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■2010/10/04 (Mon)
ティータイムが終わるとき

2009年4月に放送開始したアニメ『けいおん!』は、業界の枠を越える大きな話題と熱狂的な愛好者を多数生み出し、制作会社に莫大な利益をもたらした作品である。2010年4月、前回放送開始からちょうど1年の時を経て、第2期『けいおん!!』が制作され、地上波放送された。
第2期『けいおん!!』はただ単純に第1期『けいおん!』の物語を延長した作品ではなく、多くの改善や修整が加えられ、さらに品質を深めた作品である。という以前に、第1期『けいおん!』はあの音楽準備室とその周辺の環境らしきものが漠然とした雰囲気の中で描かれただけであって、物語としての骨格はどこにもなかった。
第1期『けいおん!』を見直すと、あまり一貫しているとはいいがたいブレが多く見られる。例えば平沢憂が姉の唯に対してしっかり者、という設定は当初から見られるが、「お姉ちゃん好き」の設定はずっと後になってから出てきたものであった。第2話『楽器』と第4話『合宿!』の2エピソードで、唯に対して愚痴をこぼす場面がある(今となっては貴重な場面だ)
第5話『顧問!』のエピソードで明らかになった琴吹紬の同性愛設定は、その後、目立った発展もなく完全に忘れられた。
さらに第10話『また合宿!』は第4話『合宿!』を梓を加えただけの繰り返しだ。
『けいおん!』の映像は、あの音楽準備室とティータイムの一時が中心に描かれ、それ以外の全ては漠然とした風景として後退してしまっていた。そもそも『けいおん!』という作品の中心軸は音楽室での一時が全てであり、唯たちが何か活動する物語ですらなく、物語の連続性やドラマの発生など何も期待されていない作品であった。ただ唯たちというキャラクターがあの空間の中に佇み、穏やかにくつろいだ表情を見せている――『けいおん!』という作品を解説するとそれが全てであり、だからこそ作り手はあの空間の設計にあらゆる技術と精力を注ぎ込んだ。
f5611cf9.jpg日常の物語を描くのは非常に難しい。創作の経験のない批評家が思っている以上にだ。なんでもない淡白な描写の連続の中に人間の感情を盛り込んだり、変化を描き出すのは至難の技だ。「あれなら誰でも描ける」と思っている人は多いと思うが、やってみるがいい。手ひどい失敗を負って、それから自分の批評の甘さを知るがいいだろう。批評家は所詮、素人だ。

現実社会から峻別された竜宮城的空間、あるいは“空気”の構築。そこに変化が与えられたのが第2期『けいおん!』である。
作り手はまず、唯たちが在籍する3年2組全員を克明にデザインするという、アニメにおいては贅沢極まりない難題に挑戦し、「音楽準備室が全て」という閉鎖性からの脱却を図った。これが大きな効果を上げて、音楽準備室から教室、さらにその向うの世界へと唯たちが関わる社会の領域が増大し、物語の可能性が大きく広がった。
次に、『けいおん!!』の物語全体を貫く一つのテーマが出現した。《卒業》である。
音楽準備室でのティータイム、放課後の一時という、あまりにも満たされた幸福の時間の終了。ひょっとすると永続的に続くと思われた停滞した時間の終わり。
第2期第1話『高3!』の当初から、いつかやって来る「卒業」が意識され、物語はいつか終わってしまうこの時間というものに向ってゆるやかに時間を消費していくように描かれていった。
とはいえ、「卒業」のテーマが『けいおん!』という作品の本質自体を変化させたわけではなかった。そこにあったのは第1期から続く穏やかなティータイムの一時。物語を一変させる思わぬ事件が発生するわけでもなく、連続する物語に強い連帯はなく、やはり大きなドラマを作り上げるということもなかった。ただただ、物語の底流に「卒業」と「終わり」の予感をじわりじわりと忍ばせていく。物語作りとしてはあまりにも小さな伏線だが、これが後に物語の心情を強く刻印させる切掛けを作る。
a9540192.jpg第2期『けいおん!!』において、意外な活躍をしたのが琴吹紬であった。第1期では主要キャラクターでありながら台詞は少なく目立たないキャラクターで、とってつけた同性愛設定で特色を出そうとしていた。だが第2期『けいおん!!』では、卒業というテーマを見据えて紬ならではの思い出作りに奮闘する姿が見られた。それが第2期『けいおん!!』のほどよい複流になって作品を色づけした。
しかし、唯たちは「卒業」をどこかで意識しながらも、その時間がいつまでも続く永続的なものと信じて疑わなかった。
7cf95dd5.jpgdcd53154.jpg第1話『高3!』ではただ楽しみなだけの高校3年生、というだけで、その後にやって来る進路や進学はあまり意識されていなかった。
第4話の『修学旅行!』の夜、旅行をたっ202089a3.jpgぷり楽しんだ後、唯はふっとこの時間が間もなく終わってしまうことに気付く(修学旅行の終わりと学園生活の終わりを重ね合わせる場面である)。しかしこの時の予感は、唯の内部に起きた小さなモノローグとして終わってしまった。
第8話の『進路!』は「進路」がテーマになったエピソードであるが、49db224e.jpg明らかにいって、唯はいつかやってくる進路に真面目に向き合っていない。にわかに意識しはじめ、周りの皆に話を聞いたりするものの、そもそも今の時間が終わることをイメージできない唯(と律)は、結局進路の問題を先送りにしてしまう。
第12話の『夏フェス!』において、決定的といえる心情の変化が起2be2f678.jpgきるようになった。
「これからもずーっと皆でバンドできたらいよね」
唯の何気ない言葉にメンバー全員が頷く。これを切っ掛けに、唯たちは「この時間がいつまでも続く」という確信に疑いを持たないようになってしまった。明日も、明後日も、来年も、今の立場や気持が永続的に続くように思い始めてしまった。
どの場面を見ても小さな心情の変化や積み重ねである。だがこの小さな感情的経緯が、第20話『またまた学園祭!』において、大きなクライマックスとして到達する。
c9f2de45.jpg91d3dd6e.jpgそれまで予感めいたものとぼんやり意識されてきた「卒業」。唯たちは「卒業」を心のどこかで意識しながらも(あるいは強く意識しているからこそ)、今ある時間を貪欲に消費し続けてきた。
4939d6d5.jpg6e60ec27.jpgだが学園祭での演奏が終了した後、唯たちはようやく事実に気付く。
――来年はもうない。
来年も、その次の年も永遠に続くと思っていた今という時間。しかし今という時間24bcff7f.jpg0fcaee1f.jpgは今でしかなく、通り過ぎた瞬間それは過去になってしまう。自分たちが放課後ティータイムとして舞台に立ち、演奏できるのはこれが最後。次にやってくるのは卒業であり、学園生活の終わりである。音楽準備室というあまりにも穏やかで満たされた子宮的空間の終わり――そして別れ。
その事実に対する自覚と迫り来る悲しみ。小さな感情的経緯の積み重ねが、驚くほど感動的な一場面を作りあげた。ライブシーンの見事さを含め、その後アニメ史において数十年語り継がれるであろう名シーンの誕生である。
(ところであのライブシーン。プログラムには30分とあった。だが実際に描かれたのは15分ほどである。前半「ご飯はおかず」と後半「U&I」の場面はノーカットであると考えると、アイキャッチのところで15分ほど省略されたという計算だ。あの狭間で確実に3~4曲前後の演奏があったはずである。DVD、ブルーレイで省略した15分を復元追加してくれないだろうか。ライブシーン・ノーカット版として。値段が3倍と言われても、何も文句言わずに買うのだが)
69205608.jpg第23話『放課後!』「唯ちゃん、録音手伝おうか?」何気ないやり取りだが感動的だ。多分、山中さわ子は10年前の同じ時期に同じことをして、当時の顧問と同じやりとりをしたのだろう、と想像する。あの微笑みはそういう意味だろう。その時のカセットテープを偶然秋山澪が発見し、それが自分たちの音楽について考える切っ掛けを作った。さわ子のテープの存在は意外なくらい大きい。10年後、新しく入ってきた軽音部部員は唯たちの51f71fa1.jpgテープを聞き、同じように考えたり感動したりするのだろう。その時には今の軽音部メンバーの誰かが桜高の教師になっているかもしれない。
『けいおん!』は大きなドラマではないが、どこかのピースに収まる小さな物語の連続であるのだ。


学園祭の場面を乗り越えて、唯たちは改めて、卒業と進路に向き合うようになった。第21話『卒業アルバム!』においてようやく進学先を決めて、続く第22話では受験に挑んだ。第20話『またまた学園祭!』以前と比較すると劇的な心境の変化だったが、唯たちにとってあの学園祭が通過儀礼的なものとなって、心理的な変化を自然に促したのだ。
しかし中野梓は、唯たちの卒業をまだ現実的なものとして受け入れていなかった。
第2期『けいおん!!』にはもう一人の主人公がいる。言うまでもなく中野梓だ。卒業して去ってしまう唯たちに対して、たった一人取り残されてしまう梓。卒業を前にして今という時間を貪欲に消費する唯たちに対して、梓は唯たちから一歩距離を置き、というより決してあの中に立ち入れない立場として描かれてきた。
第2期の『けいおん!!』は誰の視点の物語なのか明快に描かれるようになった。第1期『けいおん!』にははっきりと主人公とわかる人物がなく、いったい誰の視点・モノローグで物語が進行しているのか不明であった(とりあえず、人物ではなく音楽準備室とティータイムという空間こそが主人公である、という見方もあるが)
視点を大きく変える必要のある場合は独立したエピソードが作られるようになり、『けいおん!!』の物語は唯たちを主人公とするエピソードと、梓一人を主人公とするエピソードの2つに分けられた。
梓のエピソードは、いつも唯たちから一歩離れた視点で描かれる。梓にとって1学年の差は決して飛び越えられない一つの境界線で、唯たちと同じ立場には絶対に立てないのだ。そして、間もなく学校を去ってしまう唯たちに対して、梓は取り残されてしまう立場であった。
a9e6eb90.jpg唯たちへの梓の思いが描かれたのが、13話『残暑見舞い!』であった。唯たちとの一時があまりにも楽しくて、夢のように捉えている梓。だから唯たちがいない今が退屈で仕方ない。うたた寝ばかりしている梓は、何度も夢のなかで唯たちと会う。
そんな梓の前に、不意に現実の唯たちが現れる。唯たちの登場に喜9280352a.jpgぶ梓だったが、その一方で「これもひょっとして夢?」と疑う。あまりにも楽しくて満たされていて、夢のような一時だったから――。
唯たちに手を引かれて走って行く梓。しかし、突然に唯たちの姿が人ごみの向うに消えてしまう。顔を上げると、花火の硝煙が夜空に白く漂い広がっている。これはそのままの意味で、「煙になって消えてしb0f524e0.jpg2d209dea.jpgまった」と捉えるべきだろう。梓にとって唯たちは、縁日の夜に見る幻のような存在であり、同時にいつか自分の前から去ってしまう人たちである。梓はまだ唯たちの卒業を意識していないが、漠然とした不安として、唯の消失を幻想的な空気の中でほのめかすように描かれた。
どうやら梓は、自分から唯たちに対して線引きしているらしい。第16話『先輩!』において、梓はfcd3562f.jpg7c3ef9ee.jpg唯たちとの関係や自身の気持ちを改めて考え直そうとする。結果として、梓は自分の気持ちが先輩たちともはや分離不能で、先輩たちと一緒にいる瞬間に幸福を感じている自分を再認識する。
しかし梓は、まだ唯たちとの別れを現実的なものとして受け入れていなかった。唯たちとの結びつきがあまりにも強いから、卒業して去っていくことは理解できても、それが別れになることまで意識できないでいた。あるいは、意識しないようにしていたのかもしれない。
唯たちの別れを初めて意識したのは第22話『受験!』である。唯自身は自分たちがその場所を去っていくことを第20話『またまた学園祭!』で受け入れたのだけど、梓が唯たちの消失を明確なものとして意識したのは第22話が最初であった。
50509f1e.jpg梓の気持はそのエピソードでは解消されず、最終回『卒業式!』の日まで持ち越すことになった。卒業式を終えて間もなく学校を去っていく唯たちに対して梓は、
「卒業しないで下さい」
と本当の気持を口にする。
d38516df.jpg唯たちのと結びつきがあまりにも強く、そこに幸福を感じている。だからこそ別離が耐えられない。そんな梓に対して、唯たちは歌で答える。
「卒業は終わりじゃない。これからも仲間だから」
卒業して去っていくけど別れではない。改めて結びつきの強さを確かめ合い、去っていく者、残されていく者の物語は終わりへと向っていく。
98a522e4.jpg『けいおん!』は必ずしも人気ナンバーワン作品ではなかった。2009年度DVD・ブルーレイ売り上げを見ると、『エヴァンゲリヲン』『化物語』に続く第3位だった。『けいおん!!第2期第4巻』の発売でようやく『化物語』のトータル枚数を抜いたところである。
平均2万枚を越える作品には『とある科学の超電磁砲』や『Angel Beat!』などがあり、平均3万枚ヒットの『けいおん!』は特別大ヒット、というわけではない。

eb965729.jpgとはいえ、DVD売り上げだけでも黒字作品なのは間違いない。さらにオリコン1位2位を独占した音楽CDや夥しい数で売り出されたグッズなどがプラスになっているはずで、トータルした商業的効果は莫大だ。
ちなみにキャラクターが使用した楽器や文具なども相当数で売れたが、これは京都アニメが特に広告費などをもらっていたわけではない。それはスポンサーを見ればわかる。未
2107d8d3.jpgだに勘違いしている人がかなりいるが、楽器や文具は日常感覚を演出するための道具であり、『けいおん!』グッズではない。楽器や文具がいくら売れても、京都アニメには1円のプラスにならない(当然だが、京都の観光事業からお金をもらって制作された作品でもない。念のため)。

『けいおん!!』というアニメを支えてきたのはキャラクターへの偏執的な愛着がすべてではない。アニメ作品としての基本的な質の高さが『けいおん!』の力強い基盤となっている。キャラクターだけで人気が出たと思っているならば、それはただの素人の発想であり、むしろその考えこそ偏執的である。でなければ、技術・美術のどちらも理解できていない凡俗である。
けいおん!!解説解説 (32)例えばモブシーンだ。モブシーンはアニメ制作において手抜きされやすい部分である。原画がいい加減で、動画マンがキャラを改めて作りながらクリンナップ(清書)することがしばしばある。原画が真面目に群集を描こうとするのは、ウエストショット以上に接近してきた時だけである(最近ではデジタルエキストラが使用されることが多い)
だが『けいおん!』における群集はどの場面も丁寧に描かれ、一人一人に細かな演技をつけて描かれている。場面によっては動画が加えられることもある。3年2組の教室の場面では、普通のアニメならその他大勢として大雑把に扱われそうなクラスメイトも一人一人デザインが書き起こされている。
『けいおん!!』は普通のアニメでは見せ場と考えられていない日常のアクションに動画枚数を多く消費されている。
けいおん!!解説解説 (29)例えば第6話『梅雨!』。雨を前にして、唯は背負っているギターケースを憂に預け、傘を開き、それからギターケースを引き戻そうとする。
普通の演出家なら、唯がギターケースを下ろそうとする場面でカットを切り、次の場面へ飛ぶか背景画でごまかす。そうしたほうがトータル枚数の節約になるし(枚数が増えるほど必要な予算がけいおん!!解説解説 (29)あ大きくなる。演出は予算面についても考えながらカットを考えなければならない。ここで予算オーバーすると首を切られる場合がある)、日常的なアクションは誰もが知っているだけにアニメーションで描き出すのが難しい。現実的にはありえない活劇アクションは創造力逞しくして自由に描けばいいのだが(それはそれで大変だが)、日常的なアクションはそういうわけにはいかない。日常的に自分たちがどのように視線を動かし、手や足を動かして生活しているのか再認識し、分析しながら描かなければならない。結果的には素人の目に「当り前の動き」として見られがちな日常的なアクションだが、実は作画難易度は理不尽に高い。
実際にアニメーターを職業として経験した人ならばわかると思うが、アニメキャラクターの日常アクションというのは単純で、省略した形で描かれる場合が多い。手を上げたり下げたり、何かを持ったり……。後はマニュアル的な目パチ口パク、振り向きに歩き走りといったところだ。これも〔枚数=予算〕なので、演出家がエピソードごとの見せ場を見定めながら枚数調整を行っている。作画困難な動画を大量に発注したら、当り前だが締め切りに間に合わなくなる。だからこそ枚数管理が必要になるのだ。
けいおん!!解説解説 (30)だが日常の平凡さをテーマにした『けいおん!!』は敢えて日常的なアクションほど徹底した丹念さで描写された。たかがギターケースの受け渡しのために贅沢極まりない枚数を消費する。表情の動きにコマごとの変化を付け加える。同じ場面で何度もごろごろと寝返り打つ。
しかも『けいおん!』の構図つくりはウエストサイズからフルサイズが多く、常に複数の人物がカットの中に映り、しかも周辺の空間も入り込むのでパースのごまかしが効きにくくなる。アニメに限らず映像制作は、俳優あるいはキャラクターの顔面クローズアップ、台詞だけで成り立つものであり、そういうやり方が作り手として一番楽で効率のいいやり方である(見栄えがいいかどうかは別問題)。それでも『けいおん!』のカメラワークは、あえてキャラクターから遠ざかり、周辺の空間を構図の中に収めて描こうとするのである。
けいおん!!解説解説 (31)けいおん!!解説解説 (33)そうした制作側のこだわりは、第20話『またまた学園祭!』において最高潮に達する。ライブの直前、唯たちが階段を降りて行く場面ではキャラクターとカメラワークが同時に動くし、「U&I」を演奏すけいおん!!解説解説 (34)改改改る場面手前には唯の30枚に達する振り向き動画がある(通常の振り向きは5枚。30枚は劇場アニメ並み)
それ以上に唖然としたのは左の動画である。通常の拍手の動きは「合成」を使って描かれる。「合成」とは、AセルやBセルというふうに分離不能な動画を一枚の動画にするために、動かない線と動く線を一枚の絵に結びつける技術である。ほとんどの場面の拍手はこの「合成」で描かれている(普通のアニメは拍手の動きを描かず、止めと拍手音でごまかすことが多い)。しかし左の動画はなんと全身運動である。拍手しているという微妙な動きに全身が釣られ、髪の毛が揺れる瞬間まで克明に捉えられている。ミリ以下の線の細かさで描かれた動画である。京都アニメの本気がわかるカットだ。
45c60e4b.giffb341d66.jpg(〔→〕は合成のイメージ。〔→→〕GIFアニメでの合成のイメージ。クリックするとイメージが動く。消える手の部分が合成部分)
どれも日常的なアクションで見落としやすい場面だが、こういった場面にこそ作り手のこだわりと本当の実力が見えてくるのである。
e2d5ae87.jpg一般メディアにおける『けいおん!』の扱いは、恣意的なバイアスが約束事となった。例えばライブドアニュースのこの記事→【大ヒットアニメ「けいおん!!」 来週最終回の告知でネット発狂】これは捏造だろう。『けいおん!!』は27話まで制作され、26話まで放送されることはすでにわかっているはずである。これを知らない『けいおん!』ファンは少数派だろうし、ネットに書き込みするくらいのユーザーが知らないはずがない(というか新聞に492a83ca.jpg「終」の字はないし、最終回後に次回予告がある。ちなみにこの後、ライブドアニュースは『けいおん!』を放送終了したものとして記事が書かれるようになった)。ニュース記事ではいかにもありがちな言い回しでファンの動揺らしきものを書き並べているが、出典不明の内容怪しい記事である。こんな程度の低い捏造記事に釣られて「やっぱりオタクキモイ」とコメントする、「自称情報強者」の情報能力にも疑問だ。
8829acdc.jpgおそらくはアニメファンの奇怪な特徴を誇張して広めたいという悪意を持って書かれたのだろう。軽薄短小のマスコミが宮崎勤事件以来繰り返してきた手法である。『けいおん!』特有の柔らかさが、マスコミには「何しても反抗しない女性」のように見られたのかもしれない。



f703fcd0.jpg33e264a1.jpg目立たないところだがエピソードや場面によって細かく色彩も調整された。
全てのエピソードを大雑把に見てみると、画面の色調が微妙に変化しているのがわかるだろう。春は暖かな印象で、夏ecfec9b1.jpg6e2a1816.jpgになったらコントラストは深く重い画面で、秋になると再び色の印象は柔らかくなり、冬になると色彩は抑えられ、白と黒のトーンが強調される。
物語の舞台が音楽準備室と教室、それからその周辺に限定されているからこそ、色彩の細かな調整が施されたのだろう(一つ一つのシーンをじっくり見るより、早送りで全体通して見たほうが効果の違いはわかりやすい)
76bdd0b6.jpgb44c1b43.jpg左のカットは第22話『受験!』における梓が職員室前で立ち聞きをしている場面だ。梓はこの場面で初めて唯たちが学校を去っていくことを自覚するわけだが、その前のカットと比較すると極端に白と黒07eee671.jpgのトーンが重くなっているのがわかるだろう。
次のカットは職員室入口に集ってくる唯たちを梓の視点で見た構図だ。左に入口ドアの枠線が描かれ、唯たちはその向うに描かれている。ライティングは顔面とその僅かな周辺だけに限定されて、日常的な描写としてはどこかしら不自然で、よそよそしさが強調されている。4ebd1ece.jpg廊下に立っている梓《外》、職員室に立っている唯たち《内》の対比が強調された場面だ。
続く場面では白と黒のトーンはさらに強くなり、色彩はほとんど完全に画面から消え失せる。首もとのリボンのレッドと、中庭向うのグリーンが僅かに識別できる程度だ。取り残されていく梓の孤独さがfc76310b.jpgdc57b3f5.jpg表現されている。
その後ティータイムを挟み、窓の前に集ってくる唯たち。梓は唯たちに取り囲まれて、孤独な心情がゆるやかに癒されていく。その前のモノトーンを強調した画面から一転して穏やかな温もりのある印象に変わり、さらに色が僅かに滲み出す効果が与えられている。
b7825e3f.gif色彩が梓の心境を語りだす場面は最終回『卒業式!』でも試みられている。左のカット(GIFアニメでのイメージ。クリックすると動画が始まる)は卒業式の直前、2年生の生徒が卒業生の制服に華の飾りをつけている場面だ。梓は卒業生の中に唯たちの姿を見つける。楽しげに笑っている唯たちを、遠くから見詰めている梓。その場面に入ると、色彩は白く溶け込むように漂白し、それまでの明るさからがらりと印象を変える。どうやら画面にホワイトトーンが被せられているようである(実際のアニメツールではどのように操作するかわからないが)。梓のモノローグはないが、何かしらの心情を感じさせるように演出されている。
c183d60b.jpg6838b155.jpg次も同じく最終回『卒業式』。最後の場面で唯たちが梓に歌を送る場面。これまでにない画面効果が使われ、暖色系のぬくもりだけが滲み出てくるような印象深い場面になった。去っていく者、残っていく82aaec49.jpgcdb5f1c7.jpg者、送る者、送られる者。音楽の効果もプラスになり、心情的な結びつきの強さが効果的に表現された。
『けいおん!』は物語として何も起こらない、起きようのない平凡さを題材にした作品であるが、だからこそ細かな心情の一つ一つを取りこぼさないように繊細な演出が施された作品であった。
0fab10d8.jpg作品とは無関係なところで「信者」と「アンチ」を大量に生んだ作品でもあった。
対立しているように見える「信者」と「アンチ」であるが、出発点は同じである。どちらも感情を出発点として、作品と向き合っていない。型にはめられた発想であるし、少しも理性的でない。(しかもアンチが攻撃しているのはイメージに対してであって実体ではない。シャドウボクシングご苦労さんといったところだ)。

0bd518e3.jpgアンチか信者か、それはつまり、感情だけで行動する動物的人間か、理性的に言語を操作する文明人か。『けいおん!』はそれを見分ける格好のリトマス試験紙だった。私からあえて言うとしたら一つだけだ「ちょっと冷静になれ」


ところで、日本のアニメ・漫画が描く世界のほとんどが中学・高校に限定されている。それはアニメ・漫画の受け手のほとんどが中学生、高校生だったからだ。学校はほとんどの人間が通過する場所だから、作り手として扱いやすい題材で、受け手としても入り込みやすく、共感を得やすい場所であった。それに、「主人公の年齢=読者の年齢」が近ければ近いほど、読者は物語の主人公に感情移入しやすくなる(これは年齢が過剰な社会的価値を持つ日本的な発想かもしれないが)。中学・高校生の読者にとって、学園漫画は自分たちにもっとも身近な話題であり、あるいは現実的な葛藤を笑い飛ばしてくれる痛快な娯楽であった。
だからアニメ・漫画の世界において『学園モノ』が一大勢力を持ち、『学園モノ』作品を大量に氾濫させる理由になった。
だが、いつからそうなったのかわからないが、『学園モノ』を取り巻く状況に変化が現れるようになった。漫画が同時代の学校の風景を描かなくなり、ある時代の風景のまま時間が停止してしまった。
漫画の中で描かれる学校には同代的な混乱や騒動はどこにもなく、あまりにも穏やかで現実的な葛藤のない異郷的空間になり、そのなかで主人公は能天気な恋愛に夢中になっている。
62ba1318.jpg『学園モノ』が中学・高校生の娯楽ではなくなり、さらにその上の世代に向けた《ノスタルジー》になった瞬間である。あるいは青春時代のやり直しとモラトリアムの回収を図る「願望」の産物に変わってしまった。もはや『学園モノ』は、中学・高校生に共感を求める娯楽ではなくなった。
d5835041.jpg時代はさらに進み、学校という本来的な意義は失われ、本格的にファンタジーと結びつき始めた。学校は悪の何某が根城にして、何かしらの陰謀ないし野望を企てる場所になり、主人公は学生ではなく正義のヒーローになった。もはや何の場所であるのか誰にもわからない(勉強するところである。念のため)
8d425633.jpgその末に登場したのが『けいおん!』である。『けいおん!』における学校は、ノスタルジーとファンタジーのさらにその向うに行く《イノセント》である。『けいおん!』が描き出した学校の風景は、あまりにも穏やかな静謐さに満たされていて、現実的な印象からあまりにも遠くかけ離れている。在籍している少女たちはみんな美しく、素行の悪い生51539a74.jpg徒は一人もいない。そんな少女たちがひたすらくつろいでいる姿が映像として続くと、あちらの世界が妖精の世界にすら思えてくる。豊郷小学校をロケーションにしたことで、『けいおん!』のイノセント的世界は単なる空想ではなく、現実的なパースティクティブを持ち、現実と空想の境界線を曖昧にさせてしまった。『けいおん!』は異郷的な深度43288800.jpgをひたすら進めていく『学園モノ』の最前線を突き進んだ作品である。
しかし、第2期『けいおん!!』が大テーマとして掲げたのは「卒業」である。夢のように思えた世界の終了。あの世界における時間は永遠ではなく、3年の猶予があらかじめ提示された有限のものであった。『けいおん!!』は『学園モノ』をイノセントとして深化させた末に、4804089e.jpg「終了」の二文字を叩きつけたのである。(追記:この記事を書いていた頃、筆者はまだ劇場版の情報を得ていなかった)
アニメ・漫画はこれからも『学園モノ』を作り続けていくだろう。ノスタルジーとモラトリアムを混濁した、「こうであるはずだった」「こうであってほしかった」学園生活の残像の物語が、その後もひたすら延長されていくのだろう。そして、その全ては『けいおん!』を越えられない。イノセントとしての学園モノの決定的なものが『けいおん!』の映像の中で描かれ、それは「卒業」という終着点に達してしまったからだ。どんな作家も『けいおん!』の前で立ち往生し、誰もイノセントを越えたその向うの風景を描けないだろう。
c88afb25.jpgアニメファンはお祭り騒ぎする作品が欲しかった――というのは押井守の言葉だ。
これはアニメファンの性格と欲望の実体を言い当てている。コミックマーケットは明らかに「お祭り」だ。ニコニコ動画でコメントを飛ばしあい、作品に擬似的に参加する行動も、どこかしらお祭り的狂騒のようなものを感じさせる。アニメファンはイベント好き、お祭り好き、限定もの好き、行列好きだ。「オタク」は「お宅」(引きこもり)ではなく、実際にはことあるご
3a9bfaf9.jpgとに外に出るチャンスを求めているのだ。
アニメファンは作品に品質や高度な批評を求めているのではなく、お祭り騒ぎの切掛けが
ほしいだけかもしれない。京都アニメが支持されるのは、京都アニメがお祭り騒ぎを起こす切掛けをよく知っているからかもしれない。「萌」も「ゆるい日常」も「ヒットするアニメ」の必須キーワードではないだろう。では何なのか、と聞かれるとわからないけど。
『けいおん!』の物語の中では何も目立った事件は起きない。第1期第1話において武道館を目標に掲げるものの、その目標に向って何かをするわけでもない。10代の若者にありがちな、「身の丈にあわない大きすぎる夢」としていつの間にか忘れられてしまった。普通の青春物語なら、プロを目指してなにかしらの活動をはじめていることだろう。そうすれば、その過程に起きそうな葛藤が物語の中心になるのだろう。
しかし、『けいおん!』は物語全体を通して何も起こらなかった。大きな事件は何一つ起きず、軽音部の結束を乱すような何かが起きそうな気配すらなかった。ただ当り前の毎日があり、その時間を過ごしていっただけである。ある意味、驚嘆すべき意外性である。
山田尚子監督は、CUT誌でのインタビューでこう発言している。
「普通の子にすごく興味があるんですね。たとえば『〇〇ちゃんってどんな子?』って訊くと、『いや、普通の子』って答えられたりすることってあるじゃないですか。『あの人ってどんな人?』『普通』とか……いろんな人に普通普通って言われているうちに、『普通って何?』と思って、“普通”を研究するようになって……(笑)。でも、結局、普通の子なんていないんですよね。みんな必ずどっかちょっと変だったり面白かったりして……って思って、よく見ているうちに普通の子ってめちゃくちゃ魅力的だな、と(笑)。普通って思われてる子の奥深さってすごいんですよ、なんでもいけるんですよね。だから、この子たちの許容範囲の広さもそういうことなのかもしれない。普通だからこそ、この子たちは優しいし、友だち思いだし、みんなのことを気にかけられるし。性格が悪い子とかいないですから(笑)。『普通、普通』っていっても私の目には普通には見えないんだよなぁ……と思いながら研究してきた結果が『けいおん!』なんだと思います(笑)」CUT NO.270 山田尚子インタビュー
平凡さをいかに描くか。普通の女の子を普通に描き、普通に学園生活を終えるまでの物語。そこそこに音楽の才能を持っているものの、決して「天才」というわけではない。誰もが体験したであろう、何一つ特別ではない当り前の青春物語であり、それでいてかけがえのない高校時代という時間。何も起きない毎日をいかに描き、エンターテインメントとして発表するか。そんな普通さに全精力が注がれた作品が『けいおん!』であったのだ(唯たちがプロデビューする展開もありえたかもしれないが、もしそうなった場合、唯たちは“現在の『けいおん』”のような学園生活をどこかで夢想するようになるだろう。唯たちではなく、ただひたすらに騒々しく、穏やかさや平穏さを失いつつある時代だからこそ、『けいおん!』に描かれた平凡さは、ある意味、全ての現代人に向けた“贈り物”ですらあるといえる。書き足し2010.11/15)
そしてその中に、監督の「あの子たち」への愛情がふんだんに注がれたわけである。普通の子だけどこうであってほしい。あの子はこんな格好でこんな顔をしてほしい。その逆に、あの子はこんなことは決して言わない。
普通の子というものに対する観察眼と同時に込められた思い、愛情、親心。その感情が『けいおん!』という作品全体に巡らされ、あそこまで穏やかな優しさに満たされたのだ。(ただ、監督の意識は最後まで「あの子たち」だったのだろう。等身大の少女というにはあまりにも幼い)
キャラクターたちに徹底的に感情移入し、愛着を抱き、作品を淫する。それでいて、決して性的には描かない。作り手によって完璧に創造された毒のない世界の中で、キャラクターたちは大切に保護され、愛情が注がれていった。
そんな監督が映像に込めた慈しみの想いを、見ている側も同時に共有し、キャラクターやあの部室の空間を愛でる作品である。ただただ優しさと愛情だけに満たされた、幸福な作品であった。
2557956a.jpgこの頃は個人の思想や嗜好を作品に押し出す傾向を嫌う傾向がある。「それは自己満足だ」と。公共性があまりにも強く作家を束縛し始め、ビジネス的な側面ばかりが重要視されえる。作家は大雑把な公共的という意見に翻弄され、作品から本来的な力強さが骨抜きにされてしまっている。過剰な公共性と商業主義が作品から個性と情念を失わせ、何となくありきたりな横並びのフレーズが溢れる状況を許してしまっている。
34f876dc.jpgむしろ芸術は個人作品の傾向をどこかに強く残し、その純度を守った上で商品として考えるべきではないだろうか。公共性と商業主義は作品の情念を殺してはならない。




あの少女たちは静かにあの場所を去ってしまった。
決して背伸びをしないで、身の丈にあった幸福のすべてを手に入れて、今という時間を全力で駆け抜けて行った。だからこそ少女たちは、煌びやかな輝きをその身にまとうことができたのだ。
目一杯遊んで大騒ぎして、できる範囲で努力もしたし、時には喧嘩もした。できることもやりたいことも全部やり終えると、全てが過去になり、少女たちの高校時代という時間はゼロに向っていく。
最後にちょっとだけ振り向いて、「おしまいだよ」とそう微笑んで去っていく。穏やかで煌びやかに輝いていた思い出とぬくもりをほのかに残して。



作品データ
監督:山田尚子 原作:かきふらい
シリーズ構成:吉田玲子 キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子
音楽プロデューサー:小森茂生 音楽:百石元 楽器設定:高橋博行
音響監督:鶴岡陽太 編集:重村健吾
美術:田村せいき 色彩設計:竹田明代 撮影監督:山本倫
アニメーション制作:京都アニメーション
出演:豊崎愛生 日笠陽子 佐藤聡美 寿美菜子 竹達彩菜




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