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■2010/01/08 (Fri)
劇場アニメ■
「あの、1つ質問してもいいですか。僕の前にあの機体に乗っていた人のことですけど……」
ラウンテルン社工場への偵察から機投した函南優一は、報告ついでに上司の草薙水素に尋ねた。
「栗太仁朗。ここに赴任したのは7ヶ月。63回の出撃。なかなかの腕前だった」
草薙はタバコを手にしたまま、少し俯いた感じで淡々と答えた。
「どこへ行ったんですか」
函南は質問を止めない。
「その質問には答えられない」
草薙は事務的に問いを拒絶した。
「転出した理由は?」
「同じく」
「死んだ?」
函南がそう尋ねると、草薙にしばし沈黙が漂った。
草薙は眼鏡越しに函南を睨みつける。
「そうだとしても、君の置かれた状況に差はない。いるかいないか。人の状態はこの2つしかない」
草薙はまた視線を落として、もとの事務的な調子を取り戻した。
「飛行機を引き継ぐ時は、通常は前任者とコンタクトを取るものですよね。もちろん、前任者が生きている場合にだけ、ですけど」
函南は探るように尋ねた。
「あの機体は新しい。その必要はないと私が判断した。何か不満が?」
草薙はやはり同じ調子で、ちらと函南を睨み付けた。
「いえ、最高の機体でした」
「他には?」
「あなたは――キル・ドレですか」
空中シーンでの転調は、RPGにおけるフィールドと戦闘くらい極端で、似通った印象がある。ぼんやりと時間が延長されたフィールドと極端に慌しい戦闘……。キル・ドレたちはテレビゲームの中で生きているのだ。
空を見上げると、淡いブルーが果てしなく広がり、積雲が連なって陰を作っている。積雲の連なりは太陽のきらめきを覆い隠し、地上に灰色の影を落としている。雲は静かに漂い流れ、どこかで大きく膨らんで雨でも降らせるのだろう。その流れはのんびりと穏やかで、遮るものはなくゆらりとした心地に満たされていた。
あの空へ彼らは――キル・ドレは疾駆するのだ。地上の重力から解放され自由に舞い踊り、澄んだ空に汚れた灰色の雲を残していく。
平和の象徴のようなあの場所で誰かを殺すために――自身が死ぬために。
「聞いたことがあるの。心をいつもどこに置き忘れているのって」「彼は何て?」「答えはなかった。でも私は、空なのかなって。だったないいなって思った」社会はあからさまな熱血大喜利を賛美する。だが世の中には寡黙さが大事な瞬間もある。特に今の若者は一番暗い物を感情の深い所に包み隠してじっと耐えている。裸で付き合う女にはその人間の内奥を感じられるのだろう。若者を対象としか見ない大人たちにはわからない意識だ。
『スカイ・クロラ』の社会では全ての戦争は終結し、平和を得ている。だが戦争を模した戦闘だけが残された。
その戦闘員となるのがキル・ドレと呼ばれる子供たちだ。キル・ドレは遺伝子操作で生まれた子供たちで思春期の姿のまま成長せず、命令されるままに戦い、死ねば即座に蘇生させられる。
キル・ドレには過去の経験がなく、成長せず、死んでも何度でも復活する。すべてがゼロになって。まるでテレビゲームの世界のように、死ねばリセットされて何もかもゼロ状態で再スタートする。
何度も何度も。経験を積み重ねず、だから決して成長を――物語を未来へと展開させられない。
「気をつけてね」
「何に?」
函南は自我を持ち始めた子供のように、何度も疑問を呈する。
『スカイ・クロラ』は兎離洲基地での日常を中心に描かれる。そこで若者達が集り、ぼんやりと言葉を交わし、酒を飲みタバコを喫い、意味のないセックスを繰り返す。
彼らの言葉は独白のようにぼそぼそとしていて、お互いの間には奇妙なくらい間延びした時間が流れる。
地上を彩る色彩は淡く、漂白した印象すら漂う。その色彩と同じように彼ら若者から感じる印象も、取り囲む風景も何もかも漂白したようにしらけた空気が漂っている。若者達は一時的な淡い快楽を求めて、酒を飲みタバコを喫いセックスする。
なぜなら彼らには役目が与えられていないからだ。世界はすでに平和を獲得し、社会は徹底した秩序の上で運営されている。戦争ですらルールが設定され、どちらが勝つわけでもなく、戦争という実体を作り出すためだけに演じられている(戦争をいう状況を作り出すことだけが目的である)。
そんな渦中で過ごす若者達は、戦闘以外の何の役割を与えられていない。だから地上での彼らはするべき目的を持たず、無限に近いモラトリアルの時間を消費するだけなのである。
何もする事がない。新しい何かが起きそうな希望もない。
大人たちはそんな社会を自らの手で作っておきながら、末端で喘ぐ若者を非難している。若者を奇怪な鵺のような存在を見做し、攻撃の対象にすらしている。
――実体はすでに社会そのものが漂白しているのであって、社会の神(創造主であるから)である大人たちも漂白された時間の中に飲み込まれている。大人たちが若者叩きを続けるのは慰めを求めているからだ。実際には大人たち自身も社会から不要を突きつけられ、髪を白くしてダイナーの入口でぼんやりと腰を下ろし虚ろな顔で地面を見詰めている。
高度にシステム化された社会はすでに人間を必要としておらず、単に運営するために必要最低限の労働力だけを求めているだけだ。漂白しているのは実際には社会全てであり、だから虚構としての戦争をどこかに作り出す必要があったのだ。
いかにもな台詞でドラマを盛り上げる作品ではない。語らない、語られない余白に作家の意図が込められている。押井守印の語は息を潜め、独白と余白で語ったドラマだ。置いてけぼりになる瞬間はあるが、じっくり見てるとなかなかに刺激的な映像体験だ。
だが一度キル・ドレたちが空に飛び出ると、途端に映像はビビッドな輝きを放ち始める。レシプロが空中に飛び出すと、それまでそろりそろり漂っていた時間は急速に流れを持ち始め、カットは凄まじい勢いで流れて行き、音楽は勇壮なテーマ曲となって戦いを彩る。
若者達は地上の重力から解放されるように、自由奔放に空を滑走し、跳ね回り、激しい戦いの最中に没入していく。いや重力だけでなく、彼らを縛る全てから開放されるのだ。
だが彼らはそこで“殺し合い”を死にいくのだ。殺しに行くのであり、死ぬために飛んでいるのだ。
若者達は生命の火花を散らし、生と死のぎりぎりのせめぎあいの中で、漂白したアイデンティティを取り戻す。その瞬間にこそ、若者達の魂は強烈な勢いで輝き始めるのだ。
家具や構図にシンメトリーの様式が使われている。どんな意図があるかわからないが、時々視線のようなものを感じる。ちなみに映画中には“2”の数字が隠されている。作業員の数の2、絵画のモチーフの2、玩具の乗り物の2、格納庫の番号の2……。
その自由な瞬間も実はゲーム・システムに縛られている。彼らは確かに自由に空中を滑走しているが、しかしその意思決定はシステムの側に握られている。
だから函南優一はハリウッド・エンターティメントのようにヒーローにはならない。ただ与えられた任務をこなし、帰還していくだけ。激しいアクションシーンだが、そこでドラマチックな何かは決して生まれない。戦闘はドラマの舞台ではないのだ。
彼らは生き延びてエース・パイロットになることはできても、そこから抜きん出てヒーローにはなれないのだ。
声の出演はプロではなく一般の俳優が使われている。宣伝的な都合のためだ。大掛かりな映画になると、時に人寄せパンダを映画に取り入れる妥協が必要になる。はっきりいってうまくはないが、しかし拙い感じが返って登場人物たちの幼さが表現されている。大人たちはベテランの声優で、というバランスがよかった。
函南優一と草薙水素はまもなく肉体の関係になる。相思相愛の関係――深く愛し合っている関係――いや、映画の中で恋愛は決してドラマチックに解説されていない。ふと気付けば函南優一は草薙水素に誘われて、そういう関係になっていただけだ。
だだ草薙水素が函南に寄せる感情は狂気をはらんでいる。彼の背中を追い、痕跡を辿り、ぬくもりと気配を探ろうとストーカーを始める。
草薙水素の愛し方は、あまりにも深く、肉体を抉るようだ。狂うぐらい相手を愛し、殺意を抱く。セックスの最中にエロスとタナトスを危険なレベルで高め、蜘蛛の交尾のごとくその対象を食い殺そうとしている。
愛してる。お願い殺して。
そんなアンビバレントが不純に交じり合ったセックスだ。
もう終わりにしたい。愛し合ったまま、すべてを終らせたい。
でも銃で頭をぶち抜いても、振り出しに戻されるだけ。その繰り返し。
草薙は決して前に進めない、未来へ進めないというジレンマの中で、感情を慌しく混乱させ、その感情に自身の理性は飲み込まれてしまっている。
巨大な家具。生活するのは子供という前提なのに、奇妙な設定だ。草薙瑞季は草薙水素の娘だ。唯一キル・ドレの宿命から解放され、未来へと進める存在であり、草薙水素の葛藤である。
函南「テーチャーを撃墜すれば、何か変わる?」
草薙「え?」
函南「運命とか、限界みたいなものが」
草薙「そうね。でも彼は誰にも落とせない」
函南「なぜ?」
草薙「私たち、どこの誰と戦っていると思う?」
函南「さあ。考えたこともない」
草薙「殺し合いをしているのに?」
函南「仕事だよ。どんなビジネスだって同じことさ。相手を押しのけて利益を上げたほうが勝ちなんだ。普通の企業に較べたら、僕たちがやってることなんて非効率的で解放的なゲームに過ぎない」
草薙「そう。ゲームだから合法的に殺すことも殺されることもできる」
函南「面白い発想だね」
草薙「面白い? 戦争はどんな時代でも完全に消滅したことはない。それは人間にとって、その現実味がいつでも重要だったから。同じ時代に、今もどこかで誰かが戦っているという現実感が人間社会のシステムに不可欠な要素だから。そしてそれは絶対に嘘では作れない。戦争はどんなものなのか、歴史の教科書に載っている昔話だけでは不十分なのよ。本当に死んでいく人間がいて、それが報道されて、その悲惨さを見せ付けなければ平和を維持していけない。平和の意味さえ認識できなくなる。空の上で殺し合いをしなければ、生きていることを実感できない私たちのようにね。そして、私たちの戦争は決して終わってはならないゲームである以上、そこにはルールが必要になる。例えば、絶対に勝てない敵の存在……」
函南「それが、ティーチャー?」
全ては相対的なものである。戦争があるから平和がある。貧困があるから豊かさがある。勝者がいるから敗者がいる。死の危機がなければ生の実感も得られない。
現実世界は一度も平和を獲得したことはないが――戦闘がなければ平和のイメージは作り出せないし、どこかに具体的な闘争がなければ平和を維持しようという考えも持てない。
物語の背景に戦闘企業であるラウンテルン社とロストック社の対立が置かれている。だがこの2つの企業は決して潰しあっているわけでもなければ勝利を目指しているわけでもない。
飽くまでも合意の上でのゲームを現実世界で演出しているだけである。言ってしまえば八百長だ。
だがそんな八百長のゲームでも接している人々はモニターの前で熱狂し、応援と称して財産を兵器産業に投資するのである。ゲームが続けられている間はラウンテルン社もロストック社もいくらでも儲かる仕組みというわけだ。
背景にあるのは企業の利益であり、末端は理屈に振り回され行儀よくシナリオ通りに殺されていく……。『スカイ・クロラ』で描いてみせた情勢は、すでに我々の現代社会にも当てはまる図式のようだ。
『スカイ・クロラ』は今の若者達に向けられたメッセージだ。完成した社会の前に、何の役割も与えられずどろりと鵺のような奇怪な生き物――若者達のために作られた。あるいは、漂白したような現代の社会に対するアンチテーゼである。
最後に――押井守監督作品には常に神の視線がどこかにある。すべてを支配し、ずっと後ろから冷徹に見ている視線がある。映像の中に何も言わず、意味ありげな表情を浮かべてぼんやりと立っている何か、誰か。
『スカイ・クロラ』の登場人物は常に監視されている。
具体的存在はラウンテルン社とロストック社という、キル・ドレたちには決して見ることも直接的に接触することもできない2つの企業である。ラウンテルン社もロストック社も『スカイ・クロラ』の世界を見えない地点から確実に物語を支配し、キル・ドレたちを操作している。彼らは神であるから、キル・ドレたちは彼らの意思に介入できないのだ。
だがそれだけではなく、『スカイ・クロラ』の映像にはあちこちにそれを思わせる影が見られる。時に、キャラクターとして実体化すらしている。
函南や草薙はこの神の存在にはっきりと気付き、時に観察するように見詰め返している。台詞の中で、“彼は決して倒せない”と語る場面もある。彼――ティーチャーも神の1人であり、ティーチャーは神の意思を行使するために具体化された存在なのである。
その神を、キル・ドレたちはただ恐れるだけで決して殺せない。なぜなら神はルールであり、ルールに隷属しているプレイヤーは決して神を殺せないから。
だが函南はあえてこの神に戦いを挑んだ。神の存在を暴きだし、殺そうと挑みかかった。
なぜ?
世界を崩壊させ、未来へと時間を進めさせるためである。
作品データ
監督:押井守 原作:森博嗣
脚本:伊藤ちひろ 演出:西久保利彦 キャラクターデザイナー・作画監督:西尾鉄也
美術監督:永井一男 レイアウト設定:渡部隆 メカニックデザイナー:竹内敦志
音楽:川井憲次 サウンドデザイナー:ランディ・トム トム・マイヤーズ
音響監督:若林和弘 整音:井上秀司 色彩設計:遊佐久美子 ビジュアルエフェクツ:江面久
CGIスーパーバイザー:林弘幸 CGI制作:ポリゴン・ピクチュアズ 軍事監修:岡部いさく
アニメーション制作:プロダクションI.G.
出演:菊地凛子 加瀬亮 谷原章介 山口愛
〇 平川大輔 竹若拓磨 麦人 大塚芳忠
〇 安藤麻吹 兵藤まこ 榊原良子 栗山千明
〇 竹中直人 ひし美ゆり子 下野紘 藤田圭宣
〇 長谷川歩 杉山大 水沢史絵 渡辺智美
ラウンテルン社工場への偵察から機投した函南優一は、報告ついでに上司の草薙水素に尋ねた。
「栗太仁朗。ここに赴任したのは7ヶ月。63回の出撃。なかなかの腕前だった」
草薙はタバコを手にしたまま、少し俯いた感じで淡々と答えた。
「どこへ行ったんですか」
函南は質問を止めない。
「その質問には答えられない」
草薙は事務的に問いを拒絶した。
「転出した理由は?」
「同じく」
「死んだ?」
函南がそう尋ねると、草薙にしばし沈黙が漂った。
草薙は眼鏡越しに函南を睨みつける。
「そうだとしても、君の置かれた状況に差はない。いるかいないか。人の状態はこの2つしかない」
草薙はまた視線を落として、もとの事務的な調子を取り戻した。
「飛行機を引き継ぐ時は、通常は前任者とコンタクトを取るものですよね。もちろん、前任者が生きている場合にだけ、ですけど」
函南は探るように尋ねた。
「あの機体は新しい。その必要はないと私が判断した。何か不満が?」
草薙はやはり同じ調子で、ちらと函南を睨み付けた。
「いえ、最高の機体でした」
「他には?」
「あなたは――キル・ドレですか」
空中シーンでの転調は、RPGにおけるフィールドと戦闘くらい極端で、似通った印象がある。ぼんやりと時間が延長されたフィールドと極端に慌しい戦闘……。キル・ドレたちはテレビゲームの中で生きているのだ。
空を見上げると、淡いブルーが果てしなく広がり、積雲が連なって陰を作っている。積雲の連なりは太陽のきらめきを覆い隠し、地上に灰色の影を落としている。雲は静かに漂い流れ、どこかで大きく膨らんで雨でも降らせるのだろう。その流れはのんびりと穏やかで、遮るものはなくゆらりとした心地に満たされていた。
あの空へ彼らは――キル・ドレは疾駆するのだ。地上の重力から解放され自由に舞い踊り、澄んだ空に汚れた灰色の雲を残していく。
平和の象徴のようなあの場所で誰かを殺すために――自身が死ぬために。
「聞いたことがあるの。心をいつもどこに置き忘れているのって」「彼は何て?」「答えはなかった。でも私は、空なのかなって。だったないいなって思った」社会はあからさまな熱血大喜利を賛美する。だが世の中には寡黙さが大事な瞬間もある。特に今の若者は一番暗い物を感情の深い所に包み隠してじっと耐えている。裸で付き合う女にはその人間の内奥を感じられるのだろう。若者を対象としか見ない大人たちにはわからない意識だ。
『スカイ・クロラ』の社会では全ての戦争は終結し、平和を得ている。だが戦争を模した戦闘だけが残された。
その戦闘員となるのがキル・ドレと呼ばれる子供たちだ。キル・ドレは遺伝子操作で生まれた子供たちで思春期の姿のまま成長せず、命令されるままに戦い、死ねば即座に蘇生させられる。
キル・ドレには過去の経験がなく、成長せず、死んでも何度でも復活する。すべてがゼロになって。まるでテレビゲームの世界のように、死ねばリセットされて何もかもゼロ状態で再スタートする。
何度も何度も。経験を積み重ねず、だから決して成長を――物語を未来へと展開させられない。
「気をつけてね」
「何に?」
函南は自我を持ち始めた子供のように、何度も疑問を呈する。
『スカイ・クロラ』は兎離洲基地での日常を中心に描かれる。そこで若者達が集り、ぼんやりと言葉を交わし、酒を飲みタバコを喫い、意味のないセックスを繰り返す。
彼らの言葉は独白のようにぼそぼそとしていて、お互いの間には奇妙なくらい間延びした時間が流れる。
地上を彩る色彩は淡く、漂白した印象すら漂う。その色彩と同じように彼ら若者から感じる印象も、取り囲む風景も何もかも漂白したようにしらけた空気が漂っている。若者達は一時的な淡い快楽を求めて、酒を飲みタバコを喫いセックスする。
なぜなら彼らには役目が与えられていないからだ。世界はすでに平和を獲得し、社会は徹底した秩序の上で運営されている。戦争ですらルールが設定され、どちらが勝つわけでもなく、戦争という実体を作り出すためだけに演じられている(戦争をいう状況を作り出すことだけが目的である)。
そんな渦中で過ごす若者達は、戦闘以外の何の役割を与えられていない。だから地上での彼らはするべき目的を持たず、無限に近いモラトリアルの時間を消費するだけなのである。
何もする事がない。新しい何かが起きそうな希望もない。
大人たちはそんな社会を自らの手で作っておきながら、末端で喘ぐ若者を非難している。若者を奇怪な鵺のような存在を見做し、攻撃の対象にすらしている。
――実体はすでに社会そのものが漂白しているのであって、社会の神(創造主であるから)である大人たちも漂白された時間の中に飲み込まれている。大人たちが若者叩きを続けるのは慰めを求めているからだ。実際には大人たち自身も社会から不要を突きつけられ、髪を白くしてダイナーの入口でぼんやりと腰を下ろし虚ろな顔で地面を見詰めている。
高度にシステム化された社会はすでに人間を必要としておらず、単に運営するために必要最低限の労働力だけを求めているだけだ。漂白しているのは実際には社会全てであり、だから虚構としての戦争をどこかに作り出す必要があったのだ。
いかにもな台詞でドラマを盛り上げる作品ではない。語らない、語られない余白に作家の意図が込められている。押井守印の語は息を潜め、独白と余白で語ったドラマだ。置いてけぼりになる瞬間はあるが、じっくり見てるとなかなかに刺激的な映像体験だ。
だが一度キル・ドレたちが空に飛び出ると、途端に映像はビビッドな輝きを放ち始める。レシプロが空中に飛び出すと、それまでそろりそろり漂っていた時間は急速に流れを持ち始め、カットは凄まじい勢いで流れて行き、音楽は勇壮なテーマ曲となって戦いを彩る。
若者達は地上の重力から解放されるように、自由奔放に空を滑走し、跳ね回り、激しい戦いの最中に没入していく。いや重力だけでなく、彼らを縛る全てから開放されるのだ。
だが彼らはそこで“殺し合い”を死にいくのだ。殺しに行くのであり、死ぬために飛んでいるのだ。
若者達は生命の火花を散らし、生と死のぎりぎりのせめぎあいの中で、漂白したアイデンティティを取り戻す。その瞬間にこそ、若者達の魂は強烈な勢いで輝き始めるのだ。
家具や構図にシンメトリーの様式が使われている。どんな意図があるかわからないが、時々視線のようなものを感じる。ちなみに映画中には“2”の数字が隠されている。作業員の数の2、絵画のモチーフの2、玩具の乗り物の2、格納庫の番号の2……。
その自由な瞬間も実はゲーム・システムに縛られている。彼らは確かに自由に空中を滑走しているが、しかしその意思決定はシステムの側に握られている。
だから函南優一はハリウッド・エンターティメントのようにヒーローにはならない。ただ与えられた任務をこなし、帰還していくだけ。激しいアクションシーンだが、そこでドラマチックな何かは決して生まれない。戦闘はドラマの舞台ではないのだ。
彼らは生き延びてエース・パイロットになることはできても、そこから抜きん出てヒーローにはなれないのだ。
声の出演はプロではなく一般の俳優が使われている。宣伝的な都合のためだ。大掛かりな映画になると、時に人寄せパンダを映画に取り入れる妥協が必要になる。はっきりいってうまくはないが、しかし拙い感じが返って登場人物たちの幼さが表現されている。大人たちはベテランの声優で、というバランスがよかった。
函南優一と草薙水素はまもなく肉体の関係になる。相思相愛の関係――深く愛し合っている関係――いや、映画の中で恋愛は決してドラマチックに解説されていない。ふと気付けば函南優一は草薙水素に誘われて、そういう関係になっていただけだ。
だだ草薙水素が函南に寄せる感情は狂気をはらんでいる。彼の背中を追い、痕跡を辿り、ぬくもりと気配を探ろうとストーカーを始める。
草薙水素の愛し方は、あまりにも深く、肉体を抉るようだ。狂うぐらい相手を愛し、殺意を抱く。セックスの最中にエロスとタナトスを危険なレベルで高め、蜘蛛の交尾のごとくその対象を食い殺そうとしている。
愛してる。お願い殺して。
そんなアンビバレントが不純に交じり合ったセックスだ。
もう終わりにしたい。愛し合ったまま、すべてを終らせたい。
でも銃で頭をぶち抜いても、振り出しに戻されるだけ。その繰り返し。
草薙は決して前に進めない、未来へ進めないというジレンマの中で、感情を慌しく混乱させ、その感情に自身の理性は飲み込まれてしまっている。
巨大な家具。生活するのは子供という前提なのに、奇妙な設定だ。草薙瑞季は草薙水素の娘だ。唯一キル・ドレの宿命から解放され、未来へと進める存在であり、草薙水素の葛藤である。
函南「テーチャーを撃墜すれば、何か変わる?」
草薙「え?」
函南「運命とか、限界みたいなものが」
草薙「そうね。でも彼は誰にも落とせない」
函南「なぜ?」
草薙「私たち、どこの誰と戦っていると思う?」
函南「さあ。考えたこともない」
草薙「殺し合いをしているのに?」
函南「仕事だよ。どんなビジネスだって同じことさ。相手を押しのけて利益を上げたほうが勝ちなんだ。普通の企業に較べたら、僕たちがやってることなんて非効率的で解放的なゲームに過ぎない」
草薙「そう。ゲームだから合法的に殺すことも殺されることもできる」
函南「面白い発想だね」
草薙「面白い? 戦争はどんな時代でも完全に消滅したことはない。それは人間にとって、その現実味がいつでも重要だったから。同じ時代に、今もどこかで誰かが戦っているという現実感が人間社会のシステムに不可欠な要素だから。そしてそれは絶対に嘘では作れない。戦争はどんなものなのか、歴史の教科書に載っている昔話だけでは不十分なのよ。本当に死んでいく人間がいて、それが報道されて、その悲惨さを見せ付けなければ平和を維持していけない。平和の意味さえ認識できなくなる。空の上で殺し合いをしなければ、生きていることを実感できない私たちのようにね。そして、私たちの戦争は決して終わってはならないゲームである以上、そこにはルールが必要になる。例えば、絶対に勝てない敵の存在……」
函南「それが、ティーチャー?」
全ては相対的なものである。戦争があるから平和がある。貧困があるから豊かさがある。勝者がいるから敗者がいる。死の危機がなければ生の実感も得られない。
現実世界は一度も平和を獲得したことはないが――戦闘がなければ平和のイメージは作り出せないし、どこかに具体的な闘争がなければ平和を維持しようという考えも持てない。
物語の背景に戦闘企業であるラウンテルン社とロストック社の対立が置かれている。だがこの2つの企業は決して潰しあっているわけでもなければ勝利を目指しているわけでもない。
飽くまでも合意の上でのゲームを現実世界で演出しているだけである。言ってしまえば八百長だ。
だがそんな八百長のゲームでも接している人々はモニターの前で熱狂し、応援と称して財産を兵器産業に投資するのである。ゲームが続けられている間はラウンテルン社もロストック社もいくらでも儲かる仕組みというわけだ。
背景にあるのは企業の利益であり、末端は理屈に振り回され行儀よくシナリオ通りに殺されていく……。『スカイ・クロラ』で描いてみせた情勢は、すでに我々の現代社会にも当てはまる図式のようだ。
『スカイ・クロラ』は今の若者達に向けられたメッセージだ。完成した社会の前に、何の役割も与えられずどろりと鵺のような奇怪な生き物――若者達のために作られた。あるいは、漂白したような現代の社会に対するアンチテーゼである。
最後に――押井守監督作品には常に神の視線がどこかにある。すべてを支配し、ずっと後ろから冷徹に見ている視線がある。映像の中に何も言わず、意味ありげな表情を浮かべてぼんやりと立っている何か、誰か。
『スカイ・クロラ』の登場人物は常に監視されている。
具体的存在はラウンテルン社とロストック社という、キル・ドレたちには決して見ることも直接的に接触することもできない2つの企業である。ラウンテルン社もロストック社も『スカイ・クロラ』の世界を見えない地点から確実に物語を支配し、キル・ドレたちを操作している。彼らは神であるから、キル・ドレたちは彼らの意思に介入できないのだ。
だがそれだけではなく、『スカイ・クロラ』の映像にはあちこちにそれを思わせる影が見られる。時に、キャラクターとして実体化すらしている。
函南や草薙はこの神の存在にはっきりと気付き、時に観察するように見詰め返している。台詞の中で、“彼は決して倒せない”と語る場面もある。彼――ティーチャーも神の1人であり、ティーチャーは神の意思を行使するために具体化された存在なのである。
その神を、キル・ドレたちはただ恐れるだけで決して殺せない。なぜなら神はルールであり、ルールに隷属しているプレイヤーは決して神を殺せないから。
だが函南はあえてこの神に戦いを挑んだ。神の存在を暴きだし、殺そうと挑みかかった。
なぜ?
世界を崩壊させ、未来へと時間を進めさせるためである。
作品データ
監督:押井守 原作:森博嗣
脚本:伊藤ちひろ 演出:西久保利彦 キャラクターデザイナー・作画監督:西尾鉄也
美術監督:永井一男 レイアウト設定:渡部隆 メカニックデザイナー:竹内敦志
音楽:川井憲次 サウンドデザイナー:ランディ・トム トム・マイヤーズ
音響監督:若林和弘 整音:井上秀司 色彩設計:遊佐久美子 ビジュアルエフェクツ:江面久
CGIスーパーバイザー:林弘幸 CGI制作:ポリゴン・ピクチュアズ 軍事監修:岡部いさく
アニメーション制作:プロダクションI.G.
出演:菊地凛子 加瀬亮 谷原章介 山口愛
〇 平川大輔 竹若拓磨 麦人 大塚芳忠
〇 安藤麻吹 兵藤まこ 榊原良子 栗山千明
〇 竹中直人 ひし美ゆり子 下野紘 藤田圭宣
〇 長谷川歩 杉山大 水沢史絵 渡辺智美
ちょっと思いついたので書く。
劇場公開時から思っていたのだがダイナーの前でうずくまっているあの男(右絵)は函南優一のクローン元ではないか、と。クローンを作るにはオリジナルが必要。そのクローン元はすでに老人の姿になってしまっている、というのではないだろうか。
クローン人間である函南は自身の正体を知らず、無限に近い青春の日々を繰り返している。
このように考えると、押井守監督が初期作品(『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』『天使のたまご』『迷宮物件』他)においてモチーフとしていた延々繰り返される時間と現実の時間という対比構造に繋がってくる。函南優一は、まさにロストック社ラウンテルン社という神によって、無限に続く『ビューティフル・ドリーマー』の世界にいるのだ。
さらに言うと、その周辺にいる人物達もどうも怪しいなと勝手に思ったりしている。何となく訳知りのダイナーのマスター夫婦や、思わせぶりな表情を見せる娼婦フーコや……。
と書いてても確信があるわけではない。おそらく押井守監督本人に尋ねてみても「ハズレ」と答えるのではないか。
あの老人は色んなものの象徴であり、確定的に1つの何かではない、というのが模範解答だろう。
ただ、上のような想像ができるのも、この作品の面白いところである。
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