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■2010/06/27 (Sun)
評論■
第1期から第2期へ
第2期『けいおん!!』が始まって3ヶ月が過ぎようとしている。当初抱いていた懸念はさらりと洗い流され、作品が持っている個性はそのままの形で継承され、あるいは深度を深めた。唯たちは相変わらずの様子であの音楽準備室に集り、相変わらずの一時を過ごしている。我々が感じていた時間的な隔たりはあの少女たちにはなく、『けいおん!!』第2期はあくまでも第1期の延長として制作されている。
第1期において、目まぐるしい速度であっという間に高校の2年間を駆け上ってきた唯たちであったが、3年生に上がりいよいよ変化の時を迎えようとしている。これまで通り、ただ部室に集まってお茶をしてたまに音楽をするだけ、という訳にはいかない。一見すると同じようにくつろぎの時間が描かれているが、少女たちの眼前には難しい選択が突きつけられている。高校を出てからの将来設計というのは、うっかりするとその後の人生そのものに影響を及ぼすものだ。どの学校を選択するべきなのか、自分の成績を基準にした場当たり的な選択で許されるものではない。作品は明らかに唯たちの将来を意識し、活動しないくつろぎの物語から成長の物語への変化を描こうとしている。
作品趣旨の変化に合わせて、映像表現、物語の綴り方にも若干の変化が見られる。物語がどんな結末を目指しているのかわからないが、現段階において、第1期と比較してどんな変化が見られたかを検証したいと思う。
■ 色彩
←←第1期第1話。←第2期第8話。
色修整なしで並べると違いがわかる。
↓は2枚を重ねてみたもの
ちょっと見て明らかに違うのは色彩である。第1期『けいおん!』においては淡い印象が特徴であったが、第2期『けいおん!!』はビビッドな色彩でキャラクターの存在感がより強くなった。
実際に画像を並べてみるとその違いは明らかである。検証してみると、第2期『けいおん!!』の画像から彩度を30%引くと第1期『けいおん!』とほぼ同じ印象になった(右図参照)。
もっとも、色彩設計は複雑なカラーバランスを見て調整しているはずだからから、『けいおん!』から『けいおん!!』へ単純に彩度を上げただけの映像というわけではないだろう。
(右の比較図を見るとわかりやすい。右下の絵は、第2期第8話の画像から30%彩度を下げている。唯の肌の色はほぼ一致したが、それ以外の色彩は微妙に違っている)
■ キャラクターの変化
第1期オープニング、第2期オープニングの唯のクローズアップをほぼ同サイズにして重ね合わせたもの。下顎の輪郭線が意識的に描き分けられているのがわかる。
キャラクターの描かれ方にも若干の変化が見られる。第2期第1話『高3!』の冒頭において、まず唯の顔の印象が変わったように思えた。これは雰囲気の問題ではなく、はっきりとキャラクターデザインそのものが変えられたようだ。
まず輪郭線。第1期の唯は顎のラインが丸みを持って幼い印象で描かれているのに対し、第2期の唯は鋭角的に、すっと流れる線で切り取られている。目鼻口の位置は変わらないが、目の大きさはほんの少し小さく描かれるようになった。髪の生え際は若干下だ。髪のボリュームも若干押えられた印象もある。
大きな変化ではないが、どことなく大人びた雰囲気が漂い始め、これから描かれるであろうドラマ的な展開を意識したデザインになっている。あるいは、「大人になるための物語」が意識されているように思える。
ところで、当初の唯というのは現在よりおっとりのびやかな性格のキャラクターだった。周りよりいつもワンテンポ遅れて反応するくらいの頼りなげな女の子だった。ひたすらくつろぎの時間だけが描かれる『けいおん!』の象徴的なキャラクターであった。
だが第2期に至る過程で、唯の印象は劇的に変化した。しかし「成長した」とは言いがたいように思える。唯は明らかに活動的な性格に変わったが、物語の中心的な導き手としての立場をほとんど果たしていない。ほとんどの場合は律と息のあった漫才コンビ的な立場で(実際にコントやってたし)、物語をかき乱すトリックスター的な役割である。当初かわいいもの好きと思われてたのに、今やすっかり変な人である。物語の中心はあくまでも軽音部という空間にある、という見方であれば問題ないのかもしれないが、唯は主人公としての立場が弱いように思える。
今からでも遅くはない。いっそ、澪を主人公に押し出したらどうだろうか。
←←第1期第1話。
←第1期11話。
↓第2期第1話。
その澪も、第1期からデザイン的な変化が見られるキャラクターだ。比較してみると、ルックス自体は変わっていないが髪の毛の描き方がはっきりと変わっている。第1期の映像を順に追ってみると、澪の髪の毛の描き方が次第に変わっているのがわかるだろう。髪の毛の線が次第に増え、単に装飾としての線ではなく、細かな髪の房の流れまで表現するようになった。
堀口悠紀子はパーソナルな感性でキャラクターの髪を描くことで知られている。アニメにおける髪の毛の描き方はすでに文法化され、ほとんどのデザイナーはすでに提示された表現技法からいくつか選択して新しいキャラクターを描くようにしている。この場合において、デザイナーに必要なのは統合力であり、《デザインの》力ではなく《デコレーション》の力が重要視される。
しかし堀口悠紀子は観察と独自のディフォルメを組み合わせてキャラクターを創作している。堀口悠紀子の手によるキャラクターを見れば、昨今アニメにおいて増大傾向にある動画マン殺しの爆発ヘアーのキャラクターはいない(余談ながら、アニメにありがちな爆発ヘアは現場で思いっきり嫌われている。正面、横、背後、すべて形が違うからだ。さてどこの出っ張りを引っ込めて、新しい角を引っ張り出すか? 現場の嫌われ物だが需要は決して減らず、デザイナーは競うかのごとく珍妙ヘアーを創作してくる。アホ毛など可愛いものである)。堀口悠紀子のデザインは余計な一工夫などせず、現実を観察し、それを自分だけのやり方でアニメ表現に変換している。マフラーをしたらどのように髪の毛が巻き込まれるか。キャラクターが動いたらどのように髪の毛が釣られて浮かび上がるか。上の画像の2枚目で、澪が後ろ頭を撫でて、それに釣られるように髪の毛の束が一本一本動いている過程が描かれている。堀口悠紀子は正攻法的な観察でキャラクターを描くデザイナーであるとわかる。どちらかといえば地味で、当り前の考え方や表現方法でキャラクターを描いているといえる。(ちなみに第1期は後半に向けてどのキャラクターも線が細かく描かれた)
『けいおん!』第1期最終話に向けて、澪はゆるやかに余計な肉を削ぎ落としていき、自身の美しさを強めていく。綺麗だな……としんみりと眺めていたいようなキャラクターに成長していく(美人はフィクションであり、現実には存在しない。あくまでも夢想の存在である)。
しかし第2期『けいおん!!』になり、なぜか第1期初期の印象に戻る。第1期初期と第2期初期と見比べるとどちらがどちらなのかわからないほどだ。これから変化があるのか、どんな指針をもってデザインしているのかまだ見えてこない部分である。
←←第1期第3話。←第2期第7話。第2期のキャラクターは腰が太く、どっしりした感じがある。
↓身体の描き方比較。左:第1期。右第2期。
キャラクターの体型の描き方にも変化が見られる。第1期においてはどことなくマスコットキャラクター的でしっかり地面に立っていない印象があった。頭身が低く抑えられ、手足を短く縮めている。『らき☆すた』のような、可愛らしいけど人間というより小動物的な印象を持ったデザインに近い。しかし第2期『けいおん!』になり、胴回りが太くなり、人物の体型をしっかり捕えるようになった。現実的なデッサンを反映させ、第1期よりも実在感を持った印象で描かれている。これも、物語におけるドラマ的な変化を予兆させる要素として描いているのだろう。(まあ、エピソードや場面によるんだけど)
■ 背景
←←第1期第1話。←第2期第10話。
第1期は視界が窮屈な感じがある。
第1期『けいおん!』の主要人物はあくまでも軽音部の4人のみである。中心舞台は部室として占拠している音楽準備室のみであり、その周辺にはあえて目が向けられることはなかった。
わかりやすい一例は教室の描き方である。第1期『けいおん!』における教室は、極端なクローズアップやロングサイズで描かれることが多かった。クローズアップで中心となる人物を捉え、それ以外の描写を切り落とす。あるいは極端なロングで、クラスメイトの顔をぼやけさせて印象を弱く描く。のびのびとした音楽準備室の描写に対し、教室の風景がひどく閉鎖的でぼやけた印象に見えるのはそういう理由である。
作品を見れば明らかだが、第2期『けいおん!!』はクラス全員の容姿や性格が設定されている。それも相当に細かい設定が作られているらしい。といっても、物語の中心に取り上げられるわけではなく、たまに何か簡単な台詞を喋るだけである。それだけのためにここまで設定を作るのだから、贅沢な作品といわねばならない。しかもなかなかの美少女揃いである(これは重要)。私の想像だが、入学時に写真審査があったに違いないと考える(それほどでもない子もいるのだが?…いや失敬)。
クラスメイト全員が詳細に設定されることによって、教室の描写に余裕が感じられるようになった。モブキャラクターが設定されていないことをごまかす理由がなくなり、カメラワークが自由に使いこなせるようになった。結果として教室は『けいおん!!』のもう一つの舞台となり、音楽準備室だけの物語という頼りなさからもう一段階作品領域を広げることとなった。
前第1期は軽音楽部とその周辺という描き方だから、どこかしら閉鎖的で物語領域も狭くなりがちだった。音楽準備室という限定された空間で、どこか現実感のない夢を漂うような作品……というコンセプトであるうちは問題なかったのだが、シリーズ作品として展開する場合はどうしても掘り下げるもののない「浅さ」が弱点として付きまとってしまう。例えば第1期『第10話 また合宿!』。これは『第4話 合宿!』の梓を加えただけの焼き直しである。
実は、これが第2期における最大の懸念であった。第1期をそのまま延長しても何もない。だから物語領域を広げるために設定や舞台を追加することは方針として正解であろう(欲をいえば、唯と憂の親たちも登場して欲しかった。高3の進路を前にしている時期で、親が出ないのは不自然だ。三者面談もしないつもりだろうか?)。
ところで『けいおん!』はカメラ位置が低い。いや、唯の太股描写が多いという話ではない。『けいおん!』は座り姿勢が多いために、目高でもカメラ位置がやや低めになる傾向がある。このカメラの低さ、常に地面が見える高さであることが、『けいおん!』特有の落ち着いた印象を作り出しているのだと考えられる。
特にカメラ位置が低いのは平沢家のリビングだ。ソファを置いているが、基本的に床に座りソファを背もたれにするという使い方である(このソファも座面が低めである)。ソファ横のスツールは座るための物ではなく、時々携帯などを置くスペースとして使われているだけである。テレビは床置きで、HDDレコーダーなどは置かれていない(これは重要。レコーダーやビデオデッキを置くと急に配線などでごちゃごちゃとしはじめ、スッキリした感じにならない。私もレコーダーやゲーム機を置くのが嫌い)。壁の飾り棚は腰の高さより低く、床に座って眺めるくらいの高さに設定されている。間接照明などは人の高さより下である(憂基準)。
以上のような設定でキャラクターを床に座らせると、カメラ位置は自然と低くなる。地面に近い位置で座らせると、キャラクターはごろんと寝転がることが多くなり、この描写が日本人特有の感性なのか、くつろいだ気分にさせる。
また空間の描き方なども常に調整され、「決して窮屈にならない距離感」に注意が向けられている。例えば音楽準備室。実際の豊郷小学校の写真と比較してみればわかるが、アニメで描かれる音楽準備室はやや広めに見えるよう描かれている。カットごとに空間の広さが変更されているのだ。
例えば右のカット。別のカットと比較すればわかるが、机とベンチはそんなに離れた場所に置かれているわけではない。(澪位置から)椅子から振り向き、ちょっと手を伸ばせばベンチに届く距離だ。だが右のカットは明らかに机からベンチまでの距離が延長され、床に唯が座り、その唯を見守るように梓が立っている様子が描かれている。背景は唯と梓の立ち位置の都合で同じように広げられ、水槽からオルガン、窓までのスペースが驚くほど長く描かれている(水槽横の窓からオルガン横の窓を比較するとわかりやすい)。実写でも小道具を動かして似たような描かれ方はするのだが、空間の広さそのものを変えてしまうのはアニメの特権である。
同じ考え方で、ディティールなどが低く抑えられている。平沢家のインテリアを見て明らかのように、あちこちに隙間ができるように設定されている。ごちゃごちゃしたものを一切見せない、隙間をあえてつくることで、空間的なゆとりを演出しているのである。平沢家の敷地面積はかなり狭いのではないかと思われるが、空間自体は狭く、それでいて狭さを感じさせないバランス感覚があの印象を作り出していると考えられる。レイアウト法的な考え方でいうと、押井守が提唱した「とことんディティールを増大させることで重量感やその場の実在感(リアリティ)を作り出す」という方法論を真逆をいくやり方である。
また、どの舞台においても非常に清潔感があるように描かれている。例えば学校の床。学校の床なんてものは、上靴で踏み散らかされ、大概汚いものである。映像演出的な正攻法を考える場合、学校の床はとことん汚く描くべきなのである。しかし、『けいおん!』における床は非常に清潔感がある。音楽準備室でしばしば唯たちが床に座る場面があるが、不潔な感じはまったくしない。座っていい場所として床が描かれている。
この清潔感は平沢家の風景にも同じように言える。インテリアの設定にしても、きっちり整理されて、スッキリした印象が常にある。
『けいおん!』におけるこういった描き方に似た作品がある。荻上直子監督作品の『かもめ食堂』や『めがね』である。『かもめ食堂』も作品全体に清潔感があり、食堂の風景も狭いながらも窮屈な感じが全くない。食事がうまそうに見える、という特徴も『けいおん!』と通ずるところがある。『けいおん!』におけるお菓子の描写も、食器を含めて実にこだわり深い描かれ方をしている(そのお菓子を食べている女の子の描き方も含めて)。『かもめ食堂』の主人公サチエの自宅風景のリビングと平沢家のリビングのインテリアの選び方や空間の作り方なども非常に似ている。どちらも女流監督であり、鑑賞後の印象も似ているので、比較しながら見てみると面白い発見があるかもしれない。
■ 物語後半に向けて
第1期から第2期へ、はっきりと変わったのが時間の描き方だ。第1期では手で掴む間もなく時間が指の間からすり抜けていくような印象があった。特に大きな事件は何もなく、軽音部の部室でゆったりとくつろいでいるうちに気付けば2年間が過ぎ去っていった、とそんな感じであった。見ている側はまるで竜宮城にでも迷い込んだような気分である。
第2期に入り、時間の流れは急に停滞した。これまで取りこぼしていたものを取り戻すように、日常の細かな変化や事件を取り上げようとしている。ぼんやりとした霧の向うだった教室の風景も、細かなディティールを持って描かれるようになった。第1期ではどんな顔をしたクラスメイトがいるのか不明だったが、第2期は徹底して描きこまれている。
まるで少女たちの表情の動きや動き出す瞬間の1コマ1コマを、決して取り逃さないようにしているようだ。
絵画にしても音楽にしても、上達のコツはただ一つ。ひたむきであることだけだ。熱血パフォーマンスはあくまでもパフォーマンスに過ぎない。しかし多くの日本人は熱血パフォーマンスの方を好む傾向にある。パフォーマンスはあくまでもパフォーマンスであって中身はない。パフォーマンス大喜利の行く果てが、極端な例で言うと連合赤軍の総括のようになることを知らないのだろうか。
第2期『けいおん!!』は第1期の静けさと比較すると、少々騒々しく思える瞬間がある。日常の描写や人物の表情が丁寧に描きこまれる一方で、前作に見られたようなくつろぎの“間”が作品から消えてしまった。いつも何かしらの事件で大騒ぎして、賑やかすぎる印象がある。
しかしコメディの描き方は、アニメ全体を俯瞰してみると、どちらかといえば控えめなほうだ。最近のアニメではもっと大胆にキャラクターを崩したり、画面の線密度を操作して、その極端さに笑いを求めようとしている。だが『けいおん!!』における笑いは、あくまでも『けいおん!』という約束事の中で描かれている。極端にキャラクターの設定や舞台の設定が笑いのために逸脱することはない。あくまでも『けいおん!』という物語の範疇の中で笑いが模索されている。
『けいおん!!』は第2期でも日本経済を大きく動かしている。音楽CDはオリコンなどで1位2位を獲得している。いまだJ-popが文化や流行の中心、あるいは社会的な公共性が保障されていると思っている人はモグリもいいところだろう。もっとも、出演者の結婚だ不倫だと大騒ぎするだけで作品について語るだけの頭のない軽薄短小の大手マスコミは永久にこっちに来て欲しくないが。
ドラマの描き方についても、同様に言える。
ほとんどのアニメでは、大袈裟な表情や多すぎるモノローグでキャラクターの心情を一から十まですべて語ってしまおうとする癖がある。アニメにおける感情表現とはむしろそうするべきだ、と考えられている傾向が作り手とユーザーの両者の間に約束事して決められているようでもある。
だが『けいおん!!』第2期において、モノローグは決して多いほうではない。《文脈》を大切にして描かれている。登場人物の心境的な変化や、内面的な小さな成長を物語上の《文脈》で解説している。実写ドラマやアニメ(映画でも)でありがちな、それまでの物語過程の全部を無視して、突然の独白で物語の流れを変更させてしまうような場面はない。
どちらかといえば淡々としていて、さりげない言葉や表情の動きで物語の過程や成長を描こうとしているように思える。大袈裟な表情の作りもその場面を演出的に作り出すためのものであって、語りすぎる印象はない。そういった意味で、第2期『けいおん!!』は劇場映画的な作品であるといえる。
多数派、少数派、という話しをすると今の社会にある“捩れ”を感じる。大手音楽会社が仕掛ける音楽が売れない原因は違法ダウンロードではないだろう。単にJ-popの聞き手が少数派になっているだけの話だ。が、大手音楽会社を信奉する軽薄短小と大手メディアはいまだに自分たちが少数派になっている現実に気付かず、自分たちが多数派であるという前提で何もかもを考えている。一方のアニメファンは自分たちを勢力の弱い少数派として、自分たちの文化を卑下する自嘲的な意味を持った『オタク』という呼称を自分自身に使っている。「自分たちはオタクという人種だから、大多数である軽薄短小よりも社会的に劣る立場であり、文化そのものを表面上から隠蔽すべきである」と考えている。その理由とそうなるに至った発端はここで解説するのは本旨ではないが、いつになったらこの“捩れ”に気付くのだろう。
作品制作というのは、でたとこ勝負的なところがある。作品制作がスタートすると、一時停止が利かない。小説や漫画は作者都合として一時的な停戦を敷くことは可能である。だが映像作品はそういうわけにはいかない。アニメや映画の制作は明確な納期が常に示され、もたもたしているうちにお金が流れ去ってしまう。アニメや映画は大人数で取り掛かるものだから、頭脳(監督)が一瞬でもまごついてしまうと現場の動きが停止し、しかし大人数のスタッフを待機させているわけだからそのぶんお金を消費してしまう。だから映像作品の制作は動き出すとストップが利かないのだ。
だから映像制作の筆頭となる人物は、作品制作がスタートするまでにあらゆる準備をしておく。あらゆる方法論や経験則を駆使し、後の不安要素を徹底して排除しようとする。作品制作が始まった後に準備不足に気付いても、もう手遅れだ。一つの傷や穴が作品を駄目にする。製作の過程で何かが偶発的に生まれる、なんて期待はしてはいけない。偶然に頼って映画つくりをするなどは愚か者のすることだ。
だが、現実には完璧なシュミレーションなど存在しない。すべてを想定して制作を運営していくことなど不可能だ(それ以前に準備期間にも時間制限ある)。どこかで必ず想定不能の領域に踏み込み、フロンティアを目指さなければならない。作品制作とはどこかでそういった冒険的な要素を孕むのである。
私は以前から、日本人は一つの結末を想定し、それに至るまでの物語を作るのは苦手なのではないかと考えている。これについては別の機会で詳しく語りたいと思う。アニメの物語作りは個々のエピソードを作り出す能力はあるが、物語全体を俯瞰して統括的な物語を作ることを極端に苦手としている。いわゆる「当番回」や「お約束」といった言葉はそういった悪習への妥協を表しているのだと思う。つまり、個々のエピソードまではしっかり想定して準備できているが、終局的な目標地点を想定した作品制作が苦手なのだ。粒を生み出すのはうまいが、大きな流れを作り出すのが苦手、というべきだろう。
アニメをいくつか見ていると、1クール目はそこそこに順調に進んで行くのに、2クール目に入ると突然ガタガタと作品が崩壊してしまう作品は珍しくない。たった13話でもガタガタに崩れ、結末の印象が弱くぼんやりした作品になることも珍しくない。そもそも作品がどんな結末を目指して進んでいるか、作り手にきちんと想定できていないからそういう事態に陥るのだ。
前回の批評で、紬の母親は西洋白人ではないか、という説を唱え失笑されたが今回は紬の運動音痴説だ。前第1期のOPでも描かれているが、紬は走るときに上半身を大きく捻る癖がある。この走り方ではぜったいに早く走れない。「走る」はあらゆる運動における基本の動作だ。腕力はあっても、スポーツには向かないだろう。もっとも、走るフォームがまともな軽音部員は一人もいないが(特にひどいのは唯)。
『けいおん!!』は1クール目は前作第1期の人気の延長としてまあまあの評価が得られた。だがそこから先、いきなり作品が崩壊する危険だって充分にありうる。キャラクターの作画は崩壊し、背景が使いまわしのバンクになり、脚本が間に合わず似たようなシーンの繰り返しになり……。そうやってぶっ壊れたアニメをこれまで何度も見てきた。『けいおん!!』がそうならないとは限らない。
第2期『けいおん!!』の後半の物語は、間違いなく唯のエピソード、あるいは唯の将来の展望が物語の中心になるだろう。物語の進捗状況からいって、間違いなく高校卒業まで描かれるはずだ。
1クール目の物語で、繰り返し「将来への漠然とした不安」を口にする唯が描かれてきた。『#8 進路!』ではまだ決定しきれない将来の選択を先延ばしにしてしまった。
だがその先の展開について、作り手はちゃんと想定しているだろうか? これまでのエピソードで振り撒いてきた小さな種子が、ちゃんと意味のある形で芽を出すのか(ほとんどのこうした伏線つくりは失敗するか放ったらかしで終わる)。今のところ、唯の将来に直接結びつきそうなエピソードは出てきていない。ただエピソードを消費しているだけで、物語はまだ動いていない。『けいおん!』という作品は、軽音部という部室を中心に、その周辺、という描き方をしてきた。周囲の世界というのは、ぼんやりとした曖昧さでざっくり切り落とされてきた(第1期では教室という場所すら“周辺”という判断でざっくり切り落とされてしまっていた)。これを、そのままの発想で延長すると、卒業後の世界――例えば唯の進学先や就職先についてが曖昧にぼかされてしまう可能性が強い。
もし唯の将来を放り出して単にエピソードのすべてを消費するだけだとしたら、それは後味として最悪の作品となるだろう。あるエピソードで、それまでの流れを無視して突然なにかが決まってしまう、という展開もよくない。作り手が唯をどう思っているか、が問題になる部分だ。
『けいおん!!』は第2期に入り、時間の流れに余裕が生まれ、ゆったりと日々のエピソードを描くようになった。だが後半も同じように作品を描くべきではないだろう。後半の展開こそもっと緊張感をもって作品つくりに臨むべきであり、鑑賞すべきなのである。希望としては、あの5人の将来も大切に描いて、桜ヶ丘高校から社会へ送り出して欲しいものである。
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