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■2012/10/16 (Tue)
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この記事は、ツイッターに投稿されたツイートをまとめた記事です。
ネタバレあります。
劇場版『魔法少女まどか☆マギカ《前編》 始まりの物語』
ネタバレあります。
劇場版『魔法少女まどか☆マギカ《前編》 始まりの物語』
『魔法少女まどか☆マギカ』が初めて我々の前に姿を見せたのは2011年4月の春である。
その作品は一見すると日曜日の朝に放送しているような明るい変身少女を描いたアニメ。しかし何かが違う、何かがおかしい。そんな予兆をどこかに孕みつつも、当初はあまり話題にされることもなく、その時期に始まる多くのアニメとともに埋もれてしまっていた。
この作品の評価が一変したのは、間違いなく第3話。巴マミの死亡。この瞬間、我々はこの魔法少女を主人公にしたアニメは今までに知られてきた、定石として語られてきたアニメと違う、と気付いたのだ。“定石を踏襲しつつ、定石を徹底的に破壊したアニメ”。ある種の革命がこのアニメの中では描かれてきた。
その後の話はここで記すまでもない。『魔法少女まどか☆マギカ』は従来のアニメ層をはるかに飛躍した支持を獲得し、『文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞』『星雲賞』『アニメーション神戸作品賞』『ニュータイプアワード』その他数え切れない栄冠を手にし、その評判は国内にとどまらず世界へと広がっていき大絶賛の嵐は今現在も止む気配はない。
そして2012年10月6日――あれから1年の時を経て、劇場版が完成した。
“劇場版”である『魔法少女まどか☆マギカ』は3つに分割されて劇場公開されることとなった。その《前編》《後編》はテレビシリーズを原作とする総集編である。
《前編》は物語の導入から、少女達が底なしに転落していく様が描かれる。ストーリーはテレビシリーズとほぼ同じ内容が踏襲される。構図や作画に目立った変化はない。劇場向けに線が修正されたかもしれないが、比較しないとわからないレベルだ。新規カットは編集のリズムが変わったので、その必要に応じて追加された、といった感じだ。
線が修正されなければならない理由は、劇場アニメが大きなスクリーンで投射されるからだ。テレビシリーズだと、テレビのサイズだけを意識すればいい。家庭用テレビはさほど大きくもなく画面の精度もさほど高くないから、ある程度の妥協が許される。しかし同じ素材を劇場に持ってくると、途端に“粗”が目に付いてしまう。線のはみ出しや抜け、クリンナップのムラ。劇場アニメを描く場合、これらに気を遣ってより丁寧な作業が求められる。
(もっとも、最近のテレビは大型化し密度も高く、しかもブルーレイのような再現度の高いメディアも登場しているので、テレビでも劇場クラスの配慮をしなければならなくなっている)
劇場版《前編》はテレビシリーズを1話~8話をまとめた内容で、130分である。およそ1本分の尺が減っている。話の進みはテレビシリーズより性急に、濃厚に描かれる。話の進行をスムーズに行うために、台詞のやりとりなどが変更され、新規カットはその接ぎ穂として必要なぶんだけ描き足されている。
第2話はさっと流すように、必要な要素である“魔女のキッス”という設定とバトルシーンが描かれ、第3話の巴マミが死ぬまでの時間はかなり短くなっている。時間の確認はしていないが、30分から40分といったところ。普通の娯楽映画としてみると、物語の転換はかなり早いほうの部類になる。
決定的に変わったのは背景画と音楽だろう。背景画はほぼ全てのカットに対して変更、グレードアップが求められている。作画の変更は、この背景に合わせて行われている、といった感じだろう。
例えば冒頭の登校シーン、はしゃぐ鹿目まどか、美樹さやかを志築仁実が咳払いして諫める……ここでテレビシリーズでは場面がいきなり変わり、学校の前が描かれていたが、劇場版ではカメラが反転して公園の向こう側が描かれるだけになっている。
ファーストフードの店も設定が変更されたために作画はほぼ全て新しく描き直されている。台詞の間は切り詰められ、“敢えて描かれた無駄話”も切り落とされ、ここでも展開が性急になった。
教室の場面も背景が変更され、ガラス張りだった教室は枠となるフレームが描き足されている。
頻繁に登場する屋上の場面は、どこかのゴシック建築のような風景となり、周囲を尖塔が取り囲む重厚な場面に変わっている。ここは心理的な独白を語る重要な場面と見直されたためだろう、(学校という設定や、他の場面とのデザイン的な整合性を無視し)そういった場面に相応しい重厚さがこの場面に与えられた。
音楽、音響演出は注目すべきポイントである。音楽はテレビシリーズをオリジナルとしているが、そのまま使用されている楽曲はおそらく少ない。BGMがかけられるタイミングもかなり変更され、テレビ版と違う趣を持った心理描写、アクションはよりグレードが上がっている。もっとも注目すべき楽曲は巴マミが死亡する寸前にかかるKalafinaの歌唱曲、マミさんのテーマで知られる『Credens justitiam』に歌詞が付け加えたバージョンで、死亡寸前の明るい感情がより強調的になった。
後半に掛けて、美樹さやかの魔法少女コスチュームの設定に変更が加えられたために、そのぶん作画修正も多くなっている。ソウルジェムの秘密が明かされる場面の流れに変更が加えられ、ここにテレビシリーズとの注目すべき違いが現れている。またソウルジェムを投げ捨てる場面、家を飛び出してきた鹿目まどかが私服を着ている設定に変わっている。おそらく初めての私服姿ではないだろうか。
佐倉京子が常に口にしているお菓子だが、多くの場面で変更が加えられている。テレビシリーズと同じものを食べている場面は僅少だ。
《前編》の上映時間は130分。計算すると1本分削られているわけだが、ほぼ全てのエピソードが余すところなく詰め込まれている。ドラマを描くための必要な情報は極めて多く、場面転換の数が多いために、いささか性急気味、余白や余韻の少ない作品になっている。
通常の娯楽映画の場合、大きな場面変換は20分~30分であるが、《前編》の場面転換はおそらくそれよりはるかに早く、エピソードの量も多い。その分、転落していく少女達の姿が“矢継ぎ早”といった勢いで描かれ、観客をどろっとした暗部のあるドラマに飲み込まれていくような作品となっている。
もはやお約束だが新規カットにいくつかのミスが発見される。
まどかのノート、クローズアップでは鉛筆画なのに、ロングサイズになると色付きになる。
巴マミの髪飾りから巻き巻きに繋がる髪の毛が消失する。
病院の屋上で演奏する上条の場面の最後、1コマだけ目蓋が消失する。髪の毛の線など頻繁に消失している部分はあるが、目蓋という目立つ部分で、しかも劇場スクリーンとなるとこのミスはひどく目に付く。
また上条が音楽を聴いている場面、イヤホンの先にあるはずのCDプレイヤーが消失している。
他にもあると思われるが、私が確認できたのはここまでだ。DVD/ブルーレイで修正されるだろう。
10月9日のツイッターより
劇場版『魔法少女まどか☆マギカ 《後編》永遠の物語』
《前編》が濃縮還元、性急気味・詰め込み気味だったのに対して、《後編》の物語はかなりの余裕を持って登場人物の感情が丁寧に描かれ、クライマックスへの導線がしっかり描かれている。
テレビシリーズにはなかった場面や台詞が多い。美樹さやかが魔女に変貌する場面から始まるが、戦闘はより激しくなり、アクションの段取りは細かく、佐倉京子の心象を示す台詞が追加され、より感情移入しやすい展開になっている。
暁美ほむらの過去が明かされるシーン。テレビシリーズでは新しいエピソードを区切りにして描けたが、一貫した流れを持っている劇場映画では接ぎ穂となる部分に多くの追加カットが足された。不吉な夕日をバックにした墓場のシーン、それから時間が遡っていく描写。それから暁美ほむらの過去へと物語は移っていく。
《後編》は全体を通して作画の変更が多く、暁美ほむらの過去の場面にもいくつか変更があるが(ドラム缶を叩く直前の暁美ほむらや、ほむらが鹿目まどかを撃つ場面でまどかが手を伸ばすカット、それからまどかの体内から魔女が発生する場面など)、音声素材だけはテレビ版のものがそのまま使用されている。劇場版は、テレビシリーズと違う時間軸を想定して作られているが、暁美ほむらの過去の場面だけは“動かざる事実”として扱われているために、そのままの演技が使用されている(ただし「ウィヒヒ」はカットされている)。
暁美ほむらの過去エピソードの終わりに、テレビ版のオープニングが使用されている。テレビ版では失敗ばかりしている魔法少女まどかが描かれている場面が(テレビ版で“詐欺”と呼ばれたシーン。劇場版ではすでにそんな場面などないとわかっているので相応しくなかったのだろう)、劇場版では暁美ほむらに描き直されている。一つの映画の中に2度もオープニングが入る構成は通常の劇場映画の定石から外れるが、この作品においてはなくてはならない要素の一つであり、テレビ版オープニングの歌詞が暁美ほむらの心象を現しているために、より重要である。(映画を作っているのではなく『魔法少女まどか☆マギカ』を作っているから、こうなったのだろう)
音響演出は全て作り直されているが、目立った違いはやはり鹿目まどかが魔法少女になる決意を固めた場面だろう。テレビシリーズでは、鹿目まどかの微笑みをラストシーンとして次エピソードへ移ったが、劇場版ではやはり一貫したエピソードとして描くために、音楽の流れに切れ目をなしにして1つのシーンとして描かれていた。
もう一つの変更として注目すべきは、鹿目まどかが女神となった後の場面。DVD・ブルーレイでは肌色の裸が描かれていたが、劇場版では劇団犬カレーによるナイスフォローが描かれている。
劇場版の《後編》は鹿目まどかと暁美ほむらの二つの分離されていたエピソードが1本に束ねられた構成になり、鹿目まどかと暁美ほむらの感情はより接近して交差するように描かれている。
上映時間は109分。テレビシリーズをそのまま繋いだ物よりも少し長くなっている。削り取られた場面がなく、さらに登場人物の心理描写が補強されたからだ。それに作画はより美しく刷新され、『魔法少女まどか☆マギカ』の決定版であり完全版として制作され、またそう見るべき作品となっている。鹿目まどかは物語の最後にアニメ史上最も美しい輝きを持つ女神へと変化するが、この作品もまた同等の輝きを持った不滅の名作として語り継がれていくだろう。
◇
さて、《前編》《後編》の物語は終わったが、『魔法少女まどか☆マギカ』というサーガはここで終わりではない。これから本当の結末である第3部へ、新たな物語へと進んでいく。
ここで私個人的に制作側にお願いしたいことがある。可能な限り情報は出して欲しくない。『魔法少女まどか☆マギカ』がセンセーションな作品であったのは、“誰も何が起きるかわからない”からだった。
テレビシリーズが始まった当初、公式サイトには大雑把な粗筋しか書いておらず、どんなストーリーなのか想像する余地すらなかった。この段階で佐倉京子に関する情報はばっさり切り落とされていた。
テレビシリーズの第1話2話には脚本家の虚淵玄の名前すら書かれていなかった(DVD・ブルーレイでは書かれている)。虚淵玄の名前は、その筋の人にはそこそこに有名で、この名前を出すと知っている人にはある程度物語の予測ができてしまうためだ。
“何が起きるかわからない”は制作の現場でも徹底された。アニメーターは絵コンテをもらって初めて続きの話を知る、出演者も台本をもらって初めて続きの話を知る、と現場レベルでも秘密主義が貫かれていた(出演者が台本をもらうのは、いつも収録の前日。それまで誰からも続きを教えてもらえなかったそうだ)。
“この話どうなるんだ? この子達はどうなってしまうんだ?”『魔法少女まどか☆マギカ』に関わった全員が先の読めない物語の中に放り込まれ(制作スタッフも同じ立場に放り込まれていた)、意見を言いあったり予想したりと、そういった盛り上がりがあり、その盛り上がりを(主にネットを通じて)共有できたからこそここまでの大きな話題を持った作品になり得たのだ。
早く続きを知りたくて皆がテレビに釘付けになった。もう何年も前にテレビがなくしていた一体感であり、『魔法少女まどか☆マギカ』はそれを取り戻した作品だった。
映画も同じようであって欲しい。可能な限り情報は公開しないで、いきなり観客を劇場の中へ、物語の中へ放り込んで欲しい。『魔法少女まどか☆マギカ』という作品はもう充分に人々に知れ渡っているだろう。だったら余計な情報はもう必要ない。
それからもう一つ。《前編》《後編》は43館という規模で封切られたが、明らかに数が少ない。私が行った(県内唯一の)映画館では人があまりも多すぎで、最初の2日間は予約で全席埋まっており、映画館へ行っても劇場へ入れない状況だった(実際に《後編》は朝10時に全回予約で埋まった)。私は《前編》を3日目に観に行ったのだが、パンフレットはすでに売り切れだった。グッズ類もあらかた売り切れで何も手に入らなかった。
《前編》《後編》はテレビシリーズの総集編である。これは当初から宣伝されていたことであり、だからあえてこの2本をスルーしたという人も多いだろう。しかし第3部を観たい、という人は多いはずだ。《前編》と《後編》とは明らかに違う勢いで人が来ると予想される。《前編》と《後編》と同じ規模で劇場公開などをしたら、暴動が起きるだろう。何時間も劇場前に並んでいるのに映画が観られない、なんて状況があり得る。
これは制作サイドの見込み違いがあったのだろう。『魔法少女まどか☆マギカ』は多くの賞を得て評判になったものの観る人が限定される深夜アニメだ。しかも《前編》《後編》はテレビシリーズの総集編だ。そこまで人が来るなんて、予想しなかったのだろうし、誰も予想しないほどに作品が広がっていたのだ。
だから第3部は劇場館数を増やすべきだ。作り手にとってこれは儲けるチャンスだ。この機会を逃す手はないだろう。
10月15日のツイッターより
つづき
劇場版魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語
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