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■2010/07/20 (Tue)
アニメが愛した音楽、音楽が愛したアニメ

CUT『けいおん!』特集『CUT』は度々アニメ特集を企画する。しかし、取り上げられた作品は「すでに世界的名声を得た」作家か、微妙に最先端から遅れた作品ばかりであった。それは『CUT』に限らず、その他の多くのメディアにも同様に言える。メディアで「いま話題の……」と取り上げられる作品や作家というのは、ほとんどがアニメコミュニティ内で沈静化しかけた、ムーブメントが去りかけた、あるいは完全に過ぎ去ってしまった作品ばかりだ。
だが、今回『CUT』が取り上げたのは、まさかの『けいおん!』だ。現在もっとも大きな話題の中心であり、しかもまだ放送中で、今まさにムーブメントが激烈な勢いで動いているこの時期で、である。
インターネットのニュースサイトでは、『けいおん!』が取り上げられることは多い。だがその多くはからかい半分――いや、からかい全部であり、冷やかしである。作品についての解説や、真摯な批評、分析はなく、作品解説から意図的に外した傍流――有り体にいえば、「こんなオタクがいますよ。皆さんどう思いますか?」という見世物小屋的な扱いかたである。もっとも、大きなメディアほど、真面目な批評や解説など期待できないのは仕方のないことだが(大きなメディアにできるのは、せいぜい芸能人の私生活を一般人に暴露することだけである)
作り手がどんな意識で作品と向き合っているのか。『CUT』ではお得意の制作者インタビューで、作り手の思想、精神を直裁的に訊ね、作品の内面的構造をあぶりだそうとする。
ところで、特集テーマは『アニメが愛した音楽、音楽が愛したアニメ』となっている。最近、際立った傾向を見せているアニメ音楽。「アーティスト」ともちはやされた作家達の音楽に翳りが見え、その隙間に飛び込んでくるように大きなムーブメントを起こしつつあるアニメ音楽。かつてはアニメのおまけ的産物であり、オリコンなどのランキングでは相手にすらされなかった。それが今では、上位ランクをほぼ独占。それまで興味も関心も見せなかったメディアも、嫌でも目を向けざるを得ない、気付かない振りをしているわけにはいかない状況が生まれつつある。
『CUT』は『けいおん!』を中心としつつ、最近おおきな話題となったアニメ作品、それから声優を取り上げる。『Angel Beats!』と水樹奈々である。それから音楽業界から見たアニメ音楽の流行、という興味深い記事もある。
正直なところ、大きな特集とするには役者がすべて揃ったとはいいがたいが、アニメ雑誌以外の雑誌だと思うと、なかなかのチョイスであるといえる。
ほとんどの批評(らしきもの)が作品と制作者を無視したところで、作品の表面的な印象を反笑い的に取り上げたものばかりであった。多くの批評もどきは、「あなた、本当は作品見てないでしょ?」と訊ねたくなるものばかりで、最終的に、読者を「けしからん!」と煽り立てたいだけである(日本人は「けしからん!」論調それ自体が大好きで、そのための燃料を提供しているだけ、という見方もあるが)
そんな最中だからこそ、『CUT』は余計な偏見を持たず、制作者に直撃する。ページ枚数に対して、記事のディティールが浅く、散漫な印象もあるが、『CUT』らしい視点そのものが興味深く、読んでみるべき内容になっている。

以下、記事中からの抜粋


■ 小森茂生(音楽プロデューサー)×Tom-H@ck(作曲家)

――振り返っていただくところから始めようと思うんですけど。『けいおん!』の立ち上がりのときは、そもそもどんな音楽をやっていこうというお話のもとスタートしたんでしょうか?
小森「まず、僕自身で言えばアニメの仕事は初めてだったんですよ。そんなこともあって、あまりアニソンっていうことを意識しないでいいんじゃないのっていうところから始めて。とにかくかわいくて、カッコいい歌ものができればいんじゃないかなっていうのが最初のコンセンサス……っていうところはありましたね。だからわりと制約は少なかったですよね。最初から絶対こうしなきゃいけないっていうことはなかたので、のびのび……やったでしょ?」
Tom「あ、そうですね、のびのびやらせていただきました」

――そうやって生まれた“Cagayake!GIRLS”っていう楽曲が、第1期オープニングとしてバーンとながれるわけですけど。ある意味、この曲が『けいおん!』でその後発表されていく楽曲のスタンダードになったと思うんですよね。
小森「そうですね、やっぱりあれが全体の色を決めたところはありますよね。あの曲を基本に、じゃあエンディングはこうだろう、じゃあキャラクターイメージソングはどうだっていう、ガイドラインができたっていう。そういう意味では、ほんとに基準になっているとは思いますね」
――それと、あのオープニングが素晴らしかったのは、それが最高のプレゼンテーションだったっていうことですよね。あの曲がアタマに流れることによって、「今からこのアニメで流れてくる音楽っていうのは、これまでのアニソンとちょっと違うんですよ」という。そういう意識が刷り込まれてしまうという。
Tom「興味深いなあ」
――だからそれ以降、みんな期待してエンディングを聴くし、期待してキャラクターイメージソングを聴くし。そして、その高い期待にことごとく応えてくれる楽曲が連発されてきたという。そういう構造があって、「『けいおん!』、めっちゃくちゃ面白いじゃん!」っていう空気がどんどん強くなっていったという。
小森「ただ、たとえばオープン、エンドで面白いものができた。次、挿入歌と、イメソンも面白いものができた。だけど、結局、どれも面白いと感じられるものを作るってことで精一杯だっただけなんですよ。だから、コンセプトとして、何かをやっていこうっていう意識ではなかったですね。まあでも、今考えると大きなコンセプトはあったんですけどね。ただ、それは個々の作品という括りではなかった。全体を統一するものとしての括りでしたね」
――それは、とにかく面白いものを作っていくという?
小森「そう、かわいいけどカッコいいもの。あと唯一、絶対はずせないのはキャラですよね。このキャラでこういうことはやらないだろう、このキャラでこういう詞は歌わないだろうっていう意識はやはり絶対の制約としてはありました。それ以外の、たとえばサウンド的な部分とか、そういうところはほとんど自由にやらせてもらってる感じですけどね」


■ 山田尚子(監督)

――第1期が始まって、とにかく衝撃を受けたんですね。まず軽音楽部だっていうのに、音楽をほとんどやらない。それと、基本的に何も起こらない。あともうひとつ、ある意味で弛緩した時代の空気を反映した作品なのに、自分探しをしない。これは衝撃的だったんですよ。
「それはきっと原作者(かきふらい)さんが狙ってらっしゃるんだろうなとは思うんですよ。ほんとに演奏してるシーンもないし……ヤマ場の学園祭でも『イエーイ!』で、ひとコマで終わったりするんですよ。なので、音楽を見せる作品じゃないっていうのは原作を読んだ時点でわかっていて。基本的には、あっけらかんとした女子高生たちなんですよ。彼女たちが音楽を始めたきっかけも、とにかく音楽が好きで始めたというわけじゃないし、それをブラしてはいかんとは思ってまして。……だから音楽ファンの方に観てますって言われるたびに固まります。ごめんなさい、大丈夫ですか?っていう(笑)」

――『けいおん!』のすごさのひとつに、いわゆるコアなアニメファンだけじゃない層にこの面白さを届けたということがあって。それこそ、普通の高校生が「お前誰が好き?」みたいなことを話しているという。そういう現象が、今、日本中で起こっているんですが、監督自身はこの現象をどう感じているんですか?
「とりあえずアニメ特有の敷居の高さみたいなのはなくしたかった、というのはあります。キャラクター性がばっちり決まってて、この子は心に傷があってとか、いろいろあってもいいと思ったし、一般人としてアニメを観るときに気になる部分とか、これはちょっと入れないなと思う部分とか、自分がアニメに対して感じる気持を一生懸命積んでいった感じですかね。誰でも観れる、楽しめる作品を――ほんとにちっちゃい子から大人まで観てもらえる作品にしたいなと思って。だから、小難しい考え方とか、言い出したらたくさんあるんですけれども、もっと素直に楽しめるものは何だろうかっていう観点で作ってます。もちろん、計算も必要だし、考えたりもしますけど、それが前面に出ては面白くないし、作品から幸せのオーラというか、ハッピーなものが出てればいいんじゃないかなと。そこに終始、エネルギーを注いでいる感じでしょうか」

――面白いのは、この子たちが極めて“普通”であるということで。普通の子たちなのに、奥行きがあって、キャラクターとしての器がでかくてという。なんなんでしょう、これ(笑)。
「普通の子にすごく興味があるんですね。たとえば『〇〇ちゃんってどんな子?』って訊くと、『いや、普通の子』って答えられたりすることってあるじゃないですか。『あの人ってどんな人?』『普通』とか……いろんな人に普通普通って言われているうちに、『普通って何?』と思って、“普通”を研究するようになって……(笑)。でも、結局、普通の子なんていないんですよね。みんな必ずどっかちょっと変だったり面白かったりして……って思って、よく見ているうちに普通の子ってめちゃくちゃ魅力的だな、と(笑)。普通って思われてる子の奥深さってすごいんですよ、なんでもいけるんですよね。だから、この子たちの許容範囲の広さもそういうことなのかもしれない。普通だからこそ、この子たちは優しいし、友だち思いだし、みんなのことを気にかけられるし。性格が悪い子とかいないですから(笑)。『普通、普通』っていっても私の目には普通には見えないんだよなぁ……と思いながら研究してきた結果が『けいおん!』なんだと思います(笑)」


■ 豊崎愛生(平沢唯役)

――『けいおん!』のすごいところとして、音楽との相乗効果がありますよね。この現象的な盛り上がりをメインキャストのひとりとしてどういうふうにご覧になってるんでしょう?
「わたしとしては、『おめでとう、よかったね』っていう気持ちのほうが強いんです。自分だけど自分じゃないなあみないな感じで。この子たちはアニメのキャラクターであって、つまり2次元なんですけど、聴いてくれてる方たちにとっては、この子たちが実際にいて、軽音部をやっているんだっていうふうに思っていただけたら大成功なわけですよね。聴いてくださる方が、豊崎愛生じゃなくて、唯ちゃんが生きていて、歌ってるって思えるように歌えたら、それが一番だと思いますし。そういうことをずっと考えていると、1位をいただいたときも、『唯、よかったねえ』みたいな気持が強くて(笑)。不思議な感覚ではありますけどね」

――実際、第1期の5人の空気感がなければ、絶対に作れなかった曲だと思いますけどねぇ。
「でも制作スタッフさんたちは、『誰にも歌えないような曲を作りたいんですよねえ』みたいなことを言ってたんですよ。「え? じゃあわたしのことはなんだと思ってるんだ』って話なんですけど(笑)。“誰も”のなかにわたしは入ってないのかしらって(笑)。でもスキル的なことも、キー的なことでも、唯ちゃんになると上が出るんですよね(笑)。豊崎愛生だと“GO! GO! MANIAC”は歌わない――歌わないっていうか歌えないんですが、唯ちゃんをフィーチャリングすることによって楽しく歌えるし、出ないキーも出るようになるし(笑)。それはほんとに不思議ですね。ぶっちゃけちゃうと、わたしも歌えるとは思わなかったですから(笑)。でも、歌えると思ってなかったのになんとかできちゃったっていうことは、やっぱりキャラと作品が助けてくれているのかもしれないなあと思います」


■ 麻枝准(『Angel Beats!』原作・脚本・音楽)

――『Angel Beats!』は第1話の放送時から、非常に大きなリアクションがあったと思うんですが、麻枝さん自身、これまでの反響をどう捉えているんでしょうか?
「まあ、ものすごかったですね。第1話のときは、(Girls Dead Monster=ガルデモの)アルバムを録るために東京でホテル暮らししてたんですけど、もう評価が散々で(笑)。まあ、オリジナルアニメっていうのはとにかく注目を集めなきゃ観てもらえないので、とにかくすげえおもしろいものを作ってますよって、自分が矢面に立って頑張ってきたんですけど、それが仇となって、集中砲火で叩かれまくりまして(笑)。もうすさまじかったですよ。アニメファンのみならず、アニメ業界全体を敵に回してしまった、とんでもないことをしてしまった、と思いましたから」

――これだけのクオリティのアニメーションで、CDセールスもあってって、まあ普通に考えれば大成功ですよね。音楽は音楽で、その上位概念としてシナリオ、ストーリー、アニメの全体像があるっていうことが如実にわかるお話なんですけども。
「だから、アニメを作るっていうことになって、やっぱりアニメをいっぱい勉強したわけですよ。そうすると、最初はおもしろかったけど、尻すぼみになっていく作品がどうも多いらしくて。それは何か残念だなあみないな作品がたくさんあるので、そうはならないように、終盤に畳みかけてどんどんおもしろくなってくるように書いてるつもりなので、だからやっぱりそこは勝負なんですよ。最初の雰囲気はよかったけどねぇ、みたいな作品はやっぱり、何というか、隠れた名作で終わっちゃいますよね。最初から最後まで全部がよかったときに名作になるんであって。で、今回、どんだけの人が携わってくれてて、どれだけ心血注いでやってくれてるのかとか、そういうマンパワー的なところも考えても、やっぱり本当に成功させなくちゃダメだっていう使命感が自分にはあって。だからまあ、最後はああだったけど、まあ途中受けたからいいじゃんかとか、音楽売れたからいいじゃん、じゃなくて、『Angel Beats!』はちゃんとみんなの心に残っていくぐらい、いい作品に、13話が終わった時点でならなけりゃダメだっていう、すごい使命感があって。だからほんとに最終回が終わってから感想を見たりとかして、それで落ち着けるかどうか。そこまではまったく気が抜けないですね」※インタビューは作品放送終了前である。

――そこで振り返っていただきたいんですけども。両方やり始めた経緯っていうのは、「俺はふたつ、おもしろいこと考えてんだよ」じゃなくて、仕方なく足してみたっていう感じだったんですか。
「音楽を作っている、要はコンポーザーっていう職業の人たちは、感動できる曲がほしいんだ、ここで泣かせたいんだっていう曲を発注しても、切ない雰囲気の曲が上がってくるだけなんですよ。確かに切なくはあるけど、それ以上にはグッとこないっていうのがあって。それは何かっていうと、結局のところメロディなんです。確かに雰囲気には切なくなっているけど、もっといい曲が流れたら――つまり、もっといいメロディが流れたら、もっと感動できるんじゃない?っていうことが自分のなかにはずーっとあって。で、『じゃあ』っていうんで、自分で書いてみたら、やっぱりよりよくなった、みたいなところから始まってるんですよね」


■ 石原真(NHK「MUSIC JAPAN」プロデューサー

――『けいおん!』関連シングルが1、2位を獲り、『Angel Beats!』のシングルも4枚全部がトップ10ヒットになり、水樹奈々さんも売れまくっているという。まず、これ新しい現象ですよね?
「現象です。恐らくみんなが知らないところでいろんなことが起きてます。たとえば牧野由衣がフランスとロンドンで公演をして、昨日帰ってきたわけです。この間、栗林みな実もメキシコ行ってました。麻生夏子がパリに行くとかね、もう普通のこと。まったくの新人ですよ、アーティストとしたら。しかも、海外のテレビでオンエアされてもいない曲を、吹き替えでもなく、世界中の若者が歌っているという。“ハレ晴れユカイ”なんて世界中の若者のアンセムですよ。もしかしたらオアシスよりも有名なんじゃないかな」

「ということが複層的に起きていって。それはあくまで個人的な趣味の段階でしたが、私はJ-POPの番組をやっておりまして。チャートアクションを見ていて、さすがにこれは地上波の音楽番組の中でも扱ってもいいんじゃいかなあと思ったわけですよ。ただ、もうおわかりだと思うんですけど、差別というか、上下関係というか、垣根がありましたよね」
――ありましたね。
「『ああアニメですか』『ああアニソンですか』っていう。それは、ファンこそ痛切に感じていたわけですよ。ファンは『俺達は虐げられた人民だけども、ほんとにいいものを応援しているんだ』っていう思いが10年前ぐらいからずっとあったんですよね。その垣根をなんとか取ろうという作業をしてきたんですけども。というのも、この人たち、ライブがあまりにも面白いんですよ」

――チャートアクションが象徴する現象もありますけど、根本はやっぱりクオリティが高い、面白い。今一番面白いものが、アニソン/声優カルチャーだということですよね。
「それがですねぇ。たとえば配信系のR&B女性シンガーが面白いかっていったら、うーん……」
――(笑)そうですよねぇ。
「ただ売れるよね。それはそれでいいんですよ。じゃあ、その感じはどこにあるかっていうと、シンガーソングライターと呼ばれる、あるいはアーティストという言葉が恐らく行き詰ってるんだと思う」
――ああ、なるほどなるほど。
「アーティストじゃないんですよ、シンガーだから、この人たち。18、19の小僧や小娘に、コンビニに行って携帯かけたらきみがいなくて寂しかったって歌われても、俺の心は打たないよっていう。それが今のポップミュージックですって言われても、それは違うでしょっていう。それが行きすぎちゃってるんですよ。ロックはいいんですよ。ロックって、自分が作って自分が演奏することだから。ロックをロックたらしめているのは、一代限りってことですよ。ビートルズの曲はビートルズしかやらない。ストーンズはストーンズしかやらない、フーはフーでしょっていう。ポップミュージックの場合は本来プロが寄り集まって作って、3分間の快楽を与える。ちょっと前までは小室(哲哉)さんがいたりつんく♂がいたり、良質なポップスがあったわけじゃないですか。もっと遡れば、松本隆が、筒美京平が、大瀧詠一がいたっていう。そのへんがね、最近つまらなかったってことなんでしょうね」

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■ 余談 思ったこと

ライブドアニュースのリアルライブに次のような記事が載った。

「“声優”から“タレント売り”という動き。アニメオタクの間ではすこぶる評判が悪い。20代後半位までのアニオタの人はご存知かもしれないが、声優兼アニソン歌手から転向する為にアーティスト宣言をした椎名へきるの例がある。その後、椎名へきるはアニメから入った旧来のファンに見放され、新規ファンも思うように獲得出来ず、結局元の鞘に戻っても人気が回復しなかった。
現在は“声優のアイドル売り”も活発になり、ファンの間にも免疫ができれているかもしれないが、アニオタ、声優オタというのは見放された時の熱の冷め方がアイドルオタより大きい傾向がある。あまり露骨にやると批判は必至だろう」(誤字などは原文ママ)
出典→【邪推サブカル見聞録】声優・平野綾タレント業に専念は危険すぎる!?

もし、本気で書いたつもりの記事なら、「無知」か「悪意」のどちらかだろう。
タレント転向した椎名へきるがあまり支持されなかったの理由は、それは椎名へきるがあまりにも歌が下手だったからだ。それこそ「1000年の恋も冷める」というくらいの下手さで、そこそこのルックスだから支持されたものの、飽きられて当然だった。結果的に、声優演技の評価まで落とすことになり、それで業界からフェードしてしまったのだ。
当時、アニメ声優が集まってのイベントなんて、各地でバンバンやっていたので、アニメファンにはとっくに「免疫」はできあがっていた。別にタレント売りしていても、聴き続けていられるだけの実力があれば是非もない状況だった。
単に、当時の声優ブームには人気を支えられる実力を持ったスターがいなかっただけである。しかも層が極端に薄かった。いわゆる第2期声優ブームと呼ばれる声優といえば、椎名へきると国府田マリ子と……それで弾切れだった。実力が中途半端で層が薄ければ確実に失速する。何もかも、当然の話だった。

ところが、今の声優ブームは少し違う傾向が見て取れる。実力の幅はさておくとして、層が非常に厚いのだ。
今回の『CUT』誌上では、水樹奈々、田村ゆかり、堀江由衣、それから坂本真綾、スフィアといった声優が取り上げられていた。誌上で挙げられなかった人たちの名前を挙げると、新谷良子や野中藍、ほとんど乱入のような形で入ってきた大槻ケンジもいる。それから、見逃せない男性声優も多数いることも忘れてはならない。
10年前の声優ブームと比較して、明らかに違うのは、この層の厚さである。
一般的なアイドル、タレント業界であると、そこそこに人気が出て社会的地位が高くなると、才能がとっくの昔に枯渇していても、ちやほやしてくれる。テレビ番組では、「かつて偉大だった芸人」を中心に、視聴者おいてけぼりの喜び組状態が作られてしまう。
だがアニメには、他のカルチャーと違って、容赦のない厳しい批評性がある。
象徴的なのは、作品ごとに必ずオーディションがあり、実力のない、キャラクターに合わない声優はことごとく切り落とされるシステムがある。事務所のごり押しで、原作設定を無理やり変更してでもタレントを押し込もうという考え方はアニメにはない。第一に作品ありきなのである(当り前のシステムな気がするが、ドラマでは普通ではなく、タレント優先で、次にシナリオという順序になっている)
それに、作り手が常に、「これまでと違う声優を」と新人発掘に熱を注いでくれている。毎年アニメ声優に新人デビューは多く、そこで実力が評価されれば、確実に次の段階に進められるようになっている(もっともこの場合、アニメ自体の完成度・人気にかなり影響されてしまう欠点はあるが)
人気がなくなればベテランでも切り捨てられるし、実力がなければ顔が可愛くても容赦なく追い出される。ちゃんと実力と人気の双方が評価されるのがアニメの業界であり、アニメの批評なのだ(「熱の冷め方がアイドルオタより大きい」というのではなく、実力を示していかなければならないだけの話だ)
それに、新人発掘の意欲も強い。『CUT』誌上の石原慎インタビューでは、水樹奈々、田村ゆかり、堀江由衣の次に来る人がいない、という苦言があるが、アニメ自体が方向を間違えなければ、新人はまだまだ出てくるし、今のブームは当分、磐石であると私は考えている。

懸念があるとすれば、アニメの業界自体の脆さだ。
声優ブーム自体はまだまだ勢いがあるとは思うが、それを支えるアニメの業界それ自体はどうであろうか。この頃はブルーレイを初めとして、アニメは凄まじい勢いで売り上げを伸ばしている――ように思える。経済的にもかなり持ち直し始めているのではないか、と。
だが現場を支えているのは、ほとんどが古参兵と呼ばれるアニメーターたちである。もちろん、若手のアニメーターの中に際立った才能の持ち主もいる。アニメ学校を入学希望する人は後を絶たず、新しい才能はどんどん業界に入ってきている。
それでも足りないのだ。アニメの業界を支えるには、まだまだ充分ではない。
それに、最近のアニメはそこそこに絵を描く力はあるのだが、物語を構築する能力が明らかに弱い。麻枝准のインタビューに「尻すぼみになっていくアニメが多い」という指摘があるが、それは物語全体を俯瞰して統括する力や考え方が欠落しているからだ。最近のアニメの傾向だと、キャラクターやその周辺となる空間はしっかり設定しているが、その先に見えてくるものが何もない――構想不足のまま、作品制作だけが進行してしまっている、という状況だ。どのように物語を展開させるのか、そのプランがしっかりイメージできていないのだ。
若手アニメーターの実力がおぼつかず、物語を書ける作家が確実に不足しつつある。各アニメ会社(ジブリ、IG、東映、京都アニメ)で、今もっとも重要課題として“教育”を挙げているのはそういう理由だ。(半分ジョークで書くが、ピクサーと交換留学したらどうだろうか。ピクサーがどのような教育制度をとっているか、ちょっと訊ねてみたい)
それに、政府の動向も見逃せない状況になっている。いま政府レベルでのアニメ、漫画の話題といえば、業界とはまったくベクトルの違う「規制」についてだ。日本のアニメから表現の力を奪い取り、中国や韓国に「一番」の座を積極的に譲り渡そうと画策している(家電を持って行かれ、ブランド牛を持って行かれ、次はアニメ、漫画――娯楽文化である。これはもっと大きな声で意義申し立てしてもいいのではないだろうか)
現在の声優ブームの基盤になっているのは、あくまでもアニメそのものの面白さである。アニメの面白さ、質の高さがあって、その次に声優の人気がある、というのが今の図式だ。
だが、アニメのクオリティは間もなく維持不能になってしまうかもしれない。もし声優ブームが鎮火することがあったら、それは声優自体に何か懸念があるのではなく、アニメの業界自体がポッキリ折れてしまう危うさにあるのではないだろうか。

話は変わるが、今の声優ブームを踏まえて、ひとつ提案したいと思っている。
アニメ映画のキャスティングに、素人の芸能人を起用するのをそろそろやめるべきではないだろうか。
アニメ映画に素人同然のタレントを起用する理由はわかる。例えば、アニメ声優を中心にキャスティングしても、ほとんどの人は興味も関心も示さないだろう。人によっては声優と聞くだけで「オタク・キモイ」というような反応を見せる者もいる(刷り込みである。なぜ「キモイ」のか理由を訊ねても返ってこない場合が全部)。それが一般的に知名度が高いとされる芸能人、タレントを起用すると、ある程度の印象が変わる。
ほとんどの一般人というのは、作品批評ができない。アニメの素養がない人に、いくら上等な動画を見せても、なんとも思わない(毎月のようにテレビで宮崎駿の素晴らしい動画を目にしているのにも関わらずに、だ)。ほとんどの一般人というのは、権威がまず上にあって、次に好意を抱けるか、最後に批評的な意識がやってくる。つまり、《権威→感情→批評的な何か》という順序なのである。
アニメ映画を作るのは莫大な予算がかかる。アニメファンだけではどうしても予算の回収はできない。だからこそ、作品の質を犠牲にしてでも、芸能人、タレントを呼び集める必要があるのだ。
でも、そろそろその必要はないのではないだろうか。オリコン上位に、声優の音楽が平然と入ってくる時代である。人寄せのために、素人を映画に出演させる理由はもうなくなったのではないだろうか。時代はすでに変わっているのである。
例えば『シンプソンズ』のような老舗的なアニメで、これまでの声優の立場を無視してタレントを起用すれば、注目されるどころか、火にナパームジェルを注ぎ込むようなものである。タレントならば人が集まる、という期待は、もうそろそろ神話時代の過去になりつつあるのだ。

※ この辺りから、本題からずれてきます。
しかし、世間での意識を見ると、奇妙なねじれ状況が見て取れる。とっくに権威的立場を失っているはずの、テレビのタレントや、いわゆアーティストが世間でもっとも注目されている、という前提で何もかも語られている。アニメはその下であり、アンダーグラウンド的な立場で、何となく「公共性がない文化」と見做されている。アニメの音楽でいうと、何となく公共的な場所で聴いてはならない、という刷り込みがある。
アニメはかつてのように「少数派」ではなく、一部の熱狂的支持者ではなく、あらるゆ層にあまねく広がりつつある。おかしな言葉を使うが、「多数派マイノリティ」と呼ぶべき状況だ。そうした広がりを支えているのは、間違いなくアニメ自体のクオリティであり、テレビに出ているアーティストなどよりよっぽど完成度の高い仕事をしているからだ。
テレビや新聞といった大きなメディアがアニメを捉えると、なぜかアニメ自体から視線は逸れて、いかれた熱狂者をクローズアップさせる。いわゆるアーティストと呼ばれている人たちの中に、ああいった熱狂者が1人もいないとでも思っているのだろうか。もし、そう思っているしたら、素晴らしいほどにおめでたい。いわゆるアーティストと呼ばれる人たちの中にも、当然いかれた熱狂者はいる。表現者を支持する分母が大きくなればなるほどに、いかれた熱狂者の割合(分子)は増大する。それはあまりにも当り前の考え方だが、その考え方自体が大きなメディアは、あるいは社会そのものが見落としてしまっている。社会がアニメというものを論じようとすると、まずこの構図、【アニメ=いかれた熱狂者】という前提を語ろうと――いや、これを確認し合うことに終始し、作品自体を論じるに至らない。「テレビを見て現実を知らず」というやつだ。【アニメ=いかれた熱狂者】という前提が目くらましとなり、アニメという文化の存在を、一般社会の中で小さなものにしてしまっている。
テレビを中心とするタレントやアーティストたちは、自分たちが作品、批評、支持者層の全てにおいて、少数派に陥っている事実に気付いていない(このねじれ状態は、カルチャーだけではなく、流行、政治などあらゆる分野でも同様にいえる。うっかり政治の話題をブログですると確実に荒れるので取り上げないけど)。石原真のインタビューにあるように、「“ハレ晴れユカイ”なんて世界中の若者のアンセム」という状況になっているのだ。日本人だけが、その流行の力強さを知らず、大きなメディアは冷やかし気分でアニメを取り上げ、アニメファンは自嘲と自虐で周囲の関心を得ようとしている。
テレビは現実を見ようとせず、「自分達のほうが上のはずなんだ。テレビでやってるから有名なはずなんだ」というプライドだけをしつこく主張しようとする。そのテレビを熱心に支持する人たちは、自分たちが上であるという滑稽な確信を惨めにしがみつき、アニメの制作者や支持者を「オタク・キモイ」と憶えたての日本語のように連呼しているのだ。「ダダ滑りしているのはあいつらだ」という保障を社会がしてくれているように思えるが、実際にダダ滑りしているのは、盲目的にテレビの刷り込みを信じている哀れな愚か者たちのほうだ。
現実での立場は逆転しつつあると知らず、あるいは作品自体のクオリティはとっくに追い抜かれていると知らずに。

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