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■2009/11/10 (Tue)
アスラクラインの失敗

〇 全体の構成

d13521e0.jpg物語が単純に「ドラマと解説」に分解されるのだとしたら、重要になるのはもちろんその順序立てだ。と、すでに書いた。物語の大半は解説の過程であり、ドラマはその結果である。最も感動的なドラマが物語の終盤に描かれるのは、単にカタルシス云々ではなく、必要な解説を全て終えているからである。物語の主人公がどんな人物でどん086dbaa3.jpgな背景を持っているのか。その過程解説がないままにドラマを描いても、受け手は白けるだけである。「共感」できないのである。「共感」がなければ、どんな素晴らしい演技を見せても、「何だあの仰々しい身振りは」くらいの印象でしかなくなるだろう。だから解説は充分に行われなければならないし、しかし一方で、語られすぎて受け手の頭を9baca71a.jpg一杯一杯にしてもならない。当然だが物語のラストを予想されてもいけない(ミステリの場合、語りすぎると途中で犯人がバレる)。解説のバランスも重要なのだ。
その解説の過程で、創作者は受け手の感情を自由に調整することができる。これは物語制作において、重要なテクニックの一つである。
物語中、独自に提示されたものに対し、好意を示すのか敵意を示すか。その判断を下すのは主人公である。読者は大抵の場合、主人公に「感情移入」することで物語世界へと入っていく。主人公は読者と物語世界を繋ぐ架け橋のような役割を持ち、読者は物語世界に没入している間、主人公の感情に左右され続けるのである。主人公が憎いと思えば憎い、心地よいと思えば心地よい。ある意味、主人公は読者にルールブックを提示し続けているのだといっていい(知識から純粋に知識のみを抽出して接するのは難しい。多くの場合、知識に何かしらの感情を添付してしまう。物語の創作者は、その知識に対し、どう感じるべきなのか操作することができる)
9e8ebcec.jpgだが注意点がある。主人公があまりにも世間一般の感性と認識から離れていてはいけない。例えば、一般的に嫌悪を持たれる殺人や盗み。これらを主人公がどんなに好意的に描いても、やはり読者は嫌悪を持ち、主人公と読者の気持ちは離れていくだろう(サド小説は例外。参考にしない)。当然、物語からも読者は遠ざかっていく。主人公が美しいと思うものも、ビジュアルで示す場合はやは6547be57.jpgり美しく描かれてなければならない。例えば主人公が思い寄せる美少女が通俗的な感覚に照らし合わせてちっとも美しくなかった場合。あるいはどうしようもなく性格がひねくれていた場合(最近はツンデレというものもあるが)。主人公がどんなに美麗字句を並べたって、読者の誰も納得しないだろう。だから主人公の感覚や感性は、かなりの部分で通俗的な感覚と一致させておく必要があるのだ。(もちろん例外がある。主人公がある種のカリスマ性を持った人物である場合だ。この場合、読者は「憧れ」として主人公に接するようになる。書き手は読者に「共感」して欲しいのか「憧れ」て欲しいのかまず考えるべきである)
28ebe64d.jpg面白い事例では『鋼の錬金術師』という作品がある。主人公の一人、アルフォンスは自身の体が無機質な鎧であることを悲劇的に語っているのだが、私はまったく共感できなかった。というのも、私は幼少の頃より病弱、虚弱体質で、病気知らずのアルフォンスの肉体は理想のように映るのだ。『銀河鉄道999』の主人公星野鉄郎だってアルフォンスを理想的と見るだろう。
しかし多くの感想ブログを一覧してみると、ほとんどの人が(全てかも?)アルフォンスの悲劇性に対して共感を持って接していたのだ。これは作者による読み手への感情操作がうまくいっている証拠である。読者の感情を引きこみ、登場人物たちと気持ちを完全に一致させられている。この段階まで行けば、『鋼の錬金術師』はいつでも自由なタイミングでドラマを描き、その度に読者の共感を得られるだろう。そういう意味で『鋼の錬金術師』は物語創作のお手本ともいえる。
だがしかし、『アスラクライン』に限らず多くのアニメ作品はこの順序立てを重要視していない。
物語は自由である。どんなふうに構築しても、物語は物語になる。単に登場人物の設定を羅列しただけの起伏のない物語でも、やっぱり物語だ。だが順序立てがしっかり描かれていない物語は、どんなに愛らしいキャラクターがそこにいても、どんなに素晴らしい作画がそこにあっても名作にはなりえない。なぜならクライマックスとドラマがそこに発生しないからだ。昔の名作アニメに見られるような『感動のラストシーン』なんてものも生まれないだろう。
ddc14a40.jpgもっとも、鳥山明や堀口悠紀子のようなキャラクターがあれば別問題だ。鳥山明や堀口悠紀子といった素晴らしいデザイナーがいれば、キャラクターだけで充分に魅力的な物語が作れてしまう。だがそれはあまりにも例外的な話なのでここでは参考にしない(宮崎駿の映画なども手本にしてはならない。あれは天才の造りしものであって、同じくらいの能力がなければ手本にできないと思ったほうがいい)
構成、順序立てをしっかり計画していないと後で困った事態になる。f72370be.jpg最近の失敗作はなんといっても『シャングリ・ラ』であろう。『シャングリ・ラ』は重要と思える物語上の解説をほとんどしなかった作品である。物語は中心軸が不明なまま、あちこちに視点を移し、それぞれで勝手に展開していく。物語上の事件は、主人公が中心となって「体験」すべきなのである。これまでに書いたように、物語に重要なのは6153d6ab.jpg解説の過程なのであり、その中心にいてルールブックを示すのは主人公であるべきなのだ。だが『シャングリ・ラ』の物語は、ほとんどが主人公の知り得ないところで重大事件が起きてしまった。物語の前半部分において、主人公北条國子は世界で起きている事件に対し、関わろうとしなかった。だから『シャングリ・ラ』の物語は、北条國子が7fdba8b7.jpg何も知らないまま進行するか、いつの間にか知識が共有されてしまっていた。順序立てがしっかしりていないから、後になって重大な事件が簡単な台詞で片付けられたしまったり、終盤になってばたばたと新事実らしき説明が羅列する。その重要な事件と説明の最中に主人公がいないという時点で、主人公の存在意義が不明なのである。北条國子は最後に対決した卑弥呼が何者であるか知らないはずで、その結果どうなったかもわからないはずである。何となくラストボスをやっつけてエンディング的な「気分」だけが描かれてしまった。これでは見ている側は何のことやらさっぱりわからない。共感もできない。最後の台詞である「それが私たちのシャングリ・ラだから」という台詞にもまったく重みがない。もっと早い段階で「シャングリ・ラ」という概念を作中に提示し、受け手がその言葉にどんな感情を抱くべきなのか操作しておくべきだった。いきなり言葉だけが出てくるから白々しい印象になってしまうのであるし、せっかくのエンディングに何ら感動するものがなくなってしまうのである。
物語を盛り上げるのは、とにかく「引き」で終ればいいというものではない。だがほとんどのアニメは、キャラクターの設定をただ羅列し、「引き」でラストを次回持ち越しにして終わっている。
a4e3c0ce.jpg最近の事例で危険信号なのは『聖剣の刀鍛冶』だ。『聖剣の刀鍛冶』は多くの事件が起きるし、読者が想像する以上に様々な出来事が背景にありそうだ。だが、その物語の中心に、主人公のセシリー・キャンベルがいない。『聖剣の刀鍛冶』の物語構築は、不器用にあちこちに伏線らしきものを散布し、読者に何か思わせるだけである。魔3670d180.jpg剣についてのリサの反応にしても、ルーク・エインズワースの右目と左目の設定が違うのも(執拗にクローズアップを繰り返しているが)、気付いているのは視聴者であって主人公のセシリーではない。セシリーは何も知らないまま、物語(時間)だけがいたずらに進行してしまっている。作り手は伏線のつもりだと思うが、伏線として有効的に63ff3bec.jpg機能しないだろう。主人公が知り得なかった伏線は、後の展開に何も引っ掛かってこないからだ。
このままいけば、『聖剣の刀鍛冶』の行く先は『シャングリ・ラ』と同じ場所である。
いっそ、セシリーの介入していない事件や出来事は描かないほうがいい。そのほうが無駄なシーンの省略になり、そのぶん解説に使うべき時間を捻出できる。セシリーの体験した過程であれば、後でバタバタと説明しなくてもいいし、三流騎士セシリーが様々な経験を経て成長していく物語として際立ってくる。
だが今の段階では、セシリーが不在の事件や展開があまりにも多い。セシリーが不在だった場面で起きた事件は、後で「実はあの時……」と台詞で簡単に説明されてしまうか、最後まで知り得ないままになってしまう。主人公は何にも追い詰められず、戦いに対しても宿命的なドラマも発生せず、なんとなくクライマックス的な「気分」が描かれ、完結してしまうだろう。どんなに美しい作画、アクロバットなアニメーションを描いても、そこに受け手の感情を増幅させるものは一切なく、何となく拍子抜けのぼんやりしたエンディングを迎える。頑張ったアニメータたちにはご苦労様といったところだ。
とはいっても『聖剣の刀鍛冶』は物語の半分も描いていない(この批評文を書いている時点で)。今からでも充分持ち直し可能である。今後の展開に期待を賭けるべきだろう。

追補:世の中には、上に書いたような準備段階の必要のない作品もある。詩や俳句の世界。あるいは携帯小説だ。これらの作品が感情面で共有できるのは、解説すべき要素の全てが通俗的な社会体験によって経験可能か、あるいは大抵の人が経験済みであるからだ。だから、あえて物語中で解説が必要ないというか、解説が無駄というわけだ。だからこの種の作品は単に気分だけが描かれるか(気分だけ書いて許される)、あるいは通俗的な良心をなぐさめる結末が多い。『1分間で深イイ話』といったものがなぜ共感可能なのかというと、解説が必要なほど深い話をしていないからだ。単に良心的・道徳的に優良というだけの話だ。
この解説不要必要のバランスは馬鹿にしてはいけない。例えば1933年の『キング・コング』と2005年版『キング・コング』の違いだ。前者オリジナル『キング・コング』はまったく何も説明がないままに、主人公アンの窃盗シーンが描かれる。『キング・コング』が制作された当時は、大恐慌の真っ只中で、映画中で改めて主人公が貧困状態にある理由など描く必要はなかった。だが2005年版『キング・コング』においては、この理由を充分に描く必要があった。何せ70年前当時の社会情勢である。アンがどうして窃盗を働いたのか、どうして貧困状態になったのか、ほとんどの人は知らないはずである。だから2005年版は必然的に、2時間半という長尺になったのである。


前回 『通俗的な意識』を読む

次回 『ライトノベルが背負う課題』を読む





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