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■2013/02/07 (Thu)
ソードアート・オンライン。
  それは果てなき空に浮かぶ鋼鉄の城。そこでは社会を構築する上での全てがあった。統率者がいて、街があって、文化と交易があり、街から出ると未開の森が文明の介入を阻んでいる。その森の深い所を突き進んでいけば、未知なる悪鬼が作り上げた醜悪なる建造物がひっそりと佇み、冒険者たちがやってくるのを声を潜めて待ち受けている……。
しかし、ソードアート・オンラインは現実ではない。コンピュータープログラムが見せかけたまやかしだ。あの空に浮かぶ城も、そこで見て触れて感じられるあらゆるものが全てウソ。虚空に浮かんでいるのは虚構である。
しかし、交わされるドラマだけはホンモノ――。



ファッション・ファンタジー

『ソードアート・オンライン』はリアルな世界ではない。あくまでもゲームプログラムの中という前提で作られている。つまり物語の中においても虚構である、と全ての登場人物が知っている上で話が進められている。またこの認識は視聴者や制作者の間にも同時に共有された事実である。
だから『ソードアート・オンライン』は、ファンタジーを描く上で必要なあらゆる考証を一切無視して構わない、という究極のご都合主義を生み出した。
あくまでもゲームの世界での話。だから現実世界ではあり得ないようなファッションやアイテムが登場してきても、平然と受け入れられるのだ。
ゲームに限らず、日本が制作したファンタジーにはろくなものがない。使い手の2倍はありそうな巨大な剣を平気で振り回し、防具として有用ではない巨大な肩当て、不用意に露出度の高い女性キャラクター。中世を舞台にしているのにかかわらず、主人公クラスのキャラクターは髭など1本も生えないどころか、髪の色を自由に染めて逆立てたりなど、あまりにも現代的なファッションを謳歌している。風景の描き方も良くない。作り手がちゃんと西欧に赴いて研究していないから、建築に文化を感じない、自然に風土を感じない、総じて言えばそこにあるべき文化や歴史の重さを一切感じない。同時にそこにあるべき“汚さ”も描いていない。単純に“中世風”といっても様々だし、当然その以前から連なる文化をそこに描き出せていなければ“描けている”とは言えない。「ファンタジーってこんな感じ?」という程度の認識で、何となく描いているからそうなる。ファンタジーを知らない人間がファンタジーらしきものを描いているだけに過ぎない。
ゲームの世界ではキャラクターの立ち絵1つ1つが宣伝イメージになるから余計誇張してありえないような衣装や風景が描かれてきたが、それが和製ファンタジーのデタラメさのタガを外し、デタラメを許す土壌を作ってしまった感じがある。
“本当のファンタジー”とは何か、と言われれば一つの学問である。きちんとファンタジーを描こうとしたら、文学的な才能の他に、考古学、民俗学、人類学の充分な知識とフィールドワークが必要になる。この研究的姿勢なしでファンタジーを描こうとしても、間が抜けた“なんちゃってファンタジー”にしかならないし、日本人が過去描いてきた全てのファンタジーは偽物だ。
『ソードアート・オンライン』もこの“なんちゃってファンタジー”の一つにすぎないわけだが、この作品の場合、“飽くまでもオンラインゲームの中の出来事”という前提の上で風景がデザインされている。ゲームの中に過ぎないのだから、“なんちゃって”でもいい、という正当化する理由を生み出したのだ。
『ソードアート・オンライン』の世界も、これまで日本人が積み重ねてきたデタラメファンタジーの系譜の一つだ。意匠にこだわりすぎの観賞用実用用の区別のないアイテム、実用性皆無の派手な衣装。女性の衣装は全体が真っ赤だったり、肩を剥き出しにしていたりと、ファッションにこだわり過ぎている感じがある。
風景の描き方も何となくファンタジーっぽい気分だけで描かれているから、質感がツルツルしているし、少し工夫ソードアート・オンライン批評 (3)して密度を増やそうとしているが、その描き方に文化の重さを感じない。地形に特徴がある世界観で、大きなロフトのようなステージに独立した街やフィールドが描かれているが、このロフトの世界はロングサイズで見た時だけに限られ、その中間部分にどんな道のりがあるのか、残念なことに最後まで描かれなかった(この途中過程の風景が描けていれば、そこだけでもこの作品特有の風景が生まれたのに)
しかし『ソードアート・オンライン』はあくまでもゲームの中でのお話だから、という前提がこのデタラメの全てを受け入れ、さらに和製ファンタジーのいい加減さの全てを受け入れ、超克した作品といえる。『ソードアート・オンライン』は和製ファンタジーの新しい次元に引き上げた作品だ。これからは時代考証云々よりも、よりイメージを優先したファンタジーが描かれるようになるだろうし、「ゲーム中です」という口実を作っていれば全部許される。
またこの作品は、世間的にもっとも喧しい批判である「現実と非現実の区別が~」といった言論をはじめて乗り越えた作品だった。
オンラインゲーム、虚構の世界でのお話に過ぎないが、キリトやアスナはその中で日々を積み重ね、感情を交わし、葛藤し成長した。このテーマについて、作品はあまり深く突っ込まなかったが、実際のゲームでも、虚構でありつつもその時間は決して無駄ではない。そこには間違いなく(作り手と受け手双方に、あるいはそこで交わされる友人との対話の中に)人間的な感情があるからだ。
さらに『ソードアート・オンライン』はゲーム中での死がそのまま現実の死に繋がる、という厳しいルールを設けている。第3話「赤鼻のトナカイ」でサチが死が怖いからゲームから逃げだそう、と言い出す。しかし現実でもそのルールは変わらない。ゲームの中であっても、そこで交わされる感情も、死も現実とさほどかわらないという事実を突きつけているのである。
もっとも、現実と虚構に関する議論についてほとんど追求されなかったが、この1点においても超克した作品であると言える。


コマーシャル・ドラマ

アニメーションとしては丁寧にキャラクターの表情を描いた作品と言えるが、ストーリーに目を向けると、お粗末というしかなかった。プロットは合理的とは言えず、アニメーターが丁寧に描き出したキャラクターの感情はひたすら空回りして、どこまで進んでも物語の中心点が見えず、不用意に脇道に逸れ続け、ある日突然何の前ぶりもなくクライマックスがやってくる、といった有様だった。合理性のないプロットの上にいくらうまい芝居を乗せても、感情はその上を滑っていくだけで力を込めれば込めるほど空々しいものになってしまう。

物語の冒頭、第1話と第2話にはそれなりにドラマの連結が感じられた。第1話において、突然ゲームの世界に閉じ込められ、脱出不可のデスゲームが始まったという経緯をなかなかの緊迫感のもとに描き出した。
第2話は第1層目のボス攻略が物語の中心となった。大人数でパーティを組み、ボス戦に挑む。その最中に犠牲者を出し、これが原因でコミュニティに対立が起きて、結果キリトが進んで悪役を演じるようになる……。この選択で、キリトは『ソードアート・オンライン』の世界でも異端の存在となってしまう。
この第1話第2話には物語の導入部として、その世界に何があるのか、どんな困難が待ち受けているのか、物語世界を知る上での必要なルールなどの解説を絡めながら、率直な人間の葛藤が描かれていた。
が、第3話に入って物語は突然飛躍する。
ソードアート・オンライン批評 (2)第3話「赤鼻のトナカイ」。キリトはわずか5人のギルド《月夜の黒猫団》と会い、一緒に冒険しようと誘われる。この時、キリトのレベルは40。前回、まだ第1層を彷徨っていたはずなのに、いきなり話は飛んでキリトはその物語内でも強豪プレイヤーに成長していた。この段階で、前回前々回との連続性がいきなり途切れてしまう。
話は進み、《月夜の黒猫団》はそれなりの財産を作り、そろそろ家を持とう、という話になる。リーダーがお金を持って第1層へ。その間、仲間たちはリーダー不在の間にもう一稼ぎしようと、迷宮に挑むのだが、なぜかここで彼らは「いつもより一つ上のレベルの迷宮」を目指したのだ。
この段階で、キリトはなぜ止めなかったのか。リーダー不在の間に迷宮へ挑む、という展開も不可解だが、さらにレベルの高い迷宮を選ぶという展開も不可解だ。お話の流れとしておかしい。
キリトは不穏な顔を浮かべるが、なぜか強力に止めようとしない。しかも彼らが選んだのは第27層の迷宮区だ。その手前の場面で、攻略組がやっと28層に到達した、という話をしていたから、現時点でほぼ最高レベルの難易度のダンジョンに入ったのだ。不自然極まりない。本来ならここで行くか、行かないか、といった議論が起きるはずだろうし、行ったものの不安になって逃げ出す、強すぎる敵にやはりかなわないと知る、といった展開も描かれるべきだっただろう。しかしそこにあるべき描写や感情的な流れがざっくり切り落とされ“場面”だけが描かれてしまった。
この次に、《月夜の黒猫団》が全滅するという悲劇が起きるのだが、何一つ感情的に訴えるもののない場面になってしまっていた。それぞれのキャラクターのドラマを描かなかったから、死ぬ場面だけ描かれても見ている側はどう感じていいかわからない。悲劇が何となく白々しいものになってしまっている。
この場合、どう描けばよかったのか。まずダンジョンに潜るか潜らないか、といった議論を描くべきだっただろう。その結果としてキリトが充分納得できる理由や状況があれば、視聴者はキリトと同じ感覚で《月夜の黒猫団》の判断を受け入れただろう。
次にトラップの場面。《月夜の黒猫団》全滅の悲劇がなぜ悲劇に見えなかったのか。それはあたかも用意された段取り通り自ら進んでトラップに引っ掛かったようにしか見えなかったからだ。一言率直に言うと、「わざとらしく」見えたから悲劇に感じなかったのだ。こういった場面の場合、「誰にも落ち度のない」ところを描かなければならない。誰にも落ち度はなかった、しかし結果として“思いがけず”トラップに引っ掛かってしまい、“理不尽な”悲劇が起きてしまった。無論のこと、これからどんな事件が起きるのか、見ている側に悟られてはいけない。視聴者がショックを受けるくらいがちょうどいい。

ソードアート・オンライン批評 (15)単純にドラマとしての流れを描くこと。そこに至るまでの物理的経緯をきっちり描き、キャラクターの感情を誰にもわかる描写でくっきりと描く。これは物語創作の基本だが、『ソードアート・オンライン』は全体においてこの基本が欠落していた。ただ、“場面”だけがあり、“感情”だけがそこに描かれていた。
クライマックスを描くための経緯を描かソードアート・オンライン批評 (16)なくてはならない。例えば、画面に走っている男の姿が映っているとしよう。ただ走っているだけでは、何のドラマを感じない。「がんばれ!」と思わない。ただ漠然と走っている男の映像だ。
が、その前段階に、今まさに処刑されようという友人がいて、その友人のために走っている、という経緯があればどうだろう? 走っている男性の映像を見て「がんばれ!」と食い入るように見るだろう。『ソードアート・オンライン』は、全体においてその“経緯”が全く描かれなかった。“場面”“感情”だけを描くのだったら、もう25分という尺すらもいらない。ただのコマーシャルだ。
第3話「赤鼻のトナカイ」は『魔法少女まどか☆マギカ』で例えると、(同じく)第3話での巴マミの死に相当するくらいの重要な場面であったはずだ。一人の少女の死が、キリトの心理に異常に突き刺さり、以後トラウマを抱えて生きていくことになる……。しかし全体を通してみても、そうはなっていなかった。作り手も、そういった意識なくこのエピソードにそこまでの重要度は与えなかった。
「この世界が生まれた意味、私みたいな弱虫がここに来ちゃった意味、そして君と私が出会った意味を見つけてください」
サチはキリトへこんなメッセージを残す。何かしら曰くがありそうな、もしかしてこれが作品の裏テーマではないのか、と色々推測したくなる台詞だが、この台詞にも伏線としての効果はなく、その他のヒロインたちと同じく、使い捨てられた台詞になってしまった。


インスタント・ヒロイン

それ以後の物語は、ゲーム攻略のお話というよりむしろヒロインとの交流が中止になる。全部で99層という壮大なフィールドを持つ舞台だが、そのどこで起きている物語か、などもはや誰も気にしていないし、気にしなくてもいいという状況になってしまった。ただヒロインが登場し、それなりの活躍を見せ、キリトはその介在者としてほんの少々の助力をするだけである。主人公としてのイニシアチブはない。キリトはもはやゲーム攻略に邁進する1人ではなく、客観的にはヒロイン攻略に腐心するだけの人間にしか見えなくなってしまった。

ソードアート・オンライン批評 (7)a第4話「黒の剣士」ではビーストテイマーであるシリカが登場する。使い魔であるピナが死に、蘇生のためにキリトが助力する。
第5話「圏内事件」第6話「幻の復讐者」ではヨルコが登場し、圏内で起きた不可解な殺人事件の謎解きに挑む。ここで血盟騎士団に加わり攻略組として邁進するアスナが登場する。
第7話「心の温度」ではリズベットが登場する。キリトが今以上に強力な武器を手に入れるために、雪山のドラゴンに挑む。結果として、キリトはうんこソードを入手する。
第8話「黒と白の剣舞」と第9話「青眼の悪魔」。ついにアスナ攻略。
第10話「紅の殺意」。アスナとの結婚が決まる。

4話以後の物語を俯瞰して見ると、『ソードアート・オンライン』はヒロインたちのお話というしかない。実際、「ヒロインについて」描かれたお話しかない。こうして見ると、第3話に登場したサチも、このヒロイン攻略の物語の1つのように見えてしまい、より重要度が希薄に思えてしまう。
しかもこのヒロインたちは、この後の展開に何ら貢献することはなく、完全な使い捨てヒロインであった。まさに、インスタントヒロインである。

ソードアート・オンライン批評 (17)長い物語にはどんな意義があるのか。もちろん、作家が最終的に描きたい一つの場面、あるいは感情を最高のものにするために長い物語はある。クライマックスのためである。たった1つのクライマックスをより感情的な1シーンにするために、“必要な経緯”として長い物語が描かれるのだ。(1ストーリー、1クライマックス)
ソードアート・オンライン批評 (18)第4話から第12話までのかなり長いエピソードはまったく無駄ではない。ヒロインの物語という形式を持ちながら、物語中のルールを順当に解説されていた。第4話では不正行為を犯すとカーソルが黄色に変わり、殺人者は赤に変わる。また第4話では「ピナの心」というアイテムが登場するが、これは第12話「ユイの心」に繋がってくる。
第5話ではデュエルについて。デュエルとは何か、から裏ルールまで解説される。
第9話では片手剣、両手剣がスキルという扱いであることを。
ソードアート・オンライン批評 (21)『ソードアート・オンライン』は飽くまでもゲームの世界であり、それなりに独特なゲームルールを持っている。物語と解説のバランスがよく、視聴者がどこかでそのいずれかを見失うことはなかった。
物語をクライマックスへ導くためには、その物語上にどんな約束事があるのかを知らなければならない。それぞれのキャラクターにどんな事情があるのか、どんな約束事があってキャラクターの限界が制限されているのか。そういった一つ一つを積み重ねた上にクライマックスが構築される。そのキャラクターが抱えている葛藤を知っているからその結末が盛り上がる。その世界にある約束事があり、それがキャラクターを縛り付けているから盛り上がる。キャラクターの背景を知ること、物語上の約束事を知ること、(あるいは知らせること)これがクライマックスを描く上で欠かせない重要なプロセスなのである。
が、これらの設定の数々も実はあまり重要ではなかった。では、『ソードアート・オンライン』という作品のクライマックスにおいて、唯一重要だった場面はどこなのか?


ソードマスター・キリト

ソードアート・オンライン批評 (4)ここである。
第10話「紅の殺意」。この最初の場面で、キリトとヒースクリフが対戦する。キリトは猛然と両手剣を繰り出し、ついにヒースクリフを圧倒する――が、不可解な現象が起きる。一瞬世界が止まったような感覚が襲いかかり、ヒースクリフの盾がキリトの剣の切っ先へと移動する。
これがヒースクリフ=茅場晶彦を決定づける唯一の証拠であり、クライマックスを描くため機能した唯一の場面である。
ソードアート・オンライン批評 (13)他の様々な設定や、多すぎるヒロインたちは、実はクライマックスを描く上でほとんど意味はなかったし効果もなかったし機能もしていない。しかもこのヒースクリフとの対戦という場面は、他の場面と比較するとあまりにも印象の弱い場面で、第14話「世界の終焉」で蒸し返されるが視聴者の殆どが「そんな場面あったっけ?」ときょとんとした印象だった。
ソードアート・オンライン批評 (14)それに、キリトがなぜヒースクリフ=茅場晶彦という結論に達したのか、思考の経路が見えてこない。といより思考の経緯がまったくなく、唐突にそう思ったから、で全て片付けられてしまった。それまで様々な設定やエピソードがあったわけだが、ヒースクリフ=茅場晶彦説を裏付ける有機的なファクターが一つもなかった。推理小説で例えると、主人公である探偵が、突然根拠もなく「犯人はこの人だ」、と思ったから事件解決、という感じである。
ということは、キリトがヒースクリフ=茅場晶彦と気付くのは、あの場面でなくてもよかったのだ。もっと早くでもいいし、遅くでもよかった。しかし早かろうが遅かろうが、真相が明かされた時の唐突感は変わらなかっただろう。これまで積み上げてきたどんな設定も、ヒロインたちも、このクライマックスを描くために何一つ貢献してこなかったのだから。どんなタイミングであったとしても、唐突感は変わらず、「あたかも打ち切り作品のようだ」というイメージは変わらなかっただろう。
もしも、それまでに積み上げた設定やヒロインたちの証言が、ヒースクリフ=茅場晶彦というたった1つの事実を浮かび上がらせるためのヒントとして機能していて、ヒースクリフの正体がまさにあのタイミングでしかなかった、となれば作品への印象はがらりと変わっただろう。しかし作品の作り手は、明らかにそのように作らなかった。物語創作の基本を知らなかったからだ。物語のクライマックスが何でどのタイミングで発生するのか、もっと言えばこの原作を通じて自分たちが何を描きたいのか、これを見定めずに現場だけを進行させてしまったから、結末にエモーショナルな躍動を感じることができず、漠然とした印象のまま終わってしまったのだ。

『ソードアート・オンライン』の作り手は、結末だけではなく全体において、“経緯”を描くことに無頓着だった。
ソードアート・オンライン批評 (8)b第5話「圏内事件」の冒頭、あの頃からすっかり様変わりしたアスナが再登場し、大胆極まりない作戦を提案しているが、この詳細について描かれることはなかった。視聴者はアスナがどれだけの力量を持ち、人を動かす能力を持っているか知るチャンスを失った。後に血盟騎士団が組織として動脈硬化を始めている、と語られるが、それがどのようなものなのか、具体的な内容を知ることができなかった。
第6話「幻の復讐者」は前回から続く「圏内事件」の解決篇で、推理ものらしくグリムロックが理由を語るが、アスナのたった一言で論破されてしまう。それまでの感情的な経緯が描かれていないから、なぜアスナの一言がグリムロックが脳内で考え出したロジックの隙になったのかわからない。
第9話「青眼の悪魔」では唐突に「なぜ片手剣なのか」という話題を始める。もっと早くから片手剣というものがスキルであることを語っておくべきだ。これだと両手剣スキルを披露するために無理やり話題をそこに持って行った、という印象しかない。
第10話「紅の殺意」ではアスナの護衛だったクラディールが実は殺人集団ラフィン・コフィンのソードアート・オンライン批評 (11)bメンバーであることが明らかになるが、話の進め方が強引だ。一応伏線として、第8話にラフィン・コフィンのメンバーが登場するのだが、あの一場面では意味がわからないし、伏線として機能していない。伏線のつもり、でしかない。キリトとアスナの恋愛を成立するために、無理やり「そういう設定にした」という印象でしかない。
第12話「ユイの心」ではユイがソードアート・オンラインを構築するプログラム、カーディナルの一部であることが明らかにされるが、やはり唐突だ。なぜ突然に覚醒したのか、ここでもやはり“経緯”が描かれていない。キリトでも勝てない強敵が現れ、さらに強い力を持ったユイがこの強敵を倒すのだが、話の流れが中学生の考えたバトルものみたいだ。話がご都合主義にしか見えなくなっている。
第13話「奈落の淵」ではニシダというキャラクターが登場する。東都高速線の保安部長を務め、ソードアート・オンラインのセキュリティを担当していた。恐らく、このキャラクターと登場エピソードが『ソードアート・オンライン』全体を通してみても問題ありだった。何せ、登場した意味がない。最初の方なら消費エピソードも許されるが、物語は後半の後半、間もなくクライマックス手前という場面である。このタイミングでゲームのセキュリティ担当者が登場するのだから、かなり大きな意味がある伏線かと思って見るのだが、ニシダはこの場面だけの登場人物で、セキュリティ担当者としてゲームのシステムに言及することもなく、茅場晶彦について語ることもなく、何事もなかったかのように目立つだけ目立って物語から退場した。ニシダを登場させた理由を聞きたい。

以上のように『ソードアート・オンライン』には作り手側にあまりにも落ち度がある。なぜこうなったのか、理由を問うまでもなく物語の語り手がいなかったからだろう。ストーリーテラーの不在だ。
ゲームがプログラムの専門家だけ集めれば良い作品ができるわけがないのと同じように、アニメも絵の巧い人間だけを集めれば良い作品ができるわけではない。『ソードアート・オンライン』には物語創作のプロフェッショナルが不在だった。
知識もない、技術もない、経験もない、さらには才能もない、そういう人間がいかに力一杯の情熱を振り回しても、それが的を当てることなく無駄に空転するだけだ。結果なんて出せるはずもない。力一杯手を振りかざしてもそのぶん無駄に消耗するだけ。情熱の炎をどれだけ熱く燃やしても、発電するほどタービンを回すことはない――才能と経験という歯車が間に一つ抜けているからだ。


ストーリーテラーの不在

ソードアート・オンライン批評 (19)『ソードアート・オンライン』はアニメーションとしてみると、全体を通して高い品質を維持した作品であると言える。キャラクターデザインもいい。キャラクターの人気は非常に高く、キャラクターの人気=作品の人気といえるくらいだ。衣装デザインはどれも美しく、虚構の世界に過ぎないから、と思い切ったデザインであった。
ソードアート・オンライン批評 (20)際だって素晴らしかったのは声優の演技だ。キリト役の松岡禎丞、アスナ役の戸松遥の情熱的な掛け合いは引き込まれるところが多く、『ソードアート・オンライン』を実際よりも確実に見栄えのいいものにしている。
だがこのアニメーターによる美しい描写や、声優の素晴らしい演技を支え、方向付けしていくための思考が完全に欠落していた。全体をマネジメントする才能の欠落というか。ある種、総監督の存在しないアニメ、いや総監督としての発想が欠落していたアニメだったと言えるだろう。現場だけがあったアニメ、だった。
もちろんのこと、ストーリーテラーの不在は『ソードアート・オンライン』に限った問題ではない。業界全体が、ストーリーテラーに対する理解が低く、物語の作り方についてないがしろにしてきた。
近い将来、アニメ業界は現場だけで制作する発想だけでは限界にぶち当たるだろう。まずユーザーが飽きる。美少女キャラのパンチラだけでいつまでも興味を引けると思ったら大間違いだ。制作費をもらって現場を押し進めるだけでは間もなく壁にぶち当たって、この躓きがうっかりすると業界を崩壊するかも知れない。
アニメをもっとエモーショナルな文化にするためにも、ストーリーテラーの不在を自覚し、才能の発掘と育成について考えるべきだろう。





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■2011/09/27 (Tue)
BLOOD-C (3)『BLOOD』シリーズはプロダクションI.Gが制作するオリジナルアニメーションで、テレビ、映画、ゲームと媒体を変えながら繰り返し描かれてきた作品であり、プロダクションI.Gを代表するオリジナルシリーズとして高い人気と支持を得ている。物語は制服姿の少女が日本刀を手に迫り来る怪物を薙ぎ倒していくバトルアクションであるが、実は主人公である少女もヴァンパイアであるという宿命を抱える伝奇的なストーリーを特徴としている。
最新作である『BLOOD-C』は人気女流作家であるCLAMPをゲストとして迎え、キャラクターデザインを担当、それからストーリー構成の一部をCLAMPから提供を求め、作品のカラーもCLAMPスタイルに纏め上げられている。

80106d3e.jpg3157a66d.jpg物語の舞台は浮島神社を中心とする小さな田舎町である。浮島神社の巫女である更衣小夜は神主である父と2人きりで過ごし、毎夜のごとく八卦に現れる告げに従い、御神刀を手に「古きもの」と呼ばれる5777b365.jpg5cc309b1.jpg異形の魔物たちと戦っていた。
恐ろしい宿命を背負う小夜だが、一方で日常は穏やかで平和的に流れていった。朝食は近所のカフェ・ギモーブの主である七原文人からいただき、のどかに歌いながら学校へ向かう。小夜のいる教室はわずか20名ほど。同じ教室には網埜優花や双子の求衛ののとねね、委員長の鞆総逸樹、寡黙な時真慎一郎といった友人たちがいた。小夜の昼の姿は、私立三荊学園に通うごく普通の女子高生であった。
そんな二重生活を続けていく小夜だったが、間もなく戦いの最中に不思議なイメージを見るようになる。それだけではない。昼の穏やかに思えた日常の中にも、何か得体の知れない違和感が広がっていく……。

激しいバトルアクションと怪しげな雰囲気をまとった伝奇を絡めた粗筋だが、シリーズを通して視聴し続けると、あまりの退屈さに見る側の体力とモチベーションをじわりじわり削り取られてしまう作品である。
ではなぜ『BLOOD-C』の映像に「退屈さ」を感じてしまうのか。一向に進行する気配を見せないストーリーだろうか。間違いなく違う映像なのに、同じように感じられる映像が何度も繰り返されるせいだろうか。近年のアニメ作品と比較して、一つの画面に描かれる情報の密度が低いせいだろうか。あるいは、その密度の中に、物語の進行を感じさせる新鮮さがないせいだろうか。台詞に際立った才能を感じさせないからだろうか。
おそらく視聴者が感じているのはその全てで間違いないであろう。しかしここでは、あえて物語を構成する設定や、背景の密度の低さを肯定的に受け入れ、もう一つの側面、「主人公が置かれている立場・状況」を中心に話を進めていくとしよう。
『BLOOD-C』の物語はなぜ退屈に感じられるのか。それは「主人公の置かれている立場・状況」がエピソードをいくら消費しても変化が見られないからである。「主人公の置かれている立場・状況」が変わらない、つまりそれは、実質的に「物語が進行していない」と同義であり、エピソード数をいくつ重ねても新しい展開はそこになく、むしろエピソード数を無用に消費すればするほどに視聴者はそのぶん退屈さを募らせ、次の放送を見るたびに失望の度量を大きくしていくのである。

もっと詳しくエピソードごとに“何が描かれたか”“何が語られたか”を見ていくとしよう。
《次の段落まで読み飛ばし推奨》
第1話は基本的な情報が解説される。更衣小夜は浮島神社の巫女であり、父親と2人きりで過ごしている。夜になると御神刀を手に「古きもの」と呼ばれる怪物と闘争を繰り広げている。島で唯一の学校である私立三荊学園には何人かの親しい友人がいる。もう1つ、第1話の重要と思えるキーはどこかの神社の前に佇む変な“犬”だろう。
次に第2話。第1話とほぼ代わり映えのない日常のシーンが描かれる。第1話との違いであり、キーと考えられるのは“ギモーブ”という食べ物。それから無口なクラスメイト時真慎一郎とのささやかな交流だろう。Bパートのバトルイベントの直前、書庫で父・唯芳との対話がある。母も御神刀を手に「古きもの」と戦ったが破れた、という話がある。
第3話。喫茶ギモーブで朝食、学校へ登校、クラスメイトとの日常的な会話が続く。クラスメイトとギモーブを尋ねたところに警官がやってきて、パン屋の主人が行方不明だと告げられる。その夜、小夜は「古きもの」を追い求める過程でパン屋の主人を見つけ、「古きもの」が飲み込み、殺害される場面を目撃する。小夜は「古きもの」に戦いを挑み、勝利するが、「古きもの」は死に際に「主、約定を守れ」と呟く。
第4話は前回の戦いを回想するところから始まる。「約定を守れ」そのことについて父・唯芳に尋ねると「古きものに惑わされてはいけない」と窘められる。その後はこれまでのエピソードで描いてきた日常の繰り返し。喫茶ギモーブで朝食、学校でクラスメイトの談笑、エピソードの後半に入り約束事になっているバトルイベント。その後、もう一度日常が描かれている。昨夜の戦いではかなりの人が死んだ。しかし街では騒ぎどころかニュースにもならず、いつもの日常が続いていた……。
第5話は冒頭からバトルイベントが始まる。一つ目玉の尼僧と戦い勝利する。一つ目玉の「古きもの」も「約定を守れ」と意味深な台詞を残して死ぬ。
Bパートは再び日常の話。雨で体育が自習になったから怪談をしよう、という話になる。そこで先生の筒鳥香奈子が加わり、その街に残る古い言い伝えを“怪談”として語って聞かせる。
「この街では昔から人ではないものが住まっている。それは人と違う形をしているときもあるし、似たような姿で現れるときもある。けれど、どれも同じなの。人を喰らうこと。それはあまりにも強く、人はその前にあまりにも無力で、なくせないものがあっても、愛するものがいても人ではないものには何にも関わりがない。見つかり、襲われれば、喰われていくだけだった。人たちは、なんとかその人ではないものと話し合おうとした。人ではないものの中には、人と同じ言葉を話すものもいたから。けれど、何も変わらなかった」
「なぜ、ですか?」
小夜が震える声で尋ねる。
「人でないものにとって、人は糧でしかないから。そして、人たちはある決意をした……」
とここで一発の落雷が激しく轟き、小夜が気絶してしまう。
その後、小夜は帰宅し、自宅の書庫の本を読む。今日先生から聞いた話を思い出しながら古い本を読むが、そこに何か違和感があるのに気付く。そこに求衛ねねが尋ねてきて、「古きもの」に襲われる。小夜は御神刀を手に戦うが、ねねが「古きもの」に喰われて死亡する。
第6話。前回のバトルイベントの続きから始まり、小夜は「古きもの」を倒すが、唯芳に眠らされてしまう。小夜は自分の部屋で目覚めるが、夢で見た光景を少しずつ記憶するようになっている。小夜は何か危険なものを感じ、刀を持って学校へ登校する。しかし学校は休校になり帰宅することに。その最中、不思議な犬が話しかけてくる。犬は何か知っているらしい。小夜は追及しようとしたが、そこに怪物と化した求衛ののが襲い掛かってきて、小夜はののもろとも「古きもの」を斬り殺す。
第7話。眠れない小夜に犬が話しかけてくる。小夜と犬はどこかで会ったことがあるらしい。犬はとある店の主だった。そこに小夜が尋ねてきた。「ある願いを叶えるために約束した」と犬は語るが、核心を聞く前に目を覚ましてしまう。Bパートは再び日常が描かれる。ギモーブで朝食を摂り、学校へ行くが「休校よ」と告げられて帰宅。その帰宅途中で「古きもの」と遭遇して戦いになる。「古きもの」は饒舌に御神刀の話も、母の話も、唯芳の話も「戯言だ!」と喚き散らした末に小夜に両断されて死亡する。
第8話は前回の続きから始まり、「古きもの」を退治し、時真との交流がしばし描かれる。小夜は時真にこれまでの事の次第を語って聞かせる。神社に帰り、風呂で休息。そこであの犬が現れ、「怪我がすぐに治る自分の体についてどう思う?」「皆を守る約束を破ったらどうなると思う」と尋ねられるうちに、不思議なイメージを見るようになる。しかし唯芳が風呂場に現れたためにイメージは中断される。それから3日が過ぎて、学校に登校するように指示が来る。学校へ行くと「古きもの」が唐突に現れ……。
第9話。前回のラストに現れた怪物が学校を襲撃。ここでクラスメイトのほとんどが死亡し、多くの犠牲を払ってようやく小夜は「古きもの」を撃退する。ここで小夜は、ようやく違和感の正体に気付く。学校の中に、自分のクラスメイト以外の生徒がいないこと。それから、果たして自分は小夜であったのか、疑問を持つように。
第10話。小夜はまだ自問を続ける。そういえば、母の記憶なんてそもそもなかったことに気付く。そう思い当たった直後、神社を「古きもの」が襲い掛かり、時真が「古きもの」の手によって死亡する。Bパート、自分の部屋で目を覚ました小夜は、ギモーブへ行き、文人から朝食を頂く。そこに先生の筒鳥が尋ねてきて、書庫を見せてほしい、と頼まれる。小夜は筒鳥とともに書庫へ。そこで筒鳥は「いつまでこんなバカな遊びを続けるつもり」と。書庫にある本はすべてニセモノと指摘する筒鳥。そこに、死んだはずの求衛ののとねねが現れる……。
第11話。筒鳥、求衛ののとねね、それから時真の4人が集まり、すべて芝居だったと明かす。街は大きなセットで、たまに見かける人はみんなエキストラとして雇われた人たちばかり。みんなある目的のために集められ、監視されていた、と告げられる……。

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bb478d85.jpg749a78df.jpg第1話は視聴者に基本的な情報、設定が解説されるので絶対必要である。物語の背景である街がどんな場所か、主人公である小夜がどんな立場にいて、どんな活動をしているのか。第1話における解説0ad1b153.jpg8e26ac5c.jpgは必要なプロセスだから絶対に外せない。
問題があるのはその後の第2話から第4話だ。断片的に必要なキーワードが散りばめられているが、本質的には何も物語587ab02c.jpgaeb30c87.jpgが進んでいない。今回のテーマに照らし合わせて言えば、主人公の立場・状況に対し何ら影響力を持っていない。第4話までに小夜は様々な戦いを経験してきたが、その戦いが小夜に与えた影響は何もなく、小夜に与えられた立場や状況は何も変化していない。視聴者の立場に立てば、「物語が何も進行していない」というふうに感じられるし、「物語が何も進行していない」というのははっきりとした事実である。
80513e9d.jpg03fc7e1e.jpg第5話に入り、ようやく視聴者は新たな情報を得ることになる。教室での怪談を語る場面で、物語の背景にある“設定”が説明される。
が、残念ならが第5話における“怪談”は594e9dd8.jpgd29fbcd3.jpg物語に対して、あるいは小夜の立場・状況に対して何ら影響力を与える力にはならなかった。なぜなら“怪談”として筒鳥の口から語らえれた“物語”はそもそもその作品が始まる前提から用意f21f73d6.jpgされているものであって、それをあらためて説明されただけに過ぎず、それが新たな物語を展開させる切っ掛けにはならなかった。事実として、その“設定”を聞いた後も小夜の立場や状況、小夜の思想そのものに対して何ら影響を与えることはなく、第1話に前提として提示された物語をその後も繰り返してしまう。
ついでに付け加えると、“怪談”という表装を借りた“解説”自体が間違っている。「雨で何となく暗い雰囲気だから怪談をやろう」という展開からしてかなり突飛だし、筒鳥香奈子から語られた怪談は、ちっとも怪談に聞こえない。聞き手がどう努力しても、「設定を説明しているよう」にしか聞こえないのだ。怪談らしい恐ろしげな雰囲気や怪しさはどこにもなく、台詞が語りらしく聞こえてこない(演技が悪いわけではない)。しかし筒鳥の説明に対して、生徒たちは驚いたり怯えたりする描写が描かれ、最後には小夜がショックで昏倒してしまう。筒鳥の話はただの設定説明でしかない、と勘のいい視聴者は即座に理解するはずだから、語りは怖くも恐ろしくもない。なのに怯えた表情を語りの間に差し挟まれると、あまりにもわざとらしく、しらじらしいという印象になってしまうのである。
どうせだったら訳知りの先輩を登場させて、解説を解説として堂々と説明させたほうが手っ取り早く、自然だ。
6c16a530.jpg作品を退屈にしている原因の一つがバトルイベントだ。小夜は時々目を赤くして、より強い力を発揮するが、その目が赤くなる条件がいまいち不明である。しかも、いつも何人か犠牲になった後で、「なぜもっと早く覚醒しないのか」と突っ込みたくなる。どうせなら、もっと緊張感のあるタイミングで目を赤くするべきだ。「目が赤くなる条件は残りの尺と関係しているのではないか」と言われてしまう原因になってしまっている。
第6話に入り、メインキャラクターである求衛ねね・のの姉妹が死亡する。普通の感覚で言えばかなりショッキングな場面であるはずなのに、主人公の小夜が置かれている状況を劇的に変化させる要因にはならなかった。ねねとののの死が小夜の立場・状況に革命を与えることはなく、小夜はその後も変わらず学校へ通うし、敵である「古きもの」と戦い続ける。
求衛ねねとののの死は、客観的に見て大きなインパクトがあってしかるべきである。それに、真昼の大通りでかなり派手な大立ち回りを演じ、求衛ねね・ののだけではなくかなりの人が死亡したし、街の一角に甚大な破壊をもたらした。にも関わらず、誰一人小夜を通報していないのである。警察は制服巡査がたった1人描かれるだけで、あれだけの死亡者(それ以前にかなりの行方不明者が出ている)が出たのにも関わらず、警察は何もしていないのである。
本来であったらあれだけの破壊と死者が出た場合、通報後20分以内でパトカーがすっ飛んできて(どんな田舎でも離島でも20分以内で現場に到着する、という内規がある)、現場は完全に封鎖、機動捜査隊、鑑識による初動捜査が始まるはずである。救急車もやってくるだろう。どう見ても大きな事件だから、かなりの数の捜査員が現場にやってきて、街は厳戒態勢のような状態に陥るはずである。
それにあの場面で小夜を目撃した人もたくさんいた。あの瞬間、間違いなく小夜は第1級の被疑者として町中に指名手配写真が配布されるはずである。もし警察の目から奇跡的に見逃されたとしても、街の人々による警戒の目、差別の意識は強烈に小夜に向けられるはずである。しかし、実際にはそんな状況にはならなかった。あれだけの怪我人と死者を出したのにも関わらず、町の人たちは小夜に何ら干渉してくることはなかった。
メインキャラクターであるはずの求衛ねね・のの姉妹が死亡した、という点にも注目したい。求衛ねね・ののは第1回から登場してきた、作品を彩る賑やかなキャラクターである。視聴者も――普通ならば――かなり愛着を抱いているはずである。しかし求衛ねね・ののの死に小夜の落胆も悲しみも描かれることはなく、その死が物語に対してドラマティックな揺さぶりを与えることはなかった。視聴者にも少しばかりの――奇妙な――動揺を与えただけで、求衛ねね・ののの死が感動的な感傷を生み出すわけでもなく、そして物語自体にも何ら影響を与えることはなかった。小夜が置かれている立場・状況に対して何ら変化を与えなかった。ただ単に、毎回登場しているキャラの1人が減っただけ、という印象であった。
4bafb4d6.jpg120分の映画の場合、物語を転換させるツイストは3~4回が適切だとされている。20~30分に一度ツイストが入る感覚である。シリーズアニメではどれくらいの期間でツイストを入れるべきか、具体的な方法論が示された例はない。早すぎると受け手が感情移入しづらいし、遅すぎると緩慢に感じる。ただ、シリーズアニメは劇場映画より初期地点から大きな変換とその課程を描けるという利点がある。これは大いに自覚して利用すべきところだ。
7話・8話について何ら解説すべき特記事項は見当たらない。求衛ねねとののの死という――普通に考えて――ショッキングな事件が起きたにも関わらず、小夜はほとんど動揺を見せず、自分の置かれている立場や状況に何らかの疑問を呈することもなく、その後も日常と戦いの繰り返しが描写された。その最中に、断片的で意味深なキーワードがいくつも差し挟まされたが、そのキーワードを受け取って小夜が何かしらのアクションを――物語の方向性を変化させるような抵抗運動的な何かをするわけでもなく、普段どおりの行動をその後も繰り返し続けた。はっきり言えば、無駄打ちエピソードである。
9話に入ってようやく、初めて有意義と思われる変化が作品に訪れる。「古きもの」が突如真昼の学校に出現。小夜のクラスを襲撃し、生徒のほぼ全員を虐殺。
『BLOOD-C』以外の普通の作品であれば、間違いなくキャラクターが置かれている立場・状況を一変させる大事件である。しかしクラスメイト全員死亡、という凄まじい惨劇を前にしても、小夜自身の変化といえば「自分のクラス以外の生徒がいない」ということと「自分自身のアイデンティティ」が少々揺らいだだけであった。小夜自身のこの2つの変化と発見は、よくよく考えるまでもなくクラスメイト全員死亡という事件とはまったく無関係の話であり、「もっと早く気付けよ」と突っ込むべきところである。クラスメイトの死亡という事件が何らかのドラマを引き起こす切っ掛けにならず、物語の状況を次に移すためのステップにすらならず、小夜自身に与えた変化といえば、少々の内的な発見だけで、やはり小夜が置かれている立場や状況に変化は起きなかった。視聴者は「結局なにも変わっていない」と受け取ったはずである。
10話にも記すべき変化は何もない。9話の延長で「古きもの」襲撃後の発見を延々繰り返しただけで、有意義な進展のない無駄打ちエピソードである。
10話をすっ飛ばして11話に入り、死んだはずのキャラクターが再登場して、実は全てお芝居だったと明かす。これが本来の意味で初めて有意義な変化だった、と言えるだろう。停滞に次ぐ停滞が延々続き、初めて目の前のもやもやした霞が晴れたような気分である。恐ろしく長い助走が終わり、ようやく三段跳びの最初の一歩目を踏み出せたような、そんな感慨であった。
11話の展開が、3話か4話までに描けていれば、もっと良かった。
382e6b01.jpgおおよそ意味のないプロットの連続に、物語に何ら変化を与える力を持たないサブキャラクターたち。プロット作りは構造的、機能的意義を持って構成しなければならない。それぞれのキャラクターがどんな役割をもって主人公の立場・状況に介入してくるか。ただ思いついたものを整理せず物語に放り込んだだけではダメだし、何が必要で何が必要ではないか、それは物語を描く前に作り手が厳しく判定を下すべき問題である。(『ゆるゆり』の件はあまりにも特殊な事例なので、比較として取り上げるべきではない)
BLOOD-C (2)ここで最近の優秀作品『シュタインズ・ゲート』を引き合いに出すとしよう。『シュタインズ・ゲート』は未来ガジェット研究所……大檜山ビル2階を主だった舞台としてキャラクターたちはほとんど移動せず、エピソードによっては大檜山ビル2階の1室だけで進行することは珍しくない。未来ガジェット研究所が置かれる秋葉原から外に出る場面は基本的にない(東京ビッグサイトのコスプレ会場に行く場面が例外として少しあるだけである)。物語の半径は秋葉原周辺を限界としてそれ以上周辺に広がっていくことはなく、物語に必要なキャラクターやファクターは秋葉原周辺にほとんど準備されている、という設定である。
ふとすると物語が閉塞的になって、退屈な内容になる危険性の高い設計にも関わらず、『シュタインズ・ゲート』は飛びぬけて面白い。今年一番の傑作であるといっても誰も反論しない優れたエンターテインメントである。
では『シュタインズ・ゲート』と『BLOOD-C』を比較した場合、決定的に違うポイントはどこであろうか。それは主人公鳳凰院凶真……いや岡部倫太郎が置かれている立場・状況が確実な歩みを持って少しずつ変化してくところだろう。それぞれのキャラクターに出会い、タイムマシン発明のヒントを握るIBN5000を手に入れ、SERNと少しずつ関わっていく様を順当に描いている。一見するとゆっくりとした慎重な歩みに思えるが、実際には極めて合理的意図を持って着実に物語が目指すクライマックスに向けて重要なファクターを積み上げていっている。
『シュタインズ・ゲート』の物語が決定的な変化を迎えたのが12話。とある重要人物の死によって、物語は大きな節目を迎える。そこで岡部倫太郎は発明したばかりのタイムマシンを利用し、過去へとタイムリープし、とある人物の死を回避するために、様々な方法を考案し、何度も同じ時間を繰り返すのだが、その段階で、これまでに積み上げてきた全てのエピソードが実はかなり重要な意味を持っていることを岡部と視聴者は知ることになり、愕然となるわけである。
全てのキャラクターの台詞、行動が何らかの意図を持って合理的に描かれており、それらが主人公岡部倫太郎の立場・状況に干渉している。だから物語の舞台が同じ場所の繰り返しであっても退屈は感じない。“物語の舞台自体は移動していない”のに、“物語そのものに移動感”があり、その移動感を視聴者に感じさせるようにしっかり描かれている。
『シュタインズ・ゲート』はユニークにひねくった名台詞の数々も楽しみのポイントであるが、それ以上に人を惹きつけさせる力を持っていた。物語の根本である骨格が太く、揺るぎない強さを持っているからである。近年のアニメ作品群にあって間違いなく良質な一作と言える作品であった。
e752c9d0.jpg漫画・小説養成講座などでは、物語が失速ぎみと感じたら、とりあえず主人公を走らせろ!と教えている。確かに主人公が走るとそれだけで疾走感が出る。走る、飛ぶといった原初的な行動は、読む側に無条件の爽快感を与えるのである。しかし『BLOOD-C』には毎回必ずバトルイベントが挿入されたが、爽快感、疾走感はどこにもなかった。どこかRPGのエンカウントバトルのような、まだるっこしい義務感があっただけだ。それは恐らく、“戦った”という経験に意義を与えられなかったからだろう。
そろそろ『BLOOD-C』に話を引き戻し、この感想文をやっつけるとしよう。
『BLOOD-C』の基本的な設定、キャラクターを変更しないルールで、どのように改変し、描けば退屈しないで視聴が耐久マラソン状態にならずに済んだのだろうか。視聴を飽きさせない重要なポイントは、物語に停滞感を与えないことである。それはどんなにひねくったユニークな台詞を連打したとしても、本質的な“変化”がなければどんな作品でも退屈であると判定されてしまう。
大切なのは物語の構築に“移動感”を意識することである。この“移動感”を描くために、主人公の立場・状況を常に明快にしていくと効果的である。
主人公小夜は夜な夜な「古きもの」との死闘を演じていた。間もなく「古きもの」が小夜に「約定を守れ」と語りかける。そこで小夜は、父・唯芳に疑いを持つようになる……。
『BLOOD-C』の決定的問題は、主人公小夜の性格があまりにも淡白に描かれすぎたことである。「古きもの」と戦い、激しく傷ついても翌日には何事もなく回復してしまっている。「古きもの」に語りかけられても、小夜自身の意識と行動に何ら影響を与えることがなく、前回と同じ行動、台詞を当り前のものとして繰り返してしまう。小夜の設定が磐石過ぎて、そこに動きを感じないのだ。
だから、ここを少々改変すれば作品に動きが生まれる。唯芳に対する疑いが生じると共に、「古きもの」との戦い自体に疑いと迷いが生じ、そもそもなぜ自分が「古きもの」と戦うようになったか、その起源を追跡するようになる(そしてその起源に対しても疑いを持つようになる)
これでかなり退屈な繰り返しの物語から、ある程度の動きが生じたはずである。
それでも小夜は、人々に危害を加える「古きもの」との戦いをやめるわけにはいかず、危険の中に身を置き続ける。だが間もなく「古きもの」は夜だけではなく昼の街中にも現れるようになり、戦いは多くの被害者を生み出すようになる。街の人たち、それから小夜のクラスメイトは小夜の存在を強く意識し、同時に小夜も街の人たちを強く意識するようになる。偏見や差別、誤解がこの両者の間に生まれ、小夜は孤独な立場へと追いやられてしまう。こう描けば小夜の孤独なヒロイズムの側面が強く際立ち、同時に鞆総、時真との関係にメロドラマ的な情緒を生み始めるはずである。『BLOOD-C』はなぜか恋愛物語に発展しそうな要素を避けて描かれていたが、恋愛は人々を強く惹きつけるので、むしろ積極的に描き、あるいは恋愛の匂いを漂わせておくべきである。
小夜は街の人たちから徹底的な排除と妨害を受けながらも、戦いを続けていく。おそらくサブキャラクターたちの心理も追いつめられていき、どこかで限界を迎えるだろう。その両者が限界に達したところでネタ晴らし。「実はなにもかもお芝居だった」と誰かが小夜に明かす。登場キャラクターそれぞれの心理的過程をしっかり描けば、間違いなく緊張感を伴う力強いプロットに変わったはずだ。
何となく意味ありげな台詞やキーワードを物語のあちこちに振りまく手法は何ら合理的効果を持たない。それらの台詞やイメージは視聴者に物語の背景を想像させる切っ掛けを与えるが、合理的効果を予想して配置しないと、ただ単に次の展開や話のオチを予想させるヒントになってしまい、かえって物語を追いかけていく楽しみがなくなってしまう。しかも主人公に与えられている立場や状況にはなんら影響を与えていないのだから、物語を次の段階に移す機会を見出せないまま単に時間(あるいはページ枚数)を消費するだけになってしまう。だから、主人公の立場・状況を明確に意識し、物語に移動感を与えることが大切なのだ。
上に書いた修正プロットだけでは正直なところ、視聴者を惹きつける力を持ちえたとは思えない。だが、とりあえずオリジナルプロットよりはほんの少し退屈さが緩和され、もう少し視聴を続けようというだけの移動感が生まれたはずだ。
物語を本当に魅力的にする力とは、合理的な思考、判断とはもっと違うもの――インスピレーションの強烈さである。傑作を生み出す力とは、常識と意外性の谷間に沈んでいる小さなひらめきである。そのひらめきを見出せない限り、いくら会社命令といえど無理に作品を捻り出すべきではない。どんな企画でも熟成させる期間が必要なのだ。物語に確実な移動感があり、さらにドラマティックな感情の高ぶりをより多くの人に共感させられる力があれば、どんな作品でももう少し高い評価が得られるはずである。
c3458d84.jpgプロダクションI.Gは少し前まで、日本で最も絵のうまいアニメーターを抱える制作会社として世界に知れ渡っていた。しかしその勢いは今どこにもない。つい最近も、アニメファンから最低の評価を受けた『もしドラ』もプロダクションI.G作品だった。今のままではアニメファンから見放され、DVD売り上げも伸びず、それらは会社経営に対して甚大な影響力を持つようになるはずだ。会社は良質な作品を作り続けなければならない。そろそろ名誉挽回のための打ち上げ花火を見たいところだが。
『BLOOD-C』のような明らかな失敗作と接すると、その制作会社に乗り込んで、関係者をしつこいくらい追い回してインタビューし、どうしてそうなったのかどの段階で失敗が生じたのか、その原因を追求したくなる。もちろん一介のブロガーにそんな権限などあるわけがないし、普通は失敗作の原因なんて当事者は振り返りたくないはずだし、ほとんどの当事者は自分たちの創作が失敗だったと認めたくないはずだ(大抵の場合、失敗の原因と反省を受け手の側に求める)
一般的な批評家は、制作スタッフの中に知っている名前を何人か見出し、その数人を“戦犯”という名の生贄と祭り上げる。
しかしそういう批評のやり方は何の意味がない。ただ制作スタッフの中の数人を引っ張り上げて精一杯の力で叩きのめしても、失敗した原因を知ったことにはならず、次の作品に向けた反省にもならない。“祭り上げる”“叩く”はイジメにありがちな典型的な心理状態――ストレス解消法でしかなく、叩けばスッキリするだろうが、反省を見出したわけではなく、次も同じ失敗を繰り返すだろうし、やはり反省がなければ誰かを生贄として祭り上げ、放逐した挙句、そのうちにも組織の力は弱体化していく。
どんな天才的な監督、有能なスタッフが集まっても失敗するときは失敗するのである。
映画やアニメといった集団制作を前提とした作品は、個人が作り上げる漫画や小説と明らかに性質が違う。何が原因で失敗したのか、なぜ作品が失速したのか、その原因を分析するのは容易ではない。まずいって当事者ですら理解できていない場合がほとんどだ。
映画やアニメといった集団制作になると、あらゆる状況が製作過程に出現する。時間勝負でお金が流れ出て行ってしまうので、状況のどこかで一旦止めましょうというわけにはいかない。まるで洞窟の掘削作業のごとく、自分でどこを掘り進めているか見失うこともしばしばある。だから、どこで作品の品質という重要問題にほころびが生じたのか、ある意味、作り手が一番理解できず、作り手が知りたいと思うところなのである。
制作開始までに有能なスタッフが集まらなかったのか。どこかで制作体制に甚大な被害をもたらす障害が生じたのか。単純に制作途上でお金が尽きて、無理矢理スケールダウンしなくてはならず、その影響でストーリー構造にも被害を与えてしまったのか。制作に絶対必要なスタッフが病気で倒れた、というケースもあり得る。どこかの段階で間違いなく最終結果に影響を与える何かが起きているはずだけど、当事者がそれを把握できず、また予測もできなかった。
だからその失敗の事例を収集し、分析し、失敗のパターンをインデックスにして提示できれば、将来的には失敗するケース自体はかなりの確率で減らせるはずである。もちろん、【失敗作ではない=傑作】というわけではない。【失敗作ではない=まあまあそこそこの作品】に過ぎない。だが明らかな失敗作を作ってしまうよりかはマシだと思いたい。
その逆に傑作を作り出すことは容易ではないし、どんな作品も傑作を作るための参考にはならない。大ヒットした傑作を手本にしてそれと同等の精度を持った芸術を作り上げても、そのときには人々はすでに違うパースティクティブの作品を求め始めている(例えばセガは、ソニーのゲーム機を意識して丸みを帯びたホワイトボディのドリームキャストを作ったが、当のソニーはブラックボディのいかめしいトールタイプのゲーム機を作った)。傑作に少々の改変を加えてもダメだ。それだけでもオリジナルが持っていたエッセンスは完全に失われる。傑作とはトランプで作ったピラミッドのような、微妙でぎりぎりの均衡を持って奇跡的にそこに立っているものと了解しなくてはならない(つまり、ほとんどのリメイク映画は失敗する宿命を抱えているわけだ)
だからこそ、傑作ではなく駄作にこそ学ぶべきものはあるのだ。「つまらないから」といって切り捨てるのではなく、「なぜつまらないのか」を貪欲に知ろうとする意識が、作品をよりよくする秘密を知るチャンスを得ることになるのだ。

作品データ
『BLOOD-C』
監督:水島努 原作:ProductionI.G/CLAMP 原作監修:藤咲淳一
ストーリー・キャラクター原案:CLAMP 脚本:大川七瀬、藤咲淳一
アニメーションキャラクターデザイン:黄瀬和哉 総作画監督:後藤隆幸
コンセプトデザイン:塩谷直義 『古きもの』デザイン:篠田知宏 
プロップデザイン:幸田直子 美術設定:金平和茂 美術監督:小倉宏昌
色彩設計:境成美 3DCGI:塚本倫基 編集:植松淳一
撮影監督:荒井栄児 特殊効果:村上正博
音楽:佐藤直紀 音響監督:岩浪美和
アニメーション制作:ProductionI.G
出演:水樹奈々 藤原啓治 野島健児 浅野真澄
   福圓美里 阿部敦 鈴木達央 宮川美保
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■2011/05/03 (Tue)
最後に残った批評

『魔法少女まどか☆マギカ批評・前編』を読む

魔法少女まどか☆マギカ批評2 (8)『魔法少女まどか☆マギカ』は大きな社会現象を引き起こし、それは一時的なムーブメントに終わらず、放送が終了した今でも多くの人に様々な話題を提供し続けている。放送を見逃したという人も、話題の大きさに感化されてニコニコ動画やこれから発売になるDVDやブルーレイでぜひ見たいという動きがある。『魔法少女まどか☆マギカ』は深夜放送にも関わ魔法少女まどか☆マギカ批評2 (9)らず、多くの人が視聴し、ショックを受け、その話題に無関係でいることが難しいくらいの大きな波となった。その影響力について、少し想像してみるとしよう。
まず、漫画・アニメ・ゲームといった分野に魔法少女ものは激増するだろう。魔法少女ものが流行している、とにかく魔法少女ものさえ描けば儲かる――そんな安易な幻想(“勘違い”ともいう)を抱いた魔法少女まどか☆マギカ批評2 (10)経営者たちがいくつもの魔法少女ものの企画をスタートさせるだろう。作家側はいまいち乗り気ではない、というか「絶対外れるだろうな」と思いながらも、ギャラの大きさに断りきれず黒歴史を積み重ねてしまう。そうして無数の魔法少女たちが望まれもせずに生み出され、あるいはそれに準じたジャンルヒーローが大量に放り出され、アニメ・ゲームなどの視覚メ魔法少女まどか☆マギカ批評2 (11)ディアの紙面を埋め尽くすだろう。
かつて『もののけ姫』『エヴァンゲリオン』という2大ヒットアニメが制作された直後、勘違いした社長たちが次々とアニメに投資、大量の作品を作らせたものの、そもそも人手不足のアニメーターに極端すぎるオーバーワークを強いることになり(最近理解したことだが、アニメに詳しくない一般人は、普段のアニメーターは仕事が少ないと思い込魔法少女まどか☆マギカ批評2 (12)み、「むしろありがたい話じゃないか?」と結論づけてしまう傾向にある。どうやらお笑い芸人と一緒という前提があるらしく、アニメの仕事は大量の過労死を生み出す激烈な仕事、という事実はなかなか了解してくれない)、結果的にアニメ全体のクオリティを引き下げる結果となった。『魔法少女まどか☆マギカ』実体的な黒字実績はさほど大きくないから『もののけ姫』『エヴァンゲリオン』当時ほどの大きな動魔法少女まどか☆マギカ批評2 (13)きは起きないと想像されるが、結果的にアニメのクオリティを引き下げてしまうような現象を引き起こす可能性はある。
それから、漫画・小説のコンテストに大量の魔法少女ものが送られてくるだろう。もっとも、今のこの時期に魔法少女ものを描けば、それだけで『魔法少女まどか☆マギカ』の影響と見做され、下読みに本編を読んでもらえず梗概だけで落とされるだろう(下読みはまず梗概だけで落とす)。最終審査に残る作品に魔法少女ものは1本も残らず、漫画・小説コンテストの背景にそんなことが起きてるなど我々は知る切っ掛けもないだろうが。とりあえず、もしライトノベル作家志望が今これを読んでいたら、こう忠告したい。余程の独創的なアイデアがない限り、少なくとも10年間は魔法少女ものは禁じ手にすべきだ、と。
9e70c077.jpgインキュベーターの語る「エントロピー」の解説が正しくない、という指摘がある。物語内における原則に矛盾がなければ現実世界の法則を多少捻じ曲げても問題ない。物語世界に矛盾がない状態のほうがよほど大事だ。が、この種の周辺知識的な描写は可能な限り現実の法則に学び、一致させたほうがよい。現実的な描写や法則を取り入れれば取り入れるほどに物語の真実味は増大するし、一般的な認識において、「リアリティ」の密度がより高い作品ほど上質な作品と考える傾向にあるからだ。リアル云々を重視しすぎてしまうと、女の子が魔法で変身する、という設定自体リアリティがないという話になってしまうが。
それからもう一つの影響――ストーリー展開、あるいはそれに準ずる性格を取り入れた作品がいくつも生み出されるだろう。かつて『エヴァンゲリオン』が社会現象をもたらした後、漫画・アニメの主人公たちの性格が暗くなり、物語の展開も憂鬱気味に、それからとりあえず(展開の必要、不要に関わらず)内面世界に逃避・埋没していく場面が描かれるようになった。
「影響」は決して悪いことではないし、非難されるような状態ではない。『エヴァンゲリオン』のヒットの後、誰もが『エヴァンゲリオン』の真似をした。みんな不器用に自身の創作、あるいは企画の中に『エヴァンゲリオン』を取り入れ、漫画・アニメの業界は一時的に(うんざりさせられるほど)『エヴァンゲリオン』の模造品だらけになった。
だが結果的に、漫画・アニメは以前より良くなった。登場人物はより深い内面まで描かれるようになったし、ストーリーは現実的な背景をしっかり描写されるようになり、何より画面の精度は確実に上がった。いま『エヴァンゲリオン』を再び見ても、そこから何かを見出すことはできない。かつてあれほど影響力を持ったはずの映像、ストーリーは今となってはどこにでもある平凡な創作物の一つでしかない。はっきりいえば、ただの古いアニメである(あの古臭い作品を未だに神聖視する人は多いようだが)。当時の感覚でいって『エヴァンゲリオン』という作品のショックを乗り越えるためには、その作品をひたすら模倣するしか方法がなく、結果的に時代は『エヴァンゲリオン』を踏み越えてそれ以上の作品を作り出す力を、あるいは方法を獲得したのだった。時代は『エヴァンゲリオン』を踏み台にして、確実に一歩上の段階へと突き進んだのだ。
それでは『魔法少女まどか☆マギカ』からどんな影響が想像されるだろう。『魔法少女まどか☆マギカ』というショックを人々はどのように乗り越えていくだろう。重要と思われた人物の強制的な死亡だろうか。主人公の意のままにならない残酷なストーリー展開だろうか。『魔法少女まどか☆マギカ』の物語の特徴は、登場人物たちの想いがただひたすら伝わらないことだ、という見方もある。あるいは魔法少女ものではなく、別の古くからあるジャンルヒーローを『魔法少女まどか☆マギカ』と同じルールで再構築する、という描き方だろうか。
しかしその模倣の方法では『魔法少女まどか☆マギカ』というショックを乗り越え、創作の意識をそれ以上の段階へと押し上げることはできない。作家たちはいつか『魔法少女まどか☆マギカ』以上の作品を生み出さねばならず、それができなければ視聴者は「いくら見てもあれ以上の感動が得られることはない」とアニメの視聴自体に飽きてしまう。作る側の成長速度よりも、見る側の「目が肥える」速度のほうがよほど早いのだ。だから『魔法少女まどか☆マギカ』はどのように物語が構成され、展開していったかそれを解体し、分析していく必要があるのである。『魔法少女まどか☆マギカ』は小さな町が舞台で、主要登場人物はたったの6人だけである。それがいかにしてあれだけの大きなスケールを持ち、あれだけの大きなエモーションを演出できたのか。そのスケールを操作する方法について、見ていきたいと思う。
a138ef0b.jpg鹿目まどかの母・鹿目詢子とそれからクラス担任の早乙女和子の会話シーン。ここで2人が実は古くからの友人であることがわかる。鹿目詢子と早乙女和子は物語にほとんど関与しない脇役であるが、面白いくらいディティールはしっかり作られ、登場回数は少ないものの極めて強い印象を残す。この2人を中心に据えたエピソードがなかったことが実に惜しい。

改めて『魔法少女まどか☆マギカ』の物語をそれぞれの構成要素に分解してみよう。
中心点―鹿目まどか
時間遡行者―暁美ほむら
第2の中心点―美樹さやか
前任者―巴マミ
介入者―佐倉杏子
使者―キュゥべえ
その他―上条恭介/志筑仁美
とりあえず中心的な物語を構築する登場人物は以上の8人だ。鹿目まどかの家族を含めるともう少し増えるが、さほど物語に介入してこないから必要ないと見做す。ちなみに物語の舞台となる場所は主人公たちが暮らす街一つだけである。
次にエピソードごとにおける物語の構成である。
96b19418.jpg1~3話までがこの物語における基本的な解説である。魔法少女の前任者であり指導役である巴マミと出会い、そして死による別れが描かれる。巴マミの死によって、物語の本質的な過酷さが直裁的に視覚化される。巴マミは自ら死ぬことで、物語の背景的な重さを解説し、鹿目まどかと見る者に警告を与えたのだ。
14dd468a.jpg4~9話は鹿目まどかは物語の中心点という役割を一時的に美樹さやかに譲り、美樹さやかは魔法少女としての運命を代弁する。美樹さやかの物語の中に、上条恭介と志筑仁美の恋愛物語が描かれ、さらに佐倉杏子が介入してくる。「魔法少女とは何であるのか?」この物語上の命題は巴マミが解説した段階よりもさらに次の段階へと進んでく。
「魔法少女になると魂がソウルジェムに移され、肉体は死亡する」「ソウルジェムに輝きが失われると、魔法少女は魔女に変化する」この事実が明かされる頃、キュゥべえの正体がにわかに明らかになって行き、それぞれの関係性にコペルニクス的転回が起きる。自身の肉体の死と失恋に絶望した美樹さやかは、終局的に魔女に変化し、魔法少女としての運命を解説する役割を終える。巴マミと同じように、美樹さやかも自ら死亡することで、物語の本質的な“設定”を説明したのである。
ここまでの途上で、この物語における重大なテーゼが解説されている。
「魔法少女になるためにはキュゥべえと契約しなければならない。その契約とは、希望を一つ現実にすることである」
「ただし、この希望を叶えられると同時に、その主体はそこから消失する」
「間もなくソウルジェムは呪いを吐き出すようになり、魔法少女は希望の代弁者ではなくなる」

最大の希望を叶えた後に残るのは絶望だけ――というわけではないが、魔法少女たちは自身の魔法少女まどか☆マギカ批評2 (6)希望に裏切られるわけである。自らの延命を願った巴マミは早々に死亡し、幼馴染の治療を願った美樹さやかはその幼馴染に裏切られ、佐倉杏子もやはり父親のために願い、父親に裏切られるという末路を経験している。魔法少女は自身が願った希望の当事者には絶対になれないのである。魂を天秤にかけた希望は結局幸福を生み出さず、だから魔法少女は恨み――呪いと絶望を吐き出すようになり、最後にはその本質を攻撃と破壊のシンボルへと変えてしまうのだ。
第10話は以上の前提を踏まえながら、もう一つのツイストである暁美ほむらが抱えている秘密が描かれる。暁美ほむらの過去――その物語が始まる以前に、どんな経緯があったのか。暁美ほむらは何を望み、魔法少女になったのか。ここでそれまで停滞していたかのように思われていた鹿目まどかが再びクローズアップされて、実は物語の大きな中心点に立つ重要な存在であったことが明らかにされる。【暁美ほむら―鹿目まどか】の物語を背景に置きながら【美樹さやか―佐倉杏子】の物語が描かれ、その物語に必要なルール設定が説明されていたわけである。
ちなみに暁美ほむらの願いは「鹿目まどかとの出会いをやりなおす」ことであった。その願いは確かに叶えられたが、鹿目まどかの死という結末だけが回避できない。だがそれでも暁美ほむらのソウルジェムが真っ黒な絶望に満たされないのは、「やり直し」が可能だったからだった。やり直しが可能である限り、暁美ほむらのソウルジェムは決してほむら自身を魔女に変えることはない。14d6a99f.jpgしかし11話のラスト、鹿目まどかは絶対に救えないという事実に行き当たり、ついにソウルジェムは真っ黒な闇に反転する(暁美ほむらは鹿目まどかを救うのではなく、鹿目まどかに救われなければならなかったのだ)。どうやっても魔法少女は自身が叶えた希望の主体にはなれず、最後に残すのは絶望という運命なのである。
物語はこうして終局面である11話12話へと向かっていく。10話までの物語によって必要な設定“ルール”が説明され、2つのツイストによって重要なキーワードが提示されている。
1つめのツイストはキュゥべえが黒幕であること。2つ目のツイストは時間遡行者である暁美ほむらの過去。
キュゥべえが黒幕という事実により、魔法少女という運命の全容が説明された。魔法少女になるためには強い願いが必要であり、願いが叶うと魂は肉体から分離されソウルジェムへと移される。ソウルジェムは間もなく恨みや呪いを吸い込み、吐き出して魔女へと変化する。これらは全てキュゥべえの企みであり、エントロピーを得て宇宙の延命を図るためであった。ここで重要なのは大きな望みが魔法少女を作り出す、という部分である。
もう一つのツイストは暁美ほむらの存在である。1つ目のキーワードを前提において、ほむらは時間を逆行して鹿目ほむらを死の運命から救い出そうとした。しかし何度繰り返してもその試みは失敗に終わり、時間遡行を繰り返すたびにまどかに絡んだ因果の糸は強くなり、物語におけるまどかの重要度は肥大化していった。

『魔法少女まどか☆マギカ』を支える最終的なキーワードは上の2つである。「魔法少女になるためには強い願いが必要」「暁美ほむらの過去」。この2つのキーワードを基本構造として背景に起き、どこまで深くドラマを描きこんでいけるか、あるいはスケールを大きく描けるか。
物語を構築する基本的な構成は、シンプルであればあるほど良い。ここを複雑にすると、物語の本質を見誤り、作る側も見る側も何となく「?」という状況になり、そこから魅力的な作品が生まれることはない。物語の本質となるキーワードは常にシンプルで、もっといえば簡単な形に視覚化できるものが望ましい。大きなバジェットで作品を創作する場合は、このキーワードはワンフレーズのスローガンにして、チーム全体が常に目にでき、自身が作ろうとする本質を再確認できるようにするべきである。
その物語において何を語るべきなのか。それからどの程度の規模の物語を描くつもりなのか。基本的なキーワードが持っている可能性、強さ、そのキーワードから構想されるスケールの全体スペースを計算に入れつつ、作り手はテーマの設計をじっくり吟味しなくてはならない。物語がどの程度の規模を持ち、結末に何が描かれるか、そして見る者にどの程度のエモーションを提示できるのか。すべてを逆算し、絞り込み、中心的な核を見定めた上で作り手はキーワードの選択を行うべきである。
基本的なキーワードをシンプルに設定しつつ、その上にどんなディティールを描くべきか。基本的なキーワードがシンプルな力強さを持っていれば、その上に描かれるディティールがどんなに複雑怪奇な有象無象であっても、作る側も見る側の物語の本質を見失うことはなく、物語の本質は変わらず強い輝きを放ち続ける。むしろディティールを複雑に描いたほうが、映像はもっともらしい力を持ち始める。だから基本的なキーワードがシンプルでありながらどれだけの力を持ち得るか、それを思いつくこと自体に作家の構想力=《実力》が試される。
物語とは登場人物の感情のぶつかり合いを描くものであるが、同時に作家の思想・思考を具体的な形にして提示する唯一の方法である。だから物語とは、一つの思想である以前に、作家自身の人格である。物語とは仮定として構築された宇宙であり、世界である。集合無意識から分離された世界であると同時に、集合無意識的なものを包括する世界である。作家はいかにして物語を思考し、構想し、世界を構築していくか。そのドラマが描く感情がどれだけの人々に動揺を与えられるか。そしてどれだけの影響力を持ち得るか。それを想定するために、シンプルでありながらより強い力を持ち得るキーワードの設定が必要なのである。
『魔法少女まどか☆マギカ』の場合は、上の2つがキーワードとなり、そのキーワードが前提となって登場人物が配置され、結末に向かっていくドラマが描かれた。シンプルなキーワードは、『魔法少女おりこ☆マギカ』『魔法少女かずみ☆マギカ』といったシリーズを生み出す拡張性を持ち得る。作家の構想は大成功である。宇宙そのものを飲み込む結末を生み出した構想力の凄まじさは、普通に考えられるイマジネーションを大幅に飛躍し、クライマックスが提示したエモーションの強さはかつて体験したことのない恍惚と陶酔をもたらした。シンプルでありながら強い力を持ち得るストーリー。脚本家・虚淵玄はこの課題を完璧な解答を示して乗り越え、魔法少女》をより新しく、刺激的で、感動的な叙事詩に変えて今の時代に復活させた。
a920481f.jpg第10話の放送後、東日本大震災の影響により11話12話の放送が大幅に延期になってしまった。しかしその間にアニメファンの熱狂はどこまでも高まり続け、「客席は充分に暖まった」状態になっていた。それに11話12話はひと連なりになった前後編であり、これを分離して放送することはありえなかった。放送の延期と2話連続放送。むしろこのことが『魔法少女まどか☆マギカ』という社会現象をより大きなものにした。


わたしの、最高の批評

魔法少女まどか☆マギカ批評2 (14)脚本家の構想が完了すれば、後は芸術家の仕事だ。その場面をどのように描き、キャラクター、俳優に誰を選択するか、どんな音楽を映像に当てはめるか。構想に間違いがなく、どこにも矛盾も破綻もなく、それでいて素晴らしいクオリティの高さを示すことができていれば、後は余程の間違いがない限り、芸術家が余程の無能でない限り、作品は成功す魔法少女まどか☆マギカ批評2 (16)る。
『魔法少女まどか☆マギカ』は構想の方法について、重要を思えるキーワードを提示してくれた。しかしそのキーワードを充分に活用するためには相応の実力が必要であり、また野放図に展開させるスケールの大きなイマジナリィが必要だ。小さな笑いを積み重ねただけの小手先の技だけがいくらうまくなっても、陶酔と魔法少女まどか☆マギカ批評2 (18)恍惚を持ったクライマックスを描くことはできない。
日本のアニメは間違いなく世界最強のポテンシャルを持っている。日本以外のテレビアニメと比較すると、日本のテレビアニメのクオリティは異常なレベルであるといっていい。しかし、劇場アニメの分野で見ると、西洋のアニメに1歩2歩も遅れている。ピクサーやドリームワークスが制魔法少女まどか☆マギカ批評2 (19)作するアニメが稼ぎ出す興行収入と比較すると、日本のアニメは完全に敗北している。ストーリー、アクションを比較しても、日本のアニメが勝てそうな分野といえば、せいぜいバイオレンスとセクシャリティだけであり、日本以外の多くの人たちが日本のアニメに注目し期待しているのは、実際には暴力とエロだけだ。クエンティ・タランティーノも、安っぽい暴力と魔法少女まどか☆マギカ批評2 (20)エロにまみれたグラインドハウスで日本のアニメを知り、詳しくなった。
なぜか? 長編物語を構成するためのノウハウがまったくないからだ。物語の結末を見定め、どのように描き、スケールを操作するのか。あるいはクライマックスに向かってどのように物語を組み立てればいいのか、誰も知らないからだ。アニメ映画のほとんどが無計画にストーリーが進魔法少女まどか☆マギカ批評2 (21)行し、意味のない台詞をいくつも積み重ね、後半に進むほど退屈な中だるみが増大し、なにやら哲学的な台詞やシーンが描かれて何となく映画が終わる。作り手のその時の気分が徒にフィルムに投影されただけで、一貫したテーマ、あるいは主体性を見出すことができない。だから映画作りのプロであるハリウッドの製作者に日本のアニメは敗北し続ける魔法少女まどか☆マギカ批評2 (22)わけだし、日本のアニメがマニアックな一部の人たちの趣味という範疇から抜け出せず、閉鎖した印象を持たれてしまい、そうすると当然市場も閉鎖し、アニメーターの給料体制(最重要事項)も一向によくなるわけもない。
大きな構想、それから大きな予算をふんだんに利用し、大きな作品を組み立てるための方法論を知らないから、これだけ魔法少女まどか☆マギカ批評2 (23)の高いポテンシャルを持ちながらそれ以上の広がりをもつことができないのだ。日本のアニメは何でもない日常を切り抜いた作品を描くことを得意としているが、それは「同じ文化圏」にいる人たちにのみ有効な表現なのであって、日本以外の人たちにとっては「?」だし、下手すると同じ日本人にすら文化を共有していないと「?」である場合もある。作品のほと魔法少女まどか☆マギカ批評2 (24)んどは同じ予算で同じスケールで構想が組み立てられ、だから描けるものの限界も同じで、それ以上の、その向うにあるものが何であるのかの想定もできないないし、描こうともしない。今の日本に必要なのは、「うまい味噌汁の作り方」ではない。そんなものは誰でも作れる。必要なのは巨大建築を構想するようなスケールの大きく、それでいてコケ脅しではない骨の通った堅牢なるモニュメントを作る力である。
『魔法少女まどか☆マギカ』は大きな作品を作るための基本的な構想の手法をほんの少し、断片的に示してくれた。あとはどのように自分たちの作品に取り入れていくか、である。始めに書いたように、「影響」を受けることは決して悪いことはではない。自身のものとして体得できるまで、何度も繰り返し「真似」して「パクれ」ばいい。かつてアニメ・ゲームのストーリーが何を見ても『エヴァンゲリオン』の模倣になったように、徹底的に影響を受け真似して、その末に『エヴァンゲリオン』を踏み越えてそれ以上の作品が描けるようになればいい。『魔法少女まどか☆マギカ』もいつか「ただの古くさいアニメ」になるだろう(いつまでも当時の価値観、当時感じた感情を引きずって神聖化する連中はいるだろうが、そういうのは無視して結構)
『魔法少女まどか☆マギカ』はアニメに対する意識を一段階止揚する切っ掛けを与えてくれた。これを切っ掛けに、同じ品質のアニメをただむやみに量産し続けるだけの今の状況から、もう少し野心的で挑発的な作品を作ろうというモチベーションが生まれればいいと思う。

魔法少女まどか☆マギカ批評2 (25)

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■2011/04/18 (Mon)
批評なんて、あるわけがない

2010年の終わり頃。アニメは二つのオリジナル作品の発表に沸き立っていた。山本寛監督『フラクタル』、そして新房昭之監督『魔法少女まどか☆マギカ』の二つだ。
魔法少女まどか☆マギカ批評 (59)いずれも今のアニメ界を代表するアニメーション監督であり、2人の優れた傑作の数々は常にアニメファンの話題の中心であり、作品を発表するたびに熱狂的な支持者の一団を生み出し、制作会社にはありがたい黒字を提供してきた。その2人が同じタイミングでオリジナルストーリーを創作し、ぶつけ合う。
果たしてどちらの作品が勝利を収めるのか。批評家はどちらを支持し、アニメ雑誌はどちらに多くのページ数を割くのか。あるいは、DVD・ブルーレイ売り上げはどちらがランキングを独占するのか。言語数、売り上げ枚数、インターネット上のページ枚数、アニメファンはどちらが高い数字を獲得するのか、冷静に見守った。
魔法少女まどか☆マギカ批評 (60)結論を言えば――というかすでにあからさまな結論が出ているのだが、勝者は『魔法少女まどか☆マギカ』だった。圧勝という言葉が相応しい勝利だった。
インターネット上の話題は完全に『魔法少女まどか☆マギカ』が独占。普段アニメを見ない、という層までも熱中させ、DVD・ブルーレイ売り上げは、予約だけでも『けいおん!!』を越え、本格的に販売がスタートすれば『化物語』のレコードを越えるだろう。新房昭之監督は売り上げ、批評家評価の1、2位の両方を獲得したことになる。
一方の『フラクタル』は放送開始からわずか一ヶ月目には誰も話題にしなくなり、おびただしい数で制作され放送されるアニメ群の影の中に埋没した。山本寛の名前と『フラクタル』という作品自体は辛うじて忘れられずに済んだものの、情報を見つけてもそこにあるのはあまりにも辛辣なネット批評家たちの罵詈雑言だけである。扱いで言えば、今期もっとも安易なストーリーとキャラクターで制作された『インフィニット・ストラトス』よりも遥かに下、それも東京タワー最上部から見下ろしたマンホールの穴の底、とういうくらいが相応しい扱いであった。
791a0825.jpg第1話においてまどかの家族環境が詳しく解説された。まどかという人物を知る上で大切なファクターであるが、第1話以後、この家族はほとんど顔を見せなくなった。母親は度々登場するものの、父親は第3話に1度だけ。弟の存在は完全に物語から消失した。監督の意思としては、もう少しこの家族を描いてみたかったらしく、実際にその余地は充分にあっただろう。が、全12話という尺度の都合上、消える以外になかった。
『魔法少女まどか☆マギカ』も『フラクタル』も番組放送直前にあっても、徹底した秘密主義が貫かれていた。大雑把で抽象的な言葉が並んだ「あらすじ」と、いくつかのキャラクターイラストのみ。魔法少女まどか☆マギカ批評 (7)担当声優は明かされたものの、それがどういったキャラクターで、どのように物語、あるいは主人公と関わっていくのか、まったく不明だった。『魔法少女まどか☆マギカ』に至っては当初、脚本家である虚淵玄の名前すら明かされていなかった。
その物語がどう転んでいくかわからない。どちらも原作なし、という緊張感に満たされていた。
原作なし、という緊張感を効果的に発揮させられたのは間違いなく『魔法少女まどか☆マギカ』だ。『魔法少女まどか☆マギカ』の物語は落ち着いた語り口で順当に展開していった。2人の主人公である鹿目まどかや美樹さやかの立場、謎めいた転校生である暁美ほむら、魔法少女として艶やかな活劇を披露する巴マミ――。1、2話においてはまず必要であると思われる物語上のルール設計が語られた。魔法少女になるにはキュゥべえに見出され、キュゥべえと契約しなければならない。その契約条件は一つだけ願いを叶えること……。それから魔女と戦い、それで得られるグリーフシードを使うことによって、濁ったソウルジェムの輝きを取り戻すことができる。
1話2話は解説に徹底され、ドラマが動き出したのは第3話からだ。魔法少女になるための決意を固めるまどか――しかしその直後、巴マミが魔女の攻撃に油断し、死亡する。
魔法少女といえば女児の見るもの。可愛らしいキャラクターが登場し、甘いお菓子のようなストーリで、決して誰かが死んだり、思いがけないトラブルに見舞われることは決してない。巴マミの死亡はその定石を木っ端微塵に砕き、アニメユーザーに痺れるような緊張感を与えると同時に視線を釘付けにした。巴マミの首切りシーンは今や「誰もが知る有名なアニメの一場面」の一つに数えられるくらいである。第3話のラストシーンを切っ掛けに、物語の激鉄は派手な炸裂音を撒き散らしながら放たれたのである。
4e0b3d61.jpg蒼樹うめのキャラクターは正面、ななめ、横といった決まりきった構図は存在するが、その中間を埋める絵がない。振り向きの中コマにどうしても不自然に見える絵が入ってしまう。顎の下の空間もなく、アオリからの絵が見せられないという問題がある。平面的な構図を強調した『ひだまりスケッチ』とは違い、アオリ俯瞰といったダイナミックな構図で絵が多く、作画スタッフはかなり苦労したらしい(みんな顎の下よりスカートの中を気にしたようだが)。
その後のストーリーは、どこまでも色調は暗く沈み、暗澹極まる展開を見せていった。第4話から第9話までは、活動が停滞するまどかに代わって(何者かによってまどかの活動に制限がかけられていた)美樹さやかが主人公となり、《魔法少女の運命》を代弁する。
幼馴染の上条恭介の腕の治療を代償に魔法少女になる美樹さやか。が、上条はさやかの友人である志筑仁美とすでに懇意の仲であり、間もなくその関係は成立する。同じ頃、美樹さやかの前に佐倉杏子が立ちふさがり、魔女との戦い、上条恭介との関係など、ことあるごとに妨害する。
そうして間もなく、キュゥべえが意図的に隠していた魔法少女というものの真実が明らかになっていく。願いを叶えられたと同時にその肉体から魂が抜き取られ、ソウルジェムに移されること。魔法少女の本体自身は“死亡”したことになる。
上条との失恋と、自身の肉体の死亡に絶望したさやかは、自分の身を破壊するような危険な戦い方にその身を投じていく。さやかの狂気はやがて濁った憎しみを撒き散らすようになり、膨れ上がった憎しみは、さやか自身を魔女に変えてしまう。魔法少女の末路――それは魔女になることであった。
9f1ed9a0.jpg全面ガラス張りの教室や、液晶パネルの黒板、不思議な様式美を持った自宅に、カットごとに変わるおびただしい数の椅子……。前衛的に思えるが、前者においては全て実際の風景にあるから、後者においては実写ドラマではすでに取り入れられているから、という理由で採用された。現実的に考えると「?」な描写も多々あるが、その場面における印象の強さが優先された。特にアニメは生活空間の描写が苦手で、背景と書割を取り違えていることが多いだけに『魔法少女まどか☆マギカ』から学ぶべきところは多い。
魔法少女まどか☆マギカ批評 (8-9)一つ一つの物語は順当に解説され、謎掛けと解明のバランスがよく、一幕一幕がひとつのドラマとして実に心地よい区切り方を心がけられている。主要登場人物は(キュゥべえを含め)わずかに6人魔法少女まどか☆マギカ批評 (10-11-12-13)――推理小説マニュアルが推奨する容疑者と同じ数であり、物語はミステリ並みの謎掛けの連続で、次の一手を容易に明かそうとしない。驚きの解明は決してコケ脅しにならず、周到な準備を持ってドラマの中に組み込まれている(ツイストが2重に仕掛けられている構造も素晴らしい)
たった6人だけで展開していく物語だが、魔法少女まどか☆マギカ批評 (14-15-16-17)その構造は堅牢な強さを持ち、物語の中で完全なる小宇宙を形成している。
特筆すべきは、「視聴者の感情移入」の強さである。これは作り手が意図して操作したいと思ってもできず、それこそ創作における神頼みの部分である。その物語が支持されるか否か――映像作品の制作は1本で1億のお金が吹っ飛ぶものである。ハリウッドのブロックバスターなど魔法少女まどか☆マギカ批評 (17-18-19-20)は100億円前後が1本の映画製作に消費される。それだけのお金を消費して支持されなければ? 映像制作はひとつの博打であり、誰もが応援して欲しいと思い、願い、時には色々仕掛けたりするものである。
読者による「感情移入」はある程度なら作り手側にも操作可能である。主人公の立場をとにかく丁寧に、順当な準備を魔法少女まどか☆マギカ批評 (21-22-23-24)持って解説することである。物語とは主人公を介して語られる一つの世界観である。主人公は物語という非日常的な空間と立場の中心に立ち、その世界構造の解説者となる。読者がその物語の主人公の立場を理解し、感情的な経緯に共感し、同情するようになれば、その物語は成功である。読者は主人公と一体となり、あらゆるアクロバティックな展開が迫魔法少女まどか☆マギカ批評 (25-26-27-28)ろうとためらいもなく、同じ大きさの勇気を抱いて危険の中に飛び込んでいくようになる。
最近はネットの力によって、読者の声(リターン)は凄まじい速度で返ってくるようになった。かつて視聴者の声は番組を放送した後、少数の気まぐれを持った何人かがその想いを葉書にしたため、それが放送局、制作会社と長い長い旅をしてよ魔法少女まどか☆マギカ批評 (29-30)うやくどんな反応を抱いたか、感情を抱いたかを知ることができるのである。それが今や、リターンは一瞬である。特にニコニコ動画では、夥しい数のコメントによって、視聴者がどの場面でどんな感情を抱いたか、あるいは一つのシーンや台詞でどれだけの人が反応したのか即座に知ることができる。作り手にとって若干怖いところもあるが、視聴者の意識を正確にトレースするシステムを獲得したことにより、映像制作はよりスリリングになったし、視聴者の声を即座に制作に反映させられることも可能になった。視聴率などという古いシステムは、もうとっくに博物館行きの過去の遺物である。
『魔法少女まどか☆マギカ』はその感情移入の効果が絶大な力を持って発揮された。物語中、美樹さやかは暁美ほむらや佐倉杏子といった魔法少女たちに失望し、死んだ巴マミを理想化、神聖視するようになっていく。同じ現象が視聴者の多くの内面に起きたようだ。巴マミの死亡にショックを受けた多くの視聴者は、その想いをイラストに描き出すだけではなく、巴マミの映像集を制作し、中には巴マミが生存する「もしも」を題材にしたオリジナルゲームを作成する者まで現れた。
ここまでの動きの中で作り手は何一つ介在していない。通常は作り手側が何かしら仕掛けをし(例えば映画CMで「『まどか☆マギカ』チョ~サイコ~」とか言うあれだ。バカらしいが大多数の一般人には効果がある)、ユーザーの多くがそのお祭り騒ぎに揺り動かされていくものだが、驚くべきことに『魔法少女まどか☆マギカ』の作り手は何一つユーザーの活動に手を加えていない(単純にプロモーションのお金がなかったのだろう)。『魔法少女まどか☆マギカ』を見た決して多くもないユーザーがそれぞれで自発的に活動し、現在に至るまでの大きなムーブメントを作り出していったのだ。
作り手による感情移入の仕掛けは見事に成功。『魔法少女まどか☆マギカ』の物語は読者の心を完全に、それも決別不能なほどの密着度で鷲掴みにした。こういった状態になれば、クライマックスでよほどの間抜けをしない限り、『魔法少女まどか☆マギカ』は批評、ソフト売り上げの両方で確実に成功する。『魔法少女まどか☆マギカ』の企画は、まさに大成功であった。
e18a0651.jpg物語の真相が明かされる第10話だがやや疑問がある。例えば『ワルプルギスの森』の出現について、何故まどかとマミはあらかじめ知っていたのだろう。それから魔法少女になると魂がソウルジェムに移されてしまうという設定だが、これはキュゥべえが秘密にしていたことのはず。どうして巴マミはこの秘密を知っていたのだろう(最終的にほむらも知らなくてはならないから、矛盾ではないが)。物語中に描写されなかったどこかで説明された、ということになっているのだろうか。とにかく尺度に限りがある急ぎ足のエピソードだから、やや仕方ないところだったかも知れない。


好評も、不評も、あるんだよ

一方の世紀の失敗作として誰からも見向きも話題にもされなくなったのは山本寛監督の『フラクタル』だ。『フラクタル』は山本寛監督が自身のアニメ生命を賭け、それまでの全てを注ぎ込んで制作されたはずの作品であった。それがどうしてここまで惨憺たる内容になったのか。
『フラクタル』はネット社会における現代の人間像を描いた作品である。あらゆるものが高度に情報化し、情報化する一方で一次情報である実体を喪失し、情報と同時に実体が虚ろになっていく現代をSFファンタジーの文脈の中でうまく風刺した作品である。おそらく作り手が想定した設計に大きな間違いはない。作り手には相応の意思があって『フラクタル』という作品があったのだ。作品を構成する設定、設計、思想そのものにはおそらく大きな間違いはなかっただろうと思う。だがその描き方、展開の方法に欠陥があった。
例えば主人公クレインの描き方だ。クレインが主人公としてのイニシアチブを持っていたのは、おそらく第2話までだ。第2話においてクレインはネッサとの交流に動揺し、生活空間を徹底的に破壊された結果、その破壊はクレイン自身の意識に革命を起こす。そこには間違いなく変化の物語があり、変容を受け入れ、それまでの生活を捨てるクレインの姿は実にドラマティックな活力があった。
が、『フラクタル』における変容のドラマはこれで終わりであった。第3話以降、クレインは主人公として特に何もしなくなった。
第3話『グラニッツ村』では、《フラクタルシステム》に干渉を受けない人々との交流が描かれる。グラニッツ村訪問はクレインの変化の段階を体現する重要な場面であるが、この頃からクレインの役魔法少女まどか☆マギカ批評 (57)目はただそこにいて、状況に翻弄されながら何もせず傍観しているだけのただのカメラマンになってしまった。状況は次々と変化するものの、クレインはその中心に介在せず、物語の主導的立場としての力を発揮しない。第3話から第4話冒頭にかけて、僧院の儀式を襲撃する大きな場面が描かれるが、物語の導線はそのクライマックスから完全に逸れたまま、ピントのぼけたグラニッツ村の日常とクレインの行動をひたすら描き続けた。間もなく襲撃というダイナミックな場面があるというのに、そこに至るまでのあらゆる経緯、例えば襲撃準備や“襲撃しなければならない理由・根拠”といった描写を映像からごっそり切り捨てて、視聴者にとっては不意打ちのような展開でいきなり襲撃という場面が描かれてしまった。それは明らかな失敗であった。実弾を使った血なまぐさい戦闘が描かれているというのに、見ている側はまだぽかんとした傍観者の気分のままで、カタルシスなどはどこにもない。物語の一人として介在し、その状況を応援しようという気分にはなれなかった。戦いの結果、主要人物と思われたブッチャーの死が描かれるが、エンリの悲しみにまったく共感を持てない。ブッチャーの死はテレビの向うの知らない誰かの死でしかなく、その死は視聴者の感情を何一つ干渉することはなかった(モブキャラが死んだのかと思った……というくらい、ブッチャーの死には関心が持てなかった)。“感情移入”の完全なる失敗である。『魔法少女まどか☆マギカ』における巴マミとの死による視聴者の反応を比較してみると、その差は歴然だろう。
魔法少女まどか☆マギカ批評 (58)物語の後半へ行くほどに、『フラクタル』の作劇は奇怪な様相を見せ始めるようになった。例えば第6話「最果ての街」。フラクタルシステムから見放された人々をロストミレニアムに引き入れようと強引な手術を施すディアスを、クレインとフリュネが目撃する。そこで様々な事件が起きて、クレインとフリュネの2人はその様子を間近で見ているのだが、まるで透明人間であるかのように、誰もクレインとフリュネの2人を気にかけていない。その後、ディアスの正体が明らかになった後、クレインとフリュネは難民たちとともに銃口を向けられた上で囲まれるのだが、クレインとフリュネはその包囲からいとも簡単に脱出してしまう。透明人間の“ように”ではなく、“完全に”透明人間の扱いである。その場で起きているドラマに一切参加していないのだ。
そもそも、グラニッツ一族は何を目標にしてフラクタルシステムの破壊を目論んでいるのだろう? フラクタルシステムによって、誰かが犠牲になったり不幸に陥った、といった描写はどこにもない。むしろフラクタルシステムに見捨てられたことにより、医療サービスが受けられないなどの問題のほうが大きく取り上げられているように思える。フラクタルシステムによる洗脳の様子が客観的に見るといびつ、というだけであって、それ以上の問題はどこにも見当たらない。フラクタルシステムは理想的な未来のシステムで、どこに欠陥があるのかわからない。というより、本来物語の中で描かれるべきだった“目標・目的”がごっそり抜け落ちてしまっていた。あるのは妙に空々しく聞こえるスンダ・グラニッツによる“思想”だけである。スンニ・グラニッツが感情的になってまくし立てるだけの言論らしきものには何ら共感を得るものはなく、どこか青春のリビドーと社会思想を履き違えた時代遅れの左翼活動家の姿を連想させる。要するに、思想の核となる“中身”がないのだ(最終話でのスンダの台詞「世界がどうなったらいいかわからん」って、オイ!)
「フラクタルシステムは何が問題だったのか?」もっとも重要と思えるこの命題を解説する努力を放棄し、見る側との意志の共有・共感を求めようともしない。そんな作品にどうやって感情移入せよというのだ。
物語とは一人の人格が変容を受け入れていく経緯が描かれていくものだが、それとは別に、一つの物語は一つの思想として独立するものである。社会あるいは人間のアイデンティティーはあらゆる情報・思考の集積によって構成されるものであり、物語はこのアイデンティティーの構築に絶大な影響力を持つことができる。
が、『フラクタル』が描く映像・思想の中には何一つ見る側を啓発するような発見はなかった。物語のほとんどは確かに役に立たないものであるが、時にその時代の社会意識を転覆させるだけの影響力を持つことができる。作り手の意識の革命は、実際社会の意識を止揚させ、その時代に大きな痕跡を残すことすらできる。時に社会をそれ以前・以後に振り分けてしまうくらいの力を持つ場合もある。しかし『フラクタル』には時代遅れの陳腐な経験主義があるだけで、今の時代に対して啓蒙するだけの力はなく、砂粒のごとく散乱する現代の意識のどこかに埋没するだけの弱々しい存在でしかなかった。
『フラクタル』はいったいどこを目指していたのか。そもそもそこが見えてこない。“構想”、それから“思想”の二つが欠如した作品だった。



本当の批評と向き合えますか?

b5acb65a.jpg2f1938e4.jpg傑作と呼ばれるものの条件の中に、『複雑さとシンプルさ』が同時に混在していることが挙げられる(他にも挙げるべきものはあるが今回は取り上げない)。複雑さとは作品を描く際におけるあらゆる描写e7a7ade5.jpg1ad6f708.jpgに必要なものである。構造の複雑さ、描写の複雑さ、ミステリ小説ならばトリック描写の複雑さ……。作品は繊細で精密で複雑で猥雑で、いっそ複雑奇怪な有象無象の何かであればあるほどよい。
95911ab1.jpg02c8970c.jpgその一方で、作品の核であるテーゼ――物語作品であれば主人公の感情はシンプルに訴えかけてこなければならない。主人公はその場面でどうしてそう思ったか、結果的になぜその行動を選f1101fb8.jpg8409f20c.jpg択したのか。主人公の感情、立場、行動を起こした理由・根拠は誰が見ても明快であればあるほどよい。
主人公とそれに相応する主要人物の感情は作品の複雑さの中に埋没してはなb94dc43b.jpgf891bfbc.jpgらない。もし作品の複雑さと同じくらい主人公の感情も複雑怪奇で捉えどころのないものにしてしまうと、誰も物語について来られなくなる。作品がより複雑で奇怪なトリックの数々に張り巡らされていれ57e91be4.jpgadcb0663.jpgば、シンプルに浮かび上がってくる主人公の感情はより強い情緒を持って読者に訴えかけてくるはずだ。それが現実世界で決して体験できない複雑さと特殊感情で満たされていれば、その作品は特65a89ee8.jpg325f4f5a.jpg別な存在として賞賛されるかもしれない。
逆に作品の構造がシンプルで、主人公の感情描写もやはりシンプルであると、批評でよく言われるような「作品の奥深さ」や「人物描写の重さ」を見出すことができず、安易な作品と誰も見向きされなくなってしまう。
読者は主人公の立場や感情の経緯をひたすら追いかけることによって、物語を読み解いていく。主人公やそれに相応する人物と一緒に怒ったり笑ったり泣いたりしながら物語を進めていくのである。主人公の立場に深く理解し、同情していくこと。主人公の感情が読者の感情を強く揺さぶり、動揺を与え、最後には感情的陶酔である“感動”を与えること。それこそ名作であることの条件であるし、この感動のないドラマが名作と呼ばれることは絶対にない。
登場人物の感情がいまいち理862e9d10.jpg9d9cfa2e.jpg解できない、推し量れない作品に何ら魅力を感じないし、そんな作品をわざわざ手に取ろうという好事家も少数派だろう。訴えたい主義や主張が無駄に羅列した言葉の中3b5257f6.jpg0f35ee48.jpgに埋没して、何が言いたいかわからない本や批評が魅力的に思えないのも同じ理由だ。
映画における名作は、主人公の立場が特殊で、その物語の中にあまりにも深い1cb368f3.jpg92b610bf.jpg奥行きを内包しているが、それでも物語の経緯を見失うことはない。複雑であるのに、誰が見ても明らかなシンプルさを持ち、特に主人公の感情はビビッドに訴えかけてくるものがある。それは作り手f522f50a.jpg4b80d41e.jpgが傑作とは何であるかよく理解し、主人公の感情描写を注意深く描写し、それを見た読者がどう思うかをひたすら考え続けているからである。
『魔法少女まどか☆マギカ』はどうやらこf1c8d41d.jpgc2bb6371.jpgの傑作の条件に当てはまりそうだ。
『魔法少女まどか☆マギカ』の主要登場人物はわずかに6人。しかしその関係は複雑で、物語の進行には常に謎が付きまとい、なかなか明かそうとしない。次のce3a9ee7.jpgc273ffc3.jpg一手がどうなるかわからない緊張が常に作品に張り巡らされ、読み進めていくのが怖いくらいなのに誰もその手を止めようとしなかった。主人公や主要登場人物の立場は極めて特殊だったが、作り手は周到に登場人物の状況を説明し、シンプルに理解できるように心がけていた。結果としては読者はまどかやマミ、さやかの感情に強く潜りこんで行き、作品と一体となって物語を追跡するようになっていった。物語の感情曲線は第9話から真相が明かされる10話において一度クライマックスを迎えるが、読者の感情も同様に極まっていった。
特に第10話「もう誰にも頼らない」は繊細に取り扱うべきエピソードである。第9話までに解説された全てがなければ第10話は深く理解できないし、それ以上に遅いと物語の感情はあまり効果を持たなくなる。物語の背景にある謎が10話に至るまでに順当に解説されていなければならない。『魔法少女まどか☆マギカ』を構成する要素は決して単純ではないし、むしろ複雑で読者が理解しなければならない特殊用語・特殊設定もそこそこに多いが、第10話まで追いかけていけば問題なく理解できるように構成されている。物語全体の力点がどこにあるのか作り手がよく理解したうえで、几帳面なくらいの繊細さで構成していったことがよくわかる。これが『フラクタル』との違いであり、『魔法少女まどか☆マギカ』が多くの人々に賞賛される理由である。
魔法少女まどか☆マギカ批評 (5-6)第7話ラストシーン。シルエットで描かれた戦闘シーン。余計なディティールを省いたことにより、ダイナミックな動きが強調された。真っ暗闇の中、極端に大きく描かれた目や口が印象的だ。が、これを見たいわゆる作画厨と呼ばれる連中は「手抜き」とこき下ろした。少しでも絵描きの素養のある人間ならば即座に気付くが、このシルエット画は一度ディティールを描いた上で真っ黒に塗りつぶしている。まったく手抜きではない。コントラストを調整するとわかるが、完全なシルエットではなく黒の濃度にも段階が付いているので、色指定も仕上げも楽ではない。「作画厨」と呼ばれる一団が実は基本的な教養がないことが暴露された瞬間である(作画厨はアニメ批評ブログを書いている人に多いようだ。誰とは言わないが)。

完全なるオリジナルストーリーを映像で描こうという人はすっかり少なくなった。アニメの制作には莫大なお金がかかるし、製作会社は原作なし、というリスクを恐れるようになった。それ以前にオリジナルストーリーを描こうというモチベーションを持った人が業界に少なく、少数ながらオリジナルストーリーを制作しようという試みはあるものの、もしかすると物語を構築するためのノウハウを持っている人は今のアニメ業界にいないのかも知れない。『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』『閃光のナイトレイ』……最近制作されたオリジナルストーリーはどれも後半に進むにつれてボロボロに崩れていった。漫画のカットを映像の上で再現するだけのアニメを作り続けたせいなのか、それはよくわからないし、その究明は現場にいる人たちで行うべきであろう。ここで何かを提示できたとしても、制作の現場に何ら影響力を持つことはできない。
そんな中にあって(そんな状況だからなのか)シャフトが仕掛けたオリジナルアニメーションの挑戦は、奇跡の輝きを放っている。『魔法少女まどか☆マギカ』は成功はアニメ史における少し大きな史跡として記録され語り継がれるだろう。そして新房昭之の名前は、その時代における多くのアニメ監督の一人ではなく、時代を代表する最高の監督として残されるだろう。


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フラクタル 第1話&作品解説
ソ・ラ・ノ・ヲ・ト 第1話&作品解説
閃光のナイトレイ 第1話&作品解説

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■2010/10/04 (Mon)
ティータイムが終わるとき

2009年4月に放送開始したアニメ『けいおん!』は、業界の枠を越える大きな話題と熱狂的な愛好者を多数生み出し、制作会社に莫大な利益をもたらした作品である。2010年4月、前回放送開始からちょうど1年の時を経て、第2期『けいおん!!』が制作され、地上波放送された。
第2期『けいおん!!』はただ単純に第1期『けいおん!』の物語を延長した作品ではなく、多くの改善や修整が加えられ、さらに品質を深めた作品である。という以前に、第1期『けいおん!』はあの音楽準備室とその周辺の環境らしきものが漠然とした雰囲気の中で描かれただけであって、物語としての骨格はどこにもなかった。
第1期『けいおん!』を見直すと、あまり一貫しているとはいいがたいブレが多く見られる。例えば平沢憂が姉の唯に対してしっかり者、という設定は当初から見られるが、「お姉ちゃん好き」の設定はずっと後になってから出てきたものであった。第2話『楽器』と第4話『合宿!』の2エピソードで、唯に対して愚痴をこぼす場面がある(今となっては貴重な場面だ)
第5話『顧問!』のエピソードで明らかになった琴吹紬の同性愛設定は、その後、目立った発展もなく完全に忘れられた。
さらに第10話『また合宿!』は第4話『合宿!』を梓を加えただけの繰り返しだ。
『けいおん!』の映像は、あの音楽準備室とティータイムの一時が中心に描かれ、それ以外の全ては漠然とした風景として後退してしまっていた。そもそも『けいおん!』という作品の中心軸は音楽室での一時が全てであり、唯たちが何か活動する物語ですらなく、物語の連続性やドラマの発生など何も期待されていない作品であった。ただ唯たちというキャラクターがあの空間の中に佇み、穏やかにくつろいだ表情を見せている――『けいおん!』という作品を解説するとそれが全てであり、だからこそ作り手はあの空間の設計にあらゆる技術と精力を注ぎ込んだ。
f5611cf9.jpg日常の物語を描くのは非常に難しい。創作の経験のない批評家が思っている以上にだ。なんでもない淡白な描写の連続の中に人間の感情を盛り込んだり、変化を描き出すのは至難の技だ。「あれなら誰でも描ける」と思っている人は多いと思うが、やってみるがいい。手ひどい失敗を負って、それから自分の批評の甘さを知るがいいだろう。批評家は所詮、素人だ。

現実社会から峻別された竜宮城的空間、あるいは“空気”の構築。そこに変化が与えられたのが第2期『けいおん!』である。
作り手はまず、唯たちが在籍する3年2組全員を克明にデザインするという、アニメにおいては贅沢極まりない難題に挑戦し、「音楽準備室が全て」という閉鎖性からの脱却を図った。これが大きな効果を上げて、音楽準備室から教室、さらにその向うの世界へと唯たちが関わる社会の領域が増大し、物語の可能性が大きく広がった。
次に、『けいおん!!』の物語全体を貫く一つのテーマが出現した。《卒業》である。
音楽準備室でのティータイム、放課後の一時という、あまりにも満たされた幸福の時間の終了。ひょっとすると永続的に続くと思われた停滞した時間の終わり。
第2期第1話『高3!』の当初から、いつかやって来る「卒業」が意識され、物語はいつか終わってしまうこの時間というものに向ってゆるやかに時間を消費していくように描かれていった。
とはいえ、「卒業」のテーマが『けいおん!』という作品の本質自体を変化させたわけではなかった。そこにあったのは第1期から続く穏やかなティータイムの一時。物語を一変させる思わぬ事件が発生するわけでもなく、連続する物語に強い連帯はなく、やはり大きなドラマを作り上げるということもなかった。ただただ、物語の底流に「卒業」と「終わり」の予感をじわりじわりと忍ばせていく。物語作りとしてはあまりにも小さな伏線だが、これが後に物語の心情を強く刻印させる切掛けを作る。
a9540192.jpg第2期『けいおん!!』において、意外な活躍をしたのが琴吹紬であった。第1期では主要キャラクターでありながら台詞は少なく目立たないキャラクターで、とってつけた同性愛設定で特色を出そうとしていた。だが第2期『けいおん!!』では、卒業というテーマを見据えて紬ならではの思い出作りに奮闘する姿が見られた。それが第2期『けいおん!!』のほどよい複流になって作品を色づけした。
しかし、唯たちは「卒業」をどこかで意識しながらも、その時間がいつまでも続く永続的なものと信じて疑わなかった。
7cf95dd5.jpgdcd53154.jpg第1話『高3!』ではただ楽しみなだけの高校3年生、というだけで、その後にやって来る進路や進学はあまり意識されていなかった。
第4話の『修学旅行!』の夜、旅行をたっ202089a3.jpgぷり楽しんだ後、唯はふっとこの時間が間もなく終わってしまうことに気付く(修学旅行の終わりと学園生活の終わりを重ね合わせる場面である)。しかしこの時の予感は、唯の内部に起きた小さなモノローグとして終わってしまった。
第8話の『進路!』は「進路」がテーマになったエピソードであるが、49db224e.jpg明らかにいって、唯はいつかやってくる進路に真面目に向き合っていない。にわかに意識しはじめ、周りの皆に話を聞いたりするものの、そもそも今の時間が終わることをイメージできない唯(と律)は、結局進路の問題を先送りにしてしまう。
第12話の『夏フェス!』において、決定的といえる心情の変化が起2be2f678.jpgきるようになった。
「これからもずーっと皆でバンドできたらいよね」
唯の何気ない言葉にメンバー全員が頷く。これを切っ掛けに、唯たちは「この時間がいつまでも続く」という確信に疑いを持たないようになってしまった。明日も、明後日も、来年も、今の立場や気持が永続的に続くように思い始めてしまった。
どの場面を見ても小さな心情の変化や積み重ねである。だがこの小さな感情的経緯が、第20話『またまた学園祭!』において、大きなクライマックスとして到達する。
c9f2de45.jpg91d3dd6e.jpgそれまで予感めいたものとぼんやり意識されてきた「卒業」。唯たちは「卒業」を心のどこかで意識しながらも(あるいは強く意識しているからこそ)、今ある時間を貪欲に消費し続けてきた。
4939d6d5.jpg6e60ec27.jpgだが学園祭での演奏が終了した後、唯たちはようやく事実に気付く。
――来年はもうない。
来年も、その次の年も永遠に続くと思っていた今という時間。しかし今という時間24bcff7f.jpg0fcaee1f.jpgは今でしかなく、通り過ぎた瞬間それは過去になってしまう。自分たちが放課後ティータイムとして舞台に立ち、演奏できるのはこれが最後。次にやってくるのは卒業であり、学園生活の終わりである。音楽準備室というあまりにも穏やかで満たされた子宮的空間の終わり――そして別れ。
その事実に対する自覚と迫り来る悲しみ。小さな感情的経緯の積み重ねが、驚くほど感動的な一場面を作りあげた。ライブシーンの見事さを含め、その後アニメ史において数十年語り継がれるであろう名シーンの誕生である。
(ところであのライブシーン。プログラムには30分とあった。だが実際に描かれたのは15分ほどである。前半「ご飯はおかず」と後半「U&I」の場面はノーカットであると考えると、アイキャッチのところで15分ほど省略されたという計算だ。あの狭間で確実に3~4曲前後の演奏があったはずである。DVD、ブルーレイで省略した15分を復元追加してくれないだろうか。ライブシーン・ノーカット版として。値段が3倍と言われても、何も文句言わずに買うのだが)
69205608.jpg第23話『放課後!』「唯ちゃん、録音手伝おうか?」何気ないやり取りだが感動的だ。多分、山中さわ子は10年前の同じ時期に同じことをして、当時の顧問と同じやりとりをしたのだろう、と想像する。あの微笑みはそういう意味だろう。その時のカセットテープを偶然秋山澪が発見し、それが自分たちの音楽について考える切っ掛けを作った。さわ子のテープの存在は意外なくらい大きい。10年後、新しく入ってきた軽音部部員は唯たちの51f71fa1.jpgテープを聞き、同じように考えたり感動したりするのだろう。その時には今の軽音部メンバーの誰かが桜高の教師になっているかもしれない。
『けいおん!』は大きなドラマではないが、どこかのピースに収まる小さな物語の連続であるのだ。


学園祭の場面を乗り越えて、唯たちは改めて、卒業と進路に向き合うようになった。第21話『卒業アルバム!』においてようやく進学先を決めて、続く第22話では受験に挑んだ。第20話『またまた学園祭!』以前と比較すると劇的な心境の変化だったが、唯たちにとってあの学園祭が通過儀礼的なものとなって、心理的な変化を自然に促したのだ。
しかし中野梓は、唯たちの卒業をまだ現実的なものとして受け入れていなかった。
第2期『けいおん!!』にはもう一人の主人公がいる。言うまでもなく中野梓だ。卒業して去ってしまう唯たちに対して、たった一人取り残されてしまう梓。卒業を前にして今という時間を貪欲に消費する唯たちに対して、梓は唯たちから一歩距離を置き、というより決してあの中に立ち入れない立場として描かれてきた。
第2期の『けいおん!!』は誰の視点の物語なのか明快に描かれるようになった。第1期『けいおん!』にははっきりと主人公とわかる人物がなく、いったい誰の視点・モノローグで物語が進行しているのか不明であった(とりあえず、人物ではなく音楽準備室とティータイムという空間こそが主人公である、という見方もあるが)
視点を大きく変える必要のある場合は独立したエピソードが作られるようになり、『けいおん!!』の物語は唯たちを主人公とするエピソードと、梓一人を主人公とするエピソードの2つに分けられた。
梓のエピソードは、いつも唯たちから一歩離れた視点で描かれる。梓にとって1学年の差は決して飛び越えられない一つの境界線で、唯たちと同じ立場には絶対に立てないのだ。そして、間もなく学校を去ってしまう唯たちに対して、梓は取り残されてしまう立場であった。
a9e6eb90.jpg唯たちへの梓の思いが描かれたのが、13話『残暑見舞い!』であった。唯たちとの一時があまりにも楽しくて、夢のように捉えている梓。だから唯たちがいない今が退屈で仕方ない。うたた寝ばかりしている梓は、何度も夢のなかで唯たちと会う。
そんな梓の前に、不意に現実の唯たちが現れる。唯たちの登場に喜9280352a.jpgぶ梓だったが、その一方で「これもひょっとして夢?」と疑う。あまりにも楽しくて満たされていて、夢のような一時だったから――。
唯たちに手を引かれて走って行く梓。しかし、突然に唯たちの姿が人ごみの向うに消えてしまう。顔を上げると、花火の硝煙が夜空に白く漂い広がっている。これはそのままの意味で、「煙になって消えてしb0f524e0.jpg2d209dea.jpgまった」と捉えるべきだろう。梓にとって唯たちは、縁日の夜に見る幻のような存在であり、同時にいつか自分の前から去ってしまう人たちである。梓はまだ唯たちの卒業を意識していないが、漠然とした不安として、唯の消失を幻想的な空気の中でほのめかすように描かれた。
どうやら梓は、自分から唯たちに対して線引きしているらしい。第16話『先輩!』において、梓はfcd3562f.jpg7c3ef9ee.jpg唯たちとの関係や自身の気持ちを改めて考え直そうとする。結果として、梓は自分の気持ちが先輩たちともはや分離不能で、先輩たちと一緒にいる瞬間に幸福を感じている自分を再認識する。
しかし梓は、まだ唯たちとの別れを現実的なものとして受け入れていなかった。唯たちとの結びつきがあまりにも強いから、卒業して去っていくことは理解できても、それが別れになることまで意識できないでいた。あるいは、意識しないようにしていたのかもしれない。
唯たちの別れを初めて意識したのは第22話『受験!』である。唯自身は自分たちがその場所を去っていくことを第20話『またまた学園祭!』で受け入れたのだけど、梓が唯たちの消失を明確なものとして意識したのは第22話が最初であった。
50509f1e.jpg梓の気持はそのエピソードでは解消されず、最終回『卒業式!』の日まで持ち越すことになった。卒業式を終えて間もなく学校を去っていく唯たちに対して梓は、
「卒業しないで下さい」
と本当の気持を口にする。
d38516df.jpg唯たちのと結びつきがあまりにも強く、そこに幸福を感じている。だからこそ別離が耐えられない。そんな梓に対して、唯たちは歌で答える。
「卒業は終わりじゃない。これからも仲間だから」
卒業して去っていくけど別れではない。改めて結びつきの強さを確かめ合い、去っていく者、残されていく者の物語は終わりへと向っていく。
98a522e4.jpg『けいおん!』は必ずしも人気ナンバーワン作品ではなかった。2009年度DVD・ブルーレイ売り上げを見ると、『エヴァンゲリヲン』『化物語』に続く第3位だった。『けいおん!!第2期第4巻』の発売でようやく『化物語』のトータル枚数を抜いたところである。
平均2万枚を越える作品には『とある科学の超電磁砲』や『Angel Beat!』などがあり、平均3万枚ヒットの『けいおん!』は特別大ヒット、というわけではない。

eb965729.jpgとはいえ、DVD売り上げだけでも黒字作品なのは間違いない。さらにオリコン1位2位を独占した音楽CDや夥しい数で売り出されたグッズなどがプラスになっているはずで、トータルした商業的効果は莫大だ。
ちなみにキャラクターが使用した楽器や文具なども相当数で売れたが、これは京都アニメが特に広告費などをもらっていたわけではない。それはスポンサーを見ればわかる。未
2107d8d3.jpgだに勘違いしている人がかなりいるが、楽器や文具は日常感覚を演出するための道具であり、『けいおん!』グッズではない。楽器や文具がいくら売れても、京都アニメには1円のプラスにならない(当然だが、京都の観光事業からお金をもらって制作された作品でもない。念のため)。

『けいおん!!』というアニメを支えてきたのはキャラクターへの偏執的な愛着がすべてではない。アニメ作品としての基本的な質の高さが『けいおん!』の力強い基盤となっている。キャラクターだけで人気が出たと思っているならば、それはただの素人の発想であり、むしろその考えこそ偏執的である。でなければ、技術・美術のどちらも理解できていない凡俗である。
けいおん!!解説解説 (32)例えばモブシーンだ。モブシーンはアニメ制作において手抜きされやすい部分である。原画がいい加減で、動画マンがキャラを改めて作りながらクリンナップ(清書)することがしばしばある。原画が真面目に群集を描こうとするのは、ウエストショット以上に接近してきた時だけである(最近ではデジタルエキストラが使用されることが多い)
だが『けいおん!』における群集はどの場面も丁寧に描かれ、一人一人に細かな演技をつけて描かれている。場面によっては動画が加えられることもある。3年2組の教室の場面では、普通のアニメならその他大勢として大雑把に扱われそうなクラスメイトも一人一人デザインが書き起こされている。
『けいおん!!』は普通のアニメでは見せ場と考えられていない日常のアクションに動画枚数を多く消費されている。
けいおん!!解説解説 (29)例えば第6話『梅雨!』。雨を前にして、唯は背負っているギターケースを憂に預け、傘を開き、それからギターケースを引き戻そうとする。
普通の演出家なら、唯がギターケースを下ろそうとする場面でカットを切り、次の場面へ飛ぶか背景画でごまかす。そうしたほうがトータル枚数の節約になるし(枚数が増えるほど必要な予算がけいおん!!解説解説 (29)あ大きくなる。演出は予算面についても考えながらカットを考えなければならない。ここで予算オーバーすると首を切られる場合がある)、日常的なアクションは誰もが知っているだけにアニメーションで描き出すのが難しい。現実的にはありえない活劇アクションは創造力逞しくして自由に描けばいいのだが(それはそれで大変だが)、日常的なアクションはそういうわけにはいかない。日常的に自分たちがどのように視線を動かし、手や足を動かして生活しているのか再認識し、分析しながら描かなければならない。結果的には素人の目に「当り前の動き」として見られがちな日常的なアクションだが、実は作画難易度は理不尽に高い。
実際にアニメーターを職業として経験した人ならばわかると思うが、アニメキャラクターの日常アクションというのは単純で、省略した形で描かれる場合が多い。手を上げたり下げたり、何かを持ったり……。後はマニュアル的な目パチ口パク、振り向きに歩き走りといったところだ。これも〔枚数=予算〕なので、演出家がエピソードごとの見せ場を見定めながら枚数調整を行っている。作画困難な動画を大量に発注したら、当り前だが締め切りに間に合わなくなる。だからこそ枚数管理が必要になるのだ。
けいおん!!解説解説 (30)だが日常の平凡さをテーマにした『けいおん!!』は敢えて日常的なアクションほど徹底した丹念さで描写された。たかがギターケースの受け渡しのために贅沢極まりない枚数を消費する。表情の動きにコマごとの変化を付け加える。同じ場面で何度もごろごろと寝返り打つ。
しかも『けいおん!』の構図つくりはウエストサイズからフルサイズが多く、常に複数の人物がカットの中に映り、しかも周辺の空間も入り込むのでパースのごまかしが効きにくくなる。アニメに限らず映像制作は、俳優あるいはキャラクターの顔面クローズアップ、台詞だけで成り立つものであり、そういうやり方が作り手として一番楽で効率のいいやり方である(見栄えがいいかどうかは別問題)。それでも『けいおん!』のカメラワークは、あえてキャラクターから遠ざかり、周辺の空間を構図の中に収めて描こうとするのである。
けいおん!!解説解説 (31)けいおん!!解説解説 (33)そうした制作側のこだわりは、第20話『またまた学園祭!』において最高潮に達する。ライブの直前、唯たちが階段を降りて行く場面ではキャラクターとカメラワークが同時に動くし、「U&I」を演奏すけいおん!!解説解説 (34)改改改る場面手前には唯の30枚に達する振り向き動画がある(通常の振り向きは5枚。30枚は劇場アニメ並み)
それ以上に唖然としたのは左の動画である。通常の拍手の動きは「合成」を使って描かれる。「合成」とは、AセルやBセルというふうに分離不能な動画を一枚の動画にするために、動かない線と動く線を一枚の絵に結びつける技術である。ほとんどの場面の拍手はこの「合成」で描かれている(普通のアニメは拍手の動きを描かず、止めと拍手音でごまかすことが多い)。しかし左の動画はなんと全身運動である。拍手しているという微妙な動きに全身が釣られ、髪の毛が揺れる瞬間まで克明に捉えられている。ミリ以下の線の細かさで描かれた動画である。京都アニメの本気がわかるカットだ。
45c60e4b.giffb341d66.jpg(〔→〕は合成のイメージ。〔→→〕GIFアニメでの合成のイメージ。クリックするとイメージが動く。消える手の部分が合成部分)
どれも日常的なアクションで見落としやすい場面だが、こういった場面にこそ作り手のこだわりと本当の実力が見えてくるのである。
e2d5ae87.jpg一般メディアにおける『けいおん!』の扱いは、恣意的なバイアスが約束事となった。例えばライブドアニュースのこの記事→【大ヒットアニメ「けいおん!!」 来週最終回の告知でネット発狂】これは捏造だろう。『けいおん!!』は27話まで制作され、26話まで放送されることはすでにわかっているはずである。これを知らない『けいおん!』ファンは少数派だろうし、ネットに書き込みするくらいのユーザーが知らないはずがない(というか新聞に492a83ca.jpg「終」の字はないし、最終回後に次回予告がある。ちなみにこの後、ライブドアニュースは『けいおん!』を放送終了したものとして記事が書かれるようになった)。ニュース記事ではいかにもありがちな言い回しでファンの動揺らしきものを書き並べているが、出典不明の内容怪しい記事である。こんな程度の低い捏造記事に釣られて「やっぱりオタクキモイ」とコメントする、「自称情報強者」の情報能力にも疑問だ。
8829acdc.jpgおそらくはアニメファンの奇怪な特徴を誇張して広めたいという悪意を持って書かれたのだろう。軽薄短小のマスコミが宮崎勤事件以来繰り返してきた手法である。『けいおん!』特有の柔らかさが、マスコミには「何しても反抗しない女性」のように見られたのかもしれない。



f703fcd0.jpg33e264a1.jpg目立たないところだがエピソードや場面によって細かく色彩も調整された。
全てのエピソードを大雑把に見てみると、画面の色調が微妙に変化しているのがわかるだろう。春は暖かな印象で、夏ecfec9b1.jpg6e2a1816.jpgになったらコントラストは深く重い画面で、秋になると再び色の印象は柔らかくなり、冬になると色彩は抑えられ、白と黒のトーンが強調される。
物語の舞台が音楽準備室と教室、それからその周辺に限定されているからこそ、色彩の細かな調整が施されたのだろう(一つ一つのシーンをじっくり見るより、早送りで全体通して見たほうが効果の違いはわかりやすい)
76bdd0b6.jpgb44c1b43.jpg左のカットは第22話『受験!』における梓が職員室前で立ち聞きをしている場面だ。梓はこの場面で初めて唯たちが学校を去っていくことを自覚するわけだが、その前のカットと比較すると極端に白と黒07eee671.jpgのトーンが重くなっているのがわかるだろう。
次のカットは職員室入口に集ってくる唯たちを梓の視点で見た構図だ。左に入口ドアの枠線が描かれ、唯たちはその向うに描かれている。ライティングは顔面とその僅かな周辺だけに限定されて、日常的な描写としてはどこかしら不自然で、よそよそしさが強調されている。4ebd1ece.jpg廊下に立っている梓《外》、職員室に立っている唯たち《内》の対比が強調された場面だ。
続く場面では白と黒のトーンはさらに強くなり、色彩はほとんど完全に画面から消え失せる。首もとのリボンのレッドと、中庭向うのグリーンが僅かに識別できる程度だ。取り残されていく梓の孤独さがfc76310b.jpgdc57b3f5.jpg表現されている。
その後ティータイムを挟み、窓の前に集ってくる唯たち。梓は唯たちに取り囲まれて、孤独な心情がゆるやかに癒されていく。その前のモノトーンを強調した画面から一転して穏やかな温もりのある印象に変わり、さらに色が僅かに滲み出す効果が与えられている。
b7825e3f.gif色彩が梓の心境を語りだす場面は最終回『卒業式!』でも試みられている。左のカット(GIFアニメでのイメージ。クリックすると動画が始まる)は卒業式の直前、2年生の生徒が卒業生の制服に華の飾りをつけている場面だ。梓は卒業生の中に唯たちの姿を見つける。楽しげに笑っている唯たちを、遠くから見詰めている梓。その場面に入ると、色彩は白く溶け込むように漂白し、それまでの明るさからがらりと印象を変える。どうやら画面にホワイトトーンが被せられているようである(実際のアニメツールではどのように操作するかわからないが)。梓のモノローグはないが、何かしらの心情を感じさせるように演出されている。
c183d60b.jpg6838b155.jpg次も同じく最終回『卒業式』。最後の場面で唯たちが梓に歌を送る場面。これまでにない画面効果が使われ、暖色系のぬくもりだけが滲み出てくるような印象深い場面になった。去っていく者、残っていく82aaec49.jpgcdb5f1c7.jpg者、送る者、送られる者。音楽の効果もプラスになり、心情的な結びつきの強さが効果的に表現された。
『けいおん!』は物語として何も起こらない、起きようのない平凡さを題材にした作品であるが、だからこそ細かな心情の一つ一つを取りこぼさないように繊細な演出が施された作品であった。
0fab10d8.jpg作品とは無関係なところで「信者」と「アンチ」を大量に生んだ作品でもあった。
対立しているように見える「信者」と「アンチ」であるが、出発点は同じである。どちらも感情を出発点として、作品と向き合っていない。型にはめられた発想であるし、少しも理性的でない。(しかもアンチが攻撃しているのはイメージに対してであって実体ではない。シャドウボクシングご苦労さんといったところだ)。

0bd518e3.jpgアンチか信者か、それはつまり、感情だけで行動する動物的人間か、理性的に言語を操作する文明人か。『けいおん!』はそれを見分ける格好のリトマス試験紙だった。私からあえて言うとしたら一つだけだ「ちょっと冷静になれ」


ところで、日本のアニメ・漫画が描く世界のほとんどが中学・高校に限定されている。それはアニメ・漫画の受け手のほとんどが中学生、高校生だったからだ。学校はほとんどの人間が通過する場所だから、作り手として扱いやすい題材で、受け手としても入り込みやすく、共感を得やすい場所であった。それに、「主人公の年齢=読者の年齢」が近ければ近いほど、読者は物語の主人公に感情移入しやすくなる(これは年齢が過剰な社会的価値を持つ日本的な発想かもしれないが)。中学・高校生の読者にとって、学園漫画は自分たちにもっとも身近な話題であり、あるいは現実的な葛藤を笑い飛ばしてくれる痛快な娯楽であった。
だからアニメ・漫画の世界において『学園モノ』が一大勢力を持ち、『学園モノ』作品を大量に氾濫させる理由になった。
だが、いつからそうなったのかわからないが、『学園モノ』を取り巻く状況に変化が現れるようになった。漫画が同時代の学校の風景を描かなくなり、ある時代の風景のまま時間が停止してしまった。
漫画の中で描かれる学校には同代的な混乱や騒動はどこにもなく、あまりにも穏やかで現実的な葛藤のない異郷的空間になり、そのなかで主人公は能天気な恋愛に夢中になっている。
62ba1318.jpg『学園モノ』が中学・高校生の娯楽ではなくなり、さらにその上の世代に向けた《ノスタルジー》になった瞬間である。あるいは青春時代のやり直しとモラトリアムの回収を図る「願望」の産物に変わってしまった。もはや『学園モノ』は、中学・高校生に共感を求める娯楽ではなくなった。
d5835041.jpg時代はさらに進み、学校という本来的な意義は失われ、本格的にファンタジーと結びつき始めた。学校は悪の何某が根城にして、何かしらの陰謀ないし野望を企てる場所になり、主人公は学生ではなく正義のヒーローになった。もはや何の場所であるのか誰にもわからない(勉強するところである。念のため)
8d425633.jpgその末に登場したのが『けいおん!』である。『けいおん!』における学校は、ノスタルジーとファンタジーのさらにその向うに行く《イノセント》である。『けいおん!』が描き出した学校の風景は、あまりにも穏やかな静謐さに満たされていて、現実的な印象からあまりにも遠くかけ離れている。在籍している少女たちはみんな美しく、素行の悪い生51539a74.jpg徒は一人もいない。そんな少女たちがひたすらくつろいでいる姿が映像として続くと、あちらの世界が妖精の世界にすら思えてくる。豊郷小学校をロケーションにしたことで、『けいおん!』のイノセント的世界は単なる空想ではなく、現実的なパースティクティブを持ち、現実と空想の境界線を曖昧にさせてしまった。『けいおん!』は異郷的な深度43288800.jpgをひたすら進めていく『学園モノ』の最前線を突き進んだ作品である。
しかし、第2期『けいおん!!』が大テーマとして掲げたのは「卒業」である。夢のように思えた世界の終了。あの世界における時間は永遠ではなく、3年の猶予があらかじめ提示された有限のものであった。『けいおん!!』は『学園モノ』をイノセントとして深化させた末に、4804089e.jpg「終了」の二文字を叩きつけたのである。(追記:この記事を書いていた頃、筆者はまだ劇場版の情報を得ていなかった)
アニメ・漫画はこれからも『学園モノ』を作り続けていくだろう。ノスタルジーとモラトリアムを混濁した、「こうであるはずだった」「こうであってほしかった」学園生活の残像の物語が、その後もひたすら延長されていくのだろう。そして、その全ては『けいおん!』を越えられない。イノセントとしての学園モノの決定的なものが『けいおん!』の映像の中で描かれ、それは「卒業」という終着点に達してしまったからだ。どんな作家も『けいおん!』の前で立ち往生し、誰もイノセントを越えたその向うの風景を描けないだろう。
c88afb25.jpgアニメファンはお祭り騒ぎする作品が欲しかった――というのは押井守の言葉だ。
これはアニメファンの性格と欲望の実体を言い当てている。コミックマーケットは明らかに「お祭り」だ。ニコニコ動画でコメントを飛ばしあい、作品に擬似的に参加する行動も、どこかしらお祭り的狂騒のようなものを感じさせる。アニメファンはイベント好き、お祭り好き、限定もの好き、行列好きだ。「オタク」は「お宅」(引きこもり)ではなく、実際にはことあるご
3a9bfaf9.jpgとに外に出るチャンスを求めているのだ。
アニメファンは作品に品質や高度な批評を求めているのではなく、お祭り騒ぎの切掛けが
ほしいだけかもしれない。京都アニメが支持されるのは、京都アニメがお祭り騒ぎを起こす切掛けをよく知っているからかもしれない。「萌」も「ゆるい日常」も「ヒットするアニメ」の必須キーワードではないだろう。では何なのか、と聞かれるとわからないけど。
『けいおん!』の物語の中では何も目立った事件は起きない。第1期第1話において武道館を目標に掲げるものの、その目標に向って何かをするわけでもない。10代の若者にありがちな、「身の丈にあわない大きすぎる夢」としていつの間にか忘れられてしまった。普通の青春物語なら、プロを目指してなにかしらの活動をはじめていることだろう。そうすれば、その過程に起きそうな葛藤が物語の中心になるのだろう。
しかし、『けいおん!』は物語全体を通して何も起こらなかった。大きな事件は何一つ起きず、軽音部の結束を乱すような何かが起きそうな気配すらなかった。ただ当り前の毎日があり、その時間を過ごしていっただけである。ある意味、驚嘆すべき意外性である。
山田尚子監督は、CUT誌でのインタビューでこう発言している。
「普通の子にすごく興味があるんですね。たとえば『〇〇ちゃんってどんな子?』って訊くと、『いや、普通の子』って答えられたりすることってあるじゃないですか。『あの人ってどんな人?』『普通』とか……いろんな人に普通普通って言われているうちに、『普通って何?』と思って、“普通”を研究するようになって……(笑)。でも、結局、普通の子なんていないんですよね。みんな必ずどっかちょっと変だったり面白かったりして……って思って、よく見ているうちに普通の子ってめちゃくちゃ魅力的だな、と(笑)。普通って思われてる子の奥深さってすごいんですよ、なんでもいけるんですよね。だから、この子たちの許容範囲の広さもそういうことなのかもしれない。普通だからこそ、この子たちは優しいし、友だち思いだし、みんなのことを気にかけられるし。性格が悪い子とかいないですから(笑)。『普通、普通』っていっても私の目には普通には見えないんだよなぁ……と思いながら研究してきた結果が『けいおん!』なんだと思います(笑)」CUT NO.270 山田尚子インタビュー
平凡さをいかに描くか。普通の女の子を普通に描き、普通に学園生活を終えるまでの物語。そこそこに音楽の才能を持っているものの、決して「天才」というわけではない。誰もが体験したであろう、何一つ特別ではない当り前の青春物語であり、それでいてかけがえのない高校時代という時間。何も起きない毎日をいかに描き、エンターテインメントとして発表するか。そんな普通さに全精力が注がれた作品が『けいおん!』であったのだ(唯たちがプロデビューする展開もありえたかもしれないが、もしそうなった場合、唯たちは“現在の『けいおん』”のような学園生活をどこかで夢想するようになるだろう。唯たちではなく、ただひたすらに騒々しく、穏やかさや平穏さを失いつつある時代だからこそ、『けいおん!』に描かれた平凡さは、ある意味、全ての現代人に向けた“贈り物”ですらあるといえる。書き足し2010.11/15)
そしてその中に、監督の「あの子たち」への愛情がふんだんに注がれたわけである。普通の子だけどこうであってほしい。あの子はこんな格好でこんな顔をしてほしい。その逆に、あの子はこんなことは決して言わない。
普通の子というものに対する観察眼と同時に込められた思い、愛情、親心。その感情が『けいおん!』という作品全体に巡らされ、あそこまで穏やかな優しさに満たされたのだ。(ただ、監督の意識は最後まで「あの子たち」だったのだろう。等身大の少女というにはあまりにも幼い)
キャラクターたちに徹底的に感情移入し、愛着を抱き、作品を淫する。それでいて、決して性的には描かない。作り手によって完璧に創造された毒のない世界の中で、キャラクターたちは大切に保護され、愛情が注がれていった。
そんな監督が映像に込めた慈しみの想いを、見ている側も同時に共有し、キャラクターやあの部室の空間を愛でる作品である。ただただ優しさと愛情だけに満たされた、幸福な作品であった。
2557956a.jpgこの頃は個人の思想や嗜好を作品に押し出す傾向を嫌う傾向がある。「それは自己満足だ」と。公共性があまりにも強く作家を束縛し始め、ビジネス的な側面ばかりが重要視されえる。作家は大雑把な公共的という意見に翻弄され、作品から本来的な力強さが骨抜きにされてしまっている。過剰な公共性と商業主義が作品から個性と情念を失わせ、何となくありきたりな横並びのフレーズが溢れる状況を許してしまっている。
34f876dc.jpgむしろ芸術は個人作品の傾向をどこかに強く残し、その純度を守った上で商品として考えるべきではないだろうか。公共性と商業主義は作品の情念を殺してはならない。




あの少女たちは静かにあの場所を去ってしまった。
決して背伸びをしないで、身の丈にあった幸福のすべてを手に入れて、今という時間を全力で駆け抜けて行った。だからこそ少女たちは、煌びやかな輝きをその身にまとうことができたのだ。
目一杯遊んで大騒ぎして、できる範囲で努力もしたし、時には喧嘩もした。できることもやりたいことも全部やり終えると、全てが過去になり、少女たちの高校時代という時間はゼロに向っていく。
最後にちょっとだけ振り向いて、「おしまいだよ」とそう微笑んで去っていく。穏やかで煌びやかに輝いていた思い出とぬくもりをほのかに残して。



作品データ
監督:山田尚子 原作:かきふらい
シリーズ構成:吉田玲子 キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子
音楽プロデューサー:小森茂生 音楽:百石元 楽器設定:高橋博行
音響監督:鶴岡陽太 編集:重村健吾
美術:田村せいき 色彩設計:竹田明代 撮影監督:山本倫
アニメーション制作:京都アニメーション
出演:豊崎愛生 日笠陽子 佐藤聡美 寿美菜子 竹達彩菜




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