話だが、任天堂はニコニコ動画を情報発信の場として重要度を自覚し、1年前からこれを実践してきている(任天堂がWiiUアプリにまずニコニコ動画を作ったのはそういう繋がりもあるのだろう)。アニメがこれに倣って続こうと思ったら、いつでもできるはずなのに。
話を元に戻そう。ネット配信にすれば、ユーザーが見逃す事態をかなり防ぐことができる。視聴のチャンスが1週間。チャンネルをお気に入り登録しておけば、自動的にマイページに配信されて、放送日を忘れていても、定期的にマイページを覗いていれば見逃す心配はない。1週間以内であればいつ視聴しても構わない。ユーザーの都合に合わせることができる。テレビは一方的に時間が指定し、ユーザーを振り回し続けてきたが、その時代と比べるとずいぶん進歩してきたものである。
3 ニコニコ生放送の問題と可能性
しかし生放送の扱いはやや難しい。生放送は通常の配信よりもイベント的なもの、と見なすべきだろう。
私は前から“同時間性”という造語を勝手に使って人に説明している(別に“ソーシャル”といって説明すれば充分なのだが……造語を作りたい年頃なんだ、ほっといてくれ。造語のセンスがないとか言うな)。インターネットの特徴は初期の頃からロングテールと呼ばれ、その性質や意義は確かにその通りだが、今はそれよりも、“最先端の時間”で“何を共有しているのか”がより重要になっているように思える。
例えば2ちゃんねるなどの実況やツイッター、フェイスブック。これらのツールはより最先端の時間で何を共有したか、誰がいつ何を発信したかが重要な要素になっている。というより、今は検索ツールを使っても最新のデータしか出てこない。古い情報になるといくら検索しても出てこない。古い事件について調べるのなら、ネットで調べるより図書館へ行った方が早いかも知れない。インターネットは過去を振り返るツールではなくなり、より加速しながら最先端の時間や感覚を共有するツールに変わりつつある。ニコニコ生放送は普通の配信よりも、同時間性といった特徴を持っているといえるし、コメントを打って画面内で盛り上がっていく様子は、仮想空間上のお祭りのようにも見える。盛り上がっている時には特にそうだ。ニコニコ生放送は本質は、この“お祭り状態”というハレの感情を同時に共有していくことではないかと思う。
それでニコニコ生放送がなぜ難しいといえば――いつ放送されているかわからないからだ。注目されている生放送ならニコニコ動画のトップページに表示されるが、それ以外の生放送はなかなか察知できない。お気に入りチャンネルした作品はマイページに表示されるが、ほぼ全ての事例で配信直後に通知が出る、といった状態だ。これだと放送が始まってからはじめて情報を知る、という状況になるし、常にマイページを覗いてチェックしているわけではないから大抵の場合放送が終わってからやっと情報を知るという結果になる。一挙放送など長時間にわたって放送されるものはこちらも時間の調整しなくてはならなくなる。その当日、その時間になって一挙放送の情報を知っても、見る都合を付けることができなくなる。イベントを開催しても、参加して欲しいユーザーが参加できない。これは制作する側にとっても、配信する側にとってもマイナス要因になっている、とはっきり言いたい。なぜ前日にマイページやメールでお知らせを配信するという簡単なことができないのか、と問いたい。
それに、いま多くのアニメが深夜に生放送し、その後に通常の配信というやりかたである。いったい何を考えているんだ、と配信する側に問いたい。深夜に生放送するのは、深夜放送するテレビの慣習にならったやり方だと思われるが、テレビの場合録画するからこれが許される。しかし録画できるわけではない生放送が同じように深夜に開催するのは果たしてどうかと思われる。これだけでユーザーが参加しづらい環境を作り、やはり制作する側が最終的に損をしている。
アニメは娯楽であり、娯楽とは本来生活に必要のない、無駄なものである。その無駄なもののためにユーザーに不便や不健康を強いてはならないのである。これは作り手の心得として、絶対に胸に置いておくべき信条である。しかし深夜に生放送を配信し、これに参加しようとすれば、そのぶん睡眠時間が削られ、仕事や勉学にはっきりとした悪影響を与える。視聴するのは大人だけではない、学生も多くいるのだと考えて欲しい。本来学業に専念すべき児童を寝不足にさせる環境を作ってしまうことは、作り手の良心に反する行為だと強く主張したい。
ニコニコ生放送でしか視聴のできないアニメもある。生放送のみという形式は、それなりにビジネス的な戦略があれば問題はないのだが、深夜の時間帯で、生放送でしか見られないという作品にたまに出くわす。ここまで来ると、ユーザーに作品を見せるつもりないだろ、と突っ込みを入れたくなる。先に言ったように、学生も見るということを忘れてはならない。生放送のみ、というやり方を問題にするつもりはないが、見せる気がないような放送は控えるべきである。
私ならアニメの生放送を、ゴールデンタイムで放送する。いまテレビが底なしに衰退している。コンテンツ制作の能力がなくなり、どのチャンネルを回しても似たり寄ったりの内容に、雛壇芸人の馬鹿騒ぎ、無理にでも話題を韓国に繋げて韓国芸能人を称揚する。「テレビつまんないね」と誰もが思っている。だったら、「その視聴率、こちらでいただきます」くらいの図太さを持って欲しい。テレビのユーザーを一気にニコニコ動画に引き込む。テレビつまんないね、と思っているユーザーをニコニコ動画に注目させる。そういったチャンスがあるのにやらない理由がわからない。
それに、深夜アニメといえどそこまで刺激的な作品ばかりが制作されているわけではない。『侵略!イカ娘!』や『けいおん!』といった、本来もっと広くユーザーにアピールするべき作品が多くあるのに、深夜であるためにユーザーが偏り、大衆化する機会を失っている。作り手が利益を獲得する機会も失っている。(『花咲くいろは』や『TARITARI』もゴールデンタイムで放送すれば全世帯から共感を得られる内容だったはずだ。『たまこまーけっと』は日曜6時~7時に放送するべき内容。なぜ深夜なのかわからない。『日常』も最初から夕方に放送するべきだった)
アニメの作り手は、貪欲になるべきである。(詳しく知らないが)ゴールデンタイムにテレビ放送するには、権利料だけで数億円というお金が必要らしい。しかしニコニコ生放送ならそんな制約はない。だったらやってしまえばいい。夕食後の落ち着いた時間にイベント開始だ。テレビが衰退しているのなら、ゴールデンタイムでアニメをぶつけてその視聴率を奪い取ればいい。一番手になった者が勝利者だ。ゴールデンタイムで生放送を打てば、アニメに対するある種の偏見を払拭できるかも知れない(偏見とは無知から生まれる。実物に触れれば、偏見の実体が虚構であった事実を知る)。そういた様々なチャンスが目の前に転がっているのだから、挑戦しない手はないだろう。
4 ニコニコ動画への苦言
現状の話で言うと、ニコニコ動画を無条件に称揚するつもりはない。
まずニコニコ動画のわかりにくさ。トップメニューを開いてみても、雑多なお勧め動画がぽつぽつと貼り付けられ、あまり整理されているとはいえず、ここにユーザーが望んでいる情報や動画があると言えない。私はトップページはほとんど見ずに、右上のマイページの横に小さく書いてあるランキングへと進むのだが、最近はここをざっと見ても興味を持てる動画を見つけることができない。それは、ここに私が求めているものはない、という意味だ。
動画配信はただやればいい、という話ではない。情報を得たいと思っているユーザーに届くように作らねばならない。宣伝する側は、相手に検索してもらうまで待ちましょう、というような受け身的な考えで仕事してはならない。将来的によいお客さんになってくれる可能性を持った人に情報が届かないのは、それだけで損失だ。まずニコニコ動画のトップメニューから手を加えて、ユーザーが得たい情報により密着したレイアウトに変えるべきだろう。(ニコニコ動画の運営がやらないなら、非公式のサイトを作ってしまう手はあるが)
またニコニコ動画特有の性格が作品によってはかえってマイナスになる可能性がある。ニコニコ動画の特徴は、ユーザーのコメントが画面上に現れることだ。これがコンテンツをより魅力的にさせ、コメントを読むことでユーザーの心理を知り、あるいはどこで一番大きく盛り上がったのか容易に確かめることができる。視聴率よりはるかに信頼できるシステムである。
しかしこれは、コメディ作品でしか充分な効果を発揮しない。コメディ作品なら、キャラクターがフォローしない突っ込みをコメントが補完し、より一体感を強めてくれる。が、シリアス系の作品となると途端にコメントの存在が邪魔に思えてくる。静かに鑑賞すべき場面に空気を読まないコメントが流れてくると、あっという間に興ざめになる。感動すべき場面に、余計なコメントが感情の流れを分断し、没入間を妨げてしまう。コメント同士での喧嘩などは目も当てられない。和気藹々としているうちは楽しいものだが、煽りあい罵りあいが始まるとせっかくの気分を台無しにされる。「あのコメントが気に入らない」というようなほんの些細な切っ掛けで感情をぶつけ合う人があまりにも多い。私はそういう感情の抑制のできないユーザーは即座にNG登録に放り込むようにしている。話は変わってしまったが、シリアス系の作品はニコニコ動画にはあまり向いていない。コメントが場合によってシーンの性質を変えてしまうからだ。コメントが大抵のシリアスな場面を笑いに変えてしまう。
それから問題視すべきはネタバレコメントだ。ストーリーものは次にどんな展開が起きるのか、どんな意外な転換があるのか、その驚きを求めて見る、という面もある。しかしニコニコ動画でストーリーものを配信すると、コメントでネタバレする者が後を絶たない。ニコニコ動画でミステリを配信するべきではないだろう。
原作のある作品となると、さらに状況は酷くなる。「ここで主人公はこの台詞を言うはず」とコメント上で原作比較をはじめ、それが結果的にネタバレになっているし、さらに進んで「原作と違うから駄目だ」といった議論が動画上で始める。面倒なので、そういうユーザーも見つけ次第NG登録に放り込んでいる(この場合の彼らには、悪意がないのだが)。あらかじめコメントを消しておけばいい、と言われればそうだが、どんなコメントが来るかなどあらかじめ察知することはできない。
ニコニコ動画にはニコニコ動画特有の空気が流れている。コメディ作品の中でも、ニコニコ動画の大雑把なユーザーの心理傾向に沿った作品は特に盛り上がる。『這いよれニャル子さん』などはまさにそれで、作品は決して上質ではなかったが、ネットスラングを多用した台詞やその言葉を具体化したシーンの構成は、ニコニコ動画のユーザーから大きな支持を得た。『這いよれニャル子さん』はニコニコ動画だからより成功を大きくした作品だといえるだろうし、そういう祭りに参加するための作品は常に必要だと思う。
色んな人の大雑把な意見が常に流れていることの危険性は、視聴者がコメントの意見に流されてしまう可能性だ。例えば「この作品面白くない」というコメントが比較的多いと、コメントの意見に釣られて、自分も「面白くない」思い込み始めてしまう(逆に、大した内容でなくても「面白い!最高だ!」というコメントが大量に打たれていたら、三流四流の作品でも「神動画」と賞賛され、その実例は多い)。作品が視聴者自身に意見を持たせるのではなく、コメントが視聴者全体の漠然とした意識を作ってしまうのだ。ごく普通の暮らしを営んでいる人は、自分の意識や考えを常に川に流れる杭のごとく一つの所に打ち付けているわけではない。特に初めて知る情報については、その情報についてどういう感想を抱くべきか、好むべきか嫌悪すべきか自身の判断を保留にし、周囲の意見を聞いてそれから、あたかも自分も最初からそう思っていた、というように意識を確定する(私にもそういう所はかなりある)。コメントが自分だけの感想を持てなくして、場合によっては本来の批評を変えてしまう、コメントに埋没して作品の本質を見誤る、結果としてもっと評価されるべき作品がコメントによってボロボロにされる危険性すらあるのだ。(ネットスラングばかりに接していると、ネットスラングが持つ論理構造でしか思考できなくなり、さらに短い1フレーズでしか意見を言えなくなる。2ちゃんねるのユーザーはすでにその状態に陥っている)
もちろん、作品が視聴者の考えを圧倒しなければならないが、ニコニコ動画は長期的なストーリー構造を読む努力を難しくさせ、その場その場の散発的な場面の面白さやノリに振り回され、物語が描くあらゆる経緯の向かうところにあるクライマックスがあまり効果的に発揮できない弱点を抱えている。ショートストーリーとコメディはニコニコ動画で絶大な効果を発揮するが、長期的なプランを持ったドラマはニコニコ動画のユーザーの忍耐では耐えられない可能性がある。コメントに考えが釣られやすい環境にあるニコニコ動画では、ショートストーリーとコメディ以外で名作が生まれる可能性は低いと考えられる。
そういった危険性は、発信者側も同時に抱えている。ニコニコ動画のみで発信し続けていると、“勘違い”する危険性があるのだ。上にも書いたように、ニコニコ動画で“受ける動画”というのは独特な方向性を持っている。この独特の方向性をニコニコ動画内で意識を醸成していくうちに、世間全体における普遍的なものと勘違いし、作品の作り方自体を変容させてしまう可能性がある。長編を作る能力は真っ先に喪うだろう。映像作りの基本的な教養や方法論、といったものも次第に次第に後退し、ニコニコ動画的に面白いネタをただ羅列する能力だけが身についてしまう。またニコニコ動画は、ある種そこがニコニコ動画という空気があるからこそその瞬間だけニコニコ動画特有のユーザーになる、という現象が起きている。あまりにニコニコ動画的な“受け”を狙って作っても、それは必ずしもユーザーが望んでいるものではない。コメントがある前提で映像を作った作品をDVDやブルーレイで見た時の寂莫とした寒々しさは、少し痛々しいものがある。こういった諸々の危険性について、作り手自身が常に自覚的であるべきである。
ニコニコ動画ではまずまずの評判を得たのに、ビジネス的には惨敗した作品もある。『日常』がそれだ。ニコニコ動画始まって以来の悪例を作った作品である。『日常』は第1話の配信から最終話まで動画再生数は極めて高く、毎回必ずランキング1位を奪取し、ユーザーによる多くの広告料が振り込まれ、人気は間違いなく高いと言える作品だった。が、その後のDVD/ブルーレイ売り上げは千枚程度にしか売れなかった。日常の商業的な失敗は、アマゾンに書かれたコメントを見るとヒントが見えてくるが(コメントの多くが作品を賞賛するが、DVDが高くて買えない、DVD1枚に2話しか入っていない、オマケに入っている動画が返って作品の評価を下げている、等で作品自体には異議があるわけではなかったのだ。単に“売り方”が著しく間違えただけだった)、ニコニコ動画での成功は必ずしもビジネス的に成功するわけではない、という教訓を作った。(『日常』の場合製作サイドのオウンゴールだが)
5 不穏な動き
ニコニコ動画について、最近はこういう意見が非常に多くなった。
「面白くなくなった」
かつてはもっと自由だった。法律スレスレの動画が一杯あったし、優れた二次創作が一杯あったし、今よりもっと濃い動画がたくさんあった。
なのに今では、ランキングをざっと見ても自分が見たいと思う動画は見つからない。ごくごく一部で人気らしい、馬鹿が馬鹿をやっている動画ばかり上がってくる。それ以外の動画でも、何が面白いのだかさっぱりわからないのに、コメントは「神! 神! 神!」の連呼(『DEATHNOTE』かよ)。おまけにトップページのレイアウトがいまいちで、面白い動画を発掘できない。恐らく、見るべき動画はどこかに埋没しているのだろうけど、それを発見することができない。そもそも何か薄くて軽い。
そういう気持ち、よくわかる。アニメの公式配信や『NintendoDirect』などについてここで大いに賞賛しているが、それ以外については正直の所、劣化と衰退が始まっているのではないかとすら思う。正直、面白くないし、熱気の方向性も何やら違う方向へ進んでいる気がしてついて行けない。(といっても、プレミアム会員は増え続けているが)
ニコニコ動画は短期間のうちにずいぶん多くの人が見るようになり、また支持されるようになった。安倍総理がニコニコ動画について言及しているのを聞いて、時代は変わったという印象があった。そういった一般化する過程で、失ったものは多い。著作権に関してはJASRACなどを始め、権利団体が直接監視するようになり、(違法スレスレ動画は仕方ないとして)二次創作の多くはここで全滅した。一般化する過程で、環境をクリーンに、無害なほどに安全なものにする必要があると考えると、これは仕方がない。
人が多くなっていくと、もともとの性質や魅力が薄く引き延ばされていくことはある程度仕方のないこと。それでもやはり気になるのは、その後に入ってきた新しいユーザー達だ。もともとニコニコ動画にいたユーザー達とまったく性質を異にする人達で、彼らは横繋がりの連携をもの凄い勢いで強めていくタイプで、非常に自己主張の大きな人達だ。こういった彼らが配信する、ナルシズム的な動画とその隆盛……これが古参ユーザーとの意識の間に拒絶と乖離を同時に起こしている。
どれもこれも仕方のないこと。そう念じるしかないが、しかしやはり気になる。
今年2013年4月、幕張メッセで2回目となるニコニコ超会議が開催される。普段ニコニコ動画に発信している人達が、リアルな舞台で技や演技を発揮する場所である。参加数は非常に多く、賑わっているようだ。しかしこのイベントについても批判は多い。利益を出していない、このイベントを開催するための莫大な資金をサーバーに投資してほしい、などなど。まとめて見ると、多くの人が特に意義を感じていない、というところに問題の焦点があるように思える。現在ニコニコ動画で熱心に視聴し投稿している人達と、古くからユーザーで静かに見てコメントを打っている人達との間で、熱気の性質に差があり、盛り上がっている人達がいる一方、その熱気についていけないという人達が多数いるという現状だろうか。
一方が燃え上がれば燃え上がるほどに、一方は冷たく遠ざかっていく。このニコニコ動画内で発生している分離や意識の乖離について、まだちょうどいい落としどころは見つかっていない。そういった両者を包括して、ニコニコ動画内で住み分けることができればいいな、とはいつも思っているのだが……(例えば、ランキングの方向性を自分で細かくカスタマイズできる、など)。一般化する一方で、一般化したからこそ醒めきって離れていく人達は多い。
ニコニコ動画は今も勢いを強めているし、もっと栄えよ、と正直に思っている。不定期に配信される『NintendoDirect』はそれなりの成果を収めて任天堂に利益をもたらした。アニメ配信の多くは順当に浸透し、それなりの支持を得ていると思う。
やはり2012年11月29日に安部晋三が提案して開催された党首討論は忘れられてはならない。140万人を越える視聴者を集めたこの討論は、もちろんノーカットでバイアスはなく、ネット配信ならではの威力を発揮、ニコニコ動画の可能性を一般層に強烈に印象づけた。「報道の自由のない国53位」である我が国のマスコミは、もうとっくに「信頼に値せず」という評価が確定してしまっている。これから政治的なメッセージはニコニコ動画を中心に発信していくべきだろうし、政治家は「記者倶楽部」ではなくニコニコ動画を積極的に選択していくだろう。
しかし不穏な動きも水面下で起きている。私は詳しく知らないが、ニコニコ動画のトップに宗教団体や利権団体といった人達が椅子取り合戦を始めているという。そうした人達がどういった影響を持つか、まだわからないが最悪の予想を立てると、宗教団体や利権団体といった人達による検閲で優良な動画が次々と削除され、彼らが望む種類の動画しか残らなくなる可能性がある(特に政治面は、彼らが望む種類の思想のものしか残らなくなる)。もちろん想像だが。
そうした最中、ニコニコ動画の最初期の立役者であった西村博之がニコニコ動画を運営するニワンゴを退社した。西村博之が退社した理由、本当の動機、さらにこれが今後ニコニコ動画自体にどんな影響を与えるのか。わからないことは多い。
ニコニコ動画の一般化による動画とユーザーの軽薄短小化、宗教団体や利権団体の介入、西村博之の退社……。不安要素はかなり多い。大きくなったからチーズに群がるネズミのような人達が集まってくるのはわかるが、ニコニコ動画というある種の聖域は守られるのだろうか、と不安は感じる。
3年前ニコニコ動画を取り上げた時は、アニメの公式配信が始まったばかりで、まだ混沌としていたと同時に可能性を強く感じた。わずか3年で状況は大きく変わった。良くなったところと悪くなったところ、この2つを天秤に掛けて、果たしてニコニコ動画はより良くなったのかと問われれば、正直なところ、気持ちの上では不穏なものを感じずにはいられない。
だが、もっともっと栄えよ、とは思っている。そうすれば、アニメやゲームに関しては、より多くの人達へ向けて配信できるし、そういった人達が得られる利益は大きくなる。アニメに限って言えば、深夜アニメというニッチなポジションから脱却できるチャンスをニコニコ動画が持っている限り、私は支持したいと思っている。
今回、ニコニコ動画について独立した記事を書いたのは、たまたまの気まぐれだ。3年の時間が経過して、ニコニコ動画も様変わりして、現段階での状況や私個人的な感想を残しておこう、と思っただけだ。もしかしたら3年後も再びニコニコ動画について取り上げるかも知れない。その時には、天秤が良いほうへ傾いていることを期待する。
フランスでは、JAPAN ExpoでAMV(海外ではMADをこう呼んでいる。Anime Music Videoの略称。MADよりいい呼び方だ)のコンテストが行われている。日本が規制で縛り付けているのに対して、フランスはそれが二次創作というより、独立した創作、あるいは芸術と見そうという考えがすでにできあがっている。
これが2008年の「Japan Expo 9ème Impact, Japan Expo Concours」のAMV International部門で世界ランキング1位を獲得した作品だ。
書きこぼし。
もう一つ、ニコニコ動画に作って欲しいものといえば? DVD/ブルーレイプレイヤーだ。そのプレイヤーでDVDを再生すると、自動的に作品を識別し、他のユーザーがその作品中で打ち込んだコメントが流れる、という仕組みだ。もちろん、自分も打ち込むことができて、他のユーザーに閲覧させることができる。こういうのがあれば、市販されたDVD作品でも、ニコニコ動画的な体験ができる。いまニコニコ動画で映画の配信も行っているが、プレイヤー自体を作ってしまうというのも一つの手だと思うが。
そういうの作ってくれないかな? ……ニコニコ動画にそんな技術があったかどうか知らんが。
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