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■2010/08/10 (Tue)
評論■
3・余談:父性に取り囲まれた物語
『鋼の錬金術師』は父親に取り囲まれた作品であると言える。主人公のエドとアルを中心に、これみよがしな父性のイメージが取り巻き、そのなかで主人公の成長物語が描かれている。実は典型的なエディプス・コンプレクスの物語である。
お父さま(ホムンクルス):エドとアルの父親、ホーエンハイムと同じ顔を持っている。エドの記憶の中にある、厳しい一瞥を向ける離別の場面。無条件に厳しく、冷酷な父親の側面(というエドの思い込み)のみを分離した姿がお父さま(ホムンクルス)である。
このお父さま(ホムンクルス)がエドのもっとも大きな敵対者として立ちはだかることで、『鋼の錬金術師』はエディプス・コンプレクスという本質を明快にさせている。
イズミ:母親を失ったエド、アルの前に現れる人物。女性であり、イズミ自身、子供を亡くした母親であるから、普通に考えれば母性の回復のために設定されたキャラクターと見做すのが妥当だが、イズミにびっくりするほど母性、もっといえば女性的なものを感じさせない。むしろその激烈な性格は、男性的、父性的な印象が強く、実際、エドとアルの戦いの師匠を務め、あるいは人生哲学の教育者にもなる。
シグと一緒のときは、ほんの僅かな女性性の断片のようなものを見せるが、残念なくらい女性的なものを感じさせない。男性が女性の振りをしている、というようにすら見えてしまう。そのシグだが、印象はぼんやりしていて、父にも母にもなっていない。イズミの添え物である。
ルックス、プロポーションは申し分ないのだが、イズミには女性性が完全に欠落している。エド、アルにとって、男性的、父性的な存在だ(インドの神話に登場する、女神カーリー的なものと考えればいいのだろうか?)。
オリヴィエ・ミラ・アームストロング:アレックスの姉であり、北方指令軍ブリッグズの守護者。ルックスは問答無用の美貌を放っているが、イズミをさらに濃厚にした激烈さを備えた人物である。
イズミから卒業し、新たな局面を迎えたエド、アルの新しい教育者として登場する。オリヴィエのイメージは震え上がるほどに苛烈で、その強烈さでエド、アルに戦いの過酷さ、非情さを指導していく。エドとアルは、オリヴィエと接することで、さらなる段階へと成長していく。
アレックス・ルイ・アームストロング:オリヴィエの弟で、長身で筋肉逞しい体を持つ。見た目は男性性そのもののような力強さを持っているが、奇妙なことに、作品における数少ない母性的な存在である。
アレックスは母性的な存在として、エドとアルの庇護者となり、危険な旅を優しく見守り、時に
アレックスの筋骨隆々のイメージと対立する母性。これは荒川弘特有のユーモアなのだろうか、それともそういうものを好む性格なのだろうか。
ホーエンハイム:エドとアルの父親。エドのイメージ内にある、冷酷な側面をホムンクルスと分割した後に残された姿である。成長したエドがようやく人間として向き合えるようになった父親がホーエンハイムであり、イメージの中で肥大化した冷酷さを取り払った本当の父親こそがホーエンハイムだ。
実際、物語中に描かれるホーエンハイムのイメージは、エドの成長段階に合わせて、問答無用な厳しさから、ゆっくり氷解していくように人としての温かさや曖昧さが現れるように描かれている(一方でホムンクルスのお父さまは、最後には「父親」という「化けの皮」が暴かれて、まったくの別人に姿を変えてしまう。この時点では、エドはもう父親を倒すべき相手と捉えなくなっている)。
エドのイメージ内にあった冷酷さが取り除かれてからは、ホーエンハイムは厳しさも優しさも両立する一人の人間として描かれるようになった。年長者としての強さと、人間としてのユーモア、優しさ、弱さも現れている。上に挙げた激烈な男性性と比較してみると、ホーエンハイムは驚くほど人間的に描写されているのがわかる。
『鋼の錬金術師』の本質はエディプス・コンプレクスである。しかし、ただ父親と対峙し、撃破する物語ではなく、主人公の成長段階で父親をどう捉えられるようになるか、あるいは最終的に受け入れられるようになるか、が主題と見做すことができる。
父親的な存在を撃破し、最終的に美女とのキッスを手に入れる西欧的な物語と比較すると、阿闍世コンプレックス(Wikipedia:阿闍世コンプレックス)的な日本人(アジア人?)の本質的な性格が作品に込められている、と見ることもできる。
前回:基本の構造を作る
次回:物語の全体像を作る
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