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■2010/01/06 (Wed)
書籍002・金枝篇下未開人は、『神は“当然”死ぬもの』と考えていた。あるネイティブ・アメリカンの語り手に古い神について訊ねると、「その神はもう死んだ。1人の神がそんなに長く生きられるはずがないじゃないか」と語った。だからグリーンランドの人々は、キリスト教の神が死なないと聞かされたとき驚愕した。

神とはこの世の全ての生命と結びついている存在である。だから神の死は、非常に危険であると考えられていた。神の死は地上の全ての生命の死を意味していた。
だが現実問題として神は死ぬ。特に神の自然死は危険だと考えられていた。神が自然死すると、大地の全ては衰えて、回復しないと考えられていた。
「神の死」という危機に対する予防策は、1つしかなかった。――神を殺すことである。
神を殺した後、“神の魂”を新たな“器”に移す。そうした儀式を通過することで、神の魂は若い肉体に存続するのだと考えられた。ちなみに多くの場合で、“新しい神の器”に任命されるのは“神を殺した者”である。

神殺しの風習はやがて制度となり、時代が変わるにつれて穏やかなものへと変化していった。
多くの場合で神殺しの制度は世襲制となり、そうすることで神-王の制度は残り続けた。

『金枝篇』の下巻は神を殺す行為について語られる。神殺しはどんな理由で始まり、どのように社会化し後の文明社会に残留していったのか。
フレイザーは、時代、場所を次々に移しながら、その形式の変化を追い、推論を展開させていく。

近代に近付くと王殺しの形式は、もっと漠然とした、抽象的な概念に置き換えられる傾向があった。例えば神話や民話、それから土着的な祭儀の中に、その痕跡を残留させた。
農民の文化には収穫期の刈り束を『穀物霊』と呼ぶ風習があった。穀物霊の風習はヨーロッパ各地で見られ、狼や、犬、野ウサギ、鶏、ガチョウ、猫……と様々な動物の名前で呼ばれる。
これらの動物霊は共通して穀物の中に住むと考えられ、最後の刈り束の中で捕えられ、殺される。これらの動物霊はほとんどが「麦の狼」や「収穫の鶏」と動物の名前で呼ばれるが、ときどき「母」や「老いた者」というように人間の名前で呼ばれる例もあった。
未開人は穀物の束に逃げ込んだ動物を、霊が化けたものと考えていたのではないか、と推測していた。この推測からフレイザーは、様々な地方に残る神々が、動物の化身を持っている理由を探る。ギリシャの神、山羊の化身を持つディオニソスや、豚の化身を持つデメテルたちだ。
この推測が正しいとすれば、逆の説明もできるはずである。動物霊はそもそも神々の信仰が変形したものである、と。
そこからアリキアの伝説について、ひとつの推論が可能になってくる。
アリキアの森の聖なる王ウィルビスが馬に殺されるのは、「ウィルビス崇拝のある種の特徴、とりわけ彼を祭る聖なる木立から馬を排除したという風習を、説明するために考え出されたもの(第3章第10節)」ではないか。
かつての儀式の具体的な部分は、後の世代に正確に伝わらない。儀式の形式は、伝承だけが残ることによって、儀式の実体は“伝説化”するのだ。

だが、まだ全てが解説されていない。アリキアの祭祀はなぜ前任者を殺さねばならなかったのか? なぜ殺人を実行する前に『黄金の枝』を折る必要があったのか?
ここまでの夥しい引用と推論によって、すでに一つの前提が生まれている。
ネミの祭祀は、森の神、植物の霊であった。この霊が衰弱すると、大地の生命も衰弱すると考えられていた。だからこの神を若いうちに殺し、後継者に移す必要があった。
アリキアの祭祀も同じ理由で殺害されたのだろう。
この前提の上で『なぜ黄金の枝を折る必要があるのか』という回答への模索が始まる。

この本はもちろんここで終わりではない。とてつもなく膨大な書だ。次第に読む行為自体が修行のようにすらなってしまう。
『金枝篇』は序章に提示されたように、イタリアのアリキアの儀式について解説した本である。高度な社会が、原始と迷信の宗教を原点にして生まれ、発達していった過程を説明している。
だが実は『金枝篇』には、もう一つの目論見があった。
それはキリスト教の解明である。キリスト教もそのほかのあらゆる宗教、社会と同じく「原始と迷信」から生まれたに過ぎない、と説明したかったのだ。たとえ、キリスト教が「高度に文明化された部分の源泉」と見做されていようとも、その原点は生贄や呪いといった野蛮な風習から誕生したはずなのだ。
『金枝篇』は夥しい引用と推論によって、あらゆる宗教、社会が野蛮なものから生まれ、「おそらく普遍的といえるほどに広く機能し、様々な環境下で、厳密には異なるものの概して似通っている、様々な制度を生み出していたと証明(本書第1章第1節)」してみせた。
その証明は当然、キリスト教にも同様に当てはまるものであった。イエス・キリストの処刑と、復活の信仰。この伝承が示しているのは、かつての儀式の様式である、と。キリストの処刑の背景にあったのは、アリキアの湖にあったような生贄の制度であったのだ、と。
フレイザーが途方もない枚数で証明したかったのは、キリスト教が特別例外ではない、という事実である。

しかし『金枝篇』にはキリスト教にまつわる描写は非常に少ない。まるで避けているかのように、不自然なくらい記述が少ない。
それは当時の社会情勢が影響していた。当時、まだ支配的だった教会思想に反逆するような本の出版は許されない行為だった。もちろん不可能ではなかったが、非常に勇気のいることだっただろう。
だから『金枝篇』にはキリスト教に関する記述はほとんどない。だが『金枝篇』が真に語ろうとしたのは、キリスト教についてである。

『金枝篇』はとてつもなく長大で難解だが、にも関わらず魅力的だ。今も多くの人々を惹きつけてやまない。私のような民俗学の門外漢ですら、魅力を感じ『金枝篇』の読書は最後まで刺激的な興奮をもたらしてくれた。
特にファンタジー小説を志す人ならば絶対に必読の本だ。ファンタジー小説でなくとも『金枝篇』は様々なインスピレーションを提供してくれるはずだ。
例えば、映画『地獄の黙示録』は、この『金枝篇』をヒントに生まれている(原作『闇の奥』もやはり『金枝篇』に影響されている)。『地獄の黙示録』の最後のシーンにはわざわざ『金枝篇』が登場し、監督が手の内を明かしてくれている。

現代は、とてつもなく高度な機械文明の時代である。ほとんどの人々がレベルの高い教育を受け、知性が高く聡明で、啓蒙主義が当然の思想として広がっている。
だからといって、我々は原始的で野蛮な迷信から完全に縁を切ったわけではない。都市から夜が消え、日々の事件を瞬時に知るようになった今ですら、幽霊や宇宙人といった得体の知れないものが我々の周囲を跋扈している。
それに過去の遺物と思えた民族が、今もあらゆる戦争を引き起こしている。
『金枝篇』はそういった迷信の起源についても、解明を与えてくれている。だから今においても魅力を感じるのだろう。

『金枝篇 上』を読む

読書記事一覧

作品データ
「初版 金枝篇 下」
著者:ジェイムズ・ジョージ・フレイザー
翻訳:吉川信
出版:筑摩書房




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■2010/01/06 (Wed)
書籍001・金枝篇ターナーの「金枝」を知らない者などいるだろうか?(本書 第1章第1節)

ターナーとはもちろんイギリスを代表する画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーを指している。『金枝篇』が話題にした絵画は「ディアナの鏡」と題された、美しい湖を描いた絵である。
これは実在の湖で、イタリアのアルバ丘陵レミの村に近い場所にある。この湖は『アリキアの湖』と呼ばれる。
この絵画はただ美しいだけではない。その湖は、ある儀式の主要な舞台であった。その儀式とは――生贄である。
なぜそんな美しい場所で生贄など捧げられたのか? どういった人間が生贄として捧げられたのか。そもそも生贄の習慣はどこから始まり、どのように社会化していったのか。
アリキアの湖で捧げられた生贄の正体』――これが、本書で最初に掲げられた“命題”であった。

フレイザーは生贄の習慣を説明するために、他の様々な地域に目を向けた。もし他の地域で同様の習慣を見出すことができ、さらに同様の社会的気質を発見できれば、『これらの動機が、人間の社会でおそらく普遍的といえるほどに広く機能し、様々な環境下で、厳密には異なるものの概して似通っている様々な制度を生み出していたと証明(本書 第1章第1節)』できるのではないか、と考えた。

まずはじめにフレイザーが目をつけたのは、アリキアの祭祀が『森の王』と呼ばれていた点である。生贄として殺される人物は、祭祀であると同時に『王』の称号が与えられていた。
古代イタリア、及びギリシアでは、王と祭祀を結びつける考え方は一般的なものであった。王とは、世俗的な政治のみを司る存在ではなく、霊的な支配者であり、しばしば神々の末裔とも考えられていた。
彼ら『王-祭祀-神』たちの社会的役割は、超自然的な現象の操作であった。雲を操り雨を降らせ、大地に恩恵をもたらす。女には子供を与える(出産もこの時代では“超自然的現象”のひとつだった)。つまり王に期待された役割とは、神そのものとしての役割であり、王とは超自然の代理人であった。

蛮人の時代においては、神と人間の区別は不明瞭であった。蛮人は神と人間の違いを、さほど大きくないと考えていた。人間の意志と、神(自然)の現象は、結びついていると考え、占いや祈祷で自由に操作可能なものと考えていた。
だから原初的な宗教においては、神は絶対的な存在ではなかった。神の役割を与えられた人間は、超自然的現象と結びついた偉大な存在であったが、だからといって人間以上の存在と考えられていなかった。それ以外の人間と、地位の面では平等か、あるいは神の方が人々に隷属する立場であった。
その宗教意識が次の段階に移ると、人間はようやく、自然は途方もなく巨大で、手に負えない存在であると気付く。だからっといって大地・自然は操作可能であるという幻想が消えるわけではない。ただし、自然を司る神の社会的立場は増大する。この段階において、祭祀は社会の筆頭、『王』あるいは『神』の立場に格上げされるのである。人々は超自然そのものである神の機嫌を損なわないように、大事に扱い供物を捧げるようになる。
そういった認識もやがて終了し、人間はついに、神にも王にも自然は操作不能であると気付く。この段階に入ると、それまで畏れ多かった祈りや祈祷は、次の二つのものに地位を変える。供犠は祈りは文明化された部分の源泉と見做されるか、あるいはただの迷信や黒魔術に転落する。
科学の意識に目覚めるのは、この次の段階においてである。大地は神が自由な意思によって操作するものではなく、観察によって、法則性を発見するべきものであると考えられる。神という不安定な概念はついに捨てられ、科学が芽を出す。錬金術は、最後には科学に進化するのだ。

ヨーロッパのアーリア人にとって、『樹木崇拝』は重要な役割を担っていた。ドイツにおいて最も古い神殿の形式は自然の森の中であったし、ケルトの信仰では、オークを最上のものと考えていた。
かつての時代においては、樹木は魂ある存在であって大事に扱われた。樹木には神の意思が宿り、それを折ったり燃やしたりする行為は自然の怒りを買うと考えられていた。
樹木は樹木霊の身体であり、また霊の住居とも考えられていた。樹木には、かつて神が担っていた全てのエネルギーが宿っていると考えられていた。樹木こそが牛や豚の数を増やし、子供を授けてくれると考えられていた。いわゆる、アニミズムの概念である。
こうした樹木信仰は、儀式において人間が樹木霊の姿に扮した。多くの場合、儀式は5月に執り行う。樹木霊に扮する司祭は、緑の葉や花で着飾り、人々を引き連れて町や森の中を練り歩く。その最後には、樹木霊は(多くの場合で)水のなかに放り込まれる。こうして儀式は終了となり、次の年の豊作が約束される。
こうした扮装者は「5月の木」や「5月の枝」などと呼ばれる。
かつて樹木崇拝はヨーロッパ先史アーリア人の宗教意識において、重要な地位を占めていた。樹木を崇拝する儀式や式典は、あらゆる地域に共通する均一性を備えている。式典は春や夏至の祝祭で、ヨーロッパの農民たちによって現在も保存されている。もしくはつい最近まで行われていた。

ここまでの記述で次の推測も無理なく受け入れられるはずだ。
~アリキアの『森の王』も、本質的に樹木霊、もしくは森の神の崇拝者であった~
アリキアの『森の王』も、ここまでに紹介された例と類似した存在ではなかったのではないだろうか? すなわち『森の王』とは『樹木霊』の原初的姿である、と。『森の王』は雨や陽光をもたらし、穀物を実らせ、女性に子供を授ける存在ではなかっただろうか?
すると逆説的こうともいえないだろうか。『樹木霊』はかつて『森の王』のように人間がその立場を担い、『森の王』のように自身が生贄として捧げられていたのではないか。

ここまでが本書第1章をおおまかにまとめた解説である。もちろん本書はもっと詳細であるし、この後もまだまだ続く。ここでまとめた解説だけではあまりにも部分的で、理解しづらいと思う。
『金枝篇』は途方もなく長大な本である。それに引用があまりにも多く、読んでいるうちに、内容を見失ってしまうことすらある。アジアの小国の話かと思ったら、次の段落でいきなりアフリカの民族の話に、さらに次の段落に移ればあるネイティブ・アメリカンの事例が紹介される。『金枝篇』の弱点は、地理的距離感が皆無で、情報と知識だけが不用意に羅列されることである。
それに生贄の習慣を巡る解説は、とても枕元に置いて読む本としてはふさわしくない。内容も難解だ。
しかし我々の生活と遠い題材に思えて、最終的には我々の社会意識の底辺に結びつく話である。現在の高度な社会が形成される以前には、生贄のような野蛮な風習があったのだ、と。
我々の文明社会の背景にある精神性を推測させてくれる一冊である。

『金枝篇 下』を読む

読書記事一覧

作品データ
「初版 金枝篇 上」
著者:ジェイムズ・ジョージ・フレイザー
翻訳:吉川信
出版:筑摩書房




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