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■2010/08/11 (Wed)
6・伏線の作り方

最近の多くのアニメで失敗し、困難に思われている要素に「伏線」がある。伏線をどう配置するのか、どのタイミングで提示すべきなのか、これが難しく考えられている。
単純に答えを示せば、「物語の中における解説」と同じように提示すればいいのである。つまり、主人公が体験する過程そのものが「解説」であると同時に、「伏線」であればいいのだ。
もしや伏線と言うものを思わせぶりに予告する台詞やアクションのことであると捉えていないだろうか。確かにそういうわかりやすい伏線も存在するが、それは効果的ではないし、伏線というものの利用方法の全てでもない。
ここでは、伏線の2つの活用法方を提示しておく。
1・物語を次に移すための準備段階としての伏線
2・物語の最終局面に必要な要素を準備するためのもの

『鋼の錬金術師』における伏線は、物語のなかで主人公が体験すべきものとして描かれてきた。例えば「コーネロ→賢者の石」、「スカー→イシュバール殲滅戦」。物語を解説すると同時に、物語領域を拡張するための準備段階として伏線が活用されてきた。だから、伏線とは物語の過程の中に、それとなく配置していくのが正しいやり方である。
また、伏線は物語の続きを予告するためではなく、物語の最終局面に向けて物語を補強するものである、という考え方もある。
例えば第21話のエドの台詞。

7ae32481.jpgb2267357.jpgエド「で、二人で一緒にあっちに持っていかれて、一度分解された。その過程で、俺とアルの精神が混線してしまった可能性がないだろうか」
ウィンリィ「どういうこと?」
エド「こっちにいる俺と、あっちにいるアルの肉体が繋がっている可能性はないかってことだ。ほら、俺って歳の割りに身長ちい……ちい……ちっさい……」

これは第63話でエドが自分の扉を代価として真理に捧げた後、脱出のためにアルの扉が使える、ということを予告し、あるいはあらかじめ理屈を示しておくことで、読者の理解を促すためのものだ。
あるいは第45話のリンの台詞では、

56c163e8.jpgd0807e63.jpgリン「セントラルの地下にいるあのお父さまとやらが来るべきその日に扉を開ける。俺の素人考えだが、そこにお前たち兄弟が飛び込めば、2人とも元の体に戻れるんじゃないか」

これは必ずしも正しい知識ではないが、お父さま(ホムンクルス)の目的を予告し、その最終局面においてエドとアルが元の体を取り戻すヒントを示している。
伏線とは物語の解説の延長上にあり、クライマックスに必要なフィールドを整えるための準備である。そのための心理的準備を読者に促し、どう捉えるべきか、何が起きたのかを理解させるためのヒントを与えるものだ。
例えば、ホーエンハイムの旅の途上で、方々で自身の血を大地に振り撒いていた。あれが何の意味を持つのか、物語の最後の最後というところで明かされるのだが、あれも物語の最終局面を構築するための準備活動であるといえる。
伏線とは「回収」するためにものではなく、「準備」するものだと心得たほうがよい。
今どきの作家や読者は「フラグ」という考え方をするが、これは伏線ではない。それまで物語と接してきた経験と照らし合わせ、ありがちと思える展開を予測し、その結果を共有することが「フラグ」である。だからフラグは、作り手と受け手の間で「約束事」として共有されるだけで、伏線としての効果など持ち得ないどころか、その文化圏に属していない新規のユーザーを排除してしまう、ということを忘れてはならない。

この伏線を、物語の文脈の外で何となく振り撒いてはならない。
ff6c0869.jpg例えば『聖剣の刀鍛冶』という作品がある。『聖剣の刀鍛冶』の登場人物の一人であるルーク・エインズワースの瞳の色が、左目と右目と違っていた。質感も違うように描かれ、何かあるらしいと了解させるために、執拗にクローズアップを繰り返されていた。
しかし、これは主人公セシリー・キャンベルが関知しない伏線であった。主人公が察知できない伏線は、どんなに繰り返しても、なんら効力を持ち得ない。物語とは主人公が物語上にある物事を了解していく過程であり、主人公が関知しないところで何か伏線めいたものを何となく配置しても、それは物語の最終局面に対してほとんど何も貢献しない。
そのうちにも、ルークの瞳の色が違う理由が解説されたが、主人公の驚きは何もなく、それまでに組み立てた伏線もどきは何ら効果を持たなかった。
だから効果のないところで伏線をいくら振り撒いても、何ら意味はないのである。

ところで、ある一つの結末に向って、知識や仮定を提供することが伏線であるとする。伏線とは、読者の考え方を誘導し、「こう考えるものですよ」というガイドラインであると考える。
すると、伏線という手法を使った別のやり方も考えられる。
読者にわざと間違った考えかたを示し、物語の最終局面を間違った方向に誘導するやり方である。つまりミスリードである。
ただし、ミスリードは非常に扱いの難しい手法だ。第一に、ミスリードはミスリードなりに一貫した思考過程を示さねばならないし、その土台となる基礎知識的なものは、正解の知識と一致していなければならない(乖離していると、読者を混乱させるだけだ)。うまくいけば読者を心地よい驚きに導けるが、不用意にミスリードを示せば、物語の軸は完全に捻じ曲がり、読者が物語の本筋を見失ってしまう恐れがある。ミスリードを使う物語上の意図や、狙う機会があれば、どんどん活用していきたい手法だ。

前回:読者の心理を操作する
次回:クライマックス


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■ 余談・アニメファンの順応力の弱さ

アニメファンやアニメ批評家は、自分たちは常に新しいものを求めていると公言して憚らない。アニメは似たような話ばかりだ。お約束に、テンプレート化したキャラクターにストーリー。どこに新しい創造があるのか。今までにない映像、物語、感動を創造する才能は業界にないのか――とうるさいくらい繰り返し主張する。
しかし、いざ原作のないまったくのオリジナル作品が提示されると、アニメファンやアニメ批評家(プロ・素人問わず)は戸惑い、動揺し、うろたえてその作品をどう捉えるべきか、基本的な指針すら見出す機会を逃してしまう。アニメファンやアニメ批評家は、新しさを提示した作品を一切評価しない。新しい作品に不可解を示し、嫌悪し、徹底的にこき下ろす。
結局のところ、お定まりのキャラクターやありきたりな展開を求めているのは、ユーザー自身であるのだ。という以前に、形式化された表現でないと、それをどう捉えるべきか思考する力が働かないのだ。アニメユーザーのほとんどが、過去に提示された表現の法則性を現在の作品に当てはめて、それでいかにもその作品を見破った、作者の能力を上回ったと思い込んで得意になっているだけだ。

アニメファンやアニメ批評家は新しい作品をまず評価しない。作品を拒絶し、嫌悪し、自分たちの脳内からの抹消を企て――その数年後に「あれは良かったね」と新しいテンプレートの素材にしてしまう。
作品が優れていたのなら、その当時にそう評価すればいいだけの話なのだが、アニメファンやアニメ批評家はここぞとばかりツンデレの気質を見せ付ける。アニメの名作として現在に語り継がれているほとんどの作品は、発表された時代には誰も見向きもしなかった。『宇宙戦艦ヤマト』や『ガンダム』のような今では誰もが知る作品すらも、当時はまったく評価されず放送打ち切りという苦難を経ている(今は逆に評価されすぎだが)
アニメファンやアニメ批評家こそ、新しいものを解説し、分析してみせようという冒険心が欠落している。新しい作品が提示されたら批評する側も思考を新しくしなければならない。だが新しいものが評価されるのは作品が発表された当時ではなく、新しい作品を解説するだけの思考や概念、意識が一般的に充分に広がったその後だ。つまり、思考様式自体がテンプレート化(通俗化)し、自由に扱えるだけ時代が止揚しないと、作品を受け入れることができないのだ。

1ef4d24f.jpg8f67f3c6.jpg『鋼の錬金術師』の場合で言うと、ホムンクルスが太陽の扉を作り、神の力を得るシーン。(→第60話天の瞳地の扉
多くのアニメファンや、自称アニメ批評家たちはあのシーンを『エヴァンゲリオン』f1412df7.jpg41c4b4b8.jpgのある光景を連想した。確かに巨大化した姿を横から捉える構図は、巨大綾波レイに似ている。だが、それだけだ。単に構図の一部に類似があっただけに過ぎない。
b854a0d8.jpg73e53ec8.jpg(中には、ただの類似に過ぎないものを探し出して、「パクリだ!」と大騒ぎする自称批評家もいる。ある構図を引っ張り出し、過去のあらゆる画像と重ね合わせれば、どこかに類似が出るのは当り前すぎる当り前の現象だ。「この小説のある一句が、聖書のある一句と類似している」と言ってるようなものだ)
そもそもからいって、ホムンクルスが得ようとしたものと、『エヴァンゲリオン』の《人類補完計画》の概要はまったく異なるものだ。そこに至るまでの文脈と、結果がまるで違うのだ。
だがアニメファンの多くは、構図のいくつかの類似ばかりを探して、その前後の文脈をまったく理解しようとはしなかった。文脈を読もうという思考が働かなかったのだ。

現在の作品の中に過去作品の残像ばかり求めて、ただひたすら当てはめる作業を繰り返す。それがアニメ批評家の弱いところであり、もしかすると限界かもしれない部分だ。
アニメファンやアニメ批評家たちには、それとは別に一つの傾向を持っているようだ。アニメの批評家は、分析よりも感情を優先させる、ということだ。その作品から得られる快や不快といった感情。あるいはそのキャラクターに好意を抱けるか。そういった原初的な感覚を頼りにして、言葉の多くを、自身が感じた感情を表明するために使用している。
批評はジャッジを下すための武器ではない。ジャッジを下すのは売り上げの数字だけで充分だろう。批評はその作品がどんな作品であるのか、解体し分析し、より多くの人に向けて作品をどう捉えるべきかの指針を与えること。芸術を言語に翻訳する作業こそが批評だ。いつか作品が何らかの事故によって閲覧不能になった将来でも、作品がどんなものであったか、同時代の意識で作品がどのように認知されていたのか。作品の残像を残す作業でもあるのだ――というのは、私個人的な考え方に過ぎないが(忘れてくれ)
だが逆に言えば、「分析よりも感情を優先させる」という鑑賞法は、アニメとアニメの鑑賞者の一つの傾向を指摘しているように思える。アニメの鑑賞者は、アニメのキャラクターと心理的距離をとことん接近させて視聴させている。アニメの視聴者はアニメのキャラクターと感情を一体とさせることで、そこにカタルシスを見出そうとしているのだ。キャラクターへの感情移入の傾向が実写作品よりも過大で、キャラクターへの思い入れがその人間のアイデンティティと深い結束を――絆のようなものを作ろうとしているのではないだろうか(だから非処女という意外性が裏切りと見做されるのだろうか? うーむ……)

アニメの作り手は、受け手を動揺させすぎない配慮がいつも必要になってくる。アニメファンやアニメ批評家を動揺させず、それでいて少しずつ新しい世界や構造を提示して引きこんでいく。スティーブン・スピルバーグ(違う人かも)がかつて口にした「新しいものは半歩だけ進めばいい」という考え方を守り抜くのだ(半歩以下だとありきたりで、1歩以上進むと飛躍しすぎと受け取られる)
非常に難しいバランスの取り方だが、その規則を守った上で高度な作品を――ユーザーの感情を最大まで引き出せる作品を作り出せれば、それは“神アニメ”と呼ばれる資格を得る。

前回:読者の心理を操作する
次回:クライマックス


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