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■2010/10/04 (Mon)
評論■
ティータイムが終わるとき
2009年4月に放送開始したアニメ『けいおん!』は、業界の枠を越える大きな話題と熱狂的な愛好者を多数生み出し、制作会社に莫大な利益をもたらした作品である。2010年4月、前回放送開始からちょうど1年の時を経て、第2期『けいおん!!』が制作され、地上波放送された。
第2期『けいおん!!』はただ単純に第1期『けいおん!』の物語を延長した作品ではなく、多くの改善や修整が加えられ、さらに品質を深めた作品である。という以前に、第1期『けいおん!』はあの音楽準備室とその周辺の環境らしきものが漠然とした雰囲気の中で描かれただけであって、物語としての骨格はどこにもなかった。
第1期『けいおん!』を見直すと、あまり一貫しているとはいいがたいブレが多く見られる。例えば平沢憂が姉の唯に対してしっかり者、という設定は当初から見られるが、「お姉ちゃん好き」の設定はずっと後になってから出てきたものであった。第2話『楽器』と第4話『合宿!』の2エピソードで、唯に対して愚痴をこぼす場面がある(今となっては貴重な場面だ)。
第5話『顧問!』のエピソードで明らかになった琴吹紬の同性愛設定は、その後、目立った発展もなく完全に忘れられた。
さらに第10話『また合宿!』は第4話『合宿!』を梓を加えただけの繰り返しだ。
『けいおん!』の映像は、あの音楽準備室とティータイムの一時が中心に描かれ、それ以外の全ては漠然とした風景として後退してしまっていた。そもそも『けいおん!』という作品の中心軸は音楽室での一時が全てであり、唯たちが何か活動する物語ですらなく、物語の連続性やドラマの発生など何も期待されていない作品であった。ただ唯たちというキャラクターがあの空間の中に佇み、穏やかにくつろいだ表情を見せている――『けいおん!』という作品を解説するとそれが全てであり、だからこそ作り手はあの空間の設計にあらゆる技術と精力を注ぎ込んだ。
現実社会から峻別された竜宮城的空間、あるいは“空気”の構築。そこに変化が与えられたのが第2期『けいおん!』である。
作り手はまず、唯たちが在籍する3年2組全員を克明にデザインするという、アニメにおいては贅沢極まりない難題に挑戦し、「音楽準備室が全て」という閉鎖性からの脱却を図った。これが大きな効果を上げて、音楽準備室から教室、さらにその向うの世界へと唯たちが関わる社会の領域が増大し、物語の可能性が大きく広がった。
次に、『けいおん!!』の物語全体を貫く一つのテーマが出現した。《卒業》である。
音楽準備室でのティータイム、放課後の一時という、あまりにも満たされた幸福の時間の終了。ひょっとすると永続的に続くと思われた停滞した時間の終わり。
第2期第1話『高3!』の当初から、いつかやって来る「卒業」が意識され、物語はいつか終わってしまうこの時間というものに向ってゆるやかに時間を消費していくように描かれていった。
とはいえ、「卒業」のテーマが『けいおん!』という作品の本質自体を変化させたわけではなかった。そこにあったのは第1期から続く穏やかなティータイムの一時。物語を一変させる思わぬ事件が発生するわけでもなく、連続する物語に強い連帯はなく、やはり大きなドラマを作り上げるということもなかった。ただただ、物語の底流に「卒業」と「終わり」の予感をじわりじわりと忍ばせていく。物語作りとしてはあまりにも小さな伏線だが、これが後に物語の心情を強く刻印させる切掛けを作る。
しかし、唯たちは「卒業」をどこかで意識しながらも、その時間がいつまでも続く永続的なものと信じて疑わなかった。
第4話の『修学旅行!』の夜、旅行をたっ
第8話の『進路!』は「進路」がテーマになったエピソードであるが、
第12話の『夏フェス!』において、決定的といえる心情の変化が起
「これからもずーっと皆でバンドできたらいよね」
唯の何気ない言葉にメンバー全員が頷く。これを切っ掛けに、唯たちは「この時間がいつまでも続く」という確信に疑いを持たないようになってしまった。明日も、明後日も、来年も、今の立場や気持が永続的に続くように思い始めてしまった。
どの場面を見ても小さな心情の変化や積み重ねである。だがこの小さな感情的経緯が、第20話『またまた学園祭!』において、大きなクライマックスとして到達する。
――来年はもうない。
来年も、その次の年も永遠に続くと思っていた今という時間。しかし今という時間
その事実に対する自覚と迫り来る悲しみ。小さな感情的経緯の積み重ねが、驚くほど感動的な一場面を作りあげた。ライブシーンの見事さを含め、その後アニメ史において数十年語り継がれるであろう名シーンの誕生である。
(ところであのライブシーン。プログラムには30分とあった。だが実際に描かれたのは15分ほどである。前半「ご飯はおかず」と後半「U&I」の場面はノーカットであると考えると、アイキャッチのところで15分ほど省略されたという計算だ。あの狭間で確実に3~4曲前後の演奏があったはずである。DVD、ブルーレイで省略した15分を復元追加してくれないだろうか。ライブシーン・ノーカット版として。値段が3倍と言われても、何も文句言わずに買うのだが)
『けいおん!』は大きなドラマではないが、どこかのピースに収まる小さな物語の連続であるのだ。
学園祭の場面を乗り越えて、唯たちは改めて、卒業と進路に向き合うようになった。第21話『卒業アルバム!』においてようやく進学先を決めて、続く第22話では受験に挑んだ。第20話『またまた学園祭!』以前と比較すると劇的な心境の変化だったが、唯たちにとってあの学園祭が通過儀礼的なものとなって、心理的な変化を自然に促したのだ。
しかし中野梓は、唯たちの卒業をまだ現実的なものとして受け入れていなかった。
第2期『けいおん!!』にはもう一人の主人公がいる。言うまでもなく中野梓だ。卒業して去ってしまう唯たちに対して、たった一人取り残されてしまう梓。卒業を前にして今という時間を貪欲に消費する唯たちに対して、梓は唯たちから一歩距離を置き、というより決してあの中に立ち入れない立場として描かれてきた。
第2期の『けいおん!!』は誰の視点の物語なのか明快に描かれるようになった。第1期『けいおん!』にははっきりと主人公とわかる人物がなく、いったい誰の視点・モノローグで物語が進行しているのか不明であった(とりあえず、人物ではなく音楽準備室とティータイムという空間こそが主人公である、という見方もあるが)。
視点を大きく変える必要のある場合は独立したエピソードが作られるようになり、『けいおん!!』の物語は唯たちを主人公とするエピソードと、梓一人を主人公とするエピソードの2つに分けられた。
梓のエピソードは、いつも唯たちから一歩離れた視点で描かれる。梓にとって1学年の差は決して飛び越えられない一つの境界線で、唯たちと同じ立場には絶対に立てないのだ。そして、間もなく学校を去ってしまう唯たちに対して、梓は取り残されてしまう立場であった。
そんな梓の前に、不意に現実の唯たちが現れる。唯たちの登場に喜
唯たちに手を引かれて走って行く梓。しかし、突然に唯たちの姿が人ごみの向うに消えてしまう。顔を上げると、花火の硝煙が夜空に白く漂い広がっている。これはそのままの意味で、「煙になって消えてし
どうやら梓は、自分から唯たちに対して線引きしているらしい。第16話『先輩!』において、梓は
しかし梓は、まだ唯たちとの別れを現実的なものとして受け入れていなかった。唯たちとの結びつきがあまりにも強いから、卒業して去っていくことは理解できても、それが別れになることまで意識できないでいた。あるいは、意識しないようにしていたのかもしれない。
唯たちの別れを初めて意識したのは第22話『受験!』である。唯自身は自分たちがその場所を去っていくことを第20話『またまた学園祭!』で受け入れたのだけど、梓が唯たちの消失を明確なものとして意識したのは第22話が最初であった。
「卒業しないで下さい」
と本当の気持を口にする。
「卒業は終わりじゃない。これからも仲間だから」
卒業して去っていくけど別れではない。改めて結びつきの強さを確かめ合い、去っていく者、残されていく者の物語は終わりへと向っていく。
平均2万枚を越える作品には『とある科学の超電磁砲』や『Angel Beat!』などがあり、平均3万枚ヒットの『けいおん!』は特別大ヒット、というわけではない。
ちなみにキャラクターが使用した楽器や文具なども相当数で売れたが、これは京都アニメが特に広告費などをもらっていたわけではない。それはスポンサーを見ればわかる。未
『けいおん!!』というアニメを支えてきたのはキャラクターへの偏執的な愛着がすべてではない。アニメ作品としての基本的な質の高さが『けいおん!』の力強い基盤となっている。キャラクターだけで人気が出たと思っているならば、それはただの素人の発想であり、むしろその考えこそ偏執的である。でなければ、技術・美術のどちらも理解できていない凡俗である。

だが『けいおん!』における群集はどの場面も丁寧に描かれ、一人一人に細かな演技をつけて描かれている。場面によっては動画が加えられることもある。3年2組の教室の場面では、普通のアニメならその他大勢として大雑把に扱われそうなクラスメイトも一人一人デザインが書き起こされている。
『けいおん!!』は普通のアニメでは見せ場と考えられていない日常のアクションに動画枚数を多く消費されている。

普通の演出家なら、唯がギターケースを下ろそうとする場面でカットを切り、次の場面へ飛ぶか背景画でごまかす。そうしたほうがトータル枚数の節約になるし(枚数が増えるほど必要な予算が

実際にアニメーターを職業として経験した人ならばわかると思うが、アニメキャラクターの日常アクションというのは単純で、省略した形で描かれる場合が多い。手を上げたり下げたり、何かを持ったり……。後はマニュアル的な目パチ口パク、振り向きに歩き走りといったところだ。これも〔枚数=予算〕なので、演出家がエピソードごとの見せ場を見定めながら枚数調整を行っている。作画困難な動画を大量に発注したら、当り前だが締め切りに間に合わなくなる。だからこそ枚数管理が必要になるのだ。

しかも『けいおん!』の構図つくりはウエストサイズからフルサイズが多く、常に複数の人物がカットの中に映り、しかも周辺の空間も入り込むのでパースのごまかしが効きにくくなる。アニメに限らず映像制作は、俳優あるいはキャラクターの顔面クローズアップ、台詞だけで成り立つものであり、そういうやり方が作り手として一番楽で効率のいいやり方である(見栄えがいいかどうかは別問題)。それでも『けいおん!』のカメラワークは、あえてキャラクターから遠ざかり、周辺の空間を構図の中に収めて描こうとするのである。



それ以上に唖然としたのは左の動画である。通常の拍手の動きは「合成」を使って描かれる。「合成」とは、AセルやBセルというふうに分離不能な動画を一枚の動画にするために、動かない線と動く線を一枚の絵に結びつける技術である。ほとんどの場面の拍手はこの「合成」で描かれている(普通のアニメは拍手の動きを描かず、止めと拍手音でごまかすことが多い)。しかし左の動画はなんと全身運動である。拍手しているという微妙な動きに全身が釣られ、髪の毛が揺れる瞬間まで克明に捉えられている。ミリ以下の線の細かさで描かれた動画である。京都アニメの本気がわかるカットだ。
どれも日常的なアクションで見落としやすい場面だが、こういった場面にこそ作り手のこだわりと本当の実力が見えてくるのである。
全てのエピソードを大雑把に見てみると、画面の色調が微妙に変化しているのがわかるだろう。春は暖かな印象で、夏
物語の舞台が音楽準備室と教室、それからその周辺に限定されているからこそ、色彩の細かな調整が施されたのだろう(一つ一つのシーンをじっくり見るより、早送りで全体通して見たほうが効果の違いはわかりやすい)。
次のカットは職員室入口に集ってくる唯たちを梓の視点で見た構図だ。左に入口ドアの枠線が描かれ、唯たちはその向うに描かれている。ライティングは顔面とその僅かな周辺だけに限定されて、日常的な描写としてはどこかしら不自然で、よそよそしさが強調されている。
続く場面では白と黒のトーンはさらに強くなり、色彩はほとんど完全に画面から消え失せる。首もとのリボンのレッドと、中庭向うのグリーンが僅かに識別できる程度だ。取り残されていく梓の孤独さが
その後ティータイムを挟み、窓の前に集ってくる唯たち。梓は唯たちに取り囲まれて、孤独な心情がゆるやかに癒されていく。その前のモノトーンを強調した画面から一転して穏やかな温もりのある印象に変わり、さらに色が僅かに滲み出す効果が与えられている。
『けいおん!』は物語として何も起こらない、起きようのない平凡さを題材にした作品であるが、だからこそ細かな心情の一つ一つを取りこぼさないように繊細な演出が施された作品であった。
対立しているように見える「信者」と「アンチ」であるが、出発点は同じである。どちらも感情を出発点として、作品と向き合っていない。型にはめられた発想であるし、少しも理性的でない。(しかもアンチが攻撃しているのはイメージに対してであって実体ではない。シャドウボクシングご苦労さんといったところだ)。
ところで、日本のアニメ・漫画が描く世界のほとんどが中学・高校に限定されている。それはアニメ・漫画の受け手のほとんどが中学生、高校生だったからだ。学校はほとんどの人間が通過する場所だから、作り手として扱いやすい題材で、受け手としても入り込みやすく、共感を得やすい場所であった。それに、「主人公の年齢=読者の年齢」が近ければ近いほど、読者は物語の主人公に感情移入しやすくなる(これは年齢が過剰な社会的価値を持つ日本的な発想かもしれないが)。中学・高校生の読者にとって、学園漫画は自分たちにもっとも身近な話題であり、あるいは現実的な葛藤を笑い飛ばしてくれる痛快な娯楽であった。
だからアニメ・漫画の世界において『学園モノ』が一大勢力を持ち、『学園モノ』作品を大量に氾濫させる理由になった。
だが、いつからそうなったのかわからないが、『学園モノ』を取り巻く状況に変化が現れるようになった。漫画が同時代の学校の風景を描かなくなり、ある時代の風景のまま時間が停止してしまった。
漫画の中で描かれる学校には同代的な混乱や騒動はどこにもなく、あまりにも穏やかで現実的な葛藤のない異郷的空間になり、そのなかで主人公は能天気な恋愛に夢中になっている。
しかし、第2期『けいおん!!』が大テーマとして掲げたのは「卒業」である。夢のように思えた世界の終了。あの世界における時間は永遠ではなく、3年の猶予があらかじめ提示された有限のものであった。『けいおん!!』は『学園モノ』をイノセントとして深化させた末に、
アニメ・漫画はこれからも『学園モノ』を作り続けていくだろう。ノスタルジーとモラトリアムを混濁した、「こうであるはずだった」「こうであってほしかった」学園生活の残像の物語が、その後もひたすら延長されていくのだろう。そして、その全ては『けいおん!』を越えられない。イノセントとしての学園モノの決定的なものが『けいおん!』の映像の中で描かれ、それは「卒業」という終着点に達してしまったからだ。どんな作家も『けいおん!』の前で立ち往生し、誰もイノセントを越えたその向うの風景を描けないだろう。
これはアニメファンの性格と欲望の実体を言い当てている。コミックマーケットは明らかに「お祭り」だ。ニコニコ動画でコメントを飛ばしあい、作品に擬似的に参加する行動も、どこかしらお祭り的狂騒のようなものを感じさせる。アニメファンはイベント好き、お祭り好き、限定もの好き、行列好きだ。「オタク」は「お宅」(引きこもり)ではなく、実際にはことあるご
アニメファンは作品に品質や高度な批評を求めているのではなく、お祭り騒ぎの切掛けがほしいだけかもしれない。京都アニメが支持されるのは、京都アニメがお祭り騒ぎを起こす切掛けをよく知っているからかもしれない。「萌」も「ゆるい日常」も「ヒットするアニメ」の必須キーワードではないだろう。では何なのか、と聞かれるとわからないけど。
『けいおん!』の物語の中では何も目立った事件は起きない。第1期第1話において武道館を目標に掲げるものの、その目標に向って何かをするわけでもない。10代の若者にありがちな、「身の丈にあわない大きすぎる夢」としていつの間にか忘れられてしまった。普通の青春物語なら、プロを目指してなにかしらの活動をはじめていることだろう。そうすれば、その過程に起きそうな葛藤が物語の中心になるのだろう。
しかし、『けいおん!』は物語全体を通して何も起こらなかった。大きな事件は何一つ起きず、軽音部の結束を乱すような何かが起きそうな気配すらなかった。ただ当り前の毎日があり、その時間を過ごしていっただけである。ある意味、驚嘆すべき意外性である。
山田尚子監督は、CUT誌でのインタビューでこう発言している。
「普通の子にすごく興味があるんですね。たとえば『〇〇ちゃんってどんな子?』って訊くと、『いや、普通の子』って答えられたりすることってあるじゃないですか。『あの人ってどんな人?』『普通』とか……いろんな人に普通普通って言われているうちに、『普通って何?』と思って、“普通”を研究するようになって……(笑)。でも、結局、普通の子なんていないんですよね。みんな必ずどっかちょっと変だったり面白かったりして……って思って、よく見ているうちに普通の子ってめちゃくちゃ魅力的だな、と(笑)。普通って思われてる子の奥深さってすごいんですよ、なんでもいけるんですよね。だから、この子たちの許容範囲の広さもそういうことなのかもしれない。普通だからこそ、この子たちは優しいし、友だち思いだし、みんなのことを気にかけられるし。性格が悪い子とかいないですから(笑)。『普通、普通』っていっても私の目には普通には見えないんだよなぁ……と思いながら研究してきた結果が『けいおん!』なんだと思います(笑)」(CUT NO.270 山田尚子インタビュー)
平凡さをいかに描くか。普通の女の子を普通に描き、普通に学園生活を終えるまでの物語。そこそこに音楽の才能を持っているものの、決して「天才」というわけではない。誰もが体験したであろう、何一つ特別ではない当り前の青春物語であり、それでいてかけがえのない高校時代という時間。何も起きない毎日をいかに描き、エンターテインメントとして発表するか。そんな普通さに全精力が注がれた作品が『けいおん!』であったのだ(唯たちがプロデビューする展開もありえたかもしれないが、もしそうなった場合、唯たちは“現在の『けいおん』”のような学園生活をどこかで夢想するようになるだろう。唯たちではなく、ただひたすらに騒々しく、穏やかさや平穏さを失いつつある時代だからこそ、『けいおん!』に描かれた平凡さは、ある意味、全ての現代人に向けた“贈り物”ですらあるといえる。書き足し2010.11/15)。
そしてその中に、監督の「あの子たち」への愛情がふんだんに注がれたわけである。普通の子だけどこうであってほしい。あの子はこんな格好でこんな顔をしてほしい。その逆に、あの子はこんなことは決して言わない。
普通の子というものに対する観察眼と同時に込められた思い、愛情、親心。その感情が『けいおん!』という作品全体に巡らされ、あそこまで穏やかな優しさに満たされたのだ。(ただ、監督の意識は最後まで「あの子たち」だったのだろう。等身大の少女というにはあまりにも幼い)
キャラクターたちに徹底的に感情移入し、愛着を抱き、作品を淫する。それでいて、決して性的には描かない。作り手によって完璧に創造された毒のない世界の中で、キャラクターたちは大切に保護され、愛情が注がれていった。
そんな監督が映像に込めた慈しみの想いを、見ている側も同時に共有し、キャラクターやあの部室の空間を愛でる作品である。ただただ優しさと愛情だけに満たされた、幸福な作品であった。
あの少女たちは静かにあの場所を去ってしまった。
決して背伸びをしないで、身の丈にあった幸福のすべてを手に入れて、今という時間を全力で駆け抜けて行った。だからこそ少女たちは、煌びやかな輝きをその身にまとうことができたのだ。
目一杯遊んで大騒ぎして、できる範囲で努力もしたし、時には喧嘩もした。できることもやりたいことも全部やり終えると、全てが過去になり、少女たちの高校時代という時間はゼロに向っていく。
最後にちょっとだけ振り向いて、「おしまいだよ」とそう微笑んで去っていく。穏やかで煌びやかに輝いていた思い出とぬくもりをほのかに残して。
作品データ
監督:山田尚子 原作:かきふらい
シリーズ構成:吉田玲子 キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子
音楽プロデューサー:小森茂生 音楽:百石元 楽器設定:高橋博行
音響監督:鶴岡陽太 編集:重村健吾
美術:田村せいき 色彩設計:竹田明代 撮影監督:山本倫
アニメーション制作:京都アニメーション
出演:豊崎愛生 日笠陽子 佐藤聡美 寿美菜子 竹達彩菜
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