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■2013/04/09 (Tue)
映画:外国映画■
『殺人魚フライングキラー』。実は『ピラニア』という海洋パニックホラーの続編で、第1作目は後に『グレムリン』をヒットさせることになるジョー・ダンテ監督である。またこの第1作目は2010年『ピラニア3D』というタイトルでリメイクが制作された。
映画は水中の場面から始まる。
水の底に沈んでいる難破船。若い男女のカップルが難破船の中へと入っていく。水上は夜で、二人を邪魔する者はいない。二人はしばし別れて難破船を探検する。
すると、誰かが男を掴んだ。振り向くと、全裸の女がそこにいた。酸素ボンベだけを背負った状態だ。女は男の臑に装着されていたナイフを手に取り、男の赤い水着を切ってしまう。
全裸になってしまった二人。興奮して、酸素ボンベを外してキスを交わす。口から泡が吹き出る。二人は互いの口で塞いで、夢中になってキスをする。
そこに、何かが迫ってきた。二人は思いもしない痛みに、驚愕を浮かべる。しかし逃げる場所はなく、何者かの餌食になる。水中に血が広がり、画面は真っ赤に覆われる……。
ポルノ映画か何か……そう思ってしまいそうな安っぽい始まり方である。美意識のない平坦な映像に、同じメロディの繰り返しの安っぽい音楽、適当に放り投げたような設定に、熱意を感じない演技。何もかもが安っぽい。注目に値するポイントが一つもない。唯一の見所がオッパイという、何とも救いようのない、視聴をおすすめできない駄作映画だ。
実はこの作品が、後に『タイタニック』『アバター』を制作し、アカデミー賞最多受賞の栄冠に輝き、世界興業収入1位2位を制し、映画を代表し世界で最も尊敬される偉大なる名監督ジェイムズ・キャメロンの第1作目なのである。
しかし驚きべきことに、この第1作目には後に巨匠になりそうな片鱗は全く見出せない。才気溢れる若手監督としての熱意もオーラも感じさせない。傑作秀作ヒット作がずらりと並ぶジェイムズ・キャメロンのフィルモグラフィーにあって、あまりにも特異で、俯瞰して見てもこの作品だけが“黒い染み”と表現するしかない異様さを放っている。ジェイムズ・キャメロンはこのどうしようもない駄作の2年後に、ヒット作『ターミネーター』を制作したのだ。もはや、どこかで人間が入れ替わったに違いない、そう想像するしかないような落差である。
では改めて、『殺人魚フライングキラー』の何が問題なのか、考えてみるとしよう。
まず登場人物の多さ。主人公アン・キブロウを始めとして、その夫で別居中のスティーヴ・キンブロウ、息子のクリス・キンブロウ。この周囲にはクリスを雇う船乗り初心者のディモンと娘のアリソン。アンの上司であるホテルの支配人(名前は確認できず)。スティーヴを古くからの知り合いである黒人親子(こちらも名前確認できず)。アンのダイビングツアーの講習にやってくるタイラーと名乗る男。
これだけでも結構多い。だが実は、主人公と何も接点を持たないのに関わらず登場してくる人達がまだまだいるのだ。
海で遊んでいる二人組の女に、その女にナンパされる歯医者のリオベル、オッパイ担当と見られ無駄に存在感のある二人組の女、そのオッパイ2人組に騙される料理人マル、若い男をナンパする未亡人ウィルソン。
およそ群像劇というくらいに人物が登場するが、これらの登場人物が物語にどんなテーマを持ちプロットに有機的な意義を与えるのか、といえばまったくの無駄、意味もないのに登場してきては尺を無用に消費するのである。
ゆえに――続く第2の問題だが展開があまりにも遅い。話が進まない。物語本編とは無関係な人物や場面のために時間を消費するので、あまりの緩慢さに見ている側は苛立ちを募らせてしまう。さらに本編のほうも進展がわかりづらく、物語が進んだと感じさせるキーとなる場面があまりない。また登場人物のやりとりも物語の中心軸にそれほど深く絡んでいないし、また関係ない人物があまりにも多いために、物語の中心軸と人物の関係性が見出せず、だから物語の本筋がぼんやりかすんで印象に残らない結果になっている。
第3の問題は設定や場面作りのいい加減さ。殺人魚の正体はピラニアを改造して作った新種であるが、物語中に指摘があるように、ピラニアは淡水魚で海では生息できない。にも関わらず、海底、水上、おかまいなしにこの改造ピラニアは飛び回るのだ。死体置き場の場面では、被害者の遺体から突然現れ、側にいた看護婦の首に食らいついた後、自力で空を飛んで窓から脱出するという離れ業を演じて見せた。もはや笑うしかない。
主人公の息子クリスは仕事場で知り合ったアリソンと遊んでいるうちに海上で自分の居場所がわからなくなってしまい、それを探して父親のスティーヴが探して回る、といった場面が展開するが、これが改造ピラニアが発生して大惨事となっているフィッシュフライフェスティバルとは何ら関連を持たない。最後の最後で、沈没船のすぐ近くで救助され、そのお陰で接点を持ったように見せかけられているが、実際には物語の本筋から無駄な傍流を作っただけだ。
第4の問題は特撮の安っぽさ。海から突然殺人魚が飛び出すのだが、食いつかれた次のカットには俳優は全身血まみれである。一方、食いついた魚には動きが全くない。俳優だけが一生懸命食われている演技をしているだけなのだ。
映画の後半になって、殺人魚が飛び回る場面が登場するのだが、あからさまにワイヤーで釣っているのがわかってしまう。あまりにチープでエド・ウッド映画のようだ。この場面でようやく殺人魚の姿がはっきり見えるのだが、控えめに言って羽の付いた魚のおもちゃにしか見えない。本音で言えば、おもちゃとして商品化しても、「いらない」といえる出来の悪さである。
それにこの殺人魚、たまにしか映画に登場せず、存在感がまったくない。始まって28分後、ダイビングツアーをやっている一人が沈没船を探検し、その結果殺人魚に襲われる。ここで初めて本編に殺人魚が登場するのだが、出てくるのは一瞬である。その後も一瞬しか出てこない殺人魚のために、映画は無意味に尺を消費し続ける。
映画のラストになり、殺人魚の拠点となっていた沈没船を破壊してハッピーエンド、というような雰囲気になっているが、ホテル周辺に出現した大量の殺人魚はどうした?と突っ込みを入れたくなる。難破船を爆破しても、別に殺人魚を一掃したことにはならないだろう、という問題について映画はほったらかしで終わってしまう。
駄目なポイントを改めて列挙してみると、やはり酷い映画だ。褒められる部分が1カットも1コマもない。何もかもがあまりにもチープで、映画会社が背後について制作したとはおよそ信じられないような駄目映画だ。
一方、その後のジェイムズ・キャメロン監督との関係性も発見できなくもない。
映画の物語がパニックアクション、テクノロジーを駆使したアクション(と言えなくもない映画)であるところは、その後の全作品に共通している。
ヒロインは芯の強い、問題があれば独力で突撃して解決法を探ろうとする自立的な女である。またパーマをあてた髪型は、水に濡れると『エイリアン2』の主人公リプリーに見えなくもない。
理解しない上司。問題が発覚し、主人公アンは真っ先に上司に掛け合い、ホテルを閉鎖するように訴えかけるが理解されず、あろうことか主人公の異常性を疑い追放しようとする。この展開は、『ターミネーター』以後のほぼすべてのジェイムズ・キャメロン映画の共通点である。最新作『アバター』ですら、理解されず計画を進行させる上司が登場する。ジェイムズ・キャメロン映画は実はデビュー映画からプロットそのものは同じものを使っているのだ。この理解力の乏しい上司というキャラクターはB級パニック映画・モンスター映画には定番のキャラクターで、高度なテクノロジーに支えられたジェイムズ・キャメロンの映画の底流にはB級映画の形式が潜んでいることがわかる。
海底を舞台にしている部分も、ジェイムズ・キャメロンの個性が表れた部分である。ジェイムズ・キャメロンはスキューバダイビングを趣味としており、映画にもその趣味は繁栄されて『アビス』と『タイタニック』を制作している。沈没船のシーンに『タイタニック』を感じさせるのは、同じ映画監督だと思って見ているからだろうか。
おそらく……いや間違いなくこの失敗作はジェイムズ・キャメロンに大きな復讐心を抱かせたであろう。この次は同じ失敗は絶対にしない、自分を批評した連中を見返してやろう、思い通り映画を作らせなかった映画会社の連中を黙らせてやる。『殺人魚フライングキラー』が失敗作なだけに、その思いは大きく膨らみ、ジェイムズ・キャメロンを奮起させたはずだ。
では『ターミネーター』と『殺人魚フライングキラー』の2年間の断層に何が横たわっていたのか。この2作の間にどんな劇的な変化があったのか、それを考えてみよう。
まず脚本をしっかり練り込むことから始めた。『殺人魚フライングキラー』もジェイムズ・キャメロンが自身で脚本を担当したが、その後の全ての作品でもジェイムズ・キャメロンは自分で脚本を書き、脚本の責任を担っている。
『ターミネーター』でも不要な人物は多少は出てきたが、『殺人魚フライングキラー』よりはるかにすっきりして見易い物語に仕上がっている。観客はどの人物に感情移入して物語を追いかけていけばいいのか明確である。わかりやすく、なおかつ主人公の立場を緊張感を持って追体験できる。『ターミネーター』に出てくるロボット兵器T-800を演じたアーノルド・シュワルツェネッガーの存在感は圧倒的だったが、改めて見ると単に無言で迫ってくるただのマッチョである。それを未来からやってきたロボット兵器だと説明する一連の場面が最初にあり、ちゃんと見ている人に納得させられるプロットになっている。
技術の使い方いついても見直された。『ターミネーター』の第1作目も低予算映画であるが、ターミネーターというキャラクターは基本無口なマッチョなだけでいいようにうまく設定されている。アーノルド・シュワルツェネッガーをキャスティングした時点で大勝利だ。ターミネーターの正体であるエンドスケルトンは最後にちらと出てくるだけ、しかも動きは少なく、予算のなさをあらかじめ自覚し、見せ方に工夫されている。
またジェイムズ・キャメロン映画に登場する敵役は異様に強く、存在感がある。主人公たちより、明らかに敵をどう描くか、に意識が集中されている。ジェイムズ・キャメロン映画に登場する人物は平均的に戦闘力が高く、一通りの格闘術ができることが基本アビリティになっているが、敵はさらにその上を行く圧倒的な強さを随所で見せ、人間側がどんな罠を準備していてもそれを嘲笑うかのごとく力業で乗り越え、映画を着地点が見えないくらい引っかき回してくれる。『ターミネーター』や『エイリアン』などは方やロボット兵器、方や宇宙人と非人間だからいいとして、『アバター』のマイルズ大佐は人間でありながらジェイムズ・キャメロン映画の中でも屈指の戦闘力を誇り、異様なしつこさで主人公を圧倒するだけではなく、知力も高くジェイクが拠点とする場所を破壊しようとする。
ジェイムズ・キャメロン映画では敵がとにかく強力であること、異様な生命力を持っていること、そんな敵を相対した時の緊張感。いかに敵を描くか、そのこだわりがジェイムズ・キャメロン映画の基本的な娯楽性と考えていいだろう。
それから恐らく、現場での地位確立、も反省に含まれていただろう。『殺人魚フライングキラー』では撮影が始まった最初の段階から製作サイドと繰り返し衝突し、思うように現場を進められなかった、という話も聞く。実際、ジェイムズ・キャメロンが本気で映画を撮っていたら、あのような駄作にはならなかっただろう。
同じく第1作目で失敗作という負債を負ったデヴィッド・フィンチャー監督も、第2作目の大きな課題が「映画会社を黙らせること」であった。そのために1000ページという異様な分厚さの企画書を提出し、映画会社を一切口出しさせない状況を作ったという。
ジェイムズ・キャメロンは『殺人魚フライングキラー』以後、現場の絶対者になった。朝一番に現場にやってきて指揮をはじめ、夜は一番最後に帰る。『タイタニック』のメイキングドキュメンタリーでは、セットの照明のほんのささいな問題を解決するために、小道具係の下っ端を呼び出して「これがいい照明だ」と指導する場面が見られた。そういった繊細さも、現場の絶対者になるための必要な努力だろう。
『タイタニック』を制作中、予算が100億円単位でオーバーしている問題が発覚し、製作サイドに呼び出され、撮影中止が勧告されるが、ジェイムズ・キャメロンは製作を怒鳴りつけ、追い出したという。その時の製作はヴィル・メカニックという人物だが、クレジットから外され、製作として書かれているのはジェイムズ・キャメロンの名前だけである。
今回、この駄作映画『殺人魚フライングキラー』を取り上げたのは、この映画のあまりの酷かったからではなく、この映画の後、ジェイムズ・キャメロン1本の失敗作のないヒットメーカーになれたからだ。ジェイムズ・キャメロンは制作した全ての映画をヒットさせただけではなく、何かしらでアカデミー賞を受賞している。その理由は何なのか、それを考えたかったし、こんなどうしもないゴミを作った人間が、傑作を作る才能を持っていたという事実にも目を向けたかった。
才能はどう転ぶかわからない。才能はどう育って開花していくかわからない。『殺人魚フライングキラー』が擁護不能の駄作なだけに、人間の可能性の凄まじさを知り、この次に『ターミネーター』を見て圧倒される。人間は努力しなければならないが、その前に反省しなければならない。反省して、どうするべきなのか、何が必要なのか、どう反省するべきか考えなければ、どんな努力も空回りするだけだ。筋肉馬鹿な人間は努力努力とばかり連呼するが、実は反省のほうがよほど大事で、反省にこそ時間を費やすべきなのだ。それを徹底的にやって答えを見つけ出した人間が、名監督ジェイムズ・キャメロンになったのだ。
ジェイムズ・キャメロンの出発点は『殺人魚フライングキラー』だ。この駄作があったからこそ、失敗あったからこそ名監督になれた。名作家、優れた芸術家の原典を知るためには、どんな失敗があったかを知らねばならない。そういう意味でも、ジェイムズ・キャメロンのフィルモグラフィーに作られたこの黒い染みを、よく知る必要がある。
監督:ジェイムズ・キャメロン (オビディオ・G・アソニティス)
脚本:ジェイムズ・キャメロン(H.I.ミルトン名義)
音楽:ステルヴィオ・チブリアーニ(スティーヴ・パウダー名義) 製作:築波久子
撮影: ジュールス・ブレンナー 編集:ロベルト・シルヴィ
製作総指揮:オビディオ・G・アソニティス 特殊メイク・特撮:ジャンネット・デ・ロッシ
出演:トリシア・オニール スティーブ・マラチャック ランス・ヘンリクセン
映画は水中の場面から始まる。
水の底に沈んでいる難破船。若い男女のカップルが難破船の中へと入っていく。水上は夜で、二人を邪魔する者はいない。二人はしばし別れて難破船を探検する。
すると、誰かが男を掴んだ。振り向くと、全裸の女がそこにいた。酸素ボンベだけを背負った状態だ。女は男の臑に装着されていたナイフを手に取り、男の赤い水着を切ってしまう。
全裸になってしまった二人。興奮して、酸素ボンベを外してキスを交わす。口から泡が吹き出る。二人は互いの口で塞いで、夢中になってキスをする。
そこに、何かが迫ってきた。二人は思いもしない痛みに、驚愕を浮かべる。しかし逃げる場所はなく、何者かの餌食になる。水中に血が広がり、画面は真っ赤に覆われる……。
ポルノ映画か何か……そう思ってしまいそうな安っぽい始まり方である。美意識のない平坦な映像に、同じメロディの繰り返しの安っぽい音楽、適当に放り投げたような設定に、熱意を感じない演技。何もかもが安っぽい。注目に値するポイントが一つもない。唯一の見所がオッパイという、何とも救いようのない、視聴をおすすめできない駄作映画だ。
実はこの作品が、後に『タイタニック』『アバター』を制作し、アカデミー賞最多受賞の栄冠に輝き、世界興業収入1位2位を制し、映画を代表し世界で最も尊敬される偉大なる名監督ジェイムズ・キャメロンの第1作目なのである。
しかし驚きべきことに、この第1作目には後に巨匠になりそうな片鱗は全く見出せない。才気溢れる若手監督としての熱意もオーラも感じさせない。傑作秀作ヒット作がずらりと並ぶジェイムズ・キャメロンのフィルモグラフィーにあって、あまりにも特異で、俯瞰して見てもこの作品だけが“黒い染み”と表現するしかない異様さを放っている。ジェイムズ・キャメロンはこのどうしようもない駄作の2年後に、ヒット作『ターミネーター』を制作したのだ。もはや、どこかで人間が入れ替わったに違いない、そう想像するしかないような落差である。
では改めて、『殺人魚フライングキラー』の何が問題なのか、考えてみるとしよう。
まず登場人物の多さ。主人公アン・キブロウを始めとして、その夫で別居中のスティーヴ・キンブロウ、息子のクリス・キンブロウ。この周囲にはクリスを雇う船乗り初心者のディモンと娘のアリソン。アンの上司であるホテルの支配人(名前は確認できず)。スティーヴを古くからの知り合いである黒人親子(こちらも名前確認できず)。アンのダイビングツアーの講習にやってくるタイラーと名乗る男。
これだけでも結構多い。だが実は、主人公と何も接点を持たないのに関わらず登場してくる人達がまだまだいるのだ。
海で遊んでいる二人組の女に、その女にナンパされる歯医者のリオベル、オッパイ担当と見られ無駄に存在感のある二人組の女、そのオッパイ2人組に騙される料理人マル、若い男をナンパする未亡人ウィルソン。
およそ群像劇というくらいに人物が登場するが、これらの登場人物が物語にどんなテーマを持ちプロットに有機的な意義を与えるのか、といえばまったくの無駄、意味もないのに登場してきては尺を無用に消費するのである。
ゆえに――続く第2の問題だが展開があまりにも遅い。話が進まない。物語本編とは無関係な人物や場面のために時間を消費するので、あまりの緩慢さに見ている側は苛立ちを募らせてしまう。さらに本編のほうも進展がわかりづらく、物語が進んだと感じさせるキーとなる場面があまりない。また登場人物のやりとりも物語の中心軸にそれほど深く絡んでいないし、また関係ない人物があまりにも多いために、物語の中心軸と人物の関係性が見出せず、だから物語の本筋がぼんやりかすんで印象に残らない結果になっている。
第3の問題は設定や場面作りのいい加減さ。殺人魚の正体はピラニアを改造して作った新種であるが、物語中に指摘があるように、ピラニアは淡水魚で海では生息できない。にも関わらず、海底、水上、おかまいなしにこの改造ピラニアは飛び回るのだ。死体置き場の場面では、被害者の遺体から突然現れ、側にいた看護婦の首に食らいついた後、自力で空を飛んで窓から脱出するという離れ業を演じて見せた。もはや笑うしかない。
主人公の息子クリスは仕事場で知り合ったアリソンと遊んでいるうちに海上で自分の居場所がわからなくなってしまい、それを探して父親のスティーヴが探して回る、といった場面が展開するが、これが改造ピラニアが発生して大惨事となっているフィッシュフライフェスティバルとは何ら関連を持たない。最後の最後で、沈没船のすぐ近くで救助され、そのお陰で接点を持ったように見せかけられているが、実際には物語の本筋から無駄な傍流を作っただけだ。
第4の問題は特撮の安っぽさ。海から突然殺人魚が飛び出すのだが、食いつかれた次のカットには俳優は全身血まみれである。一方、食いついた魚には動きが全くない。俳優だけが一生懸命食われている演技をしているだけなのだ。
映画の後半になって、殺人魚が飛び回る場面が登場するのだが、あからさまにワイヤーで釣っているのがわかってしまう。あまりにチープでエド・ウッド映画のようだ。この場面でようやく殺人魚の姿がはっきり見えるのだが、控えめに言って羽の付いた魚のおもちゃにしか見えない。本音で言えば、おもちゃとして商品化しても、「いらない」といえる出来の悪さである。
それにこの殺人魚、たまにしか映画に登場せず、存在感がまったくない。始まって28分後、ダイビングツアーをやっている一人が沈没船を探検し、その結果殺人魚に襲われる。ここで初めて本編に殺人魚が登場するのだが、出てくるのは一瞬である。その後も一瞬しか出てこない殺人魚のために、映画は無意味に尺を消費し続ける。
映画のラストになり、殺人魚の拠点となっていた沈没船を破壊してハッピーエンド、というような雰囲気になっているが、ホテル周辺に出現した大量の殺人魚はどうした?と突っ込みを入れたくなる。難破船を爆破しても、別に殺人魚を一掃したことにはならないだろう、という問題について映画はほったらかしで終わってしまう。
駄目なポイントを改めて列挙してみると、やはり酷い映画だ。褒められる部分が1カットも1コマもない。何もかもがあまりにもチープで、映画会社が背後について制作したとはおよそ信じられないような駄目映画だ。
一方、その後のジェイムズ・キャメロン監督との関係性も発見できなくもない。
映画の物語がパニックアクション、テクノロジーを駆使したアクション(と言えなくもない映画)であるところは、その後の全作品に共通している。
ヒロインは芯の強い、問題があれば独力で突撃して解決法を探ろうとする自立的な女である。またパーマをあてた髪型は、水に濡れると『エイリアン2』の主人公リプリーに見えなくもない。
理解しない上司。問題が発覚し、主人公アンは真っ先に上司に掛け合い、ホテルを閉鎖するように訴えかけるが理解されず、あろうことか主人公の異常性を疑い追放しようとする。この展開は、『ターミネーター』以後のほぼすべてのジェイムズ・キャメロン映画の共通点である。最新作『アバター』ですら、理解されず計画を進行させる上司が登場する。ジェイムズ・キャメロン映画は実はデビュー映画からプロットそのものは同じものを使っているのだ。この理解力の乏しい上司というキャラクターはB級パニック映画・モンスター映画には定番のキャラクターで、高度なテクノロジーに支えられたジェイムズ・キャメロンの映画の底流にはB級映画の形式が潜んでいることがわかる。
海底を舞台にしている部分も、ジェイムズ・キャメロンの個性が表れた部分である。ジェイムズ・キャメロンはスキューバダイビングを趣味としており、映画にもその趣味は繁栄されて『アビス』と『タイタニック』を制作している。沈没船のシーンに『タイタニック』を感じさせるのは、同じ映画監督だと思って見ているからだろうか。
おそらく……いや間違いなくこの失敗作はジェイムズ・キャメロンに大きな復讐心を抱かせたであろう。この次は同じ失敗は絶対にしない、自分を批評した連中を見返してやろう、思い通り映画を作らせなかった映画会社の連中を黙らせてやる。『殺人魚フライングキラー』が失敗作なだけに、その思いは大きく膨らみ、ジェイムズ・キャメロンを奮起させたはずだ。
では『ターミネーター』と『殺人魚フライングキラー』の2年間の断層に何が横たわっていたのか。この2作の間にどんな劇的な変化があったのか、それを考えてみよう。
まず脚本をしっかり練り込むことから始めた。『殺人魚フライングキラー』もジェイムズ・キャメロンが自身で脚本を担当したが、その後の全ての作品でもジェイムズ・キャメロンは自分で脚本を書き、脚本の責任を担っている。
『ターミネーター』でも不要な人物は多少は出てきたが、『殺人魚フライングキラー』よりはるかにすっきりして見易い物語に仕上がっている。観客はどの人物に感情移入して物語を追いかけていけばいいのか明確である。わかりやすく、なおかつ主人公の立場を緊張感を持って追体験できる。『ターミネーター』に出てくるロボット兵器T-800を演じたアーノルド・シュワルツェネッガーの存在感は圧倒的だったが、改めて見ると単に無言で迫ってくるただのマッチョである。それを未来からやってきたロボット兵器だと説明する一連の場面が最初にあり、ちゃんと見ている人に納得させられるプロットになっている。
技術の使い方いついても見直された。『ターミネーター』の第1作目も低予算映画であるが、ターミネーターというキャラクターは基本無口なマッチョなだけでいいようにうまく設定されている。アーノルド・シュワルツェネッガーをキャスティングした時点で大勝利だ。ターミネーターの正体であるエンドスケルトンは最後にちらと出てくるだけ、しかも動きは少なく、予算のなさをあらかじめ自覚し、見せ方に工夫されている。
またジェイムズ・キャメロン映画に登場する敵役は異様に強く、存在感がある。主人公たちより、明らかに敵をどう描くか、に意識が集中されている。ジェイムズ・キャメロン映画に登場する人物は平均的に戦闘力が高く、一通りの格闘術ができることが基本アビリティになっているが、敵はさらにその上を行く圧倒的な強さを随所で見せ、人間側がどんな罠を準備していてもそれを嘲笑うかのごとく力業で乗り越え、映画を着地点が見えないくらい引っかき回してくれる。『ターミネーター』や『エイリアン』などは方やロボット兵器、方や宇宙人と非人間だからいいとして、『アバター』のマイルズ大佐は人間でありながらジェイムズ・キャメロン映画の中でも屈指の戦闘力を誇り、異様なしつこさで主人公を圧倒するだけではなく、知力も高くジェイクが拠点とする場所を破壊しようとする。
ジェイムズ・キャメロン映画では敵がとにかく強力であること、異様な生命力を持っていること、そんな敵を相対した時の緊張感。いかに敵を描くか、そのこだわりがジェイムズ・キャメロン映画の基本的な娯楽性と考えていいだろう。
それから恐らく、現場での地位確立、も反省に含まれていただろう。『殺人魚フライングキラー』では撮影が始まった最初の段階から製作サイドと繰り返し衝突し、思うように現場を進められなかった、という話も聞く。実際、ジェイムズ・キャメロンが本気で映画を撮っていたら、あのような駄作にはならなかっただろう。
同じく第1作目で失敗作という負債を負ったデヴィッド・フィンチャー監督も、第2作目の大きな課題が「映画会社を黙らせること」であった。そのために1000ページという異様な分厚さの企画書を提出し、映画会社を一切口出しさせない状況を作ったという。
ジェイムズ・キャメロンは『殺人魚フライングキラー』以後、現場の絶対者になった。朝一番に現場にやってきて指揮をはじめ、夜は一番最後に帰る。『タイタニック』のメイキングドキュメンタリーでは、セットの照明のほんのささいな問題を解決するために、小道具係の下っ端を呼び出して「これがいい照明だ」と指導する場面が見られた。そういった繊細さも、現場の絶対者になるための必要な努力だろう。
『タイタニック』を制作中、予算が100億円単位でオーバーしている問題が発覚し、製作サイドに呼び出され、撮影中止が勧告されるが、ジェイムズ・キャメロンは製作を怒鳴りつけ、追い出したという。その時の製作はヴィル・メカニックという人物だが、クレジットから外され、製作として書かれているのはジェイムズ・キャメロンの名前だけである。
今回、この駄作映画『殺人魚フライングキラー』を取り上げたのは、この映画のあまりの酷かったからではなく、この映画の後、ジェイムズ・キャメロン1本の失敗作のないヒットメーカーになれたからだ。ジェイムズ・キャメロンは制作した全ての映画をヒットさせただけではなく、何かしらでアカデミー賞を受賞している。その理由は何なのか、それを考えたかったし、こんなどうしもないゴミを作った人間が、傑作を作る才能を持っていたという事実にも目を向けたかった。
才能はどう転ぶかわからない。才能はどう育って開花していくかわからない。『殺人魚フライングキラー』が擁護不能の駄作なだけに、人間の可能性の凄まじさを知り、この次に『ターミネーター』を見て圧倒される。人間は努力しなければならないが、その前に反省しなければならない。反省して、どうするべきなのか、何が必要なのか、どう反省するべきか考えなければ、どんな努力も空回りするだけだ。筋肉馬鹿な人間は努力努力とばかり連呼するが、実は反省のほうがよほど大事で、反省にこそ時間を費やすべきなのだ。それを徹底的にやって答えを見つけ出した人間が、名監督ジェイムズ・キャメロンになったのだ。
ジェイムズ・キャメロンの出発点は『殺人魚フライングキラー』だ。この駄作があったからこそ、失敗あったからこそ名監督になれた。名作家、優れた芸術家の原典を知るためには、どんな失敗があったかを知らねばならない。そういう意味でも、ジェイムズ・キャメロンのフィルモグラフィーに作られたこの黒い染みを、よく知る必要がある。
監督:ジェイムズ・キャメロン (オビディオ・G・アソニティス)
脚本:ジェイムズ・キャメロン(H.I.ミルトン名義)
音楽:ステルヴィオ・チブリアーニ(スティーヴ・パウダー名義) 製作:築波久子
撮影: ジュールス・ブレンナー 編集:ロベルト・シルヴィ
製作総指揮:オビディオ・G・アソニティス 特殊メイク・特撮:ジャンネット・デ・ロッシ
出演:トリシア・オニール スティーブ・マラチャック ランス・ヘンリクセン
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