■ 最新記事
(08/15)
(08/14)
(08/13)
(08/12)
(08/11)
(08/10)
(08/09)
(08/08)
(08/07)
(08/06)
■ カテゴリー
お探し記事は【記事一覧 索引】が便利です。
■2013/08/23 (Fri)
ツイッターまとめ■
面白い作品に理由があるように、面白くない作品にも相応の理由がある。
しかしあえて問おう。なぜ面白くないのか。「そんなのわかりきっているだろう。面白くないからだ」と多くの人が答えると思うが、それは答えているとは言えない。また面白くない理由を理解しているともいえない。
それでは「面白くない作品について考える必要は?」という問いにどう答えるのか。それは自分が同じ失敗を犯さないためだ。「駄作が犯しているような失敗を自分もするわけないだろう」と多くの人が信じている……自分というものの才能を疑っていない。しかし残念ながら、「こんな失敗誰が犯すんだ?」というような失敗を、ほとんどの作家が犯すのだ。
だからこそ、失敗作から学ぶ必要がある。失敗作を見るのは、考える機会になるから見る必要があるのだ。私が時折「失敗作を見よ」と言っているのはそういう理由からである。
しかし傑作と駄作の差異には何が置かれているのか? という問いに対して、視覚的ロジック的に開示してみせることは(考えの足りない)私にはまだできない。
しかし考え方の基準になりそうなものが一つある。
エンターテインメントとは何か?
そう問われた時、私は“ピンチ”だと答える。
主人公の前にどのようなピンチを設置するか。そしてこのピンチをいかにくぐり抜けるか。
だいたいここを上手く書けるかどうかで、傑作駄作の差が生まれているように思える。
よく挙げられる例が、
「主人公はトイレに行きたい。かなりヤバイ。しかしどこのトイレも使用不能だ。さあどうする?」
ここで、“誰も思いつかないような鮮やかな解決法”を示すことができれば、その作品は傑作だと賞賛されるだろう。
いっそ、ピンチという状況だけを提示して、読者にどうやって切り抜けるか考えよ、というコンテストをやってみるのも面白いかも知れない。誰も思いつけない回答をして見せた者が優勝だ。
創作を教えている学校で、生徒にピンチだけ提示して、「解いてみせろ」という課題をやってみるのもいいかも知れない(経験的に意義があるかどうかは不明だけど)。
黒澤明監督の映画『隠し砦の三悪人』はまさにこの方法で作り出されていた。
山名家との戦に敗れた秋月家。秋月家の雪姫は山名家の手から逃れ、とある場所に隠れ住んでいた。雪姫は、秋月家復興のため、隠し持っている大量の黄金とともに友好国早川領へ行かねばならない。しかしその途上の関所には山名家ががっちり監視している。
さあ、どうする?
誰も思いつかない方法を、あるいはいかに面白く切り抜けられるか、その方法を巡り、脚本家たちは毎日ひたすら議論したそうだ。
では面白くない作品がなぜ面白くないのか。それは、ピンチの切り抜け方に問題があるから、と考える。
①ピンチの切り抜け方がおかしい。
そのピンチの切り抜け方がおかしい、道理に合わない、ご都合主義的だ、あまりにも飛躍させすぎだ、総じて腑に落ちない……。こう思われると、その作品は駄作扱いされる。
②主人公の選択が正しいと思えない。
読者の目線で「どうして主人公がここで○○○をしないんだ?」と思われてはいけない。主人公の行動が間抜けに見えてはならない。やはり主人公の行動や選択が腑に落ちるようにしなければならない。
主人公の行動は常に利口で、正しく、読者の想定を必ず“少し”上を進んでいる状態が望ましい。間抜けに見える主人公は、ギャグキャラクターでない限り感情移入しづらい(いや、ギャグキャラクターでも行動がありきたりに感じられるとつまらないだろう)。
③そもそも、はじめに設定したピンチ自体おかしい場合。
そのピンチはおかしい。切実さが伝わらない。状況がいまいち理解できない……。また読者の目線で「何だその程度か」と思われてはならない。そういう場合は、「そもそもピンチの設定がおかしい」から練り直す必要がある。
以上に挙げた3つの他にも、まだ考えられるポイントがある。ピンチと主人公との関係性についてだ。
①そのピンチを解くのが主人公でなければならない理由。
目の前に提示されたピンチ! ……でも別に主人公じゃなくても、別の誰かが解けばいいんじゃない? となったら主人公がそもそもの間違いだ、とうことになる。主人公が解かねばならない理由を常に提示し、状況が主人公を強制しなければならない。
「そんな間抜けな過ち、誰が犯すんだ」と思われるかも知れないが、この失敗を犯す作家は非常に多い。ほとんどの推理物は「別にアンタが解かなくても警察に任せればいいよ」と言ってしまうことができるのである。
主人公がそのピンチと向き合わねばならない問答無用の理由が必要なのだ。
それからもう一つ挙げるべきポイントは、
②そのピンチを解くことが、主人公の葛藤と関連しているのが望ましい。
これは「絶対にそうではなければならない」というほどの重要度はないが、やはりそうであったほうが望ましい。
例えば、主人公が何かしらの心の傷を負っている。そこに提示されたピンチ。これが主人公の過去に体験した事件と関連を持ち、トラウマと向き合う結果となり、解決が主人公の回復や解放に繋がる……というプロットができたとしたら、それは「ピンチを鮮やかに切り抜けてスッキリする」という以上に、感動のポイントにすらなる。
要するに、提示したピンチと主人公の間に強い関係を持っていること。これは、物語全体に対する主人公の重要度に関わってくる。もしもこの重要度を主人公より脇役などのほうが持っているとしたら、主人公を練り直したほうがいいだろう。
もう一つの創作のヒントとして、ミステリの論法を利用する、というものがある。
ピンチの性質を説明する過程で、同時に切り抜けるためのヒントも提示するべきである。
ミステリには作者と読者の間に公正性を保つ必要があるために、回答篇までに問題を解くヒントを全て整えておかねばならない、というルールがある。
これはミステリ以外のエンターテインメントを描く場合においても同じだ。もしも、はじめに提示されていないやり方で解決法を示したとしても、例え正しい答えであったとしても「それはなんか狡い。スッキリしない」という悪印象を持たれてしまう。
また当然であるが、ピンチを提示する過程で、答えを悟られてはいけない。
以上に挙げたポイントを押さえれば、駄作になることはほとんどないと思われるが、それでも傑作と呼ばれる間にはまだ何かありそうな感じがする。それは恐らく、次のようなポイントではあるまいか。
①誰にでも了解できること。感覚が伝わること。
提示するピンチが誰にでも了解できること。ピンチの内容が簡単であればいい、というのとは意味が違う。いったいどのようなピンチなのか、誰にでもわかるようにきちんと伝えること。伝える能力が試される部分だ。これが伝わらないと、主人公がどこに向かっているのかも伝わらなくなるので重要だ。
②でかいほうがいい。
大風呂敷を広げよ。そのピンチがどんな事態を引き起こしてしまうのか。国家が大パニックとか、世界の終焉とか、それくらい馬鹿げた大風呂敷の方が面白い。そういった国家の危機とか世界の終焉とか、そういうピンチをリアルに感じさせるように描くことができれば、面白いはずだ。
しかし一方で、国家の危機や世界の終焉クラスのピンチにリアリティが感じられなければ、その作品は即座にコメディになる。大風呂敷を広げる時には、相応の状況作りに注意を払うべき。
ピンチはでかいほうがいいが、でかくなればそのぶんリアリティを出すのが難しくなる。「国家の危機!」といってもなかなかピンと来ないが、それでも腑に落ちるようなリアリティが描ければそれでいい(特に国家観がぶっ壊れた日本人はこういう話はなかなか書けないと思う)。
国家の危機とか世界の終焉とかそういうレベルではなくても、主人公にとってそれと同じくらいの“切実さ”があればいい感じになる。“主人公にとっての切実さ”というのは、家を失うとか、恋人が死ぬとか、あるいは自分が死ぬとか、そういうもののことだ。むしろそういうお話にした方が“切実さ”はダイレクトに伝わる。
③個性的であれ
ピンチの中身は、今まで誰も思いつかなかったような内容であった方が面白い。誰にでも思いつくようなピンチは、つまり手垢のつきまくったものだから、いくら面白い解決法を提示したとしても、題材という時点で誰も見向きもしてくれない。個性的なピンチであれば、解き方にも個性が出てくるかも知れない。題材にこだわれ。
④絶体絶命
「こんなピンチを乗り越えるなんて絶対不可能だ! もうどうしようもない!」と思わせること。「もうダメだ!!」と一瞬思わせ、そこからの離脱を示してみせる。強烈なピンチは、相応の緊張感に繋がる。そこから見事に、鮮やかに脱出をしてみせる。これこそ、エンターテインメントの醍醐味だろう。
作者は、主人公をピンチで追い詰めていくと同時に、読者・観客を追い詰めていかねばならない。まずピンチの内容をわかりやすく伝えること。そのピンチが回避できないと、途方もなくヤバイ結末に繋がることを伝えること。そうすれば次第に物語の主人公と読者・観客は主人公と同じ目線で追いかけていくようになる。読者・観客は主人公と同じように汗を掻き、ハラハラしながら状況を追いかけていくのだ。そこまで読者・観客の気分を物語の中に吸い込ませることができれば、その作品は間違いなく傑作だろう。
とどのつまり、優れたエンターテインメントとは「脱出劇」なのである。一見すると四方八方手詰まりの状況。もうどうにもならない……。そんな状況からマジックのように優れた脱出を披露してみせる。その瞬間、エンターテインメントは驚きと喝采を挙げるのだ。
最近では『魔法少女まどか☆マギカ』が素晴らしい「脱出劇」の例だった。「こんな複雑なロジックを解決させるのは絶対に不可能だ! バットエンドしかあり得ない!」とみんなに思わせ、みんな最終回が来るまでにさんざん予想合戦したのに、それを上回る回答をしてみせた。しかも、その答えが驚くほどシンプルで、納得のできるものだった。これを提示できたからこそ、『魔法少女まどか☆マギカ』は異議無しで傑作と認定されたのだ。
駄作が駄作であるには相応の理由があるからで、これを回避する方法をこうやって挙げたが……正直なところ、不充分という気がする。
「それは違う」と言う人は多いと思うし、プロの作家がここまでに書いたことを読んだら鼻で笑うかも知れない。
少し考えてみても、上の理論が通用するのはごく一部の娯楽作品のみで、恋愛ものギャグものホラーもの純文学などではまったく通用しないことがわかる。
(どういうわけか、ホラーのキャラクターはピンチを切り抜けようと努力しない。幽霊や殺人鬼が作り出した状況に無抵抗に振り回され、次々と人が死んでしまい、主人公も特に主人公としての活躍を見せることなく、あっさりと死んでしまう。ホラーもピンチを切り抜けて脱出すれば、エンターテインメントとしてより面白くなると思うのだけど……)
それとは別に、自分で書いていて“何か”が不充分だという気がしてならない。その“何か”の正体は、いまわかる範囲で書くと「人間の描き方について何も提示していない」というのと「個々の状況の描き方について何も提示していない」という2つだけだ。確かにこの2つを押さえないと、いくらうまいピンチを描いてみせても、それはロジックを整えただけで心情的に迫ってくるものになるかといえば、多分ならないだろう。とにかく不充分なのだ。決定的に何が足りないかといえば、「どうやったらキャラクターに感情移入できるか」あるいは「どうやったらキャラクターが魅力的に見えるか」という問題だ。この問題について、私は何も答えていない。
しかし私としても、この2つの問題について、まだきちんと整えて説明することはできない。それはまた別の機会になりそうだ。
元になっているツイートまとめ→傑作と駄作の狭間にあるものは? エンターテインメントとはピンチである。
しかしあえて問おう。なぜ面白くないのか。「そんなのわかりきっているだろう。面白くないからだ」と多くの人が答えると思うが、それは答えているとは言えない。また面白くない理由を理解しているともいえない。
それでは「面白くない作品について考える必要は?」という問いにどう答えるのか。それは自分が同じ失敗を犯さないためだ。「駄作が犯しているような失敗を自分もするわけないだろう」と多くの人が信じている……自分というものの才能を疑っていない。しかし残念ながら、「こんな失敗誰が犯すんだ?」というような失敗を、ほとんどの作家が犯すのだ。
だからこそ、失敗作から学ぶ必要がある。失敗作を見るのは、考える機会になるから見る必要があるのだ。私が時折「失敗作を見よ」と言っているのはそういう理由からである。
しかし傑作と駄作の差異には何が置かれているのか? という問いに対して、視覚的ロジック的に開示してみせることは(考えの足りない)私にはまだできない。
しかし考え方の基準になりそうなものが一つある。
エンターテインメントとは何か?
そう問われた時、私は“ピンチ”だと答える。
主人公の前にどのようなピンチを設置するか。そしてこのピンチをいかにくぐり抜けるか。
だいたいここを上手く書けるかどうかで、傑作駄作の差が生まれているように思える。
よく挙げられる例が、
「主人公はトイレに行きたい。かなりヤバイ。しかしどこのトイレも使用不能だ。さあどうする?」
ここで、“誰も思いつかないような鮮やかな解決法”を示すことができれば、その作品は傑作だと賞賛されるだろう。
いっそ、ピンチという状況だけを提示して、読者にどうやって切り抜けるか考えよ、というコンテストをやってみるのも面白いかも知れない。誰も思いつけない回答をして見せた者が優勝だ。
創作を教えている学校で、生徒にピンチだけ提示して、「解いてみせろ」という課題をやってみるのもいいかも知れない(経験的に意義があるかどうかは不明だけど)。
黒澤明監督の映画『隠し砦の三悪人』はまさにこの方法で作り出されていた。
山名家との戦に敗れた秋月家。秋月家の雪姫は山名家の手から逃れ、とある場所に隠れ住んでいた。雪姫は、秋月家復興のため、隠し持っている大量の黄金とともに友好国早川領へ行かねばならない。しかしその途上の関所には山名家ががっちり監視している。
さあ、どうする?
誰も思いつかない方法を、あるいはいかに面白く切り抜けられるか、その方法を巡り、脚本家たちは毎日ひたすら議論したそうだ。
では面白くない作品がなぜ面白くないのか。それは、ピンチの切り抜け方に問題があるから、と考える。
①ピンチの切り抜け方がおかしい。
そのピンチの切り抜け方がおかしい、道理に合わない、ご都合主義的だ、あまりにも飛躍させすぎだ、総じて腑に落ちない……。こう思われると、その作品は駄作扱いされる。
②主人公の選択が正しいと思えない。
読者の目線で「どうして主人公がここで○○○をしないんだ?」と思われてはいけない。主人公の行動が間抜けに見えてはならない。やはり主人公の行動や選択が腑に落ちるようにしなければならない。
主人公の行動は常に利口で、正しく、読者の想定を必ず“少し”上を進んでいる状態が望ましい。間抜けに見える主人公は、ギャグキャラクターでない限り感情移入しづらい(いや、ギャグキャラクターでも行動がありきたりに感じられるとつまらないだろう)。
③そもそも、はじめに設定したピンチ自体おかしい場合。
そのピンチはおかしい。切実さが伝わらない。状況がいまいち理解できない……。また読者の目線で「何だその程度か」と思われてはならない。そういう場合は、「そもそもピンチの設定がおかしい」から練り直す必要がある。
以上に挙げた3つの他にも、まだ考えられるポイントがある。ピンチと主人公との関係性についてだ。
①そのピンチを解くのが主人公でなければならない理由。
目の前に提示されたピンチ! ……でも別に主人公じゃなくても、別の誰かが解けばいいんじゃない? となったら主人公がそもそもの間違いだ、とうことになる。主人公が解かねばならない理由を常に提示し、状況が主人公を強制しなければならない。
「そんな間抜けな過ち、誰が犯すんだ」と思われるかも知れないが、この失敗を犯す作家は非常に多い。ほとんどの推理物は「別にアンタが解かなくても警察に任せればいいよ」と言ってしまうことができるのである。
主人公がそのピンチと向き合わねばならない問答無用の理由が必要なのだ。
それからもう一つ挙げるべきポイントは、
②そのピンチを解くことが、主人公の葛藤と関連しているのが望ましい。
これは「絶対にそうではなければならない」というほどの重要度はないが、やはりそうであったほうが望ましい。
例えば、主人公が何かしらの心の傷を負っている。そこに提示されたピンチ。これが主人公の過去に体験した事件と関連を持ち、トラウマと向き合う結果となり、解決が主人公の回復や解放に繋がる……というプロットができたとしたら、それは「ピンチを鮮やかに切り抜けてスッキリする」という以上に、感動のポイントにすらなる。
要するに、提示したピンチと主人公の間に強い関係を持っていること。これは、物語全体に対する主人公の重要度に関わってくる。もしもこの重要度を主人公より脇役などのほうが持っているとしたら、主人公を練り直したほうがいいだろう。
もう一つの創作のヒントとして、ミステリの論法を利用する、というものがある。
ピンチの性質を説明する過程で、同時に切り抜けるためのヒントも提示するべきである。
ミステリには作者と読者の間に公正性を保つ必要があるために、回答篇までに問題を解くヒントを全て整えておかねばならない、というルールがある。
これはミステリ以外のエンターテインメントを描く場合においても同じだ。もしも、はじめに提示されていないやり方で解決法を示したとしても、例え正しい答えであったとしても「それはなんか狡い。スッキリしない」という悪印象を持たれてしまう。
また当然であるが、ピンチを提示する過程で、答えを悟られてはいけない。
以上に挙げたポイントを押さえれば、駄作になることはほとんどないと思われるが、それでも傑作と呼ばれる間にはまだ何かありそうな感じがする。それは恐らく、次のようなポイントではあるまいか。
①誰にでも了解できること。感覚が伝わること。
提示するピンチが誰にでも了解できること。ピンチの内容が簡単であればいい、というのとは意味が違う。いったいどのようなピンチなのか、誰にでもわかるようにきちんと伝えること。伝える能力が試される部分だ。これが伝わらないと、主人公がどこに向かっているのかも伝わらなくなるので重要だ。
②でかいほうがいい。
大風呂敷を広げよ。そのピンチがどんな事態を引き起こしてしまうのか。国家が大パニックとか、世界の終焉とか、それくらい馬鹿げた大風呂敷の方が面白い。そういった国家の危機とか世界の終焉とか、そういうピンチをリアルに感じさせるように描くことができれば、面白いはずだ。
しかし一方で、国家の危機や世界の終焉クラスのピンチにリアリティが感じられなければ、その作品は即座にコメディになる。大風呂敷を広げる時には、相応の状況作りに注意を払うべき。
ピンチはでかいほうがいいが、でかくなればそのぶんリアリティを出すのが難しくなる。「国家の危機!」といってもなかなかピンと来ないが、それでも腑に落ちるようなリアリティが描ければそれでいい(特に国家観がぶっ壊れた日本人はこういう話はなかなか書けないと思う)。
国家の危機とか世界の終焉とかそういうレベルではなくても、主人公にとってそれと同じくらいの“切実さ”があればいい感じになる。“主人公にとっての切実さ”というのは、家を失うとか、恋人が死ぬとか、あるいは自分が死ぬとか、そういうもののことだ。むしろそういうお話にした方が“切実さ”はダイレクトに伝わる。
③個性的であれ
ピンチの中身は、今まで誰も思いつかなかったような内容であった方が面白い。誰にでも思いつくようなピンチは、つまり手垢のつきまくったものだから、いくら面白い解決法を提示したとしても、題材という時点で誰も見向きもしてくれない。個性的なピンチであれば、解き方にも個性が出てくるかも知れない。題材にこだわれ。
④絶体絶命
「こんなピンチを乗り越えるなんて絶対不可能だ! もうどうしようもない!」と思わせること。「もうダメだ!!」と一瞬思わせ、そこからの離脱を示してみせる。強烈なピンチは、相応の緊張感に繋がる。そこから見事に、鮮やかに脱出をしてみせる。これこそ、エンターテインメントの醍醐味だろう。
作者は、主人公をピンチで追い詰めていくと同時に、読者・観客を追い詰めていかねばならない。まずピンチの内容をわかりやすく伝えること。そのピンチが回避できないと、途方もなくヤバイ結末に繋がることを伝えること。そうすれば次第に物語の主人公と読者・観客は主人公と同じ目線で追いかけていくようになる。読者・観客は主人公と同じように汗を掻き、ハラハラしながら状況を追いかけていくのだ。そこまで読者・観客の気分を物語の中に吸い込ませることができれば、その作品は間違いなく傑作だろう。
とどのつまり、優れたエンターテインメントとは「脱出劇」なのである。一見すると四方八方手詰まりの状況。もうどうにもならない……。そんな状況からマジックのように優れた脱出を披露してみせる。その瞬間、エンターテインメントは驚きと喝采を挙げるのだ。
最近では『魔法少女まどか☆マギカ』が素晴らしい「脱出劇」の例だった。「こんな複雑なロジックを解決させるのは絶対に不可能だ! バットエンドしかあり得ない!」とみんなに思わせ、みんな最終回が来るまでにさんざん予想合戦したのに、それを上回る回答をしてみせた。しかも、その答えが驚くほどシンプルで、納得のできるものだった。これを提示できたからこそ、『魔法少女まどか☆マギカ』は異議無しで傑作と認定されたのだ。
駄作が駄作であるには相応の理由があるからで、これを回避する方法をこうやって挙げたが……正直なところ、不充分という気がする。
「それは違う」と言う人は多いと思うし、プロの作家がここまでに書いたことを読んだら鼻で笑うかも知れない。
少し考えてみても、上の理論が通用するのはごく一部の娯楽作品のみで、恋愛ものギャグものホラーもの純文学などではまったく通用しないことがわかる。
(どういうわけか、ホラーのキャラクターはピンチを切り抜けようと努力しない。幽霊や殺人鬼が作り出した状況に無抵抗に振り回され、次々と人が死んでしまい、主人公も特に主人公としての活躍を見せることなく、あっさりと死んでしまう。ホラーもピンチを切り抜けて脱出すれば、エンターテインメントとしてより面白くなると思うのだけど……)
それとは別に、自分で書いていて“何か”が不充分だという気がしてならない。その“何か”の正体は、いまわかる範囲で書くと「人間の描き方について何も提示していない」というのと「個々の状況の描き方について何も提示していない」という2つだけだ。確かにこの2つを押さえないと、いくらうまいピンチを描いてみせても、それはロジックを整えただけで心情的に迫ってくるものになるかといえば、多分ならないだろう。とにかく不充分なのだ。決定的に何が足りないかといえば、「どうやったらキャラクターに感情移入できるか」あるいは「どうやったらキャラクターが魅力的に見えるか」という問題だ。この問題について、私は何も答えていない。
しかし私としても、この2つの問題について、まだきちんと整えて説明することはできない。それはまた別の機会になりそうだ。
元になっているツイートまとめ→傑作と駄作の狭間にあるものは? エンターテインメントとはピンチである。
PR