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■2010/01/06 (Wed)
読書:研究書■
ターナーの「金枝」を知らない者などいるだろうか?(本書 第1章第1節)
ターナーとはもちろんイギリスを代表する画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーを指している。『金枝篇』が話題にした絵画は「ディアナの鏡」と題された、美しい湖を描いた絵である。
これは実在の湖で、イタリアのアルバ丘陵レミの村に近い場所にある。この湖は『アリキアの湖』と呼ばれる。
この絵画はただ美しいだけではない。その湖は、ある儀式の主要な舞台であった。その儀式とは――生贄である。
なぜそんな美しい場所で生贄など捧げられたのか? どういった人間が生贄として捧げられたのか。そもそも生贄の習慣はどこから始まり、どのように社会化していったのか。
『アリキアの湖で捧げられた生贄の正体』――これが、本書で最初に掲げられた“命題”であった。
フレイザーは生贄の習慣を説明するために、他の様々な地域に目を向けた。もし他の地域で同様の習慣を見出すことができ、さらに同様の社会的気質を発見できれば、『これらの動機が、人間の社会でおそらく普遍的といえるほどに広く機能し、様々な環境下で、厳密には異なるものの概して似通っている様々な制度を生み出していたと証明(本書 第1章第1節)』できるのではないか、と考えた。
まずはじめにフレイザーが目をつけたのは、アリキアの祭祀が『森の王』と呼ばれていた点である。生贄として殺される人物は、祭祀であると同時に『王』の称号が与えられていた。
古代イタリア、及びギリシアでは、王と祭祀を結びつける考え方は一般的なものであった。王とは、世俗的な政治のみを司る存在ではなく、霊的な支配者であり、しばしば神々の末裔とも考えられていた。
彼ら『王-祭祀-神』たちの社会的役割は、超自然的な現象の操作であった。雲を操り雨を降らせ、大地に恩恵をもたらす。女には子供を与える(出産もこの時代では“超自然的現象”のひとつだった)。つまり王に期待された役割とは、神そのものとしての役割であり、王とは超自然の代理人であった。
蛮人の時代においては、神と人間の区別は不明瞭であった。蛮人は神と人間の違いを、さほど大きくないと考えていた。人間の意志と、神(自然)の現象は、結びついていると考え、占いや祈祷で自由に操作可能なものと考えていた。
だから原初的な宗教においては、神は絶対的な存在ではなかった。神の役割を与えられた人間は、超自然的現象と結びついた偉大な存在であったが、だからといって人間以上の存在と考えられていなかった。それ以外の人間と、地位の面では平等か、あるいは神の方が人々に隷属する立場であった。
その宗教意識が次の段階に移ると、人間はようやく、自然は途方もなく巨大で、手に負えない存在であると気付く。だからっといって大地・自然は操作可能であるという幻想が消えるわけではない。ただし、自然を司る神の社会的立場は増大する。この段階において、祭祀は社会の筆頭、『王』あるいは『神』の立場に格上げされるのである。人々は超自然そのものである神の機嫌を損なわないように、大事に扱い供物を捧げるようになる。
そういった認識もやがて終了し、人間はついに、神にも王にも自然は操作不能であると気付く。この段階に入ると、それまで畏れ多かった祈りや祈祷は、次の二つのものに地位を変える。供犠は祈りは文明化された部分の源泉と見做されるか、あるいはただの迷信や黒魔術に転落する。
科学の意識に目覚めるのは、この次の段階においてである。大地は神が自由な意思によって操作するものではなく、観察によって、法則性を発見するべきものであると考えられる。神という不安定な概念はついに捨てられ、科学が芽を出す。錬金術は、最後には科学に進化するのだ。
ヨーロッパのアーリア人にとって、『樹木崇拝』は重要な役割を担っていた。ドイツにおいて最も古い神殿の形式は自然の森の中であったし、ケルトの信仰では、オークを最上のものと考えていた。
かつての時代においては、樹木は魂ある存在であって大事に扱われた。樹木には神の意思が宿り、それを折ったり燃やしたりする行為は自然の怒りを買うと考えられていた。
樹木は樹木霊の身体であり、また霊の住居とも考えられていた。樹木には、かつて神が担っていた全てのエネルギーが宿っていると考えられていた。樹木こそが牛や豚の数を増やし、子供を授けてくれると考えられていた。いわゆる、アニミズムの概念である。
こうした樹木信仰は、儀式において人間が樹木霊の姿に扮した。多くの場合、儀式は5月に執り行う。樹木霊に扮する司祭は、緑の葉や花で着飾り、人々を引き連れて町や森の中を練り歩く。その最後には、樹木霊は(多くの場合で)水のなかに放り込まれる。こうして儀式は終了となり、次の年の豊作が約束される。
こうした扮装者は「5月の木」や「5月の枝」などと呼ばれる。
かつて樹木崇拝はヨーロッパ先史アーリア人の宗教意識において、重要な地位を占めていた。樹木を崇拝する儀式や式典は、あらゆる地域に共通する均一性を備えている。式典は春や夏至の祝祭で、ヨーロッパの農民たちによって現在も保存されている。もしくはつい最近まで行われていた。
ここまでの記述で次の推測も無理なく受け入れられるはずだ。
すると逆説的こうともいえないだろうか。『樹木霊』はかつて『森の王』のように人間がその立場を担い、『森の王』のように自身が生贄として捧げられていたのではないか。
ここまでが本書第1章をおおまかにまとめた解説である。もちろん本書はもっと詳細であるし、この後もまだまだ続く。ここでまとめた解説だけではあまりにも部分的で、理解しづらいと思う。
『金枝篇』は途方もなく長大な本である。それに引用があまりにも多く、読んでいるうちに、内容を見失ってしまうことすらある。アジアの小国の話かと思ったら、次の段落でいきなりアフリカの民族の話に、さらに次の段落に移ればあるネイティブ・アメリカンの事例が紹介される。『金枝篇』の弱点は、地理的距離感が皆無で、情報と知識だけが不用意に羅列されることである。
それに生贄の習慣を巡る解説は、とても枕元に置いて読む本としてはふさわしくない。内容も難解だ。
しかし我々の生活と遠い題材に思えて、最終的には我々の社会意識の底辺に結びつく話である。現在の高度な社会が形成される以前には、生贄のような野蛮な風習があったのだ、と。
我々の文明社会の背景にある精神性を推測させてくれる一冊である。
『金枝篇 下』を読む
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作品データ
「初版 金枝篇 上」
著者:ジェイムズ・ジョージ・フレイザー
翻訳:吉川信
出版:筑摩書房
ターナーとはもちろんイギリスを代表する画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーを指している。『金枝篇』が話題にした絵画は「ディアナの鏡」と題された、美しい湖を描いた絵である。
これは実在の湖で、イタリアのアルバ丘陵レミの村に近い場所にある。この湖は『アリキアの湖』と呼ばれる。
この絵画はただ美しいだけではない。その湖は、ある儀式の主要な舞台であった。その儀式とは――生贄である。
なぜそんな美しい場所で生贄など捧げられたのか? どういった人間が生贄として捧げられたのか。そもそも生贄の習慣はどこから始まり、どのように社会化していったのか。
『アリキアの湖で捧げられた生贄の正体』――これが、本書で最初に掲げられた“命題”であった。
フレイザーは生贄の習慣を説明するために、他の様々な地域に目を向けた。もし他の地域で同様の習慣を見出すことができ、さらに同様の社会的気質を発見できれば、『これらの動機が、人間の社会でおそらく普遍的といえるほどに広く機能し、様々な環境下で、厳密には異なるものの概して似通っている様々な制度を生み出していたと証明(本書 第1章第1節)』できるのではないか、と考えた。
まずはじめにフレイザーが目をつけたのは、アリキアの祭祀が『森の王』と呼ばれていた点である。生贄として殺される人物は、祭祀であると同時に『王』の称号が与えられていた。
古代イタリア、及びギリシアでは、王と祭祀を結びつける考え方は一般的なものであった。王とは、世俗的な政治のみを司る存在ではなく、霊的な支配者であり、しばしば神々の末裔とも考えられていた。
彼ら『王-祭祀-神』たちの社会的役割は、超自然的な現象の操作であった。雲を操り雨を降らせ、大地に恩恵をもたらす。女には子供を与える(出産もこの時代では“超自然的現象”のひとつだった)。つまり王に期待された役割とは、神そのものとしての役割であり、王とは超自然の代理人であった。
蛮人の時代においては、神と人間の区別は不明瞭であった。蛮人は神と人間の違いを、さほど大きくないと考えていた。人間の意志と、神(自然)の現象は、結びついていると考え、占いや祈祷で自由に操作可能なものと考えていた。
だから原初的な宗教においては、神は絶対的な存在ではなかった。神の役割を与えられた人間は、超自然的現象と結びついた偉大な存在であったが、だからといって人間以上の存在と考えられていなかった。それ以外の人間と、地位の面では平等か、あるいは神の方が人々に隷属する立場であった。
その宗教意識が次の段階に移ると、人間はようやく、自然は途方もなく巨大で、手に負えない存在であると気付く。だからっといって大地・自然は操作可能であるという幻想が消えるわけではない。ただし、自然を司る神の社会的立場は増大する。この段階において、祭祀は社会の筆頭、『王』あるいは『神』の立場に格上げされるのである。人々は超自然そのものである神の機嫌を損なわないように、大事に扱い供物を捧げるようになる。
そういった認識もやがて終了し、人間はついに、神にも王にも自然は操作不能であると気付く。この段階に入ると、それまで畏れ多かった祈りや祈祷は、次の二つのものに地位を変える。供犠は祈りは文明化された部分の源泉と見做されるか、あるいはただの迷信や黒魔術に転落する。
科学の意識に目覚めるのは、この次の段階においてである。大地は神が自由な意思によって操作するものではなく、観察によって、法則性を発見するべきものであると考えられる。神という不安定な概念はついに捨てられ、科学が芽を出す。錬金術は、最後には科学に進化するのだ。
ヨーロッパのアーリア人にとって、『樹木崇拝』は重要な役割を担っていた。ドイツにおいて最も古い神殿の形式は自然の森の中であったし、ケルトの信仰では、オークを最上のものと考えていた。
かつての時代においては、樹木は魂ある存在であって大事に扱われた。樹木には神の意思が宿り、それを折ったり燃やしたりする行為は自然の怒りを買うと考えられていた。
樹木は樹木霊の身体であり、また霊の住居とも考えられていた。樹木には、かつて神が担っていた全てのエネルギーが宿っていると考えられていた。樹木こそが牛や豚の数を増やし、子供を授けてくれると考えられていた。いわゆる、アニミズムの概念である。
こうした樹木信仰は、儀式において人間が樹木霊の姿に扮した。多くの場合、儀式は5月に執り行う。樹木霊に扮する司祭は、緑の葉や花で着飾り、人々を引き連れて町や森の中を練り歩く。その最後には、樹木霊は(多くの場合で)水のなかに放り込まれる。こうして儀式は終了となり、次の年の豊作が約束される。
こうした扮装者は「5月の木」や「5月の枝」などと呼ばれる。
かつて樹木崇拝はヨーロッパ先史アーリア人の宗教意識において、重要な地位を占めていた。樹木を崇拝する儀式や式典は、あらゆる地域に共通する均一性を備えている。式典は春や夏至の祝祭で、ヨーロッパの農民たちによって現在も保存されている。もしくはつい最近まで行われていた。
ここまでの記述で次の推測も無理なく受け入れられるはずだ。
~アリキアの『森の王』も、本質的に樹木霊、もしくは森の神の崇拝者であった~
アリキアの『森の王』も、ここまでに紹介された例と類似した存在ではなかったのではないだろうか? すなわち『森の王』とは『樹木霊』の原初的姿である、と。『森の王』は雨や陽光をもたらし、穀物を実らせ、女性に子供を授ける存在ではなかっただろうか?すると逆説的こうともいえないだろうか。『樹木霊』はかつて『森の王』のように人間がその立場を担い、『森の王』のように自身が生贄として捧げられていたのではないか。
ここまでが本書第1章をおおまかにまとめた解説である。もちろん本書はもっと詳細であるし、この後もまだまだ続く。ここでまとめた解説だけではあまりにも部分的で、理解しづらいと思う。
『金枝篇』は途方もなく長大な本である。それに引用があまりにも多く、読んでいるうちに、内容を見失ってしまうことすらある。アジアの小国の話かと思ったら、次の段落でいきなりアフリカの民族の話に、さらに次の段落に移ればあるネイティブ・アメリカンの事例が紹介される。『金枝篇』の弱点は、地理的距離感が皆無で、情報と知識だけが不用意に羅列されることである。
それに生贄の習慣を巡る解説は、とても枕元に置いて読む本としてはふさわしくない。内容も難解だ。
しかし我々の生活と遠い題材に思えて、最終的には我々の社会意識の底辺に結びつく話である。現在の高度な社会が形成される以前には、生贄のような野蛮な風習があったのだ、と。
我々の文明社会の背景にある精神性を推測させてくれる一冊である。
『金枝篇 下』を読む
読書記事一覧
作品データ
「初版 金枝篇 上」
著者:ジェイムズ・ジョージ・フレイザー
翻訳:吉川信
出版:筑摩書房
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