■ 最新記事
(08/15)
(08/14)
(08/13)
(08/12)
(08/11)
(08/10)
(08/09)
(08/08)
(08/07)
(08/06)
■ カテゴリー
お探し記事は【記事一覧 索引】が便利です。
■2010/08/10 (Tue)
評論■
2・基本の構造を作る
物語創作に当たり、作り手はまず作品のベーシックである原理を示さねばならない。
『鋼の錬金術師』におけるベーシックは『錬金術』と呼ばれる特殊能力である。この『錬金術』が『鋼の錬金術師』という作品の大きな特色であり、物語全体に一貫した連なりを与えている。
『鋼の錬金術師』はこの『錬金術』というモチーフをとことん追い込んで、その上で物語構築をしている。物語中で頻繁に繰り返されるアクションは全て『錬金術』のアイデアを応用したものであるし、物語の展開にも常に『錬金術』が係わってくる。そもそも物語の切っ掛けとなった《人体練成》も『錬金術』によるものの結果であるし、『錬金術』のメタファーは傍流に入っても、《キメラ》や《真理》など、物語に重要な影響力を持ち続けている。
また『錬金術師』は物語上における歴史的な広がりすら与えた。その世界における大きな発端、それから現在に至るまでの系譜の中に、常に『錬金術』が係わっているという大きな連なりを作り出した。
素晴らしいのは『錬金術』に哲学的テーマを与えた発想力である。《人体練成》で倫理の問題に正面から直視し、これだけで『鋼の錬金術師』を特別な作品に押し上げてしまった。さらに物語最後まで重要な意味を与えた「全は一、一は全」という禅問答的な問いかけがある。物語中頻繁に繰り返す「等価交換」と同じ意味なのだが、「全は一、一は全」はそれよりずっと意味が深く、物語の発端となる命題(元の体に戻る)を解決させる鍵にまでなっている。
『錬金術』というたった一つの原理をとことん追求した結果、『鋼の錬金術師』は最近の作品では例を見ないくらい世界観を広げ、深度を深めていったのである。逆の言い方をすれば、『鋼の錬金術師』は『錬金術』というモチーフだけを追いかけ続けた作品であるといえる。
物語の基本構造である『錬金術』は極めてシンプルで、理解しやすい。元素の基礎的な知識は小学校で学ぶはずだから、改めて物語上で解説する必要もない。とにかくシンプルであるため、模倣作品が作られたし、どうやら『鋼の錬金術師』の『錬金術』ルールは変身ヒーローにおける変身くらい普遍的に受け入れられたらしい。
ここで、作品のベーシックを構想する場合に重要と思える二つのポイントを挙げたい。
〇1・シンプル
〇2・発展性がある
もし第3があるとしたら、「真似されるほどに魅力的であること」だと思うが、とりあえず取り上げない。
第1にシンプルであること、誰にでも即座に理解できるほどわかりやすい、というものが望まれる。ライトノベルにありがちな複雑奇怪なルール設定を提示しても、読者は誰も理解できず、遠ざけてしまうだけだ。ルール作りに熱心になりすぎて、ルール設定そのものに溺れてはならない。
次に、第1で提示したルールを発展させ、深度を深められること。『鋼の錬金術師』を例にすると、『錬金術』というルールだけで、《人体練成》《キメラ》《国土練成陣》《真理》と、物語上の広がりを与えただけではなく、哲学的な深みすら作品に与えた。
ベーシックは作品全体を支える骨格である。だから、「シンプル」で「発展性がある」ということは、極めて重要である。ベーシックを複雑にすると誰にも理解されないし、(ライトノベルではありがちだが)キャラクターごとに原理が違うとなると、作品における一貫性を疑わねばならなくなる。複雑すぎるルール設定は、まず読者に理解されないし、ルール設定そのものが物語の発展性に制限を加え、妨げる場合もある。直感的に理解できるシンプルさを心がけることが大事だ。当然だが、一度提示したルール設定は、途中での変更、追加はしないほうがいい。
理想を言えば、『スーパーマリオブラザーズ』におけるジャンプアクションくらいシンプルなのがいい。『スーパーマリオ』シリーズでジャンプアクションが提示されてからすでに二十数年の時が流れているが、今でも我々は夢中になって遊んでいる。しかも、基本的な操作はあの時代から、ほとんどまったく変わっていない。初代『スーパーマリオブラザーズ』で遊んでそりきりだったという人でも、最新シリーズを違和感なく遊べるはずだ(つまり、マニュアルが不要であること、が理想的なのだ)。『スーパーマリオ』シリーズくらいのシンプルさであったら、入口の門構えで戸惑う、ということもない。
作者の知性、あるいは本質的資質が試される部分だが、シンプルなベーシックを思想、哲学的な領域まで深化させることができれば、その作品は名作になりうる可能性は一気に高くなる。俗っぽい意識や言語、一過性のニュースに流されず、作品の軸を見失わずテーマ設定を行うように心がけたい。
ベーシックはまだ誰も試みたことがない斬新さが求められる。逆に言えば、ここに新しさを提示できれば、その後の物語展開にも新鮮さが得られる可能性は高くなるし、読者も期待感も高くなる。
「シンプル」であること、「発展性がある」こと、この2つを心得て追求していけば、まだ誰も試みたことのない新しい作品がおのずと見えてくるはずである。
前回:イントロダクション
次回:余談・父性に取り囲まれた物語
PR
■
つづきはこちら
■2010/08/10 (Tue)
評論■
1・イントロダクション
後半展開における『鋼の錬金術師』は概ね評価が高く、好印象のま
ところで、ここ近年かびますしく言われるようになった批評に、「最近
だが、そういった理由を別にしても、最近のアニメは確かに物語を構
最近のアニメは長編の制作が難しくなっている。それは制作会社が尻込みしているから、という理由だけではなく、作り手側に「長編を構
エピソードをどのように配置し、キャラクターを操作し、物語後半への動線を作っていくのか。それでいて、どうすれば見ている側の興味と
それを理解して意識的に物語を作っていく力が弱くなっている。「物語は思いのまま書けばいい」などという、日教組教育的な創作論を振りかざしてるあいだは、どんなに頑張っても絶対に傑作は生まれない。
その一方で、『鋼の錬金術師』は物語後半ほど勢いを強めていった作品である。『鋼の錬金術師』後半は、それまで提示されていた全ての要素、キャラクターが集められ、鮮烈な絵巻物を織り上げていった。クライマックスへ至る動線、それからエンディングは、鮮やかと評するしかない見事さである。もはや近代アニメにおける奇跡であるといっていいだろう。
では、なぜ『鋼の錬金術師』がそんな奇跡を描けたのか。『鋼の錬金術師』だから奇跡が起きたのか、『鋼の錬金術師』以外では奇跡を引き起こせないのか。もし奇跡を起こすことができるのなら、それをある程度まで操作できないものだろうか。
『鋼の錬金術師』を教科書と見做し、「いかに長編の物語を作るか」を考えていきたいと思う。
次回:基本の構造を作る
■2010/06/27 (Sun)
評論■
第1期から第2期へ
第2期『けいおん!!』が始まって3ヶ月が過ぎようとしている。当初抱いていた懸念はさらりと洗い流され、作品が持っている個性はそのままの形で継承され、あるいは深度を深めた。唯たちは相変わらずの様子であの音楽準備室に集り、相変わらずの一時を過ごしている。我々が感じていた時間的な隔たりはあの少女たちにはなく、『けいおん!!』第2期はあくまでも第1期の延長として制作されている。
第1期において、目まぐるしい速度であっという間に高校の2年間を駆け上ってきた唯たちであったが、3年生に上がりいよいよ変化の時を迎えようとしている。これまで通り、ただ部室に集まってお茶をしてたまに音楽をするだけ、という訳にはいかない。一見すると同じようにくつろぎの時間が描かれているが、少女たちの眼前には難しい選択が突きつけられている。高校を出てからの将来設計というのは、うっかりするとその後の人生そのものに影響を及ぼすものだ。どの学校を選択するべきなのか、自分の成績を基準にした場当たり的な選択で許されるものではない。作品は明らかに唯たちの将来を意識し、活動しないくつろぎの物語から成長の物語への変化を描こうとしている。
作品趣旨の変化に合わせて、映像表現、物語の綴り方にも若干の変化が見られる。物語がどんな結末を目指しているのかわからないが、現段階において、第1期と比較してどんな変化が見られたかを検証したいと思う。
■ 色彩
色修整なしで並べると違いがわかる。
↓は2枚を重ねてみたもの
実際に画像を並べてみるとその違いは明らかである。検証してみると、第2期『けいおん!!』の画像から彩度を30%引くと第1期『けい
もっとも、色彩設計は複雑なカラーバランスを見て調整しているはずだからから、『けいおん!』から『けいおん!!』へ単純に彩度を上げただけの映像というわけではないだろう。
(右の比較図を見るとわかりやすい。右下の絵は、第2期第8話の画像から30%彩度を下げている。唯の肌の色はほぼ一致したが、それ以外の色彩は微妙に違っている)
■ キャラクターの変化
キャラクターの描かれ方にも若干の変化が見られる。第2期第1話『高3!』の冒頭において、まず唯の顔の印象が変わったように思えた。これは雰囲気の問題ではなく、はっきりとキャラクターデザインそのものが変えられたようだ。
まず輪郭線。第1期の唯は顎のラインが丸みを持って幼い印象で描かれているのに対し、第2期の唯は鋭角的に、すっと流れる線で切り取られている。目鼻口の位置は変わらないが、目の大きさはほんの少し小さく描かれるようになった。髪の生え際は若干下だ。髪のボリュームも若干押えられた印象もある。
大きな変化ではないが、どことなく大人びた雰囲気が漂い始め、これから描かれるであろうドラマ的な展開を意識したデザインになっている。あるいは、「大人になるための物語」が意識されているように思える。
ところで、当初の唯というのは現在よりおっとりのびやかな性格のキャラクターだった。周りよりいつもワンテンポ遅れて反応するくらいの頼りなげな女の子だった。ひたすらくつろぎの時間だけが描かれる『けいおん!』の象徴的なキャラクターであった。
だが第2期に至る過程で、唯の印象は劇的に変化した。しかし「成長した」とは言いがたいように思える。唯は明らかに活動的な性格に変わったが、物語の中心的な導き手としての立場をほとんど果たしていない。ほとんどの場合は律と息のあった漫才コンビ的な立場で(実際にコントやってたし)、物語をかき乱すトリックスター的な役割である。当初かわいいもの好きと思われてたのに、今やすっかり変な人である。物語の中心はあくまでも軽音部という空間にある、という見方であれば問題ないのかもしれないが、唯は主人公としての立場が弱いように思える。
今からでも遅くはない。いっそ、澪を主人公に押し出したらどうだろうか。
←第1期11話。
↓第2期第1話。
その澪も、第1期からデザイン的な変化が見られるキャラクターだ。比較してみると、ルックス自体は変わっていないが髪の毛の描き方がはっきりと変わっている。第1期の映像を順に追ってみると、澪の髪の毛の描き方が次第に変わっているのがわかるだろう。髪の毛の線が次第に増え、単に装飾としての線ではなく、細かな髪の房の流れまで表現するようになった。
堀口悠紀子はパーソナルな感性でキャラクターの髪を描くことで知られている。アニメにおける髪の毛の描き方はすでに文法化され、ほとんどのデザイナーはすでに提示された表現技法からいくつか選択して新しいキャラクターを描くようにしている。この場合において、デザイナーに必要なのは統合力であり、《デザインの》力ではなく《デコレーション》の力が重要視される。
しかし堀口悠紀子は観察と独自のディフォルメを組み合わせてキャラクターを創作している。堀口悠紀子の手によるキャラクターを見れば、昨今アニメにおいて増大傾向にある動画マン殺しの爆発ヘアーのキャラクターはいない(余談ながら、アニメにありがちな爆発ヘアは現場で思いっきり嫌われている。正面、横、背後、すべて形が違うからだ。さてどこの出っ張りを引っ込めて、新しい角を引っ張り出すか? 現場の嫌われ物だが需要は決して減らず、デザイナーは競うかのごとく珍妙ヘアーを創作してくる。アホ毛など可愛いものである)。堀口悠紀子のデザインは余計な一工夫などせず、現実を観察し、それを自分だけのやり方でアニメ表現に変換している。マフラーをしたらどのように髪の毛が巻き込まれるか。キャラクターが動いたらどのように髪の毛が釣られて浮かび上がるか。上の画像の2枚目で、澪が後ろ頭を撫でて、それに釣られるように髪の毛の束が一本一本動いている過程が描かれている。堀口悠紀子は正攻法的な観察でキャラクターを描くデザイナーであるとわかる。どちらかといえば地味で、当り前の考え方や表現方法でキャラクターを描いているといえる。(ちなみに第1期は後半に向けてどのキャラクターも線が細かく描かれた)
しかし第2期『けいおん!!』になり、なぜか第1期初期の印象に戻る。第1期初期と第2期初期と見比べるとどちらがどちらなのかわからないほどだ。これから変化があるのか、どんな指針をもってデザインしているのかまだ見えてこない部分である。
↓身体の描き方比較。左:第1期。右第2期。
しかし第2期『けいおん!』になり、胴回りが太くなり、人物の体型をしっかり捕えるようになった。現実的なデッサンを反映させ、第1期よりも実在感を持った印象で描かれている。これも、物語におけるドラマ的な変化を予兆させる要素として描いているのだろう。(まあ、エピソードや場面によるんだけど)
■ 背景
第1期は視界が窮屈な感じがある。
第1期『けいおん!』の主要人物はあくまでも軽音部の4人のみである。中心舞台は部室として占拠している音楽準備室のみであり、その周辺にはあえて目が向けられることはなかった。
わかりやすい一例は教室の描き方である。第1期『けいおん!』における教室は、極端なクローズアップやロングサイズで描かれることが多かった。クローズアップで中心となる人物を捉え、それ以外の描写を切り落とす。あるいは極端なロングで、クラスメイトの顔をぼやけさせて印象を弱く描く。のびのびとした音楽準備室の描写に対し、教室の風景がひどく閉鎖的でぼやけた印象に見えるのはそういう理由である。
クラスメイト全員が詳細に設定されることによって、教室の描写に余裕が感じられるようになった。モブキャラクターが設定されていないことをごまかす理由がなくなり、カメラワークが自由に使いこなせるようになった。結果として教室は『けいお
前第1期は軽音楽部とその周辺という描き方だから、どこかしら閉鎖的で物語領域も狭くなりがちだった。音楽準備室という限定された空間で、どこか現実感のない夢を漂うような作品……というコンセプトであるうちは問題なかったのだが、シリーズ作品として展開する場合はどうしても掘り下げるもののない「浅さ」が弱点として付きまとってしまう。例えば第1期『第10話 また合宿!』。これは『第4話 合宿!』の梓を加えただけの焼き直しである。
実は、これが第2期における最大の懸念であった。第1期をそのまま延長しても何もない。だから物語領域を広げるために設定や舞台を追加することは方針として正解であろう(欲をいえば、唯と憂の親たちも登場して欲しかった。高3の進路を前にしている時期で、親が出ないのは不自然だ。三者面談もしないつもりだろうか?)。
ところで『けいおん!』はカメラ位置が低い。いや、唯の太股描写が多いという話ではない。『けいおん!』は座り姿勢が多いために、目高でもカメラ位置がやや低めになる傾向がある。このカメラの低さ、常に地面が見える高さであることが、『けいおん!』特有の落ち着いた印象を作り出しているのだと考えられる。
以上のような設定でキャラクターを床に座らせると、カメラ位置は自然と低くなる。地面に近い位置で座らせると、キャラクターはごろんと寝転がることが多くなり、この描写が日本人特有の感性なのか、くつろいだ気分にさせる。
また空間の描き方なども常に調整され、「決して窮屈にならない距離感」に注意が向けられている。例えば音楽準備室。実際の豊郷小学校の写真と比較してみればわかるが、アニメで描かれる音楽準備室はやや広めに見えるよう描かれている。カットごとに空間の広さが変更されているのだ。
同じ考え方で、ディティールなどが低く抑えられている。平沢家のインテリアを見て明らかのように、あちこちに隙間ができるように設定されている。ごちゃごちゃしたものを一切見せない、隙間をあえてつくることで、空間的なゆとりを演出しているのである。平沢家の敷地面積はかなり狭いのではないかと思われるが、空間自体は狭く、それでいて狭さを感じさせないバランス感覚があの印象を作り出していると考えられる。レイアウト法的な考え方でいうと、押井守が提唱した「とことんディティールを増大させることで重量感やその場の実在感(リアリティ)を作り出す」という方法論を真逆をいくやり方である。
この清潔感は平沢家の風景にも同じように言える。インテリアの設定にしても、きっちり整理されて、スッキリした印象が常にある。
『けいおん!』におけるこういった描き方に似た作品がある。荻上直子監督作品の『かもめ食堂』や『めがね』である。『かもめ食堂』も作品全体に清潔感があり、食堂の風景も狭いながらも窮屈な感じが全くない。食事がうまそうに見える、という特徴も『けいおん!』と通ずるところがある。『けいおん!』におけるお菓子の描写も、食器を含めて実にこだわり深い描かれ方をしている(そのお菓子を食べている女の子の描き方も含めて)。『かもめ食堂』の主人公サチエの自宅風景のリビングと平沢家のリビングのインテリアの選び方や空間の作り方なども非常に似ている。どちらも女流監督であり、鑑賞後の印象も似ているので、比較しながら見てみると面白い発見があるかもしれない。
■ 物語後半に向けて
第1期から第2期へ、はっきりと変わったのが時間の描き方だ。第1期では手で掴む間もなく時間が指の間からすり抜けていくような印象があった。特に大きな事件は何もなく、軽音部の部室でゆったりとくつろいでいるうちに気付けば2年間が過ぎ去っていった、とそんな感じであった。見ている側はまるで竜宮城にでも迷い込んだような気分である。
第2期に入り、時間の流れは急に停滞した。これまで取りこぼしていたものを取り戻すように、日常の細かな変化や事件を取り上げようとしている。ぼんやりとした霧の向うだった教室の風景も、細かなディティールを持って描かれるようになった。第1期ではどんな顔をしたクラスメイトがいるのか不明だったが、第2期は徹底して描きこまれている。
まるで少女たちの表情の動きや動き出す瞬間の1コマ1コマを、決して取り逃さないようにしているようだ。
第2期『けいおん!!』は第1期の静けさと比較すると、少々騒々しく思える瞬間がある。日常の描写や人物の表情が丁寧に描きこまれる一方で、前作に見られたようなくつろぎの“間”が作品から消えてしまった。いつも何かしらの事件で大騒ぎして、賑やかすぎる印象がある。
しかしコメディの描き方は、アニメ全体を俯瞰してみると、どちらかといえば控えめなほうだ。最近のアニメではもっと大胆にキャラクターを崩したり、画面の線密度を操作して、その極端さに笑いを求めようとしている。だが『けいおん!!』における笑いは、あくまでも『けいおん!』という約束事の中で描かれている。極端にキャラクターの設定や舞台の設定が笑いのために逸脱することはない。あくまでも『けいおん!』という物語の範疇の中で笑いが模索されている。
ドラマの描き方についても、同様に言える。
ほとんどのアニメでは、大袈裟な表情や多すぎるモノローグでキャラクターの心情を一から十まですべて語ってしまおうとする癖がある。アニメにおける感情表現とはむしろそうするべきだ、と考えられている傾向が作り手とユーザーの両者の間に約束事して決められているようでもある。
だが『けいおん!!』第2期において、モノローグは決して多いほうではない。《文脈》を大切にして描かれている。登場人物の心境的な変化や、内面的な小さな成長を物語上の《文脈》で解説している。実写ドラマやアニメ(映画でも)でありがちな、それまでの物語過程の全部を無視して、突然の独白で物語の流れを変更させてしまうような場面はない。
どちらかといえば淡々としていて、さりげない言葉や表情の動きで物語の過程や成長を描こうとしているように思える。大袈裟な表情の作りもその場面を演出的に作り出すためのものであって、語りすぎる印象はない。そういった意味で、第2期『けいおん!!』は劇場映画的な作品であるといえる。
作品制作というのは、でたとこ勝負的なところがある。作品制作がスタートすると、一時停止が利かない。小説や漫画は作者都合として一時的な停戦を敷くことは可能である。だが映像作品はそういうわけにはいかない。アニメや映画の制作は明確な納期が常に示され、もたもたしているうちにお金が流れ去ってしまう。アニメや映画は大人数で取り掛かるものだから、頭脳(監督)が一瞬でもまごついてしまうと現場の動きが停止し、しかし大人数のスタッフを待機させているわけだからそのぶんお金を消費してしまう。だから映像作品の制作は動き出すとストップが利かないのだ。
だから映像制作の筆頭となる人物は、作品制作がスタートするまでにあらゆる準備をしておく。あらゆる方法論や経験則を駆使し、後の不安要素を徹底して排除しようとする。作品制作が始まった後に準備不足に気付いても、もう手遅れだ。一つの傷や穴が作品を駄目にする。製作の過程で何かが偶発的に生まれる、なんて期待はしてはいけない。偶然に頼って映画つくりをするなどは愚か者のすることだ。
だが、現実には完璧なシュミレーションなど存在しない。すべてを想定して制作を運営していくことなど不可能だ(それ以前に準備期間にも時間制限ある)。どこかで必ず想定不能の領域に踏み込み、フロンティアを目指さなければならない。作品制作とはどこかでそういった冒険的な要素を孕むのである。
私は以前から、日本人は一つの結末を想定し、それに至るまでの物語を作るのは苦手なのではないかと考えている。これについては別の機会で詳しく語りたいと思う。アニメの物語作りは個々のエピソードを作り出す能力はあるが、物語全体を俯瞰して統括的な物語を作ることを極端に苦手としている。いわゆる「当番回」や「お約束」といった言葉はそういった悪習への妥協を表しているのだと思う。つまり、個々のエピソードまではしっかり想定して準備できているが、終局的な目標地点を想定した作品制作が苦手なのだ。粒を生み出すのはうまいが、大きな流れを作り出すのが苦手、というべきだろう。
アニメをいくつか見ていると、1クール目はそこそこに順調に進んで行くのに、2クール目に入ると突然ガタガタと作品が崩壊してしまう作品は珍しくない。たった13話でもガタガタに崩れ、結末の印象が弱くぼんやりした作品になることも珍しくない。そもそも作品がどんな結末を目指して進んでいるか、作り手にきちんと想定できていないからそういう事態に陥るのだ。
『けいおん!!』は1クール目は前作第1期の人気の延長としてまあまあの評価が得られた。だがそこから先、いきなり作品が崩壊する危険だって充分にありうる。キャラクターの作画は崩壊し、背景が使いまわしのバンクになり、脚本が間に合わず似たようなシーンの繰り返しになり……。そうやってぶっ壊れたアニメをこれまで何度も見てきた。『けいおん!!』がそうならないとは限らない。
第2期『けいおん!!』の後半の物語は、間違いなく唯のエピソード、あるいは唯の将来の展望が物語の中心になるだろう。物語の進捗状況からいって、間違いなく高校卒業まで描かれるはずだ。
1クール目の物語で、繰り返し「将来への漠然とした不安」を口にする唯が描かれてきた。『#8 進路!』ではまだ決定しきれない将来の選択を先延ばしにしてしまった。
だがその先の展開について、作り手はちゃんと想定しているだろうか? これまでのエピソードで振り撒いてきた小さな種子が、ちゃんと意味のある形で芽を出すのか(ほとんどのこうした伏線つくりは失敗するか放ったらかしで終わる)。今のところ、唯の将来に直接結びつきそうなエピソードは出てきていない。ただエピソードを消費しているだけで、物語はまだ動いていない。『けいおん!』という作品は、軽音部という部室を中心に、その周辺、という描き方をしてきた。周囲の世界というのは、ぼんやりとした曖昧さでざっくり切り落とされてきた(第1期では教室という場所すら“周辺”という判断でざっくり切り落とされてしまっていた)。これを、そのままの発想で延長すると、卒業後の世界――例えば唯の進学先や就職先についてが曖昧にぼかされてしまう可能性が強い。
もし唯の将来を放り出して単にエピソードのすべてを消費するだけだとしたら、それは後味として最悪の作品となるだろう。あるエピソードで、それまでの流れを無視して突然なにかが決まってしまう、という展開もよくない。作り手が唯をどう思っているか、が問題になる部分だ。
『けいおん!!』は第2期に入り、時間の流れに余裕が生まれ、ゆったりと日々のエピソードを描くようになった。だが後半も同じように作品を描くべきではないだろう。後半の展開こそもっと緊張感をもって作品つくりに臨むべきであり、鑑賞すべきなのである。希望としては、あの5人の将来も大切に描いて、桜ヶ丘高校から社会へ送り出して欲しいものである。
■2009/11/10 (Tue)
評論■
アスラクラインの失敗
〇 ライトノベルが背負う課題
『アスラクライン』という作品は、その典型的な形式を躊躇いもなく踏襲している。キャラクターの造形は「テンプレート」「属性」と呼ばれるものから選択され、物語はありきたりな台詞をあきもせずに繰り返している。しかも『アスラクライン』の作中で提示される特殊用語の数々は、我々が普遍的に知っている通俗的な感覚から乖離している。用語だらけの言葉が並べられると、何について話をしてるのかまったくわからない。『アスラクライン』という作品だからこそ、というべき異端的な描写があるかといえばそれすらない。わかりにくい上に、特別なドラマがそこにない。敷居が無用に高すぎるのだ。
『アスラクライン』が舞台にしているのは学園である。学園生活は社
もしも彼らが卒業してしまったら、その後の学校はどうなってしまうのだろうか。学校生活の延長に世界の平和云々があるとしても、それを守れるのは学校に在籍している3年間の出来事に過ぎなくなる。卒業したらどうなるのか。留年して世界の平和を維持し続けるのか。
学生にとって学園はあくまでもかりそめの場所でしかない。学園の延長に世界云々の問題があるとするならば、学校教師が手を加えるべき事件である。学生は所詮は学校という社会と、教師という支配者に隷属する存在でしかなく、その想定を上回ることはできない(虞犯行為と退学者を除いて)。しかし『アスラクライン』には教師を含めた大人の存在が驚くほど希薄だ。授業風景にすら、教師は顔すら見せない。あたかも始めから存在していないかのように。
だが『とある科学の超電磁砲』の少女たちも3年生になれば卒業するのである。『とある科学の超電磁砲』に登場する「ジャッジメント」は警察的な組織で、構成メンバーは特殊な訓練を受ける。それでもやはり卒業してしまえばそれまでなのでだ。少女たちが都市の治安を守って戦えるのは、学生で
学園を主要舞台にしたライトノベルは、学園以外の社会が一切でてこないのだ。主人公が接しているのは自宅と学校だけであり、その周辺にあるべき社会がどこにも出てこない。大抵の作品は、子供の監視者であり、資金的な提供者である親が出てこない。親という社会すら描かれないのである。『とある科学の超電磁砲』は学校以外の場所が活躍の場として出てきているように見せかけられているが、あの都市はあくまでも学園の延長だ。社会を統治する大人は、あの風景だけではなく、少女たちの主要な生活の場にすら存在を感じさせない。
最近とくに奇妙に感じたのは『けんぷファー』だ。『けんぷファー』の第1話において、主人公は突然出現した敵と白昼堂々と闘争を繰り広げ、車道をふっ飛ばし電柱をへし折った。ここまでの大騒動を起こしておきながら、警察もマスコミも一切物語に関与してこない。電柱をへし折ったならば、ある程度の停電くらい起きるはずだ。関係した学生はすぐに特定され、警察に連れて行かれるだろう。新聞の一面トップを飾るくらいの事件だ。同じ第1話では図書館の本棚を真っ二つに引き裂かれる場面も描かれた。あれだけの騒動があれば、真っ先に体育館係のおっかない先生が飛びついてきそうだ。
だというのに、『けんぷファー』は大人や社会が一切介入してこない。教師すら見かけなかった。『けんぷファー』の世界で最も権力を持つ者というのは、同年代の子供なのである。まるで世界に子供たちしかいないというように。社会が物語に関わってこないのだ。『蠅の王』の世界のように、子供たちだけの小さなコミニティがそこに描かれている。それでいながら、主人公たちはやはり学校生活という場所に隷属し、その規範にきっちりと従い続けているのだ。
エロゲーであれば、親がいない、あるいは社会が影響してこないという設定にある程度の意味を持たせることができる。エロゲーの主人公たちは親と社会という監視者がいないからこそ、自由奔放に性の放埓が実行できるのだ。家庭内であっても、親という監視者がいる限りタイミングを見計らう必要がある。そうそう簡単に性的な展開には至らないだろう。社会というのが形だけであって実体として存在していないから、野外での性交もありえる。あれは野外であって野外ではない。そもそも社会が介入してこない前提なのだから、どこであっても野外ということにならないのだ。親あるいは大人という社会がないから、エロゲーの主人公たちは自由すぎる性交という反社会的な逸脱行為ができるのだ。
いつの間にそうなったか知らないが、この好都合設定がライトノベル世界に浸透し、当り前の前提となってしまった。ライトノベルには社会が描かれない。大人が描かれない。親のいない空洞化した家庭と教師のいない学校があり、その全てを子供たちだけで統治されている。その前提の上に複雑奇怪な設定と用語が羅列され、我々を困惑させている。学園が舞台であっても、誰もが知るモラトリアル空間としての共感を得ることができない。何もかもが奇怪さを際立たせるだけである。
小説よりもう少し軽めの読書として生み出されたライトノベル。子供の時期には、本格的な小説より確実に入り込みやすく、親しみやすいだろう。アニメや漫画、ゲームと多様に連動しているからイメージが明確だ。権威ある人は「創造力が育たない云々」などというが、想像力などというものは知覚しているものの中から構築されるシュミレーションに過ぎない。知らないものを想像せよというのは無理だ。物を知らない子供に概念だけで構成された小説を与えたって、理解して読み進められるわけがない。だからこそ、ライトノベルが必要なのだ。
しかしライトノベルはそういった子供のための読書入門ではなく、もはや特殊ないちジャンルである。ライトノベルでしか通用しない物語展開に、「お約束」と呼ばれる笑いに、一般人を遠ざけるのが目的なのかと勘ぐってしまう複雑奇怪な特殊用語、特殊設定。マニアックな人以外禁止の領域である。
小説に限らず、物語創作に必要なのは《斬新なアイデア》と《通俗的な常識》のバランスである。そのどちらにも偏ってはならない。片足は常に通俗的な、誰もが知っている認識の上に置いておくべきなのである。時には科学的学術的に誤っている事象でも、一般的な認識はどちらだ、と審査するべきものである。それを踏み外し、野放図に物語を展開させると、誰も付いてこれない奇怪な産物となってしまう。通俗的な感覚が欠落していると、いくらその物語が科学的学術的に正確だとしても、共感は得られないだろう。逆に科学的学術的な視点が欠けてしまうと、物語はなんとなく接地点をなくしてふわふわした印象になり、あまり現実ではない不安定な印象を与えてしまう。(ファンタジーであっても自由に描いていいものではない。ファンタジーに必要なのは民俗学、考古学、人類学の素養だ。風景の描写には自然主義者としての観察眼が必要だ。ライトノベルが描くファンタジーは、ずばりいってしまえば現代人がファンタジー風のコスプレをしているだけだ。ファンタジーを読書したという感慨はどこにもない)
もはやライトノベルは子供のためのものでもなければ大人の読書でもない。単にマニアックな特殊趣向を持った人のための読書だ。さらに進んでいけば、ライトノベルはそれ自体が他の社会から切り離されていくだろう。文学という分野からも孤立していく。孤立した文化というものは、常に世代が引き摺っていく。その世代がライトノベルから遠ざかっていくと、よほどの変わり者ではない限り読者になろうという者は現れないだろう。ライトノベルは単にライトノベルという孤立したジャンルになり、最後には忘れられていくだけである。
〔2009年11月10日〕
前回 『全体の構成』を読む
■2009/11/10 (Tue)
評論■
アスラクラインの失敗
〇 全体の構成
その解説の過程で、創作者は受け手の感情を自由に調整することができる。これは物語制作において、重要なテクニックの一つである。
物語中、独自に提示されたものに対し、好意を示すのか敵意を示すか。その判断を下すのは主人公である。読者は大抵の場合、主人公に「感情移入」することで物語世界へと入っていく。主人公は読者と物語世界を繋ぐ架け橋のような役割を持ち、読者は物語世界に没入している間、主人公の感情に左右され続けるのである。主人公が憎いと思えば憎い、心地よいと思えば心地よい。ある意味、主人公は読者にルールブックを提示し続けているのだといっていい(知識から純粋に知識のみを抽出して接するのは難しい。多くの場合、知識に何かしらの感情を添付してしまう。物語の創作者は、その知識に対し、どう感じるべきなのか操作することができる)。
しかし多くの感想ブログを一覧してみると、ほとんどの人が(全てかも?)アルフォンスの悲劇性に対して共感を持って接していたのだ。これは作者による読み手への感情操作がうまくいっている証拠である。読者の感情を引きこみ、登場人物たちと気持ちを完全に一致させられている。この段階まで行けば、『鋼の錬金術師』はいつでも自由なタイミングでドラマを描き、その度に読者の共感を得られるだろう。そういう意味で『鋼の錬金術師』は物語創作のお手本ともいえる。
だがしかし、『アスラクライン』に限らず多くのアニメ作品はこの順序立てを重要視していない。
物語は自由である。どんなふうに構築しても、物語は物語になる。単に登場人物の設定を羅列しただけの起伏のない物語でも、やっぱり物語だ。だが順序立てがしっかり描かれていない物語は、どんなに愛らしいキャラクターがそこにいても、どんなに素晴らしい作画がそこにあっても名作にはなりえない。なぜならクライマックスとドラマがそこに発生しないからだ。昔の名作アニメに見られるような『感動のラストシーン』なんてものも生まれないだろう。
構成、順序立てをしっかり計画していないと後で困った事態になる。
物語を盛り上げるのは、とにかく「引き」で終ればいいというものではない。だがほとんどのアニメは、キャラクターの設定をただ羅列し、「引き」でラストを次回持ち越しにして終わっている。
このままいけば、『聖剣の刀鍛冶』の行く先は『シャングリ・ラ』と同じ場所である。
いっそ、セシリーの介入していない事件や出来事は描かないほうがいい。そのほうが無駄なシーンの省略になり、そのぶん解説に使うべき時間を捻出できる。セシリーの体験した過程であれば、後でバタバタと説明しなくてもいいし、三流騎士セシリーが様々な経験を経て成長していく物語として際立ってくる。
だが今の段階では、セシリーが不在の事件や展開があまりにも多い。セシリーが不在だった場面で起きた事件は、後で「実はあの時……」と台詞で簡単に説明されてしまうか、最後まで知り得ないままになってしまう。主人公は何にも追い詰められず、戦いに対しても宿命的なドラマも発生せず、なんとなくクライマックス的な「気分」が描かれ、完結してしまうだろう。どんなに美しい作画、アクロバットなアニメーションを描いても、そこに受け手の感情を増幅させるものは一切なく、何となく拍子抜けのぼんやりしたエンディングを迎える。頑張ったアニメータたちにはご苦労様といったところだ。
とはいっても『聖剣の刀鍛冶』は物語の半分も描いていない(この批評文を書いている時点で)。今からでも充分持ち直し可能である。今後の展開に期待を賭けるべきだろう。
追補:世の中には、上に書いたような準備段階の必要のない作品もある。詩や俳句の世界。あるいは携帯小説だ。これらの作品が感情面で共有できるのは、解説すべき要素の全てが通俗的な社会体験によって経験可能か、あるいは大抵の人が経験済みであるからだ。だから、あえて物語中で解説が必要ないというか、解説が無駄というわけだ。だからこの種の作品は単に気分だけが描かれるか(気分だけ書いて許される)、あるいは通俗的な良心をなぐさめる結末が多い。『1分間で深イイ話』といったものがなぜ共感可能なのかというと、解説が必要なほど深い話をしていないからだ。単に良心的・道徳的に優良というだけの話だ。
この解説不要必要のバランスは馬鹿にしてはいけない。例えば1933年の『キング・コング』と2005年版『キング・コング』の違いだ。前者オリジナル『キング・コング』はまったく何も説明がないままに、主人公アンの窃盗シーンが描かれる。『キング・コング』が制作された当時は、大恐慌の真っ只中で、映画中で改めて主人公が貧困状態にある理由など描く必要はなかった。だが2005年版『キング・コング』においては、この理由を充分に描く必要があった。何せ70年前当時の社会情勢である。アンがどうして窃盗を働いたのか、どうして貧困状態になったのか、ほとんどの人は知らないはずである。だから2005年版は必然的に、2時間半という長尺になったのである。
前回 『通俗的な意識』を読む
次回 『ライトノベルが背負う課題』を読む