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■2009/11/10 (Tue)
アスラクラインの失敗

〇 通俗的な意識

スティーブン・スピルバーグの言葉だったような気がするが、「新しい物語とは、周りより半歩だけ前に出ていればいい」という言葉がある(言葉も言った人間も正確ではない、曖昧な記憶なのだが)。つまり、平均的な社会概念から飛び出しすぎだと突飛だと感じるし、逆に平均的すぎると埋没する。だから、「半歩」だけ前に進め、というわけである。
dbcb1b55.jpg独自的な用語や設定が多くなりがちなSFとファンタジーこそ、この考えをしっかり心得るべきである。創作者の奔放な創造力はある程度封印し、常識的、通俗的概念にしっかり足を置くべきなのである。一般の感性や認識、思考力は思った以上に平均化されている。あまりにも意外で新しすぎるものは、突飛すぎて受け入れられない。素晴らしいアイデ88d5c9ff.jpgアや、革命的な何かを思いついても、それをそのまま物語作品の中にアウトプットしてはならない。片足はあくまでも通俗的な意識に置くべきである。誰もが理解できる常識的、通俗的な世界設計を前提に描き、その後方に意外性のあるアイデアを描く。あるいは常識的な知識や概念を補助道具にして、それを飛び越える新しい何かへの理解を促す。受け手の全てが玄人であるという前提で物語を描いてはならない。物語を描く場合の配慮とは、まず理解を促し、次に読者がどのように考えるか想定する。驚きのアイデアを提示するのは、その後で構わない。
1d6ece3f.jpg人によっては、この通俗的な描写の構築を「リアリティ」と呼ぶ。このリアリティがしっかり描けていれば、受け手は物語を現実世界の延長のように感じ、より登場人物の心理に接近する。もし、このリアリティの構築に欠陥があれば、受け手は何となく不自然なものを感じ、物語への没入を妨げられてしまう。どんな素晴らしい描写も見事な俳優の演技も、e2d360e0.jpg受け手側の体験と一切参照できない、あるいは現実世界と違ってしまうと、なんとなく白々しい嘘に感じられてしまう。物語とは空想物語なのだから、嘘であって当然なのだが、嘘の世界に引きこむにはある程度の真実味が必要なのである。人を騙す詐欺でも、あからさまに嘘だと人を引きこむことなんてできないだろう。
25a20fcd.jpg『アスラクライン』での問題は、この通俗的な部分があまりにも希薄であるという点だ。我々が平均的に体験している現実世界とあまりにも違い、しかも一致する部分が少ない。主人公は少年少女で、舞台は学園のようである。『アスラクライン』と我々の接点はこの学園という部分だけだ。
だがその学園風景すら、我々の体験とあまりにも違う異世77f4b5a2.jpg界として描かれている。『アスラクライン』における学校風景は、なにやら危険なものが孕んだ特殊世界だし、生徒は驚くべき身体能力を持っている。生徒たちを統括する教師の影が一切見えないが、なのに登場人物たちは、奇妙なくらい学園生活のルールに隷属している。親も教師もいないのに、虞犯行為を起こすものは少なく、驚くべき模範的な(しかも健全に)生活や学校でのルールを守っている。騒動や戦いで学校施設が損壊しても、叱責を受ける者はいないし、翌週には大抵もとに戻っている。
『アスラクライン』の世界は我々の知っている体験してる現実風景とあまりに違いすぎて、接点を見出せないのだ。人によっては「リアリティを感じない」と言うだろう。とにかく作品世界に対してまったく共感できないのだ。
だから『アスラクライン』は、もっと通俗的に描くべきだった。作品世界があまりにも独自的で、しかも複雑であるから、そのぶん描写の中に現実を感じさせるものが必要だったのである。誰もが知っている風景描写に、登場人物の心理。特に心理描写は慎重に描くべきだ。作画力に自信が持てない場合、作品に引きこめる手段は人間の心理描写しかない。まずそういった描写をどこまでも細かく、丹念に描く。通俗的な描写の積み重ねの上にファンタジーを描く。そうすれば『アスラクライン』の世界は確実に我々の現実に接近し、共感可能な作品になったはずなのである。

前回 『イントロダクション/多すぎる専門用語』を読む

次回 『全体の構成』を読む





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■2009/11/10 (Tue)
アスラクラインの失敗

〇 イントロダクション

279c030f.jpgアニメ『アスラクライン』は面白くない。原作は未読なので、原案・素材としての『アスラクライン』の良さはどうなのかわからないが、とにかくアニメーションとして映像化された『アスラクライン』は面白くない。しばらく見ていても、心情的に訴えかけてくるものは何もないし、それ以前に、そもそもどういった物語なのかがまるでわからない。
なぜ『アスラクライン』は面白くないのか。なぜ理解しづらいのか。という検証に入る前に、ここで前置きをしておきたい。
批評とは悪口を書くことではない。つまらないのなら、「なぜつまらないのか」あるいは「どうするべきだったのか」これをシュミレーションしていく必要がある。単に面白くない、悪口を書くならそれは幼児でもできる。それは感情を並べただけであって、批評ではない。批評である限りは、理想とする到達点を設定し、実現可能なシュミレーションを提示する必要がある。その批評は、反省として次に創作する機会に充分活用できるものではくてはならない。それが批評の存在する意義である。
という記述を以前にも書いた気がするが、批評を書くときは毎回書く予定だ。単に感情的な悪口を並べるだけなら、プロの批評家など必要ないわけだし、自由に言葉を操れるようになった大人が書くべきではない。プロの批評家であっても、素人の批評家もどきであっても、どういった傾向を持って書くべきなのか、それはそれぞれで目標を持ってかくべきである。単に悪口を書いて、書いた人間がスッキリしたいだけの文章など誰も求めていないし、知性豊かな読者への侮辱にしかならない。
全ての批評はそもそも後出しジャンケンである、という前提も忘れてはならない。あらゆる問題は物語創作という過程に起きる現象であり、作品は結果に過ぎない。その結果をどうこう言ったところで、その時点ですでにフェアではない。作品が駄作となってしまったのは結果なのであって、作品を責めて制作者を非難すべきではない。要は批評に書かれた反省が、創作という渦中に活かせるものであるか、だ。
批評家と創作者の関係は公正ではないのだ。それを心得た上で批評というものを書くべきであり、読むべきだと心得たい。



〇 多すぎる専門用語

1c294cb7.jpg『アスラクライン』には様々な用語が次から次へと登場する。機巧魔神(アスラ・マキーナ)、演操者(ハンドラー)、射影体、洛芦和高校(らくろわこうこう)、第三生徒会、殺人人形(ウィジェット)……。
受け手がまず困惑するのは、この専門用語の圧倒的な多さだ(しかも漢字と読みとなる片仮名がまったく一致しない)。それぞれを個別に見ていくと、実はそれほど難解ではない。アスラ・マキーナとは巨大のロボットのことであり、ハンドラーとはその操縦者。射影体とはハンドラーに取り憑いている幽霊だ。単に物語独自のキャラクターがあり、それを補う用語があるだけの話だ。『アスラクライン』には物語独自のルールがあり、物語のドラマ部分と接するにはまずその構造を理解しなければならない。
この特殊用語というものが桁外れに多いのだ。これらの言葉を複合的に組み合わせて台詞を作ると、何を言っているのか理解不能の代物になる。キャラクター同士がなにやら深刻な顔をして台詞を言いあっているのだが、結局なにについて議論にしていたのかわからない。そこで何が判明したのか、その後の物語にどのような影響を与えたのか。言葉に物語の進行を感じさせるものがないのだ。
専門用語だらけの台詞のやり取りを見ていると、だんだん意味がわからなくなり、受け手はどこか不安定な気持ちになる。物語の展開を読み取れなくて、人によっては破綻していると受け取るかもしれない。どちらにしても、受け手の心理にいい影響は与えない。
『アスラクライン』を詰まらなくしているのは、単に専門用語が多すぎるという話ではない。特殊で専門的な職業について描かれた小説などは、独自的な用語が多く羅列される。だがそれでも、アスラクラインのようにはならないだろう。アスラクラインの問題は、なにもかも台詞で解説しようとすることにある。
例えば、文字だらけの教科書を一読して、即座に理解できる人は少ない。理解できるという人はいるだろうが、それは単にその人間が優秀なだけだ。娯楽に接する場合、ほとんどの人がリラックスした状態で、あるいはリラックスしたくて接するわけで、勉強や仕事と同じ緊張を強要すべきではない。
これを理解しやすくするにはどう描くべきか。単純な解答を言えば図説を添付すればいい。図説による解説があれば、ああなるほど、と思う。実感として体験する機会があればもっとわかりやすくなるだろう。理科の実験のようなものだ。実体的な体験以上にわかりやすい説明はない。
概念とその結果を示したデータだけで何もかも理解できる人間は少ない。概念には概念なりの美意識なるものが存在する。数式などはその典型である。だがそれを理解しろというのは、一般大衆にはあまりにもハードルが高い。私も理解できない。
だからこそ、「体験の過程」を描くことがわかりやすい、受け入れやすい物語において重要になる。漫画は概念のすべてを映像にし、キャラクターが演技して解説する。だから漫画はわかりやすく、支持されるのだ。
『アスラクライン』の世界が特殊であるから説明が難しい、というのは言い訳にならない。むしろ、解説する世界が特殊であれば特殊であるほど、その異世界への疑似体験物語はよりスリリングなものになる。『ガリバー旅行記』などがいい例だ。
独自的な用語の多い作品、特にSFなどは「わかりにくい」と評される傾向が強くなるから注意が必要だ。駄目なSF作品の典型的な例は、冒頭の長々とした解説だけで、物語の背景にある何もかもを解説したつもりになっている作品だ。「スターウォーズ」がマニアックなSFという刷り込みを抜け出られたのは、解説が短く、あとは思考の必要のない異世界を舞台にした冒険物語として描いたからだ(つまり、読む必要がない)
冒頭にはじめる解説は、まず受け手の頭に入らないものと考えるべきだ。解説は短く、あくまでもこれから始まる物語の気分を作るだけのものと心得たい。知らせるべき重要なキーワードがあるとしても、多くしないこと。読み手が頭に入る単語は1つくらいだろう。その世界が背負っている政治状態や主人公が置かれている環境などは、本編中の描写で語るべきだ。冒頭の解説に本質を置いてしまうと、読み手を置いてけぼりにする作品になってしまう。
解説とは物語の過程に描くべきなのであり、主人公が体験すべき過程のひとつとして描くべき、いや、提示すべきなのである。
物語とは、「登場人物の感情の吐露(ドラマ)と物語背景の解説」に分解されるものと仮定する(解説と解明のみでドラマがないのがミステリ。関係ないけど念のため)。すると重要になってくるのは、解説するべき順序である。どのように解説すると理解されやすいか、あるいはどのような順序で解説するべきか。それらを物語制作の初期段階において徹底的に検証し、ぎっちり構築する。
ドラマが動き出すのはその後でも遅くない。テレビシリーズは回数を使えるのだから焦る必要はない。じっくり受け手への理解を促し、充分引きこんだと思えたところで作品にカタルシスを込めればいい。物語世界が特殊であるならば、その作品でしかない特殊な感動や感慨がそこに現れるだろう。ドラマが動き出すまで主人公が異世界的設定を体験する過程でも構わない。むしろその過程が面白ければ読者を引きこむ切っ掛けになるし、それが異世界設定を疑似体験する手っ取り早く確実な方法だ。だからまずは解説を丁寧に描き、ドラマへの準備活動をしっかり構築するべきである。
この準備段階を怠ると、どんなドラマを展開しても空回りする。どんなに素晴らしい展開を設定しても、受け手は逆に困惑するだけで、意外性を与えようとすればするほど、受け手の気分は物語から遠ざかっていく。
『アスラクライン』は明らかにこの前段階を放り出したまま物語を進めてしまっている。準備段階も充分でないままにドラマに飛びつこうとするが、そのドラマというのが既視感まみれの安っぽい三流ドラマときている。これだと受け手の気分はどこまでも作品から遠ざかって冷ややかな気分になる。
いや、ありきたりなドラマでも構わないのだ。準備段階さえしっかり構築できて主人公の気持ちと受け手の気持ちが一体になっている状態に引き込めれば、平凡でありきたりな言葉のやり取りもでも充分に涙を誘うことができる。
『アスラクライン』の場合、その状態への準備段階からして不十分なのだ。この作品の中でどんなに素晴らしい場面を作っても、受け手の気持ちと乖離して空回りするだけ。『アスラクライン』という作品でしかありえない革命的場面を作っても、注目されず埋もれるだけだろう。そんな作品にまともな批評がつくはずもなく、累々たる駄作の山に埋もれて忘れられるだけである。

追補:どんな凄いシーンを描いても、周辺の設定が不十分だと凄いという気がしない……。代表的な例が『ファイナルファンタジー』シリーズの召喚獣だ。『ファイナルファンタジー』シリーズの召喚獣ビジュアルは毎回毎回たいへんなこだわりで描いているが、まったく凄いという気がしない。むしろ長々と続くムービーシーンが目ざわりとさえ思う。なぜか。そのビジュアルがどう凄いのか、作品中にまったく指標を示していないからである。逆にどう凄いのかわかりやすい基準めいたものが描けていれば、あれだけの壮大なビジュアルは不要だ。
わかりやすい例は……若い人にはわからないと思うが『ボンバーマン』というゲームの火力の増大っぷりを例に挙げておく。あれくらいシンプルなほうが、私は好みだ。



次回 『通俗的な意識』を読む





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■2009/07/06 (Mon)
けいおん! 総括!

『けいおん!』での時間は、あまりにも早く流れていく。30分放送、実質12話というなかで、『けいおん!』の物語は1年半も流れ去ってしまった。
空想世界の時間の流れは、現実世界とは違う。空想世界の時間は、極端に停滞したり、間延びしたりしつつ、それでも一定速度を保ちながら進行する。
『けいおん!』の場合、その時間の流れが極端だった。7話で1年だから、各エピソードの間におよそ1ヶ月20日の時間が省略された計算になる。しかも個々のエピソードに連続性はなく、1ヶ月20日おきの、断片的な物語だけが、かいつまんで描かれていったことになる。
だから『けいおん!』には大きな物語はない。キャラクター達のある日常だけが断片的に区切り取られ、これといった連続性もなく描かれた。
『けいおん!』の主要な描写といえば、ただ唯たち四人が軽音部の部室に集まり、のんびりとティータイムを楽しんでいるだけである。だがその描写が、不思議とのどかな安らぎをもたらすのである。
ドラマを排除したその感覚は、どこか御伽噺的異空間に接しているようである。竜宮城やティルナノグ。現実に存在しない夢世界の特徴は、現実世界と違う時間の流れである。と同時に、夢世界での滞在に不思議な幸福と安らぎをの感情を与えてくれる。
『けいおん!』の印象は、竜宮城やティルナノグと時間の流れが逆というだけであって、夢想世界の印象が強く漂っている。『けいおん!』は、現実的な風景描写のなかに、夢想世界を描き出した作品の一つだといえる。
25d7a8c9.jpgお茶お飲みながら、ワイワイお喋りをする。実は、これは実写でもなかなか難しい。アニメでの成功例となると、私は知らない。『けいおん!』では常に人物が動く、話題が移り変わるなどで、ティータイムの雰囲気を作り出していた。クローズアップを避けて人物の動きを捉えるた部分がポイントだ。



a0748bd9.jpgところで、『けいおん!』の主人公は誰だったのだろう?
「平沢唯である」という模範解答に間違いはない。確かに物語の作者は、平沢唯を主人公と設定した上で、最初の物語の進行役を担わせている。
平沢唯は、音楽の素人である。だから、音楽という専門性の高い題材の進行役としてふさわしく、同じく音楽の初心者であるという想定の読者と同じ目線で、読者の気分と同じ速度で成長の物語を描ける。
だが平沢唯が主人公であったのは、3話の途上までだ。楽器を手に入れてからの平沢唯は、あっという間に万能の存在になってしまい、音楽活動に対して葛藤が描かれることはなかった。4話以降の平沢唯の役割といえば、田井中律との漫才コンビの相方であって、物語の中心人物としての切っ掛けを作らず、状況に影響をもたらす力をなくしてしまった。『けいおん!』の主人公が平沢唯であるのは第3話までだ。
『けいおん!』の主人公は秋山澪である。
まずルックスからして、秋山澪は主人公にふさわしい。長身でスタイルもよく、長髪黒髪(長髪黒髪は、かつてはヒロインの記号的象徴だった)。物語上の約束事として、最上の美少女として描かれている。
さらに性格もよく、聡明で、誰に対しても面倒見が良い。音楽の能力もすぐれて高い(作詞のセンスだけはアレだが)。その一方で、極端な上がり症という弱点が落差を生み、男性の「守ってあげたい」という母性的な感性を刺激するのである。
2a2e4dd2.jpgアニメファンは、澪の魅力にただちに気付いた。一時、澪人気は列島を猛烈な勢いで駆け抜けていった。澪に関連する公式グッズばかりではなく、澪が使用した画面上にチラとでも映ったアイテムの蒐集。『けいおん!』放送中、日本経済は不況とは思えない活発な動きを見せた。



621ca1ca.jpgもし、何の予備知識なく『けいおん!』のキャラクターを羅列して並べると、ほとんどの人は秋山澪を主人公と認識するだろう。
秋山澪が主人公であるという根拠は、見た目や性格描写といった部分だけではない。秋山澪は物語の切っ掛けを作り、状況に対して影響を与える力を持っている。「合宿に行こう」と言いだしたのは澪だし、中野梓との葛藤を解決させたのも澪だ。
さらに、キャラクターの葛藤や成長などほとんど描かれたなかった『けいおん!』において、唯一しっかり描かれたのが澪だった。音楽の才能と技術に不安を抱えていたのは澪だったし、6話学園祭のエピソードは完全に澪を中心に、ステージに上がるまでの物語を描いている。
ここまできて、どうして物語の作者はあらかじめ秋山澪を主人公として描かなかったのが、不思議でならない。
もっとも、主人公の立場は、9話10話に入り、再び交代することになる。中野梓の登場によって、物語の中心軸は再び変化を迎え、唯から遠ざかっていくのである。
4856c356.jpg作画を担当した堀口悠紀子は子供好きなのではないだろうか。堀口悠紀子の描く「かわいらしさ」にはどかしら、子供を慈しむような目線を感じる。需要があるのかわからないし、誤解や偏見を抱かれるかもしれないが、堀口悠紀子作画の子供が中心の物語を見てみたい。



f249253b.jpg『けいおん!』は『らき☆すた』と同じく4コマ漫画を原作にしているが、アプローチの方法は随分異なる。
らき☆すた』は原作の印象を可能な限り変えないという条件下で、ボリュームを増やし、時間的尺度に合わせて1分で充分の対話を5分に引き伸ばし、アニメの立体的空間に合わせて必要最低限のパースティクティブが設定された。
あくまでも4コマ漫画という記号的描写から逸脱も飛躍もしないというルールの中で、いかに濃密な空間を描き、デザイン的感性を美しく演出するか。それが『らき☆すた』でのアプローチであった。
『けいおん!』は『らき☆すた』の延長線上にありながら、もっと濃密で、徹底した観察で描写されている。
キャラクターたちが演技する日常空間は、信じられない精密さで描写されている。メインの舞台となる学校は、単調さはなく、窓やドアのデザインまで丁寧に練りこまれている。登場人物達の住居空間も、極めて常識的な感性でインテリアが選択されている(当り前の話だが、実はアニメでは珍しい傾向である。というのも、アニメーターはほとんど現場に引きこもり生活なので、インテリアの発想が育たないのだ)
最重要と思われる楽器は、フェティッシュな領域で描写されている。キャラクターごとの身体的設定に対し、妥当と思われる楽器が選択されているし、もちろん全て実在する楽器ばかりだ。作家の下手な独創をあえて排除し、音楽を徹底的に観察し、視覚的に描写しようという意識が見えてくる。
物語においても、原作が断片的な4コマ漫画とは思えないくらい連続性を持っている。エピソード自体短いのだが、確固たる主体性を持って進行していき、時に際立ったドラマを展開させる。『らき☆すた』はある意味、どのエピソードで区切っても構わないところはあったが、『けいおん!』は一つのエピソードとして自立しているのである。
461d1967.jpg紬はハーフではないか、と私は勝手に思い込んでいる。物語中、紬の富豪ぶりが描写されたが、あれくらい西洋では普通だ。『けいおん!』唯一の金髪キャラだし、際立って肌も白い。第4話『合宿!』に登場した家族写真らしきものに、金髪の女性が出てくる。私の考えでは、戸籍と財産と西洋の国に置き(日本だと複雑奇怪な税制度に阻まれて、財産を持ちづらくなる)、生活や通学、仕事などで日本に在籍しているのではないだろうか。そういった言及は、原作などになかったのだろうか?

そうした濃密さが漂う『けいおん!』世界だが、奇妙なくらい閉鎖性が高い。
まず、主要キャラクターを除いた外部の人物がほとんど登場しない。社会を構成する大人たちはまったくといっていいほど姿を現さないし、唯の在籍する教室にどんなクラスメイトがいるのか我々は知りようもないし、男性の存在となると皆無である。たまにエンドクレジットに男性声優の名前を見かけると「出てたっけ?」みたいな気分になる。学校が舞台になっているのに、唯たちの担任教師すら不明で、顔が判明している教師は山中さわ子のみである。
単に原作に描かれていないから、といえば身も蓋もないのだが、それが『けいおん!』特有の夢想性を増大させている。主要キャラクターたちの描写が極端にクローズアップされたようになり、キャラクター達の魅力が際立つのである。あくまでも「原作に描かれていないものは描かない」というルールの中で描写したためと想像されるが、その方向性が『けいおん!』独特の印象を偶発的に炙り出したのだ。
9410b485.jpg原作に描かないものは描かない。あまり指摘されなかったが、紬がどこからお湯を持ち込むのかなども不明なままだった。これも、原作で描かれなかったからだ。多分、ケトルがあると思うのだが。




b044d64e.jpg『けいおん!』の物語には、いかにもドラマといった波は少ない。軽音部の主要メンバーたちは、出会った当初から強い結束で結ばれていたし、活動において躓きや葛藤などは特に描かれていない。物語構造を揺るがすような波風はなく、ただただおだやで静謐な時間だけが流れていくのである。
物語の途上において、秋山澪と中野梓の葛藤が描かれるが、それでも一般のいわゆるドラマに対して、はるかに印象は薄い。物語の描写は、水彩絵具のように淡く、ふわりとしたやわかさとともに流れていくのだ。
ふと、荻上直子作品の『かもめ食堂』や『めがね』それから森田芳光監督の『間宮兄弟』といった作品を思い出す。
79d43039.jpg『美少女アニメ』と揶揄されたアニメだが、いわゆる『美少女アニメ』に見られるような強調的なクローズアップや性的な描写は少ない。『けいおん!』での構図は、ウエストサイズからフルサイズからが最も多く、顔よりも全体の動きや状況を捉えようとする意思が見られた。クローズアップの口パク目パチだけに逃げるアニメではない。本質的には『高密度アニメ』なのである。見た目の雰囲気に引き摺られると、作品の本質、構図、演出意図を読み違う。作品をよく見なさい、という話だ。


間宮兄弟』を例に取り上げてみよう。『間宮兄弟』は間宮兄弟が生活するアパートの一室を中心に、外部の社会空間と対比しながら物語が進行していく。間宮兄弟の部屋は、いつも相変わらずでゆるやかな空気に満ちている。それはある種の母親の胎内的世界といってもいい場所である。
それに対して、外部の世界は常に騒々しい刺激に満ちている。間宮兄弟の周辺に配置される人物は、それぞれ何らかの葛藤を抱いている。対立したり憎しみあったり。間宮兄弟の部屋は、そうした外部の危険に対して、間宮兄弟自身を守るように機能している。
間宮兄弟』は、兄弟が部屋から出て自立していく物語とは違う。むしろ外部世界の葛藤に対して、その小さな世界と、静かで個人的な幸福を守りながら生きていこうとする。作者の「ここにいつまでもいてもいいじゃないか、こういう小さくてゆったりした幸福があってもいいじゃないか」というメッセージが聞こえてきそうだ。あるいは、通俗的であろうとする社会や人間意識に対する(通俗的な社会意識に引き摺られて自滅する現代人の社会性に対する)、ゆるやかな皮肉かもしれないが。
『けいおん!』の特徴は、『間宮兄弟』における兄弟の部屋のみをクローズアップし、それ以外のすべてを削ぎ落として描かれた作品だというべきだろう。
いかにも男性的で、刺激と暴力と葛藤を描くのが物語作法のすべてではない。少女たちが外部世界の、不自然なくらい理不尽に設定された不幸に直面する必要はない(ドラッグだのエンコーだの必要ねえってわけ)。かりそめだが静かでのんびりとティータイムのひとときを楽しむ物語。いかにもなドラマ的状況を投入しなければ、何一つ描写できない凡庸の作家の空想とは、そもそも発想が違うのだ。
そうしたゆるやかな時間を濃密に描き出し、演出すること自体が『けいおん!』の物語の本質なのである。こういった傾向は、キャラクターの印象からか「萌え」という言葉で象徴されるが、実際には「癒し」というべきだろう。『けいおん!』にはあまりにも静かで豊かな時間が流れている。
313433b1.jpg「練習場面が少ない」という意見が多かった。確かに少ないが、そういったいかにも汗かいて熱血してますという男根的体育館係思想から遠ざかるのが趣旨の作品だ。いまだにパフォーマンス的な「やってます」を要求したがる人が多いようだ。日本人は今でも共産主義のプロパカンダを好む傾向があるようだ。



20b3a8ad.jpg惜しむべくは、『けいおん!』があまりにも早く終ったことだ。実質12話。わずか3ヶ月に満たない放送だ。その印象は、夜に見る夢のようだ。永遠に続くように思えて、しかし実際には一瞬のできごとだっという感じだ。
だが、これを24話まで引き伸ばすと、その物語性質は大きく変質し、くつろぎと安らぎの時間は崩壊してしまうだろう。それは「癒し」の空間ではなく「退屈」の物語だ。「癒し」にはある種の濃密さがなければならない。そして「くつろぎ」はほんの一時だから「くつろぎ」であるのだ。
だから『けいおん!』が12話で短く終るのは、むしろ正解である。くつろぎの時間は永遠であってはならないし、永久に続くくつろぎはもはや苦痛である。
とはいえ、もう少しあの少女たちがのんびりティータイムを楽しむ姿を見ていたかった。


作品データ
監督:山田尚子 原作:かきふらい
キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子 脚本:吉田玲子
音楽プロデューサー:小森茂生 音楽:百石元 音響監督:鶴岡陽太
楽器設定・楽器作監:高橋博行 編集:重村健吾
美術:田村せいき 色彩設計:竹田明代
アニメーション制作:京都アニメーション
出演:豊崎愛生 日笠陽子 佐藤聡美 寿美菜子 竹達彩菜
真田アサミ 藤東知夏 米澤円



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