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■2009/07/06 (Mon)
評論■
けいおん! 総括!
『けいおん!』での時間は、あまりにも早く流れていく。30分放送、実質12話というなかで、『けいおん!』の物語は1年半も流れ去ってしまった。
空想世界の時間の流れは、現実世界とは違う。空想世界の時間は、極端に停滞したり、間延びしたりしつつ、それでも一定速度を保ちながら進行する。
『けいおん!』の場合、その時間の流れが極端だった。7話で1年だから、各エピソードの間におよそ1ヶ月20日の時間が省略された計算になる。しかも個々のエピソードに連続性はなく、1ヶ月20日おきの、断片的な物語だけが、かいつまんで描かれていったことになる。
だから『けいおん!』には大きな物語はない。キャラクター達のある日常だけが断片的に区切り取られ、これといった連続性もなく描かれた。
『けいおん!』の主要な描写といえば、ただ唯たち四人が軽音部の部室に集まり、のんびりとティータイムを楽しんでいるだけである。だがその描写が、不思議とのどかな安らぎをもたらすのである。
ドラマを排除したその感覚は、どこか御伽噺的異空間に接しているようである。竜宮城やティルナノグ。現実に存在しない夢世界の特徴は、現実世界と違う時間の流れである。と同時に、夢世界での滞在に不思議な幸福と安らぎをの感情を与えてくれる。
『けいおん!』の印象は、竜宮城やティルナノグと時間の流れが逆というだけであって、夢想世界の印象が強く漂っている。『けいおん!』は、現実的な風景描写のなかに、夢想世界を描き出した作品の一つだといえる。
お茶お飲みながら、ワイワイお喋りをする。実は、これは実写でもなかなか難しい。アニメでの成功例となると、私は知らない。『けいおん!』では常に人物が動く、話題が移り変わるなどで、ティータイムの雰囲気を作り出していた。クローズアップを避けて人物の動きを捉えるた部分がポイントだ。
ところで、『けいおん!』の主人公は誰だったのだろう?
「平沢唯である」という模範解答に間違いはない。確かに物語の作者は、平沢唯を主人公と設定した上で、最初の物語の進行役を担わせている。
平沢唯は、音楽の素人である。だから、音楽という専門性の高い題材の進行役としてふさわしく、同じく音楽の初心者であるという想定の読者と同じ目線で、読者の気分と同じ速度で成長の物語を描ける。
だが平沢唯が主人公であったのは、3話の途上までだ。楽器を手に入れてからの平沢唯は、あっという間に万能の存在になってしまい、音楽活動に対して葛藤が描かれることはなかった。4話以降の平沢唯の役割といえば、田井中律との漫才コンビの相方であって、物語の中心人物としての切っ掛けを作らず、状況に影響をもたらす力をなくしてしまった。『けいおん!』の主人公が平沢唯であるのは第3話までだ。
『けいおん!』の主人公は秋山澪である。
まずルックスからして、秋山澪は主人公にふさわしい。長身でスタイルもよく、長髪黒髪(長髪黒髪は、かつてはヒロインの記号的象徴だった)。物語上の約束事として、最上の美少女として描かれている。
さらに性格もよく、聡明で、誰に対しても面倒見が良い。音楽の能力もすぐれて高い(作詞のセンスだけはアレだが)。その一方で、極端な上がり症という弱点が落差を生み、男性の「守ってあげたい」という母性的な感性を刺激するのである。
アニメファンは、澪の魅力にただちに気付いた。一時、澪人気は列島を猛烈な勢いで駆け抜けていった。澪に関連する公式グッズばかりではなく、澪が使用した画面上にチラとでも映ったアイテムの蒐集。『けいおん!』放送中、日本経済は不況とは思えない活発な動きを見せた。
もし、何の予備知識なく『けいおん!』のキャラクターを羅列して並べると、ほとんどの人は秋山澪を主人公と認識するだろう。
秋山澪が主人公であるという根拠は、見た目や性格描写といった部分だけではない。秋山澪は物語の切っ掛けを作り、状況に対して影響を与える力を持っている。「合宿に行こう」と言いだしたのは澪だし、中野梓との葛藤を解決させたのも澪だ。
さらに、キャラクターの葛藤や成長などほとんど描かれたなかった『けいおん!』において、唯一しっかり描かれたのが澪だった。音楽の才能と技術に不安を抱えていたのは澪だったし、6話の学園祭のエピソードは完全に澪を中心に、ステージに上がるまでの物語を描いている。
ここまできて、どうして物語の作者はあらかじめ秋山澪を主人公として描かなかったのが、不思議でならない。
もっとも、主人公の立場は、9話、10話に入り、再び交代することになる。中野梓の登場によって、物語の中心軸は再び変化を迎え、唯から遠ざかっていくのである。
作画を担当した堀口悠紀子は子供好きなのではないだろうか。堀口悠紀子の描く「かわいらしさ」にはどかしら、子供を慈しむような目線を感じる。需要があるのかわからないし、誤解や偏見を抱かれるかもしれないが、堀口悠紀子作画の子供が中心の物語を見てみたい。
『けいおん!』は『らき☆すた』と同じく4コマ漫画を原作にしているが、アプローチの方法は随分異なる。
『らき☆すた』は原作の印象を可能な限り変えないという条件下で、ボリュームを増やし、時間的尺度に合わせて1分で充分の対話を5分に引き伸ばし、アニメの立体的空間に合わせて必要最低限のパースティクティブが設定された。
あくまでも4コマ漫画という記号的描写から逸脱も飛躍もしないというルールの中で、いかに濃密な空間を描き、デザイン的感性を美しく演出するか。それが『らき☆すた』でのアプローチであった。
『けいおん!』は『らき☆すた』の延長線上にありながら、もっと濃密で、徹底した観察で描写されている。
キャラクターたちが演技する日常空間は、信じられない精密さで描写されている。メインの舞台となる学校は、単調さはなく、窓やドアのデザインまで丁寧に練りこまれている。登場人物達の住居空間も、極めて常識的な感性でインテリアが選択されている(当り前の話だが、実はアニメでは珍しい傾向である。というのも、アニメーターはほとんど現場に引きこもり生活なので、インテリアの発想が育たないのだ)。
最重要と思われる楽器は、フェティッシュな領域で描写されている。キャラクターごとの身体的設定に対し、妥当と思われる楽器が選択されているし、もちろん全て実在する楽器ばかりだ。作家の下手な独創をあえて排除し、音楽を徹底的に観察し、視覚的に描写しようという意識が見えてくる。
物語においても、原作が断片的な4コマ漫画とは思えないくらい連続性を持っている。エピソード自体短いのだが、確固たる主体性を持って進行していき、時に際立ったドラマを展開させる。『らき☆すた』はある意味、どのエピソードで区切っても構わないところはあったが、『けいおん!』は一つのエピソードとして自立しているのである。
紬はハーフではないか、と私は勝手に思い込んでいる。物語中、紬の富豪ぶりが描写されたが、あれくらい西洋では普通だ。『けいおん!』唯一の金髪キャラだし、際立って肌も白い。第4話『合宿!』に登場した家族写真らしきものに、金髪の女性が出てくる。私の考えでは、戸籍と財産と西洋の国に置き(日本だと複雑奇怪な税制度に阻まれて、財産を持ちづらくなる)、生活や通学、仕事などで日本に在籍しているのではないだろうか。そういった言及は、原作などになかったのだろうか?
そうした濃密さが漂う『けいおん!』世界だが、奇妙なくらい閉鎖性が高い。
まず、主要キャラクターを除いた外部の人物がほとんど登場しない。社会を構成する大人たちはまったくといっていいほど姿を現さないし、唯の在籍する教室にどんなクラスメイトがいるのか我々は知りようもないし、男性の存在となると皆無である。たまにエンドクレジットに男性声優の名前を見かけると「出てたっけ?」みたいな気分になる。学校が舞台になっているのに、唯たちの担任教師すら不明で、顔が判明している教師は山中さわ子のみである。
単に原作に描かれていないから、といえば身も蓋もないのだが、それが『けいおん!』特有の夢想性を増大させている。主要キャラクターたちの描写が極端にクローズアップされたようになり、キャラクター達の魅力が際立つのである。あくまでも「原作に描かれていないものは描かない」というルールの中で描写したためと想像されるが、その方向性が『けいおん!』独特の印象を偶発的に炙り出したのだ。
原作に描かないものは描かない。あまり指摘されなかったが、紬がどこからお湯を持ち込むのかなども不明なままだった。これも、原作で描かれなかったからだ。多分、ケトルがあると思うのだが。
『けいおん!』の物語には、いかにもドラマといった波は少ない。軽音部の主要メンバーたちは、出会った当初から強い結束で結ばれていたし、活動において躓きや葛藤などは特に描かれていない。物語構造を揺るがすような波風はなく、ただただおだやで静謐な時間だけが流れていくのである。
物語の途上において、秋山澪と中野梓の葛藤が描かれるが、それでも一般のいわゆるドラマに対して、はるかに印象は薄い。物語の描写は、水彩絵具のように淡く、ふわりとしたやわかさとともに流れていくのだ。
ふと、荻上直子作品の『かもめ食堂』や『めがね』それから森田芳光監督の『間宮兄弟』といった作品を思い出す。
『美少女アニメ』と揶揄されたアニメだが、いわゆる『美少女アニメ』に見られるような強調的なクローズアップや性的な描写は少ない。『けいおん!』での構図は、ウエストサイズからフルサイズからが最も多く、顔よりも全体の動きや状況を捉えようとする意思が見られた。クローズアップの口パク目パチだけに逃げるアニメではない。本質的には『高密度アニメ』なのである。見た目の雰囲気に引き摺られると、作品の本質、構図、演出意図を読み違う。作品をよく見なさい、という話だ。
『間宮兄弟』を例に取り上げてみよう。『間宮兄弟』は間宮兄弟が生活するアパートの一室を中心に、外部の社会空間と対比しながら物語が進行していく。間宮兄弟の部屋は、いつも相変わらずでゆるやかな空気に満ちている。それはある種の母親の胎内的世界といってもいい場所である。
それに対して、外部の世界は常に騒々しい刺激に満ちている。間宮兄弟の周辺に配置される人物は、それぞれ何らかの葛藤を抱いている。対立したり憎しみあったり。間宮兄弟の部屋は、そうした外部の危険に対して、間宮兄弟自身を守るように機能している。
『間宮兄弟』は、兄弟が部屋から出て自立していく物語とは違う。むしろ外部世界の葛藤に対して、その小さな世界と、静かで個人的な幸福を守りながら生きていこうとする。作者の「ここにいつまでもいてもいいじゃないか、こういう小さくてゆったりした幸福があってもいいじゃないか」というメッセージが聞こえてきそうだ。あるいは、通俗的であろうとする社会や人間意識に対する(通俗的な社会意識に引き摺られて自滅する現代人の社会性に対する)、ゆるやかな皮肉かもしれないが。
『けいおん!』の特徴は、『間宮兄弟』における兄弟の部屋のみをクローズアップし、それ以外のすべてを削ぎ落として描かれた作品だというべきだろう。
いかにも男性的で、刺激と暴力と葛藤を描くのが物語作法のすべてではない。少女たちが外部世界の、不自然なくらい理不尽に設定された不幸に直面する必要はない(ドラッグだのエンコーだの必要ねえってわけ)。かりそめだが静かでのんびりとティータイムのひとときを楽しむ物語。いかにもなドラマ的状況を投入しなければ、何一つ描写できない凡庸の作家の空想とは、そもそも発想が違うのだ。
そうしたゆるやかな時間を濃密に描き出し、演出すること自体が『けいおん!』の物語の本質なのである。こういった傾向は、キャラクターの印象からか「萌え」という言葉で象徴されるが、実際には「癒し」というべきだろう。『けいおん!』にはあまりにも静かで豊かな時間が流れている。
「練習場面が少ない」という意見が多かった。確かに少ないが、そういったいかにも汗かいて熱血してますという男根的体育館係思想から遠ざかるのが趣旨の作品だ。いまだにパフォーマンス的な「やってます」を要求したがる人が多いようだ。日本人は今でも共産主義のプロパカンダを好む傾向があるようだ。
惜しむべくは、『けいおん!』があまりにも早く終ったことだ。実質12話。わずか3ヶ月に満たない放送だ。その印象は、夜に見る夢のようだ。永遠に続くように思えて、しかし実際には一瞬のできごとだっという感じだ。
だが、これを24話まで引き伸ばすと、その物語性質は大きく変質し、くつろぎと安らぎの時間は崩壊してしまうだろう。それは「癒し」の空間ではなく「退屈」の物語だ。「癒し」にはある種の濃密さがなければならない。そして「くつろぎ」はほんの一時だから「くつろぎ」であるのだ。
だから『けいおん!』が12話で短く終るのは、むしろ正解である。くつろぎの時間は永遠であってはならないし、永久に続くくつろぎはもはや苦痛である。
とはいえ、もう少しあの少女たちがのんびりティータイムを楽しむ姿を見ていたかった。
作品データ
監督:山田尚子 原作:かきふらい
キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子 脚本:吉田玲子
音楽プロデューサー:小森茂生 音楽:百石元 音響監督:鶴岡陽太
楽器設定・楽器作監:高橋博行 編集:重村健吾
美術:田村せいき 色彩設計:竹田明代
アニメーション制作:京都アニメーション
出演:豊崎愛生 日笠陽子 佐藤聡美 寿美菜子 竹達彩菜
真田アサミ 藤東知夏 米澤円
書き足し 『番外編 冬の日!』について
実質的な最終話である『番外編 冬の日!』にいくらかの議論があったようだ。何を示した話なのかわからない。何を語ろうとしているのかわからない。最高のクライマックスを見せた『最終回 軽音!』の後に、果たしてあのエピソードは必要だったのか。
だが、『番外編 冬の日!』は難解ではないと思う。
『番外編 冬の日!』で描こうとしたのは、これまでの『けいおん!』そのものへの脱却。それから少女達のゆるやかな変化の兆しだ。
『けいおん!』シリーズは、とにかく穏やかなティータイムの日々を描き続けた作品である。あの音楽準備室は、母親の胎内的な安全地帯である。『番外編 冬の日!』で予感させたのは、安全地帯である一方で発展の失った場所からの脱出、新たな段階への成長。ある種の「卒業の物語」的なものと受け取ってもいいだろう。
だが改めて、なぜ「卒業の物語」が必要だったのか。思うに、これは作り手自身がキャラクターのために作ったエピソードではないだろうか。
印象的だったのが、澪の海への一人旅のシーン。もう澪は、律に手を引っ張られて振り回されるだけの少女ではない。律も、澪が一人で何かやっているのを見て、動揺したり、自分のところに引き戻そうとしたりもしない。11話『ピンチ!』を乗り越えて、二人は自立的で良好的な関係を築けるようになった。初期のべったり感とくらべると、その違いは明らかだ。
『けいおん!』において、唯たちは無限とも思えるティータイムの日々を繰り返し続けている。それはそれで幸福でやすらぎの時間だが、一方で、その状況にキャラクターたちを束縛し続けているといえなくもない。
作り手の親心(母心。主要スタッフは女性である)としては、その状況から無理にならない程度にキャラクターたちを旅立ちの機会を与え、次なる成長の切っ掛けを与えたくなるものだ。
作り手は、しばしば自分のエゴのためでもユーザーへのサービスのためでもなく、キャラクターのために物語を作る場合がある。素人にはわからないだろうが、作り手にとって、キャラクターというのは息子や娘のように感じる瞬間があるのだ。それも作り手の重要な感情の一つなのである。
『番外編 冬の日!』を経たキャラクターたちは、急激ではないが、ゆるやかな変化と成長をみせてくれるだろう。
もし続くシリーズがあれば、『けいおん!』はかつてのシリーズとはまったく違う姿を見せてくれるはずだ。主要な舞台は、音楽準備室にはならないだろう。もういつまでもティータイムの時間を引き伸ばしたりもしないだろう。メンバーの入れ替えや脱退もあるかもしれない(紬はすでに軽音部の活動から離れかけている)。もしかしたら、今度は本当に恋愛物語が描かれるかもしれない。
『番外編 冬の日!』から感じたのは、作り手の親心と、「あの幸福な日々の終わり」だ。ゆるやかだった青春物語の最後に描かれるエピソードとしてはふさわしかったと思う(正直な話、好きで見ているほうとしてはすこぶる寂しかった)。
オマケ!
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