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■2013/02/07 (Thu)
ソードアート・オンライン。
  それは果てなき空に浮かぶ鋼鉄の城。そこでは社会を構築する上での全てがあった。統率者がいて、街があって、文化と交易があり、街から出ると未開の森が文明の介入を阻んでいる。その森の深い所を突き進んでいけば、未知なる悪鬼が作り上げた醜悪なる建造物がひっそりと佇み、冒険者たちがやってくるのを声を潜めて待ち受けている……。
しかし、ソードアート・オンラインは現実ではない。コンピュータープログラムが見せかけたまやかしだ。あの空に浮かぶ城も、そこで見て触れて感じられるあらゆるものが全てウソ。虚空に浮かんでいるのは虚構である。
しかし、交わされるドラマだけはホンモノ――。



ファッション・ファンタジー

『ソードアート・オンライン』はリアルな世界ではない。あくまでもゲームプログラムの中という前提で作られている。つまり物語の中においても虚構である、と全ての登場人物が知っている上で話が進められている。またこの認識は視聴者や制作者の間にも同時に共有された事実である。
だから『ソードアート・オンライン』は、ファンタジーを描く上で必要なあらゆる考証を一切無視して構わない、という究極のご都合主義を生み出した。
あくまでもゲームの世界での話。だから現実世界ではあり得ないようなファッションやアイテムが登場してきても、平然と受け入れられるのだ。
ゲームに限らず、日本が制作したファンタジーにはろくなものがない。使い手の2倍はありそうな巨大な剣を平気で振り回し、防具として有用ではない巨大な肩当て、不用意に露出度の高い女性キャラクター。中世を舞台にしているのにかかわらず、主人公クラスのキャラクターは髭など1本も生えないどころか、髪の色を自由に染めて逆立てたりなど、あまりにも現代的なファッションを謳歌している。風景の描き方も良くない。作り手がちゃんと西欧に赴いて研究していないから、建築に文化を感じない、自然に風土を感じない、総じて言えばそこにあるべき文化や歴史の重さを一切感じない。同時にそこにあるべき“汚さ”も描いていない。単純に“中世風”といっても様々だし、当然その以前から連なる文化をそこに描き出せていなければ“描けている”とは言えない。「ファンタジーってこんな感じ?」という程度の認識で、何となく描いているからそうなる。ファンタジーを知らない人間がファンタジーらしきものを描いているだけに過ぎない。
ゲームの世界ではキャラクターの立ち絵1つ1つが宣伝イメージになるから余計誇張してありえないような衣装や風景が描かれてきたが、それが和製ファンタジーのデタラメさのタガを外し、デタラメを許す土壌を作ってしまった感じがある。
“本当のファンタジー”とは何か、と言われれば一つの学問である。きちんとファンタジーを描こうとしたら、文学的な才能の他に、考古学、民俗学、人類学の充分な知識とフィールドワークが必要になる。この研究的姿勢なしでファンタジーを描こうとしても、間が抜けた“なんちゃってファンタジー”にしかならないし、日本人が過去描いてきた全てのファンタジーは偽物だ。
『ソードアート・オンライン』もこの“なんちゃってファンタジー”の一つにすぎないわけだが、この作品の場合、“飽くまでもオンラインゲームの中の出来事”という前提の上で風景がデザインされている。ゲームの中に過ぎないのだから、“なんちゃって”でもいい、という正当化する理由を生み出したのだ。
『ソードアート・オンライン』の世界も、これまで日本人が積み重ねてきたデタラメファンタジーの系譜の一つだ。意匠にこだわりすぎの観賞用実用用の区別のないアイテム、実用性皆無の派手な衣装。女性の衣装は全体が真っ赤だったり、肩を剥き出しにしていたりと、ファッションにこだわり過ぎている感じがある。
風景の描き方も何となくファンタジーっぽい気分だけで描かれているから、質感がツルツルしているし、少し工夫ソードアート・オンライン批評 (3)して密度を増やそうとしているが、その描き方に文化の重さを感じない。地形に特徴がある世界観で、大きなロフトのようなステージに独立した街やフィールドが描かれているが、このロフトの世界はロングサイズで見た時だけに限られ、その中間部分にどんな道のりがあるのか、残念なことに最後まで描かれなかった(この途中過程の風景が描けていれば、そこだけでもこの作品特有の風景が生まれたのに)
しかし『ソードアート・オンライン』はあくまでもゲームの中でのお話だから、という前提がこのデタラメの全てを受け入れ、さらに和製ファンタジーのいい加減さの全てを受け入れ、超克した作品といえる。『ソードアート・オンライン』は和製ファンタジーの新しい次元に引き上げた作品だ。これからは時代考証云々よりも、よりイメージを優先したファンタジーが描かれるようになるだろうし、「ゲーム中です」という口実を作っていれば全部許される。
またこの作品は、世間的にもっとも喧しい批判である「現実と非現実の区別が~」といった言論をはじめて乗り越えた作品だった。
オンラインゲーム、虚構の世界でのお話に過ぎないが、キリトやアスナはその中で日々を積み重ね、感情を交わし、葛藤し成長した。このテーマについて、作品はあまり深く突っ込まなかったが、実際のゲームでも、虚構でありつつもその時間は決して無駄ではない。そこには間違いなく(作り手と受け手双方に、あるいはそこで交わされる友人との対話の中に)人間的な感情があるからだ。
さらに『ソードアート・オンライン』はゲーム中での死がそのまま現実の死に繋がる、という厳しいルールを設けている。第3話「赤鼻のトナカイ」でサチが死が怖いからゲームから逃げだそう、と言い出す。しかし現実でもそのルールは変わらない。ゲームの中であっても、そこで交わされる感情も、死も現実とさほどかわらないという事実を突きつけているのである。
もっとも、現実と虚構に関する議論についてほとんど追求されなかったが、この1点においても超克した作品であると言える。


コマーシャル・ドラマ

アニメーションとしては丁寧にキャラクターの表情を描いた作品と言えるが、ストーリーに目を向けると、お粗末というしかなかった。プロットは合理的とは言えず、アニメーターが丁寧に描き出したキャラクターの感情はひたすら空回りして、どこまで進んでも物語の中心点が見えず、不用意に脇道に逸れ続け、ある日突然何の前ぶりもなくクライマックスがやってくる、といった有様だった。合理性のないプロットの上にいくらうまい芝居を乗せても、感情はその上を滑っていくだけで力を込めれば込めるほど空々しいものになってしまう。

物語の冒頭、第1話と第2話にはそれなりにドラマの連結が感じられた。第1話において、突然ゲームの世界に閉じ込められ、脱出不可のデスゲームが始まったという経緯をなかなかの緊迫感のもとに描き出した。
第2話は第1層目のボス攻略が物語の中心となった。大人数でパーティを組み、ボス戦に挑む。その最中に犠牲者を出し、これが原因でコミュニティに対立が起きて、結果キリトが進んで悪役を演じるようになる……。この選択で、キリトは『ソードアート・オンライン』の世界でも異端の存在となってしまう。
この第1話第2話には物語の導入部として、その世界に何があるのか、どんな困難が待ち受けているのか、物語世界を知る上での必要なルールなどの解説を絡めながら、率直な人間の葛藤が描かれていた。
が、第3話に入って物語は突然飛躍する。
ソードアート・オンライン批評 (2)第3話「赤鼻のトナカイ」。キリトはわずか5人のギルド《月夜の黒猫団》と会い、一緒に冒険しようと誘われる。この時、キリトのレベルは40。前回、まだ第1層を彷徨っていたはずなのに、いきなり話は飛んでキリトはその物語内でも強豪プレイヤーに成長していた。この段階で、前回前々回との連続性がいきなり途切れてしまう。
話は進み、《月夜の黒猫団》はそれなりの財産を作り、そろそろ家を持とう、という話になる。リーダーがお金を持って第1層へ。その間、仲間たちはリーダー不在の間にもう一稼ぎしようと、迷宮に挑むのだが、なぜかここで彼らは「いつもより一つ上のレベルの迷宮」を目指したのだ。
この段階で、キリトはなぜ止めなかったのか。リーダー不在の間に迷宮へ挑む、という展開も不可解だが、さらにレベルの高い迷宮を選ぶという展開も不可解だ。お話の流れとしておかしい。
キリトは不穏な顔を浮かべるが、なぜか強力に止めようとしない。しかも彼らが選んだのは第27層の迷宮区だ。その手前の場面で、攻略組がやっと28層に到達した、という話をしていたから、現時点でほぼ最高レベルの難易度のダンジョンに入ったのだ。不自然極まりない。本来ならここで行くか、行かないか、といった議論が起きるはずだろうし、行ったものの不安になって逃げ出す、強すぎる敵にやはりかなわないと知る、といった展開も描かれるべきだっただろう。しかしそこにあるべき描写や感情的な流れがざっくり切り落とされ“場面”だけが描かれてしまった。
この次に、《月夜の黒猫団》が全滅するという悲劇が起きるのだが、何一つ感情的に訴えるもののない場面になってしまっていた。それぞれのキャラクターのドラマを描かなかったから、死ぬ場面だけ描かれても見ている側はどう感じていいかわからない。悲劇が何となく白々しいものになってしまっている。
この場合、どう描けばよかったのか。まずダンジョンに潜るか潜らないか、といった議論を描くべきだっただろう。その結果としてキリトが充分納得できる理由や状況があれば、視聴者はキリトと同じ感覚で《月夜の黒猫団》の判断を受け入れただろう。
次にトラップの場面。《月夜の黒猫団》全滅の悲劇がなぜ悲劇に見えなかったのか。それはあたかも用意された段取り通り自ら進んでトラップに引っ掛かったようにしか見えなかったからだ。一言率直に言うと、「わざとらしく」見えたから悲劇に感じなかったのだ。こういった場面の場合、「誰にも落ち度のない」ところを描かなければならない。誰にも落ち度はなかった、しかし結果として“思いがけず”トラップに引っ掛かってしまい、“理不尽な”悲劇が起きてしまった。無論のこと、これからどんな事件が起きるのか、見ている側に悟られてはいけない。視聴者がショックを受けるくらいがちょうどいい。

ソードアート・オンライン批評 (15)単純にドラマとしての流れを描くこと。そこに至るまでの物理的経緯をきっちり描き、キャラクターの感情を誰にもわかる描写でくっきりと描く。これは物語創作の基本だが、『ソードアート・オンライン』は全体においてこの基本が欠落していた。ただ、“場面”だけがあり、“感情”だけがそこに描かれていた。
クライマックスを描くための経緯を描かソードアート・オンライン批評 (16)なくてはならない。例えば、画面に走っている男の姿が映っているとしよう。ただ走っているだけでは、何のドラマを感じない。「がんばれ!」と思わない。ただ漠然と走っている男の映像だ。
が、その前段階に、今まさに処刑されようという友人がいて、その友人のために走っている、という経緯があればどうだろう? 走っている男性の映像を見て「がんばれ!」と食い入るように見るだろう。『ソードアート・オンライン』は、全体においてその“経緯”が全く描かれなかった。“場面”“感情”だけを描くのだったら、もう25分という尺すらもいらない。ただのコマーシャルだ。
第3話「赤鼻のトナカイ」は『魔法少女まどか☆マギカ』で例えると、(同じく)第3話での巴マミの死に相当するくらいの重要な場面であったはずだ。一人の少女の死が、キリトの心理に異常に突き刺さり、以後トラウマを抱えて生きていくことになる……。しかし全体を通してみても、そうはなっていなかった。作り手も、そういった意識なくこのエピソードにそこまでの重要度は与えなかった。
「この世界が生まれた意味、私みたいな弱虫がここに来ちゃった意味、そして君と私が出会った意味を見つけてください」
サチはキリトへこんなメッセージを残す。何かしら曰くがありそうな、もしかしてこれが作品の裏テーマではないのか、と色々推測したくなる台詞だが、この台詞にも伏線としての効果はなく、その他のヒロインたちと同じく、使い捨てられた台詞になってしまった。


インスタント・ヒロイン

それ以後の物語は、ゲーム攻略のお話というよりむしろヒロインとの交流が中止になる。全部で99層という壮大なフィールドを持つ舞台だが、そのどこで起きている物語か、などもはや誰も気にしていないし、気にしなくてもいいという状況になってしまった。ただヒロインが登場し、それなりの活躍を見せ、キリトはその介在者としてほんの少々の助力をするだけである。主人公としてのイニシアチブはない。キリトはもはやゲーム攻略に邁進する1人ではなく、客観的にはヒロイン攻略に腐心するだけの人間にしか見えなくなってしまった。

ソードアート・オンライン批評 (7)a第4話「黒の剣士」ではビーストテイマーであるシリカが登場する。使い魔であるピナが死に、蘇生のためにキリトが助力する。
第5話「圏内事件」第6話「幻の復讐者」ではヨルコが登場し、圏内で起きた不可解な殺人事件の謎解きに挑む。ここで血盟騎士団に加わり攻略組として邁進するアスナが登場する。
第7話「心の温度」ではリズベットが登場する。キリトが今以上に強力な武器を手に入れるために、雪山のドラゴンに挑む。結果として、キリトはうんこソードを入手する。
第8話「黒と白の剣舞」と第9話「青眼の悪魔」。ついにアスナ攻略。
第10話「紅の殺意」。アスナとの結婚が決まる。

4話以後の物語を俯瞰して見ると、『ソードアート・オンライン』はヒロインたちのお話というしかない。実際、「ヒロインについて」描かれたお話しかない。こうして見ると、第3話に登場したサチも、このヒロイン攻略の物語の1つのように見えてしまい、より重要度が希薄に思えてしまう。
しかもこのヒロインたちは、この後の展開に何ら貢献することはなく、完全な使い捨てヒロインであった。まさに、インスタントヒロインである。

ソードアート・オンライン批評 (17)長い物語にはどんな意義があるのか。もちろん、作家が最終的に描きたい一つの場面、あるいは感情を最高のものにするために長い物語はある。クライマックスのためである。たった1つのクライマックスをより感情的な1シーンにするために、“必要な経緯”として長い物語が描かれるのだ。(1ストーリー、1クライマックス)
ソードアート・オンライン批評 (18)第4話から第12話までのかなり長いエピソードはまったく無駄ではない。ヒロインの物語という形式を持ちながら、物語中のルールを順当に解説されていた。第4話では不正行為を犯すとカーソルが黄色に変わり、殺人者は赤に変わる。また第4話では「ピナの心」というアイテムが登場するが、これは第12話「ユイの心」に繋がってくる。
第5話ではデュエルについて。デュエルとは何か、から裏ルールまで解説される。
第9話では片手剣、両手剣がスキルという扱いであることを。
ソードアート・オンライン批評 (21)『ソードアート・オンライン』は飽くまでもゲームの世界であり、それなりに独特なゲームルールを持っている。物語と解説のバランスがよく、視聴者がどこかでそのいずれかを見失うことはなかった。
物語をクライマックスへ導くためには、その物語上にどんな約束事があるのかを知らなければならない。それぞれのキャラクターにどんな事情があるのか、どんな約束事があってキャラクターの限界が制限されているのか。そういった一つ一つを積み重ねた上にクライマックスが構築される。そのキャラクターが抱えている葛藤を知っているからその結末が盛り上がる。その世界にある約束事があり、それがキャラクターを縛り付けているから盛り上がる。キャラクターの背景を知ること、物語上の約束事を知ること、(あるいは知らせること)これがクライマックスを描く上で欠かせない重要なプロセスなのである。
が、これらの設定の数々も実はあまり重要ではなかった。では、『ソードアート・オンライン』という作品のクライマックスにおいて、唯一重要だった場面はどこなのか?


ソードマスター・キリト

ソードアート・オンライン批評 (4)ここである。
第10話「紅の殺意」。この最初の場面で、キリトとヒースクリフが対戦する。キリトは猛然と両手剣を繰り出し、ついにヒースクリフを圧倒する――が、不可解な現象が起きる。一瞬世界が止まったような感覚が襲いかかり、ヒースクリフの盾がキリトの剣の切っ先へと移動する。
これがヒースクリフ=茅場晶彦を決定づける唯一の証拠であり、クライマックスを描くため機能した唯一の場面である。
ソードアート・オンライン批評 (13)他の様々な設定や、多すぎるヒロインたちは、実はクライマックスを描く上でほとんど意味はなかったし効果もなかったし機能もしていない。しかもこのヒースクリフとの対戦という場面は、他の場面と比較するとあまりにも印象の弱い場面で、第14話「世界の終焉」で蒸し返されるが視聴者の殆どが「そんな場面あったっけ?」ときょとんとした印象だった。
ソードアート・オンライン批評 (14)それに、キリトがなぜヒースクリフ=茅場晶彦という結論に達したのか、思考の経路が見えてこない。といより思考の経緯がまったくなく、唐突にそう思ったから、で全て片付けられてしまった。それまで様々な設定やエピソードがあったわけだが、ヒースクリフ=茅場晶彦説を裏付ける有機的なファクターが一つもなかった。推理小説で例えると、主人公である探偵が、突然根拠もなく「犯人はこの人だ」、と思ったから事件解決、という感じである。
ということは、キリトがヒースクリフ=茅場晶彦と気付くのは、あの場面でなくてもよかったのだ。もっと早くでもいいし、遅くでもよかった。しかし早かろうが遅かろうが、真相が明かされた時の唐突感は変わらなかっただろう。これまで積み上げてきたどんな設定も、ヒロインたちも、このクライマックスを描くために何一つ貢献してこなかったのだから。どんなタイミングであったとしても、唐突感は変わらず、「あたかも打ち切り作品のようだ」というイメージは変わらなかっただろう。
もしも、それまでに積み上げた設定やヒロインたちの証言が、ヒースクリフ=茅場晶彦というたった1つの事実を浮かび上がらせるためのヒントとして機能していて、ヒースクリフの正体がまさにあのタイミングでしかなかった、となれば作品への印象はがらりと変わっただろう。しかし作品の作り手は、明らかにそのように作らなかった。物語創作の基本を知らなかったからだ。物語のクライマックスが何でどのタイミングで発生するのか、もっと言えばこの原作を通じて自分たちが何を描きたいのか、これを見定めずに現場だけを進行させてしまったから、結末にエモーショナルな躍動を感じることができず、漠然とした印象のまま終わってしまったのだ。

『ソードアート・オンライン』の作り手は、結末だけではなく全体において、“経緯”を描くことに無頓着だった。
ソードアート・オンライン批評 (8)b第5話「圏内事件」の冒頭、あの頃からすっかり様変わりしたアスナが再登場し、大胆極まりない作戦を提案しているが、この詳細について描かれることはなかった。視聴者はアスナがどれだけの力量を持ち、人を動かす能力を持っているか知るチャンスを失った。後に血盟騎士団が組織として動脈硬化を始めている、と語られるが、それがどのようなものなのか、具体的な内容を知ることができなかった。
第6話「幻の復讐者」は前回から続く「圏内事件」の解決篇で、推理ものらしくグリムロックが理由を語るが、アスナのたった一言で論破されてしまう。それまでの感情的な経緯が描かれていないから、なぜアスナの一言がグリムロックが脳内で考え出したロジックの隙になったのかわからない。
第9話「青眼の悪魔」では唐突に「なぜ片手剣なのか」という話題を始める。もっと早くから片手剣というものがスキルであることを語っておくべきだ。これだと両手剣スキルを披露するために無理やり話題をそこに持って行った、という印象しかない。
第10話「紅の殺意」ではアスナの護衛だったクラディールが実は殺人集団ラフィン・コフィンのソードアート・オンライン批評 (11)bメンバーであることが明らかになるが、話の進め方が強引だ。一応伏線として、第8話にラフィン・コフィンのメンバーが登場するのだが、あの一場面では意味がわからないし、伏線として機能していない。伏線のつもり、でしかない。キリトとアスナの恋愛を成立するために、無理やり「そういう設定にした」という印象でしかない。
第12話「ユイの心」ではユイがソードアート・オンラインを構築するプログラム、カーディナルの一部であることが明らかにされるが、やはり唐突だ。なぜ突然に覚醒したのか、ここでもやはり“経緯”が描かれていない。キリトでも勝てない強敵が現れ、さらに強い力を持ったユイがこの強敵を倒すのだが、話の流れが中学生の考えたバトルものみたいだ。話がご都合主義にしか見えなくなっている。
第13話「奈落の淵」ではニシダというキャラクターが登場する。東都高速線の保安部長を務め、ソードアート・オンラインのセキュリティを担当していた。恐らく、このキャラクターと登場エピソードが『ソードアート・オンライン』全体を通してみても問題ありだった。何せ、登場した意味がない。最初の方なら消費エピソードも許されるが、物語は後半の後半、間もなくクライマックス手前という場面である。このタイミングでゲームのセキュリティ担当者が登場するのだから、かなり大きな意味がある伏線かと思って見るのだが、ニシダはこの場面だけの登場人物で、セキュリティ担当者としてゲームのシステムに言及することもなく、茅場晶彦について語ることもなく、何事もなかったかのように目立つだけ目立って物語から退場した。ニシダを登場させた理由を聞きたい。

以上のように『ソードアート・オンライン』には作り手側にあまりにも落ち度がある。なぜこうなったのか、理由を問うまでもなく物語の語り手がいなかったからだろう。ストーリーテラーの不在だ。
ゲームがプログラムの専門家だけ集めれば良い作品ができるわけがないのと同じように、アニメも絵の巧い人間だけを集めれば良い作品ができるわけではない。『ソードアート・オンライン』には物語創作のプロフェッショナルが不在だった。
知識もない、技術もない、経験もない、さらには才能もない、そういう人間がいかに力一杯の情熱を振り回しても、それが的を当てることなく無駄に空転するだけだ。結果なんて出せるはずもない。力一杯手を振りかざしてもそのぶん無駄に消耗するだけ。情熱の炎をどれだけ熱く燃やしても、発電するほどタービンを回すことはない――才能と経験という歯車が間に一つ抜けているからだ。


ストーリーテラーの不在

ソードアート・オンライン批評 (19)『ソードアート・オンライン』はアニメーションとしてみると、全体を通して高い品質を維持した作品であると言える。キャラクターデザインもいい。キャラクターの人気は非常に高く、キャラクターの人気=作品の人気といえるくらいだ。衣装デザインはどれも美しく、虚構の世界に過ぎないから、と思い切ったデザインであった。
ソードアート・オンライン批評 (20)際だって素晴らしかったのは声優の演技だ。キリト役の松岡禎丞、アスナ役の戸松遥の情熱的な掛け合いは引き込まれるところが多く、『ソードアート・オンライン』を実際よりも確実に見栄えのいいものにしている。
だがこのアニメーターによる美しい描写や、声優の素晴らしい演技を支え、方向付けしていくための思考が完全に欠落していた。全体をマネジメントする才能の欠落というか。ある種、総監督の存在しないアニメ、いや総監督としての発想が欠落していたアニメだったと言えるだろう。現場だけがあったアニメ、だった。
もちろんのこと、ストーリーテラーの不在は『ソードアート・オンライン』に限った問題ではない。業界全体が、ストーリーテラーに対する理解が低く、物語の作り方についてないがしろにしてきた。
近い将来、アニメ業界は現場だけで制作する発想だけでは限界にぶち当たるだろう。まずユーザーが飽きる。美少女キャラのパンチラだけでいつまでも興味を引けると思ったら大間違いだ。制作費をもらって現場を押し進めるだけでは間もなく壁にぶち当たって、この躓きがうっかりすると業界を崩壊するかも知れない。
アニメをもっとエモーショナルな文化にするためにも、ストーリーテラーの不在を自覚し、才能の発掘と育成について考えるべきだろう。





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