■ 最新記事
(08/15)
(08/14)
(08/13)
(08/12)
(08/11)
(08/10)
(08/09)
(08/08)
(08/07)
(08/06)
■ カテゴリー
お探し記事は【記事一覧 索引】が便利です。
■2009/11/10 (Tue)
評論■
アスラクラインの失敗
〇 通俗的な意識
スティーブン・スピルバーグの言葉だったような気がするが、「新しい物語とは、周りより半歩だけ前に出ていればいい」という言葉がある(言葉も言った人間も正確ではない、曖昧な記憶なのだが)。つまり、平均的な社会概念から飛び出しすぎだと突飛だと感じるし、逆に平均的すぎると埋没する。だから、「半歩」だけ前に進め、というわけである。
独自的な用語や設定が多くなりがちなSFとファンタジーこそ、この考えをしっかり心得るべきである。創作者の奔放な創造力はある程度封印し、常識的、通俗的概念にしっかり足を置くべきなのである。一般の感性や認識、思考力は思った以上に平均化されている。あまりにも意外で新しすぎるものは、突飛すぎて受け入れられない。素晴らしいアイデアや、革命的な何かを思いついても、それをそのまま物語作品の中にアウトプットしてはならない。片足はあくまでも通俗的な意識に置くべきである。誰もが理解できる常識的、通俗的な世界設計を前提に描き、その後方に意外性のあるアイデアを描く。あるいは常識的な知識や概念を補助道具にして、それを飛び越える新しい何かへの理解を促す。受け手の全てが玄人であるという前提で物語を描いてはならない。物語を描く場合の配慮とは、まず理解を促し、次に読者がどのように考えるか想定する。驚きのアイデアを提示するのは、その後で構わない。
人によっては、この通俗的な描写の構築を「リアリティ」と呼ぶ。このリアリティがしっかり描けていれば、受け手は物語を現実世界の延長のように感じ、より登場人物の心理に接近する。もし、このリアリティの構築に欠陥があれば、受け手は何となく不自然なものを感じ、物語への没入を妨げられてしまう。どんな素晴らしい描写も見事な俳優の演技も、受け手側の体験と一切参照できない、あるいは現実世界と違ってしまうと、なんとなく白々しい嘘に感じられてしまう。物語とは空想物語なのだから、嘘であって当然なのだが、嘘の世界に引きこむにはある程度の真実味が必要なのである。人を騙す詐欺でも、あからさまに嘘だと人を引きこむことなんてできないだろう。
『アスラクライン』での問題は、この通俗的な部分があまりにも希薄であるという点だ。我々が平均的に体験している現実世界とあまりにも違い、しかも一致する部分が少ない。主人公は少年少女で、舞台は学園のようである。『アスラクライン』と我々の接点はこの学園という部分だけだ。
だがその学園風景すら、我々の体験とあまりにも違う異世界として描かれている。『アスラクライン』における学校風景は、なにやら危険なものが孕んだ特殊世界だし、生徒は驚くべき身体能力を持っている。生徒たちを統括する教師の影が一切見えないが、なのに登場人物たちは、奇妙なくらい学園生活のルールに隷属している。親も教師もいないのに、虞犯行為を起こすものは少なく、驚くべき模範的な(しかも健全に)生活や学校でのルールを守っている。騒動や戦いで学校施設が損壊しても、叱責を受ける者はいないし、翌週には大抵もとに戻っている。
『アスラクライン』の世界は我々の知っている体験してる現実風景とあまりに違いすぎて、接点を見出せないのだ。人によっては「リアリティを感じない」と言うだろう。とにかく作品世界に対してまったく共感できないのだ。
だから『アスラクライン』は、もっと通俗的に描くべきだった。作品世界があまりにも独自的で、しかも複雑であるから、そのぶん描写の中に現実を感じさせるものが必要だったのである。誰もが知っている風景描写に、登場人物の心理。特に心理描写は慎重に描くべきだ。作画力に自信が持てない場合、作品に引きこめる手段は人間の心理描写しかない。まずそういった描写をどこまでも細かく、丹念に描く。通俗的な描写の積み重ねの上にファンタジーを描く。そうすれば『アスラクライン』の世界は確実に我々の現実に接近し、共感可能な作品になったはずなのである。
前回 『イントロダクション/多すぎる専門用語』を読む
次回 『全体の構成』を読む
PR